夏だった。
木々の色彩が増し、街には緑が溢れる。地に落ちた影から蝉の声がこだまし、太陽の熱を反射するアスファルトと呼応した。しっとりとした風が街を流れ、層を厚くした雲が揺らめき、夏の香りを導く。
期末試験も終わり、僕は高校生活始めての夏休みを迎えた。長いようで短い休みだ。
「お兄さん、ケーキセット一つ。ドリンクはアイスカフェオレで」
「はいかしこまりました……ってなんだ、加奈か」
僕はカウンター越しに注文を頼んできた少女に目を向けた。夏休みにも関わらず制服姿で、スポーツバッグを隣の席に置いている。中に入っているのはユニフォームだろう。五月に、彼女はバスケ部に入部したのだ。
店は午後のティータイムを迎えていた。忙しさのピークを越え、どうにか落ち着いたところだ。窓からは夏らしい真っ白な日差しが射し込み、そろそろブラインドを閉めないと駄目な時間だと考えた。
「なんだとは酷いなぁ。可愛い妹がせっかく遊びに来てあげたのに」
「はいはい、可愛い可愛い」あきれて苦笑する。「ところで、部活はもう終わりか?」
「そんな、可愛すぎて今夜抱きたいだなんて……。乳首立ってきちゃった」
「そうか、終わりみたいだな」
僕はグラスに氷と熱いミルクフォームを入れた。その上からアイスコーヒーを注いでやる。ガムシロップを備え付けて差し出すと、加奈はありがとうと受け取った。
「考えたら、お兄ちゃんのバイト先に来るのは初めてだね」
「そう言えばそうだな。どうだ? この店」
「うん。エプロン姿のお兄ちゃん見てたらパンツびしょびしょだよ」
「後で洗濯しないとな」椅子も拭かないと駄目だ。
加奈はしばらく自分の座っている席を眺めたあと、そっと口を開く。
「この席だっけ、お兄ちゃんと青ちゃんが仲直りしたの」
「糞みたいな青春ごっこをしたのはそこだ」
僕が肩をすくめると加奈はニコリと笑った。
「偽善的で反吐が出るって言ってたね」
「まぁ空島の性格上、ああ言う展開になるのはしかたなかったけどな」
「全てはお兄ちゃんの掌の上だね」
「当たり前だろ」
僕は冷蔵庫からケーキを取り出すとそれを八分の一サイズにカットした。今朝作ったばかりのフルーツケーキだ。皿に盛り付け、ホイップクリームを上から足してやり、オレンジソースをかけてやる。
あれから数ヶ月。驚くほど計画はスムーズに進んだ。
クラスの男子四人は退学。僕と空島はもう蔑まれる事もなくなり、新山はたまたま現場に居合わせた哀れな学生として扱われた。あの四人が少年院行きにならなかったのは事件が未遂に終わった事と、空島が訴えなかったためだ。被害者に譲歩され、さらに奴等は写真を使って脅されてもいる。この上、報復をすると言う惨めな行為はさすがに行わないだろう。
世間が知る事件の詳細はこうだ。
『以前から空島の事が気になっていた岡崎、佐藤、上田、山下の四人は体育の場所を指定する連絡板を無断で書き換え、空島を体育館へ誘導した。上手く空島を体育館に誘い出した四人は彼女を気絶させ、皆が来る前に連絡板の文字を本来のグラウンドへ戻した。しかしその書き換え現場を目撃してしまった人間がいた。
亥山兄妹と、遅刻してきた新山だ。
三人は怪訝に思い、体育倉庫へ足を踏み入れた。そこではなんと空島が強姦されかかっていたのだ。亥山兄は軟弱ながらも必死で闘い、妹はその隙に上手く空島を助け出し、臆した新山は泣きじゃくるばかりだった』
病院から退院して学校に行ったら僕と空島は皆に囲まれた。
すごいな亥山、ヒーローじゃねぇか、見直したぜ。
空島さん大丈夫? 酷いよね、女の敵だよ。今まで無視してごめんね、これからは仲良くしよう?
