世界を覆う、言われようのない理不尽な暴力。それは僕の世界ではご褒美と言う。
澄んだ空、厚く濃い影を孕んだ雲、温もりを帯びた光。息を吸うと澄んだ空気が血液に取り込まれ、脳を活性化させる。
気持ちの良い春の一日だった。
自転車を押しながらきつい坂道を登る。グラウンドとプールを横目に、坂の頂上に校門が見えた。
僕は今年から高校生になったのだった。
誰も学校に来ない比較的早い時間に、僕はいつも登校する。毎日一番に来て、身の周りを整えるのだ。
靴箱に掛かっている番号式の簡単な施錠を外し、中にあるスリッパに履き替えた。階段を上り、二階で渡り廊下を通る。すると西校舎の一階へと辿り着く。山際に建っている校舎らしいややこしい造りだ。
西校舎一階、その奥が僕のクラス、一年一組だった。
僕は毎朝一番に登校すると、まず机と椅子を綺麗に磨き上げる事にしている。これも授業に集中するため必要な事だった。ただ、決して周囲には悟らせない。僕なりのポリシーと言うやつだ。そもそも普通の高校生は机と椅子など磨き上げたりしないだろう。もしばれたら変に目立ってしまう。それはよろしくない。
無事に磨き上げると、教科書を机に入れる。今日の一限目は英語か。なら英語の教科書と参考書を机上に出しておかねば。ついでに筆箱も。一応シャープペンシルはポケットに入れる事にした。肌身離さず持っておかないと不安だからだ。
準備を終えると僕は教室を出た。授業まで随分ある。少し散歩をして時間を潰そう。
ぶらりと校舎を巡って、食堂前にあるテラスに足を運んだ。テラスにはお洒落な木製の机と椅子が置かれており、昼休みはいつも非常に混み合う。もちろん、今は朝なので誰も居ない。早朝の木々に囲まれたテラスは小鳥のさえずりが響き渡り、非常に居心地が良かった。
テラスには自販機が置かれている。僕はそこで毎日ココアを買っていた。ホットココアを飲みながら朝の声に耳を済ませる。非常に有意義な時間だ。
二十分も時間を潰すとそろそろホームルームの時間となる。校内も大分騒がしくなり、本格的に一日が始まろうとしているのが分かった。
さぁ、教室に行こう。僕は立ち上がった。
この時間になると教室には登校してきた生徒達の賑やかな声が響き渡る。僕はその中を抜けると、中央に位置する自分の席へとつく。
そこで先ほど机の上に置いていた教科書をパラリと開いてみた。するとどうだろう、英文が全て黒く塗りつぶされていた。しばらく何も考えずにその塗りつぶされたページを眺めていると、不意に教室の隅から笑い声が聞こえてきた。喧騒が蔓延する室内で、その声は妙に浮かび上がって聞こえた。
後藤、稲本、新山の女子三人組だ。両親がお金持ちである新山を中心として、取り巻きの二人がいる。三人とも僕と同じ中学出身だった。
「あいつ固まってるよ、リアクションワンパターンだよね」
稲本が言い、後藤が馬鹿みたいにでかい笑い声を出す。教室中に響き渡るその甲高い笑い声に舌打ちをする男子生徒が幾許か居るのを僕は知っている。
チャイムが鳴った。担任が来て朝のホームルームが終わる。
僕は担任に何も言わなかった。結果として、一限目、僕は授業に対応することが出来なかった。
「亥山、次の文を朗読した後、英訳してくれ」
当てられたとしても英文を朗読することは出来ない。何故なら今日の教科書の範囲は全て黒く塗りつぶされているのだから。
「すいません……教科書を忘れました」
立ち上がり、小さな声で言うと英語の先生はあからさまに顔を歪めた。
「またか、お前。入学してから一度も教科書持ってきていないよなぁ?」
「すいません。次は気をつけます」
心底申し訳なさそうな表情を意識して浮かべる。先生も普段の僕の生活態度が真面目な為かそれほど強くは言えないみたいで「あまり酷いと親御さんに連絡するぞ」と言う脅し文句しか口にしない。僕はシュンとうな垂れると椅子に座った。
すると背後からクスクスと笑い声が聞こえた。新山だ。昨日席替えをしてから彼女は僕のすぐ後ろの席になっているのだ。
「じゃあ次、新山」
先生が言うと新山は「えっ?」と心底驚いた声を出して立ち上がった。予想外の出来事だったらしく、狼狽しているのが見て取れた。
「すいません、予習を……忘れました」
「お前もか……」先生は困ったように頭に手を当てる。
その彼女の言葉に僕はふっと笑みを漏らした。もちろん、わざとだ。
「おい亥山、お前も笑ってないで気をつけろ」
「す、すみません」
すぐに笑みを消し、そう言う。その様子に満足したのか先生が更に次の生徒を当てて授業を進めた。
笑われた新山が尋常じゃないくらい僕を睨んでいるのが分かった。
昼休み、新山達に無理やり連れられ、昼食を取る間もなく校舎裏へと足を運んだ。山際にある西校舎の裏手は当然山だ。人が通る事はない。
「あんたのせいで私が恥かいたじゃない」
校舎裏に来た途端、新山が僕を背後から蹴り上げた。背中に鈍い痛みを感じ、僕は思わずうめいた。
「だ、だってお前達が僕の教科書にいたずらするから……」
「はぁ? なんで私達がそんな事しなきゃだめなのよ。人のせいにしてんじゃないわよ」
尻餅をつきながら振り向くと、稲本が僕の胸元を踏みつけ、僕は背中を地べたに押し付けられた。短いスカートから、稲本の白い足が伸びる。何気なく反射的に目がいってしまうと、新山が僕の顔面を踏みつけた。
「何見てんのよ、変態」
「どうしたの?」後藤が甲高い声で尋ねる。
「いまこいつ稲本のスカートのなか、見てたのよ」
「うげ、気持悪い」
