くすんだレモネードを手にとって
マタタビタイマー
三 マタタビタイマー
「でも、どうやって探したものかね……」
れもんの部屋で、桃子は唸っていた。
別に怒っているわけではないのだが、発せられるオーラのために、そこに近づこうとする猫もキョンシーもいない。
曙だけは、最後まで桃子のふくよかな胸に挟まっていたのだが、彼女が唸りだした途端に柔斗の方へと逃げてきたのだった。
(よく考えてみたら、この部屋人間一人だけじゃねぇか……)
子猫三匹に体を任せながら、彼はしみじみと驚きを味わっていた。
なるほど確かにここは奇妙な空間だ。
幽霊になった時も随分と奇妙なものだと驚いてはいたが、コッチのほうが更に奇妙である。
れもんは柔斗の横に座って、悩む桃子に声をかけた。
「ももちゃん、提案です」
「うむっ、学級委員として発言を許可する」
難しい顔をしながらそんなことを言う彼女が、柔斗にはどうも合っているように思えた。
れもんは掴みどころの無い表情を浮かべながら、柔斗を指さす。
「とりあえず、この子を倒れていた場所まで連れて行けば、何か分かるかも」
「おおっ! その手があったね。てかそれを早く言わんかい」
呆れながらも、桃子は手を叩いて喜び柔斗に近づいてきた。
――まさか、抱かれるのか。
期待と誘惑の中で幸福感を隠せない柔斗を抱き上げたのは
「あ、ヤマトちゃんは私のものですよ」
れもんだった。
さっき抱かれた時にも感じた、冷たくごつごつとした感触が彼を包み込む。
その冷たさが、彼の失楽を加速させる。
「む……しゃーないか」
桃子は残念そうな顔をしながら子猫達を撫でている。
(残念なのは俺の方だ……)
柔斗はれもんに抱かれながら、悲しげに鳴いた。
どうにも無情な「にゃー」の一声は桃子には届かなかった。
◯
山からの一本道を降りていくと、すぐに住宅街につながっていた。
あぜ道から舗装された道路へと変わり、外灯も規則的に並ぶようになっていく。
碁盤の目のような道路を歩き続けてしばらくして、ふとれもんは立ち止まる。
ブルージャージに身を包んで柔斗を抱いたまま、あたりをきょろきょろと見回している。
「確か……この辺だったと思います」
そこは信号もない、何の変哲もない十字路である。
四つの曲がり角には、つまらなさそうにぽつんぽつんと電柱が立っていた。
桃子はその一本一本を見上げながられもんに尋ねる。
「ここ?」
「はい。確か、ここの端でヤマトが横になっていて」
四つのうちの一つの根本をれもんは指さす。
「その周りに子猫たちがいたと」
「はい、そういう感じです」
「と、いってもこれじゃ手がかりが少なすぎる気がするよね」
桃子はスタイルのいい体でモデリストのようにポーズを決めながら十字路のど真ん中に立っていた。
子猫三匹を抱えていなかったら、見とれる人もいたに違いない。
あちこちを見回して何か考えているようである。
「うーん。猫ちゃん捜索の張り紙も貼られてないな」
電柱に張られているのは、どれもいかがわしいピンク色の求人広告か、消費者金融のチラシである。
それを見ながら、れもんは落ち込んだように答えた。
「……ですね」
「なら、この近くの家に聞込みしてみるしかないかな」
言って、桃子はすぐ近くにある家の門の中へと入っていってしまった。
れもんは驚いて彼女を呼び止める。
「ちょ、ももちゃん!?」
その拍子に腕にでも力が入ってしまったのか、柔斗もといヤマトの腹部を強烈な圧迫感が襲った。
キョンシーの超絶な筋力が、彼の内臓を破裂寸前まで圧縮する。
「うげっ……!」
(ギブ……ギブ……!)