新山が弱体化した事でクラスの空気が和み、更には加奈の淫技に骨抜きにされた花山が上手く皆の意見を誘導してくれたらしい。
事件のあと、学校側と空島の父親が揉めた。本職の警察官に事件が知れる。学校としては一番恐れていた事態だろう。
空島を転校させる、そんな話ももちろん出た。
でもそれを拒んだのは、他でもない空島だった。
空島はこう言ったらしい。
「離れたくない友達がおるんや」と。
「それにしてもここまで上手く行くとは思ってなかったね」
「もっと予想外な事が起きると思ったんだけどな。ここまでスムーズだと恐いくらいだ」
僕はケーキを差し出した。
「美味しそう」
「美味しいよ、実際」
加奈はケーキを口に運び、美味しいと声を出す。微笑ましい姿だった。僕達はそこでしばらく心地よい沈黙に身を委ねる。店内にはお洒落なボサノバが流れていた。僕は作業しながらそっと耳を傾ける。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「結局、こんな大掛かりな計画を練ったけれど、何か得る物ってあったのかな」
不安げな表情を浮かべる加奈。今になって──事態が全て落ち着いた状態になって、ふと恐くなったのだろう。仕方がない。それだけの罪を僕らは抱えている。だから今日はわざわざ店に来たのか。部活中、急に不安が押し寄せてきたのだろう。
「人間関係を希薄にしないために、僕達は昔どおりの生活に戻る必要があったんだ。あのままじゃ僕達はどんどん駄目になってた。僕らだけじゃなくて新山も。その時は良くても、いつか崩壊してたはずだよ。空島には悪いけど、仕方がない事だったんだ」
そもそも、空島が現れなければ恐らく僕らはこんな大掛かりな計画を練る事はなかった。善くも悪くも、彼女が僕らを変え、気付かせてくれたのだ。そう言う訳で自分から首を突っ込んだのだから最後まで面倒見てもらわなければ。そう考えると叱られるだろうか、軽蔑されるだろうか。
加奈の表情は浮かなかった。ここまで文句一つ言わずに協力してくれたのだ。今まで疑問が沸かなかっただけでも奇跡に近い。
「このまま空島と友達でいて良いのか、疑問に思ってるのか?」
加奈は驚いたように顔を上げた。
「よく分かったね」
「何年兄妹やってると思ってるんだよ」
近くのダスターを手に取り、作業代を片付ける。
「覚えているか? 加奈。僕たちが背負わなきゃ駄目な業の話を」
「そういえば、そんな話もしたね」
「計画を執行する前は迷ってた。僕だって空島に気を許しつつあったからね。嘘じゃないぞ? 加奈と──僕らとこれほどまでに距離をつめてくれた、そんな相手に一生消えない傷を負わせるかもしれないんだ。迷って当然だ」
「うん」
「でもその迷いを拭ってくれたのは加奈、他でもないお前の言葉じゃないか。僕達は新山の気持ちを良いように利用していた。そこから脱却した結果、空島を利用する事になった。その業なんだよ、これは。友達を傷つけたと言う罪が、業なんだ」
「うん」
「だから、お前がその罪に耐え切れなくなって、潰れてしまいそうになったら僕が支えてやる。いつでも言って来い」
僕だけが抱えるから、お前は気にするな。本当はそう言いたかった。でも、それを言ったらこの妹は怒るだろう。だからあえてそれは口にしない。
「ありがとう、お兄ちゃん」
加奈は弱々しく微笑むと、こちらをうかがうように上目遣いになった。
「それじゃあさっそくなんだけど、今夜一緒に寝て良いかな」
何だそれは。もしやそれが言いたいだけじゃなかったのか? 少し疑問に思ったが、まぁいい。
「今日は特別だぞ」
「本当に?」加奈の目が輝いた。先ほどまでの憂鬱な表情は消えている。詐欺だ。
「ああ、本当だ。触れたら殺すけど」
「はは、ご冗談を」僕の真似をして加奈は言う。冗談ではない。
そこでふと、時計が目に入った。
「そろそろ新山が来る時間だな」
「あれ、新山さん、お兄ちゃんにフられたのにまだ来てたんだ」
「執着心が強い女だからね。未練ってやつだろう」
その未練を断ち切るために決別の儀式をしたつもりだったが、正直気持ちいいだけで終わってしまった。計画の中で、これが最大の誤算だ。
「お兄ちゃん、モテモテだね」加奈は意地悪い笑みを浮かべた。
「そうだな」否定はしない。事実、モテている。
「知ってた? 青ちゃんもお兄ちゃんの事好きなんだよ?」
「何となく、そうじゃないかとは思ってたよ。つり橋効果だろう」
「何それ?」
「危険な状況に陥る事で男女が恋仲になると言う現象だよ。空島がクラスから疎外された時、随分と僕を気にしていた。必然的に僕の事を目で追い、日常的によく考えるようになったはずだ。そんな折、僕が強姦魔から彼女を救った。好きになるしかない」
多分空島が柄にもなく新山を言葉で傷つけたのは、僕を好きだったからかもな。
「その理論で言ったら青ちゃんはもうお兄ちゃんにメロメロじゃない」
「メロメロとはまた表現が古い」
