百合小説短編集
夜/バー/踊り子
じつに天地両界は我が一翼にも値せず。
我、神酒を飲めり。
──リグ・ヴェーダ
酒こそ人類最大の発明だ。
この秘薬にできることは、いくつもある。
たとえば、人を陽気にさせたり、饒舌にさせたり、涙を流させたり、頭を狂わせたり。
むかしインドで書かれた聖典によれば、酒にできないことは何もない。自由に空を飛んだり、世界を焼きつくしたり、他人と心をかよわせたり、なんでもできる。
いま私たちが酒で酔っぱらうことしかできないのは、私たちが完全ではないから。失敗作だからだ。
完全でない私は、今夜もバーを訪れる。
DUSKという看板の出ている店。二ヶ月ほど前から、私はここの常連だ。
店はせまくて、七つのストゥールだけが並んでいる。
たったの七人しか入れない。けれども、満席になっているのを見たことがない。
価格設定は普通だ。サービスにも特に問題はない。
客が入らない理由は、いくつか考えられる。たとえば、立地条件が悪いこと。たとえば、すぐ近くに競合店があること。たとえば、店主の愛想が悪いこと。
扉をくぐると、けだるげなバーテンダーがカウンターの向こうに立っている。
歳は私と同じぐらい。背は遙かに高くて、短い髪のせいもあり、暗い照明の中では男にも見える。──ただし、とびきり美男子の。
彼女の名はネーイ。
『否』を意味する言葉だ。
本名かどうかは知らない。きっと、偽名だろう。
私は、いつもどおり一番奥の席に陣取る。
彼女は──ネーイは、「いらっしゃいませ」としか言わない。
ほかには、なにも言わない。
カウンターの向こう側で、また来たのかと言いたげな顔をしている。
さめた顔つき。客商売をしているとは思えない。
私を客に迎えてこの態度というのは、理解不能を通りこして、もはや犯罪だ。
この、我が国屈指のダンサーであり歌手である私を。
「いつ来ても客いないわね、この店」
言いながら、変装用のサングラスと帽子をカウンターに置いた。
「よく言われます」
「道楽でやってるわけ?」
ネーイは、あいまいに首を振った。うなずいたのか否定したのか、わからない。
べつにどうでもいいことだから、訊きなおさなかった。
このバーテンとの会話には、こういうことが多い。
煙たがられているのだろうか。私が有名人だから。
「なにを作りますか?」
問われて、私はバックバーに目をやった。
端から端まで並んだ、かぞえきれないほどのボトル。いったい、この店には何百種類の酒がそろっているのだろう。その大半を、私は知らない。
それで、こういう具合にオーダーする。
「あれ。あの赤いやつ」
指差したのは、バックバーの一番たかいところに並んでいるボトル。
それがどういう酒なのか、どうでもいいことだった。
「こちらは保存が利かないのでボトル売りになりますが」
「かまわないわよ」
ネーイは無言で背を向け、二メートル以上あるバックバーの一番たかいところへ手をのばした。
その瞬間。彼女の体は一本の木みたいになる。
弓のように反った背中。
薄くなって上を向いた胸。
陶器のような白さを見せる喉元。
形良くとがった顎の影。
光を照り返す、深海のような瞳──。
長い腕の先、ピアニストのような指がボトルに触れる。
私はダンサーだが、彼女ほど見栄え良くボトルを取ることなどできないだろう。
おそらく、ほかのだれにもできまい。
それほど、ひとつの動きとして完成されている。
「こちらで、なにを作ります? それとも、ストレートで?」
「その酒を一番おいしく飲めるようにして」
「かしこまりました」
事務的にうなずいて、彼女は背の高いグラスを手に取った。シャンパンを飲むためのフルートグラスだ。
そこへ、赤い酒が注がれた。
シュワッと泡の立つ音。
「それ、もしかしてシャンパンだった?」
「はい」
「赤のシャンパンって、初めて見たわね」
「あまり作られていませんから」
そう言って、彼女はグラスをそのまま出してきた。
