六 学校にて
その頃。
学校の教室で、れもんはすやすやと眠っていた。
丁度時刻は昼休み。
ぐでーと机に突っ伏しているれもんを、隣に座る桃子が肩をつかんで引っペがそうとする。
「うぎぎ……」
「つ、強っ! 全然びくともしない!」
が、机のヘリをがしりとつかんでいるからだろうか、れもんはまったく動かない。
両腕で思い切り引っ張り上げたら、机が宙に浮く始末である。
それでも桃子は、剣道部で鍛えた自慢の腕力で持ち上げ続けながられもんを睨む。
「ほら、お昼買いに行くよっ!」
「いやです、寝てるんです……」
「授業中にさんざん寝てるでしょ!」
午前中の授業を、れもんはほぼ全部爆睡で終了した。
桃子が何回肩を叩いても、シャーペンの先で腕とか太ももをつついても、眠り続けたのである。
その忍耐力には桃子が感心してしまうほどであったが、どうせならそれをもっと別の所で使ってほしいと思うのだ。
まったく、呆れてしまうのであった。
「ほら、たまには外でお昼食べたりしようよ!」
「接着力の変わらない、ただひとつのれもん……!」
よほど机に執着心があると見えて、れもんは本当にぴくりとも動かない。
いや、ただここから動きたくないだけなのだろうか。
それとは違う、何か別な力が働いてるとすら桃子は考えてしまう。そんな異常な力でれもんは机にひっついていた。
とにもかくにも、桃子は一度休憩することに決めた。これ以上引っ張り続けたら自分の肩が脱臼してしまうと予感できたからだ。
席に座り直して、おでこに浮かぶ汗をぬぐっていると、後ろから声が飛んでくる。
「ももこぉー!」
「んあ、何?」
振り返ると、クラスメートの一人が教室の入口に立って手招きしている。
桃子はすぐに立ち上がり、後ろへ歩いていく。
クラスメートは小さくちぎったチョコレートに染まるパンを口に放り込み、ゆっくり、もしゃもしゃと噛みながら言った。
「ももこに用事だって」
「用事?」
見に覚えのない事柄に首を傾げながら入り口を見ると、廊下にれもんのような細身の女の子が立っている。が、れもんよりは背は高そうだ。
桃子には一瞬、彼女のプロポーションが枯れた立ち木のように見えたが、目をこすって見直したらやっぱり見覚えのある女の子だった。
ちょっと疲れた顔で、彼女は弱々しく笑って言った。
「昨日はありがとうございます。猫の飼い主です」
亜里沙が頭をさげるのを、桃子は驚いたように見つめていた。
(まさか、同じ高校だったなんてね……)
昼休みに訪れた、突然の偶然に驚く彼女の数メートル後ろで、れもんは死んだように眠っているままだ。
桃子の肩越しにその姿を確認した亜里沙は、弱々しく笑って桃子に語りかける。
「昨日のお礼をしたいんです。今日、私の家に来てもらえませんか?」
「えっ? そんな、あたしら別に大したことしたわけじゃ――」
「お願いします」
亜里沙が突然頭を下げてしまったので、桃子はどう返したものかと口を鯉のようにパクパク開いては閉じ、宙に視線をさまよわせた。
「いや、あの……そこまで言うなら……」
「ありがとうございます」
ゆっくりと顔を上げた亜里沙の瞳の奥――そこに映る悲壮の色に、桃子は気付けなかった。
れもんはその間、再び深い眠りの中に沈み込んでいた。
くすんだレモネードを手にとって
学校にて
校門から出てきた亜里沙、桃子に続いて背の低いれもんがぶーをたれながらてくてくと続く。
「ぶーぶー!」
口を尖らせてあからさまに嫌だという意志をこれでもかと表している。
と、いうのも数分前まで机という名のベッドですやすやと眠っていたのを桃子に机ごとひっくり返されて起こされてしまったからだ。
