人生ビギナー
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人生は一度きり。
たった1度しかない人生だから、大切に生きたい。
そんな思いを胸に、23年間生きてきた。
いや、そんな考え方になったのは10年くらい前からかな。
きっかけは、よく遊びに行っていた公園であったおっちゃん。
当時は何も考えず接していたが、成長するにつれておっちゃんの姿は人生を捨ててしまった者の
末路なのだろうと理解した。
たった1度しかない人生を。
名前も歳もしらなかったけど、暇な時はよく会いに行っていた。
おっちゃんはいつも俺に話をしてくれたっけ。
詳しい話は思い出せないけど、おっちゃん曰く「何もしなかったら、いつのまにかこんな風になっちまった」らしい。
そんなおっちゃんが俺によく言った言葉は。「結局はさ、一人ぼっちなんだよな。俺もお前も。」
その頃は理解出来なかったけど、今ならなんとなくわかる気がする。
多分自分以外は結局のところ他人なんだから、本当の意味で他人じゃない人間なんていない。
とか、そんなところだろう。
よほど他人に裏切られて生きてきたのかどうなのか分からないけど、俺が今まで生きてきた経験上は、
そんなこと無いって思う。
だって――
「いや、ちがうな。」
ビクッ!
俺の心の声を読んだかのような一声によって現実に戻された俺は、
その言葉が自分に向けられたものでは無いと思いつつも、視線だけを声の方向に向けていた。
池袋の駅にある喫煙所。
俺以外も数人の人々がいるが、会話はしていなかった。
その声の出所は案外近く、というか俺の真横に立っていた。
もう6月になろうというのに、茶色のコートを羽織った30代と思われる男がそこに立っていた。
髪はぼさぼさで、しばらく手入れをしていないように見える。
視線はこっちを向いている。
もしかして俺に言ったのか?
そんな考えが頭を過ったと同時に発せられた、先ほどと同じ持ち主の声。
男「そうだよ」
俺は声など発していない。
...俺の心が読めるのか?
男「ああ」
発してはいないが、『会話』は成立している。
男「混乱しないでくれ、山ノ井 当矢。俺はただ話がしたいだけだ。」
俺は自分の名前など頭に浮かべてはいないし、世間にしれわたった有名人でもない。
山ノ井 当矢 23歳。 初めて超能力に遭遇する。
なんてな、一体どんなトリックを使っているんだか。
山ノ井「...いや、自分でもびっくりなほど落ち着いていましてね。ちょっとココから出ましょうか」
言い終わった後、俺は男の返答は聞かず、直にタバコの火を消し立ち上がった。
そんなトリックを使ってまで話したい事とは一体どんな事なのだろうか。
少しだけ興味を持った俺は、もう少しだけこの茶番につきあうことにした。
喫煙所からすこし離れたところに立っている電柱に寄りかかり、フッとため息をついた。
山ノ井「それで、超能力者さんが何のご用でしょう?」
男 「少々長くなるが、いいか?」
山ノ井「いえ、休憩時間も短いので手短にお願いします」
男 「時間なら気にしなくていい。」
パチンッ
男が指を鳴らすと、それ以降全ての音が消え去った。
というより、全ての動きが止まった。人も、車も...中に舞う紙きれですらそこで静止していた。
山ノ井「時間を止められるのか?!」
あまりに異質な世界を前に、俺は興奮を抑えきれなかった。
男 「それだけじゃないがな。さて、話をしよう。」
山ノ井「あ...はいッ!」
先ほどの読心なんて曖昧なものとは違う、ハッキリと見せつけられた能力に、俺は
大きな好奇心を抱いていた。
男 「とりあえず聞くが、お前...まだ1回目だよな?」
山ノ井「...は?」
まったく主語のない質問。答えられるわけがない。
男 「人生だよ。まだ一回目だよな?」
山ノ井「いや...その、おっしゃられている意味がよく分かりませんが。」
男 「いや、その反応だけで十分だ。」
なんなんだ?
当然だろう、人生は1回だけだ。死んで生き返ることが出来るなら、
俺の祖父だって会いに来てくれるはずだ。
というか、この男は誰なんだ?何故俺に関わってきた...
