Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
03.魔法の花札

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 飛縁魔が路地を横に逸れていくたびに、道は狭く暗くなっていった。大通りから、朧車一台分の道、そしていまでは二人が肩を並べて歩くことさえ難しくなっていた。夕陽がほとんど切れ切れにしか入ってこないので、いづるは目を凝らさないと行く先が見通せなかった。左右に続くガラス戸はどれも電気が消えてなんの気配もしない。飛縁魔の戦装束がぎらぎら光ってくれているので、道案内を見失うことはなかったが。
 黄色く変色した張り紙があちこちにベタベタと貼ってあるが判読できるものは少ない。何々屋、何々承りマス、何々お断り、などと書いてあるものが多かったが、なかにはミミズののたくったような古代文字が記されているものもあった。たいていは真ん中あたりから破れていた。
 飛縁魔はその中の一枚をピッと剥がして、その奥の木戸を開けた。かびくさい地下のにおいのする階段が暗闇に続いていた。この先に土御門光明がいるのか。陰陽師の秘密基地というよりは闇賭場にでも通じていそうな気配である。誰が落書きしたのか、灰色の壁には百鬼夜行の図が描かれていた。なかなか達筆である。飛縁魔について階段を降りながら、いづるは壁画のなかに飛縁魔の姿を探した。が、結局探しきれずに階段を降りきってしまった。
 扉がある。ところどころ亀裂の入った木製の扉だ。下の隙間から平坦なオレンジ色の光が漏れている。人の気配がする。
 そこだけ真新しいドアノブを飛縁魔は握って、ひねった。
 奥に長く伸びた、長方形の部屋に出た。部屋と同じ形のテーブルの上には雑多なものが無秩序に置かれている。絵の具、パレット、筆の毛先には洗い落としのエメラルドグリーンがへばりついている。いくつか立てかけられたキャンバスには美しい着物の女が描かれている。その背中から覗いているのは狐の尻尾だった。右下に署名がある。土御門光明。
 女の子みたいな顔をした少年だった。
 鋭角的に切り揃えられたおかっぱ頭には天使の輪が輝き、頬は背後の暖炉の火を受けて硬質な光を照り返している。人形みたいだ、といづるは思った。人形くさいといえば服装もそうだった。一千年前の貴族が着ていたような、膨らんだ服をまとっている。それは一般に狩衣と呼ぶ服装だったがいづるは知らなかった。ただ、親戚の家に遊びに行ったときに飾ってあったおひなさまのお殿様を思い出しただけだった。
 土御門光明は、絵筆をふるって、水気を払った。その眼も濡れたように妖しく、ずっと見ていると吸い込まれそうになる。
「なんだおまえか。なにしに来たんだ、とっとと帰れ」
 いきなりそれかよ、と飛縁魔はため息をつく。光明は、顔立ちからして甲高いボーイソプラノかと思いきや、柔らかく甘いベルベットボイスだった。会話をすれば女子に間違えられることはないだろう。じろっと目を細めて、
「結界は?」
「壊した」
 やっぱり、といづるは思った。剥がしちゃいけない雰囲気あったもん。光明も同じ感想を抱いたらしい。呆れたように「ハッ」と鼻で笑った。そして突然の来訪者を無視して、中腰になった。彼の存在感に隠されていたが、すぐ隣に丸椅子に座った人形が腰かけていた。少女の人形だ。いづると同じ高校の制服を着て、いづると同じ白い面を着けていた。人形? 少女の首がいづるの方へ向いた。
 人形じゃない。死人だ。
 二人ののっぺら坊は言葉もなく見詰め合った。お互いの眼球は見えこそしなかったけれど。
 光明は左手に着けたパレットに筆をつけて、色をつけると、少女の仮面に迷いない様子で線を引いていった。少女の仮面にどんどん黒い筋が増えていく。いづるは、どうもそれがおもてで飛縁魔が破り捨てた紙に書いてあったのと同じ文字らしいことに気づいた。
 飛縁魔は勝手に戸棚を漁って、マシュマロの袋を見つけていた。腰の匕首を抜き放って、柔らかいマシュマロを刺し、暖炉の火であぶった。ちょうど中腰になっていた光明のケツが邪魔になっていたので、マシュマロを食って匕首をいったん自由にすると、その刃先を躊躇なくケツに刺した。
「あっ!」
 といづるは思わず声をあげたが、ケツを刺された光明の姿は靄になって滲んでいき、ひゅッと音を立てて消えてしまった。そして瞬きをすると、飛縁魔の背後に回っていて、そのアタマを思い切りひっぱたいた。
「てめえなにしやがる!」
「それはこっちのセリフだ!」光明は吼えた。
「脳みそ溶けてんのか? 礼儀ってもんを知らねえらしいな」
