涙雨
◇01:普通ではない仕事(つばき)
「まず服を脱がせてくれ」
と、その男は言った。
照明を落とした薄暗いホテルの部屋。男はベッドの端に座っている。贅肉のたっぷりとついた体躯に身に着けているシャツとスラックスは、どちらかといえば醜い男の容貌とは不釣合いなくらいに上等なものだ。
私は男の着ているシャツに手をそっと伸ばし、指先を使い、上からゆっくりとひとつずつボタンを外していく。貝殻で作られた、小さく丸い上等なボタン。男の老いてたるみ、くすんだ肌が少しずつ露わになっていく。
シャツの袖を腕から引き抜いて、ベッドの上に落とす。続けて男のベルトに手を伸ばす。金具を外してベルトを緩め、ホックとファスナーを外してスラックスを下げる。右の太ももに分厚く包帯が巻かれているのが見えた。それに触れないように注意しながら、そのままスラックスを脱がせてしまう。男が少し腰を浮かせてそれに協力した。
衣擦れの音と、押し殺した吐息が薄暗い部屋に響いている。
男が下着だけになってしまうと、私は足下に跪くような格好になって、靴下を片方ずつ抜き取る。そしてそれを丁寧にたたんで床に置いた。
命令を果たした私は、賢い飼い犬のように、じっと大人しく次の言葉を待った。
けれど男はそれを無視するかのように、無表情のままでじっと天井を見つめている。
その一見呆けたような態度に含まれている何かが、私の感覚に引っかかる。滑らかなシーツに手を滑らせていて、指先が小さな織傷を見つけた時のような、ごく微小な違和感。
「どうしたの?」
私は小さな声で呟いて、男の隣にそっと座る。
そして大人しく時を待つ。決して急かさず、けれど無関心にもならず。いつまでだって待てるし、言わなくても大丈夫。そして、何を言われても決して否定せずに受け入れる。
そういう気配を、ゆっくりとさりげなく空気に溶け込ませていく。押し付けがましくならないように注意しながら。私にはそういうことが出来る。言葉を使わなくてもそうやって相手を安心させることができるのだ。なぜそんなことが出来るのか、いつの間に出来るようになったのか、自分でも分からない。それは生まれつき備わっていた才能なんだと思う。説明のつかない本能が成し遂げる、無目的でおよそ現実では役に立ちそうにもない、奇妙な特技。
けれどこの「仕事」には、それがとても役に立つ。
男は随分と時間を置いてから、掠れ声で呟いた。
「それも外してくれ」
包帯を? と目で問うと、男が頷いた。私は床に膝をついて座り、その右太ももの包帯の結び目に指を差し込む。
厳重に巻かれていた包帯をほどいていくと、微かな異臭が漂い始める。当てがわれているガーゼはうっすらと赤黒く染まっていた。それを、ゆっくりと剥いでいく。
そして現われた皮膚は、余りにも醜くただれていた。大体十センチくらいの大きさの楕円形のできものが赤黒く盛り上がっている。
「よく見ろ」
男が命令する。私は言われたとおり、それをじっと見つめる。小さな赤黒いぶつぶつが、ところどころ紫色に変色していて、黄色っぽい汁が滲み出ている。
「ひどい臭いだろう」
鼻先をそのできものに近づけて、くんくんと臭いを嗅ぐ。化膿して腐っているせいで、確かにひどい臭いがした。生き物が腐っていく時の臭いだ。
「腐ってるんだ。原因はわからん」
その口調には、自嘲の響きがあった。
「最初はほんの小さなできものだった。確か五年前だ。少し痒いくらいで気にもしなかった。それが段々、大きくなっていった。皮膚科に行って薬を貰ったが、なんの効果もない。その内に腐り始めて、どんどん醜くなっていく。何をしても治らん」
「痛むの?」
「時々、ナイフで抉り取られるみたいにひどく痛む。熱した鉄の塊を押し付けられているみたいに熱くなる。それが来るともう何もできない。まともにものを考えられないし、食べ物も口に出来ない。息をするたびに全身に痛みが響く。眠ることすらできんのだ。あらゆる痛み止めを試したが、まったく効かない。睡眠薬を飲みすぎて昏睡したこともある。最近は睡眠薬も効かなくなって来た。以前はその痛みもせいぜい半年に一度だった。それがやがて三ヶ月に一度になり、近頃は二ヶ月に一度だ」
