涙雨
◇02:雨の音、嘘の音①
長い黒髪を、私はいつも入念に手入れする。
まるでその髪のつやめきが自分のアイデンティティに他ならないかのように。
ゆっくりと丁寧にブラシをかけ真っ直ぐに伸ばし、毛先に薄くクリームをなじませる。髪はその扱いに素直に答え、しっとりと落ち着き、つやつやと光っている。
その成果に満足して、次は化粧にとりかかる。こちらの方は髪に比べればあまり熱意はない。日焼け止めにごく薄いファンデーション。眉を少し描き足して、目元はごく控えめに、最低限必要な分だけ。
派手にして目立つ必要はない。むしろ、まったく普通に見えるほうが都合がいいのだから。
それでも最後の仕上げに、唇に鮮やかな色のルージュを引く。普段は絶対に使わないような色。たったそれだけで、まるで違う人格を身に着けたかのような気分になる。意識の回路が切り替わり、現実世界のくびきからするりと抜け出して、眠っていた「私」が目を覚ましていく。
しばらくのあいだ目を閉じて、血液の中で細かな泡が弾けているような、身体中の細胞が作り変えられていく気配を存分に味わう。
この自分を脱ぎ捨てていく感覚がとても好き。
「さて、」
私は呟き、まぶたを開く。そして目の前の鏡に映っているのが先ほどまでとは違う自分であることを確認する。
『仕事』だ。
待ち合わせ場所が記された携帯のメールを確認しながら、地下鉄を乗り継いでいく。
一日が終わりに向かう時間帯、帰途につく匿名的な人々の群れの中を、泳ぐ魚のようにすり抜ける。地下鉄の駅は時間が止まっているみたいにいつも明るい。それでも夕方の人々は疲労し、ささやかに、けれど確実に朝よりも老いている。地下鉄の蛍光灯の下では、幼い子どもさえ黄色っぽい肌をして、なんとなく衰えて見えた。
疲れた人々が撒き散らす細かい塵のような、ざわざわした気配から自分を守ろうとして、イヤホンを耳に押し込んだ。ピアノとバイオリンの音が耳に流れ込み、瞬く間に現実を遮断していく。
向かいにはいかにもくたびれたサラリーマンが座っていた。五十代くらいだろうか。スーツには深い皺が寄り、ネクタイはだらしなくゆるんでいて、呆けたような顔つきで宙を見つめている。起伏のない繰り返しばかりの日々に、もう苦痛さえ感じなくなってしまったような、何かを麻痺させたような表情。
ふと、前回の「客」を思い出した。男は泣きながら言った。「生きながら腐って、痛みで苦しみながら死ぬのは嫌だ」。彼は五十代半ばで、社会的地位があり、かなり裕福に暮らしている。誰でも名前を知っている会社の専務だという。今の地位に辿り着くために相当汚いこともやったと聞いた。
そんな如才なくこの世界に順応している人間でも知らないことはあるのだな、と不思議に思う。
誰もが生きながら腐り、ある種の痛みで苦しめられながら死んでいくのだ。いや、痛みがある内はまだ救いがある。やがて痛みさえ感じなくなるのだから。
少なくとも今この地下鉄で目に入る範囲の人々は、みんなその運命から逃れようがないように見えた。
もちろん私も含めて。
*****
ホテルのラウンジ、一番奥のソファー席。約束の場所に男はぴったり時間通りに現れて、抑揚のない声で私に話しかけた。
「何を聴いているんですか?」
その相手が約束の「客」だとわかって私は少しだけ微笑み、片方のイヤホンを外して差し出す。男はしばらくそれを無表情に見つめてから、ようやく意味に気がついて、受け取って自分の耳に当てた。
「クラシック」
男はじっと聞き入りながら呟く。
「ブラームスの……バイオリンソナタ、一番」
「『雨の歌』」と、私は付け加える。
男は小さく頷いてイヤホンを返すと向かいのソファーに深く腰掛け、組んだ両手を口元に当てて、観察するような視線をこちらに向けた。
値踏みされ、評価されている気配。
その視線に晒されている間に、私も相手を観察する。白いシャツにグレーのズボン、細いフレームの眼鏡。意図されたかのように特徴のない格好は、それでも事前に知らされていた通りのものだ。肌が白くつるりとしていて、二十代の後半か、せいぜい三十になったばかりに見える。随分と几帳面そうな細い目、長い首。緊張している様子もなく、表情には不思議なくらい色がない。
「クラシックを聴くんですね」
彼は表情を変えないままそう言った。
「この曲が好きなだけなの。他は聴かない」
「どうして?」
「……人がたくさん居るところで聴くと、ざわめきが雨音みたいに聞こえて好きなの。とても落ち着くから」
それについて、男は何かを考えているようだった。
でも結局何も言わない。
「行こう」
唐突に男が立ち上がる。私は少し遅れて立ち上がり、男の後についていく。
「奇妙なものだな」歩きながら、男が小さく呟いた。
「娼婦がクラシックを聴くなんて」
独り言のようなので私は何も言わなかった。
