くすんだレモネードを手にとって
不老不死を求めて
八 不老不死を求めて
柔斗が亜里沙の家に向かい始めた時刻に前後して、れもんは有明明の研究所に連れてこられていた。
亜里沙の家からほど近い、町外れの寂れた野原にぽつんと建っている小さな白いビル。
その中には、おびただしい量の実験器具や実験に使われたと思われる動物の死体が散乱していた。まだかすかに生きているのだろう、時折聞こえてくる弱々しい鳴き声が惨状をさらに引き立てている。
「ここよ、れもんちゃん」
れもんをここに連れてきたのは亜里沙である。桃子はどこだと尋ねられた答えとして、ここまで無言で案内したのだった。
もちろんそれは、明の命令なのだが。
「亜里沙ちゃん。私、ちょっとキレそうなんですけど」
気を失った様子の桃子が冷たいコンクリートの上に倒れている。どうやらケガは無いようだ――なんて安心するはずもなく、れもんは力任せにすぐ横の柱に一発拳を打ち込んだ。
怒りが、怒りが止められない。
天井の高い部屋に鈍い音がよく響いた。コンクリートの破片がパラパラと落ちていく。
今の一発で柱の半分以上は吹き飛び、中の鉄筋が無残に曲がった姿をのぞかせていた。
その異常な力を目の前で見せつけられて、亜里沙の体は反射的に震えだしてしまう。抑えようと左手で右手を掴んだが、意味が無かった。
カタカタと、自分の歯が空虚な音を鳴らしている。止めたくても、止められない。
「……フフ」
暗い部屋の正面、桃子の横になっている辺りから笑い声が聞こえた。
「それは不老不死の恩恵か? 確かにそんなに強いんじゃ、死にそうにないよなぁ」
有明明が、血で汚れた白衣を身にまとって現れた。暗くて顔はよく見えないが、十中八九笑っている。そう、れもんは確信した。
「なんでこんなこと、するんですか。ももちゃんにひどいこと、するんですか」
「実験だよ。ほら、キミの横に首の無い犬が倒れてるだろ? そいつ、何の役にも立たなかったのさ。クズだよクズ! お前のお友達もなァ!?」
会話に脈略が無い。すでに気でも違っているのだろうか。
いきなり感情を高ぶらせたと思ったら、明は桃子の顔を足で踏みつけた。
ほっぺたが潰れて、見るに耐えない表情があらわになる。今ので口を切ったのだろう、だらしなく開いた桃子の口から血が流れ出てきた。
「こいつもそうだ。何を聞いても口を開こうとしないのさ。おかげでキミの情報は何も得られなかったよ。マジでクズだ! 使えないんだよこのバカ女!」
明は顔の上に乗せた足で、桃子を思い切り蹴飛ばした。痛々しい小さな音と共に、桃子は一回転して仰向けになる。ピクリとも動かない。
――死んでしまったのだろうか? いや、剣道で鍛えていて頑丈だから、桃子に限ってそんなことはないだろう。
考えて、れもんは自分が甘い考えをしていることにハッと気づいた。
人間は予想以上にもろい。頑丈なキョンシーとは違うのだ。
(早く助けないとマズイですよね……)
身構えて、肩を鳴らす。相手は油断している。さっきの一撃を見せたのはまずかったかもしれないが、あいつはただの人間だ。対応なんか出来るはずがない。すぐに蹴りで首を折って殺せるだろう。
「さぁ、不老不死の秘密を教えてもらおうか? 俺にはそれが絶対絶対絶対絶対必要なんだよ!」
「お前みたいな大馬鹿野郎に教えてやる義理なんてないですよっ!」
れもんは一気に間合いを詰め、足を振り回した。
これで終わりだ。彼女はそう確信した。
「やめてっ!!」
突然後ろから大きな声が聞こえた。亜里沙が叫んだのである。
その声に反応してれもんは振り上げた足を空中で静止させた。
振り向くと、亜里沙が地面に崩れ落ちて泣いていた。
