くすんだレモネードを手にとって
カンフーじじい
五 カンフーじじい
次の日の朝、柔斗はクッションにうもれたままの息苦しい朝を迎えた。
「…………?」
どうして自分がこんなことになっているのかはよく分からないが、とにかく今はここから出ようと思い、少しもがいてみる。
ぽん、とクッションから弾き飛ばされるように飛び出すと、そのまま床に転がってしまった。
耳のあたりがぐりぐりと打ち付けられて、妙に痛い。
「いたた……」
見た目よりも随分と張りのあるクッションである。
中に何が入っているのか、気になるが、青白いれもん型のそれを見ていたら、何故かどうでもよくなった。
起き上がりながら周りを見回してみるが、どうやられもんはいないらしい。
相変わらず、部屋には無造作に服が散らかっていた。
「うぐぐ……」
地面に伏せるようにして体を無意識に伸ばす。
なんだかたいそう体が固くなっている気がするのだ。
「あ、そういえばこの体、もう死んでるんだよな……」
全くもって普通に振舞ってきたが、柔斗が既にゾンビ及びキョンシーの一種と成り果てているのは明白である。
「ま、いいか」
そんな細かいことを気にするより、彼としては昨日の出来事の精算をいまやっておかなければいけない。
精算と、とっても記憶の整理だが。
(どうも、忘れちゃってるところがあるんだよな……)
昨日の女の子の名前が、亜里沙、ということだけは覚えている。
いや、覚えていた。
いつから?
たまたま思い出したのか?
そもそもなんで俺が見ず知らずの人の名前を知っている?
俺は――れもんなのか?
考えながらピンとしっぽを伸ばしきっていたら、窓の外かられもんの悲鳴が聞こえてきた。
「やっ、やだーっ!」
うわさをすればなんとやら、と口の中で小さく柔斗は言ってみる。
か細い声の後に、太くてしっかりとした声が辺りに響き渡った。
「やじゃないっ! アンタ昨日約束したのもう忘れてるわけ!?」
「その私は私はじゃありません。昨日の私は私じゃないです!」
「哲学的な小道に逃げ込むな!」
窓辺にひょいと上って外を見てみたら、柔斗は桃子に引きずられてまるで小さい子のようにやーやー言っているれもんと目が合った。
彼女は柔斗を見るなり、必死な顔をして口パクで「たすけてください」と救難信号を出してきた。
だが、彼はそれに対して二三度しっぽを振って答えたのみである。
(学校には、ちゃんと行ってこいよ)
少々の激励を込めて、ゆるやかにしっぽを振った。
れもんは桃子に引きづられて、一層激しく地面をバウンドしていた。
◯
れもんと桃子の姿が見えなくなったので、窓辺から降りようと柔斗は体を回転させる。
すると、すぐ下に手紙のような紙きれを発見した
なんだろう、と思って降りてよく見てみる。
れもんが書いたのだろうか。
「なになに……」
そこには、『おじいさんが今日撮影から帰ってくるそうです。仲良くしてくださいね』とだけ走り書きされている。
「……おじいさん?」
柔斗は首をかしげて、それがれもんの家族なのだろうかと推測してみた。
そういえば、 今のところ彼女の父親も母親も兄妹も目にしていない。
彼女はこの家で一人で暮らしているのだろうか。
そして、ここにきておじいちゃんが帰ってくるという置き手紙である。
「おじいちゃんっ子?」
ならば、もう少し優しくて純粋な女の子に育つべきだろう。
キョンシーの女の子として、山にやっほーとなんでも聞いて――と、これはアルプスの少女のすることだった。
小さな頭を猫パンチして、柔斗は首をぷるぷると振る。
とにもかくにも、れもんはもっと純粋になった方が可愛らしい。
そう決めつけてから、もう一度走り書きに目を通してみる。
すると、気になる言葉を発見した。
「撮影……?」
撮影から帰ってくる、というのはどういうことだろう。
「撮影って映画とかか?」
撮影するものといえば、映画とかテレビドラマとか写真とかグラビアとか、である。
よこしまな野望ではなく、具体例を適度に並べてみて、柔斗は首ひねった。
れもんのおじいさんということは、その人もキョンシーなのだろうか。
もしそうだと仮定して、キョンシーを撮影する物好きなんてどこにいるのだろう。
「ホラー映画とかで活躍してるのかな」
墓石の隙間から出てきた痩せこけた腕が弱々しく手を振られている光景を想像をしながら、紙きれをくわえてゴミ箱の中に放る。
