「ありがとうございました。お大事に」
受付の看護士の明るい声を背に、病院のドアを開けた。久しぶりの外の空気がとてもすがすがしく感じられる。窓を開けて吸った空気とは、一味違う。それを思い切り味わおうと、目いっぱい深呼吸をした。健全な空気が体内に満ちていくような喜びを、今始めて知った。
歩道の色とりどりのタイルや、駅のシンボルでもあるカラフルな塔時計に、街路樹の緑などの街の風景は病院の窓から飽きるほど見ていたのでそれほど感動はしなかった。
それからマーティは、どこへともなく歩いた。家へ帰っても誰も居ない。同じ会社に勤めている両親は、同時期に研修のため十日間は家を空けている。
どこかへ遊びに行こうかとも思ったが、金が無いという厳しい現実がそれを不可能と判断を下す。
「ゲームでもするか…」
一人呟いて駅へ向かって歩いた。が、しばらくして鞄の中の本の存在を思い出した。学校の図書館で借りた本だが、五冊とも返却期限が過ぎている。いずれも呼んでしまっているので、わざわざ家に持ち帰ることも無い。
予定を変更して、学校への道のりを歩き出した。さほど遠くもないし、ほかにやることも全く無いので、そのまま図書館で暇をつぶしていようかとさえ考えた。
街中は思っていたより人が少なかった事に驚いた。それでも多いことは多いのだが、そのいずれも顔の半分を覆うほどのマスクを着けていた。
なんとなくだが、理由はわかった気がした。
街道から見慣れた通学路に入った。そこでマーティはなんとなく走っていこうと思った。病み上がりのなまった体を試すような感覚で。
人が一人も居ないおかげで思い切り走れたのだが、普段より静かであるのを多少不気味に思った。
(不気味、ね…)
マーティはいったん足を止め、ふとそれを見た。一本道の先に厳重にフェンスで囲まれた白い建物がある。病院を思わせる作りだが、人気が無いのだ。警備員が巡回しているぐらいであの中へ誰かが出入りしているのを見たことが無い。
前に、いたずら半分であの建物へ侵入しようとした中学生たちが警察に捕まり、関係者から罵詈雑言を浴びせられた、という事があった。それ以来、近隣の住民からも気味悪がられていて、誰も近づこうとしない。
その建物は原子力についての研究所だと聞いている。だが、いくら重要な施設であるとはいえここまで外部に対する警戒を敷いているのはおかしいと思う。マーティも違和感を持っていたが、特に気にすることも無いだろうと思っていた。
なぜか気味が悪くなってきて、再び学校へと進んでいった。ほどなくして学校が見えた。数日ぶりに学校の門をくぐる。校庭では二年生が体育の授業をしているようだ。大勢でトラックを何週もしているようだ。誰もマーティに目を向けるものは居なかった。
校内に入っても、人は居なかった。時間帯からして授業中なので、当たり前なのだが。
「お、マーティじゃないか。久しぶりだな」
靴を履き替えてる途中、声をかけられた。
「やあ。久しぶり、先生」
声のほうを振り向くと、マイケルが笑顔で立っていた。白衣にノートブックを抱えているいでたちは、理科教師であることをそのまま表している。特徴的な短い金髪が映える男前な顔立ちで、女子生徒からの人気が高い。彼女が居る、と公言しているのだが。
「風邪はもうすっかり良くなったみたいだな」
「ええ、もうすっかり」
「そいつは良かったな。それで何しに来たんだ、ここに。家でゆっくりしてればいいのに」
マイケルが苦笑混じりに言った。
「本を返しに来たんです。もう全部読みましたし」
「へえ、あの分厚いのを全部読んだのか」
マイケルが半ば驚いたように言った。
「何もすることがありませんでしたから」
「今もそうだろう」
そして、マイケルが思いついたように言った。
「じゃあ、茶でも飲んでくか。どうせ暇なんだろ。今日は午前中だけで後は授業無いから余裕があるんだ。ゆっくりしてけよ」
旅行に参加できなかったマーティへの気遣いか、マイケルの態度がいつにも増して柔らかい。断る理由も無かったので、マーティはその好意に甘えることにした。