「ちょっとからかっただけじゃんかよ。細かいやつだなァ」飛縁魔は新しくあぶったマシュマロを突き出した。「喰う?」
「オレのだってんだよ!!」光明は飛縁魔の手から袋を奪い取った。それにしても、といづるは思う。飛縁魔のやつ食べてばかりだ。
 光明はマシュマロの残り具合を確かめると、テーブルの上に放り投げた。飛縁魔はエサを追う鳥みたいに袋を目で追った。まだ食べる気だったらしい。白面の少女が口元に手を持っていった。表情はわからないが、笑ったのかもしれない。
 光明はさらさらの黒髪を苛立たしげにかき回した。
「なんなんだよ。遊ぶなら余所にいってくれよ。オレはいま忙しいんだ。すごくな」
「暇なヤツはみんなそう言うんだよなー」
「だ・か・ら、それはおめーだよおめー! なんなの!? 早く出てってくんないかな!!」
「まァそう言うなって」飛縁魔は椅子の少女のうしろに回って、長い黒髪を指で梳り始めた。少女がくすぐったそうに身もだえする。「で、これなに?」
「そっちのこそなんだよ」と光明がようやくいづるを見た。が、その瞳には人情味が感じられない。道端の石ころは普段こんな視線に晒されて転がっているのか、といづるは興味深く思った。今度からはもっと情熱的に見てやろう。
 飛縁魔は許可もなく少女の黒髪を手早く編みこみながら、
「べつに? フツーに拾った。あたしの来週の給料。あたしよりおまえの方が問題じゃね? この子になにをする気だ!」
「なにもしやしねーよ」光明は精気を取られたようにげっそりしていた。いづるには気持ちがよくわかる。
「実験に使ってたんだ。……だから違う! なんだその眼は!」
「だって……」
「シナを作るな気持ち悪い。匕首こっち向けるのもやめろ。あのな、オレは、そいつの時間を引き延ばしてやってんの。慈善事業で」
「時間?」と飛縁魔。
「ああ。フツー死人は七日……平均一八八時間ほど経てば魂貨になるんだが、そいつはもう三ヶ月近くあの世に留まってる。どけ」
 飛縁魔を追い払って、光明は絵筆を水入れで濡らしてまた少女の仮面に文字を描き始めた。少女はぷらぷらとローファーを交互に振って、されるがままになっている。
 飛縁魔はまた戸棚を漁ってごそごそやり始めたが、光明にぎろりと睨まれてやめた。
「でもさ、あたしおまえら陰陽師のことってよく知らないんだけど、それって」
「バレたら破門されるね。ヘタすりゃ消される」
 光明はなんでもないことのように言った。喋りながらも筆の動きは変わらない。
「死人ってのはケガレだからな。とっとと綺麗になってもらうのが常道なのに、ずっと留まってられたら災いを呼ぶのも当然だな」
「じゃ、ヤバイじゃん」
「それをヤバくないようにするのがオレ様よ。ちょっと無理やりだけど、魂貨されていくスピードを遅らせてみたんだ。苦労したが、わりとうまくいったな。代償として声が出なくなったりはしちまったが」
 少女の白い仮面を指の関節でこんこん叩き、
「でも、もう限界だな」
「限界?」
 見ろ、と光明が言うとその言葉を待っていたかのように、仮面の文字がすぅ……と掠れて消えてしまった。光明が前かがみになって少女になにか囁いた。少女は頷いて、隅の扉から出て行った。
「……彼女は?」
「焦らなくたって、おまえにゃすぐにわかるだろうよ」
 光明は絵筆を水に浸けて、かき混ぜた。揺れる波紋を見つめながら、
「で、遠回りになっちまったが飛縁魔、この土御門様にいったいなんの……おい! それはオレが楽しみに取ってあるイモ羊羹だってんだよ! やめ、ちょ、やーめーろーよーやーめーてー! あ、ああーっ!」

     




 光明はアトリエにあるすべての戸棚に鍵をかけて回った。わざわざそんなものを用意しているということは、引っ掻き回すやつが度々やってくるということだ。飛縁魔とその少年陰陽師の付き合いは、短くはなさそうだ。暖炉の暖かい火を受けて輝く鍵束を、いづるは不思議な気持ちで眺めた。
 三人はストゥールに腰かけて、向かい合った。最初は顔をしかめて腕を組み、とても歓迎しているようには見えなかった光明も、飛縁魔の身振り手振りを交えた説明を聞くうちに態度が変わっていった。牛頭天王をやっつけたいと告白したところでポカン、と顎を突き出し、魔法の花札の話に辿り着いたときには腹を抱えて爆笑していた。白く細い指で涙を拭う光明に飛縁魔は真っ赤になった。
「なにがおかしいんだよ、おまえだって牛頭天王にはムカついてんだろうが!」
 光明は笑いの発作に抗おうと努力したのだろうが、かえって福笑いのように顔がアンバランスになった上に「ひひひ」と気持ちのよくない声が漏れてしまって、飛縁魔の怒髪は天を衝きかねない状態になった。右手が太刀を抜くまいとして痙攣している。だが、いま現在ただひとつの希望を打ち首にするほどバカではないらしかった。