男 「そうか忘れていたな。俺の名前は雨宮 純。まぁ、無職だ。」
当然だ。俺だってこんな力持ってたら絶対働かない。なんだって出来るじゃないか。
雨宮 「さて、ビギナー。この世界について聞きたいなら教えてやるよ?」
山ノ井「聞きます!教えてくださいッ!俺にもこんな能力があるんですか?!」
雨宮はコートのポケットから手を出し、近くで静止した女子高生の元へ歩み寄った。
雨宮 「...無理。」
と同時に、女子高生のスカートを思いっきりめくりあげた。しまパン。
だがそんなパンツの柄など今の俺に興味はなく、それよりも自分には能力が無い事に落胆した。
雨宮 「ま、そう落ち込むな。一回人生を終わらせれば手に入るさ。」
こちらには振り向かず、その場で寝ころんでスカートの中を覗きながら、そう答えた。
山ノ井「終わらせる?死ねってことですか?」
雨宮はなにも答えない。ニヤニヤしているだけだ。
雨宮 「...自殺はなしだぜ?今死のうとか考えたろ。」
心を読まれるってのは、異様に気分が悪い。
バイキングで食いすぎた後の胃もたれによく似ている。
雨宮 「この世界はな、神様が作った世界なんだ。」
山ノ井「神様?」
超能力を見せられた後だと、妙な説得力がある。
雨宮は立ち上がり、女子高生を地下鉄へとつながる通気口の上へ移動させた。
一瞬で消えたかと思えば、その場へと移動している。空間移動だ。
だが、俺は時間停止を見せつけられた時程の衝撃は受けなかった。
ただただ羨ましいという思いが俺の胸に湧き上がる。
すると雨宮は、静止した人ごみの中をうろうろと歩き始めた。
雨宮 「神が作った箱庭で暮らしていた人間は、次第にそこには無かったものを作り出し、
箱庭自体を壊し始めた。」
うろうろと歩く雨宮について行きながら、話を聞きもらすまいと耳を傾ける。
雨宮 「神は怒り、その箱庭を叩き潰した。」
足をとめる雨宮。目の前には俺の務める印刷会社が立っている。
雨宮 「でもな、それでも神様は気が治まらなかったんだな。」
振り向き、ニヤッと笑いながら俺の肩に触れる。
雨宮 「神は再び同じ箱庭を作り上げ、何度でも叩き潰した。」
一瞬目蓋の奥で火花が散るような感覚があったかと思うと、そこは会社の社長室だった。
空間移動まで出来るのか...
雨宮 「それが俺たちのいる世界だ。」
社長室の椅子にドカッと腰をかけ、そう言い放った。
山ノ井「それじゃぁ俺たちはこれから何度も滅亡し、また人生をやり直すのか...」
雨宮 「そう。まったく同じ時代を繰り返し、な。」
山ノ井「そういえば雨宮さん。貴方は何度その経験をしたんですか?」
雨宮は椅子から立ち上がり、俺の元へと近づいてきた。
ニッと歯を見せて笑う。
雨宮 「100から先は数えてないな。」
その言葉を聞いた直後、またしても火花が散り、気がつくと俺は会社の前に立っていた。
ガヤガヤガヤ...
俺の周りの人々は歩きだし、風が俺の頬をなでる。
先ほどまで一緒にいた雨宮の姿は無く、なぜか俺の手の中にはしまパンが握らされていた。
山ノ井「...夢じゃない。」
雨宮の言う箱庭が壊される時は何時なのか、何故彼はそのことを知っているのか、
聞きたいことは山ほどある。
後ろから女性の悲鳴が聞こえた。おそらくこのパンツの持ち主であろう。
だが左腕に付けた腕時計の指す時間を見て、いまやるべきことは考えることではなく歩くことだと思いだした。
遅刻するわけにはいかないな。超能力者と話してました...なんて通用しないだろうし。
俺はしまパンをしっかりポケットのなかに入れ、自分の部署へと帰って行った。
来栖 「おい山ノ井。何故だかわからんが社長に呼ばれていたぞ。」
俺が職場に駆け足で戻るなり、突然に声をかけられた。
こいつは来栖 清二。俺の同期でお互い独り身ということもあってか、
妙に共感する所が多く、なんだかんだよくつるんでいる。
山ノ井 「社長が?...な、なんでまた俺を?!」
まさか...もうクビなのか?!
