Neetel Inside 文芸新都
表紙

百合小説短編集
2006/Milano/Regista

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 十二月のミラノは、ひどく冷え込む。深夜ともなれば、凍りつくほどだ。
 この夜はなおのこと寒く、昨日空調機が壊れたおかげでルイゼは毛布をかぶりながらノートPCに脚本案を打ち込むハメになっていた。今日の朝──午前九時からの会議までに新作を五本まとめて提出しなければならないのだ。空調機メーカーのサービスセンターに電話するヒマもないほど、彼女は追い込まれていた。
 さいわい、ノルマはあと一本。徹夜すれば間に合う。神の啓示が降りれば一時間で仕上げることも不可能ではない。あいにく、ルイゼは無神論者だったが。
 薄暗いリビングルームには、彼女のほか誰もいない。静まりかえった空間に、キーボードの音だけが響く。なにもかもが、死んだように静かだ。
 超高層マンションの四十階。地上を走るクルマの音も、ここまでは届かない。とても快適な空間。──空調さえ壊れていなければ。
 鬼気せまる顔でキーを打つルイゼは、野生獣のような強さと美しさをそなえている。ほっそりした体と意思の強さをあらわす眼光は、さながらチーターのようだ。しかし、今夜のチーターは少々不調気味だった。眠気ざましのコーヒーにアマレットをまぜたのが原因かもしれない。
 コツッ、と小さな音をたてて、壁時計が午前一時をさした。
 その直後、玄関からカギをあける音。そして、「凍え死ぬー」という声が届いた。
 ルイゼの手が止まる。
 ゴツゴツと床を踏み鳴らす音が近付いてきて、リビングのドアが開かれた。
「あああああ、すっごい寒かった。なんなの? ミラノって北極だった?」
 帰ってきたのは、エニス・シャテル。ルイゼのパートナー、同居人、仕事仲間で、恋人だ。おまけに映画女優でもある。世界的な有名人。真冬にもかかわらず露骨に胸元のあいたワンピースを着て、分厚いロングコートを羽織っている。ストレートパーマをかけたプラチナブロンドは、ラフな感じのサイドテール。顔が赤いのは酔っぱらっているせいだ。
「おかえり。いま仕事中だから邪魔しないでね」
 ノートPCの画面に目を向けたまま、ルイゼは突き放すように言った。
 エニスは何も聞こえなかったかのように歩いてきて、バッグをソファに放り投げ、うしろからルイゼに抱きついた。
「邪魔するー!」
 押しつぶすような勢いだった。吐息が酒臭い。香水と煙草とチョコレートの匂いもする。ひどく甘ったるい匂い。まるで、麻薬のような。
「どきなさい! 痛いでしょ!」
「えー? どこ? どこが痛いの? ここ?」
 エニスの右手がルイゼの太腿をまさぐって、そのまま股間に入りこんだ。
 遠慮も躊躇もない。エニスの指は、あっというまに下着の中まで侵入していた。
「ちょ……! やめなさい! いま忙しいんだから!」
「そういうときこそ気分転換が必要なんだよ」
 外から帰ってきたばかりで、エニスは全身冷えついていた。当然、指も。
 秘部にこすりつけられる氷のような指先が、たちまちルイゼを湿らせた。体温と心拍数が急上昇し、頬は薄紅色に染まる。
「馬鹿! やめてってば!」
「やめなーい」
 のしかかりながら、エニスはルイゼの耳を舐めた。耳たぶの裏側から首筋へ、さらに肩へと舌先が流れていく。キーボードに手を置いたまま、ルイゼは目を閉じて体を震わせた。
「や……、やめ……」
 抵抗する声は、それ以上つづかなかった。
 エニスはルイゼのことなら何でも知っている。誕生日も血液型も家族構成も病歴も。ワインとコーヒーが好きなことも知っているし、どこをどうすれば悦ぶか、完全に把握している。自分の体より詳しいぐらいだ。
「ルイゼはあたしを愛してるの。だから、あたしにさわられると嬉しいの。ちがう?」
「ああ、もう。ほんとに……」
 エニスはルイゼより五つも下だが、こういうときは完全にリードされてしまう。初めて関係を持ったときから、ずっとだ。
「気分転換する? しない?」
 そんな質問をする間も、エニスの指は動きつづけている。その動きは恐ろしくバリエーションゆたかで、一流のギタリストよりも技巧的だ。しかも、その技術はルイゼに対してのみ発揮される。
「酔っぱらいすぎよ。どれぐらい飲んだの?」
 問いには答えず、ルイゼは首を後ろに向けた。おたがいの瞳孔に自分の姿が映っているのが見えるぐらいの距離。視線だけで意思が伝わる。そういう距離。
 もとより、ルイゼも本気で抵抗していたわけではない。たしかに気分転換は大切だ。それに、毛布よりはエニスのほうが温かい。
「えー? どれぐらいだっけ。待って。いまメモリにアクセスするから」
 エニスの指が止まり、遠い過去のことを思い出そうとするように彼女は天井を見上げた。
「んー。二本ぐらいかな。たしか。うん。二本ぐらいだ」
「ワイン?」
「ブランデー」
「飲みすぎ」
 言いざま、ルイゼのほうからキスした。唇だけではない。唾液を交換するような、舌を絡めるキス。泡立った唾液が唇の間からこぼれて、床に音を立てるほどだった。
 その音がスイッチになって、エニスの指が踊りだした。
 人差し指と中指が、ルイゼの中に。親指は、それより敏感な部分に。小指がもうひとつの穴を撫でて、薬指が穴の間を行き来する。ついでとばかりに、左手の指が耳の中に入りこんだ。
「待って。もうちょっとゆっくり……!」
 こらえきれず、ルイゼはテーブルに突っ伏した。キーボードの上に投げ出された手が、滅茶苦茶な文字列を画面に表示させる。
「え? だって忙しいんでしょ?」
「そう、だけど」
「だから、早く終わらせないと。ね?」
「あっ、くぅ……」
 入りこんでいる二本の指が、機械のような正確さで交互に出入りした。ミシンが針を打つような動き。一回ごとに、グヂュッという音がする。
 地上四十階の、この部屋は。ひどく静かで。空気を震わせるのは、指の動く音とルイゼの喘ぎ声。それにノートPCの駆動音だけだ。
 そのまま、緩急をつけることなくエニスは指を動かしつづけ、抵抗の余地もなくルイゼは果てた。エニスが帰宅してから、わずか五分のこと。