「れもんちゃん、お願いだから、やめて……お父さんは、悪くないの」
「ももちゃんに手を出した時点で私の中では極悪人決定です。黙っててくださ――」
れもんが言い終えて前を向き直る前に、乾いた銃声が彼女の頭を貫いた。明が拳銃で至近距離かられもんの頭に一発弾を打ち込んだのだ。
「きゃっ!」
亜里沙は目を伏せた。
「ッ!」
れもんは頭を激しく揺らす衝撃で思わず体のバランスを崩す。が、死にはしない。銃弾はおでこの真ん中に焼き焦げた穴を開けてはいるが、そこから血が吹き出すことはなかった。
普通の人間が見たら、腰を抜かすに違いない異常な状況。だが、明はそれを見て口元を歪めて笑った。恐怖心が感じられない。
「これも実験だ! こんなんで死んだら不老不死とは言えないからなぁ!!」
「フザけたキチガイ野郎ですね……」
体勢を持ち直し、れもんは明の脇をするりと抜けた。まずは桃子を回収することに決めたのだ。
「ももちゃんを助けたらお前なんて丸腰です! 反省するなら今のうちですよ!」
無駄のない動作で自分の体よりだいぶ大きい桃子を脇に抱えると、れもんは軽やかなステップですぐ明から間を取った。
「……ハハ。いいのかよ。お前の友達、俺がスイッチ押したら吹っ飛んじゃうぞぉ?」
「なっ!?」
明は白衣のポケットから小さな赤いスイッチを取り出していた。そのボタンの所に親指をぐりぐりと当てながら、いやらしく笑う。
「ウヒヒヒヒヒ! 最初からこうしておけばよかったんだよなぁ!? でも実験出来ないと嫌だからなぁ! 実験実験実験実験!」
「ば、爆弾なんてそんなもの……」
れもんは慌てて桃子の制服をまさぐった。携帯電話や財布を見つけ次第遠くに放り投げる。
しかし、明はそんなことを全く気にせずに笑い続けている。
――ハッタリだろうか? いや、そう考えるのは危険だろう。
もし本当だったら――何かあってからでは遅い。
だが、探し続けても爆弾のようなものは一向に見つからない。やはりハッタリなのか。戸惑うれもんに明は面白そうに言った。
「無駄だよ無駄! 飲み込ませちゃったんだから無駄だよ!」
「飲み込ませる……? そんな小さな爆薬、へっちゃらです!」
れもんは明をきっ、と睨みつける。明は小さくフフンと笑った。
「キミならそうかもな。だが、普通の人間なら内臓がめちゃくちゃになってすぐ死ぬ! そんなこともわからないのかよぉ!?」
言いながら近づいてきて、明は右手に持ったスイッチをわざとらしくれもんにかざした。
「今からキミのことをよぉーく調べてやるぞ! 俺の研究の役に立つんだ! 喜べよ!」
「……くっ」
どうしようもなく歯ぎしりするれもんの向こうで座り込む亜里沙を見やり、明は大声で叫んだ。
「よかったな亜里沙! お母さんこれで生き返るかもしれないぞ! ハハハハハ!」
「……」
亜里沙は何も言えずにうつむいた。
明はそれを確認して、れもんのあごをしっかりとつかむ。
「ぐっ……」
「不思議だなぁ。頭に穴開いてるの生きてるなんて、マジで不思議だよなぁ……」
れもんはスキを見て明の持つスイッチを手刀で弾き飛ばそうと考えた。
が、地面に落ちたはずみでスイッチがオンになってしまう可能性だってあり得る。危険だ。
(これじゃ動きようがないじゃないですか……)
「おい、ちょっと口開けろ。中を調べてやるぞ……ヒヒ」
「あがっ」
嫌がるれもんの口に無理やり指を突っ込み、明は力任せに引っ張る。
「おっと、噛み付いたりしてみろ。スイッチ押すからな」
「……」
為す術も無く、れもんは明に従うしか無かった。
これから自分がどうなるのかはわからない。裸にされて屈辱的なことをされるのか。
