Neetel Inside 文芸新都
表紙

彦一少年と蟲くだしの姫
『桜田のダンス』

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 雨はいつも唐突に降ってほしい。
 例えば毎朝欠かさず天気予報をチェックし、
 念入りに備えて立ち向かうべきものが雨か?
 果たして否。
 迫りくる低気圧を恐れるべからず。
 空は今朝、こんなに晴れ渡っている。
 出掛けに母親から傘を押し付けられた少年少女よ、
 その傘は誰がためにある。
 そんなものはくそ喰らえだ。
 高らかに宣言せよ、
「五十パーセント? 降るわけないよ」



 昼下がり、町の空にどこからとなく暗雲が流れ込んだ。
 それが勿体をつけて分厚く膨れ上がったあと、
「へいらっしゃい」とばかりに勢いづく雨の音。

「お前はそう言うがな」
 と、得意顔の赤司は僕の友人の一人だ。カクカクした眼鏡をクイと持ち上げ、にやにやと意地の悪い笑顔で僕を見下ろす。
「魚群の期待度は雑誌のリサーチによるとあれで四十パーセントに満たないのだよ。まあ、もちろん百発百中というわけではないのは経験が実証している。だがな、大抵は当たる。わかるか、四十で当たるなら五十で外れるわけがないだろう。お前はわざわざ予報を見たというのにどうして傘を持ってこないのだ。間抜けめ」
 彼はといえば、しっかり傘を自分の机に立てかけていた。花柄のオバサンくさい傘だった。
「備えあればというだろう」
「ふん、不良学生め。例えの悪い訓辞を垂れやがるよ」
「なんとでも言え。ちなみに俺の傘には入れてやれないからな。先客がいる」
「誰がお前と相合傘なんか。こっちからお願い下げだ」
「仲が良いな、ほんと」
 と、サワヤカに笑いながら会話に混ざろうとするのは、後ろの席の宇山博一である。
「中学から同級だって言ったっけ」
 と、僕と赤司を交互に見やる彼は短髪の好青年。人見知りをせず、女子の知り合いも多い今どきの男子高校生で、正直に言うと僕や赤司のような人間とは正反対の立ち位置にいる奴だ。
「そうさ」
 黙っていると、代わりに赤司が芝居がかったクサイ物言いで受け答えした。
「こいつは中学のころからこうだった。微妙な予報のときは必ず家に傘を置いてくる」
「五十パーは微妙じゃないだろう」
 宇山は口だけで笑う。なんとなく、嫌な笑い方だと思った。
「そう言い続けて何年になるかな。ちっとも聞かないんだ。変な所で意固地な性格をしてるのさ、こいつは」
 宇山がふうん、とか言いながらこちらに向ける目線は、いつもどこかむずがゆい。だからあまり印象は良くない。誰だっているだろう? なんとなく好きになれないタイプ。僕にとっての宇山がそれだった。
「マイペースといえば聞こえはいいけど、……どうなんだろうね、それ」
 至極どうでもよさそうな言い草である。少なくとも僕はそう感じた。赤司はそれを受けて調子に乗る。
「どんどん言ってやってくれ。おい、相良。お前もその癖は早く直しておいたほうがいいぜ」
 心から、余計なお世話だと思った。
 赤司はその後、宇山と携帯をつき合わせて何事か話し合っていた。
 ちらと目をやった先、宇山の机にもビニール傘が立てかけてあった。コンビニで売っているような安っぽい傘は、それこそ今どき男子高校生である宇山の象徴のように目に映った。



