Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◇06:光る雨の記憶②

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 夏休みに入ってからも、理衣子との時間は続いた。
 終業式の日に二人で決めた。週に三日、私は図書室に行く。理衣子はそれにあわせてやって来ることもあれば、姿を見せないこともあった。ほとんど人の居ない図書室で、二人で夏休みの課題をしたり、本を読んだりして過ごした。時には午前中から来て、学校の近くで一緒に昼食を食べる。
 放課後とは違う過ごし方、それまでとは違う距離のとり方。誰か一人とそんなにも時間を共有するのは初めてだった。でも、それはとても自然なことに思えた。どれだけ話をしても話すべきことが尽きることはなかったし、響き合い、繋がりあっているのだという確信は、日増しに深くなっていった。
 初めて手を繋いだのもその頃だ。
 並んで人ごみを歩いていて、通りすがりの人に肩がぶつかった。ごめんなさい、と謝りながら少しよろける。その時、右手にするりと誰かの手が入り込んできた。
 驚いて顔を上げる。理衣子が、目の端だけで微笑んでいた。
「はぐれそうだから」
 囁くような頼りない声は、雑踏の中でもはっきりと耳に届いた。
 今まで、友達と手を繋いだことがないわけじゃない。でも理衣子とのそれは、それまでのものとはまるで違う種類の触れ合いだった。
 理衣子の手はその華奢な様子からは意外なくらいにしっかりとしていて、柔らかく、温かかった。その手のひらの熱があらゆる感覚を変えてしまう。周囲のざわめきやセミの鳴き声が、膜一枚向こう側に遠ざかったみたいにぼやけて、確かさを失って溶け合っていく。夏の太陽が世界のコントラストを鮮やかにする。蒸し暑い空気に含まれている曖昧な期待や高揚感で、たまらなく息苦しくなる。恥ずかしくて少し居心地が悪い。でも、手を離したいとは思わない。
 皮膚一枚を触れ合わせているだけで、どうして何もかもがこんな風に変わってしまうのだろう。知らない世界に来たみたいだ。光の眩しさも、音の聞こえ方も、足裏の地面をつかむ感覚さえ、知っていたはずのものとはまるで違うものに思えた。
 それから、私たちは時折手を繋ぐようになった。人ごみの中でひっそりと、迷子の姉妹みたいに。お互いに何も口に出さず、秘密を共有する後ろめたさに少しだけ怯えながら。
 距離が近づいていくことは、とても怖い。近づけば近づくほど、理衣子の全部が知りたくなる。そして知り尽くせないことに苦しくなる。図書室に来ない日は何をしているのだろう、私と会っていない日は誰と一緒に居るのだろう? 醜い嫉妬だ。独占欲。理衣子はきっと、そういうものを嫌う。そう思うから口には出せない。でも心の中で、その気持ちはどんどん重くなっていく。胸の奥底をじりじりと焼く。
 それでも、手を繋いでいるときには確信できた。私は自分が求めているのと同じくらい、相手からも求められているのだと。それは全能感に似た圧倒的な確信だ。それなのに離れて一人きりになると、簡単に輪郭を失い、曖昧になってしまう。自分など本当は取るに足らない存在なんじゃないかと寂しくなる。
 その不安も、きっと少しずつ埋まっていくのだろうと思っていた。知り始めたばかりの世界は不安定でいつでも揺れている。それでも信じている限りは確かに存在するのだから、時間が何かを確かなものにしてくれるのだと。