     

「どう? 気分転換してよかったでしょ?」
 どろどろに濡れた指をティッシュで拭きながら、エニスが問いかけた。
 テーブルに頬を押しつけたまま、ルイゼは泣きそうな顔で答える。
「馬鹿。最後の一本、仕上げられないかも。まにあわなかったら、あんたのせいよ」
「ねえ、マドレーヌ食べる?」
「人の話、聞いてた?」
「聞いてたよ。ねえ、緊急プロジェクト始動。あたしがマドレーヌを用意するから、ルイゼはカフェオレを用意して。いますぐに」
 ひと仕事終えたような満足顔で立ち上がると、エニスはソファへ走り寄り、バッグからモロゾフの紙袋を取り出した。
「用意って、マドレーヌは買ってきただけでしょ。しかも、あなたじゃなくマネージャーが」
「お金は払ったよ?」
「そういうこと言ってるんじゃないけど。……まあいいわよ。カフェオレね。はいはい」
 よろけながら立ち上がると、ルイゼは毛布を引っかけたままキッチンへ移動した。
 彼女はコーヒーの愛好家で、冷凍庫には三十種以上の豆が保管されている。買ってくるのは生豆だ。彼女のオリジナルブレンドは、知人たちの間で人気が高い。
 冷凍庫を開けると粉が残っていたので、ルイゼはホッとした。この時間から豆をブレンドしたりローストしたりと考えると、気が遠くなる。やれやれとばかりにコーヒーメーカーのコンセントを差して、ドリッパーをセットし、目分量で粉を投入。ポットから湯を入れると、すぐにドリップが始まった。
 その匂いに引き寄せられたように、エニスがやってくる。
「ああ、いい香り。これを嗅ぐと、我が家に帰ってきたって思うよね」
「あ、そう」
「あたしの親が、カフェやってたからさぁ」
「それ、千回ぐらい聞いた」
「もっと言ってると思うけど」
 エニスはサイドテールにしていたシュシュを外して放り捨てると、ルイゼの背中に胸を押しつけた。
 コートを着たままだ。ボタンはかけてない。ゆたかな胸の谷間がつぶれて、形を変えた。
 ルイゼは何も言わず、エニスの体温と息づかいを感じながらコーヒーメーカーを見つめている。ぽたぽたと落ちてくる琥珀色の液体を、意味もなく数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ──。
「コーヒーって、媚薬の効果があるんだよね」
 体を押しつけながら、エニスは大きく口を開いて舌を出し、ソフトクリームでも舐めるようにルイゼの首筋を舐め上げた。
「っ……!」
 声が出そうになったのを、ルイゼは反射的に噛み殺した。つい数分前いかされたばかりで、ひどく敏感になっている。どこを舐められても、甘い声が出そうだった。どうにか落ち着かせようと、シンクの天板に両手をついて呼吸をととのえる。
「……それも千回ぐらい聞いたから。だいいち、私が教えたことじゃないの、それ」
「うん。ルイゼには色々おしえてもらったよ」
 まるで痴漢のように、エニスは手の甲でルイゼの尻を撫でまわした。
 もう一方の手は、ルイゼの髪をとかしている。美容師のように慣れた手つき。ただ、とかした髪に唇を寄せる美容師はいない。
「なんなの? 発情期? 生理には早いと思うけど」