「魔法の花札?」
 光明は身を折って、くく、と歯の奥で笑った。飛縁魔が拳を握ったり開いたりし始めた。爆発の時は近い。いづるはストゥールを半歩ほど引いて爆心地候補から距離をとった。
「――――いい加減マジメに聞けよ、土御門」
「聞いてるよ」光明は絵筆をくるくると手のなかで弄んだ。「おまえがふざけない限りはな」
「じゃ、できないのかよ、魔法の札」
 途端、光明は無表情になった。そうして黙っているとやはり物静かな少女に見える。光明の唇が開きかけ、前歯が白く輝くのを見ながら、いづるは次の言葉を自分と賭けた。
「できるよ」
 当たった。
 うしろにいるのっぺら坊が報酬のない博打を一瞬だけ楽しんだとは露知らず、飛縁魔ははて、と首を傾げた。
「できるなら、なんでそんなにウケてたんだよ。……疲れてんの?」
「おまえのせいでな」光明は鼻で笑った。「二重の意味で」
 飛縁魔のアタマの中で光明の回りくどい言葉がグルグルと回転し始めたのがいづるにはわかった。首がゆっくりと沈没する船みたいに傾いていき、首の稼動限界で止まった。放っておくと顔が一回転する危険性がある。
「つまりさ、姉さん。土御門くんはこう言いたいんだよ。魔法の花札を作ったって、それを姉さんには使いこなせないだろ? ってね」
 姉さん? と今度は光明が顔を傾けた。が、飛縁魔と違ってすぐに復帰した。ただの愛称だと納得したらしい。元人間の死人ののっぺら坊と妖怪の飛縁魔が血縁関係にあるはずもない。光明は横丁に来て、久しぶりに切れ味のいい頭脳に出会った。それとも、同じ人間だから、その思考が理解しやすいだけなのかもしれない。つまらないことばかり考えて、余計な知識と情報をこねくり回し悦に浸るのは、人間だけの特性だ。
 いづるの助言に、光明は頷いた。
「そうだ。飛縁魔、おまえ花札やったことはあるよな。べつに花札じゃなくてもいい。ポーカーでも大富豪でも一緒だ。オレが仮におまえに希望の札を作ってやったって、おまえにはそれが制御できねえ」
「なんでだよ」
 不満げな飛縁魔に、光明は噛んで含めるように言葉を選んだ。
「じゃあ、仮におまえの手札がゴミ札ばかりだとしよう。花札って場札があるよな? いま、そこには役を作るキーになる札がゴロゴロしてる。おまえはその札が欲しい。で、そうだな」光明は中空を見上げて、「うん、『月見で一杯』のために『芒に月』をカス札から変化させて、場の芒とくっつけて取った。そしたら山札から一枚場に出すよな? それも変化させて『菊に杯』にして場札の菊のカスとくっつけた。役の出来上がりだな。どうなると思う?」
「勝つ」
 即答だった。それ以外になにがあるのかという顔だった。もし学校にいかなかったらどうなるかと問われれば、きっと飛縁魔は昼まで寝ていられると答えるだろうし、働かなかったらどうなるかと尋ねられればやはり昼まで寝ていられると答えるだろう。おばけには試験もなんにもない。気楽なもんである。光明は盛大にため息をついた。
「相手がおまえが変化させた札を手札に持ってるかもしれないだろ? 花札には役に関わる札は一枚しか入ってないんだ。トランプじゃないんだぜ」
「じゃ、どうすればいいんだよ?」
「オレが知るかよ。牛頭天王をやっつける? オーケイ、勝手にやってくれ。元々その件は妖怪どもの問題だ。オレたち拝み屋の出る幕じゃない。それに、妖怪と死人に陰陽術で理由なく干渉することは陰陽連で厳禁されてるんだ」
 光明は立ち上がって、座っていたストゥールをテーブルの下に爪先で蹴り入れた。画材道具をテキパキと片づけるその背中に飛縁魔の叫びがぶつかる。
「頼むよ!」ストゥールから跳ねるように立ち上がって、飛縁魔は言った。「札さえ作ってくれたらおまえのことは誰にも言わないからさ!」
 光明の背中は肩をすくめた。
「やなこった。オレには透けて見えるぜ、すぐ先にある未来がな。おまえらは意気揚々とオレの札を使って、まさか自分だけはそんな不運には見舞われないだろう、いろいろ心配しても最後にはなんとかなるだろう、むしろあっけらかんとしていた方がツキが来る。そんな言い訳並べて武装して、牛頭天王に挑みかかって返り討ち。牛頭天王は言うよ、はてその札、うすばかの飛縁魔が持つには相応しからぬ魔道のモノ。いずこで手に入れた? おまえはへへーっと平身低頭してこう言うんだ。ぜんぶ土御門光明ってやつが悪いんです!」
 最後には両手をあげて、クライマックスを迎えた指揮者のように、光明は断言した。振り返ったその眼はぎらぎらとしていた。