「ストレートで飲むのが一番ってこと?」
「はい。おそらく」
「でも、ここはカクテルを出す店でしょう? 酒をボトルから注いで何の手も加えず客に出すなんて、芸がないと思わない?」
「あなたのように芸を売っているわけではありませんので」
「……あ、そう」
思わず舌打ちしそうになった。
私も今まで世界中あちこちのバーをまわってきたが、これほど横柄な態度のバーテンは珍しい。しかも、女のくせに。
とりあえずシャンパンを一口。
まずかったら文句を言ってやろうと準備していたのだが、予想以上においしかったせいで何も言えなくなった。──いや、それにしてもこれは絶品すぎる。
「これ、一本いくら?」
返ってきた答えに、私は一瞬言葉を失った。高級レストランでパーティーが開けるほどの金額だったからだ。
「……ずいぶん、いい値段ね」
「良い酒は高いんです。まさか、払えないことはありませんよね?」
「あんたねえ。私を誰だと思ってるの?」
「失礼しました」
そう言いながら、ネーイは一ミリたりと頭を下げなかった。
表情には、まったく変化がない。氷のように凍てついている。
一度でいいから笑わせてやりたい。泣かせてやるのでもいい。真剣に、そう思う。
我、神酒を飲めり。
──リグ・ヴェーダ
酒こそ人類最大の発明だ。
この秘薬にできることは、いくつもある。
たとえば、人を陽気にさせたり、饒舌にさせたり、涙を流させたり、頭を狂わせたり。
むかしインドで書かれた聖典によれば、酒にできないことは何もない。自由に空を飛んだり、世界を焼きつくしたり、他人と心をかよわせたり、なんでもできる。
いま私たちが酒で酔っぱらうことしかできないのは、私たちが完全ではないから。失敗作だからだ。
完全でない私は、今夜もバーを訪れる。
DUSKという看板の出ている店。二ヶ月ほど前から、私はここの常連だ。
店はせまくて、七つのストゥールだけが並んでいる。
たったの七人しか入れない。けれども、満席になっているのを見たことがない。
価格設定は普通だ。サービスにも特に問題はない。
客が入らない理由は、いくつか考えられる。たとえば、立地条件が悪いこと。たとえば、すぐ近くに競合店があること。たとえば、店主の愛想が悪いこと。
扉をくぐると、けだるげなバーテンダーがカウンターの向こうに立っている。
歳は私と同じぐらい。背は遙かに高くて、短い髪のせいもあり、暗い照明の中では男にも見える。──ただし、とびきり美男子の。
彼女の名はネーイ。
『否』を意味する言葉だ。
本名かどうかは知らない。きっと、偽名だろう。
私は、いつもどおり一番奥の席に陣取る。
彼女は──ネーイは、「いらっしゃいませ」としか言わない。
ほかには、なにも言わない。
カウンターの向こう側で、また来たのかと言いたげな顔をしている。
さめた顔つき。客商売をしているとは思えない。
私を客に迎えてこの態度というのは、理解不能を通りこして、もはや犯罪だ。
この、我が国屈指のダンサーであり歌手である私を。
「いつ来ても客いないわね、この店」
言いながら、変装用のサングラスと帽子をカウンターに置いた。
「よく言われます」
「道楽でやってるわけ?」
ネーイは、あいまいに首を振った。うなずいたのか否定したのか、わからない。
べつにどうでもいいことだから、訊きなおさなかった。
このバーテンとの会話には、こういうことが多い。
煙たがられているのだろうか。私が有名人だから。
「なにを作りますか?」
問われて、私はバックバーに目をやった。
端から端まで並んだ、かぞえきれないほどのボトル。いったい、この店には何百種類の酒がそろっているのだろう。その大半を、私は知らない。
それで、こういう具合にオーダーする。
「あれ。あの赤いやつ」
指差したのは、バックバーの一番たかいところに並んでいるボトル。
それがどういう酒なのか、どうでもいいことだった。
「こちらは保存が利かないのでボトル売りになりますが」
「かまわないわよ」