 雨脚はだんだん強まって行った。大勢の雨の精がいちどきに地団太を踏むような午後三時を境に、少しは落ち着いたというものの、放課後も未だにじわじわざわざわと降り続いている。
 帰りのホームルームが終わったあと、クラスメイトたちが帰途に着くのをすっかり見送った。
 宇山が去り際に「じゃあ」と肩を叩いて通り過ぎていった。触られた肩甲骨あたりの感覚が尾を引く。その日何度目かのため息をついた。
 ちなみに赤司は鼻息を荒くして真っ先に飛び出していったから、また例の先輩によからぬ企みを仕掛けようとでもしているのだろう。言うまでもなくこれは蛇足である。
「相良くん、最後だから電気消しといてね」
 これから生徒会の会合に出向くらしい学級委員が念を押した。僕は教室の隅にわだかまって、椅子の背もたれに体重を預けて天井を眺めていた。
 彼女が出て行ってすぐに席を立ち、照明のスイッチを切ると教室からひと気が失せた。
 薄闇に沈んだ教室では、今日に限ってはグラウンドを走り回る運動部の声は聞こえてこない。
 吹奏楽部が音合わせする豆腐屋の笛のような音も響いてこない。
 職員会議を召集する校内放送も今日は流れない。
 ただ雨の音が午後じゅうずっと鼓膜に張り付いている。
 いつになったら小降りになってくれるのか。それまでいったいどれだけ待てばいいのだろう。
 じめじめした空気が纏わりついて、頭の中までどろどろしてくるような気がする。
 読みさしの文庫本が鞄の中に入っているけれど、湿気でふやけて印字もにじんでしまっていやしないか。まるで読もうという気が起きない。
 窓を開けたって、乾いた涼風が吹き込んでくるはずもないし。
 腕を組んで椅子に沈み込んでいるとずぶずぶと生ぬるい空気が肺を侵食してくるような気がした。それにはきっとなんらかの毒が含まれているに違いない。自分の行動全てを否定する第二の人格を芽生えさせる悪意の微生物。
 居心地が悪いと感じたのもつかの間。
 いつの間にか眠りの世界に逃げ込んだ自分の背中を見ている。



 夢の中で、
 同じ顔をした人達が同じ服を着て、
 巨大な街頭モニタの天気予報を見て、
 それから傘を手に持って、
 晴れたビル街を整列して歩いて行く。
 僕は手ぶらでそれを眺めていた。
「相良くんはお寝坊さん」
 背後から声がした。
「相良くんはいい寝顔をするなあ」
 その声は自分が寝ていることを思い出させてくれた。



 桜田が僕の机に手を突いて笑っている。
「よっす」
 思わず椅子に座ったまま後ずさり、頭を二度振ってまなじりを指でこすった。
「おはよう、少年」
 彼女の笑った顔。
 深く息を吸ってこの世の空気を思考に送り込む。そうやって無理やり意識を叩き起こした。
 薄闇の中で目を瞬かせると、そこにいるのは間違いなく桜田だというのが分かった。
「……なにしてんの」
「きみこそこんな暗い教室で何をしてるんです」
「明るいと眠れないんだよ」
「そっか、納得」
 桜田は身を翻すと、彼女の席、――隣の窓際の席につき、椅子を引いた。
「あたしさ、今朝傘を忘れててさ。さっきね、――」
 窓枠の向こうは分厚い曇天がはるか上空の陽光を受けてほの白んでいる。
 薄暗い教室から窓枠に収まる桜田の姿を眺めていると、知られざる画家の描いた少女の画に魂が宿り動き出したかのようにも見えた。
「下駄箱まで行ってそれを思い出したのです」
 でもそれは寝ぼけ眼で垣間見た夢の続きだったに違いない。にへらと顔全体で笑う桜田は、僕の知っている桜田以外の何者でもなかったわけだし。



 桜田のことを説明すると、隣の席の女子生徒、それだけの言葉でこと足りる。
 それほど僕と親密だというわけではないし、おぼろげな記憶を辿っても、まともに話したことなんか一度か二度しかないはずだ。
 目立たないくせになぜか印象に残る、ちょっと不思議なクラスメイト。そんなイメージ。
 桜田には何度か消しゴムを借してあげたことがある。しかし彼女はそのことをすっかり忘れていたし、僕のほうは彼女からシャーペンの芯を分けてもらったことを覚えていなかった。
「ひどい、恩に着るとか言ってたくせにっ」
 それも記憶にない。
 窓の向こうに依然として聞こえてくる雨の音が、僕達を教室に閉じ込めているような錯覚を与える。
 だからそんな話になったと思うんだけど。
「相良くん、きみは女子にそこそこ人気があるって知ってた? 決して少なくはない人数の女子から」
 雨のせいにして聞こえない振りをしようかな。
 桜田のことをもう少し説明すると、彼女はどぎつい香水の匂いを振りまくことはないし、下品な金切り声でぎゃあぎゃあ騒いだりすることもない。
 かといって教室の隅に数人で負の力場をつくり、その狭いコミュニティに籠もっているわけでもない。
 要するに最も目立たないタイプの女子生徒であるけど、クラスじゅうの男子の誰ひとりとして、彼女の笑った顔を見たその後、仲間内で何かしらの褒め言葉を協議しない生徒はいなかった。
 黙っていても評判を呼ぶのは美少女の証明らしい。赤司がいつかそんなことを言っていた。
「大好評だ、あたし」
 やや大げさに言うと、桜田は盛大に照れてみせる。
「ええと、うむ。……弱ったな」
 意味もなく両手を振り、俯いたり天井を仰いだり、挙動不審になる。やがて手を両膝に据えると、身を乗り出して取り繕った。
「そ、それはともかく。そういう相良くんとお話できる私は、結構ラッキーだと言えたりするのですよ」
 だからなんなんだ、とはどうしても言えない屈託のなさが桜田にはあるんだよな。