まるで汚物でも踏んでしまったかのように稲本が慌てて僕から足をはずした。
「み、見てないよ、見てない」僕が言うと「ふざけんな、嘘言ってんなよ」と後藤が僕の腹を思い切り踏みつける。体重がかかっていて、これは中々に重いダメージだ。
「やれやれ、妹に継いで兄貴も変態だとはね。あんたの家、腐ってんじゃないの?」
足をどけた新山は蔑むように僕を見る。鋭い視線だ。妹の話を出され、僕は思わず、と言った感じで声を張り上げた。
「い、妹は関係ないだろ! 妹の事は放っておけよ」
「うるさい。やかましいんだよ」
今度は僕の喉もとに足が飛ぶ。喉もとはさすがにきつそうだったので僕は少し動いて新山の攻撃を顔面に受けることにした。
「ちっ……」
狙いが外れた事にイラついたのか、新山は舌打ちをすると僕のわき腹を何度も蹴った。
「金、持ってきてるんでしょうね」
彼女の言葉に僕はしぶしぶ財布を出す。三千円を取り出すと、彼女に手渡した。一人千円。三人で三千円だ。
「たまには一人五千円ずつくらい用意できないの?」
「む、無理だよ。毎日お金を用意するのだって大変なんだ」
「貧乏人が」
新山が吐いた唾は僕の頬にびちゃりと命中した。真似をして、後藤と稲本も僕の顔面に唾を吐く。
「亥山、そう言えばあんた昼飯まだだったわよね。机に弁当あったから持ってきてあげたわよ」
いつの間に持っていたのか、稲本は僕の弁当を取り出し、パカリとふたを開けた。
「食べさしてあげるわね」
そして彼女は弁当を僕に投げつけた。それは僕の胸元に落ち、音を立てて地面へと転がっていく。弁当の中味は周囲に散乱し、現状は最悪だ。
「じゃあね。また明日、金用意しなさいよ。してないと、分かってるわよね?」
見おろす新山の表情にゾクリとする。僕はうつむくと、小さく頷いた。
「じゃあさっさと行きましょ。この変態に付き合ってたら私達までご飯食べ逃しちゃうもの」
「じゃあねー、亥山。ミサトちゃん待ってー」
「汚いわね。ウける」
僕を罵倒した後、彼女達は姿を消した。
僕はしばらく横たわったまま、空を見上げた。体が痛い。女子の攻撃でもここまでされるとかなり来るものがある。
「大丈夫?」
不意に誰かが姿を現せた。見なくても分かる。双子の妹の加奈だ。一年五組にいる。
加奈はツインテールの髪型に、少し幼い顔立ちが特徴的だった。兄として見ても可愛い女の子だ。
「痛くないの?」
「もちろん痛いさ」
体を起こすと体中に痛みが走った。イテテテ、と思わず声を漏らしてしまう。
「頬に唾ついてるよ」
加奈が僕を指差したので、僕は頷いた。
「大丈夫、舐めるから」
唾を指ですくい、口の中へ含む。うむ、悪くない。
「今日の責めはどうだったの、お兄ちゃん」
「あぁ……」僕は先ほどの光景を思い返し、思わず顔を緩めた。
「最高だよ」
中学三年の、冬のある日の出来事がきっかけだった。
それが原因で、僕は虐められるようになった。
その日の体育は長距離走で、寒い中でも懸命に走った僕の体操服は汗まみれになった。翌日は学校行事のマラソン大会だった。さすがにそんな日に、ビショビショの体操服で走るわけにはいかない。
家に帰って洗濯しようとした段階で、体操服を教室に忘れた事に気付いた。わざわざ学校に取りに行くのも面倒なので、僕は加奈に体操服を持って帰ってもらう事にしたのだ。
加奈は中学時代バスケ部だったのでこの時期は結構遅くまで練習している。本当は受験でもう引退のはずなのに、彼女は自主的にクラブに顔を出していたのだ。
僕は携帯で加奈にメールを送った。間もなく、加奈から了承の返事が帰ってくる。
双子の僕らは昔から仲が良かった。これくらいの頼みは割とすんなり聞いてくれる。
夜になって、加奈が体操服を持って帰って来てくれた。僕は彼女に礼を言うと、洗濯機に体操服をぶち込んだ。脱水して乾燥機にかければ間に合うだろう。そう思った。
その時、妙に体操服がベトついていたのだが、その時は自分の汗が乾いていないのだと思い、あまり気にならなかった。
後日、同じクラスの新山に放課後教室に残っておくよう言われた。彼女とはそれほど親しいわけでもない。一体何事だろうと思いながら放課後になった。
夕暮れの教室で、彼女が見せてきたのは携帯のカメラで撮った画像だった。
その時、まるで後頭部を殴られたかのような強い衝撃が走ったのを覚えている。
加奈が教室で体操服を舐め回している画像だった。
「これ、あんたの妹よね?」
僕は何も言わなかった。言えなかったのだ。その沈黙は肯定を意味した。
「誰の体操服かは知らないけれど、偶然見かけたから撮っちゃったのよ。まさか純粋無垢で有名な亥山加奈ちゃんがこんなド変態だったとはね」
加奈が舐め回しているのは明らかに僕の体操服だった。ただ幸いな事に、新山はそれに気付いていない。
「どうしようかしら、他の人に言ってもいいんだけど」
「……何をしたらいいんだ」
「あら、別に私は何も言ってないんだけどなぁ。でもまぁ、もしあんたが私に何らかの心配りをくれるのであれば、私の気持ちも変わるかもしれないわね」
「……わかった」
その日から、僕と新山の関係は変わった。最初は緩やかな変化だったが、それは徐々にエスカレートし、彼女の取り巻きである稲本、後藤も介入を始めた。
「加奈、どうしてあんなことしたんだ」
新山に画像を見せられたその日、僕は家に帰って加奈の部屋を訪ねた。加奈は僕から事情を聞くと、ベッドの上で申し訳なさそうに正座した。
「だって、お兄ちゃんの汗が染みついた体操服、おいしそうだったんだもん……」
何?