それから、暫くの間無意味に床に転がってみたが、虚しくなってやめた。
全体的に古めかしい、昔の苦学生のアパートの一室のようなれもんの部屋。
そこで、こんなことをしていて、自分は本当にいいのだろうか。
「なんか、大事なことを忘れてる気がするんだよな……」
さっきの自問自答に堂々巡りしていくのが、なんだか不気味なって柔斗は起き上がる。
この家の中を探検でもしてみよう。
気を紛らわせるには、丁度いい。
そう考えて、半開きになったドアの隙間から部屋の外に出ることにした。
床板をきしませながら、暗い廊下を進んでいく。
涼し気な空気が、古い木の匂いと混在していて、なんだか気持ちいい。
静かに深呼吸してから、柔斗は玄関に向かって歩いてみた。
「静かだなぁ」
おじいさんはいつごろ帰ってくるのだろう。
今、たった今か。それとも午前中か、正午か、午後か。
玄関のところで横になって、そんなことをぼやぼやと考えていたら、いつの間にやら目を閉じていた。
そのまま、柔斗は深い眠りに入っていく。
窓の隙間からのつまびらかな日差しが、どうにも心地良かった。
どれだけ眠ったのだろうか。
ガタン、と物音がして目を再び開く。
柔斗のぼんやりとした視界に入ってきたのは、三十代の男の人だった。
横開きの扉に手をかけて、Tシャツ短パンのラフな姿でその男はこちらを見ている。
思わず柔斗も見返してみる。
男は不思議そうな表情を浮かべていた。
その表情のまま、見た目にそぐわないしわがれた声で思い出したように言う。
「はて……れもんは猫など飼っておったか」
ガラガラと音を立てながら扉を閉めて、男は柔斗の近寄ってきた。
逃げようかどうか迷ったものの、寝起きで眠かったので柔斗はそのままそこに居座り続けた。
男は荷物を置いて、じろじろと猫の柔斗を見回す。
時折大きな手で彼の頭をわしゃわしゃとなでてくるが、それがどういう意図なのかよく分からない。
ただ、目が随分と険しくなっていく。
最初は穏やかだった視線が、目の前に立つ者を殺し尽くすようなものに変わっている。
「ふむ……」
男は柔斗を抱き上げた。
それから、「なるほど」と納得したように頷いて柔斗に問いかけた。
「おぬし。れもんとはどういう関係じゃ」
「……は?」
いきなりよく分からないことを言われて、思わず柔斗は声を発してしまった。
普通の人間ならば、それは快眠を邪魔されて鬱陶しくしている猫の鳴き声にしか聞こえないだろう。
だが、この男はその一声で豹変した。
「質問に質問で返すとは……中々生意気な小僧じゃの」
自分を抱き上げる両手に力が込められるのを感じて、柔斗は慌ててもがき、地面に降りようとする。
(だ、だめだ。こりゃだめだ……!)
がっしりとつかまれていて、身をよじってもびくともしない
そのまま、男は口を梅干のようにすぼめて、奇声を発する。
「ホァア……」
「な、なんだよお前」
「おぬし、死を選ぶか生を選ぶか。さもなくば、この不死鳥滅殺拳がその身を切り裂くぞ」
聞いたことも無いような拳法を口走る男に、柔斗はおびえながら答える。
「何いってんだよ、オッサン。つまらない冗談は――」
「アタァ!」
瞬間、柔斗は男に弾き飛ばされていた。
玄関かられもんの部屋の扉まで、一閃。
物理法則を無視したように、直線軌道を描く。
びたん! と大きな音を立てて、背中からドアにぶつかったのが、ワンテンポ遅れて意識の中に伝わってくる。
思わず肺の中の空気が押し出された。
(ね、猫になんてことしやがる……)
地面に力無く落ちて、柔斗は体を引きずって逃げようとするが、すでに目の前に男が立っているではないか。
たった今の一瞬で、ここまで来たらしい。
走った様子も、ない。
(なんだよ、なんだよコイツ……)
うずくまる柔斗に対して、威風堂々と立ちはだかる男は静かに言った。
「猫だからといって容赦はせん。我が愛しき孫娘をたぶらかす輩は、猫だろうが犬だろうが龍だろうが河童だろうが――容赦せずに息の根を止めておくのがワシの道理じゃ」
「そんな道理……聞いたことないし……」
苦しいながらも、柔斗はわけのわからないことを言い続ける男に小さな牙を見せた。
無論、それは無意識の産物だったが、それを見た男は小さく笑った。
殺意を含んだ、不気味な笑みだった。
(あ、今なんか孫娘とか言ってなかったか……?)
