空を見上げた。
何気なく上を向いただけのケンゴだったが、偶然、眼の端で月を捉えた。
まんまるの、満月だった。
特に意味はないがなんか得をした気分になれた瞬間。
アタマの中で何かがはじけた気がした。
うすらぼんやりとした意識の中、頭上と口周りと尻付近にむずむずと違和感が。
耳が生えた。
シッポが生えた。
鼻が前方へ突き出てゆき、同時に口が大きく裂け、強靭な牙が生え揃う。
気がつくと全身が毛でもっさもっさだった。
とりあえず手のひらの肉球はぷにぷにとつついておいた。ここだけは譲れないお約束だった。
悦に入るのも束の間、突如として様々な臭いの渦を感じ卒倒しそうになる。
いつも歩くときは無視していた石から、草から、虫から、下水の排水溝から、マンホールのフタにあいている細い穴から、実に多種多様な種類の、見えない何かが嗅覚を全方位から刺激する。
なるほど臭いとはこんなに種類のあるものだったのかと勉強になった。世界の色まで変わってしまったようだった。
しかし確かに、微に入り細に渡る、バリエーション豊かな嗅覚の刺激方法があることはわかったが、それら全ては言葉に直してしまえばたったの一言にしかならない。
くさい。
それしかなかった。世界は「くさい」になっていた。否、見えていなかっただけで、いや嗅いでいなかっただけで、世界は本当は「くさい」だったのだ。ああ、人間はつくづく、自然を捻じ曲げてでも見たくないものを見ない、いや、嗅ぎたくないものを嗅がないのだなあ。
ここが彼以外に人のいないジメジメした裏路地だという事もあるのだろうけど。
そんな事をくささに侵食されてロクに働かない頭脳で考えながら、ケンゴはぱたりと路上に倒れ伏した。
狂いそうだった。
先ほどまで自分が身にまとっていたハズの衣服から逃げるように出る。
すると、道端に落ちている空き缶が眼に入った。
「道端に落ちている」空き缶が、真正面の至近距離に。
這っているのだから当然だろう。
なんとか立ち上がろうと力を込める。
2本の足で踏ん張り体を起こし、しかしすぐにまた這い、手をついた。
ダメだ、もう一度。
体を起こし、すぐにまた手をついた。
男性器の俗称が頭をよぎる。犬の芸のやつ。
踏ん張った足は「足」というより「後ろ足」のようだった。
そう、ケンゴは、「オオカミ男」。
……ではなく、オオカミそのものになってしまったのだった。
「んなアホな―――!」
そう叫んだつもりのケンゴの口から放たれたのは、
「アオ~~~ン」
という咆哮だった。