来栖 「さぁな...まぁそんな怒った様子じゃなかったけど。」
来栖はどこぞの外人のように手を広げて首を横に振る仕草をみせる。
山ノ井 「...まぁ、とりあえず行ってくる。」
自分の席に荷物を置き、社長室へと向かう。
まさか雨宮に連れて行かれた社長室で何か俺の持ち物を落としていたとか?
そんな考えが俺の頭をよぎり、歩きながらも急いで自分の持ち物を確認する。
ポケット...よし。鞄は...糞ッ!置いてきたか。
とりあえず覚悟を決めるしかない。
俺の目の前には、いつの間にか社長室への扉があった。
その扉は今まで開けてきた扉のどれよりも重かった。
ギギギッ...
山ノ井 「失礼しまッ...」
俺の言葉は最後まで発せられる事は無かった。
でも、なんでだ。そんなことが出来るはずがないッ!ありえない...
雨宮 「はははっ...まぁ楽にしてくれよ。」
社長室の椅子に座っていたのは...雨宮 純。
先ほどと何も変わっていない格好で、机に足をかけ、ふんぞり返っている。
山ノ井 「なんでお前がその椅子に座ってんだよッ!」
雨宮 「なんでって...俺が社長だからだろ。」
雨宮は、女子高生のスカートの中をのぞいていた時となんら変わらないニヤケ顔を俺に見せた。
山ノ井 「元々いた社長はどうした...ッ!」
雨宮 「なぁに言ってんだ?俺がそもそもここの社長だろうが。」
雨宮は驚いたようなそぶりを見せる。
白々しい。ふざけた奴だ。
山ノ井 「...それでどうしたんだよ。社長は...?」
雨宮は少しの沈黙の後、口を開いた。
その内容は、俺が想像していたどの言葉とも違った。正確には、俺に向けられた言葉ではなかった。
雨宮 「やはり...あのときもそうだ...やはりこいつだ...。確実だ...」
山ノ井 「なんの事だッ!社長は!?」
俺は恐れていた。ある可能性。この考えが当たってほしくはない。
だが、この男なら出来るかもしれない。その現実味が俺をさらに恐怖させた。
雨宮 「だから、俺が社長だよ。」
そこで一呼吸置く。
頼む...
雨宮 「最初っからな。」
俺の想像は大当たり。いままでで一番最悪の大当たりだ。席替えで教卓の目の前を引き当てた時よりもだ。
山ノ井 「他人と...入れ変わる事が出来るのか?」
ロールプレイ
雨宮 「立場、周りの記憶、住所親功績そのたまるまる挿げ帰る...役者交代と呼ぼうかな。」
...そんなことが出来るなら、変えられた者の努力はどうなるッ!そいつの築いてきた全ては...ッ!
雨宮 「はははっ...大丈夫だ。お前とは変わらないからよ。正確には、出来ないんだがな。」
山ノ井 「そういう事じゃないだろッ!お前は一人の人間の人生をぶち壊したんだぞッ!」
雨宮 「...いんや壊してねぇよ。」
雨宮は机から脚を下した。だが、顔はニヤケたままだ。
雨宮 「最初っから、こういう人生なんだよ。俺も、社長さんもな。」
山ノ井 「テメェェェェェェッッ!!!」
俺は拳を振り上げ雨宮の元へと走った。
ゴッ!
俺の拳は、雨宮の頬へめり込んでいた。
車輪のついた椅子は、雨宮を乗せたままズガッという鈍い音を立てながら壁に激突した。
そこで我に帰る。
山ノ井 「...何故避けなかった。避けれたはずだ...お前ならッ!」
拳を引く俺。雨宮は殴られた時から、一瞬も目を離さない。
雨宮 「痛ッてぇ~...久しぶりだよ痛みなんてさ。」
ゆっくりと椅子から立ち上がる雨宮。俺はそこから一歩も動かず雨宮の眼を見据える。
絶対に引かないッ。その能力だけは、絶対に許せないッ!