まさか、この男がれもんのおじいさんだとでも、言うのだろうか。
馬鹿馬鹿しい、と彼は薄れてゆく意識の中でつまらない憶測を蹴り飛ばす。
「ほほぅ……おぬし、まさかその小さな体躯でワシに歯向かおうとでも? 無駄じゃ。身の程を知れ」
「お前だって……喋る猫をボコボコにするとか、意味わかんねぇよ……動物愛護団体に通報するぞ」
「まっこと愉快じゃな。笑止千万」
最後にその言葉を聞いて、柔斗は気を失った。
それを見届けると、張りあいが無さそうに男は溜息をついた。
「喋る猫も十分意味がわからぬのだがな……」
玄関の荷物を取ってくると、柔斗をひょいと拾い上げて、肩に載せる。
まるで絞り忘れた雑巾のように、黒い体は垂れ下がってしまった。
「相変わらずれもんはやりおるのぉ。まったく、ワシがいるのを忘れてくれては困るぞい」
つまらなさそうにひとりごちると、男は小さな扉の中に消えていった。
◯
柔斗は、なぜか戦っていた。
ここは、どこかの道場だろうか。
「あれ? 何してんだ俺?」
気付いたら、彼は次々と現れる刺客達を素手で張り倒している。
相手が鋭く突いてきた腕を絡めとって、そのまま全体重をかけて折ったりしている。
一体全体、どうしてここにいるのだろう。
なんで、こんなことをしているのだろう。
「とりゃ、とりゃ」
とりあえず、目の前に現れる男たちをしばらく殴り続けてみる。
面白いように、例外なく彼らは吹き飛んでいった。
まるでどこぞの格闘ゲームのようでもある。
気付いたら、最後に残ったのは自分ともう一人の男だけだった。
無残にも重なって倒れている他の刺客を踏みつぶし、上半身をはだけさせた男はゆっくりと柔斗に近づいていくる。
「おぬし……中々やりおるの」
不敵に笑い、両の拳を合わせると、御丁寧に頭を下げてきた。
ぽかーん、と柔斗は口を開けて頭をかいてみる。
「あんた、何やってるの」
と言ったが早いか、男が突然飛び蹴りを繰り出してくるではないか。
「アタァ!!」
それは寸分の狂いも無く柔斗の首を捕らえ、そして、勢い余って削ぎ落した――
「うわあ!」
「おぉ、やっとお目覚めかの」
飛び起きるやいなや、柔斗は小さな部屋の中をかけめぐる。
「首が! 首が!」
「首がどうした黒猫よ」
「ぐるんって! 百八十度ぐるんって!」
「落ち着け黒猫よ。それは夢じゃ。おぬしは生きておる」
諭すように手をかざして、男は、あの夢で柔斗の首を破壊した男は、あぐらをかいたまま静かに言った。
その顔を見るなり、柔斗は今にも噛み付いてやろうかという勢いで睨みつけた。
「お、お前! さっき俺を吹き飛ばした……」
「すまんすまん。勘違いしておったわ」
「は、はぁ……?」
とりあえずこちらにこい、と男がちょいちょいと手招きする。
柔斗はそれよりもまず、ここがどこだか見回すことにした。
壁にかけられた掛け軸には毛筆で大きく『功夫』と書かれている。
床は畳。
なんだか夢に出てきた道場のようだな、と柔斗は思った。
とりあえず、拷問室とかそういう類の部屋でないことを確認してから、彼は恐る恐る男の元に近づいていった。
「あんた、誰なんだ?」
「れもんの祖父、名を霊元火羽(たまもと かばね)」
言って、もっとこっちにこんか、と柔斗を抱き寄せる。
筋肉質な腕につかまれると、さっきの出来事を思い出して自然と体が硬くなってしまう。
(てか、これでじいさんとかないだろ……)
どこからどうみても、この男――火羽は老人には見えない。
パッと見、40歳前後というところか。
父親だと言われても、絶対にわからない。
声だけはしわがれていて、そこから一応老人だと分かる。
なんとも奇妙な男だなぁ、と柔斗は膝の上でうなった。
「俺は光田柔斗」
「おぬし、幽霊のようじゃな」
「……あぁ」
率直に言われたが、柔斗はもう驚くことはなかった。
れもんのおじいさんならば、別に知っていてもおかしくない気がするのだ。
「れもんに森の中で会って、それからここに連れてこられたんだ」