「善は急げってよく言うでしょ? それよ、それ」
「でも……」
不満そうに口を曲げるれもんの腕の中で、柔斗は生死の境をさまよっていた。
だが、悲しいことにそれには誰も気付かない。
桃子はれもんの不安を吹き飛ばすように爽快に笑った。
「いいのいいの。総当たりよ、総当たり。ほら、選挙前の政治家になったつもりで、さ」
「私、別に立候補するつもりじゃ……」
「日本妖怪党を立ち上げる時がいつかくるかもしれないじゃん。人生はなんでも予行練習だよ」
タメになりそうでならなそうな、よく分からないことを言って、桃子はそのまま躊躇なくインターホンを押してしまう。
「はぁ……」
渋々ながら、れもんもそれに続いたのだった。
「はぁ……はぁ……」
そして、ようやく緩められた緊迫の中で、柔斗は荒々しく呼吸をしていた。
それから数時間、辺りの家を色々回ってみたが、中々飼い主は見つからない。
玄関を開けてもらい、それぞれが抱く黒猫を見せて尋ねてみるもの、どの住人も見たことが無い、知らないの一点張りで首を横にふった。
三番目に尋ねた気の良さそうな主婦は「三毛猫ならよく見るんだけどねぇ。あ、そうそう。三毛猫のオスって珍しいらしいわよ。理由は知らないんだけどね」と教えてくれたが、二人は苦笑いを浮かべてうなずくしか無い。
結局、こうして日が暮れて街が暮れなずむまで頑張ってみたものの、この猫の飼い主はおろか、目撃証言すら得ることは出来なかったのである。
「うーん、おっかしいよねぇ……」
桃子は不満そうな表情を浮かべた。
心なしか、その胸に抱かれる子猫たちも寂しそうに見える。
もうあの事故現場からは大分離れてしまっていた。
「この辺に住んでるんなら、誰かしらこの子達を見たことがあると思うんだよね。散歩してるとことかさ」
「確かに、真っ黒だから目立たないことはないですよね」
言いながら、れもんはやさしく柔斗をなでる。
「もしかして……どこか遠くからやってきたのかも」
なでながら、熟れたオレンジ色に染まる空を見上げた。
つられて、桃子も不思議そうに見上げる。
「遠くって?」
「例えば……宇宙からとか」
にへへ、とれもんは不気味に笑った。
「アホかい」
いつもなら同時にれもんの頭へチョップが炸裂している所だが、流石に子猫を抱えている今はそんなことは出来ない。
桃子は呆れながら、れもんの横に並んだ。
「……次で最後にしよっか」
「ですね。すみません、病み上がりなのにこんなことに一日つきあわせちゃって」
「いいのいいの。アタシはちゃんと熱が冷めて平熱になってからさらに一日大事を取る派なのよ。だから体調は完璧」
(どんな派だよ。ちなみに俺は大事をとらずにこじらせる派だ)
れもんに抱かれたまま、柔斗はジト目で桃子を見やる。
それから、ぽんぽんとれもんの腕を叩いた。
『なぁ、れもん。俺が何か思い出せるといいんだけどな』
『どういうことですか?』
『この体に記憶とか残ってたりしないのかな、ってこと』
子猫達は覚えていなくても、ヤマトなら飼い主がどこに住んでいるかちゃんと覚えているに違いない。
その記憶が柔斗に読み取れれば、確かにこの目下の問題は解決するだろう。
だが、れもんは残念そうに首を振った。
『……無理ですね。魂が抜けてしまった以上、その体には何も残っていませんよ』
『そうか……』
二人が落胆している間に、桃子は勝手に大きな家の門の中へと入っていってしまった。
「あっ、ももちゃん待ってください!」
◯
「最後だからってこんな大きな家にしなくても………」
「大きい家の方が色々知ってそうじゃない」
れもんは何か言おうと口を開きかけたが、不満そうに頬を膨らませているだけだった。
一方、桃子は鉄製の荘厳な扉の前で物怖じせずにインターホンを押している。
すると、けたたましいベルの音が聞こえてから、中から「はーい」と女の子の声が聞こえてきた。
しばらく待っていると、扉が開く。
中から出てきたのは、れもんや桃子とそんなに年の変わらなさそうな女の子である。
「何か用でしょうか……?」
くるりと巻き上げられたロングの髪。
おしとやかな口調。
着ている服からして、どこか気品溢れる感じの女の子は、弱々しいまなざしをドアの前の集団に向けている。