 生理が近付くと色情魔になるのがエニスの欠点で、ルイゼはその周期さえ完全に把握している。数日の狂いはあるとしても、まだ一週間以上早い。
 エニスは首を横に振り、しきりにルイゼのうなじを舐めながら「ちがうよ」と言った。
「じゃあ、なにがあったの?」
「今日、試写会に行くって言ったじゃん?」
「うん」
「見てきたんだけど、ひどい映画でさ」
 熱い息を吐きながら、エニスは何度も何度もルイゼの首や耳を舐める。ドリップされるコーヒーの一滴一滴と同じリズムで、その動きは休みなく繰りかえされた。
「ひどいって言われても、それだけじゃなにもわからないし……。どういう映画だったの?」
「結婚して五十年も仲良くしてる夫婦がいるんだけど、偶然おなじ日に別々の場所で事故で死んじゃうんだよ」
 話している間も、エニスの舌は同じ箇所を舐めつづけている。肩から耳にかけてのラインを、何度も何度も。そのたびに、ルイゼの体はピクッと動く。
「ふうん。……それで、最後はどうなるの?」
「どうもならないよ。五十年間の夫婦生活を映して、最後に死んでオシマイ。それだけ。たぶん、『天国で再会しました。めでたしめでたし』ってオチなんだろうけどさ」
「なにそれ。くだらない」
「筋書きは幼稚だったし俳優も普通だったけど、音楽が良くてさ。いつのまにか泣いちゃった。あれ撮った人はタダモノじゃないよ」
 ルイゼの耳たぶをそっと噛みながら、エニスは強く腰を押しつけた。後背位から犯すような姿勢。びくんと全身を震わせて、ルイゼは立ちすくんだ。
「やめてってば! コーヒー飲むんでしょう!?」
「コーヒーも飲むけど、これも飲む」
 エニスが、いきおいよくルイゼの上着をたくしあげた。真っ白な腹部があらわになり、毛布が床に落ちる。
「ちょ……ちょっと待って!」
 振り向いたルイゼの背中が、シンクに押しつけられた。生まれつき体の柔らかいルイゼは、押されるままに体を反り返らせる。ナイトウェアなので、ブラジャーは着けていない。こぼれだした乳房の頂点が、くっきりと尖っていた。
 お菓子を目にした子供みたいな笑顔で、エニスはそれを口に含んだ。豆粒のようになった乳首を、舌で何度も転がす。
「馬鹿。やめてって……!」
 ルイゼは声をあげたが、それは彼女自身にもわかるぐらい愉悦に満ちた声だった。いま指を入れられれば、数秒で逝きそうだ。
「ミルク出ないね」
「出るわけないでしょ」
「つまんないの」
 最後に舌全体を使って乳首を舐め上げると、なにごともなかったようにエニスはリビングへ戻っていった。
 ひどく中途半端な気分で置き去りにされて、ルイゼは全身で溜め息をついた。まるで、不能者にレイプされたような心地。トイレに入って自分で処理しようかという考えが頭に浮かんだとき、コーヒーメーカーがアラームを鳴らした。ドリップが終わったらしい。
 下等動物のような考えを振り払い、ルイゼはペアのマグカップを持ってきてコーヒーを注ぎ分けた。酸味と甘味の入り交じった香ばしい匂いが、熱くなった頭を少しばかり冷静にさせる。エニスのカップにだけミルクと砂糖を足して、リビングへ。