「なるほど。まぁ、そういうことだと思っておったわ」
大きくうなずいて、火羽はこほんと咳を一つする。
「まぁ、どこから話せばいいのかわからんのだが……多分、おぬしの疑問に答えた方が早いじゃろうな。何でも聞くがよい」
火羽は柔斗の頭を撫でる。
どうも、霊元家は猫好きが多いらしい。
さっき吹き飛ばしたのはこれに免じて許そうと決めて、柔斗は目を薄く開きながら率直に尋ねた。
「あんたもキョンシーなのか?」
「いかにも」
「だから、あんなに強いのか」
常人離れした力は、れもんと通ずるところがある。
「それとこれとは安易に等位にはならんがな。もしや、キョンシーとはなんぞやということをれもんに聞いたか」
「まぁ、それなりに」
とは言ってみたものの、よくよく考えてみたられもんから聞いた話は、キョンシーは『もう死んでいる存在』ということと『魂を扱うもの』ぐらいである。
後は、怪力を実演してもらったぐらいだろうか。
実際、れもんの見た目は人間とほとんど変わらないし、おそらく桃子も普通の人間と思っているのだろう。
だから、キョンシーだなんて言われても実感が持てない。
大体、なんでこんな山奥にキョンシーが住んでいるのだ。
ご都合主義にもほどがある、と柔斗は思ってしまう。
「正直、まだ信じられないってのがホンネだなぁ……」
「まぁ、あやつはまだまだひよっこだからの。可愛い孫娘じゃが、知らないことも多い。本当に可愛い」
「可愛いのはもう分かったから、教えてくれよ」
柔斗はだらんと前足を垂れたまま催促する。
「うむ。そうじゃな」
火羽は柔斗を膝から降ろして、掛け軸の前に立った。
そして、どこかで見たことがあるようなポーズを取り始める。
手を前に構えて、クイクイと人差し指を立てては揺らす。
一体誰を挑発しているのだろうか。
彼の前方にあるのは、古びた小さなだるまが棚の上に一台置いてあるだけである。
左目は白眼を剥いていた。
入れてやればいいのに、と柔斗は思った。
「……なにしてんの?」
「さて。キョンシーとは一般に吸血鬼やゾンビ等の架空の化物と同列に語られることが多いのじゃが」
柔斗のツッコミを華麗にスルーして、一発「アタァ!」と火羽は正拳を突いた。
どうやら、彼なりのやり方があるらしい。
柔斗は色々言いたいことを口のダムでせき止めることにした。
決壊しないか今の時点で心配ではあるが。
「それは偏見も甚だしい! ワシらはあくまで人間の派生として生まれ出たもなのじゃ」
吸血鬼もゾンビも、元々人間であることが多い気がするが、柔斗は異口を唱えず静かにうなずいた。
それに呼応するように、火羽は「ホァー」と気合をためている。
「そもそもワシらは、自らキョンシーと名乗ることもしなかった。勝手に中国のヤツらが名前を付けたのじゃ。ちなみに、ワシは先の大戦にまぎれて日本にやってきたんじゃがな」
ハイキックを繰り出しながら、火羽は笑う。
「うまいことまぎれることができたわい。こうしてここに住み着いたのも、もう大分昔のことになるの」
「へぇ」
柔斗はこの町で暮らしてまだ十六年ほどである。
元々両親は東北の辺りに住んでいて、結婚してこの地にやってきた、と彼は昔小耳に挟んでいた。
――そういえば、家族は元気にしているのだろうか。
「ワシらは基本的に死なん。肉体と魂の分離を唯一確立させた民族じゃからな。それは要するに不死というものじゃ」
「不死?」
「うむ。かの始皇帝が地の果てまで求めおったアレじゃ。伝説によるとな、ワシらの祖先はその時に試行錯誤して成功した実験体の末裔と言われておる」
構えを崩さず、火羽は回し蹴りで空を切った。
近くの掛け軸が風圧で少し揺れただけで、それ以外には何も起きなかった。
「だが、結局その実験体は始皇帝の元から逃げ出したわけじゃな。その時一体何が起きたのかはわからん。ただ、ワシらはそれから慢性的で致命的な問題に苛まれることになったんじゃが――」