ネーイは無言で背を向け、二メートル以上あるバックバーの一番たかいところへ手をのばした。
その瞬間。彼女の体は一本の木みたいになる。
弓のように反った背中。
薄くなって上を向いた胸。
陶器のような白さを見せる喉元。
形良くとがった顎の影。
光を照り返す、深海のような瞳──。
長い腕の先、ピアニストのような指がボトルに触れる。
私はダンサーだが、彼女ほど見栄え良くボトルを取ることなどできないだろう。
おそらく、ほかのだれにもできまい。
それほど、ひとつの動きとして完成されている。
「こちらで、なにを作ります? それとも、ストレートで?」
「その酒を一番おいしく飲めるようにして」
「かしこまりました」
事務的にうなずいて、彼女は背の高いグラスを手に取った。シャンパンを飲むためのフルートグラスだ。
そこへ、赤い酒が注がれた。
シュワッと泡の立つ音。
「それ、もしかしてシャンパンだった?」
「はい」
「赤のシャンパンって、初めて見たわね」
「あまり作られていませんから」
そう言って、彼女はグラスをそのまま出してきた。
「ストレートで飲むのが一番ってこと?」
「はい。おそらく」
「でも、ここはカクテルを出す店でしょう? 酒をボトルから注いで何の手も加えず客に出すなんて、芸がないと思わない?」
「あなたのように芸を売っているわけではありませんので」
「……あ、そう」
思わず舌打ちしそうになった。
私も今まで世界中あちこちのバーをまわってきたが、これほど横柄な態度のバーテンは珍しい。しかも、女のくせに。
とりあえずシャンパンを一口。
まずかったら文句を言ってやろうと準備していたのだが、予想以上においしかったせいで何も言えなくなった。──いや、それにしてもこれは絶品すぎる。
「これ、一本いくら?」
返ってきた答えに、私は一瞬言葉を失った。高級レストランでパーティーが開けるほどの金額だったからだ。
「……ずいぶん、いい値段ね」
「良い酒は高いんです。まさか、払えないことはありませんよね?」
「あんたねえ。私を誰だと思ってるの?」
「失礼しました」
そう言いながら、ネーイは一ミリたりと頭を下げなかった。
表情には、まったく変化がない。氷のように凍てついている。
一度でいいから笑わせてやりたい。泣かせてやるのでもいい。真剣に、そう思う。
ふと名案を思いついて、たずねてみた。
「あなた、これ飲んだことある?」
「ありません。貧乏生活ですので」
期待どおりの答え。
私は見せびらかすようにシャンパンフルートを目の前に掲げ、こう言った。
「一杯おごってあげてもいいわよ?」
「それはうれしいですね」
たいしてうれしくもなさそうな顔だった。
まったく、おもしろくない。──否、クソおもしろくない。
「やっぱりやめた」
「え」
その瞬間、ようやく彼女の表情が動いた。
氷のように冷めきっていた顔に、なにやら落胆したような色が浮かんでいる。
「あなた、たいしてうれしそうじゃないんだもの。おごる気も失せるってもんでしょ」
「残念です。とてもうれしかったんですが」
「だったら、もっとうれしそうにしてみなさいよ」
「むずかしいご注文ですね」
「飲みたくないなら無理しなくていいけど」
このバーテンが無類の酒好きであることは、とうに知っている。なにしろ、営業中にブランデーボトルを一本あけてしまうぐらいだ。
「では、賭けをしませんか?」
唐突に、ネーイはそんなことを言いだした。
世間話でさえ面倒くさがる彼女が賭けなど持ちかけてくるとは、どういう風の吹き回しだろう。よほどシャンパンが飲みたいのか。
「どういう賭け?」
「ここにカードがあります」
そう言って、ネーイはカウンターの下から一組のトランプカードを取り出した。
「いまから、カードを一枚選んで伏せます。その色を当ててください」
「それはいいけど、なにを賭けるの?」
「あなたが勝てば、カクテルを一杯サービスします。こちらが勝ったら、そのシャンパンを一杯おごってください」