     

「あ、来た来た」
 エニスは帰ってきたときの服装のまま行儀良くテーブルの前に座っていた。コートを脱がないのは、暖房が壊れているせいだ。彼女の前にカップを置き、その反対側──ノートPCの前に、ルイゼは腰を下ろした。なにも言わず、黙々と仕事を再開する。
「それって、いつまでに終わらせる約束なの?」
 コーヒーをすすりながら、エニスが問いかけた。
「今日の九時まで」
「夜の?」
「朝に決まってるでしょ。夜から制作会議やるわけない」
「あー、じゃあギリギリだね。もうすこしルイゼで遊ぼうかと思ったけど、しょうがない。おとなしくしてるよ」
 そう言って、エニスはマドレーヌをかじりはじめた。一口サイズだが、一個三ユーロの高級品だ。アールグレイのエッセンスとキルシュ漬けのダークチェリーを刻んだものが、生地に練り込まれている。封を切っただけで紅茶とバターの香りが広がるほどだ。
 こぼれるような笑顔でそれを食べ終えると、今度は一転して真剣な顔になり、エニスはマドレーヌの箱を見つめはじめた。しばらく思案したあとで、選ばれたのはココア味。これもまた、ビターチョコのチップがふんだんに散りばめられた逸品だ。
 それを食べている間、エニスは一言もしゃべらなかった。
 が、おとなしくしていたのはそこまでだった。ふたつめのマドレーヌを食べ終えると、彼女はマグカップを持ってルイゼの隣にやってきた。
「おとなしくしてるって言わなかった?」
「え? おとなしくしてるじゃん。ただ近くに座っただけだよ」
 と言いながら、エニスの手はルイゼの脚を撫でている。
「手がおとなしくしてないようだけれど?」
「最近、サイバネの神経接合が不調なんだよね。ノイズが入ると、勝手に動いてさあ」
「三十年ぐらい前のSF映画?」
「古すぎた? じゃあ、こうしよう。じつはこの右腕には封印されし妖怪の力が……」
「子供のころ、そんなアニメがあったわね」
 つとめて冷静に、ルイゼはキーボードを叩きつづけた。エニスの手は気になるが、払いのけるほどではない。無論、放置すればエスカレートするのはわかりきったことだ。それを期待していないと言えば嘘になる。
「それにしても、映画っていいよね」
 そんなことを言いながら、エニスはルイゼの肩に頬を押しつけた。もう、おとなしくする気はカケラもないようだ。
「あらためてそんなこと言われても、返事に困るわね」
「映画監督に向かって言うことじゃなかったか」
「インタビュアーに言っておけばいいのよ、そういうくだらないことは」
「あたしがそんなマトモなこと言いだしたら、それこそエイリアンに乗っ取られたんじゃないかって大騒ぎになるよ」
 エニスは非常にエキセントリックかつユニークな女優として知られている。すくなくとも公の場所で「映画はすばらしいものです」などとコメントしたことは一度もない。その逆は何度もあるが。
「でも、今日の映画はひどかったなあ」
「老夫婦が死ぬとかいうやつ?」
「そうそう。それまで五十年間……結婚前も含めて七十年ぐらい、とくに病気も事故もない平和な生活だったんだよ? まぁ正直に言ったら退屈なシナリオだったんだけど、それがいきなり夫婦そろって事故死だからね。あれはないよ。いったいなに考えて、あんなの作ったんだろ」
 始末できない感情をぶつけるように、エニスはルイゼの肩に頬をこすりつけた。ブランデーの匂いと香水の匂いに混じって、かすかにリンスの香りがする。
「人生は儚いとか、ありきたりのことを言おうとしただけでしょ。そんなふうに色々考えさせた時点で、監督の勝ちなのよ」
「ああ、もう。バッドエンドの映画は嫌いなんだよ、あたし。みんな知ってるくせに、なんで招待状とか送ってくるかなあ」
「ホラー映画が苦手だって言う人にホラーを見せたくなる心理じゃない?」
「悪趣味すぎるよ、それ」
「映画監督なんて、例外なく悪趣味なものでしょ」
「ルイゼも?」
「それは、あなたが判断することじゃない?」
「ルイゼの映画は悪趣味だけど、出るのは好き」
「そう」
 すこしのあいだ沈黙があった。
 エニスはルイゼの肩によりかかったまま、じょじょに体重をあずけてゆく。その重さと温度が、ルイゼには妙に心地良い。
「次は、どんなの撮るの?」
「会議の結果しだい」
「ハッピーエンドなのがいいなあ。どうせまた、あたしが主役でしょ?」
「こんな名女優をタダみたいなギャラで使えるんだから、主役にしない理由がないわね」
「あたし、どんな演技でもできるけど、死ぬのだけは苦手……」