「おたんこなすの妖怪と違って、人間のオレは他者を簡単に信じたりはしないんだ。魔法の花札? ああ作ってやるとも、簡単だ、誰にだって念じるだけで変質させられる無敵のカードにしてやるよ。包装紙巻いてリボンとシールもつけようか? だがな、札もリボンも、てめえがオレを納得させられたらの話だ。なに泣きそうになってんだ? てめえのおやじだって充分長生きしたじゃねえか。いまさら敵討ちなんざしらけるだけだぜ」
 斜めうしろに控えていたいづるには、飛縁魔の顔は見えなかった。泣いているようなそぶりはしていなかった。手も肩も震えていない。静かだった。それがかえって、その顔を覗き込むことを躊躇わせた。
 いづるは光明が間違っているとは思わない。むしろ当然だとさえ思える。彼のリスクはどんな綺麗な言葉で飾り立てても消えはしないのだ。誰だって自分が可愛いし、面倒事は背負い込みたくない。対岸の火事に駆けつけて煙に巻かれては元も子もないのだ。誰も代わりに責任を取ってくれはしない。光明の態度は正しい。だが正しければ正しいほどもつれる事情もある。
 飛縁魔は、腰の太刀を抜かずに鞘を掴んで、光明に差し出した。
「おやじの形見……業物だぜ。これをやるよ。やるから……」
 黄金色に輝く鍔のあたりを、光明は裏拳で弾いた。飛縁魔は太刀を取り落とした。乾いた音が地下室にこだました。
「てめえオレがわからず屋だとでも思ってんのか!」
 光明は激昂した。
「いいか? オレはおまえみたいにノー天気なやつが大嫌いだ。夢見てんじゃねえぞ。あの牛野郎にてめえら何人消されたんだ? え? 飛縁魔、おまえも知ってる顔が大勢いたはずだ。オレの知ってるやつもいた。決して弱くはなかったよ。おまえよりは強かったろうよ。わかってるよな? おまえは確かにちょっと喧嘩で負けなしかもな。噂は聞いてるよ。でも殺し合いなんてしたことねえだろ? なあ。甘いんだよ。お嬢様なんだよ。所詮、おやじの下で悪ガキぶって粋がってただけの役立たず、それがてめえだよ。わかったらオレの前から消えうせろ。そのガキとカラオケにでもいってストレス発散させてもらって来るんだな」
 光明が長ゼリフを喋り終え、その反響もなくなるとアトリエは痛いくらいの沈黙に包まれた。
 あの飛縁魔が一言も返さなかった。いや、きっと返せなかったのだろう。その理由は飛縁魔に一番わかっているはずだ。だが、それでも土御門光明には土御門光明の事情と理由と過去と信念があるように、飛縁魔もまたそうだった。
 俯いて、力なく両腕をだらりと下げて、転がった愛刀を見下ろしながらも、言った。
「それでも、やってみなきゃわかんねえ」
「……飛縁魔」
「だってそうだろ……あたしは、いつも勝つことばっかりじゃなかったけど、でも最初から負ける気だったことなんてない。うまくいかないかもしんないけど、でもなにもしなかったら、なんにもならない、と思う」
 床に転がった太刀を、飛縁魔は拾った。朱鞘には汚れひとつない。大切にされていることは一目見れば誰にだってわかる。土御門光明にも。
「おまえにとっては他人事かもしんない。あいつ、人間には手を出さないし、おまえらはいつも日和見だもんな。いいよ。わかったよ。勝手なこと言って悪かったな。もういい」
 一瞬、光明と飛縁魔の間で烈しい感情が視線を通じて連結した。が、飛縁魔はそれを振り切るようにして踵を返した。
 いづるは、まだストゥールに腰かけたまま、首を振り向けて飛縁魔の背中を眼で追った。そして、まだ激情の影をまとったままの土御門光明に顔を向けた。鬼気迫る表情だったが、気圧されはしなかった。怯まない理由くらいこちらにだっていまはある。
 はっきり聞こえるように、きちんとした声で、告げた。
「勝負しようぜ」
 努力はしたが、やはり、土御門光明は聞き返してきた。
「なんだって?」
 その顔は半笑いで、いづるが喋ったこと事態が滑稽だと思っているようだった。
「いづる……」と飛縁魔が回しかけたドアノブから手を離した。
 いづるは言った。
「問題はシンプルだ。土御門くんは姉さんの腕が信じられない。それは僕も信じられない。正しい判断だ。でもそれは姉さんがゲームを仕切った場合だけだ」
「なにが言いたい?」
「きみは僕らを信じられないんだろう。だったら信じさせてやるよ。魔法の花札を用意してくれ。時間はかかりそう?」
「かからねえよ」
 光明はにやっと笑った。いづるは笑わなかった。仮に笑ったとしても白い仮面にはさざなみひとつ起こらなかっただろうが。
「なるほどね、わかったぞ。陰陽師は魔法さえ起こしてくれれば不要ってわけか。へっ、やっぱり人間と馴れ合うと妖怪が悪知恵を覚えるようになるってのはホントだな」