 夏はあっという間に過ぎて、八月も終わりに近づいてくる。
 その日、理衣子は図書室に現われなかった。私は一人で宿題をして、疲れたら本を読み、それにも飽きたらぼんやりと考え事をして時間を過ごした。そうやって理衣子を待っていた。
 朝から曇りがちの天気だったけれど、夕方からとうとう雨が降り出した。
 私はため息をつきながら本を閉じる。たぶん、理衣子はもう来ない。そもそも毎日来ると約束したわけじゃない。私が勝手に待っているだけだ。わかっているのに、少しだけ惨めな気持ちになってしまう。
 勉強道具を片付けて図書室を後にした。薄暗い廊下にはまるで人の気配がなく、強い雨の音だけがざあざあと響いている。
 夏休みももうすぐ終わってしまうのだな、とふと思った。
 廊下の角を曲がり階段を降りる。古びたリノリウムの床は薄暗い中で不自然に光り、内履きのゴム底がこすれて小さな音を立てた。耳障りな音。
 階段を降りきってから、玄関に続く角のちょうど陰になったところに、誰かが立っているのに気がついた。
「理衣子」
 驚いて名前を呼ぶ。私服姿の理衣子を見るのは初めてで、一瞬誰なのかわからなかった。均整の取れた身体つきに、七部袖の薄いブラウスとタイトなジーンズを身につけている。制服姿よりもずっと大人びて、別の人みたいに見えた。
 理衣子が目線を上げる。いつものように微笑むのかと思ったけれど、そこにはなんの表情も浮かんでいない。感情の色のない、そして何かを試すような目でこちらを見ている。
 どんな言葉をかけるのが適切なのか、一瞬迷う。あらゆる言葉が拒絶されてしまいそうな気がした。それでも沈黙が続くのに耐え切れなくて私は訊いた。
「どうしたの?」
 その言葉が染み込んでいくまでに、恐ろしく時間がかかった。理衣子はゆうに十回は瞬きをしたと思う。
「一緒に来て」
 ようやく理衣子が口を開き、それだけを言った。
「一緒に……? どこに?」
 訊きかえすと理衣子は首を振る。
「話してる時間はない。でも、今すぐじゃないと駄目なの。行くか行かないかだけを決めて。お願い」
 淡々とした口調で、あらかじめ決められた言葉を並べていくみたいに、理衣子は言う。でもそこには強い意志がこめられていた。どんな反駁も、間違った解釈も、許さないような。
 私は答えを迷っていた。どこに行って何をするのか? どのくらいかかって、いつ頃帰って来られるのか? 頭の中で疑問がひらめいてしまう。そんな私の迷いを見抜いて理衣子は更に言葉を重ねる。
「沙紀が来ないならいいの。一人で行く」
 静かな声。
「そうすると、会うのはこれで最後になるかもしれないけど」
 そこに試すような響きはなかった。それは気を引くための大仰な言葉ではなく、確かな事実なのだという感じがした。理衣子の表情も、呼吸も、乱れがない。
「一緒に、行く」
 戸惑いながらも、私は答えた。何もかもを今すぐに説明して欲しいと強烈に思ったけれど、全部を飲み込んだ。選択の余地はないのだとわかったから。

 理衣子は黙ったまま歩き出した。玄関で靴を履き替え、傘を開いて外に出る。雨の中を、少しも迷いのない一定の歩調で彼女は静かに歩いていく。なぜか並んで歩くことが出来なくて、私は理衣子の背中ばかり見ていた。
 駅の方に向かっているのだとすぐにわかった。予想通り駅に着くと、彼女は切符を二枚買った。私が財布を出そうとすると首を振る。
 改札を通り、電車を待つ。いつもとは反対側のホーム。理衣子は何も言わない。やがて電車がやってくる。その轟音に紛れて私は呟く。
「どこに行くの?」
 本当に微かな声だったから、それは理衣子の耳には届かなかったと思う。彼女は何も言わずにじっと電車を見つめていた。扉が開くとすぐに乗り込んで座席についた。私はその向かい側に座る。
 発車を待つ間、理衣子はぐったりと座席にもたれかかり、外を眺めていた。少し顔色が悪い。彼女はまったく動かなかった。薄いつくりの唇も、細長い鼻梁も、目線さえ動かさずに、どこかを見つめ続けている。糸の切れた操り人形みたいに、動く気配さえ感じさせない。
 夜の少し手前の空は薄暗く、雨はまだ激しく降り続いている。窓にぶつかる雨粒が外灯の光をにじませていた。
 不安になる。いつもならもうそろそろ家についている時刻だ。もし今日帰れなかったとして、母親はどうするだろう。今まで無断外泊をしたことはもちろんない。もし今日だけではなく、明日もあさっても帰れなかったら?
 ――あるいは、ずっと帰れなかったら?
 その可能性に思い当たって、はっとした。もしも理衣子がもう戻るつもりがないのだとしたら。
 理衣子はなんの荷物も持っていなかった。やっと財布が入るくらいの、小さな鞄を肩からかけているだけだ。どこかへ行くには不十分すぎる。それでも、これから死にに行く人のようにも見えなかった。ただ逃げたがっている。そんな感じがする。黙って外を見ている彼女は、雨に打たれて震えている小動物みたいに頼りなく見えた。理衣子のことをそんな風に思ったのは初めてだ。
 なるようになればいいと思った。もしもずっと帰れないとしても。それを選ぶ自信も、拒絶する自信も私にはない。ただ、今は理衣子の傍にいたい。一番弱っているときに傍に居ることを許されたのが嬉しかった。
 やがて発車のベルが鳴る。ドアが閉まり、がたんと大きく揺れてから、ゆっくりと電車が走り出す。窓から見える滲んだ景色がどんどん移り変わっていく。それを見るともなしに眺めていると、時間の感覚が希薄になっていく。現実感がない。雨の夜、蛍光灯のついた車内、私服姿の理衣子。
 今とは違う時間で書かれた物語の景色みたいだ。でもこれはフィクションじゃない。私は確かにここにいて、ここで何かが起きている。
 けれど何度そう自分に言い聞かせても、現実感はうまく戻ってこなかった。