せっかく面白いことを言いだしたと思ったのに、その内容では面白くもなんともなかった。
「セコい賭けねえ。そんなの、私が勝ったところでうれしくもないわよ。……どうせだったら、こうしない? 負けたほうは、勝った人の言うことをきくの」
これこそ名案だった。
もっとも、ネーイが了承するとは限らない。
「言うことをきく? どんなことでも、ですか?」
「ええ。そうよ。ただし一回だけ。相手が可能な範囲でね」
「こちらは構いませんが、あなたにとって危険なゲームなのでは?」
「なにが危険?」
「こちらが勝てば、財産の半分ほどを要求するかもしれませんよ?」
ストレートな要求だった。
それでも、勝てばこの女を自由にできる。
「半分でいいの? 欲がないわね」
「それだけあれば、一生酒を飲んで暮らせますから」
いい答えだ。酒が好きという点で、私と彼女は共通している。
「賭けは成立よ。ゲームをはじめて」
言いながら、私は三杯目のシャンパンをグラスに注いだ。
普通こういうことはバーテンの仕事だが、こちらが言わないかぎり彼女は何もしない。
その距離感が、私にとってはむしろ心地良い。
「シャンパンぐらいで酔っぱらう人ではないと思いますが、本当にいいんですね?」
「女に二言はないわよ。さあ、カードを選びなさい」
「どうなっても知りませんよ」
ネーイは手の中でトランプカードを扇状に開き、カードの上端を指でなぞった。
その動きが、マジシャンのように洗練されている。
ただカードを広げているだけで絵になるのだから、癪にさわる。
どうして、これほどの女がバーテンなどやっているのだろう。
「では、これで」
一枚のカードが抜かれ、テーブルに伏せられた。
これが赤か黒か、当てなければならない。
しかし、私には確信があった。これはジョーカーだ。色を選ぶだけなら、あのようにカードを広げる必要などない。特定のカードをさがすために広げたのだ。そして、特定のカードとはジョーカー以外ありえない。自信満々に賭けを持ちかけてきた態度からしても、間違いないだろう。
「そのカードは赤でも黒でもない。ジョーカーよ」
「ハズレですが、一度だけなら言いなおしても構いませんよ?」
ネーイは無表情だった。あせっている様子も、勝ち誇っている気配もない。
無論、言いなおす理由など何もなかった。
「変えないわよ。表を見せなさい」
「あなたの舞台を何度か見たことがありますが……」
意外なことを口にしながら、彼女はカードを開いた。
「舞台の上でも下でも自信に満ちているんですね」
あらわれたのは、ハートのA。
どうやら、私の財産は半分になってしまったようだ。べつに大した問題でもないが。
「私の負けみたいね。あなたこそ言いなおしてもいいわよ。財産の半分じゃなく、九割って。さすがに全財産は勘弁してほしいけど」
「本気ですか?」
「女に二言はないのよ」
資産を失うことは、なにも問題ない。
私の財産は、この体だ。ステージに立つかぎり、いくらでも稼げる。
「こう言うと驚くかもしれませんが」
と前置きして、ネーイは続けた。
「昔から、あなたのファンなんですよ」
「……なんの冗談?」
「本気ですが」
「あなたの言動はファンの態度とは思えないんだけど」
「仕事とプライベートは区別する主義でして」
「仕事中に酒を飲むような人間が、よく言えるわね」
「飲酒は仕事の一部ですから」
冗談を言っている風ではなかった。
この冷淡な女が、私のファン? ちょっと笑えてくる。
実際、声に出して笑ってしまった。まったく、なかなかのジョークだ。
「あなた、これ飲んだことある?」
「ありません。貧乏生活ですので」
期待どおりの答え。
私は見せびらかすようにシャンパンフルートを目の前に掲げ、こう言った。
「一杯おごってあげてもいいわよ?」
「それはうれしいですね」
たいしてうれしくもなさそうな顔だった。
まったく、おもしろくない。──否、クソおもしろくない。
