千文字前後掌編小説集
腐り空
空が腐り始めて三ヶ月になり、僕らはようやく諦め始めている。ぼとりぼとりと落ちてくる空の欠片には鳥の手足が混じっているが、それらをついばむカラスはもういない。七種類のサプリメントに加えてソフトドラッグ「パン」を胃に流し込む。軽い胃の痛みと共に数瞬多幸感が訪れてくれる。かつて幸福だった頃の思い出が、純心だった幼い日々の一部が脳内に明確に浮かんでくる。ただしその情景はその後徐々に薄れて消えて無くなっていく。
「またそんなもの飲んでる。いい加減死ねよ」
元恋人の言葉は一ヶ月前のもので、今は僕にそんな優しい言葉をかけてくれる人はいない。荒れた胃から立ち上っているはずの臭気は僕の鼻には届かない。頭上を覆う広大な空が異臭を放っている今では、人々の嗅覚はまともに機能していないのだ。
出勤途中にある、回収車の来ないゴミ捨て場にはカヴァーを引き裂かれたソファが置かれていて、歩くことに疲れた誰彼がそこで一息付き、時にはそのまま動かなくなっている。次にソファに座りたい誰かが死骸を蹴り転がし、周囲にはぼろきれのような元人間達が散乱している。
いつかそこに自分も座るのだろうなと思う。
明日か明後日か、今日の帰り道か。
「パン」は一時の安らぎと生の実感を与えてはくれるが、長くは持たない。朝食だってパン食より米食の方が腹持ちがいいものだ。幸福に飢えている僕らは食べても食べても満たされないからどんどん胃が荒れて、ゲップの回数が増えていく。
会いたいのに顔を思い出せない人がいる。
顔を覚えているのに名前の出て来ない人がいる。
会いたい人の数が日に日に少なくなっていく。
噛み千切られたような肩の傷をつけた人は誰だったのだろう。
腐り落ちた空は地面に浸潤していき、僕らを支える大地をも腐らせている。空も陸も腐り切るのにはあと二十年はかかると分析する専門家は、人々を安心させようとしているのか絶望させようとしているのか分からない。
そんな日々の中でも仕事は続く。六時間残業の後、行き着けのコンビニで夜食のパンと「パン」を買う。おにぎりはもう二週間前から売り切れている。空きっ腹に入った「パン」は胃を傷付けたくて激しく弾ける。二人の将来について語り合った、元恋人との思い出が蘇ってきた。五十年後の話までしていた。
それからパンをかじった。固くて石みたいな味がした。でもそれは僕の顎が弱っていて、僕の舌がおかしくなっているのかもしれなかった。
家の前に、少し大きめの空の欠片が落ちていた。その中でもがく人間の手足が見えた。動かなくなるまでしばらく待ってから、僕はそれをまたぎ、ドアを開けた。
「ただいま。おやすみ」
聞く人のいない挨拶は独り言となって部屋の隅に積み重なっていく。三時間後にはまた家を出るから靴を脱ぐのも面倒になり、玄関で眠った。布団も先週から敷いたままだ。
(了)