職員室には誰も居なかった。奥にある小部屋のソファにマイケルと向かい合って腰を下ろした。手前には小ぢんまりとしたテーブルがあり、その上の盆には大量のクッキーやチョコレートが盛られている。
「好きに食ってくれや。ああ、紅茶もあるぞ。飲むんならそのティーポットを使ってくれ」
マイケルは棚を指で指した。別に喉は渇いていなかったが、一応頂いておこうと思った。
「先生も飲みます?」
「ん、じゃあ貰おうか。えーっと、リモコンは…あった」
背後でテレビの起動音がした。二人分のティーカップを用意して、湯を注いだティーポットと共にテーブルに置いた。テレビを見ながら時折チョコレートを口に運ぶ。番組は再放送のドラマだったが、二人とも夢中になって見ていた。
「お、マイケル先生。くつろいでるねぇ」
作業着に身を包んだ男が入ってきた。浅黒い肌をして、黒髪の男はマーティを見ると、おや、と声を上げた。
「どうも、お疲れ様です」
「先生、その子はどうしたよ?」
ああ、と言ってマイケルはマーティの事を短くその男に説明した。
「なるほど、風邪でねえ。そいつは災難だったな」
その男はマイケルと同じ種類の苦笑を顔に浮かべた。
「俺はレイバースって名前だ。意外と知らない奴が多いんだよ。いつも用務員さんって呼ばれてるからな」
「すいません、僕も知りませんでした」
「まあ、そんなもんでしょう」
マイケルが笑い声を上げた。マーティも小さく笑った。
「全く、どいつもこいつも。いったい誰が中庭を掃除してると思ってんだ」
ぶつぶつ言いながらも、レイバースも笑っていた。
平和そのものだった。
「うん?」
ふと、マイケルが表情を変えた。
「どうしました?」
マーティが聞いた。
「なんか騒がしくないか?」
「騒がしいって…二年生じゃないのか?」
レイバースが言った。
「いや、違う。これは……街のほうか?」
テレビの音量を下げて、耳を澄ました。微かに、街の方角から喧騒が聞こえてくる。
「今日って何か特別なことでもありましたっけ」
「いや、違うだろう。これは…」
「おい、なんか悲鳴が聞こえないか?」
その言葉に、三人の間に緊張が走る。たしかに、ほんのわずかに怒号や叫びが聞き取れた。
「え、何だよこれ…」
『緊急速報です』
突如、テレビからアナウンサーの切迫した様子の声が飛び込んできた。驚いてテレビの方を向く。
『先ほどノーサイドA区警察署に、ロメロ病院で暴動が起こったと通報がありました。通報は数十件ほど殺到しており、現在情報の確認を…』
ロメロ病院。マーティが入院していた病院だった。
「え、何…」
マーティが呆然として呟く。信じられないといった思いでテレビに目が釘付けになる。
『現場のフィルマンです。ただいま通報のあったロメロ病院の前へと来ております。ご覧ください!人々が取り乱しながら逃げ回っております!いったい何があったのでしょうか?あの、すみません』
レポーターが病院から逃げてきたと思しき一人に声をかけた。
『お話を伺いたいんですが、一体何があったのでしょうか?』
『何があったって!とんでもないことさ!いや、本当に!』
白い入院着のままあわてて飛び出してきたのであろうか、見るからにその男は動揺していた。呂律の回らない滅茶苦茶な発音で言葉を撒き散らしている。
『きっと頭のおかしい奴だ!いや、絶対そうだ!たくさんたくさんゾロゾロとやってきて、いきなり襲ってきやがったんだ!食らいついてきたんだよ!上から!近くの奴を食いやがったんだ!何なんだよアイツ等!』
うろたえるレポーターに叫ぶようにまくし立てた男は、病院の入り口を見ると、悲鳴を上げて逃げていった。
男の見た方向には、数人の男女と思しき人影が、ゆっくりと歩いていた。狂ったように逃げ惑う群衆の中、彼らは遠巻きにされていた。明らかに人々が彼らを避けているのがわかる。その男女は、レポーターの方へゆっくりと歩いてきているように見えた。
レポーターも危険を感じたらしい。
『い、以上で中継を終わりにします!』
言い終わらないうちに、レポーターは近づいてくる男女に背を向けてどこかへと走っていった。その後にあわててカメラマンたちも続く。
画面が切り替わった。
「あ、駅だ…」