社長だってこの地位に昇るまで、多くの努力をしてきたはずだッ!その中で出会った多くの人々が
いたはずだッ!それを全て奪い去るなんて許せないッ!許しちゃいけないッ!
雨宮 「お前が考えてる事は分かってる。そんなことは分かってるけどな。」
雨宮は始めて俺から眼を話した。その視線は直後ろの窓の外へと向けられる。
雨宮 「お前は、分かってない。」
山ノ井 「まず第一に、お前は俺の質問に答えてないッ!第二に、俺は――」
雨宮 「だまれガキ。」
雨宮の背から発せられる圧力に、俺は口を閉ざされた。嫌な汗が体中から噴き出る。
俺は殺されるのか?そりゃそうだ。これだけの力を持っているなら、俺なんて3秒かからない。
次の瞬間、雨宮は俺の目の前に立っていた。
雨宮 「お前が分かってないのは、この世界のことだ。」
この世界...何度も繰り返されるこの世界...神様が作った箱庭。
雨宮 「疑問に思わないか?何故、俺だけがこんな力を持っているか。」
...そうだ。おかしい、明らかにおかしい。なぜ、繰り返される世界で、こいつだけが100回以上
の人生を体験した事を覚えている?なぜこいつだけがこんな力を使えるッ!
他にも使える人間がいるのなら、この世界はもっとおかしなことになっているはずだッ!!
雨宮 「お前と初めて会った時、俺は言ったよな。」
雨宮は切れた口から垂れる血をぬぐい、俺の肩に触れる。
おっちゃんが俺によく言った言葉は。「結局はさ、一人ぼっちなんだよな。俺もお前も。」
その頃は理解出来なかったけど、今ならなんとなくわかる気がする。
多分自分以外は結局のところ他人なんだから、本当の意味で他人じゃない人間なんていない。
とか、そんなところだろう。
よほど他人に裏切られて生きてきたのかどうなのか分からないけど、俺が今まで生きてきた経験上は、
そんなこと無いって思う。
だって――
「いや、ちがうな。」
一瞬にして再生されるつい先ほどの出来事。
雨宮 「人間は一人ぼっちなんだよ。」
瞬きをすると、俺は自分の席の前に立っていた。
一人ぼっち...どういうことだ?
来栖 「お?いつのまにいたんだよ!どうだった社長は?」
山ノ井 「なぁ。社長って最近変わったか?」
何を言っているか分からないといった様子の来栖。
まぁたしかに突拍子もない質問だったな。
来栖 「変わるわけないだろ。この会社は出来てから今までずっと小橋社長が社長じゃないか。」
キィッ...
オフィスの扉が開かれる。そこにいたのは雨宮。
その途端、社員のほとんどが頭を下げる。
来栖 「ほら!小橋社長だぞ。お前も挨拶しろよ。」
立場もなにもかもなら、名前も変わって然るべき...か。
その日俺はやる気なくダラダラと業務をこなし、いつもより2時間遅く帰路についた。
周りはもうすっかり暗くなっている。
その帰り道、地べたに段ボールを敷いて眠っている元社長を見つけた。
俺はその姿を見ていられなくて、なんだか無性に悲しくなって、いつの間にか駆け足で走り始めていた。
山ノ井 「ちっくしょおおおおおおおおおッッ!!」
周りでどんな変な眼で見られようが構わない。このどうしようもない気持ちを何処かで発せずには
いられなかった。
池袋の駅。俺は定期を...
あれ?ない...まさか置いてきたのか?いや走った時落としたか?
と、焦った時後ろからポンッと肩を叩かれた。
俺の後ろに立っていたのは、来栖 清二。
息を荒くしている。走ってきたのか?
来栖 「ハァ...ハァ...おう。見かけたと思ったらいきなり走りだすからビビったぞ。」
そういいながら、俺に定期を差し出す。
来栖 「会社に忘れてたぞ。珍しいな忘れ物なんて。」
山ノ井 「今回ばかりは...お前の怠けっぷりに助けられたな。」
来栖は基本怠け者だ。いつも仕事は遅くまでかかって終わらせる。
いつもより2時間遅く出た俺よりも遅いのだから、相当だ。
だが、今回はこいつに救われたな。
来栖 「なにが怠け者だ。しっかり走って追いかけてきたあたり、俺はガンバリ屋さんだぞ!」
俺が落ちているときは、いつもこいつに救われる。それは俺以外にも同じで、だから職場でも人気が高い。
でも女性からは普段の怠けっぷりからか、嫌われていたりする。
来栖 「飲んでくか?」
山ノ井 「...ああ。」
...いつもこいつは俺を救ってくれる。本当にこいつは...