 恋とか、愛とか。
「相良くんはそういうことに興味がないのですか」
「ないっていうか」
「じゃあ、あるんだね」
「……ていうか、ぴんと来ないんだよ」
 それこそ桜田はぴんと来ていない表情で僕を見つめ返した。雨宿りの教室は薄暗く、もうぼんやりとしか見分けがつかないけど、たぶんそういう顔をしていた。
「どういう意味?」
「これを僕が僕以外の人にうまく説明できるんなら、人類の歴史に戦争なんていう悲惨な出来事は起きなかったし、アメリカは訴訟社会になんかなっちゃいないし、近所の苦情のせいで僕んちの犬が去勢されることもなかったし、数学の石田先生だって居眠りを見過ごしてくれるし、ジャニーズのニューシングルが毎回ランキング初登場一位だってことさえ僕は甘んじて受け入れるよ」
「ほほう」
 ほほうときたか。
「それで? どうして?」
 桜田は苦し紛れの煙幕をすいすいと抜け出して迫ってくる。
「どうしてって、……」
 口籠もる僕を見据えて、桜田は静かに息を吐いた。
「私は、すばらしいことだと思いますよ」
 と言って続ける。
「人が人を好きになる。恥ずかしくて照れくさくて、ときどき自分ひとりじゃ抱えきれないくらい大きく膨れ上がるけど、それでもきらきらと輝いているじゃないですか。きっとどんな宝石よりも美しいに決まってます」

 誰かに見られている。
 むずむずする。
 ああ、お前はさっきの悪意の生きもの。
 口の動かし方を覚えたか。
『きのう見た夢の話を聞かされてるような気分だって、言ってやれ』

 随分たってから僕は言った。
「傘」
「え?」
 桜田は首を伸ばして目をぱちぱちさせた。
「どうする? 探しにいこうか」



「何でもっと早く気付かなかったんだろう」
 昇降口の隅に設置された傘立てには、遠い昔に主人と離れたであろう、埃を被った放置傘が何本か忘れ去られていた。
「これで帰れるな」
 なあ桜田、と振り返る。
 靴を履き替えた桜田は「フフフ」と昔見たアニメに出てくる悪役のような調子で笑うと、傘など手に持たず、降り止まない雨のなかに飛び出していった。
「おいばかっ」
 僕は適当に放置傘を一本引き抜くと、両腕を広げ天を仰ぎ、でたらめなステップを踏んでくるくる回る桜田の許に走り寄り、傘を開いた。
「お前さあ、……」
「えへへ」
 すっかり濡れそぼった桜田の前髪が束になって額に張り付いている。彼女は笑いながら指で目許を拭う。
「ほら、相合傘だ」
 そう言って見上げてくる。
 背ぇ低いなあ、と思った。



 翌朝の通学路で百円玉を拾った。自販機の足許。俯いて歩いていたのは僕が根暗な奴だからという訳じゃなくて、昨日の雨が至るところに水溜りを作っていたからで。
 拾い上げたニッケル合金の欠片は濡れていて水滴をひっつけていた。天にかざすと眩しくきらめいて太陽の光を反射させる。空には雲ひとつ浮かんでいない。