 電車に乗っていたのは一時間弱くらいだった。ずっと遠くまで行くのかと思っていたから少し拍子抜けした。駅に着く少し前に、理衣子は「次、降りるから」とだけ呟いた。
 降りてみると、そこは随分とさびれた田舎町だった。いつの間にか夕立はやんでいる。海が近いのだろう、雨上がりのアスファルトのにおいに混じって、潮風の気配がする。夏の熱気と湿気を含んだぬるい風だ。改札を通ると小さなロータリーがあって、いくつか小さな食堂が並び、すぐに住宅街になる。田んぼや畑が多い。
 五分くらい歩いてから、一軒の小さな日本家屋の前で理衣子は足を止める。鞄から鍵を取り出して玄関の引き戸を開けた。中は真っ暗で人気はない。
「電気は点かないの。止められているから」
 理衣子はそう言って玄関の戸棚の上の懐中電灯を点けた。その光の中に、ぼんやりと廊下が浮かび上がる。
「上がって」
 ここは誰の家なのだろう。考えてもわからないし、質問することはとうに諦めていた。わかるのは、理衣子がここに慣れているらしいことくらいだ。
 家の中は少し埃っぽい。湿気がこもっていて、ひどく暑かった。理衣子は迷うことなく廊下を進み、すぐ左手の和室に入って窓を開けた。海からの夜風が吹き込んできて、息苦しさが少しましになる。
 私が立ち尽くしている間に、理衣子は懐中電灯の光を頼りにどこかから蝋燭台を持ち出してきてそこに火をともし、紙の覆いをかぶせた。部屋がぼんやりと明るくなる。
「水道も使えない。でも水は買い置きがあるから大丈夫。トイレは近所の公園までいく必要があるけど、井戸水を使えば流すこともできる。井戸水は飲めない」
 理衣子が簡潔に説明する。私は頷く。
 それで?
 それでどうすればいいのだろう、私は?
 私の戸惑いに答えるかのように理衣子はうつむいて、小さく「座って」と言った。私たちは少しの距離を置いて畳の上に座りこみ、壁にもたれかかる。
「ここは、昔亡くなった叔父の家なの」
 理衣子の口調は相変わらず淡々としている。でも蝋燭の明かりに照らされた横顔は、電車の中よりも少し生命力が戻ってきているように見えた。
「叔父はなんていうか……少し変わった人で、本家から離れてずっと一人で住んでいたの。今はここを管理する人も居ないから放置されてる。家族の目を盗んで、こっそり合鍵を作っておいた。私がここの合鍵を持っていることは誰も知らない」
 沙紀以外は。理衣子はそう付け加えて、少しだけ微笑む。
「一人きりになりたくなったらいつもここに来るの。他に行き場所なんてないから」
 海風。不安定に揺れる蝋燭の光。
 ここで一人きりで夜を過ごす理衣子のことを想像する。電気の明かりのない真っ暗闇の一軒屋。ここは、私のまったく知らない種類の場所だ。
「沙紀」
 かすれた声で理衣子がつぶやく。それから、しばらくの沈黙。
「私、転校させられるみたいなの。遠くの学校に」
 転校?
 その意味を一瞬考える。私が言うべきことを思いつく前に、理衣子が続ける。
「行きたくない。もう駒みたいに簡単に扱われるのは、絶対に嫌」
「『駒』?」
「都合が悪くなったら、とりあえず動かせばいいと思ってるのよ。あの人たちは」
 理衣子が目を伏せたまま口元だけで皮肉げに笑う。でもそれはどこか力がない。
 「あの人たち」というのが、理衣子の家の人のことなのはわかる。でもどうして理衣子が転校させられるのだろう?
「それから、真田先生も、二学期からは学校に来ないと思うわ。具体的にどうなるのか私は知らないけれど」
「え?」
 真田、というのは英語の教師の名前だった。なぜ先生がここで出てくるのだろう。思わず理衣子の顔を見て、ふと思い出だした。
 根も葉もないものだと思っていた、中学での理衣子に関する噂。ずっと年上の彼氏が居る、もう処女じゃない――
「自分から身を滅ぼすような真似をするなんて、そんな馬鹿だとは思ってなかったんだけど」
 理衣子は鼻先で笑う。力のない、自嘲気味の笑み。
「どういう、こと」