「違うよ。僕は、ゲームには自信がある。僕ならゲームを仕切れる。僕が無敵の花札を使いこなせるか、確かめてほしいだけなんだ」
 光明は顎をすくって、いづるを嘲笑した。
「信用できるもんか」
「そうか」
 いづるは肩を落とした。
「なら、これがきみに対して、誠意ある覚悟に映ればいいんだけれど」
「は?」
 いづるは、自分の仮面に手を当てて、それをほんの少し顔から離した。飛縁魔が息を呑むのが聞こえた。
 胸の奥で、なにかがざわめき始めた。自分の身体が空洞になって、黒く汚れた竜巻が、渦を巻き始めたような気がした。それはだんだん大きくなっていく。吐き気がする。
「この仮面を外すと、よくないことが起こるんだろう。いまからこれをきみに預けておくよ。僕らが暴力に訴えたりしたら、遠慮なく叩き割ってくれ」
「バカ!」
 飛縁魔が叫んだ。
「おまえわかってない、それ壊しちゃったら換えなんてないんだぞ! 一人につき一個なんだから……いいからやめろ、そんなマネしないでくれよ、いづる!」
 いづるは飛縁魔の懇願を無視した。それどころか、また数ミリ、素顔に風通りをよくさえした。どの道、無理や無茶の一つや二つこなさなければ人の心なんぞ撃てはしない。
 光明の瞳に動揺が走るのが確かに見えた。一秒が何分にも思えた。いづるは一歩も引かなかった。仮面を押さえる手は、震えひとつ起こさなかった。
 やがて光明は、爆撃機が頭上を過ぎ去った直後のような重々しいため息を吐いた。憑き物が落ちたようで、絵筆を握っていたときの頃に雰囲気が戻っている。
「わかったよ。オレの負けだ。その仮面は外さなくていい。いま、花札を作って持ってきてやる」
「ありがとう、助かるよ」
「勘違いするなよ。まだ終わってない。おまえがオレに証明させられなければ、やっぱり札は渡せねえぞ」
「わかってる」
 いづるは元通り、顔と仮面を密着させた。そしてなんの感情も見せないその仮の顔を、飛縁魔に向けた。
「いやァ、ひどい目に遭うところだった」
 その声は笑っているようだった。まるで、木に高く昇りすぎて怒られた子どもみたいな声。
 飛縁魔はわなわなとなにか言いかけてはやめを繰り返し、手をにぎにぎして混乱の極みにあったが、口を真一文字に引き結ぶと思い切り拳骨をいづるの頭に振り落とした。鐘を打つような音がして、いづるは頭を抱え込んだ。
「いたい……」
「あんなこと二度とすんな、スカタン!」
 わかったよ、といづるは頭をさすった。それを見て、暖炉脇の扉を潜り抜けようとしていた光明が呟いた。
「ケッ、アホくさ。見せつけてくれやがる」
 そんな呟きが聞こえるはずもなく、飛縁魔はぎゃあぎゃあ喚き散らして、門倉いづるは耳を塞いで逃げ惑った。暖炉の火が無地の仮面にゆらめく陰陽を与えて、それはどこか笑った顔のように見えるのだった。

     


 テーブルに花札が散っている。いづるはその小さな厚紙の群れをかき混ぜて、こねるように切り、潰すようにまとめてデッキにした。テーブルの端と端に座る光明と飛縁魔に交互に放っていく。その札さばきは熟練していて、テーブルを滑ってきた札だけ見ていたら機械から送られてきたように思えただろう。無駄がなく、隙がなく、それでいて柔らかい配り方だった。手札と場札を配り終えると、いづるは白いおもてを少し伏せた。
「最初は、飛縁魔が『青タン』をアガる、だったね」
「確認しなくていい。始めるぞ……」
 光明はぷうっと風船ガムを膨らませた。パチン、と弾けたそれを口に戻して噛む。
 花札には十二の月の札があり、ひとつの月に四枚の札がある。札には四つの種類があり、派手な幕や月が描かれた『光札』、動物が描かれた『タネ札』、短冊が描かれた『短冊札』、花しか描かれていない『カス札』があり、その組み合わせによって役を作っていく。
 いづるが光明に見せる最初の証明は、飛縁魔が最初に青い短冊を集めて『青タン』をアガれるような手札と場札を作ること。イカサマ師のようにカードをシャッフルするときに細工をする必要はなかった。配る時点でどの札を配るか念じればそのままカードが転身してくれる。いづるはどうゲームを転がしていくか考えればいいだけだった。場札と山札の配列、そして光明と飛縁魔が配られた八枚の手札をどうやって切っていくか……それを推測して誘導していかなければならない。
 光明が手札から札を切り、場札をさらっていく。飛縁魔も。そして何回かそのやり取りがあった末に、飛縁魔の手元に青い短冊の札が三枚集まった。アガリだ。
 飛縁魔が頬杖をついてにやにやする。取った札を左手ですくってはテーブルにこぼした。
「これでわかったろ? あたしの相棒はアタマいいんだ」