今度は、マーティが一時間ほど前に向かおうとした駅の様子がテレビに映し出されていた。画像が乱れていてよく分からなかったが、シンボルの塔時計がかろうじて見て取れた。
『現場からです!突然、地下鉄の構内から暴徒が出現した模様です!警察隊が現場に駆けつけ、事態の収拾を図ろうとしております!』
駅は病院と比較にならないほど騒々しかった。地下鉄であるのが災いして、より一層事が重大化しているようだ。
「先生、何これ…」
「分からない。でも、これは危険だぞ…」
テレビに映る見慣れた風景の騒ぎが、現実味を欠いているように思える。
乾いた音が、数回響いた。
『あっ…。警察官の一人が発砲しました!威嚇射撃でしょうか!それとも…』
『さっきからうるせーんだよテメーら!早く散りやがれ!邪魔だ!』
ひときわ大きな声で実況するレポーターに、警察官達が罵声を浴びせた。
発砲、と言う単語とそれに続く音に、不安が見る見るうちに影を濃くしていく。
「レイバースさん、今すぐ全校生徒にお願いします」
「ああ、全校放送だな。分かった」
マイケルの要領を得ない指示にも、その意図を察したようにレイバースは走っていった。
「マーティ、君も早く用事とやらを済ませろ。今のを見ただろう。かなり危険な状態だ」
「は、はい」
あわてて椅子から立ち上がり、本来の目的を思い出したマーティは図書館へと駆けていった。
それを見送って、マイケルはただ一人職員室の中にたたずんでいた。
「いや、まさかな…」
テレビに映っているものを、信じたくないといったように頭を振る。
「そんなはずは無い…絶対…。そんなはずは…」
テレビに一瞬映ったもの。あの、生気の無いどろんとした目。
それらを頭から追い出そうと、マイケルはティーカップに紅茶を注いで、一気に飲み干した。紅茶はすっかりぬるくなっていた。
BIOHAZAED O(オリジナル)
朝方の異変
図書館には誰も居なかった。本来は居るはずの担当の先生も何故か姿が見えない。
「変だな、先生ぐらいは居てもいいはずなのに…」
受付カウンターの黒板には“エレン・ローランドは出張”のプレートが下がっていた。
マーティは鞄から出した本を半ば放り出すように置いた。図書委員が片付けるだろう、と思ったのだ。
ピンポンパンポン。スピーカーから大音量のメロディが流れてきた。
「レイバースさんか・・・」
メロディの後に、レイバースの声が聞こえてきた。
『えー、全校生徒にお知らせします。全校生徒にお知らせします。各クラスの皆さんは、授業中であるがもしれませんが、授業を中止し、体育館へ集合してください。先生方は、生徒の引率をお願いします。繰り返します…』
おそらく、この放送で一時は騒然となるだろう。落ち着いた行動が出来ない生徒も居るかもしれない。校内から何か起こらないかと、マーティは一抹の不安を抱いた。
窓を開けると、騒々しさがより大きくなっているのが分かる。時折、発砲音まで喧騒に混じって聞こえてきた。
「嘘だろ。ホントに銃使ったのか?」
テレビ越しにその音を聞いたときは何かの間違いだと心のどこかで思っていたが、それははっきりと聞こえた。おそらく警官が発砲したのだろう。銃を使うような、何か大変なことが起きている。マーティはそう認識して、いよいよこの状況に危機感を覚えた
ふと、校庭の人影が視界に入った。改めてよく見ようと、目を凝らしてそれを見る。その姿を認めたとたん、マーティは目の前に見えるものが現実かと一瞬目を疑った。
「…何だ、あれ」
自分の目が信じられなかった。
数十人の人間がまばらになって校舎に向かって歩いてきている。ふらふらとしたおかしな足取りで、街での騒ぎの中あわてた様子も無く、ゆっくりと歩を進めている。それらが近づくにつれて、その一人一人の姿を判別することが出来た。
その中の一人の男は、明らかに首がおかしな方向へ曲がっていた。その後ろの女は、腹部の辺りを深紅に染めて、またある一人はところどころに傷が…
少なくとも、その集団の中に傷ついていない者は居なかった。それどころか、素人目からしても確実に致命傷を負っていると分かる者が数人は居る。それほどの傷を受けていながらも、この校舎を目指している。
まるで、ゾンビのようだと思った。