どことなく疲れているようにも見える。
桃子は胸元の子猫達に視線を送ってから、単刀直入に切り出した。
「この近くでこの猫ちゃん達を拾ったんですけど、知りませんか?」
「えっ!?」
女の子は素っ頓狂な声を上げると、桃子の胸を食い入るように見つめ、それからはっきりとうなずいた。
「ま、間違いないです」
「間違いないって?」
「はい」
首をかしげる桃子の質問には答えず、女の子は探るようにたずねた。
「あの、この子達はどこで……?」
「だから、この近くです」
なにがなんだかわからない表情で桃子が立ち尽くしていると、女の子はうれしそうに笑顔を顔中に浮かべる。
「そっか……ありがとうございます! この猫達、私の家の猫なんです」
「えっ? そうなんですか?」
「はい。数日間からどこかに行っちゃってて、心配してたんです……よかったぁ」
安堵した声で、女の子はありがとうございますと頭を下げた。
そして、なんとお礼をしていいものやら、と言いながらその場であたふたとしている。
その時、柔斗はその光景を見ながら、どうも府に落ちない気がしていた。
『おい、れもん』
『なんですか?』
桃子が女の子と話している間、彼の心の中でふつふつと違和感が湧き出ていたのだ。
『もう少し抱き上げて、あの子の顔をよく見せてもらっていいか?』
『なんですか。惚れちゃいましたか、あの子に』
ニヤニヤしながらヒゲをつついてくるれもんの指を短い前足で押さえつけながら、違う違う、と柔斗は首を振る。
『なんか、気になるんだ』
『なにがです?』
『いや、あの子が』
『なんだ、やっぱり惚れたんですか』
それは、その子の声が、どうも聞いたことあるような声だったから、かもしれない。
しかし、よくはわからない。
けれど、どうもその面影は、どこかで見たことがあるような気がするのである。
思い違いにしては、いやにハッキリと柔斗の記憶に跡を残しているのだ。
『頼む』
柔斗は目でれもんを促す。
『むぅ……そんな顔されたらやってやるしかないですね』
れもんは柔斗を抱えたまま、桃子の横に進みながら女の子に声をかけた。
「あの、この子も拾ったんですけど」
「えっ?」
柔斗を抱き上げて、女の子の顔がよく見えるように持っていく。
女の子は不思議そうにその猫を見つめた。
そして、予感は的中した。
(な……!?)
柔斗は女の子の顔を唖然と見つめ
「うそ……?」
そして、女の子もまた、彼の顔を食い入るように見つめている。
しばしの沈黙。
そして、先にそれを破ったのは女の子だった。
「そんな! どうしてこの子がいるんですか!?」
目を文字通り丸くして、女の子は柔斗の顔に手を添えた。
オーバーに驚く女の子に怪訝な顔をしながら、れもんは答える。
「ケガしてたのを手当したんですよ。子猫ちゃん達はこの子と一緒にいました」
「奇跡! 奇跡ですね!」
「へ?」
女の子はさっきと打って変わったように、目を輝かせて柔斗を抱き寄せた。
その当の柔斗は、完全に放心している。
(おいおい……こんなことって……)
彼もまた、違うところで起きた奇跡にあきれ果てていたのである。
そんな二人の心境を察することもできず、桃子とれもんはお互い目を見合わせてから、目の前の女の子に向き直る。
「と、とにかくなんか解決したみたいですね。猫の飼い主はあなたなんですか?」
桃子に言われて、女の子は我に返った。
「あ、はい! ありがとうございます! なんとお礼をしていいのやら……」
「いえいえ、お構いなく」
キリッと音が聞こえてきそうな、輝かしい(いいことやったんだ的な達成感を豊富に含んだ)笑顔を浮かべて、桃子は言った。
一方、女の子に抱かれた柔斗は必死になって首を振っている。
そして、れもんに向かって口をパクパクと開け閉めしながらこう言った。
女の子は、桃子に子猫達を小さなゲージに入れるように頼んでいる。
『おい、まさか俺はここに置いてきぼりか?』
「…………」
しばらくその様子をれもんはジト目で見つめているだけだった。
そんなことには気付かず、桃子はやりきった笑顔で頭を下げた。
「それじゃ、私たちはこれで……」
『待て! 待ってくれれもん!』
さすがにかわいそうだと思ったのか、れもんは静かに女の子に言った。