     

 会話はそこで打ち切られ、エニスは体重をかけてルイゼを押し倒した。ナイトウェアの裾から手を入れて、指先で乳首を探り当てる。やさしくひねっただけで、すぐ硬くなった。と同時に顎を舐めあげる。ルイゼはブルッと震えて、噛みあわせた歯の間から吐息を押し出した。
「おとなしくしてろって言わないの?」
 小悪魔を演じるように、エニスは得意の笑みを浮かべた。酔っぱらっていてもなお──否、酔っぱらっているからこそ、その表情は寒気を催すほど蠱惑的だ。
 ルイゼは何かうまいセリフを言いかえそうと頭を働かせたが、この小悪魔をやりこめる言葉は思いつかず、沈黙する以外なかった。
「言わないんじゃなく言えないんだね」
 エニスの膝がルイゼの脚を割って入った。かるく押しつけられただけで、ルイゼはビクンと反応してしまう。さっき、中途半端にいじられたせいだ。
 指と膝を使って微妙な刺激を与えつづけながら、エニスはルイゼの顔を見下ろした。乱れた髪が床に広がっている。いつのまに落ちたのか、髪の下にペンケースが転がっていた。拾い上げて、テーブルの上へ──もどすまえに、エニスはペンケースの中身を床にばらまいた。
 鉛筆とボールペン、サインペン、蛍光ペン。太さの違うものが、それぞれ二本ずつ。アートナイフも二本あった。
 エニスは極細のサインペンを手に取り、キャップを外した。ルイゼの上着をたくしあげながら、耳元に問いかける。
「ねえ、監督(レジスタ)。答えてよ。どうして、不幸な映画なんか撮るの?」
 サインペンの先が、ルイゼの腹部に触れた。かすかな痛みに、彼女は顔をしかめる。
 おかまいなしに、エニスはペンを走らせた。性格をあらわすような、殴り書きのラテン文字が刻みつけられる。白く柔らかなキャンバスに、『命題:不幸な映画はなぜ作られるか』という一文が書き込まれた。
「そんなの、簡単な話でしょ。人は他人の不幸を見て喜ぶからよ」
 ルイゼの声は、すっかりうわずっている。
 ペンが動き、その言葉がルイゼの腹部に書き留められた。
 美しいエニスの手によって綴られる、汚い文字。そのひとつひとつが、ルイゼに倒錯的な愉楽を与える。
「でも、今日の映画で泣いてる人いっぱいいたよ?」
「それは、泣くことを楽しんでるだけ。フィクションだろうと現実だろうと、人は他人の死を娯楽として受け取るの。映画に限らず、物語を作る人はそれを知ってる。だから作中の人物を殺すのよ」
 その答えを書くのは面倒だったようで、エニスは全然ちがう言葉を書いた。
『この変態趣味の監督は作品の中で人をいっぱい殺すんです。あたしも二回殺されました。でもあんまり売れなかったけど』
「いま、なんて書いたの?」
「『愛してる』って書いといた」
「嘘ばっかり」
「ウソじゃないよ」
 そう言って、エニスはイタリア語とフランス語とスペイン語と英語で、「愛してる」と書いた。中国語で書いたものは、漢字が間違っていた。
「……でもさ、観客をたのしませるだけなら、ふつうにハッピーエンドの娯楽映画を撮ればいいんじゃない? わざわざ主人公が死ぬような映画なんか撮らなくてもさ」
「お菓子ばっかりじゃ飽きるでしょ? 口直しのコーヒーやワインもないと」
「あ、なるほど」
 納得したようにうなずいて、エニスはこう書いた。