「おい、放送が聞こえただろ!早く来い!」
男子生徒が慌てた様子でマーティに近づいてきた。マーティはその男子生徒に、窓を指し示した。
「あ?どうかし……」
窓からそのおかしな集団を見たであろう男子生徒は、マーティに言った。
「何、アレ」
「分かりませんよ。あ、入ってきた…」
二人して呆然としていると、突然、女子の金切り声が響いてきた。マーティ達はビクッと、身を震わせた。
「ちょっと待てよコレ、冗談抜きにまずいだろ。何だよおい」
男子生徒がぶつぶつと呟きだした。
「あ、そうだ!体育館!」
マーティがドアに向けて走った。男子生徒もその後に続いて走る。
「ちょっと待て!今の悲鳴、体育館の方から聞こえなかったか!?」
ハッとしてマーティが立ち止まる。
「ホントにどうしたんだよ。何か知ってるかお前」
男子生徒が狼狽の表情をたたえて言った。
「知りませんよ」
「さっきの奴らなんだ?あいつらすげえ怪我してたぞ。つーか、何かおかしいって。何でこっちくんの」
「知りませんよ」
「てか、体育館何かあったのか?ちょっと行ってみようぜ」
「知りませんよ」
「そう言うなよ。なあ、お前も」
ガラスの割れるあの音が何処かから聞こえた。それも、一回や二回ではなく、立て続けに。
「…まあ、とりあえず外行こうぜ。みんないるかもしんねえし」
「…はい」
図書館をを出た。とりあえず一旦外へ出るということになったのだが、たったさっき見たが昇降口から入ってくるのを見て、やっぱり玄関から出て行きたくないとの躊躇いが浮かんできた。
隣の男子生徒も同じ考えをしているらしく、
「どっかの窓から出ようぜ」
と言っている。もしかしたら、この男子生徒と同じ考えの者がガラスを割ったのかもしれない。そう考えながら、下へと続く階段を二段飛ばしながら降りていった。
「そういや、名前聞いてなかったな。俺はカレルって言うんだ。お前は?」
「マーティです。宜しく」
それきり話題は途絶えた。一階へ差し掛かるあたりで誰かが走ってくるような音が聞こえてきた。
「あ、誰だろ。おーい」
カレルが廊下へ飛び出した。走っているのが顔見知りの者とは限らないのに、まるで警戒していないようだ。
「うわっ!誰だお前!」
聞き覚えのある驚きの声が聞こえてきた。
「なんだ、先生か…」
緊張を解いてマイケルに話しかけようと思い、廊下へと出た。
「せんせ…」
マイケルがマーティの横を勢い良く走り抜けた。
「おい、お前らも速く逃げろ!」
マイケルの声があまりよく聞こえなかった。カレルも目の前のものを見て固まっている。
血まみれの人間が数人、腕をだらしなく突き出して歩いてきている。間違いなく校舎の中に入ってきたあのゾンビのような集団の一部だと分かった。
事実、彼らの姿はゾンビそのものだと言うしかなかった。
「うわああああああ!!」
二人とも一目散に逃げ出した。マイケルがひとつの教室に入っていくのが見えた。そこへ飛ぶようにして駆け込んだ。
「おい、手伝ってくれ!」
部屋に入るなりマイケルが椅子やら何やらを入り口の前に積み始めた。マーティたちも手近にあるものを入り口に出来るだけ密集するように置いた。部屋には四人居るが、その中に一人見覚えのある顔があった。
「用務員さん…」
「レイバースだ!」
ソファを抱えた体勢でレイバースが吼える。
「よし、この位でいいでしょう。用務…レイバースさん、これをそっちに」
マイケルがソファを最後の隙間に置いて、バリケードが完成した。
「これで入ってこれないだろう。多分…いや、絶対」
ようやく落ち着いたとでも言うように、マーティたちは腰を下ろした。
それから、しばらく息の長い沈黙が続いた。
「ところでさ」
カレルが口火を切った。
「あいつら何?」
「分からんよ。奴ら、いきなり襲い掛かってきたんだ」
「ああ、そうだ。体育館に避難してたら、ドアや窓をぶち破って大勢入ってきたんだ。みんな外に逃げようとするやら襲われるやら、とにかく大変だったよ」
レイバースが懐を手で探りながら言った。
「マイケル先生、煙草持ってないか?」
「いいえ…」
「じゃあ、そこの二人」
もちろん持っていないとマイケルが言いかけたが、