「味はどうだった」
「お兄ちゃんの香りがしたし、塩味が効いていたわ」
「そりゃそうだ、なにせ汗が染み付いているんだから」
あっはっはと僕らは笑った。
僕らは双子で、昔から仲が良かった。
新山に初めて蹴られたのは、中学を卒業する少し前だった。その日うっかりしてお金を用意することを忘れてしまったのだ。
「私が優しいと思って調子に乗ってるんじゃないわよ、このクズ」
校舎裏で、新山は僕の腹を強く蹴り上げた。咄嗟のことに反応できずに、僕は彼女の蹴りをもろに受けてしまい、膝をついた。腹部の痛みに妙な汗が出て、顔を歪める。
「いい? 明日、今日の分のお金も合わせて持ってきたら許してあげる」
僕が痛みを我慢して返事できずにいると「わかってんの?」と彼女は僕の肩を蹴った。
痛い。はっきり言って腹立たしかった。実を言うと僕の運動神経はそれほど悪くない。体育の成績ではむしろ上位にランクインする。体格はごついわけではないが、決してひょろひょろでもない。本気を出せば新山一人くらいどうにでもなるのだ。
でも、僕はそれをしなかった。自分でも不思議な感覚だとは思っていた。
その日はそれで見逃された。でも、お金を用意しないと明日はもっと酷いことをされるのだ。
ゾクリとした。
違う。
ゾクゾクしていた。
それ以後、新山に殴られる機会があるたびにふと冷静になってみると、僕は心の奥底で悦びを感じていることに気付いた。
女子校生が僕を蹴る? 社会の中でそのシチュエーションをうらやむ人間が、果たして何人いるだろうか。
そう、これは今しか味わえないのだ。
蹴られる瞬間に一瞬だけフワリと舞うスカート、あらわになるフトモモ。しかし肝心の下着は隠れて見えない。ギリギリの按配。そして心地よい女子の力が加わった痛み。
あぁんそれぎもぢいい。僕は興奮した。
「お兄ちゃん、興奮しているのね。はぁ、はぁ」加奈は興奮している僕を見て興奮した。
そんな事があっていつしか、僕はうまく誘導して新山たちの行動をコントロールすることに勤めた。
お金を用意しないと言う手段もあった。そうすれば毎日殴ってもらえるからだ。だが、そんな日々が続くとさすがに身が持たない。加奈の写真がばら撒かれて全てが終結してしまう恐れもある。その為、僕は新山にお金を貢ぎ続けることにした。
教室に英語の教科書を置いておいたのも、昼休みにお弁当をわかりやすい場所に出したのも、英語の時間わざと彼女を笑ったのもそのためだ。朝にシャープペンシルだけ持ち運んだのは、筆箱にいたずらされてもシャーペンさえあればどうにでもなるからだった。ちなみに教科書はノートに既に複製し終えているし、お弁当の中身は白米のみ、バイト先の喫茶店で得た廃棄を使用したものだ。完全に白米のみを弁当に詰め込んでいるので、服にぶつけられてもシミはつかない。しかし彼女達は弁当を僕にぶつける事に夢中なのでそれに気付かない。その少し間の抜けた感じもまた、可愛らしいではないか。
毎朝机を拭いているのは僕の机に酷い落書きがしてあるからだった。油性ペンで書かれているため、シンナーで拭かなければならない。その為誰も居ない時間帯に教室に行く必要があった。
彼女達は毎日全ての人間が下校するのを待った上で僕の机に落書きをする。そのいじらしさが僕の心をくすぐる。そうやって無駄なことに青春を費やしている彼女達は美しい。
ただ、最新の注意を払っている事として、クラスの人間に僕が虐められていることは悟られないように務めていた。
勉強が出来ず、運動もからっきし、友人を作るようなコミュニケーション能力もないような人間。高校での僕はクラスメート達にそう認識されているのだ。今は虐められるかどうかのぎりぎりのバランスを保っていると言うところだろうか。
もし新山たちが僕を虐めている事を皆が知ったら、他の人間にまで虐められるかもしれない。それはそれでゾクゾクするが、汚い男子共にこの体が汚されるのはどうにも我慢ならなかった。時間の問題かもしれないが、それでも出来る限りそれだけは避けねばならない。あまり目立っては虐めが露呈する可能性がある。かと言って目立たなさ過ぎたら逆に虐められる。中間、まさに空気の様な存在にならなければならないのだ。
服の汚れを払った僕は加奈と一緒に食堂へ向かった。食券を購入し、カレーうどんを頼む。加奈も同じものを頼んだ。食堂の中は他の生徒で一杯だったので、たまたま空いていた外のテラスの一席を使用することにする。
「今の私達、どう見えてるでしょうね」
てんこ盛りの天カスとネギを乗せて加奈は僕の向かい側に座った。胸焼けするぞ。
「少なくとも恋人には見られていないと願いたいね」
「私は良いんだけどな……」残念そうに加奈はうどんをすすった。