「うるせえ。これだけでわかるか。おいオマエ」
 光明はいづるに乾いた絵筆を向けた。
「次は飛縁魔が『猪鹿蝶』をアガってこいこいし、オレが『三光』で巻き返すってのをやれ」
「逆にしようぜ。あたし負けたくない」
「じゃあそれでいいよ、うるせーなおまえはホントにもう」
 いづるは札をかき集めて、もう一度配った。ゲーム展開は光明の指示通りになった。その次は、飛縁魔が『月見で一杯』『花見で一杯』に『三光』つきで最後のターンにアガるというものだった。光明はなんの役も作れないことになる。その通りになった。飛縁魔は手元に集まった役札を飛沫のように手ですくって浴びた。
「あっはっは、サイコーだな。なにしても勝てるぞ」
「僕はあんまり最高じゃない。思っていた以上に疲れるね、これ」
 肩をぐるぐる回すいづるに、光明が呆れ顔を向けた。
「疲れる程度で済むのかよ。ホントにアタマのキレるやつだな。何者だ?」
「さあ。あんまり覚えてない」
 いづるは48枚の山札をシャッシャッと切った。一枚一枚が厚いため、52枚組のトランプよりもかさが張る。よどみなくシャッフルしていたいづるだったが、突然ジャッと鈍い音を立てて札がバラバラになった。いづるは分解したデッキの残骸を見下ろす。
「どうやら魔法の扱い方なんかより、この札の切り方を覚えなきゃならないみたいだ。だから花札は苦手なんだ。切りにくくて……」
「おまえの不満のつけどころはようわからん」
 光明はどこか嬉しげなため息をついた。
「が、まァ腕は確かみたいだな。いいぜ、それやるよ」
 ほんとかっ、と身を乗り出した飛縁魔が下腹を机の縁にしたたかに打ちつけてずるずると崩れ落ちた。うううう……と恨みがましい呻きがしたが、光明といづるは二人とも一瞥もくれなかった。
 ぽいっと光明が無造作になにか放ってきた。いづるはそれを両手でキャッチし、手の平をあけてみる。英字新聞の切れ端で包まれた数枚の板ガムだった。
「山札を配る前に、それを飛縁魔に噛ませとけ。呪いにもいろいろルールがあってな、それが一種のサインになる」
「ありがとう、恩に着るよ」
「オレが手伝ったってことはオフレコで頼むぜ。まァバレてもいいんだけどよ、陰陽連盟はカタブツばっかりでね、前例がないことをすると怒るんだよ。アタマが固いやつはとっとと死んだ方がいいね」
「それで守れるものもあるんだろう」いづるは立ち上がった。「僕にはよくわからないけど」
 そう言って右手を差し出した。光明は知人に道端で出会ったような顔をした。
「僕は門倉いづる。生きてた頃は、フツーに高校にいって、たまにギャンブルをしてた」
「わざわざ名乗り上げかよ、古風なやつだな。もう知ってると思うが」
 光明は絵筆を懐にしまって、差し出された右手を握った。
「オレは土御門光明。陰陽師だ。おまえと違ってギャンブルはしない。負ける勝負はしない主義でな、オレはもっぱら、」
「ああ、そう。よろしく、みっちゃん」
「みっ……」
「それじゃ姉さん、いこうか。……ねえ、まだ痛いの? なんで後先考えて行動しないの?」
 下唇を噛み締め、無言でおなかを押さえる飛縁魔の背中をさすりながら、いづるはアトリエを後にしようとした。
「なァ」と光明がその背中に言う。「聞かないんだな」
「なにを?」いづるは振り向かない。
「オレがさっきやってた研究。死人の魂をあの世に引き止める術さ。興味ないのか? ずっとここにいるってことに。消えない、ってことに」
 いづるは黙り込んだ。そのまま何も言わずに立ち去ってもおかしくはなかった。が、やはり最後には聞き返した。
「できるの?」
「オレにはできない。頑張ったんだけどな、できなかった。時間が流れるのを止められないように……」
 さっきの子な、と光明は暖炉の火を見つめながら続けた。
 そのときには、もういづると飛縁魔は出て行ってしまった後だったが、光明は気にせずに炎に向かって呟いた。
 オレの許婚だったんだよ。

     


「ちょろいもんだなァ。土御門の野郎、かるーく泣き落として頭なでてやったら言うこと聞いたぜ」
 飛縁魔は花札の入った小箱をぽんぽんと真上に投げた。
「そんなことしてないしマジ泣き入ってたじゃないか。なにを言っているのかわからないよ。どうかしてるよ」
「お。あれがマジに見えたのか」
 飛縁魔は得意げに胸をそらす。
「演技に決まってんだろ。あんな安っぽい煽りで泣くかよ。男ってばかなんだな」
 いざそう言われてしまうといづるはぐうの音も出ない。男であるのも、ばかなのも事実だ。こんなときだけ女子の底知れなさをちらつかせるなんてずるい。天地神明に誓ってあれは本気のぐらつきだったといづるは思うが、鼻歌まじりで先をゆく飛縁魔の背中を追っていると、なんだか間違っていたのは自分のような気がしてくる。やはりずるい。