それとも体を肉片になるまでバラバラにされて、調べあげられた後に廃棄されるのか。
魂を扱う、という概念はまず理解できないだろう。数千年前に歴史の闇に消え去った技術があることを、明が知っているはずがない。
不老不死のからくりを、こんなヤツに解明される恐れが無いということはれもんも承知していた。
だが――桃子が心配だ。
それに、亜里沙だってこんなことをやりたくてやっているとは思えない。
彼女はきっと、明の振りかざす暴力の前に怯えているだけなのだろう。
れもんにとって、この男に屈するのが文字通りの屈辱だった。
(こういう時に舌を噛んで死ねないのが、苦しいんですよねぇ……)
過去の苦々しい記憶を回想しながら、れもんはただ口を開けているしかない。
(ほんと、いやになっちゃいますよ……)
「にゃっ!!」
と、その時突然研究室に猫の声が響いた。
「……あ?」
明は自分の後ろから聞こえてきた威勢のいい鳴き声の主を見る。
そこには黒猫が四匹立っていた。
先頭にいるのは親猫で、後ろの小さな三匹は子猫だろうか。
(こいつら――確か家にいるはず。何故ここにいる?)
明のことを睨みつけているようにも見えるその猫たちを、彼は相手にしようとは思わない。
「遊んでほしいのか? あ? 今はそれどころじゃあないんだよ。実験中なんだ。消えろクソ猫共」
ペッ、と猫たちに唾を吐いて明はれもんに向き直った。
「……そうだ。お前、猫とか食べるのか? 喜べ、後で食わせてやるぞ。それもまた研究だしなぁ……研究研究」
嫌味ったらしくそう言って、れもんの髪の毛をぐいっと後ろに引っ張る。
そして、あらわになった白い首を思い切りつかんだ。
「呼吸はどうなんだ? 呼吸をしなくても生きていられるのか?」
血走った目が、狂った好奇心で満たされている。れもんは明の眼球から目をそらして、小さく笑った。
「ほんと、いやになっちゃいますよね……」
「はぁ? この期に及んで何言ってんだ糞野郎!」
その時、横にいた黒猫達が一斉に明に飛びかかった。
いや、正確には明の右手――スイッチに狙いを定めて飛びかかったのだ。
「ぐぁっ!? 何をするバカ猫共が!」
子猫三匹が右手に噛み付いた。一瞬だが鋭い痛みが走り、明はスイッチを手放してしまう。
「くそっ!」
手を振りほどいて落ちたスイッチを拾おうとしたが、スイッチはすでに無かった。
これでは桃子を人質に取れなくなってしまう。明はれもんに悟られないように周りを見回したが、どこにも無い。
(どこに行きやがった!)
必死な形相のまま顔を上げた所で、そのありかが分かった。
数メートル先で親猫――ヤマトがくわえていたのである。
「れもん」
れもんの耳に、柔斗の声が飛び込んできた。
「やっちまえ」
瞬間、れもんは明の股間を思い切り蹴り上げていた。
「っあああああ!!」
とんでもない勢いで吹き飛ばされ、机やその上の研究器具などを巻き込み、最後は壁に衝突して明は沈黙した。
れもんは蹴り上げた足をゆっくりと戻す。
「ふぅ」
「お、お父さん……」
亜里沙が恐る恐る明の元へ近づく。その背中に向かってれもんはあくびをしながら言った。
「手加減はしましたよ。死ぬことはないと思います。あ、ニュート先輩それくださいね」
「あぁ。間違って押すなよ」
柔斗はくわえていたスイッチをれもんの手の上に置いた。れもんはそれを持ったまま外に出る。
「……どうすんだ?」
「無茶苦茶遠くに投げちゃいます。電波が届かない所にまで」
言いながら、類を見ない独特のフォームで大きく振りかぶると、れもんは「おりゃ」と小さい掛け声をかけながらスイッチを投げた。
スイッチはあっというまに夜空の星の中に消えてしまった。