「加奈はクラスでは人気者、僕は友達もおらず、おまけに虐められているんだ。傍から見れば双子にすら見えないだろう」
「でも、お兄ちゃんはわざとそのポジションに納まってるんでしょ」
「まぁそうだけどね」
虐められる事を快楽へ感じるため、それに必要な努力は常々行ってきたつもりだ。
勉強、体力トレーニング、アルバイトを通して養った話術もそうだ。そうやって鍛え上げているのは、何事も余裕を持って取り組めるようにするためだった。こっちが必死になっていては楽しいものも楽しめない。
「今日も新山さん、お兄ちゃんのバイト先に来るのかな」
「だろうね」
イジメの主犯格である新山、彼女は毎日のように僕のアルバイト先である喫茶店へ顔を出す。僕がオーダーを取りに行くと「アルバイトまでしてお金を払うなんて殊勝な心がけね。もっと金額増やそうか?」と彼女はちょっと素敵なサド顔で言うのだ。「勘弁してよ」と僕は苦笑する。それはどう見ても普通のクラスメートにしか見えないのである。
まさか稲本と後藤もイジメの主犯格である新山が僕と親身にしているとはとても思わないだろう。新山は誰にも内緒で僕に会いに来ているのだ。
何故か。
「愛よね。新山さんの愛、ヒシヒシと感じるわ」
「彼女には生まれついての女王様気質が宿っている。自分の下僕を蔑みながらも、大切に労わる心があるんだ。愛あるSを感じるよ」
「それもそうだけど、やっぱり新山さん、お兄ちゃんの事好きなのよ」
僕はうどんをすするのを止め、加奈を見た。彼女はお箸を持って得意気な表情をしている。
「そうかな?」
「そうよ、同じ女として分かるもの。お兄ちゃんともっと近づきたい、もっと束縛したいと言う気持ちが高まっていたある日、私の変質的な行為を発見。そこで彼女の中の純な愛情は少し歪みを加えて開花してしまったの」
それが彼女をより一層素晴らしい女王へと目覚めさせたと言うわけか。
「正直、今のお兄ちゃんをクラス中で虐める事なんてたやすいわ。もっと酷い目にあわせる事だって出来るはず。それなのに新山さんはそれをしない。この状況を楽しんでいるのよ」
「さすが加奈だな、よく見てる」
「お兄ちゃんにまとわりつく女は誕生日から生活スタイル、性癖、交友関係、一週間の自慰行為の数、もちろん弱点だって把握済みよ。お兄ちゃんの事はもちろん、その周囲を取り巻く人たちの事だって一ミクロも逃しはしない、それが私のお兄ちゃんへの愛だもの」
さすが僕の妹だ。頼もしかった。僕はうどんの汁を飲むと水で口直しをした。
「お前が妹でよかったよ」
僕は色々な意味を込めて心からそう言った。しかしそこでふと気になる。
「でも、もし僕が誰か女の子と付き合い始めたらお前はどうするんだ?」
僕の質問に、加奈はきょとんとした。
「どうって、普通にお祝いするよ? お兄ちゃんを愛する者として、お兄ちゃんの幸せは私の幸せでもあるんだから。それに、実の妹って言うポジションは誰にも奪われないわけだし、お兄ちゃんの中で双子の妹って言う別枠の存在は私しかいないわけじゃない?」
我が妹ながら実に合理的かつ人情的かつ素敵な考えだ。思わず頭を撫でてしまう。
「お前が妹でよかったよ。帰ったら、抱きしめてやろう」
「本当?」加奈は嬉しそうに顔を赤くした。「今夜お兄ちゃんのベッドで寝て良い?」
「はは、ご冗談を」
もし第三者がこの会話を聞いていたら戦慄するだろう。互いの性癖が完全に明らかになってから僕達の関係はオープンな物になったのだ。
昼食を食べ終えて西校舎前まで来たところで、加奈と別れた。
「じゃあお兄ちゃん、また何かあったら言ってね」
「お前こそ、友達と何かあったら相談しろよ」
僕が手を振ると加奈は階段を上って行った。彼女の教室は西校舎の二階にある。
教室に入る前にトイレで僕は髪の毛をくしゃくしゃにし、シャツにしわを寄せた。こうする事で情けない男子生徒を演出出来るからだ。
教室に入ると新山の席に例の三人がたまっていた。何やらファッション雑誌を見ていたようだったが、僕が帰ってきた事に気付くと「汚物が帰ってきた」と密やかに笑い出す。
彼女にとって僕は汚物なのか。それは、彼女達の体を通して出てきたと考えて良いのだろうか。彼女達がトイレで下腹部に力をこめ「あぁん何で中々出てくれないの?」と困り顔であられもない姿をしている時に誕生したのが僕なのだろうか。胸が高鳴るのを感じた。
午後の授業は普通に受けることが出来た。高校生にとってのメインタイム、放課後が迫ろうとしているのだ。新山達もそう毎度毎度僕に構ってもいられないのだろう。
授業中は特に何も考えない。何も考えずにいると、先生の説明が案外頭の中に入ってくるものだ。ただ聞き入れ、理解する。そうして授業を受けていると、いつの間にか全てが終わっている。
チャイムが鳴った。