俺たちは、そのまま夜の池袋の町へと歩いて行った。
明日はつらそうだな...
それでも俺の心は、さっきの何倍も軽かった。
ジリリリリリリッ ジリリリリリッ プッ...
「あ~、朝か...」
昨日、いや正確には今日か。来栖と飲んで夜を明かした俺にとって、朝の目覚ましとはこの上なく
うざったいものだ。
のそのそと起き上がり、朝食の支度を始める。
今日は...パンにジャムでもつけりゃいいか。
冷蔵庫の重たい扉を開けてみるが、中はほとんど空だ。
「...ジャムないじゃん。」
結局食パンには塩を振った。
モッシャモッシャ...
起きてから10分弱たったというのに、いまだ意識はうつろなままだ。
やっぱ酒なんか飲むじゃなかったな。
俺はアルコールには弱い方で、ビール大ジョッキ2杯ですぐ酔っぱらう。
それでも好きなものは好きなので、つい飲んでしまう。結果朝がつらくなるのである。
頭痛い...でも会社いかなきゃぁ...
会社、その単語が出た途端、俺の脳は覚醒を始めた。
「そうだよ!やべぇじゃん!社長殴っちゃったよッ!」
いかに知らぬ仲ではないとは言え、上司を殴ってしまったのはまずかったんじゃないか?!
知り合ってからまだ1日だしッ!俺クビになるかも...
そんな思いが、俺を完全に覚醒させた。
歯磨き洗顔片付け等々を速攻で終わらせて着替えを始める。
早めに出社して雨宮に謝れば、許してもらえるかもしれないという願いにも近い俺の考えが、
着替えの手を急がせる。
通常通りの出社時間に起きた俺は、どこかを切り詰めなければ早めの出社など出来ない。
俺が省略した事柄はこの通り。
朝のメールチェック、テレビのニュースチェック、缶コーヒーで一息、トイレ、新聞、
昼飯の購入等々。
ついでに移動は歩きから走りに変更。そして電車に乗り込み呼吸を整えた所でふと気がつく。
あの元無職がこんな早く出社するわけない。
やっぱり会社に雨宮はいなかった
「はぁ、無駄な苦労をしてしまった...」
「おや、早いですね山ノ井さん。」
今話しかけてきたのは1つ年下の紬 優衣。活発な人でやる気も十分だが、失敗が多い事で有名だ。
「ははは、ちょっと失敗しちゃってね。早く来て点数稼ぎでもしようかと思ってさ。」
「あははっ!それじゃぁ一緒にお掃除でもしちゃいますか?」
最近なんとなく会社が綺麗なのは、この人のおかげだったんだろうか。
「えっ...」
「はいっ!雑巾です!」
そういって彼女は俺に濡れた雑巾を手渡した。
やる気は無かったのだが、こんな風に彼女の元気に押されては断るに断れない。
「それじゃぁ私はカラ拭きしますので、ちゃちゃっといろんなとこ拭いちゃってください!」
「あ、ああ。」
俺が濡れ雑巾で大まかに拭いたところを、彼女がカラ拭きでしっかりと拭きとる。
そんな2人のチームプレーが始まった。
掃除って、ずいぶん大変なんだなぁ。
普段自分の部屋や机を掃除したりしない俺にとって、この作業は新鮮なものだった。
「掃除って大変ですよね?」
彼女が俺の拭いた棚をカラ拭きしながら問いかけてきた。
「そうだね。まぁたまにはいいけどね。」
「あははっ!でも誰かに知ってもらえなくても、私たちがお掃除することで皆が気持ちよく過ごせ るなら、それってすごく幸せなことですよね。」
現に俺は彼女の努力を知らなかった。今は二人でやっているが、彼女は毎朝これを人知れず
こなしていたのだろう。
「そうかぁ?俺は誰かに認めてもらいたいけどなぁ。」
「それじゃっ!私が認めてあげちゃいますっ!」
「ははは、そんじゃぁ俺も認めてあげよう。」
本当に、たまには会社に早く来てみるもんだな。
それから5分弱後、俺たちの掃除は一応の終了を迎えた。
「いや~ありがとうございました。本当に早く終わりましたよ。」
彼女が俺にお茶を入れてくれる。これは俺と彼女のためだけに入れられた茶だということを考えると、なんだか特別なものに感じられてくる。
ズズッ...