「やっぱりやめた」
「え」
その瞬間、ようやく彼女の表情が動いた。
氷のように冷めきっていた顔に、なにやら落胆したような色が浮かんでいる。
「あなた、たいしてうれしそうじゃないんだもの。おごる気も失せるってもんでしょ」
「残念です。とてもうれしかったんですが」
「だったら、もっとうれしそうにしてみなさいよ」
「むずかしいご注文ですね」
「飲みたくないなら無理しなくていいけど」
このバーテンが無類の酒好きであることは、とうに知っている。なにしろ、営業中にブランデーボトルを一本あけてしまうぐらいだ。
「では、賭けをしませんか?」
唐突に、ネーイはそんなことを言いだした。
世間話でさえ面倒くさがる彼女が賭けなど持ちかけてくるとは、どういう風の吹き回しだろう。よほどシャンパンが飲みたいのか。
「どういう賭け?」
「ここにカードがあります」
そう言って、ネーイはカウンターの下から一組のトランプカードを取り出した。
「いまから、カードを一枚選んで伏せます。その色を当ててください」
「それはいいけど、なにを賭けるの?」
「あなたが勝てば、カクテルを一杯サービスします。こちらが勝ったら、そのシャンパンを一杯おごってください」
せっかく面白いことを言いだしたと思ったのに、その内容では面白くもなんともなかった。
「セコい賭けねえ。そんなの、私が勝ったところでうれしくもないわよ。……どうせだったら、こうしない? 負けたほうは、勝った人の言うことをきくの」
これこそ名案だった。
もっとも、ネーイが了承するとは限らない。
「言うことをきく? どんなことでも、ですか?」
「ええ。そうよ。ただし一回だけ。相手が可能な範囲でね」
「こちらは構いませんが、あなたにとって危険なゲームなのでは?」
「なにが危険?」
「こちらが勝てば、財産の半分ほどを要求するかもしれませんよ?」
ストレートな要求だった。
それでも、勝てばこの女を自由にできる。
「半分でいいの? 欲がないわね」
「それだけあれば、一生酒を飲んで暮らせますから」
いい答えだ。酒が好きという点で、私と彼女は共通している。
「賭けは成立よ。ゲームをはじめて」
言いながら、私は三杯目のシャンパンをグラスに注いだ。
普通こういうことはバーテンの仕事だが、こちらが言わないかぎり彼女は何もしない。
その距離感が、私にとってはむしろ心地良い。
「シャンパンぐらいで酔っぱらう人ではないと思いますが、本当にいいんですね?」
「女に二言はないわよ。さあ、カードを選びなさい」
「どうなっても知りませんよ」
ネーイは手の中でトランプカードを扇状に開き、カードの上端を指でなぞった。
その動きが、マジシャンのように洗練されている。
ただカードを広げているだけで絵になるのだから、癪にさわる。
どうして、これほどの女がバーテンなどやっているのだろう。
「では、これで」
一枚のカードが抜かれ、テーブルに伏せられた。
これが赤か黒か、当てなければならない。
しかし、私には確信があった。これはジョーカーだ。色を選ぶだけなら、あのようにカードを広げる必要などない。特定のカードをさがすために広げたのだ。そして、特定のカードとはジョーカー以外ありえない。自信満々に賭けを持ちかけてきた態度からしても、間違いないだろう。
「そのカードは赤でも黒でもない。ジョーカーよ」
「ハズレですが、一度だけなら言いなおしても構いませんよ?」
ネーイは無表情だった。あせっている様子も、勝ち誇っている気配もない。
無論、言いなおす理由など何もなかった。
「変えないわよ。表を見せなさい」
「あなたの舞台を何度か見たことがありますが……」
意外なことを口にしながら、彼女はカードを開いた。
「舞台の上でも下でも自信に満ちているんですね」
あらわれたのは、ハートのA。
どうやら、私の財産は半分になってしまったようだ。べつに大した問題でもないが。