ホームルームを終えた僕は鞄を持つと教室を出た。駐輪場へ行き、自転車を取り出す。
学校の敷地を抜け、トンネルを通って駅前へ。そのまま道なりに進み、途中の曲がり角を曲がると住宅街へと続く。連なった一軒家の一つ、レンガで出来た妙にシャレた家が僕の家だ。
鍵を取り出そうとして扉が開いていることに気付いた。不思議に思い扉を開ける。
「お兄ちゃん」
中に入ると目の前に加奈が立っていた。どうやら彼女も丁度今、帰ってきた所らしい。
「ただいま」
僕が靴を脱いで玄関を上がると、加奈が両手を広げて僕に向き合った。何をしているのだ、思わず怪訝な顔をしてしまう。
「どうした?」
「昼休みの約束、まだ果たしてもらってないよ」
「約束?」
「ぎゅーってしてくれるって言ってたよね」
「ああ」
そこでようやく思い出す。あの時の加奈の受け答えが異常すぎてすっかり失念していた。
僕が腕を広げると、加奈は僕の胸に顔を埋めた。物凄い鼻息を感じる。
「げひひひ、これがお兄ちゃんのにほひ……」年頃の乙女らしからぬ汚らしい声で加奈はうめいた。
僕はそのまま加奈の頭を抱え込んで締め付けてみた。最初は勢いの良かった鼻息が、徐々に薄れていくのを感じる。命の灯火が消えようとしている。
背中に回されていた加奈の手が爪を立て、僕の肉に食い込んだ。
「痛い痛い」
僕が手を開放してやると、加奈はどざえもんの如き顔をしていた。鼻の穴を広げ、鼻水を垂らし、口からはよだれが出ている。汚らしい。
「……呼吸困難で死ぬかと思ったよ」
「ごめんごめん、ちょっと意地悪してみたくなって」
僕が頭を撫でると加奈は顔を整え、首を振った。鼻水が飛び散る。やめてくれ。
「ううん、良いの。後半はお兄ちゃんの胸の中で死ねる幸せを噛みしめていたから。意識が消える寸前まで、お兄ちゃんの体温を全力で感じようと思ったら爪が立っちゃった」
「全く、加奈は何をやるにしても全力だな」
加奈の勢いには兄ながら驚かされるばかりである。僕は腕を緩め加奈を解放しようとしたが、今度は彼女が僕を放さない。仕方がないので加奈を引きずるようにしてリビングに入ると、ソファーに腰掛けた。加奈も僕の体から手を放すことなく横に腰掛ける。必然的に寄り添う様な形になった。
両親はまだ仕事で、姿はなかった。共働きの両親は毎日帰りが遅く、土日、祝日以外ほとんど顔を合わせる事がない。僕達兄妹の仲がこれほど良いのも、お互いより沿うようにして生きてきたからだ。
「今日は運が良いかも」不意に加奈が言う。
「何で?」僕は首を傾げた。
「だってドMのお兄ちゃんが珍しくSを発揮したんだよ? しかも他ならぬ私に。そんな珍しいこと、滅多に体験できないもの」
「分かってないな、加奈、SとMは表裏一体、それだけで両方の性質を含んでるんだよ」
「どういう事?」
「例えれば、加奈はSの人間は攻める人間、攻められる人間、どちらだと思う?」
「攻める人間でしょ?」
当然と言わんばかりの加奈。僕は頷いた。
「そうだな。じゃあ、Mは尽くす人間、尽くされる人間、どっちだと思う?」
「尽くす人間」
「うむ。じゃあ少し下世話な話になるけど、性行為時においてMは当然尽くそうとするだろう? すると必然的にどうなる?」
「……攻める?」
「うむ。Mって言うのは献身の意が強いと僕は思ってる。自分の事は良いから相手に気持ちよくなって欲しい、まずその気持ちが先行するんだ。だから必然的に攻めになってしまう。……まぁ、あくまで僕と言う一人の男の場合だけどね。加奈みたいな女の子の場合はどうか知らない」
「でもわかるかもその話。中途半端な攻めだと逆にイライラしそうだなって思うもん。好きでもない人に攻められたら、それこそ『なんであんたが私を気持ちよく出来ると思ったの?』ってなっちゃう」
「特に、日常的にMを発揮している人間ほどひょんな時にSが目覚めるもんさ。無論逆も有り得るけどね。もちろん違う考え方もあるわけだし、これが全てじゃない」
「うん、よく分かった。つまりさっきお兄ちゃんが私を窒息させようとしたのも、私を気持ちよくさせたいって言う気持ちから来たんだね」
「いや、さっきのは単純にやってみたかったんだ。妹に対する兄のS性から来ただけさ」
今までの解説は単純に僕が言いたかっただけで別にこの状況においては何の意味もなさない。
「つまりお兄ちゃんは私に対してだけはSなんだね……」
正直この妹にはいかなる暴言を吐こうが肯定的に受け入れられる気がする。中学まではどこにでもいそうな双子の兄妹だったが、どうしてこうなった。
「加奈はどうして僕がそんなに好きなんだ? 何かきっかけでもあるのか?」
明確な理由はまだ尋ねたことがなかったので、恐いもの見たさでついつい尋ねてしまった。僕は新山がきっかけでその性癖が開花したが、加奈も何か理由があるのだろうか。