 清々しい朝は校門までだった。
 そこここで立ち話をするクラスメイトの人林を縫ってようやく自分の席に辿り着く。朝からみんな、元気のいいことで。そんなに昨日のテレビが面白かったか、そうか。
「あ、相良くん」
 窓際から声がした。隣の席の桜田は他のクラスメイト同様、朝っぱらからニコニコしている。
「おはヨ」
 彼女との朝の挨拶は、近頃習慣となりつつある。
「おはよう」と返事をすると、
 宇山の低い声が続けざまに返ってきた。
「おっす、」
 言うまでもないが朝からあまりまじまじと見つめたくはない顔だ。
 宇山は桜田の机に手を突き、身を乗り出すように彼女と向き合っていた。どうやら僕が教室に入るよりも前から、二人はなにやら話し込んでいたように見てとれる。
 何を言うでもなく、その様子を立ったまま見つめる。心の中で唾を吐いた。
 ――手当たり次第、という印象。とりあえず間近の席のオンナノコから、ってか? イケメン宇山様は違うね。勝手にやってろ。僕は関与しない。
 清々しい朝が台無しになったと実感したのはきっとこのときだ。昨日の夜まで降り続けた雨は、瘴気に霞む街を丸ごと洗い流し、澄んだ空気の中では遠くの景色まで見渡せたというのに。
 頭の中で宇山の顔面が増殖していくのをどうにかして阻止しなければならなかった。気分が悪いときは机に突っ伏して寝てしまうのが一番いいと僕は知っているぜ。
 だから、勝手にやってろ、ふたりとも。
「ねえ相良くん」
 しかし桜田はなおも僕の袖を引っ張ろうとするのだった。
「ほらほらっ」
 桜田が満面に、――この場合、少々おバカな印象のする笑みを湛えつつ、机の脇に立てかけられたあるものを示す。
 それは黒が褪せてぼんやりと変色した、ボロっちい傘。
 それに見覚えがあったのは、昨日の放課後、下駄箱の傘立てから引き抜いた放置傘を思い出したからだ。同じ傘だった。
 傘と、尻尾を振る仔犬みたいな顔をした桜田と、陰気に僕を睨みつける宇山の眼を順番に見比べる。
 何か言わなきゃいけないのかな。仕方がないから口を開いた。
「そんなボロ傘、捨てちまえよ」
「いえいえ、捨てらんないのですよ」
「今日はこんなにいい天気だぞ」
「天気は関係ないもの」
「意味わかんねえ」
 本当に勝手にしやがれ、僕は寝るぞ。気分が悪いから寝てしまうのだ。ふて寝だなんだと蔑まれても構わん。
 ホームルームが始まって担任の石田先生が来たって起こしてくれるなよ。起立、礼、おはようございます。それらを机に突っ伏してやり過ごすのに少し憧れがあるんだ。
「その傘がどうしたの? 何の話?」
 宇山の妙に明るい素っ頓狂な声が鼓膜をざわつかせる。
 表情までどこか胡散臭いその顔を桜田に近づける。
「俺にも教えてよ。相良ばっかと話さないでさあ」
 桜田の無尽蔵に思われたテイクフリーの笑顔がこわばる。駅前のホットペッパーが雨風に曝されてしわしわになる。それを定点観測して早回し再生したような感じ。
 桜田は「え、えと。……」なんてうろたえつつ、宇山と僕を交互に見比べる。やがて僕をじっと見つめて動かなくなり、口もぴたっと閉じて黙り込んでしまった。
 それに釣られるように、宇山も僕を見る。こいつは桜田から目を背けると、その双眸から光が消え失せてしまうらしい。口だけは笑っていて気味が悪い。
 僕は桜田に言った。
「……なんで僕を見るんだよ」
「だって」
 だって、じゃないわい。
 そのとき誰かの舌打ちが聞こえたような気がした。振り返ってその悪意を確かめようとした瞬間、なにかトゲトゲしたものをティッシュに包んで差し出すような声で、宇山が訊いてきた。
「相良あ、教えろよ」
 無性に、どうしてかはわからないが無性に腹が立って、びっくりしたぼくの胃袋は地団太を踏み、丹田震撼、そのせいでみぞおちの真ん中辺りにある怒りのゴングが「カチン」とひとつ鳴った。
「俺が昨日桜田にあげた傘がどうしたよ」
「イミわかんねー」
「あいにくこっちもわからん。それはなぁ、それ以上でもそれ以下でもない、骨の錆びた、ただのボロ傘だ。説明はそれで充分すぎるほど果たしてんだよ。なあ、桜田、」
 と、ここで桜田に同調を求めたのがいけなかった。