とりあえず一口。
...ちょっと薄いけど、美味い茶だ。
ズズッ...
うん、薄い。つか味、無い。
「あっ!お茶っ葉いれるのわすれちゃいました...」
噂通りのドジっ子だった。
「紬さんは毎朝こんな掃除を一人でやっているの?」
彼女は少し恥ずかしがった様子で、口元を手で隠しながら顔を伏せている。
否定しないということは、そういうことなのだろう。
「なはは、今日は電車がちょっと遅れちゃってお掃除終わんないかなぁと思ってたんですけど、
ホントに山ノ井さんが来てくれて助かりました!ありがとうございます!」
「いや、こっちも早く来すぎて暇になりそうだったしね。いい目覚ましにもなったよ。」
「ッ...あ、お茶入れ直してきますねっ!お湯のままってのは失礼ですもんね!」
照れ隠しからかいそいそとお茶を入れ直しに行ってしまった。
やばい、なんか可愛いな。
それにしても、もし彼女がいなければ、雨宮が来るまでの間俺はずっと緊張しっぱなしだっただろう。
ホントに...
「君がいてよかったよ。」
彼女には聞こえないように、そっとお礼を言った。
俺はまたしても、この世で最も重い扉の前に立っている。
あれこれ考えれば、考える前以上にこの扉は重くなる。
俺はそっと扉に手をかけた。
「よぉ、きたな。」
椅子に腰かけている雨宮が眼に入る。その姿は昨日と全く変わっていない。
コートの袖に染みついた血痕、切れた唇。
普通着換え位はするもんじゃないのか?
「ん?ああ、悪いな。俺は時間移動でココまで飛んじまったからな。」
雨宮にとってはほんの数十秒程度の間しか空いていないのだろう。
彼はまだ俺に殴られた直後ということだ。
「...昨日は、いえ先ほどは誠に申し訳ありませんでしたッ!」
俺は思いっきり頭を下げた。恐くて眼を開けてられない。
「いかな理由があろうとも、社長ともあろう御方に手をあげ――」
「そんなことはどうでもいい。」
...は?
俺は拍子抜けしてしまった。しかし逆に緊張の糸は張り詰めていく。
そんなこと、とは別に何かあるという事だ。
「ひとりぼっち、の意味。よく考えたか?」
ひとりぼっち。その意味なんて俺は腐るほど考えた。
休憩中も、仕事中も、来栖と話しているときだって考えていた。
「はい。考えました。」
俺の言葉を聞いた雨宮は、急にニヤけた顔になった。
ただ、それは昨日のような悪意のある顔じゃない。本当に、ただニヤけている感じだ。
「いいよ、敬語なんて終わり。普通に話してくれよ。」
敬語なんて終わり。そんなこと言われたって急には変えられんだろうが。
と、ココまで考えたところで読心の存在を思い出し、ハッとなった。
「その心の声を言葉にしてくれりゃぁいいぜ。ククッ。」
なんでもお見通し。そんな面に無性に腹が立つ。
「それじゃぁ普通に話すか。」
ドカッ
雨宮が足を机にかけた。
「んで、どんな意味だと思った?」
「どんな意味って、とりあえずこんな能力を使えるのがあんただけだから一人ぼっちって
ことじゃないのか?」
「クククッ...ちがうなぁ~。」
俺が間違えたことがそんなにうれしいのか、雨宮はケタケタと笑っている。
「んじゃ、なんなんだよ。」
やっと笑いが治まったのか、ゆっくりと話し始める。
「文字通り、人間はひとりぼっちなのさ。いや、だっただな。」
「だった?」
一瞬で俺の目の前に瞬間移動してくる。
「そ、いまは俺とお前だな。」
どういうことだ?今は俺と雨宮?いままでは?