「慢性的で致命的な問題って?」
「不死じゃ」
棚のところに行って、火羽はだるまを手に取った。
「当たり前のことではあるんじゃがな。不死の研究をして、不死になる。それが一番の問題だった。つまり、死ねないというのは思いのほか苦しいことだ、という事に気付いたんじゃろうな」
「俺には分からないな……」
事故で死んでしまった柔斗にとって、死ねない苦しみというのは理解に苦しんでしまう。
今の話は、れもんが首を吊ってしまうことにも繋がるのだろうか。
「至極当然。我らの末裔、もといワシも数百年生きてその事を悟った。周りの人間と恋をしても、その恋人はいつか死ぬ。変わり続ける世代の中で、変わらない自分がいるというのは恐ろしいものじゃ」
だるまを畳の上に置いて、火羽は座った。
「さて、このだるまをモデルとしてみるぞい。我々は最初、人間だった。つまり、このだるまは生きている人間じゃ。この人間を不死にするにはどうすればいい?」
「不死か……」
だるまに近づいて、猫パンチを数回食らわせながら柔斗は考えてみる。
不死の薬を使うか、脳以外を全てサイボーグにしてしまうか。
色々考えてみたが、どれも何かしらの欠陥がありそうである。
悩んでいた柔斗の横で、火羽はいとも簡単に言い放った。
「一度殺してしまえばいい。それだけじゃ――アタッ!」
人差し指一本でだるまの脳天を突くと、だるまは横になってしまった。
「これで、この肉体は魂と分離した。今ワシの手の中にあるのがこやつの魂。このだるまはただの抜け殻じゃ。あとは、このだるまを加工して魂を突っ込めば千年でも二千年でも生き続けられるのじゃな」
「まるでコロンブスの卵みたいな発想だな……」
目の前で揺れるだるまが、卵のようにも見えなくない。
「まぁ、昔の人間は頭が随分と柔軟だったんじゃろう。実際、これは一度死ぬわけじゃから、不死なんてものでは無い。あくまでも見た目を人間としてとどめておくだけじゃ。そして、ワシらはペアを作り、互いの肉体が朽ち果てないようにメンテナンスし続けている。ワシの今のペアはれもんじゃな。まぁ、一度もメンテしてもらったことは無いがの」
「つまり、俺の言葉が分かるのも、既に死んでいるからってことなのかな」
「そういうことなんじゃろうな。実際、キョンシーの仲間を増やす場合はさ迷う霊魂を使うこともある」
だるまを手に取って、火羽は棚の上へ放り投げた。
だるまは難なくそこへ収まる。
絶妙な力加減である。
「じゃあ……俺はれもんに猫のキョンシーにされたってことか?」
「それに近いの。ま、れもんの美貌に免じて許してやってくれ」
再びあぐらをかきながら、火羽はちょっとすまなそうに言った。
「美貌は関係ないだろ……」
柔斗はやり場の無い虚しさを小さな鼻から吐き出した。
どうせ不死を手に入れるのであれば、人間の体にしてほしかった。
(でも、れもんに頼まれて猫になるのを引き受けたのは俺自身だからなぁ……)
なんだかんだで、幽霊の時より色々といいこともあったからだろうか。
柔斗は別にれもんを恨もうとは思わなかった。
「まぁ、別に俺はこれでもいいよ」
「うぬ。似合っておるぞ」
元の姿も知らないくせに適当な事を言う火羽であったが、柔斗はとりあえず嬉しそうににゃおんと鳴いておいたのだった。
「おぉ、やっとお目覚めかの」
飛び起きるやいなや、柔斗は小さな部屋の中をかけめぐる。
「首が! 首が!」
「首がどうした黒猫よ」
「ぐるんって! 百八十度ぐるんって!」
「落ち着け黒猫よ。それは夢じゃ。おぬしは生きておる」
諭すように手をかざして、男は、あの夢で柔斗の首を破壊した男は、あぐらをかいたまま静かに言った。
その顔を見るなり、柔斗は今にも噛み付いてやろうかという勢いで睨みつけた。
「お、お前! さっき俺を吹き飛ばした……」
「すまんすまん。勘違いしておったわ」
「は、はぁ……?」
とりあえずこちらにこい、と男がちょいちょいと手招きする。