「あ、俺持ってますよ」
カレルが制服のポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。
「お前、煙草吸ってやがったのか。校則違反だぞ」
「いや、これ拾ったんですよ。途中で」
マイケルに睨まれて、慌ててカレルが弁解する。
「おお。これ俺のだ。どっかで落としてたのか」
レイバースがくしゃくしゃの煙草の箱から煙草を一本取り出し、ライターで火をつけた。
「先生も一本、どうだい?」
「いや、僕は吸いません」
「じゃあ、そこの二人」
もちろん、マイケルは吸いませんと言いかけたが、
「じゃあ、俺」
「やっぱ吸ってんじゃねーか!」
煙草に手を伸ばしかけたカレルが、マイケルに思い切り頭をはたかれた。
「おいおい、静かにしてくれよ。奴らに気づかれるぞ」
レイバースが声を潜めて言った。それに気づいて、
「いや、すんません」
と、マイケルも小声で言った。
「まあ、話がそれたけど。奴らの正体は何がなんだかさっぱりなんだ」
「そうですか。あいつらの中に、ものすごく怪我をしてる奴らとか居ませんでしたか?」
マーティは、図書館の窓から見たものを思い出した。
「怪我か。ああ、いたよ。まるで、ゾンビみたいな姿だったよ」
「ゾンビ…。そうですよ!あいつらってゾンビじゃないですか!?」
カレルが興奮した様子で言った。
「馬鹿、声が大きい!いや、でも。確かに…。ゾンビとしか言いようが無かった」
マイケルが呟くように言った。
「ゾンビ、ね。なるほど、確かに合っている」
「ゾンビか…」
正体不明の化け物たちの、呼称が全員一致で決まった。
「で、そのゾンビだけどさ。話は…通じませんよね」
「当たり前だろ。話しかけようとしてもただ手を伸ばして近寄ってくるだけだよ」
「椅子や何かとかで威嚇は…」
「駄目だあいつら。殴るようなそぶりを見せてもかまわずに近寄ってくる。というか、一回殴ったんだよ。椅子で」
「え、殴ったんですか」
マーティが眉をひそめる。
「だが、痛がる様子を見せなかった。腹の辺りに思いっきり叩き込んだんだが…」
マイケルも気味悪げに言った。
「いや、奴らに遠慮はいらない。近寄ってきたらぶっ殺せばいいんだ」
驚いて声の方を振り返る。このように物騒なことを言ったのはレイバースだった。煙草をくゆらせながら、遠い目で天井を見つめている。
「いや、殺すって…」
カレルも躊躇いがちにに言った。
「殺さなきゃ、殺される。あいつらに襲われた奴は、多分もう死んでるよ」
レイバースが冷たく言い放った。その言葉に、マーティは悪寒が走った。
「ちょっと待って。電話で連絡を…」
カレルは携帯を操作して、友人と連絡を取ろうと試みた。耳を携帯電話に当て、友人の声を今か今かと待ち構えている。何回かそれを繰り返し、虚しい時間が流れた。
「誰も出ない…」
そう呟いて、それきりカレルは押し黙ってしまった。
この部屋を沈黙が支配した。何を言おうにも、この重い空気の中で掻き消されるような沈黙だった。
しばらくはこの状態が続いたが、この空気を引き裂く声が意外な方向から聞こえた。
「三人とも、これを見てくれ」
いつの間にか居なくなっていたマイケルが突然現れ、一抱えもある大きな木箱を慎重に置いた。その木箱を見て、レイバースが
「ああ、これは昨日のときの…」
と、言った。
「ええ。昨日の朝、裏にあったものを預かっておいたんです」
マイケルが言った。
「それで、その箱に何が入ってるんだ。あの糞ゾンビたちをぶっ殺すためのもんでも入ってんのか?」
カレルの目付きが変わっている。表情も心なしか険しくなっているように見える。
「正解だ、カレル君」
マイケルが箱の蓋を開けた。
中身を見て、三人ほぼ同時に驚きの声を上げた。
「さすがに驚いたよ。まさかこの中に銃火器が入ってるなんて。本当に予想もしてなかったから…」
木箱には所狭しと黒く光る凶器が詰まっている。
「銃?うそ…」
呆然と、マーティは箱の中の凶器を見つめていた。
「残念ながら本物だ。いや、残念じゃない。それどころか、この状況においてはとてつもなく有難いプレゼントだ」