「ちょっと前までは俺だけだったんだけど、最後だからかな?神様からのプレゼント?」
「いやいや、ちょっとまてよ!人間が俺とお前だけってどういう事だよ!」
雨宮は先ほどのニヤけた面から急に真顔へと顔を変えた。
そこに先ほどの面影は、ない。
「最初に言っただろ。人間は繰り返し滅ぼされるって。」
神の怒りをかって、箱庭ごと潰されたって話か。
「で、やっぱ全員の願いを聞いて、また最初からやり直しってのはいくら神様でも面倒な
訳だ。」
「だから、一人に絞ったってのか?」
「そう。」
俺を見つめる雨宮の眼には、明らかな怒気が見えている。
「この何度も同じように繰り返される世界で、俺はたった一人ぼっちだった。」
だから...だからお前は...
「だから、俺はお前を願った。人間を作ってくれと!」
「...俺は、お前のために作られたのか?」
雨宮は首を振る。
「確かに俺のためともいえるがな...いや、まだ時間はある。」
「最初の人生。楽しんでくれ。」
何処かへ飛ばされる瞬間。雨宮の頬を伝う一粒のしずくは、俺の眼に焼きつけられた。
今俺が立っているのは、喫煙所の前。
池袋の駅のではなく、社内にある喫煙所だ。
「あわわわっ!すいませんすいませんっ!」
ふと前を見ると、自販機の前に紬 優衣が立っていた。
「紬さん。どうしたの?」
自動販売機からどんどん出てくる缶ジュース。
涙目になった紬さんは上目づかいでこちらを見上げる。
おでこが赤く染まっているのが見えた。
「それが、ちょっとここでコケちゃって!そしたらッそしたらッ!」
あ~、みなまで言わなくてもなんとなくわかる。
すっこけて頭を打ったらそれが自販機だったと、そしたら商品が止まらないということなのだろう。
とりあえず蹴っ飛ばしてみたら驚くほどピタッと止まった。
「うわぁぁぁん!ありがとぶごじゃいまずぅ~!」
人目もはばからず、わんわんと泣き始めた。
そんなに不安だったんだろうか。
とりあえず、ハンカチを貸してあげたら鼻水だらけにされたので、そのままあげた。
「いや~もうホントに不安だったんですよぅ!ドカッってなったらドバババババって!」
「ははは...焦りすぎだよ。」
俺たちは喫煙所のベンチで、先ほど出てきたジュースを飲みながら一息ついている。
他のジュースはとりあえず自販機の横に積んでおいた。
業者に連絡したからそのうち取りに来ると思う。
しっかしこの人は...さっきまであんなに泣いていたのにもう笑っている。
女性というのは感情を表に出しやすいというが、俺のおかげで今の笑顔があるというのなら
これ以上の事はないな。
――だから一人に絞ったってのか? そう。――
先ほど話した内容が、鮮明に俺の脳内で再生される。
この人が人間じゃないなら...なんだっていうんだ。
そうだ、あいつは超能力者だが、その話が本当かなんて別の話だ。
まったく。本気で騙されてたぜ。
「そういえば山ノ井さん!今度の社員旅行どうします?」
「えっ?」
そういえば、そんなもんがあったような...
このところ超能力者やら社長交代やらで思いっきり忘れていた。
どこぞの温泉に行くらしいのだが、あんまり人が集まらなくて中止になりそうなんだっけ。
まぁ人が集まらないなら行かなくてもいいとおもうんだが、どうやら紬さんはどうしても行きたいようで、頑張って人を集めているらしい。
そういや来栖は行くって言ってたなぁ。
「予定がないなら行きましょうよぉ!きっと楽しいですよ?」
「ん~...」
迷うふりをしているが、俺の中で答えは決まっていた。
「いいよ。行こう。」
「やたぁッ!これで人数そろったぁッ!」
女性の誘いを断れるほど、俺は経験豊富ではないということだ。
もうすでに焼きついたはずの雨宮の涙など、俺の頭の片隅で埃をかぶり始めていた。