「私の負けみたいね。あなたこそ言いなおしてもいいわよ。財産の半分じゃなく、九割って。さすがに全財産は勘弁してほしいけど」
「本気ですか?」
「女に二言はないのよ」
資産を失うことは、なにも問題ない。
私の財産は、この体だ。ステージに立つかぎり、いくらでも稼げる。
「こう言うと驚くかもしれませんが」
と前置きして、ネーイは続けた。
「昔から、あなたのファンなんですよ」
「……なんの冗談?」
「本気ですが」
「あなたの言動はファンの態度とは思えないんだけど」
「仕事とプライベートは区別する主義でして」
「仕事中に酒を飲むような人間が、よく言えるわね」
「飲酒は仕事の一部ですから」
冗談を言っている風ではなかった。
この冷淡な女が、私のファン? ちょっと笑えてくる。
実際、声に出して笑ってしまった。まったく、なかなかのジョークだ。
「……それで? あなたは私に何を要求するわけ? 全財産の半分?」
「それでも構わないんですが、あなたを困らせるのは本意ではありませんね」
「じゃあ何を要求するのよ」
「では、あなたの体を」
突然のことに、私の体は熱くなった。
それこそ、こっちが要求しようとしていたことだ。
「ああ、誤解しないでください。その……そういう趣味はありませんので」
「え?」
「この場で踊りを見せてください。そういう意味です」
「こんな狭いところで?」
「無理なようでしたら、全財産の九割でも結構ですが」
さすがに、これで踊らないという選択はなかった。
「踊るのは構わないけど、音楽がほしいわね。それに、酒も足りない」
私の言葉に、ネーイはカウンターの奥からギターを引っ張りだしてきた。
ずいぶんと用意のいいことだ。
「弾けるの?」
「ええ。まあ」
ネーイは右手でネックをおさえ、左手にピックをつまんだ。
流れだしたのは、『霧のアンダルシア』
驚くほど上手な演奏だった。
あざやかな指の動きと艶のある音色は陶然としそうなほどで、私の目は釘付けになる。
最後まで聴きたかったのだが、ネーイは十秒ほどで手を止めてしまった。
「なに? 最後まで弾きなさいよ」
「そのまえに、酒が足りなかったのでは?」
「……そうだったわね」
いつのまにか、ボトルはほとんど空いていた。
ふだんより早いペースで飲んだせいか、すこし頭がボンヤリする。
だが無論、これぐらいでは酔えない。
「マティーニを作って。いつもどおりに」
「かしこまりました」
ネーイはバックバーに手を伸ばし、ジンとベルモットをカウンターに置いた。
タンカレーとチンザノ。
初めてこの店を訪れたとき、そう作るように言った。その一度だけで、彼女は私のオーダーを覚えてしまった。
ミキシンググラスに氷が何個か落とされて、その上にジンとベルモットが順に注がれる。
細長いスプーンが差し込まれ、なめらかに回転した。
まったく音が立たない。ヘタなバーテンにやらせると、ガシャガシャやかましくて見てられないものなのだが。
引き上げたスプーンから落ちる水滴をクロスでぬぐい、それを指の間に挟んだままネーイはロックグラスを手元に寄せた。カクテルグラスは使わない。飲みにくいだけだ。
ミキシンググラスから、透き通った液体が移される。トロッとしているのは、よく冷えている証拠だ。
最後にオレンジビターズを一滴。
オリーブは入らない。
それで完成。
「どうぞ」
出されたグラスを、私は一息で飲み干した。
ネーイが、すこしばかり表情を変えた。驚いたのかもしれない。
「おかわり」
グラスを突き返して、私は次のオーダーを告げた。
なにも言わず、ネーイは同じ作業を繰りかえして二杯目のマティーニを作った。
私は、それも数秒でカラにしてしまう。
「ずいぶん無茶な飲みかたをしますね」
「いいのよ。酔っぱらいたいんだから」
「酔わないと踊れませんか?」
「そういうわけじゃないけど。もう一杯作って」
「……かしこまりました」
三杯目のマティーニが出てくるのを待っているあいだに、すこし酔いがまわってきた。
