宇多田薫教授の事件簿
事件1:林石大学関係者連続殺人事件(上)
宗教的情操――神や仏を畏敬し、それに帰依し、その加護によって念願を達しようとするときに生じる感情である。神仏などの聖なるものに帰依することによって法悦・安心の情を生じ、それにそむくことによって不安・恐れの情にかりたてられるのは、みなこの情操によるものである。
*
「それじゃあ美紀、4時半に南公園で会おう」
水子は高らかな声で言い残し去っていった。私は手を振るのも忘れる程、彼女の美しい姿にみとれていた。
水子の姿が見えなくなると、私は自宅に帰って大学の教科書を片付け、身支度を始めた。今日は彼女との久しぶりのデートなのだ、とびきりのお洒落をしなければならない。
約束の時間まではまだしばらくある、こんな時だって考えるのは彼女のことばかりだ、私と会う為にお洒落をしてくれるだろうか。
私が向けている水子への、この感情は恋だろうか。男なんて下らない奴ばかりだ、愛おしく思えるのは、やはり水子だけ。
同性愛、だろうか。
気がつくと時計の針は4時を少し過ぎていた、家から南公園まで10分はかかる、水子は約束のきっちり15分前に必ず到着する。私は急いで、玄関に向かった。それでも履いていくヒールはしっかりと選んだ。
水子はどんな格好で来るだろう、そんなことを考えながら細い路地を右に曲がって公園の入り口に着いたとき、そこに彼女の姿はなかった。
時計を確認する、4時20分、どうしたのだろう。まだ遅刻とは言わないが、水子が15分前に来ていないなんて。彼女は時間、服装や髪型など、全てを揃えて生きているのだ。
そしてその揃え方全てが、美しかった。
携帯に連絡が入ってないことを確認し、私は水子の家へ行けば途中で合流できるだろうと思い、歩き始めた。水子の通る道は勿論一定だから入れ違うこともない。
歩き始めてすぐ、水子に電話をしてみるが、彼女は出ない、いつもは最低でも3コール以内には出るのだが。
その時だった、水子の携帯の着信音が聞こえた。
右だ。
そこには、横たわる水子と…男が屈んで水子を眺めていた。
水子の白いワンピースは、腹部が紅く染まっていた、男の傍らには血まみれの包丁が転がっていた。ああ、刺されたのだ。助けなければ、私は道端から都合良く置いてある両拳大の石を取った。
私は男の頭に石を打ちつけた。
*
「松平、いい加減犯人の尻尾掴んでくれないかね。」
俺は馬鹿な捜査本部指揮官の発言を無視した。
最初の事件から三ヶ月、林石大学関係者連続殺人事件の捜査本部は霧島署に設置された。大学内部、及び周辺には常に警備が敷かれているが、未だ犯人像すら掴めていない。それでも被害者は増え続けている。無能な集団だ。しかし、自分もその集団の一員だと思うと溜息が出た。
4人目の被害者が出てから三週間、そろそろ新たな被害者が出るのではないか。
その時、若い捜査員が部屋に入るなり言った。
「宮下部長、大変です。林石大学近辺の公園前で死体が発見されました。」
そう、俺の勘はよく当たるのだ。捜査本部指揮官の宮下は言った。
「松平、至急現場へ迎え。君、被害者はやはり林石大学の…」
「はい、片方は林石大学の生徒で間違いはないようです、もう一人の方は、」
「待て、被害者は二人なのか、何故それを最初に報告しない。」
「す、すみません」
揉めている二人を余所に俺は現場へ向かった。被害者は二人、勘はやや外れたか。いや、そんなことはどうでもいい、これで事件の発生は5件目だ、そして被害者が複数というのは今回が初めてのことである。
*
殺人現場の公園前、というより公園前の脇道は既に何人かの警官と大勢の野次馬に囲まれていた。
何だってこんな田舎に野次馬が多いんだと呟きながら、集団を掻き分けると、数人の監識と捜査員、そしてその中心には、少女と中年男性2つの遺体があった。俺は一番近くにいた捜査員を引っ張って聞いた。
「片方は、大学の生徒で間違いないんだよな」
「そうです、被害者の携帯していた学生証を見る限り、学部に所属していた高木水子で間違いないようです。しかし男性の方は…未だ不明です。」
本部では話を最後まで聞かなかったため、てっきり二人とも生徒だと思っていたが。
「男の方は…やはり、教授あたりか。」
「大学側には教授等の関係者全員に安否の確認をしてもらっています。」
しかし、教授だとすると、何故こんな所で生徒と一緒にいる?