「お兄ちゃん、自分が中学の時に人気あったの知ってる?」
「そうなのか?」
衝撃の事実だ。
「そうだよ。今でこそお兄ちゃんはクラスの日陰者を演じているけど、中学の時はそうじゃなかったじゃない? 運動も出来たし、勉強も出来た。性格も良ければ、顔も格好良いって女子の間じゃ評判だったんだから」
「そうかな」全くそんな事はないと思っていたのでなんだか照れくさい。
当時仲の良かった友人達とは高校でばらばらになった。今の高校には同じ中学の奴はほとんどいない。僕が違和感なく日陰者を演じられているのもそのおかげだろう。
「それでも、私達は普通の兄妹だってずっと思ってた。でも、ある日お兄ちゃんに告白しようとしている人がいるって言われて、胸がざわめいたんだ」
「そんな人居たのか」
「うん。……結局勇気が出なくて諦めたみたいだったけど。でもその事がきっかけで私がお兄ちゃんを取られたくないって意識していることに気付いたの。そこからはもう一直線だったね。以来、私の頭の中でお兄ちゃんの存在が消えたことはないよ。出来れば融合したいくらい。食べたい」
「はは、ご冗談を」
僕は手で壁を作った。俗に言う心の壁である。
「ねぇお兄ちゃん、私とお兄ちゃんの相性ってどうなんだろう」
「どうだろうな、僕にも分からない。でも加奈はMで、僕も本質的にはMだ。日常的にMが表に出ている人間同士は、仲良くはなれても相性としてはそれほど合わないんじゃないかと思ってる」
例えどれだけ僕が加奈にSを発揮しようが、やはり僕はMなのだ。それと同じ様に、加奈も所詮Mでしかない。新山の替わりに加奈が僕を蹴りつけたところで、それは僕の嗜好を満たせるものではない。
「そっか。……ねぇお兄ちゃん、私やっぱり妹で良かったよ。お兄ちゃんは来るものは拒まないし、くっついても拒絶しない。でも、それが違和感なく出来るのは妹の私だけだもん。それだけで充分幸せだもの」
「僕も、加奈が妹でよかったよ」
色々な意味で。
携帯電話の機械的なアラーム音で目が覚めた。
気がつけばもう夕方の六時になろうとしていた。いつの間にか眠ってしまったみたいで、体には毛布が掛けられている。恐らく加奈だろう。周囲を見渡したが彼女の姿はなかった。部屋に戻ったのだろうか。
「そろそろバイトだな」僕は立ち上がるとぐっと伸びをした。
ジーンズとTシャツに着替え、ジップパーカーを羽織る。スニーカーを履くと、小さなリュックを背負って家を出た。
アルバイト先の喫茶店は自宅から自転車で十分もかからない。コーヒーと紅茶、それにパスタとケーキが売りで、客層は女性が中心となるお洒落な店だった。
扉を開けるとカランカランと玄関に吊るされている鐘が音を立てる。店内にはそれほど客はいなかった。
パスタ目当ての客がランチタイムとディナータイム、コーヒーや紅茶目的の客がティータイムにやってくる。そのため夕食前と言う今の中途半端な時間帯は最も暇になるのだ。
「お疲れ様です」
「あ、亥山君」
カウンターに入り込み奥の従業員室へと向かおうとすると、アルバイトの鈴木さんに呼び止められた。
「何ですか?」
彼女は怪しげな笑みを浮かべ、窓際で一番隅の客席を指差す。
新山が紅茶を飲んで本を読んでいた。
「彼女、来てるわよ」からかう様な口調だ。僕は思わず首を振る。
「そんな、彼女とかじゃないですよ」
「またまた、照れちゃってこの、この」
鈴木さんはそう言うと僕のわき腹を軽く小突いた。小突きはやがて徐々にその威力を増し、ボディーブローと化して僕の内臓にダメージを与える。
「ちょっ、鈴木さん、痛いです、ぐふっ」僕は顔を歪めた。気持ちよくて呼吸が荒れていたのはここだけの話だ。
彼女はとぼけたように首を傾げた。
「あら、そう? いやぁ、幸せそうな高校生カップルを見てるとついね、つい」
「勘弁してくださいよ」
鈴木さんは今年から大学生となり、最近高校の頃から付き合っていた彼氏と別れたばかりだった。
「君達を見ているとさ、まるで昔の私を見ているようでならないのよ。最高に楽しかったあの日の事をね……。でもそんな幸せはそう長くは続かないのよ、そう、絶対に……」
言葉の随所々々に毒を孕ませながら彼女は遠い目をした。僕はその隙に従業員室へと向かった。
従業員室ではマスターが領収書を見ながらなにやら溜息をついていた。マスターは禿げた髭の生えているおじさんで、店の常連からはちょい悪親父と評判だった。
「赤字ですか」景気の悪い顔に尋ねる。するとマスターは眉にしわを寄せた。
「何を言う、黒字に決まっとるだろう。君や鈴木君達みたいな若くて顔の良いアルバイトのおかげでおろかな客が週に何度も顔を出してくれる。もちろん味も良いから経営はウナギのぼりだよ。おかげで煙草をやめずとも良くなった」