柔斗はそれよりもまず、ここがどこだか見回すことにした。
壁にかけられた掛け軸には毛筆で大きく『功夫』と書かれている。
床は畳。
なんだか夢に出てきた道場のようだな、と柔斗は思った。
とりあえず、拷問室とかそういう類の部屋でないことを確認してから、彼は恐る恐る男の元に近づいていった。
「あんた、誰なんだ?」
「れもんの祖父、名を霊元火羽(たまもと かばね)」
言って、もっとこっちにこんか、と柔斗を抱き寄せる。
筋肉質な腕につかまれると、さっきの出来事を思い出して自然と体が硬くなってしまう。
(てか、これでじいさんとかないだろ……)
どこからどうみても、この男――火羽は老人には見えない。
パッと見、40歳前後というところか。
父親だと言われても、絶対にわからない。
声だけはしわがれていて、そこから一応老人だと分かる。
なんとも奇妙な男だなぁ、と柔斗は膝の上でうなった。
「俺は光田柔斗」
「おぬし、幽霊のようじゃな」
「……あぁ」
率直に言われたが、柔斗はもう驚くことはなかった。
れもんのおじいさんならば、別に知っていてもおかしくない気がするのだ。
「れもんに森の中で会って、それからここに連れてこられたんだ」
「なるほど。まぁ、そういうことだと思っておったわ」
大きくうなずいて、火羽はこほんと咳を一つする。
「まぁ、どこから話せばいいのかわからんのだが……多分、おぬしの疑問に答えた方が早いじゃろうな。何でも聞くがよい」
火羽は柔斗の頭を撫でる。
どうも、霊元家は猫好きが多いらしい。
さっき吹き飛ばしたのはこれに免じて許そうと決めて、柔斗は目を薄く開きながら率直に尋ねた。
「あんたもキョンシーなのか?」
「いかにも」
「だから、あんなに強いのか」
常人離れした力は、れもんと通ずるところがある。
「それとこれとは安易に等位にはならんがな。もしや、キョンシーとはなんぞやということをれもんに聞いたか」
「まぁ、それなりに」
とは言ってみたものの、よくよく考えてみたられもんから聞いた話は、キョンシーは『もう死んでいる存在』ということと『魂を扱うもの』ぐらいである。
後は、怪力を実演してもらったぐらいだろうか。
実際、れもんの見た目は人間とほとんど変わらないし、おそらく桃子も普通の人間と思っているのだろう。
だから、キョンシーだなんて言われても実感が持てない。
大体、なんでこんな山奥にキョンシーが住んでいるのだ。
ご都合主義にもほどがある、と柔斗は思ってしまう。
「正直、まだ信じられないってのがホンネだなぁ……」
「まぁ、あやつはまだまだひよっこだからの。可愛い孫娘じゃが、知らないことも多い。本当に可愛い」
「可愛いのはもう分かったから、教えてくれよ」
柔斗はだらんと前足を垂れたまま催促する。
「うむ。そうじゃな」
火羽は柔斗を膝から降ろして、掛け軸の前に立った。
そして、どこかで見たことがあるようなポーズを取り始める。
手を前に構えて、クイクイと人差し指を立てては揺らす。
一体誰を挑発しているのだろうか。
彼の前方にあるのは、古びた小さなだるまが棚の上に一台置いてあるだけである。
左目は白眼を剥いていた。
入れてやればいいのに、と柔斗は思った。
「……なにしてんの?」
「さて。キョンシーとは一般に吸血鬼やゾンビ等の架空の化物と同列に語られることが多いのじゃが」
柔斗のツッコミを華麗にスルーして、一発「アタァ!」と火羽は正拳を突いた。
どうやら、彼なりのやり方があるらしい。
柔斗は色々言いたいことを口のダムでせき止めることにした。
決壊しないか今の時点で心配ではあるが。
「それは偏見も甚だしい! ワシらはあくまで人間の派生として生まれ出たもなのじゃ」
吸血鬼もゾンビも、元々人間であることが多い気がするが、柔斗は異口を唱えず静かにうなずいた。
それに呼応するように、火羽は「ホァー」と気合をためている。
「そもそもワシらは、自らキョンシーと名乗ることもしなかった。勝手に中国のヤツらが名前を付けたのじゃ。ちなみに、ワシは先の大戦にまぎれて日本にやってきたんじゃがな」