「あの」
「はい」
「その猫ちゃんなんですけど」
「はい」
うれしそうに頭をなでる女の子に、れもんは続ける。
「実は、まだ治療が完全に終わっていないんです」
「そ、そうなんですか?」
途端に、女の子は不安そうに声を震わせる。
「はい。私の家、獣医やってるんです。だから、もうちょっと待っててもらってもいいですか? やっぱりまだ調子悪いみたいです」
嘘八百を余裕について、にっこりと笑ってれもんは手を伸ばす。
その顔が死に神のほほえみにも見えなくないと柔斗は思ったが、ここでは口を避けてもそれを言うつもりはなかった。
とにかく、今はとにかくここから逃げ出したかったのだ。
確かに、女の子に抱かれた猫の柔斗は、ずいぶんとぐったりと憔悴しきっているようにも見える。その嘘は、すんなりと女の子に受け入れられた。
「……わかりました」
少し寂しそうな表情を浮かべつつも、女の子は柔斗をれもんの元に返した。
ちょうど、桃子も玄関に置かれたかごの中に子猫を入れ終わったようである。
「じゃ、私たちはこれで……」
「あ、はい! 本当にありがとうございます」
礼儀正しくぺこりと頭をさげる女の子を見届けて、一行は家を後にした。
二人は山道を上り、すっかり暗くなった広場に戻ってきていた。
「じゃあ、今日はこの辺で」
「うん。てか、ヤマト大丈夫なの?」
「ちょっと家で休ませれば大丈夫ですよ」
どうもヤマトの調子が悪いからということで、桃子も納得して家に帰っていった。
れもんは腕の中で不自然にぐったりとする柔斗に、玄関にあがりながら声をかける。
「どうしたんですか? 別にそんな長く演技しなくてもいいんですけど。あれですか、猫でハリウッドスターでも目指すんですか」
「違う……」
弱々しい声で柔斗は言った。
「とりあえず、降ろしてくれるか?」
「はい」
黒ずんだ板の間に足をつけると、ふらふらとした足どりで柔斗はれもんの部屋に向かった。 その後をれもんがゆったりと追いかける。
れもんの部屋にはいるまで、二人は無言で歩き続けた。
その数秒間が、柔斗にはとても長く感じられた。
部屋に入ると、柔斗はそのまま悪趣味なクッションの上に横になる。
そして、弱々しく口を開いた。
「……あのさ」
「はい」
「さっきの女の子……」
「なんですか、やっぱり惚れちゃったんですか」
お腹をでろんと出しているのをいいことに、れもんは柔斗の腹をつんつんとつつきまくる。
それすら気にならないのか、彼は憔悴しきった様子で口を開く。
「実は……」
「実は?」
うわごとのように。
「俺のこいびと……」
笑っちまう話だよなぁ、と自嘲にまみれた呆れのようにそれだけ言って、柔斗は力つきるように、真っ白に燃え尽きてクッションの中に沈んでいった。
「へ?」
もちろん、その言葉を聞き捨てることなく、れもんは柔斗に詰め寄る。
「どどど、どういうことですか?」
だが、柔斗はやすらかな寝顔を見せるだけである。
そうとう精神的に磨耗したらしいが、その理由がどうにもわからない。
恋人? 愛人?
れもんの頭の中で、疑惑で少々破廉恥な言葉が飛び交う。
「……気になります」
納得出来ないのでぺちぺちと小さな顔をはたいていたら、苦しそうな顔をして、柔斗がうわごとのようにつぶやいた。
「ありさ……ありさぁ……」
「だ、誰ですかそれは!?」
聞き慣れない女の名前に、れもんは思わず、柔斗を平手で叩きつぶしてしまった。
悲鳴を上げることも無く、彼は青白いレモンの形のクッションの中に完全にめり込んでいく。
「あっ」
我に返った時にはもう遅い。
まるで粘土の中に飲み込まれたように、柔斗の小さな鼻だけが、かすかに息の音を立てているのみだった。
なんとも奇妙で、やすらかな光景である。
「や、やりすぎちゃいましたかね……」
自分の青白い手をまじまじと見つめてから、れもんは柔斗が起きそうに無いことを確認する。
逆に、こんな状態になっても目が覚めないのが気味が悪いくらいではあるが。
「むぅ…………」
れもんはそのまま布団に潜り込んで、電気を消した。
聞きたいことが山ほどあるが、それは別に明日でもいい。
そう思って、ゆっくりと目を閉じる。
――キョンシーは、夜更かしをしないらしい。