幼児の名前は田中将太。まだ幼い彼は3歳児である。将太は、銀のボウルに持った白い泡をかき混ぜる女を子供用のミニテーブルの付いた椅子に座りながら見守っていた。女は、黒く短い巻き毛を生やしており、ピンクの毛糸のセーター、長いデニムのスカートを履いて、フリルが沢山着いた白いエプロンを身に着けていた。女は将太の母だ。
母の白いうなじを将太は見詰めていた。頭とくびの境目には黒い、柔らかそうな細い毛がふさふさとしている。あと、右耳の下の首に大きなホクロが一つあった。
「まんまっ」ママ。将太は母を呼んだ。
母親は将太の方へ振り替えると、優しく微笑む。将太も微笑まれた事が嬉しくて、笑いがこみあげてきた。
ピンポン
「あら、誰か来たわ」そう言って、将太の母親はパタパタとスリッパを鳴らしながら玄関へ走って言った。将太は母が自分の見えない所に行ってしまったのが悲しくて、母親が消えてしまった壁の向こうに手を伸ばした。
「まんーまあっ」ママー!
いくら呼んでも、母親は自分のもとへ来てくれない。将太はだんだんむかっ腹が立ってきて、テーブルを拳でドンッと叩いた。
「まああ!んまっあああああああああああ!」奇声をあげても母は戻って来ない。将太は一人ぼっちにされて寂しいのと、母が来ない苛立ちと、不安な気持ちで、どうしようもないくらいに頭が燃え立ち、耐えきれなくなって泣きだした。
そうして泣いていると、母はやっとこさ戻ってきた。将太は泣きながらも母が戻ってきてくれた事に喜び、小さく笑って出迎えた。
しかし、母は違った。顔を醜い紫色に染め、口をへの字にゆがませ、眼は思いっきりつりあげている。
母は早歩きで将太の座っている椅子の前まで来ると、将太の頬を強く張り倒した。その反動で、将太は椅子から吹き飛び、部屋の壁にぶつかって、一度跳ね、地面に落ちた。
将太は訳が分からなかった。何が起こったのか分からない。どうしてこうなったのか分からない。どうして母は自分を叩いたのだろう?ただ声を上げて泣くばかり。
母は更にうつぶせで泣いている将太に飛びかかると、何度も頬を叩きつけ、頭も体も叩ける所はどこでも叩きまくった。
バンバンバンバンバンッ
ドスドスドスドスドスッ
いつの間にか母は片手に包丁を握りしめ、それを振りかざして、目の前の塊に何度となく突き刺していた。正気ではなかった。目はどす黒く沈みこみ、光も何もない。
もう既に将太は泣いていなかった。
一時間後、母はめった刺しにしていた手を止めて、体を震わせた。血みどろの手と床と血の塊の肉を見て、心臓が一瞬止まった。ぶるぶると震える手から、包丁が血だまりの出来た床の上に落ちた。血のしぶきが足にかかった。
「あああああああああああああああああああああ!」
母は狂人のように絶叫し、泣き叫んだ。
将太はテーブルの上に座っていた。そこから、床にしゃがみ込んで泣いている母の頭のつむじを見降ろしていた。将太の隣にもう一人、お爺さんが座っていた。お爺さんは慰めるように将太の肩を抱き、将太の頭を撫でた。
「わしが守ってやるからな。そばを離れるなよ、わしについておれば何も問題などないんだからな」
将太は頷き、お爺さんの顔を見上げた。お爺さんは顔がなかった。いや、あったのかもしれない。ただ、黒く塗りつぶされていて、見えなかった。
「ママどうしたの?」と将太は母を指さしてお爺さんに聞いた。
「お前のお母さんは使われたんだよ」とお爺さんは答えた「お前の魂を食おうとした奴がいたんだよ。だが、わしがそうさせなかった。」
「あれなあに?」と将太は母が抱きかかえている血濡れた肉塊を指さして聞いた。
「お前だよ」とお爺さんは言った。
将太が泣こうとして顔を歪めると、お爺さんは将太の背中を優しく叩き、「だが、あれはゴミであり、お前はここにいる」と付け足した。
お爺さんが立ちあがったので、将太も立ちあがった。お爺さんは将太の手を引いて、ピンクの糸を広げ、その中に入っていった。将太は、今だ、自分に何が起こったのかわからないまま、ただ、腕を引かれるがままに、お爺さんの後ろについて行く。