その言葉の意味を理解するのに数秒もかからなかった
「使うんですか?これを…」
「それ以外に何があるんだ」
カレルが戸惑いがちに言った。その様子を見て、マイケルが決定的な一言をカレルに言った。
「あいつらは人間じゃない」
続いて、レイバースも言った。
「そうだ。奴らは人間を食ってたんだ。」
「食ってた…?」
「ああ。倒れてて動けない奴を、数人がその上に覆いかぶさって…」
レイバースが箱から拳銃を取り出して眺めた。
しばらく呆然としていたが、
「あいつら、殺してやる…」
と、カレルもレイバースに続いた。
マイケルが、マーティの肩に手を置いて、言った。
「銃の使い方は知ってるか?」
当然のようにマイケルが話しかける。
「ええ、当然です」
はっきりと、確固たる決意を込めて言った。
「いいか。あのゾンビ野郎どもを人間だと思うな。遠慮なく殺してやれ」
マイケルが最後に言った。黙々とゾンビへ対抗するための準備が進み始めていた。
「変だな、先生ぐらいは居てもいいはずなのに…」
受付カウンターの黒板には“エレン・ローランドは出張”のプレートが下がっていた。
マーティは鞄から出した本を半ば放り出すように置いた。図書委員が片付けるだろう、と思ったのだ。
ピンポンパンポン。スピーカーから大音量のメロディが流れてきた。
「レイバースさんか・・・」
メロディの後に、レイバースの声が聞こえてきた。
『えー、全校生徒にお知らせします。全校生徒にお知らせします。各クラスの皆さんは、授業中であるがもしれませんが、授業を中止し、体育館へ集合してください。先生方は、生徒の引率をお願いします。繰り返します…』
おそらく、この放送で一時は騒然となるだろう。落ち着いた行動が出来ない生徒も居るかもしれない。校内から何か起こらないかと、マーティは一抹の不安を抱いた。
窓を開けると、騒々しさがより大きくなっているのが分かる。時折、発砲音まで喧騒に混じって聞こえてきた。
「嘘だろ。ホントに銃使ったのか?」
テレビ越しにその音を聞いたときは何かの間違いだと心のどこかで思っていたが、それははっきりと聞こえた。おそらく警官が発砲したのだろう。銃を使うような、何か大変なことが起きている。マーティはそう認識して、いよいよこの状況に危機感を覚えた
ふと、校庭の人影が視界に入った。改めてよく見ようと、目を凝らしてそれを見る。その姿を認めたとたん、マーティは目の前に見えるものが現実かと一瞬目を疑った。
「…何だ、あれ」
自分の目が信じられなかった。
数十人の人間がまばらになって校舎に向かって歩いてきている。ふらふらとしたおかしな足取りで、街での騒ぎの中あわてた様子も無く、ゆっくりと歩を進めている。それらが近づくにつれて、その一人一人の姿を判別することが出来た。
その中の一人の男は、明らかに首がおかしな方向へ曲がっていた。その後ろの女は、腹部の辺りを深紅に染めて、またある一人はところどころに傷が…
少なくとも、その集団の中に傷ついていない者は居なかった。それどころか、素人目からしても確実に致命傷を負っていると分かる者が数人は居る。それほどの傷を受けていながらも、この校舎を目指している。
まるで、ゾンビのようだと思った。
「おい、放送が聞こえただろ!早く来い!」
男子生徒が慌てた様子でマーティに近づいてきた。マーティはその男子生徒に、窓を指し示した。
「あ?どうかし……」
窓からそのおかしな集団を見たであろう男子生徒は、マーティに言った。
「何、アレ」
「分かりませんよ。あ、入ってきた…」
二人して呆然としていると、突然、女子の金切り声が響いてきた。マーティ達はビクッと、身を震わせた。
「ちょっと待てよコレ、冗談抜きにまずいだろ。何だよおい」
男子生徒がぶつぶつと呟きだした。
「あ、そうだ!体育館!」
マーティがドアに向けて走った。男子生徒もその後に続いて走る。
「ちょっと待て!今の悲鳴、体育館の方から聞こえなかったか!?」
ハッとしてマーティが立ち止まる。
「ホントにどうしたんだよ。何か知ってるかお前」
男子生徒が狼狽の表情をたたえて言った。
「知りませんよ」