あざやかに動くネーイの手や、胸のふくらみを盗み見ながら、私はふと考えた。
さっきの賭けで私が勝っていたら、と。
言えただろうか。
あなたの体がほしいと。
酒の力を借りれば、あるいは──。
酒は万能の秘薬だ。できることは、いくつもある。
たとえば、人を陽気にさせたり、饒舌にさせたり、涙を流させたり、頭を狂わせたり。
しかし、この想いを伝えることは決してできない。
なぜなら、私たちは失敗作だから。
「それでも構わないんですが、あなたを困らせるのは本意ではありませんね」
「じゃあ何を要求するのよ」
「では、あなたの体を」
突然のことに、私の体は熱くなった。
それこそ、こっちが要求しようとしていたことだ。
「ああ、誤解しないでください。その……そういう趣味はありませんので」
「え?」
「この場で踊りを見せてください。そういう意味です」
「こんな狭いところで?」
「無理なようでしたら、全財産の九割でも結構ですが」
さすがに、これで踊らないという選択はなかった。
「踊るのは構わないけど、音楽がほしいわね。それに、酒も足りない」
私の言葉に、ネーイはカウンターの奥からギターを引っ張りだしてきた。
ずいぶんと用意のいいことだ。
「弾けるの?」
「ええ。まあ」
ネーイは右手でネックをおさえ、左手にピックをつまんだ。
流れだしたのは、『霧のアンダルシア』
驚くほど上手な演奏だった。
あざやかな指の動きと艶のある音色は陶然としそうなほどで、私の目は釘付けになる。
最後まで聴きたかったのだが、ネーイは十秒ほどで手を止めてしまった。
「なに? 最後まで弾きなさいよ」
「そのまえに、酒が足りなかったのでは?」
「……そうだったわね」
いつのまにか、ボトルはほとんど空いていた。
ふだんより早いペースで飲んだせいか、すこし頭がボンヤリする。
だが無論、これぐらいでは酔えない。
「マティーニを作って。いつもどおりに」
「かしこまりました」
ネーイはバックバーに手を伸ばし、ジンとベルモットをカウンターに置いた。
タンカレーとチンザノ。
初めてこの店を訪れたとき、そう作るように言った。その一度だけで、彼女は私のオーダーを覚えてしまった。
ミキシンググラスに氷が何個か落とされて、その上にジンとベルモットが順に注がれる。
細長いスプーンが差し込まれ、なめらかに回転した。
まったく音が立たない。ヘタなバーテンにやらせると、ガシャガシャやかましくて見てられないものなのだが。
引き上げたスプーンから落ちる水滴をクロスでぬぐい、それを指の間に挟んだままネーイはロックグラスを手元に寄せた。カクテルグラスは使わない。飲みにくいだけだ。
ミキシンググラスから、透き通った液体が移される。トロッとしているのは、よく冷えている証拠だ。
最後にオレンジビターズを一滴。
オリーブは入らない。
それで完成。
「どうぞ」
出されたグラスを、私は一息で飲み干した。
ネーイが、すこしばかり表情を変えた。驚いたのかもしれない。
「おかわり」
グラスを突き返して、私は次のオーダーを告げた。
なにも言わず、ネーイは同じ作業を繰りかえして二杯目のマティーニを作った。
私は、それも数秒でカラにしてしまう。
「ずいぶん無茶な飲みかたをしますね」
「いいのよ。酔っぱらいたいんだから」
「酔わないと踊れませんか?」
「そういうわけじゃないけど。もう一杯作って」
「……かしこまりました」
三杯目のマティーニが出てくるのを待っているあいだに、すこし酔いがまわってきた。
あざやかに動くネーイの手や、胸のふくらみを盗み見ながら、私はふと考えた。
さっきの賭けで私が勝っていたら、と。
言えただろうか。
あなたの体がほしいと。
酒の力を借りれば、あるいは──。
酒は万能の秘薬だ。できることは、いくつもある。
たとえば、人を陽気にさせたり、饒舌にさせたり、涙を流させたり、頭を狂わせたり。
しかし、この想いを伝えることは決してできない。
なぜなら、私たちは失敗作だから。