何か、何か目標があった筈だった。
だけど、大学のサークルで会ったあの人と付き合うようになってから、徐々に目標へ向かう熱を失っていった。
いや、その熱は別の方向に向かったというほうが正しいのだろうか、しかし、その言葉はあまり意味を成さない、ただの言葉遊びだ。
大学まで異性と付き合ったことの無い私は、初めての経験に完全に舞い上がっていた。
だから、あの人と結婚して、小さいけれど温かい家庭を作れたら、なんて、本気で考えていた。
そして、あの人もきっと同じ気持ちなんだと、信じて疑わなかった。
「重い」
その一言で、あの人は私の前からいなくなった。
今考えれば、マンガじゃあるまいし、そんな運命の出会いなんて易々とあるわけなく、完全に私の勘違いで早とちりだった。
しかし、当時の私はその事実を簡単には受け入れられることができずに、いともたやすく壊れた。
目に映るもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるもの、全てを否定した。
大学を辞め、実家には戻らず、当時住んでいたアパートの自室で自殺未遂を起こした。
次に気がついたのは病院のベットで、ベットの傍らには母がいた。
腕には点滴用のチューブが挿されていて、ベットの傍らには私の心拍数を示す機械が私の生存を静かに表していた。
酸素を送っているマスクを口からはずして、身体を起こそうとしたら、母がそれに気がついたらしく私を強く抱きしめた。
母は周囲を気にもせずに泣いていた。
良かった、本当に良かった。そう繰り返しながら、母は私が生きていたことに泣いてくれた。
その母に対して、私は、
「ごめんなさい」
と、泣いて謝り続けることしかできなかった。
その後、実家に戻ったのだが、両親は自殺の理由を聞こうともせず、私を大切に、本当に大切に閉じ込めた。
いいのよ、もう気にしなくても、と母は閉ざされた私の部屋の扉越しに言い、父は食事のとき新聞を壁にして、いつも、何も言わなかった。
そして、今度は緩やかに私は壊れていった。
プラスの衝動もマイナスのそれも何も起きず、私は日々を過ごしていった。
しかし、息をするだけに成り下がった私は、それに耐えられなかった。
「出かけてきます」
家族にすら敬語を使うようになった私は居間で疲れているような顔をした母の背中に向かってそう言い放ち、返事も待たずに家を出た。
玄関の扉を開けるときに後ろで母の存在を感じたような気がしたが、振り返らず、私は家を出た。
あてもなく彷徨う私に世界の流れは感心も無いらしく、誰一人、私に話しかけてくるものなどいなかった。
当たり前である、世界が私を否定したのではない、私が世界を否定してしまったのだから。
歩きながらも考える。
もしも、あの時、彼の選択を受け入れ、新しいことを始める決断ができていたのならば、
きっと、かつてあったはずの目標にもう一度向き直って、また色々あって、それでも何かを成していたであろう自分を…
でも、それを否定したのでしょう。
心の中のもう一人の自分がそう言った。
その通りだ、私にはその道を選ぶ力と強さが無かった。
気がつくとどこかのビルの屋上にいた。
どうやってそこに来たのかはまったく覚えていない。
そして、それ以上行かせないために設けられているフェンスに手を掛け、
それを越えて屋上の縁に立とうとしている私自身の行動もどこか自動的で、まるで別の視点で私を見ているような感覚で、
私は迷うことなく、その一歩を踏み出した。
薄れていく意識の中、昔、誰かが言った言葉を思い出していた。
パンドラの箱は所詮悪意の塊だ。
なぜなら、災厄を撒き散らした後に希望を残しているからだ。
そんなのあったら、誰もが願ってしまうじゃないか、立ち上がってしまうじゃないか。
そんなものが無ければ、僕達は諦めきれるのに、もう何もできないと思うのに。
たしかに、
だから、私は最後に思った。
「一つの希望も無いのが、せめてもの救いだ」