この人は大人の汚い事情も平気で口にする。
「じゃあその領収書は一体何なんですか」
マスターは少し間をおいた後、再び深く溜息をついた。
「新しいパスタを作るための材料費だよ。澄(すみ)が買ってきたんだ」
澄とはマスターの娘の名前だ。松本澄。鈴木さんと同じ歳で、アルバイトとしてここで働いている。もっとも、彼女が働いていることは中々に稀有(けう)だ。
「前みたいにすごい香りがするパスタが生まれそうですね」
澄さんの料理の腕は超一流だった。超一流に下手だ。
一度マスターが彼女にイカ墨スパゲッティを作らせたことがあった。出てきたのはイカ墨スパゲッティではなく、墨だった。理解は出来ない。
「一度ヘドロの香りがするパスタが出来たことがあるんだよ。ミカンと、オレンジ、レモン。柑橘系の果物を中心に甘酸っぱいソースを作り、焼いた牛肉やシメジを具にしてパスタを作るんだ。上手くやれば牛肉の油っぽさを抑えた、見た目と違いあっさりした味の美味しいパスタが出来そうだった」
そこで店長は世界に絶望したような表情をする。
「案は良いんだ。案は。ただ腕が悪かった」
致命的だ。
「一万円だよ。新メニューの試作費用。これはうちみたいな個人経営の飲食店にとって、大きな痛手だよ。きっと次はゲロの香りがするパスタを作るに違いない」
「飲食店の店長がゲロとか言わないでくださいよ……」
僕はエプロンに身を包んだ。今日のシフトを確認する。店は十時ラストオーダーで、十一時には閉店する。僕は高校生なのでラストまでは入れない。九時半で上がりだ。僕と入れ違いに別の大学生の人が入ることになっている。
「今日は三人ですか?」
平日の営業では四人はいないと厳しい。キッチンが二人、フロアが二人と言うのが平日の基本ラインだった。
「人件費削減だよ……。しばらく耐えてくれ」
店長はがっくりと肩を落とした。ちょい悪親父もこれでは形無しだ。
澄さんは普段フロアで接客を中心に行う。気遣いも細やかで誰に対しても優しい出来た人ではあると思うが、妙に料理を作りたがるのが困りものだった。恐らくこの店で彼女の暴走を止める事が出来る人間はいないだろう。
「亥山君、試食には、君も手伝ってもらうからね」
「断ります」
僕は即答すると逃げるように従業員室を出た。
お代わりの紅茶を机に置くと、新山が本からふと顔を上げた。そして僕の姿を見て驚いたように目を見開く。フロアの店員が鈴木さんではなく、いつの間にか僕になっている事に気付かなかったらしい。
「今日、あんたのバイトの日だったんだ。そうだと知ってたら来なかったのに」
「ごめん、学校で言っておけば良かったね」
「いらないわよ。学校であんたに声かけられたくないし」
不機嫌そうな表情。いつもの事だ。なんて愛らしい。いつの間にか顔が緩んでいたらしく、僕の方を見た新山は怪訝な表情をした。
「何よ、何笑ってんのよ」
「いや、新山はいい奴だなって思ってさ」
すると彼女は嘲る様な笑みを浮かべた。Sの笑みだ。胸が高鳴る。
「あんた本気で言ってんの? あたしはあんたから金を巻き上げてんのよ? もしかしてドM?」
そうです僕Mなんです今すぐ僕の股間を蹴り潰して下さいフヒヒムフヘヘ、と言うのを何とか堪えて僕は「まさか」と肩をすくめた。
「何だかんだ毎日来てくれてるし、こうして声も掛けてくれる。僕らの関係性は大きく変わってしまったけれど、僕は今でも新山の事仲の良い友達だと思ってるよ。いや、それ以上かも」
今の言葉に何らかの含みを持たせたのはわざとだった。昼間に加奈が言っていた事が気になったのだ。新山が僕を好きだという、その事を確認しておきたかった。
新山は少し目を泳がせると「どこまでお人よしなのよ、馬鹿。私はあんたからもらった金を使ってるだけよ」と言った。脈あり、と言った所だろうか。
その時店の扉が開いて新しい客が入ってきた。カランカラン、鐘が鳴る。
「それじゃあ仕事に戻るよ。ゆっくりしていって」
「言われなくてもそうするわよ。あ、仕事……」
新山の言葉を全て聞くまでにその場を離れてしまったので聞き取れなかったが、彼女がなんと言おうとしていたかは分かる。
「仕事、頑張って」だ。
やはり彼女は最高の女王様だ。そして、素直になれない典型的な女の子でもある。
お客を案内してカウンターへと戻ると、鈴木さんが近寄ってきた。
「亥山君、今日はどんなことを話してたの? このあとホテルに行こうとか、そんなん?」
「下衆すぎますよ、鈴木さん」
「あら、そんな事ないわよ。私が高校生の頃は毎日のように男の子とホテルに行くシミュレーションをしたものよ」
「それってただの妄想じゃないですか。一緒にしないで下さいよ」
「下らないガキね……。高校生なんだからもっと猿みたいになっていいのよ」