「うん。きのう、その傘で一緒に帰ったんだよね。これはただのボロっちい傘」

 エヘヘ、だと。百点満点の笑顔。指で頬を掻くおまけつき。
 さっきまで真冬の電気毛布並みの熱を持っていた頭が急激に冷える。低温やけどは免れたわけだ。しかしながら、
(あ、マズい)
 と思った。

「てめえええ女の子と相合傘だあふざけやがってええええ! ぶへあ」
 憤怒の形相さながらに喚き、金剛力士もかくやといった勢いで人波を掻き分け、いかり肩で歩み寄る赤司の大馬鹿を筆頭に、あれよと言う間に僕と桜田は、クラスじゅうの男と女から囲まれ、質問責めに遭ってしまう。赤司を反射的に殴り飛ばした直後からだ。
 桜田と、僕と、棒磁石の両極に引き寄せられる砂鉄の如きクラスメイトたち。彼らに取り囲まれ身動きがとれない。桜田は女子の嬌声に籠され、僕は男子の血走った眼に包囲されていた。
 その騒ぎは、朝のホームルーム開始を伝えるチャイムが聞こえぬほどに発展した。
「おおおお前ら! いつからだ! いつから付き合ってたんだ!」
 級友たちはいくら否定しても聞く耳をもたない。アホかこいつら。女子に囲まれた桜田は、大勢の後ろ姿に埋もれてしまい、その姿を隠していた。
 喧騒のさなかに、人垣の隙間から一度だけ、こちらを見つめている宇山の姿が見えた。射抜かれようものなら、背中に鳥肌も立とうかというほどの冷たい視線! 何がしかの黒い感情。

     



 初めて授業をさぼった。
 四時限目の数学だった。数学担当の石田先生は堅苦しくて小うるさいから、クラスの担任にこの話が行くのは必定であろう。次に顔を合わせる瞬間が今から億劫だ。
 四十人分の奇異の目線から逃げ出した僕はつまるところメンタル面が弱い。スポーツ界に偉大な業績を残すトップアスリートたちでさえ、肉体と違い実体のない精神は鍛えるのが難しいと苦心惨憺しているのだから、僕のような一介の男子高校生に至ってはそれも当然といえる話だ。そうだろ?
 勢い込んでさぼってみてもどこへ行けばいいのか誰も教えちゃくれない。
 不良高校生の真似をしてみようにも煙草もライターも持っていなかった。そもそも猛毒である紫煙の臭いは大嫌いだった。あんなもののどこに魅力があるのかわからない。
 保健室で休ませてもらうのが最善の言い訳になるだろうか。そこには先客がいるかもしれない。それこそ筋金入りの不良がたむろしている可能性が高い。そこへ単身乗り込んでいく度胸など当然ない。
 図書館にいるのが見つかったらこっぴどく問いただされるだろう。
 いや、なにも学校に留まっている必要もないではないか。そうだこの際自宅に引っ込んでしまおう。でも次の日どうするつもりだ。
 何事もなかったように登校しなきゃならんのか。そして担任に体制に従うことの意義を教え諭され、自分はまたどこからかいつからか流れ出した大きな奔流の中で浮き沈みする木の葉の一枚に過ぎないのだと、諦めのため息を吐くしかないんだろうか。
 それじゃあ本当は一体何がしたいんだと訊かれると、きっと僕はその質問に答えることができない。どこにでもいる高校生だ。これといって悩みがないことを悔やみ、その数十年後、理想はと訊かれれば普通のサラリーマンですと答えるテレビの中の小学生をみて、なんとなくがっかりする中年中間管理職なんかになっているんだろう。
 僕はどうしようもないくらい普通の高校生だ。
 普通の高校生は普通に学校に行って、たまにさぼって、ときどき嘘をついて、そのたびに正直者を志して、吊り革にぶら下がって電車の窓の外を眺めるような人生を送るのだ。たぶん。
 だから僕にとって桜田とは、ただの隣の席の女子生徒以外の、それ以外のなにものでもないよ。お前らが勝手に決め付けるな。お前らが僕の価値観を操作するな。ほっといてくれ。