 喉がからからに渇いていた。聞きたくはなかった。でも、聞かないわけにはいかない。
「何を言っても、言い訳みたいにしかならないけど」
 彼女は吐き出すように言う。
「こういうことは初めてじゃないの。中学でも、高校に入ってからもね。でも今まではこっちから別れを告げても、みんななんの抵抗もしなかった。向こうだってそもそも本気じゃないし、自分の立場が危なくなるのが一番怖いから、大事になることはまずなかったのよ。でも今回は違ってたみたいね。独身だし、若いし、私も少し見極めが甘かったのかもしれない。関係をやめるなら全部を暴露するなんて脅し、本気にしてなかった」
 言葉が淡々と並べられていく。私はそれを黙って聞いている。
「うちの祖父が、教育関係に顔がきく人なの。だから今回のことはどこにも明るみに出ない。事実を知っている内々の人間だけで処理される。学校では、川原さんは家庭の都合で転校しました、って言われるだけ。それであの人たちは問題が解決したと思ってるのよ。私はただ、どこそこの高校に編入することになった、手続きにこのくらいかかるから、って言われただけ。お咎めなし。寛大よね。教育者が聞いて呆れるわ。教師も含めて女しか居ない全寮制の高校らしいの。うまい采配だと思ってるはずよ。ああこれで一安心だ、って」
 そこで理衣子は言葉を終える。
 薄暗い部屋に、しんとした沈黙が降りる。私は蝋燭の炎に揺れる自分の影を見つめている。何を言えばいいのか、訊けばいいのか、わからない。自分がどう思っているのかさえうまく判断できない。
「軽蔑する?」
 理衣子が聞いた。
 何も言えない。
 理衣子も、何も言わない。
 言葉を失って目を見開いていると、視界が滲んでくる。まるで無意識に涙がこぼれた。そうか。私は傷ついているのだ。深く、深く傷ついている。裏切られた、という表現が正しいのかはわからない。だって私は理衣子に何かを言えるような立場じゃない。傷つく資格さえ、あるのかどうかわからない。
 でも、私にとって、理衣子は唯一の存在だった。
 理衣子にとって私はそうじゃなかった。
 お互いだけの特別なつながりだと思っていたものが、単なる独りよがりに過ぎなかった。
 広く深い闇の中に、突然放り出されたような感じがした。唯一地面と繋がっていたはずの糸がなんの前触れもなくあっさりと切り離されてしまった。泣いていることを悟られたくないと思う。でもそれは不可能だ。呼吸が乱れて、かすかな嗚咽が漏れてしまう。
 いつの間にかまた雨が降り出していた。涙をこらえようとする私の吐息と、さあさあと微かな雨音とが混ざり合う。
 しばらく私は静かに泣いた。そして随分長い時間をかけて、少しずつ泣き止んでいった。
 その間、理衣子はずっと黙っていた。雨の音だけが沈黙を埋めるようになるのをじっと待っていた。そして感情の昂ぶりが通り過ぎると、そこには不思議な静けさが訪れた。
 やがて小さな声で理衣子が話し始める。
「中学生のときにね、叔父が亡くなったの」
 私はその声を、曖昧になったまとまらない意識のまま遠くに聴く。
「末期癌だった。わかったときにはもう相当進行していて、どんな治療も効かなかった。叔父も延命治療を拒んだ。モルヒネの点滴さえ本当に僅かしか許さなかった。相当の痛みに耐えていたはずよ。そうして何も食べられなくなって、体中が弱って痩せ細り、起き上がれなくなって、死んでしまった。身体の大きい丈夫な人だったのに。あっという間だった。入院していたのも三ヶ月くらい。驚くくらいあっけなかった」
 理衣子は淡々と言葉を継いでいく。
「最期は退院して、この部屋で亡くなったの。臨終のとき、ちょうどこの部屋には私一人しかいなかった。どういうわけか知らないけど他の人はみんな出払っていたの。私はずっと彼の手を握っていた。その手がどんどん冷たくなって、白目に紫色の小さな斑点が出て、眼球がぐるぐると動き回って、呼吸がどんどんゆっくりになって弱まっていく、その間ずっと」
 そこで少し言葉が止まる。雨の音の中で蝋燭の光が不安定に揺れ、部屋に映る影をゆらめかせていた。