「……すげぇ発想だな。ホントにこれで大丈夫なのかよ」
夜空を仰ぐ柔斗に、れもんは無い胸を大げさに張って言った。
「ももちゃんの命は責任を持ってこの私、れもんがお預かりしますよ。いくら安心しても安心し足りないないくらいです」
「それって安心できないってことじゃないかよ……」
柔斗の突っ込みに、れもんは一瞬固まってしまう。
が、すぐに「こほん」と咳を一つして平然な様子に戻った。
「とりえあえずまぁ、一件落着ですね。私ちょっと疲れちゃいました」
れもんはひたいを拭う仕草をして、静かに息を吐き出した。
と、その時柔斗はれもんの頭に穴が開いていることに気づいた。
「おい! それ大丈夫か?」
「あぁ、これですか。ちょっと涼しいです。風が案外よく通るんですよね~」
「そっか、それなら心配無い――大ありだよ! お前、それギャグにならないぞ」
「それを言うなら『洒落にならない』でしょう。……っと、よっこいしょ」
慌てて近づいてきた柔斗を抱き上げ、れもんはおでこのあたりに近づけた。
「大丈夫ですって。ほら、本当に穴が開いてるだけですから」
「これ、直るのか?」
肉球でぷにぷにとつつきながら、柔斗はたずねる。
れもんは制服のポケットからばんそこうを取り出すと、頭に貼った。
「おじいちゃんがなんとかしてくれると思います。慣れっこですから。今はこうして隠しておけば大丈夫です」
何でも無いことのように言うれもんだが、柔斗はそこに不安を感じた。
「……やっぱり、こういうことってよくあるのか?」
いくらキョンシーとは言え、れもんは女の子である。とんでもない怪力や、不死身の体があったとしても、柔斗やはり心配してしまうのだ。
「まぁ…………あっ、それよりよくここが分かりましたね。ちょっとびっくりです」
「あぁ、それは――あの猫達が教えてくれたんだよ」
柔斗は亜里沙の周りを囲む三匹の子猫の方を見た。れもんは「ふひー」と嘆息した。
「やっぱり素晴らしい猫ちゃん達でしたね。私が名前を付けただけあります」
そういえば、れもんがあの三匹に名前をつけていた。
柔斗はそれを思い出そうとしてみたが、中々出てこない。
「名前……なんだっけ?」
「まさか忘れちゃったんですか?」
「あぁ……悪かったな」
柔斗がすまなそうに頭を下げると、れもんは「とても悲しいです」とでも言いたげな顔をした。いや、「失望しました」かもしれない。
どっちにしてもイライラする顔だな、と柔斗は単純に思った。
「で、なんだっけ?」
「なんでしたっけ?」
「おい! 自分でつけた名前だろ!」
「えへへー」
れもんの締りの無い笑顔。
色々思う所はあるが、柔斗はそれを見てようやく安心が心の中に収まった気がした。
◯
柔斗とれもんが話している間に、亜里沙は近くの病院に連絡していたらしい。
それが終わったのか、彼女は二人に近づいてきた。
それに気づいた柔斗は、れもんに小声で話しかける。
「なぁ、れもん」
「何ですか?」
「俺、亜里沙と話がしたいんだけどさ」
柔斗がそう言った途端、れもんの表情が変わった。
何かを深く考えているような、そんな表情である。
「……思い出したんですか。死んだ時のことを」
「まだ確証は持てないけどな。たぶん、記憶が混乱してバラバラになってたのが、くっついてきたんだと思う。じいさんの話だと俺、気を失ってたらしくてさ。その間に夢を見たんだ。縁起でもないけど、死んだ時の夢。で、俺はやっぱり亜里沙の――」
言い終わる前に、れもんは亜里沙の所へ向かって歩き始めた。
「恋人さん――なんですよね」
地面に下ろされた柔斗は無言でその後を追う。
なぜ、れもんが寂しそうな表情をするのか、彼には分からなかった。