鈴木さんは舌打ちをした。酷い人だ。
「でも私には、あの子が君にホテルに連れて行ってもらいたがってる様に見えるわ」突然何を言い出すのだ。
「どうしてそう思うんです?」
「顔よ。亥山君が仕事の隙をついて話しかけた時のあの子の嬉しそうな顔。もう完全に恋する乙女、いや、雌の顔をしていたわね」
「雌の顔……」僕には下僕を見つめる女王の顔にしか見えなかった。
すいません、客席からお客さんが軽く手を上げて僕を呼んだ。
「ほら、仕事に戻った戻った。良かったわね、両想いで」
「両想いじゃないですよ……」
ボヤキながらオーダーを取りに客席に急ぐ。
そう、両想いではない。
「お疲れ様でした」
夜九時半、僕は仕事を終え、十時前には店を出た。
帰りしな、新山の座っていた席をそっと眺める。全く面識のないカップルがそこに座っていた。どうやら忙しくなる前に気を使って帰ったらしい。気付かなかった。
「今日も良く働いたな……」
今日は三時間半。高校生の自給と言うのは安いもので、一時間七百円程度しかない。月の給料にして大体三万五千円。新山たちに献上するお金が三千円を一ヶ月に二十回。つまり六万円。それを僕と加奈で折半して払っている。馬鹿ではない値段だ。
いくらアルバイトで稼ぐことにしたとは言え、まだ最初の給料すら入っていない。現在は二人とも、今まで貯めてきたお年玉や小遣いの貯金でまかなっている状況なのだ。昔からお金の使い方が堅実だった僕らの貯金はけっこうな額になる。
痛い出費ではあった。でも、たった三万円だ。その三万円で、僕と加奈は自分達の性癖を限りなく満たされている。それはとても有意義な事だ。
夜の街を自転車で駆ける。風が温く、気持ちが良い。
こんな生活がずっと続くとは思えない。しかしささやかな幸せを、僕は確かに感じている。はたから見たらそれは微塵も幸せではないのだろうけど。
近所のコンビニに寄って立ち読みをしていると、加奈が入ってきた。僕を見つけると彼女は嬉しそうに寄ってくる。
「もうバイト終わったんだ」
「ああ」僕は雑誌を閉じると棚へ戻した。「買い物か?」
「うん、明日の牛乳なかったから」
「じゃあ一緒に帰るか」
「うん」
店を出て、自転車を押しながら加奈と歩いた。ここから家まではそう遠くはない。
「もう五月だな」
桜はすっかり散ってしまっている。僕のアルバイトも一ヶ月になろうとしていた。
「もうじき夏になるね。あ、その前に梅雨か」
「加奈、部活はどうするんだ?」
「バスケ部に入ろうかちょっと迷ってるんだ。でも、アルバイト見つけないと駄目だし」
「バイトなんて良いじゃないか。貯金が心配なら、僕のを使えば良い。幸いまだ四十八万ほどある。バイトで三万、貯金で三万を駆使すれば一年はもつさ」
すると加奈は強く首を振った。
「そんなの駄目だよ。お兄ちゃんに負荷がかかりすぎてる。元は私のせいでこんな状況なのに」
「今は僕の趣味でこんな状況になってるんだ。いくらでも打開できるのに、僕は加奈の優しさに甘えているだけだ。気にすることはないさ」
「お兄ちゃん、何か勘違いしてない? 今のこの状況は、私の趣味でもあるんだよ? お兄ちゃんが痛ぶられて感じているのを見て私も体が火照っちゃうんだから。私はね、お兄ちゃんと苦楽を共にしたいの。虐めとひたむきに戦う兄妹の愛はやがて男女の愛へと発展するの」
「はは、寝言を」
僕は軽く苦笑した後、顔を正した。
「でも加奈、今の状況がお前を縛るなら、いくらでも破棄していいんだぞ? 僕の事が気がかりなら僕が状況を変えてもいい。実を言うと、それほどこの生活が長く続くとは思ってないんだ」
「でも、お兄ちゃんの理想郷を消すわけにはいかないよ」
「構やしないさ」
「駄目よ。私、お兄ちゃんにはいつもアヘ顔でいて欲しいの。はっきり言ってバスケ部とお兄ちゃんを比べようなんて思わないよ。お兄ちゃんの前では、バスケ部は価値すらない。目の前のアリと自分の母親、どちらを殺すか選べって言われた時並に比べようがないんだから」
「我が妹ながら実に分かりやすい例えだな……」
僕の表情が緩むのを見て、切実な顔をしていた加奈も和んだようだった。
「じゃあ、このままどうなるかやってみよう。もし現状が崩れるようならそれまでだ。続くようなら、とことん甘んじようじゃないか」
「うん、私もそれで良いと思う。今はただ、お兄ちゃんと近い場所に居たいの。時間を共有したい。ホントはお兄ちゃんと同じアルバイトが良かったもの」
「まぁ、僕がもう少し今の職場に慣れたら店長に掛け合ってみるよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
僕らは互いにニッと笑うと、帰路を急いだ。
この時はまさか次の日に現状が崩れるとは思っていなかった。