ハイキックを繰り出しながら、火羽は笑う。
「うまいことまぎれることができたわい。こうしてここに住み着いたのも、もう大分昔のことになるの」
「へぇ」
柔斗はこの町で暮らしてまだ十六年ほどである。
元々両親は東北の辺りに住んでいて、結婚してこの地にやってきた、と彼は昔小耳に挟んでいた。
――そういえば、家族は元気にしているのだろうか。
「ワシらは基本的に死なん。肉体と魂の分離を唯一確立させた民族じゃからな。それは要するに不死というものじゃ」
「不死?」
「うむ。かの始皇帝が地の果てまで求めおったアレじゃ。伝説によるとな、ワシらの祖先はその時に試行錯誤して成功した実験体の末裔と言われておる」
構えを崩さず、火羽は回し蹴りで空を切った。
近くの掛け軸が風圧で少し揺れただけで、それ以外には何も起きなかった。
「だが、結局その実験体は始皇帝の元から逃げ出したわけじゃな。その時一体何が起きたのかはわからん。ただ、ワシらはそれから慢性的で致命的な問題に苛まれることになったんじゃが――」
「慢性的で致命的な問題って?」
「不死じゃ」
棚のところに行って、火羽はだるまを手に取った。
「当たり前のことではあるんじゃがな。不死の研究をして、不死になる。それが一番の問題だった。つまり、死ねないというのは思いのほか苦しいことだ、という事に気付いたんじゃろうな」
「俺には分からないな……」
事故で死んでしまった柔斗にとって、死ねない苦しみというのは理解に苦しんでしまう。
今の話は、れもんが首を吊ってしまうことにも繋がるのだろうか。
「至極当然。我らの末裔、もといワシも数百年生きてその事を悟った。周りの人間と恋をしても、その恋人はいつか死ぬ。変わり続ける世代の中で、変わらない自分がいるというのは恐ろしいものじゃ」
だるまを畳の上に置いて、火羽は座った。
「さて、このだるまをモデルとしてみるぞい。我々は最初、人間だった。つまり、このだるまは生きている人間じゃ。この人間を不死にするにはどうすればいい?」
「不死か……」
だるまに近づいて、猫パンチを数回食らわせながら柔斗は考えてみる。
不死の薬を使うか、脳以外を全てサイボーグにしてしまうか。
色々考えてみたが、どれも何かしらの欠陥がありそうである。
悩んでいた柔斗の横で、火羽はいとも簡単に言い放った。
「一度殺してしまえばいい。それだけじゃ――アタッ!」
人差し指一本でだるまの脳天を突くと、だるまは横になってしまった。
「これで、この肉体は魂と分離した。今ワシの手の中にあるのがこやつの魂。このだるまはただの抜け殻じゃ。あとは、このだるまを加工して魂を突っ込めば千年でも二千年でも生き続けられるのじゃな」
「まるでコロンブスの卵みたいな発想だな……」
目の前で揺れるだるまが、卵のようにも見えなくない。
「まぁ、昔の人間は頭が随分と柔軟だったんじゃろう。実際、これは一度死ぬわけじゃから、不死なんてものでは無い。あくまでも見た目を人間としてとどめておくだけじゃ。そして、ワシらはペアを作り、互いの肉体が朽ち果てないようにメンテナンスし続けている。ワシの今のペアはれもんじゃな。まぁ、一度もメンテしてもらったことは無いがの」
「つまり、俺の言葉が分かるのも、既に死んでいるからってことなのかな」
「そういうことなんじゃろうな。実際、キョンシーの仲間を増やす場合はさ迷う霊魂を使うこともある」
だるまを手に取って、火羽は棚の上へ放り投げた。
だるまは難なくそこへ収まる。
絶妙な力加減である。
「じゃあ……俺はれもんに猫のキョンシーにされたってことか?」
「それに近いの。ま、れもんの美貌に免じて許してやってくれ」
再びあぐらをかきながら、火羽はちょっとすまなそうに言った。
「美貌は関係ないだろ……」
柔斗はやり場の無い虚しさを小さな鼻から吐き出した。