とんでもない寝覚めに飛び込んできた地獄を絵に描いたような桃子の怒り顔に、流石のれもんも抵抗することを諦めざるを得ない。
だが、それでも嫌なものは嫌なので、こうしてぶーをたれるのだ。文字通りのぶーぶーである。
「れもん! わがまま過ぎるよちょっと!」
「……わかってますよ~」
れもん、桃子は亜里沙と共に彼女の家に向かっていた。
空がゆるやかにあかね色に染まっているのを遠目に、れもんはふわあと大きなあくびをしている。
まったく、反省の色がれもんの持つパレットの中には存在していないようだとすら桃子には思える。
たしなめるように、彼女は言った。
「あんまり授業態度が悪いと、先生に言って席一番前にしてもらうからね」
「や、それはいやです!」
「学級委員長の特権よ」
「しょ、職権乱用です……!」
ビクリと立ち止まって、れもんはがくがくと震えだした。三十センチの竹定規を思い切り引っ叩いた時のように、直線的にがくがくと震えている。
その人とは思えぬ様子を見て驚いている亜里沙を横目に、桃子はにへらと笑う。
「冗談だよ。でも、そーいう冗談にならないことをしてるんだよ、れもんはっ!」
びしっと指を小さな胸のあたりにつきつけると、れもんはうつむきながら小声でつぶやく。
「学校は嫌いなんですょ……」
「そのセリフはもう何回も聞いたんだけどね。れもん、たまには周りの環境じゃなくて自分を変えようとは思わないわけ?」
「むっ、なんか聞いた感じイイコト言ってますけど、そんなことができたら地球環境はこんなに破壊されてないと思うんですけどね」
れもんはしたり顔でここぞとばかりに指を振った。みょーにムカつくその仕草に、桃子は眉間をおさえて自分の心を鎮める。
こんなことでキレていては、寿命が何百――いや、何千年あっても足りないと思うのだ。皮肉にも、そのムカつく相手が何千年も生きているとは知らないのだが。
「あのさ、あたしが言ってるのはあんたの周りの環境、つまり人間関係とかそーいうのを言ってんのよ。まったく、話をすり替えんてんじゃないわよ」
「『大は小を兼ねる』といいますけどね」
「今の時代は小が大を兼ねるのよっ! って、こんなつまらない言い合いしててもしょうがないわよね……ごめんね、亜里沙」
いつもの下校の調子で行ってしまったことを反省しつつ、桃子は亜里沙に向き直って頭を軽く下げた。
亜里沙はキョトンとした顔で二人を交互に見つめてから、突然笑い出した。
「あははっ、桃子ちゃんもれもんちゃんも本当に仲がいいのね」
「えっ?」
「『喧嘩するほど仲がいい』っていうものよ」
「えっ、うん」
どう反応していいものかわからず、桃子はただうなずいた。
「さすが亜里沙ちゃんです。わかってますね。ももちゃんとは大違いです!」
「れもん、あんたはうっさい!」
「二人とも、もうすぐ私の家よ」
昨日訪れたばかりの大邸宅に面する通りで、桃子とれもんはしばらくにらみ合いを続ける。
そして、二人を見つめる亜里沙は、ただそれをうらやましく思ったのだった。
◯
「お茶、出させてもらうわね」
「えっ、いいのにいいのにお構いなく!」
ふかふかのソファーに腰を下ろしたまま、桃子は大げさに手を振った。だが、そのノーサインに笑顔を返して亜里沙はポットからお湯を注ぎ始めた。
「一応、その辺では手に入らないようなシロモノなの。遠慮せず楽しんでもらえたら、用意した私も嬉しいわ」
亜里沙の手はわずかに震えていた。
当たり前である。たった今注いでいるその紅茶には、確かにその辺では手に入らない強力な睡眠薬が入っているからだ。
この薬は父、明がよこした研究用に使うもので、これを飲んだら丸一日は目を覚ますことができないし、たとえ覚ましても体を動かすことすら出来ないだろう。