『命題:人生に必要なもの』
『解答:酒、コーヒー、お菓子』
 そのあと思い出したように『愛』と書き加え、文字だらけになったルイゼの肌をペンの尻でなぞった。
 ルイゼはまったく抵抗しない。されるがまま、とろけそうな瞳で天井を見つめている。
「……よほど心に残ったみたいね、その映画」
「トラウマになりそうだよ」
 うんざりしたように、エニスはサインペンを放り投げた。次に拾い上げたのは、アートナイフ。ペンシル状の先端に、小さな刃が光っている。キャップをはずして、銀色の刃先を眺めながら彼女は言った。
「でもまあ、場所は別々だったけど同じ日に死ねて良かったのかも、あの夫婦」
「そうね。人は皆かならず死ぬんだから、生きて苦しみを味わう必要はないもの」
 答えながら、ルイゼは心臓が早くなるのを感じていた。酔っぱらったときのエニスは、予想外の行動をとることがある。刃物を持って何事か考えこんでいる様子の彼女は、それを心臓に突き立てようと結論するかもしれない。しかも、冗談半分で──。その想像は、ルイゼの感情をひどく揺さぶった。
「よく考えてみたら、理想的な死にかたかも。五十年間幸せな結婚生活を送って、ある日突然苦しむヒマもなく天国行き。……悪くないような気がしてきた」
「天国があればね」
「地獄でもいいよ。ルイゼさえいれば。……だって、ルイゼがいればそこが天国になる」
「どこで覚えてくるの、そういうキザなセリフ」
「いまのはルイゼが言ったセリフだよ。むかし、パリにいたとき」
「私が? あなたに?」
「ほかの人にそんなこと言ってたら、殺しちゃうよ?」
「あなた以外に言うわけが……あ、」
 最後まで言えなかった。鋭い刃が降りてきて、ルイゼの乳房をまっすぐ横断したのだ。金属の、つめたい感触。一瞬、ほんとうに切られたのかと錯覚するほどだった。
 ルイゼはナイフの通り抜けたあとを見た。切れてはいない。峰のほうを使ったのだ。それでも、赤いラインがうっすら浮き上がっているのは見えた。
「あっはっは。おどろいてる。切られたと思った? 思ったでしょ? 酔っぱらってるあたしは何するかわからないもんね? 正直に答えていいよ」
 得意げなエニスの笑顔は、もはや小悪魔どころか悪魔そのものだ。
 ごくっと唾を飲み込んで、ルイゼは答える。
「切りたいの?」
「切ってほしい?」
「ん……」
 ルイゼは目を閉じて、その場面を想像してみた。映画を生業にしている彼女にとっては、お手のものだ。最愛の人の手で乳房の皮膚を切り裂かれ、苦痛に悶える──。その情景には、なんらかの美的価値があるように思われた。
「切ってもいいけど、撮影しておいて」
「写真で?」
「ムービーで。私の車にハンディカムがあるから……」
「えええ。やだよ、そんなの。めんどくさい」
「こんなチャンス、二度とないわよ?」
「べつに、切りたいわけじゃないし。あたし、ルイゼほど変態じゃないからさあ」
「ああ、それはそうね」
 ルイゼは、ふうっと息を吐いた。ガッカリしたのかホッとしたのか自分自身区別がつかない。エニスの言うとおり、自分が変質者だということは理解している。だが、仕方ない。映画を撮ろうなんて考える人種は、程度の差こそあれ皆そろって変人なのだから。

