■白の魔法
小鳥のさえずりが聞こえる。あれはスズメだろうか。
部屋の中はまだ薄暗く、夜が明けきっていないことが見てとれる。――こんなに早く目が覚めたのはいつ以来だろう。朝が弱い僕にとって、とてもすがすがしい朝だった。こんな日は何かいいことがあるかもしれない。
僕は明かりをつけようと無造作に手を伸ばす。が、普段なら手探りでも見つかる照明器具の紐に触れることはなく、僕の右手は虚空を切った。何かを忘れているような、言いようのない不安を感じる。何がおかしいんだろう。ええと、そう。まず、僕の寝ている布団はここまで柔らかくないし、これはどちらかというと、ホテルにでも泊っているような感じがする。それに何だか女の子の匂いがするというか、空気が明らかに僕の部屋じゃない。というより、僕、何を着ているんだ……
瞳を開くと、天井からは照明の紐ではなく、代わりとばかりに真っ白いレースが垂れ下がっていた。そして僕が寝ていたのは豪奢なピンクのベッド。これはひょっとして――天蓋付きのプリンセスベッド?!
羽毛の掛け布団はなかったけど、朝からまさかの歓迎だった。かといって冬の肌寒い気候でもなく、僕は全身をサテンの布塊に包まれていて、本当にいい気分で朝を迎えることができた。丸まっていた体を少し動かすと、ふぁさっと音がして足が布から少し出た。両足の太ももが直に触れ合う感覚。そう、これは筒状に縫製された布。どう見てもスカートです、本当にありがとうございました。
部屋内に誰もいないことを入念に確認すると、ばっと起き上がる。長い髪が、しかしながらしなやかに躍る。縦横無尽に広がっていたスカートの裾は、引力の影響を受けてすとんと落ち、くるぶしの長さでまとまる。腰から下にかけて、内側に付けられたパニエが張り付いてくる。あ、そういえば僕、ぱ、パンツ履いてないんだった……。ここまでのひらひらだと、そのことはあまり恥ずかしくけど。腰から上にかけて、まるでウェディングドレスのようなこの衣装は、体のラインにぴったりとフィットしていて、男物の服にはあまりない軽い締め付け感がある。その感触は胸の辺りで弱くなり、胸の隆起との間にわずかな隙間が生じている。――そう、僕には小さいながらも、はっきりとした胸の膨らみがあった。
僕は恐る恐る自分の胸に手を伸ばす。指先が衣服を装飾するレースの表面に触れる。まだ何も感じない。生地の上から少し撫でてみた。それでも特に変な感じはしない。思い切って、人差し指を凸になっている部分の先端に押し込んだ。――あっ、ちょっと気持ちいい……。でも、そこまで嫌らしい感じでもない。僕は「こんなものなのかなあ」と、勝手に納得した。
僕だって年頃の男の子だし、下の方がどうなっているのか、ちょっとだけ気になったけど、さすがに怖かったのでやめた。そうでなくてもスカートの内側が直接触れている。そしてドレスの胸から上は、肩のところにちょっとした膨らみがあって、そこからは細くなって手首の辺りまで腕全体を覆っていた。全体的に真っ白で、レースがふんだんに使われている。うん、そんな感じ。そういえばこの服、脱ぐときはどうすればいいんだろう……。他に着るものがないし、下に何も着ていないんだから、しばらくは着ているしかないだろうけど、それでも脱ぎ方がさっぱり見当つかない。えーっと、昔のヨーロッパの貴婦人は、きつくて脱げないドレスをずっと着続けているから、匂い消しに香水が発達したんだっけ……?
……なんて恐ろしいことを考えていると、部屋の隅に置かれたドレッサーと、据え付けの姿見鏡が目に付いた。――そうだ、僕はまだ自分の姿を見ていなかった。僕はこれまた豪奢な化粧台の方に歩いていくと、そこに映った自分自身の鏡像と対面した。
「え……これが、僕……」
――などという、テンプレ回答の嘆息が漏れてしまったのも仕方ないと思う。なぜならそこにいたのは、あのとき出会った姫様の姿そのものだった。絹糸よりもしなやかなプラチナブロンドの髪。雪のように白い肌。その平原に純然と輝くコバルトブルーの瞳。その表情はやや物憂げで、頬を赤く染めている。首から下は純白のプリンセスドレスに覆われ、高価なフランス人形に見つめられているようだった。かといって大人びた感じもなく、年の頃は僕と同じくらい、少女らしい可愛らしさを全身に秘めている。今なら僕は、間違いなくこの鏡の中の少女は世界一美しいと言い切れる。ただ一つ彼、女と違う点を挙げるなら、僕の背には天使のような白い鳥の翼はなく、代わりに背後の天蓋付きベッドが写っているだけだった。
窓の外はまだまだ暗い。さすがに他人の部屋を物色するのは気が引けるので、どうしようか迷った挙句、とりあえず部屋を出てみることにした。一応シーツは可能な限りしわを伸ばしておく。何も履いていないのが何となく心もとないけれど、部屋内の様々な調度品を横目に、扉の前に立ち、取っ手に手をかける。それは木製の重厚そうな扉だったけど、大した力をかけなくても、音もなくすーっと開いた。
扉の先に現れたのは、暗くて分かりにくいけど、これはきっと赤じゅうたんだろう。ビロードのような触り心地のものが敷かれた廊下が、暗闇の先へ延々と続いていた。
「すごい……」
僕は静かに一歩ずつ歩きだす。そのたびにスカートの裾が揺れる。なるべく肌をこすらないように、音を立てないように、ゆっくりと、歩みを進める。
暗闇の中、突如前方に人影が姿を現した。互いの顔が認識できない限界の距離で、僕の動きは止まる。そして、人影は口を開いた。
「姫様で……ございますか?」
聞き覚えのある声だった。あれは夢じゃなかったのか、それともこれも夢なのかは分からないけど、彼の名前を呼ぶ。
「モミジ……さん?」
僕の透明な声が、朝の薄暗い廊下に響き渡る。
――そう、そこに立っていたのは、夢の中で会話した初老の執事だった。