「さっきの奴らなんだ?あいつらすげえ怪我してたぞ。つーか、何かおかしいって。何でこっちくんの」
「知りませんよ」
「てか、体育館何かあったのか?ちょっと行ってみようぜ」
「知りませんよ」
「そう言うなよ。なあ、お前も」
ガラスの割れるあの音が何処かから聞こえた。それも、一回や二回ではなく、立て続けに。
「…まあ、とりあえず外行こうぜ。みんないるかもしんねえし」
「…はい」
図書館をを出た。とりあえず一旦外へ出るということになったのだが、たったさっき見たが昇降口から入ってくるのを見て、やっぱり玄関から出て行きたくないとの躊躇いが浮かんできた。
隣の男子生徒も同じ考えをしているらしく、
「どっかの窓から出ようぜ」
と言っている。もしかしたら、この男子生徒と同じ考えの者がガラスを割ったのかもしれない。そう考えながら、下へと続く階段を二段飛ばしながら降りていった。
「そういや、名前聞いてなかったな。俺はカレルって言うんだ。お前は?」
「マーティです。宜しく」
それきり話題は途絶えた。一階へ差し掛かるあたりで誰かが走ってくるような音が聞こえてきた。
「あ、誰だろ。おーい」
カレルが廊下へ飛び出した。走っているのが顔見知りの者とは限らないのに、まるで警戒していないようだ。
「うわっ!誰だお前!」
聞き覚えのある驚きの声が聞こえてきた。
「なんだ、先生か…」
緊張を解いてマイケルに話しかけようと思い、廊下へと出た。
「せんせ…」
マイケルがマーティの横を勢い良く走り抜けた。
「おい、お前らも速く逃げろ!」
マイケルの声があまりよく聞こえなかった。カレルも目の前のものを見て固まっている。
血まみれの人間が数人、腕をだらしなく突き出して歩いてきている。間違いなく校舎の中に入ってきたあのゾンビのような集団の一部だと分かった。
事実、彼らの姿はゾンビそのものだと言うしかなかった。
「うわああああああ!!」
二人とも一目散に逃げ出した。マイケルがひとつの教室に入っていくのが見えた。そこへ飛ぶようにして駆け込んだ。
「おい、手伝ってくれ!」
部屋に入るなりマイケルが椅子やら何やらを入り口の前に積み始めた。マーティたちも手近にあるものを入り口に出来るだけ密集するように置いた。部屋には四人居るが、その中に一人見覚えのある顔があった。
「用務員さん…」
「レイバースだ!」
ソファを抱えた体勢でレイバースが吼える。
「よし、この位でいいでしょう。用務…レイバースさん、これをそっちに」
マイケルがソファを最後の隙間に置いて、バリケードが完成した。
「これで入ってこれないだろう。多分…いや、絶対」
ようやく落ち着いたとでも言うように、マーティたちは腰を下ろした。
それから、しばらく息の長い沈黙が続いた。
「ところでさ」
カレルが口火を切った。
「あいつら何?」
「分からんよ。奴ら、いきなり襲い掛かってきたんだ」
「ああ、そうだ。体育館に避難してたら、ドアや窓をぶち破って大勢入ってきたんだ。みんな外に逃げようとするやら襲われるやら、とにかく大変だったよ」
レイバースが懐を手で探りながら言った。
「マイケル先生、煙草持ってないか?」
「いいえ…」
「じゃあ、そこの二人」
もちろん持っていないとマイケルが言いかけたが、
「あ、俺持ってますよ」
カレルが制服のポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。
「お前、煙草吸ってやがったのか。校則違反だぞ」
「いや、これ拾ったんですよ。途中で」
マイケルに睨まれて、慌ててカレルが弁解する。
「おお。これ俺のだ。どっかで落としてたのか」
レイバースがくしゃくしゃの煙草の箱から煙草を一本取り出し、ライターで火をつけた。
「先生も一本、どうだい?」
「いや、僕は吸いません」
「じゃあ、そこの二人」
もちろん、マイケルは吸いませんと言いかけたが、
「じゃあ、俺」
「やっぱ吸ってんじゃねーか!」
煙草に手を伸ばしかけたカレルが、マイケルに思い切り頭をはたかれた。
「おいおい、静かにしてくれよ。奴らに気づかれるぞ」
レイバースが声を潜めて言った。それに気づいて、
「いや、すんません」
と、マイケルも小声で言った。