     

「どうして、こんな変態監督と組んでるんだろ、あたし」
「ほかの人の映画に出たい?」
「ぜんぜん」
「もったいない。このまえも、オーフォード監督から話が来たのに」
「あんなの受けるぐらいなら、この仕事やめるよ」
「でも、あなただったら……」
「ああ、やめやめ! こういう話はしない約束でしょ! もう黙ってて!」
 エニスはアートナイフをさかさまにすると、ルイゼの口に投げ込んだ。
 ガチッ、という音。反射的に噛んでしまったのだ。刃先が天井を向いて光っている。
「ほら、脱いで」
 エニスはルイゼのズボンを片足だけ脱がせ、床に落ちているアートナイフをつかんだ。キャップがついたままの刃先を、ルイゼの陰部に押しつける。
 下着をずらすと、チーズのような匂いがうっすら漂った。しかし、その匂いもたちまちコーヒーの香りで塗りつぶされてしまう。
「ちょっと濡らしすぎだよ、監督。床までこぼれてる」
 下着の隙間から押し込むと、ナイフは簡単にルイゼの中へ入り込んだ。
 軸を回転させながら、エニスはゆっくり貫いていく。ほとんど軸が見えなくなるぐらいまで、深く入った。それから、渦を描くように大きくかきまぜる。ぐちゃぐちゃと、ねばりつく音。
「く……ふ……!」
 ナイフを噛まされているせいで、ルイゼは声が出せない。唇の端からこぼれた唾液が、頬をつたって耳まで垂れた。
「これ、もしキャップが外れたら大変なことになっちゃうね」
 そんなことを言いながらも、エニスは手を止めない。
 ぬちゃぬちゃという音に混じって、ガチガチとナイフを噛む音がする。ほかには何の音もしない。室内は冷えついているが、ルイゼはまったく寒さを感じていなかった。それどころか、額には汗が浮いているぐらいだ。
「もしルイゼが死んじゃったら、こういうこともできなくなるんだよね」
 思い悩むように、エニスの声音が低くなった。それでも、かきまわされるナイフの動きにはまったく変化がない。亀裂からあふれだす液体は白く泡立って、クリーム状になっている。愛液ではなく精液に見えるほどだ。
「あぁ、もう。あんな試写会行かなければよかった。あたし、映画監督っていう人種が大嫌い」
 恨みをぶつけるように、エニスは激しくルイゼをかきまぜた。ぷっくり膨れた突起を、舌で舐め上げる。そのとたん、ルイゼの体が激しく波打った。
「っく! うくぅ……!」
「なに? もういっちゃうの? 変態監督さん」
 よだれを垂れ流して、ルイゼは何度もうなずいた。うなずきながら、全身をよじらせて痙攣する。その間も、エニスの舌と手は止まらなかった。
 たてつづけに、二回、三回とルイゼは絶頂に達した。その間ずっと痙攣しっぱなしだ。声にならない声は、甘い苦悶の色を帯びている。
 六回目で、背中が弓なりに反り返った。ひときわ深い絶頂。
 と同時にルイゼの口からアートナイフが落ちて、カタッと音をたてた。軸全体唾液まみれだ。毛髪が一本からみついている。
「かわいかったよ、監督」
 さんざん舐めあげた箇所に、エニスはそっとキスした。それから口元についた粘液をティッシュでぬぐい、コーヒーを一口。もう、すっかり冷めている。
 ルイゼは麻酔を打たれた動物のようにグッタリしていた。横倒しになって、顔を向こうへ向けたまま。片方だけズボンを脱がされた脚や落書きだらけの腹部はほのかに赤く染まり、ひどく扇情的に見える。おまけに、性器にはアートナイフが刺さったまま。
 それを抜きもせず、軸の先端がヒクヒク震えているのを眺めながらエニスは言った。
「ねえ、約束しようよ。あたしたち、どっちかが死んだら残ったほうも後を追うって」
「いいよ。約束する」
「はやっ! ちゃんと考えてないでしょ!」
 あまりの即答ぶりに、エニスは目を丸くした。
 官能の余韻にひたりながら、ルイゼは壁を見つめて応じる。
「考える必要のないことだもの。でも、私が先に死んだ場合あなたはゆっくり来ていいから。私は天国でワインでも飲みながら待ってるし」
「ああ、お酒はだいじだね。お酒のない天国なんて、ありえない」
「あと、コーヒー」
「映画は?」
「それは別に、なくてもいいでしょ。あの世に行ってまで仕事したくないし」
「だよね」
 エニスはルイゼの頭に手をのばし、顔を自分のほうへ向けさせてキスした。
 いつもと同じような、けれどいつもと少し違う夜。