僕はまな板と包丁を横の流しに置いた。蛇口を捻ると、ぬるい水がまな板のゴミを流していく。何気なくその光景を眺めていると、不意に声が漏れそうになった。
──空島は、何かトラウマを抱えたりしたのかな。
水がコップから溢れるように、ときおり油断するとそんな言葉が口から出ようとする。でもこれは言うべきではない。加奈に余計な不安を与える。
結局僕も、人を傷つけることに平気なフリをしているだけでしかない。傷つけたことでしっかりと自分も傷ついている。そこから目を背けているだけだ。
心の傷、恐怖心。強姦にあった人は、そのような物に苦しめられる。人が信じられなくなるし、突然フラッシュバックして過呼吸になる人だっている。酷ければPTSDにだってなってしまう。それは空島も例外ではない。
自分の半裸を見られ、顔を打たれ、襲われ、男子の陰部を見せられ。
傷つかない奴などいない。
「……青ちゃんは、元気だよ」
風に乗った言葉が、僕を突き抜けた。
「事件以来、青ちゃんのお父さんがよく家に帰ってくるようになったんだって。娘が酷い目に合っているのに、その事実をまるで知らなかった。多分それが原因だと思う」
「なるほどな」
「青ちゃん、以前よりもむしろ表情は緩やかになったよ。今はもう、あまり寂しくないんじゃないかな」
その言葉は、確実に僕の心を救う。気休めであろうと、心の咎(とが)を薄めてくれる。
「ねぇ、今日は噂の鈴木さん、働いていないの?」加奈は何かを思い出したようにパッと表情を一転させた。噂などした事はないが。まぁでも、話を合わせておくか。
「ああ、あの垂れ乳黒頻尿乳首女は最近新しい彼氏が出来たらしいよ。今日デートだって」
何でも澄さんのパスタを試食してから下痢が止まらなくなって、便秘が改善されたらしい。そのおかげでお肌の調子がよくなったから彼氏が出来たと本人は言う。澄さんは自分の料理を下痢パスタ呼ばわりされ憤慨していた。
「そっかぁ、一度会ってみたかったんだけどなぁ」
「加奈となら話も合うかもね」二人とも変質的だからな。
「あ、それと加奈」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
しばらく作業をしていると、急に加奈が「あぁっ」と声を上げた。
「どうした?」
「そう言えば今日青ちゃんが家に来るんだった。晩御飯一緒に食べようって言ってたの」
「そっか。じゃあもう帰ったほうがいいな」僕はチラリと時計をいちべつする。「お勘定は僕が払っとくよ」
「え、でも……」
「いいから。加奈はいつも僕に協力してくれるから、たまには恩返しだ。それよりも、空島によろしく言っといてくれ」
加奈は一瞬逡巡したが、その後すぐに「わかった」と立ち上がった。
「それじゃお兄ちゃん、また後でね。ケーキご馳走様」
「気をつけて帰れよ」
「うん」
加奈はスポーツバッグを肩にかける。
「あ、それと加奈」
「何?」
「青春、たっぷり謳歌しとけよ」
柄にもない事言ってしまった。言ってから一瞬後悔する。しかしこっちの気など知る由もなく、加奈は親指を立ててグッと満面の笑みを浮かべ走っていった。扉の鐘が鳴る。カランカラン。
僕はカウンターから出ると皿とグラスを回収し、机を拭いた。念のため、椅子も拭いた。
空島が僕を好き、か。
ふと夢想する。Sのセンスの欠片すらないあの女と僕が付き合う光景を。
駄目だ、まるで想像できない。
それに対して新山は確かに素晴らしいSだった。僕の好む攻めをしてくれた。彼女と付き合う光景ならいくらでも浮かぶ。
でも僕は彼女を拒絶した。それは、彼女が履き違えたSだからだった。
Sと言うと、何をやっても良いように思っている人間がいる。人に危害を加えたり、暴言で他人の気持ちを害したりする人間。それを全て「自分がドSだから仕方ない」と正当化しようとする人間。
新山は素晴らしいSだが、そんな履き違えた人間でもあった。僕が彼女を拒絶した理由はそこだ。
それに対して空島はMだけど、他人の事をしっかり考える奴だ。嫌いではない。
SとMは表裏一体。もし僕が空島と付き合ったとして、僕がSになったら、上手く行くのではないだろうか。
「やめよう、この妄想は。恐ろしい」僕は首を振って妙な考えを払いのけた。
その時、カランカランとベルが鳴った。新山だ。
僕は入り口の方へ歩いた。
色んな人を犠牲にして、巻き込んで、僕と加奈はこの日常を手にした。間違っているか正しいかと言われれば、間違っているとしか言いようがない。ただ、間違いのおかげで僕達は正しい道に戻れた。抱えた罪の重さを感じながら、多くの物をこれから手にすると思う。
もう人間関係をないがしろにする気はない。これからはしっかりと対峙して、向かい合っていくつもりだ。
覚悟は決めた。これから僕達は、人を好きになっていく。大切な友人を傷つけた罪を抱え、二人で支え合いながら。大丈夫、僕らなら出来る。
やっと始まるのだ。
僕はやってきた常連に向かって、にっこり偽りない笑みで言った。
「いらっしゃいませ」
──了