「まあ、話がそれたけど。奴らの正体は何がなんだかさっぱりなんだ」
「そうですか。あいつらの中に、ものすごく怪我をしてる奴らとか居ませんでしたか?」
マーティは、図書館の窓から見たものを思い出した。
「怪我か。ああ、いたよ。まるで、ゾンビみたいな姿だったよ」
「ゾンビ…。そうですよ!あいつらってゾンビじゃないですか!?」
カレルが興奮した様子で言った。
「馬鹿、声が大きい!いや、でも。確かに…。ゾンビとしか言いようが無かった」
マイケルが呟くように言った。
「ゾンビ、ね。なるほど、確かに合っている」
「ゾンビか…」
正体不明の化け物たちの、呼称が全員一致で決まった。
「で、そのゾンビだけどさ。話は…通じませんよね」
「当たり前だろ。話しかけようとしてもただ手を伸ばして近寄ってくるだけだよ」
「椅子や何かとかで威嚇は…」
「駄目だあいつら。殴るようなそぶりを見せてもかまわずに近寄ってくる。というか、一回殴ったんだよ。椅子で」
「え、殴ったんですか」
マーティが眉をひそめる。
「だが、痛がる様子を見せなかった。腹の辺りに思いっきり叩き込んだんだが…」
マイケルも気味悪げに言った。
「いや、奴らに遠慮はいらない。近寄ってきたらぶっ殺せばいいんだ」
驚いて声の方を振り返る。このように物騒なことを言ったのはレイバースだった。煙草をくゆらせながら、遠い目で天井を見つめている。
「いや、殺すって…」
カレルも躊躇いがちにに言った。
「殺さなきゃ、殺される。あいつらに襲われた奴は、多分もう死んでるよ」
レイバースが冷たく言い放った。その言葉に、マーティは悪寒が走った。
「ちょっと待って。電話で連絡を…」
カレルは携帯を操作して、友人と連絡を取ろうと試みた。耳を携帯電話に当て、友人の声を今か今かと待ち構えている。何回かそれを繰り返し、虚しい時間が流れた。
「誰も出ない…」
そう呟いて、それきりカレルは押し黙ってしまった。
この部屋を沈黙が支配した。何を言おうにも、この重い空気の中で掻き消されるような沈黙だった。
しばらくはこの状態が続いたが、この空気を引き裂く声が意外な方向から聞こえた。
「三人とも、これを見てくれ」
いつの間にか居なくなっていたマイケルが突然現れ、一抱えもある大きな木箱を慎重に置いた。その木箱を見て、レイバースが
「ああ、これは昨日のときの…」
と、言った。
「ええ。昨日の朝、裏にあったものを預かっておいたんです」
マイケルが言った。
「それで、その箱に何が入ってるんだ。あの糞ゾンビたちをぶっ殺すためのもんでも入ってんのか?」
カレルの目付きが変わっている。表情も心なしか険しくなっているように見える。
「正解だ、カレル君」
マイケルが箱の蓋を開けた。
中身を見て、三人ほぼ同時に驚きの声を上げた。
「さすがに驚いたよ。まさかこの中に銃火器が入ってるなんて。本当に予想もしてなかったから…」
木箱には所狭しと黒く光る凶器が詰まっている。
「銃?うそ…」
呆然と、マーティは箱の中の凶器を見つめていた。
「残念ながら本物だ。いや、残念じゃない。それどころか、この状況においてはとてつもなく有難いプレゼントだ」
その言葉の意味を理解するのに数秒もかからなかった
「使うんですか?これを…」
「それ以外に何があるんだ」
カレルが戸惑いがちに言った。その様子を見て、マイケルが決定的な一言をカレルに言った。
「あいつらは人間じゃない」
続いて、レイバースも言った。
「そうだ。奴らは人間を食ってたんだ。」
「食ってた…?」
「ああ。倒れてて動けない奴を、数人がその上に覆いかぶさって…」
レイバースが箱から拳銃を取り出して眺めた。
しばらく呆然としていたが、
「あいつら、殺してやる…」
と、カレルもレイバースに続いた。
マイケルが、マーティの肩に手を置いて、言った。
「銃の使い方は知ってるか?」
当然のようにマイケルが話しかける。
「ええ、当然です」
はっきりと、確固たる決意を込めて言った。
「いいか。あのゾンビ野郎どもを人間だと思うな。遠慮なく殺してやれ」
マイケルが最後に言った。黙々とゾンビへ対抗するための準備が進み始めていた。