男は苦々しい表情でそう言った。私は男が脂汗を流しながら、苦痛に耐える様を想像してみる。激しい痛みに芋虫のように身体を丸くして、悲鳴を殺そうと必死に抑えこんでいる姿を。
「二年前に、一度切除したんだ。都内の病院で手術を受けた。大したことのないできものに何もそこまで、と医者は笑ったがな。でも駄目だった。傷が塞がると、あっという間に手術前と変わらない大きさのできものができた。原因は不明。癌ではないらしい。最近では新しい医者を探すのも諦めた」
「表面を剥がしたくらいじゃ治らない、ということなのかしら」
「どうしようもない。その内これが全身に広がるのかもな」
皮肉な笑みを浮かべながら、けれど男の声は憔悴しきっていた。
「穴が空いているのよ」
と、私は言った。
「穴?」
「そう。ここから、よくないものが入ってきて、よいものが抜け出ていく。そういう場所みたい」
男はよくわからないという顔をする。
それでいい。わからなくていい。その穴の存在を知っているのは、私だけだ。
そのできものに顔を近づけてじっと見つめ、臭いを嗅ぐ。そして思わず微笑む。なぜだろう、私はこういうものに、どうしようもなく弱い。思わず顔を背けたくなるような、醜悪で場違いな、誰かの腐りゆく部分。
私はそのできものに、腐った汁が染みた傷口に、そっと唇を寄せた。
男の身体が一瞬震える。怖気づいて、逃げようとする。私はそれを引きとどめるように優しく太ももに手を置き、更にそのできものに舌を這わせた。
苦い。
肉の腐った味がする。腐敗し、それでもまだ生きている人間の味。
もちろん、その味覚を受け入れることは苦痛を伴う。単純な感覚の問題としては。それでも私は、その鼻先にまとわりつくような味を、微かな吐き気さえ催させる臭いを、寧ろ愛しく思う。喜びと共に受け入れ、味わい尽くす。
汚ければ汚いほど、醜ければ醜いほど、惨めならば惨めなほど。
それは甘く強く私を惹き付ける。目が眩むほどに。
気がつくと、男は泣いているのだった。
「大丈夫?」
私は優しく声をかける。手を伸ばし、その涙に触れる。それはまるで美しくない。でも、温かい。生きている人間の温度を持っている。生きている人間には隠し通すことのできない、弱さの発露。
これは、今まであなたが目をそらし続けてきた、あなたの腐った部分なのだ。ある種の歪みは、心で直視せずに居ると、やがて身体に現われる。現実はそうやって巧妙にバランスを取っている。あなたはそれを知らない。あなたは自分の歪みを認識していない。でも目をそらせばそらすほど、その存在を殺すほど、歪みは寧ろ反動で大きくなって、あなたの元に現われる。
「きっとこれは治らない。痛みの発作もどんどん間隔が短くなって、毎日のように起きるようになるんだろう。そうしたら、私はどうしたらいい? せめて人並みに死にたい。生きながら腐って、痛みで苦しみながら死ぬのは嫌だ」
子どものようにむせび泣きながら、男は切れ切れにそう言った。
下着一枚ですがりつくようにしながら泣いている男の背中を、私はずっと撫で続けていた。
君の仕事は要するにどういうものなんだ?
「客」の一人に、そう尋ねられたことがある。私はごく正直に答えた。
誰かの穴に、そっと入り込む仕事。
そうとしか答えようがない。尋ねた相手は理解しがたいようだったけれど、他に表現のしようもない。普通ではない仕事だ。仕事と呼んでいいのかすらわからないほど。
私はいつも、仕事には似たようなワンピースを着ていく。背中にファスナーのついた、すとんとした上品なかたちの、膝丈のもの。それは自分で決めた制服のようなものだ。
世間一般では、たぶん私の仕事を「娼婦」と呼ぶのだろう。
それでも、背中のファスナーを下ろされたことはまだ一度もないのだけれど。