「そんなことよりさ」空中で小箱をぱしっと掴み、振り返る。
「おまえこそすげーハッタリかましたよな。あーゆーのブラフって言うんだろ。知ってるぞ」
「ああ……まあね。みっちゃん悪いやつには思えなかったから。口は悪かったけど。だから折れてくれると思ったんだよ」
「顔も悪いしな」と飛縁魔はそっぽを向く。それはないといづるは思うが口には出さない。飛縁魔よりも光明の方が女の子っぽいなどと言おうものなら両者から折檻されそうだ。
 戦装束や太刀をはがしてかんざしでも刺せば、飛縁魔も女の子らしくなるのだろうか。なかなか簡単には想像できなかった。そんな彼女も一度見てみたいが、時間と機会が残っているかはわからない。


 路地裏の迷宮から少し離れた通りに出た。妖怪たちがおのおのゴザをひいた上にホコリまみれのがらくたを並べている。フリーマーケットのような雰囲気だ。真贋不明の宝石や小刀からバラ売りの煙草、カラフルな錠剤が入ったパック、飲みかけのウィスキーボトルまである。ただし中に入っているのは毒々しい深緑色をした謎の酒だ。
 神話では、かの有名なヤマタノオロチは酒に酔ってるうちに倒されたわけだが、牛頭天王にはそんなチャチな戦術が通じるだろうか。足を止めてボトルを見つめていると飛縁魔が「それができたらラクだなァ」と言ってきた。いづるはなにも喋っていない。
「おまえさ、ガキの頃からギャンブルやってんの? そーとー慣れてるみたいだけど」
 アタッシュケースにぎっしり詰まったナイフセットを吟味しながら飛縁魔が聞いてきた。
「いや。始めたのは一年くらい前だよ。うちの高校にギャンブルクラブがあってさ、そこに入ったんだ」
 それまでは、まさか自分が賭け事に熱中するとは想像だにしていなかった。ギャンブルなんてものはほんのちょっぴり先の未来さえ空想できないバカが金と刺激の魔力に引き寄せられて墜ちていく地獄の詐欺だと思っていた。それは、一度も団体競技をやったことがない子供が、チームワークを理解できないのに似ていた。
「あたしそっちのことよくわかんないけど」
 飛縁魔は小さなトゲのたくさん生えたS字ナイフを物珍しそうに手首をひねって眺め回している。
「ギャンブルっていけないことなんだろ。学校でそーゆーのやってもいいのかよ? いいならあたし高校生になる」
「まあ、うちの高校は三角形の面積の出し方がわかれば入れるから姉さんでも大丈夫かもね」
「姉さんでもってなんだよ。それぐらいわかる。たてかけるよこかける高さだろ」
「二倍になってお得だね」いづるは最初から期待していないので微動だにしない。
「もちろん学校でそんなのやってるのがバレたら停学ものだけど、そんなの現金さえ学校で受け渡ししなければわかりゃしない。クラブの名前だって『バラエティゲーム倶楽部』って当たり障りのないものにしてたし。ちゃんと学園祭では古今東西のゲームについての発表までしたんだぜ? 校長からすごい誉められて……」
 飛縁魔がむっつりし始めたので、いづるは彼女の知らない単語を使うのを控えた。
「だから、とにかく、うまくやってたんだ。少人数で部室に集まってさ、暗幕のカーテンひいて電気つけて、遊ぶんだ。ロッカーをあければ部員が集めたゲームがごろごろしてる。トランプ、すごろく、ダーツ、ルーレット、チンチロリン、それに麻雀。一番でかいのでビリヤード台まであったなあ。それはさすがにロッカーに入りきらないから、ぜんぶ分解して立てかけてあったけどね」
 いづるはこの一年間を入り浸って過ごした学び舎を脳裏に思い描く。棚にはゲームのルールブックや戦術書が乱雑に突っ込まれて溢れ返り、テーブルには仲間たちが座ってカードにふけっている。誰でも知っているトランプを切っている時もあれば、見たこともない外国の占いに使うカードで遊んでいることもあった。いづるはダーツが苦手で、いつも投げるときにラインから足を踏み出しては怒られていた。
 愛すべき仲間たち。学校に隠れてバイトをこなし、ATMから札をおろしたその足で学校に来ては賭け、得、失う。バカなやつら。救えないやつら。そのどうしようもなさが、ただ楽しかった。
 もう彼らとあの黄金の時間に心熱くすることはない。永遠に。いづるは飛縁魔に気づかれないように、ポケットのなかでぎゅっと拳を握りしめた。刺すような痛みは訪れなかった。それもきっと、永遠に。
「いこうか」いづるは飛縁魔の手をひいた。
「ここにいたら賭けるはずの金を使っちゃいそうだし……姉さんが」
 最後の一言は当然小声だ。