「お、戻ってきた」
 教室の戸をくぐる僕を赤司が目ざとく発見する。ぶん殴った左の頬は、時間が経つにつれて赤く大きく腫れ上がっていた。メガネは傾いたままだ。
「おかえり」
「ただいま。お前は病院行ったほうがいいと思うよ」
「気にするな。俺も動転していた。むしろ目を覚ましてくれてありがたかったぜ」
 再三の主張になると思うが彼はいわゆる変態であった。二人のあいだにそれ以上の会話は続かない。
 誰とも目を合わさないようにして席に着くと、やはり背後と左隣にわだかまる空気が重たく、肌にまとわりついてくるような不快感があった。
 机に肘を突いて沈み込んで、残りの課程のあと二コマを地蔵のような無心で過ごそうと心に決めたそのときだ。
「おい、放課後空けとけ」
 亡霊のうわごとのような低い声で、後ろの席の生徒がぼくの背中に語りかけた。
 当然返事なんかしない。



 帰りのホームルームの直後、担任が呼びつける声を完全に無視して、宇山が僕の腕を強い力で引っぱって行く。
 教室じゅうが俄かに静まり返って様子を眺めていた。担任さえも呆気に取られて口を半開きにしたまま見送ってくれた。
 桜田はどんな顔をしていたっけ。よく見えなかった。

 学校を後にして、最寄の駄菓子屋に連れて行かれた。そこで宇山は冷凍ボックスからブラックモンブランを二つ引っ張り出し、一つをぼくに寄こした。
 自分の置かれた状況が上手く飲み込めないでいた。
「なんだ、ミルクックのほうが好みか」
「違う。お前が何をしたいのかわからんだけだ。これでも竹下製菓とは十年来の付き合いだよ」
「だったら受け取れ。俺のオゴリでいい」
 ほとんど押し付けるようにして宇山はそれを手渡すと、残った一つの袋を破き、中身にかじりついた。
 宇山は財布から百六十円取り出して冷凍ボックスの上に置き、
「行こうぜ」
 と言って、僕の返事を待たずに歩き出した。
 二人の縁はいま八十円の当たりつきアイスで繋がっている。強力な冷凍庫に長いこと放り込まれていたようなそれにはまるで歯が立ちそうになかったが、宇山は平気で食いちぎって咀嚼している。なるほどアイスとは舐めるものでなく噛むものだったのだなと納得させる後姿である。
「かってーなこのアイス」
 なんて言っている。それもそのはず、アイスの時期にはまだ少し早いのだ。まさか前のシーズンのものがそのまま冷凍保存されていたわけもないだろうが、傾きかけた駄菓子屋の構えを鑑みると間違っていないかもしれなかった。僕はタダのアイスを手にぶら下げたまま彼の後に続いた。
 彼の背中に追いつくと、気配を察知したのだろう。宇山は背中越しに語りだした。こいつもこいつで、なんだか格好つけた奴だと思う。
「お前さあ、俺のことあんまり良く思ってないだろ」
「よくわかってるじゃないか」
「お互い様だ。だからあまり長引かせない。単刀直入に、だな」
 宇山は突然立ち止まった。僕も足を止める。鞄を漁ると、彼は封筒を取り出して、
「ほら、やるよ」
 僕に差し出した。カチカチのアイスを咥えてそれをあらためると、遊園地の開園記念イベントの招待券が二人分入っていた。
「お前にやる」
「いわん」
 変な声が出た。半開きの口の中に唾液が溜まりはじめる。咥えたアイスを一口かじって一緒に飲み込んだ。
「なにをさせたいか言わなくてもわかるだろ?」
「わからん、返す」
 宇山はため息をついて背中を向ける。そして逃げるような早足で歩き出した。
「おいっ、ふざけるな。気持ちが悪い。お前一体何がしたいんだ」
「俺じゃ駄目なんだよ。お前じゃなきゃ駄目なんだとさ」
「はあ? いい加減にしろ。狐につままれてるような気分だ。はっきり言え」
 僕は宇山に追いすがり、肩に手を掛けてこちらを振り向かせた。
「おいっ」
「この鈍亀が。じゃあはっきり訊いてやる。お前、桜田のことどう思ってるんだ」
 宇山は僕のことを、やはりいつものように、何か汚らわしいものでも見るような目つきで睨みつける。ひそめた眉に不快感が顕に出ている。
「好きか、嫌いか、はっきりしろ」
「そんなん知るかっ」
「お前のそういうところが気に入らねえんだよ。お前を見ていると虫唾が走る。でたらめを言っていつも煙に巻こうとする。ふざけやがって」
 宇山は肩に掛かった僕の手を払い落とし、ついでにお返しとでも言わんばかりに僕の左肩を突き飛ばした。
「本当ははらわた煮えくり返ってるんだぜ。ぶん殴ってやりたいくらいにムカついてるんだ」
「だったらやりゃあいいだろ。僕は根っから正直者で他人の嘘には鈍感なんだ。はっきり態度で示してくれなきゃこっちが困るわ」
 と言うが早いか宇山は僕の頬を力一杯に殴りつけた。拳を振りぬく渾身の殴りっぷりで、視界から宇山がいなくなったと思ったのと、首が九十度横を向いていることを関連付けるのに少しだけ時間が掛かった。左頬に流れる血液が沸騰したかのように騒ぎたて、痛覚神経をこれでもかと揺さぶる。
 僕は何度か頭を振って、ぐらぐらする視界になんとか二本足で踏ん張ろうと必死だった。そこに洗脳テープのような宇山の声が響いている。
「とにかくお前は桜田と付き合え。そして彼女を笑わせろ。悲しい顔をさせるな」
 顎を動かしてみて、なんとか声を出すことが出来るらしいことがわかった。
「何でそんなことを、お前に言われなきゃならねーんだ」
「お前は彼女のことを好きなくせに、そういうわけのわからん意地を張っているんだ。自分に正直になれくそやろう」
 宇山は泣きそうな顔をして、怒っていた。
 なんだかよくわからないが。