「あと、現場には凶器と思われる包丁が落ちていました、鑑識に鑑定を急がせています。」
何だって、凶器が落ちていただと。
「通報人は、確か散歩中に偶然発見した近所に住む老人だったな。犯人と思しきような輩は発見した時、既に現場には居なかった筈だが。」
「はい、その通りです。」
それならば老人に見つかり、逃げるとき落としてしまったという訳ではないらしい。不謹慎な話だが相手が老人ならその場で殺してしまえばいい。
「分からないことだらけだな。」
「実は、分からないことはもう一つあって、実は殺害の現場に居合わせたと思われる人間がもう一人いたんです。」
「何だと、てめえ何でそれを最初に言わないんだ。何があったのかそいつに聞けば済む話だろうが。」
「それが、老人が発見したときその被害者の友人と思われる少女は2つの遺体を呆然と眺めるように座り込んでいたそうです。どういう訳だが少女は血塗れで、おまけに混乱していてロクに話せやしないもので病院に送られました。」
しばらくは、取り調べも無理って事か。
「凶器の鑑定結果と、その女の回復を待つしか無えな。」
改めて遺体を確認した、男は腹の左側を一突き、高木水子という女の方は、右の脇腹と左胸の辺りの二カ所を刺されたようだった。
この林石大学関係者の連続殺人の共通点はいずれも刺殺というだけで、刺し方とか、使用した刃物等にはほとんど共通点が少ないのだ。だから捜査は混乱するばかりだ。被害者も大学関係者というだけで、生徒、教授、事務職員、掃除係などとまったく一定しない、このことから犯人の動機は大学自体への怨恨による犯行とみている。
大学の歴史は長い、その中で多少の不祥事くらいはあり、誰かに恨みを持たれることもあるのだが、大学関係者の無差別連続殺人となると事が大きすぎて犯人像は分からなくなる、それほどの恨みを犯人は何時、どういった理由で持ったというのか。
*
「鑑定の結果出ました。」
事件発生の報告をした若い捜査員が先程と全く同じように捜査本部に報告しにきた。
「犯行に使用した凶器は現場に落ちていた包丁で間違いありません。包丁からは、被害者の男性と、高木水子の友人と思われる少女の指紋が検出されました。」
「そ、それじゃあ犯人はその二人の内のどちらかだってことか。」
宮下は慌てるように言った。
「それはまだ分かりかねますが、その可能性が高いかと。あと、被害者の男性はどうやら大学の関係者では無いようです。」
「関係者じゃない?待て、その包丁を最後に使った、いや、手に取っていたのはどっちだ。」
「えっと、指紋の着き方からみて、おそらく少女の方です。」
ということは…よく分からなかった。俺は言われなくてもしっかり報告しろと叱責して捜査官を追い出した。しかし、そいつはすぐに戻ってきて言った。
「眠っていた例の少女が目を覚ましました。」
*
「天野美紀といいます。」
霧島署の一室、俺は宮下に指示され取り調べを行うことになった。まずは少女の自己紹介から始まった。一応、松平だ、と返した。
「私は、人を、男を刺しました。」
まさか、突然真相を聞けるとは思いもしなかった。しかしそれだけではまったく状況が分からないので、どうして刺した、その経緯は?と言った。
「水子と、デートをする約束をしました。」
その約束の場所は殺害現場付近の公園前で、約束の時間になっても高木水子が現れないものだから、彼女の家へ向かう道を辿り始めてすぐ、犯行の現場に着いたという。
そこでは高木水子が血塗れになって倒れていて、未だ身元不明の男が屈んで倒れている彼女を見ていたそうだ。天野美紀は彼女がまだ生きていることに気づき、咄嗟に石で男の後頭部を殴った。
しかし、男は倒れず、天野美紀を押し倒して首を絞めた、彼女は男の近くに落ちていた包丁に手を伸ばし、男を刺した。…あとの事は殆ど記憶にないという。
天野美紀の首には確かに絞められた跡があった。
包丁に二人の指紋が着いていた訳も納得できた、これが事件の真相である。連続殺人犯も身元不明の男で決まりだ。
「あの男は、どうなったのですか?」
「…死んだよ、出血性のショック死だ。」
「過剰防衛には…」
「恐らくならないだろうよ」
「水子は、やっぱり」
「ああ、通報があった時には既に。」
連続殺人事件の全貌は見えた、俺はカウンセラーじゃあない、早々にこの重苦しい雰囲気を持つ部屋から抜け出したかった。
*
三ヶ月に渡る事件も解決するときはあっさりと解決するものだ、犯人は隣町に住んでいた男、溝口達雄。彼の家で普通に使われていた包丁が殺人に使用された物だと判明した。
彼が死んだ今、犯行動機などは分からず終いだが、一人の少女によって事件の幕は閉じられた。最後の被害者が出てから、一週間、今では少女は元通りの生活を送っている。事件の後処理もほぼ終了していた。
「た、大変です!」
いつもの若い捜査員が、いつものように部屋へ入ってきて言った。
「事件です、殺人です。」
「落ち着け、場所は?被害者は?」
「そ、それが、林石大学に務めている准教授だと判明しました。」