 飛縁魔は名残惜しそうに色とりどりのナイフとそれを売るイタチ顔に流し目を送っていた。だが飛縁魔もわかっているのだろう。博打の初歩を。
 ギャンブルにおいて、金は弾丸。無駄に撃つバカは強者にはいない。決して。
 青空マーケットを抜けるときに振り返ると、イタチ顔はケースを畳んで帰り支度を始めているところだった。
「ちぇ」
「ナイフ、好きなの?」
「どーでもいいだろ。くそ、牛頭天王をぶっ飛ばして、おまえがチップに両替されたらそのカネで絶対買ってやる」
「勝てるといいね」
 飛縁魔は首を振った。
「勝つんだよ、絶対」
 そう願いたいのはいづるも同じだ。いまのところ、飛縁魔はいづるにとって、あの世で一番えこひいきしたい相手であるし、その彼女が喜ぶことは、いづるの目指すことである。だが、こんな暖かい夕日が終わらない街にも、現実は入り込んでくる。こと勝負にいたっては、なおさらだ。
 いづるは何かを探すように、仮面をあちこちに向けた。そしてぴた、とその動きが止まった。
「待ってて」
「え?」
 飛縁魔を通りの脇、電力が来ていない自販機のそばに留まらせ、いづるは一人の妖怪に話しかけた。いままで何度か横町をうろついていた、セーラー服を着た猫耳の妖怪だ。いづるは彼女ふさふさした耳に仮面を近づけ、手短に早口で囁く。
 猫娘はふんふんとうなずいていたが、やがて承諾したのかにこっと笑った。そして片手を差し出した。握手を求めているのではなかった。いづるはやれやれと肩をすくめる。
 地獄の沙汰も最後はやっぱりカネ次第だ。




 カネを払ってから飛縁魔の元に戻ると、着流しの男が去っていくところだった。狸ではない。うしろからは、銀髪の若い男に見えたが、その顔が人の顔をしているかどうかはわからない。だがいづるの脳裏をよぎったのは、豚だの犬だのではなく、秀麗な顔をした美丈夫だった。
 飛縁魔は笑顔で男の背中に手を振っていた。ご機嫌だ。戻ってきたいづるを見て、はけで払ったようにその顔から華やかさが消え、仏頂面になってしまった。
 じとっとした視線を浴びたいづるはわけもなく戸惑う。
「な、なに?」
 飛縁魔は、さっきまでいづると猫娘が立ち話していたあたりを顎でしゃくった。
「いまなに話してたんだよ?」と聞く口調はドスが効いていてとてもカタギの方とは思えない。いづるは両手を挙げた。
「べつになんでもないよ。世間話だよ」
「ふうん」
 その相槌から信頼の香りは一抹も漂ってこない。言いたくなければそれでいいが後で後悔するなよ、と無言で圧迫されているようで、いづるはカチンときた。
「そっちこそなんだよ。いまの誰?」
「関係ねえじゃん」飛縁魔は横顔を見せて、パタパタと手うちわで胸元を扇いだ。
「それともあたしは、いちいちなんでもかんでも、ぜーんぶおまえに自分がなにしてたか報告しなきゃいけないわけ? へえ? なんで?」
「なに怒ってるんだよ」
「怒ってねえよ。勝手にのぼせんなっての」
「――――」
「――――」
 二人は通りのど真ん中で、言葉を忘れたように見つめあった。何事かと周囲の妖怪や死人が好奇の視線を向けてくるが、飛縁魔の面と太刀を見るとそそくさと立ち去っていった。飛縁魔の悪名はこの赤い空に相当高くまで轟いているらしい。
 だいぶ長いことそうしていた。
 いづるは、肩を落として消え入りそうな声で言った。
「わかんないよ。言ってくれなきゃわからない」
「ふうん」
 飛縁魔は無表情に相槌を打ったが、それはさっきよりも柔らかいものだった。どういうわけか、彼女は感心しているようだった。
「おまえにもわかんねえことってあるんだ。なんでもお見通しって感じなのに」
「そんな風に見えてたの? かなり傷ついたんだけど」
「ははっ」
 その顔に張りめぐらされていた強張った力が、飛縁魔から消え去った。いづるが面食らうほどに、それから飛縁魔はいつもの調子を取り戻した。怖いくらい他愛のない話題を振ってくる飛縁魔になんとか受け答えしながらも、いづるの動揺は続いていた。 
 まったくもって何がなんだかわからないのだ。
 いづるは、胸の奥底から、ふるえる衝動が湧き起こってきて、強烈にゲームに没頭したくなった。ルールとテクニックとアンバランスな幸運と不運の揺れ動く波の狭間に身を委ねてしまいたい。こういう人と人の勝ちや負けのはっきりしない関係は、どうしていいかわからなくなって、生きている頃からずっと苦手なのだ。
 でも、なんとなくわかることもある。
 いまのやり取りで負けたのは、たぶん自分だ。

       

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