千文字前後掌編小説集
小説を書きたがっている猿
数年振りにログインしたmixiで結婚の報告をしたところ、旧友からメールが届いた。
「結婚したってマジ?」
「マジ。身長差32cm」
「今何してんの? 小説家?」
そこで僕は自分が小説を書いていたことを思い出した。これまで書き散らしてきたあれこれは、本当に小説だったのか、なんてことまで考え出した。そうこうしているうちに眠くなり、また一日が終わった。
早朝の風景には動物達の気配が色濃く描き込まれている。朝の散歩に出ている犬と飼い主、民家の隙間を素早く駆け巡るイタチ、縄張り争いに忙しいカラス、鳴き声が聞こえてくるだけで名前の分からないたくさんの鳥達と、四方八方からの虫の声。
「今日はいないね、あのにゃんこ」
妻と手を繋いで歩きながらバス停に向かう。途中にある洒落た一軒家の玄関に、ドアが開くのを待っているらしい白猫が居ることがある。猫の横では置物の犬が間の抜けた顔を固まらせて、物思いに耽る白猫をからかっている。
妻の手のひらは温かい。「眠いから」と妻は言う。朝五時に起きる僕のために、妻は四時過ぎから起きて朝の準備をしてくれている。おかげで僕は腹一杯の朝食を食べて一日を乗り切れる。おかげで僕は一生を乗り切れる。
「今日は蒸し暑いから家でゆっくり寝ていてね」妊娠六ヶ月の妻を気遣って僕は言う。
始発を待つバス停には既に三人の眠そうな先客がいた。手を離すと妻はあくびをしたので、僕はその口に右手の人指し指を入れようとした。噛まれた。続けて中指を、薬指を、小指を、それぞれ強く噛まれた。
「痛いよ」
「知ってる」
しかし血は出たことがない。
風呂上がり、しゃがみ込むのが苦しくなってきた妻にマタニティショーツを履かせる。大きくなった腹をズンズンと突き出して妻は僕に迫ってくる。
「おっすもうさん」と機嫌よく歌う妻に「そんなことないよ」と言わないと怒られる。
「でも本当にお相撲さんなら、得意技は押し出しだろうね。『投げ技なんぞ知らん!』みたいな」
「絶対馬鹿にしてるよね」
「そんなことないよ」
どのみち噛まれる。
妻は僕の左腕にしがみつくようにして眠る。僕は夢の中で、妻のお腹越しに子供に蹴られてしまう。やはり親子だな、と思い嬉しくなるが、起きてみると「何かうなされてたよ」と妻は言う。
「起こしてくれなかったの」
「だってうなされてるの見てると楽しいから」
再び妻と僕は始発のバスに乗るためにバス停まで手を繋いで歩く。今は夏で、僕は半袖だ。妻は僕の腕を口に持っていこうとして「危ない危ない」と言って噛む寸前で止めてしまう。歯形を付けて会社へ行かせるわけにはいかないからだ。
だから妻は優しいのだと思う。
「小説書いてるよ、私小説風で、大体妻のこと」と冒頭で書いた友人へ返信メールを送る。「それは小説といえるかどうか分からないけど」といったことまでは書かない。
一日で自由に使える時間は一時間に満たないかもしれない。書いている途中で耐え難い睡魔に襲われることも多い。
それでも、と僕は思う。
夏場に汗をかいて渇いた喉が水分を欲しがるように、僕は小説を書きたがっている。
「お風呂入るよ」と妻が呼ぶ。
僕はキーボードを打つ手を止め、服を脱ぎ始める。
(了)