     




[Wikipedia]

 ルイゼ・フリッツァは、イタリア出身の映画監督/脚本家/演出家。
 1975年6月23日、ロンバルディア州ミラノ生まれ。
 家はイタリア系ユダヤ人の名門で、両親とも弁護士。
 幼少時からの英才教育によって法学を身につけたが、17歳のとき映画監督になることを決意。周囲の反対を押し切って単身フランスへ渡り、パリのシネマテーク・フランセーズに通いはじめた。
 1993年、当時無名だった前衛芸術家アンリ・ガレルとの共同制作で『La Plage』(日本未公開)を発表。環境問題と家族愛を描いた本作はヴィゴ賞の候補となり、話題を呼んだ。
 翌年、フランスの討論番組『Je discute en buvant du vin』に出演し、ブレイク。同番組の企画でパリ市長と会談し、学生映画支援基金の設立に一役買った。
 1995年、当時15歳だった女優エニス・シャテルとの交際が発覚。同性愛者であることをカミングアウトして議論を招いた。
 翌年、ドキュメンタリー映画『森と湖の地形学』を発表して金熊賞にノミネートされるも、次点で受賞を逃がす。その後も短編を中心に作品を作りつづけ一定の評価を得たが、賞とは無縁だった。
 2002年、ブレンディン・オーフォードの招聘を受けてハリウッドに渡り、初のコメディ映画『コーヒーとミルクの関係』を制作。監督賞、主演女優賞などアカデミー四部門にノミネートされるも、受賞には至らなかった。
 2005年、子宮癌を患い手術自体は成功したものの、予後不良から長期休養に入る。一時は引退を公言したが、後日撤回。監督業に復帰する。
 2008年4月、復帰第二作となる『ラスト・エピック』の撮影中、主演のエニス・シャテルが転落事故により死亡。「どちらかが死んだときは残されたほうも後を追う」という生前からの取り決めどおり、拳銃で頭を撃ち抜き自殺。三十三年の生涯だった。

       

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