エレベーターに乗り、二十三階で降りる。絨毯張りの長い廊下を奥まで進むと、ある部屋の前で男は立ち止まりカードキーで扉を開け、私を招き入れた。
扉を閉めてすぐに男が尋ねる。
「そういえば、君の名前は?」
私は男の目を見上げて、軽く肩をすくめた。
「もし、何か呼びたい名前があるのなら……」
「そういうんじゃない。ただ、便宜上、ないと不便だから」
便宜上。
「僕はミフジさんに仲介されただけで、君の事を何も知らないんだ」
「……便宜上の名前は、リコ」
「リコ? どんな字を書くの?」
「漢字じゃなくて、カタカナでリコ」
男はその響きを吟味するように少し沈黙してから、短く頷いた。
そこはかなり広い部屋だった。正面に小さなテーブルと優雅なソファ、テーブルの上には生花が活けてある。部屋の隅には頼りないくらいに華奢な造形の書き物机が置かれていて、その奥の開いたドアの向こうに、巨大なダブルベッドが見えた。小さなスクリーンくらいありそうだ。アラベスク模様の入った深いグリーンの絨毯は一歩踏み出すごとに軽く足が沈む。
男の年齢とは随分不釣合いな、豪華な部屋だ。或いは実年齢よりもずっと若く見えるのかもしれない。
「何か飲む?」私は男を振り返って訊く。
「アルコールは飲めないんだ。ペリエを」
冷蔵庫からペリエの緑色の瓶を取り出しグラスに注ぎ、瓶の傍に添えられていたレモンのスライスを浮かべる。それを男に手渡してから、奥の部屋のベッドの上に腰掛けた。男は書き物机の椅子を持ち上げてベッドルームに運び、ベッドから少し離れたところに座った。そしてこちらをじっと見据える。
「――ミフジさんは」
男が口を開く。
「僕の仕事上、とても重要な相手だ。随分お世話になっている。仕事を超えて私的なつきあいもある。なんというか……僕達は気が合うんだ。僕は彼のことをとても信頼している」
私は頷く。ミフジさんの仕事については詳しく知らないけれど、おそらくあまり知ろうとしない方がいい種類のものだということはわかっている。たぶんこの男の職業についても同様なのだろう、と思った。
「だから彼は、僕のプライベートなこともかなり知っている。それで君を紹介してくれたわけだけど。……僕について、何か聞いている?」
「相手については、待ち合わせに必要なこと以外はいつも何も知らされないの」
「なるほど」
彼は深く納得した様子で頷いた。それでミフジさんへの信頼が益々強まったとでもいうように。
「それで、君には申し訳ないけど、僕は君と寝る気はないんだ」
「そう。でも、気にしないで」
今までみんなそうだったから、とは言わない。
「リコ。僕は君と話がしてみたい。それが『依頼』だ。構わない?」
「もちろん。好きに使って」
私はにっこりと微笑んでみせた。彼はやけに慎重な様子で、私の笑みを観察していた。
「ルールは二つ。僕が君に質問する、君はそれに答える。君から質問はしない。いいね?」
私は返事の代わりに小さく頷く。
「それから、必ず正直に答えること。嘘をつく必要はない。答えたくないことがあれば、黙っていればいい。わからなければわからないと言えばいい。誤魔化すための嘘だけはつかないでほしい。僕は相手が嘘をついているかどうか聞き分けられる。誇張ではなくて、本当に。そのお陰で、今までの仕事でどれだけ助けられてきたかわからない」
私はまた頷く。しかしこの「客」は、いったい私に何を求めているのだろう?
「客」たちが求めているものはいつも様々だ。彼ら自身何を求めているのか気づいていないことの方が多い。ミフジさんはいつもそういう人々をどこからか見つけ出してくる。そして、そこから先が私の仕事になる。寄り添い、穴を見つけ出し、そこにそっと身をうずめること。だから今は何も見えなくても、注意深く待つ。その気配が尻尾を見せるのを。
「ミフジさんも嘘をつかない人だ。そうだね?」
男が言う。多分そうなのだろうと思う。ミフジさんのことをきちんと知っているわけではないけれど。
「そういうことが、お互いの信頼関係を作るにはとても大切だ。僕はまだ君について、ミフジさんの紹介であるという以上の信頼感を抱けない」
男の目はどこまでも無機質で、何の色もない。
「私はなるべく嘘をつかないようにしてるの。それはこれから信じてもらうしかないけど」
それを聞いて、彼は注意深く目を細めた。空気に混じるわずかな雑音を聴き取ろうとするみたいに。そして、中立的な声で言った。
「今、君はほんの少し嘘をついた。違う?」
「そうかもしれない」私は少し首を傾げる。
「言葉が足りなかった、というべきだと思うけど。私は『仕事の時には』嘘をつかない。現実世界ではむしろ、嘘ばかりついている」
「なるほど」
男は頷いた。その目に、少し信頼の色が現れたのが見て取れた。
「それでいい。その方がずっといい。却って信頼できる」
彼はそう言って足を組み直す。薄暗い照明の中で、ペリエのグラスが一瞬きらめいたのが見えた。