どうせ不死を手に入れるのであれば、人間の体にしてほしかった。
(でも、れもんに頼まれて猫になるのを引き受けたのは俺自身だからなぁ……)
なんだかんだで、幽霊の時より色々といいこともあったからだろうか。
柔斗は別にれもんを恨もうとは思わなかった。
「まぁ、別に俺はこれでもいいよ」
「うぬ。似合っておるぞ」
元の姿も知らないくせに適当な事を言う火羽であったが、柔斗はとりあえず嬉しそうににゃおんと鳴いておいたのだった。
「あ、キョンシーのことは大体分かったんだけどさ。もう一つ質問」
「なんじゃ。ワシはこれから稽古つけねばならん。もういいじゃろ」
火羽は面倒くさそうに体を伸ばした。
「なんだよそれ。なんでも質問しろってさっき言ったじゃん」
「む、そうじゃったな」
火羽はバツが悪そうにうつ伏せに転がると、指一本で腕立て伏せのような物を始めた。
漫画でしか見たことがないようなその光景に、柔斗は顔しかめる。
「肉体改造してるんだから、そんなの必要ないんじゃないの?」
「たとえ手を加えているとはいえ、元々は人の体じゃ。こうして鍛えておかぬと、すぐにボロが出る」
だからって指一本でやることは無いだろうに、と柔斗は思う。
彼の内心はお構いなしに、火羽は自らの背中を指差した。
「ほれ、背中に乗ってくれ」
「……いいのか?」
「おぬしは猫一匹でワシがギブするとでも思っておるのか。はよ乗れ」
柔道着のような服の上に、柔斗は軽やかに飛び乗り、それから質問を投げかける。
「撮影から帰ってくる、ってれもんが紙に書いてたんだけど。何しに行ってたの?」
「その名の通りの撮影じゃ。アクション映画の悪役を演じておった」
なんでもないことのように、淡々と繰り返される上下運動の中で火羽は答えた。
(こんなおっさんが映画俳優……?)
柔斗はその言葉に驚きを隠せない。
「ま、マジで?」
「マジも何も、この仕事でワシとれもんは生計を立ててるんじゃからな。金は天下の回り物、とはよく言ったもんじゃ。例え覆面怪人キョンダラーの役をやらされていても、ワシは不平不満一つ言わず黙々と働いておるわい」
とは言っているが、腕立て伏せをしている火羽の顔は、少しゆがんでいた。
それが本音なのかどうかは柔斗には分からなかったが。
「れもんが学校嫌いだってことは知ってるのか?」
「お隣さんによーく聞いておる。安心せい。れもんはちゃんとした娘じゃて」
「俺が会ったとき首吊ってたんだけど」
「ワシも若い頃はこの人生が嫌になって死のうとしたわい」
なんでもないことのように火羽は笑う。
若い頃、と言われて、ふと柔斗は彼の年齢が気になった。
「おっさんとれもんって、何歳なのさ」
「ワシはあまりよく覚えておらんな。八百ぐらいかの。れもんはまだ五十ぐらいじゃな」
「五十って……いつから学校に通ってるんだよ」
五十年間高校に通い続けているとしたら、それはそれで凄いのかもしれない。
七不思議は全部れもんが作っていた、なんてことがあったちょっと面白そうではある。
「ホンの数年前じゃよ。お隣さんがここにやってきてからじゃな。怪しまれないようにれもんの記憶を消して一緒に通わせたわい。もちろん本人の同意付きでの」
「こんな所に越してくるなんて、随分と物好きだな……」
桃子の両親がどんな人なのか、柔斗はちょっと気になった。
「まぁ、それまでは本当に二人っきりだったからの。れもんもそのおかげで大分人見知りになってしまった。ワシとしては可愛ければよかったんじゃが、やはりそれでは世を歩くのは厳しいのかもしれんなぁ」
うむむと唸る火羽の上で、柔斗は納得する。
なるほど、学校に行くのが嫌なのは、ようするに人が多い所が嫌だということなのかもしれない。
五十年近くも山の中に引きこもっていれば、そうなってしまうのもうなずける。
「まぁ、今はお隣の桃子ちゃんが教育係みたいなものじゃな。ワシの出る幕は無いわい」
堂々と笑う火羽の上で、それはあまりにも無責任じゃないか、と柔斗は思ったのだった。