そんなものを飲ませるなんて、とても出来ないと亜里沙は思っていた。
だが、実際こうして注いでいる自分がここにいて、とても恐ろしい。父に逆らうことが――それよりもあの子猫達の命が奪われてしまうことの方がよっぽど恐ろしい。もう何がなんだかわからない。しょうがないから笑い、震えながら注ぐしかない。
自分の精神がおかしくなりそうで、今すぐ桃子にこの目の前のローテーブルをちゃぶ台返ししてほしかった。
だが、そんなことを彼女がするはずがない。
それに、桃子の横で眠たそうにしているれもんもそんなことをするとは思えない。
ソファーがよっぽど気持ちいいのだろうか。まるでナマケモノのような女の子である。
彼女はまだぶつぶつと寝言のように何か言っているようだが、出された紅茶はどうせ飲んでしまうのだろう。
「……どうぞ」
二人分、そして飲む予定のない自分の分を注ぎ終えて、亜里沙は紅茶を差し出した。
「ありがとう、亜里沙」
受け取って、ためらうことなく桃子はそれをぐいった飲んだ。ごくり、ごくりと喉の動く音が亜里沙にはいやによく聞こえる。
もういやだ、今すぐそれを吐き出してここから逃げ帰って欲しい。
そう思った時、突然れもんが立ち上がった。
「あ、そういえばおじいちゃん帰ってきてたんでした」
「はぁ?」
すっとんきょうな声を上げたのは桃子である。短い金髪を振りかざして、まだ寝ぼけ顔のれもんを見上げる。
「すみません、おじいちゃんと早く会いたいので私帰ります」
「えっ? ちょっと待ってよれもん!」
「すみませんももちゃん、私おじいちゃんに会いたいんです」
眠たい顔をしたまま、れもんは足元のかばんを手に持ちてくてくと歩き出した。
「ちょ、れもん! いくらなんでもそれは失礼に度が過ぎるって!」
桃子はそれを止めるべく手を伸ばすが、それをさらに止める手があった。亜里沙の手だ。
「桃子ちゃん。もしかしたられもんちゃんのおじいさんの虫の知らせかもしれないわ。行かせてあげて」
真剣そうな面持ちで言う亜里沙に対して、桃子は弱々しく言い返す。
「いや、あの、れもんのおじいちゃんに限ってそういうことないから……」
声量がどんどん小さくなっていったのは気のせいではない。睡眠薬が回ってきたからだった。
「……れもん……まてぇ」
ふわり、と桃子がソファーに倒れた時、もうれもんは亜里沙の家を出ていた。
亜里沙は倒れたまま動かない桃子を横目に、明のもとへと電話をかける。
「お父さん。一人、眠らせ――」
電話の向こうの父の声は亜里沙の言葉を最後まで待たずに爆発した。
『馬鹿野郎ッ!! 二人やれといっただろう! お前まさか……』
疑いをかけられる前に先手を打たなければいけない。
亜里沙はギンギンする耳をおさえながら言う。
「見てたでしょ? もう一人は突然帰ると言い出したのよ。勘づいたどうかはわからないけど……」
部屋の中には監視カメラが設置され、映像は記録されている。が、幸いなことに音声は録音されていない。
さっきの亜里沙の『桃子の手をつかむ行動』も、明にはれもんの後を追わせないように止めたとしか見えないだろう。
実際は、れもんを逃がすためだったのだが。
明はしばらく黙り込み、それから不気味に笑った。
『ふはは! そうだな、どうせお前が裏切ったとしても、そいつが不老不死と関係無かったとしても! そいつをエサにもう一人をおびき寄せればいいだけだからな!』
「えぇ……そうね」
絶望に包まれたまま亜里沙は電話を切った。
そして、彼女はただ、れもんが早く真実に気づいてくれるように願った。
あまりにもその確率が低いということをよく知りながらも、願ったのだった。