「本当に、氷みたいに冷たい手だった。この冷たさはきっとずっと忘れられないだろうと思ったし、今でも覚えてる。自分の手の熱がどんどん吸い取られていくの。死ぬってそういうことなんだと思った。叔父はね、ずっと一人だったの。本家を嫌ってここに住んで、病気になって、それがわかったあともずっと病院で一人きりだった。叔父がこんな風になってしまうまで、あの家の人間は放ったらかしにしていた。そして他でもない私もその内の一人だった。こんなに冷たい手になってしまうまで、手を握ることさえしようとしなかった。手を握りながら、いずれは自分もこうなるのかもしれないと思った。もし何かささいなものごとの積み重ねがひとつでもずれていれば、今この立場に居たのは私だったのかもしれなかったんだって、なぜかそう思った」
 私は想像する。死に行く人の手のひらを握り締める自分を。でも、それはまるでイメージできない。私は人の死の瞬間に立ち会ったことさえないのだ。
「叔父が死んだのと一緒に、私の中の何かも一緒に死んでしまった気がした。叔父の冷たくなっていく手を握っている何時間かの間に、私の何かが大きく変わってしまった。それから少しして、今みたいに男の人と関係するようになった。そういう欲求がどうしても抑えきれなくなったの。なぜなのかは自分でもわからない。単に両親への反抗なのかもしれない。でもそれだけじゃないと思う。あの日以来、私はそういうやり方でしか誰かと関われなくなってしまった。何かを大切にしたいとは思う。でも駄目なの。その手はいつか冷たくなってしまう。それを私は知っている。でも知っていても、誰かの体温が必要になる」
 長い沈黙。
 洞窟の中で音が虚ろに反射するみたいに、理衣子の言葉が頭の中でずっとめぐっている。でも私は、自分が何を思えばいいのかを決められない。
 雨の音にまぎれて、理衣子が小さく呟いた。
「……いま、触れたら、軽蔑する?」
 理衣子の声が揺れている。目を上げると、理衣子の目は赤く潤んでいた。涙をこらえている。まぶたが震え、目じりがゆがむ。
「わからない。でも、軽蔑したくないし、」
 ――触れられたい。
 その言葉が声になる前に、私は涙の衝動をこらえきれずに俯いてしまう。
 理衣子の手がそっと伸ばされたのが、気配でわかった。私も答えるように恐る恐る手を伸ばす。
 指先が、触れる。
 感触に怖気づいて、少しだけ引っ込める。でもまた、ゆっくりと距離を縮めていく。
 そうやって私たちは指先だけを絡めあう。
 理衣子の手は柔らかく、温かく、確かな実体感をもって、私に触れている。世界の色が、音が、容易に変わっていく。あたたかな確信が空気に満ちていく。そんなの全部錯覚なのかもしれない。でも、それを信じていたいと思ってしまう。
 私はずっと泣いていた。理衣子も多分泣いていたのだと思う。顔は見なかった。理衣子はきっと泣き顔を見られるのを嫌うだろうと思ったから。
 どのくらいそうしていたのだろう。その内どちらからともなく、指先を離して、手を握り締めるように指を絡めあった。肩にもたれかかりあい頬をくっつけるようにして、蝋燭の炎を見つめていた。
 まどろみながら、意識がぼやけていく中で、「こころ」、と私は思う。何度も読んだその本の台詞を思い出していた。そして、はっきりとした意味も解らないままそれでも心惹かれていたその部分の意味を、今ならおぼろげながらも理解できる自分に気がついた。

――「恋は罪悪ですか」「罪悪です。確かに」「何故ですか」「何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っている筈です。あなたの心はとっくの昔から既に恋で動いているじゃありませんか」

 そしてまもなく眠りに落ちた。壁にもたれ、理衣子と身を寄せ合ったまま。

       

表紙

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Neetsha