 翌日も良く晴れた日だった。青天白日。まっちろけなのは空の上だけで、大地に這いつくばる僕たちはドロドロした重力から逃れることなど到底叶わないのである。
 鳥になりたいなあとよく思う。はるか昔に、太古の地上に君臨したあの恐竜たちの子孫は、体を作り変え重力から逃れる術を得た。
 カラスなんかは電信柱の上から、儚い憂き世に身をやつす現代人の汚れた魂を眺めては笑っている。いい気なもんだ。そういう傍観者になりたい。なりたかったが僕は当事者に他ならないのである。
 だって現代社会を生きる人間だもの。人間社会を生きる現代人だもの。目の前の面倒事に一つひとつ立ち向かわなきゃいけない宿命のうえに生まれた。
 どう生きるのかを決めなきゃいけない。
 まとわりつく何もかもに対して、一つひとつどうするのかを決めなきゃいけない。
 桜田とどうなりたいのかも決めないといけない。
 僕は誰からも指示されることなく、自分の考えを自分ひとりで決めなきゃいけないらしい。
 きっと人生の先輩である大人たちや宇山なんかはそうやって生きている。
 色々と世話を焼いてくれるのは余計なおせっかいだと思うけれど。
 全然大人なんかになりたくないと思っているけれど。当然宇山になんかもなりたくないけれど。
「桜田はさあ」
 と声をかけると、桜田は口許に笑みを湛えて振り返った。
「遊園地とか好き?」
「うん、あんまり行ったことはないけど」
「そう」
「それがどうしたの?」
「いや……」
 背後の席の宇山をちらと見やる。文庫本に視線を落として空想の世界にのめり込んでいた。お前みたいな奴も本を読むんだなあ。
「別に。訊いただけだよ」
「ん、そう?」
「うん、なんとなく気になっただけ」
 ガン、
 という音と、尻を突き上げるような振動。宇山が僕の椅子の座面を裏側から蹴り上げたのだ。
 宇山はやはり、なにかしら感情のある光をその眼に湛えつつ、こちらを見据えるのだった。
「悪い、悪い。足が滑ったわ」
 どうでもいいけど。
 お前の読んでる本の背表紙が逆さまになってるのは僕の気のせいなのかな。

〈オワリ〉

       

表紙

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