Neetel Inside 文芸新都
表紙

ピーラー
二、ブルーサマー

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 夏休みは予定が何も無かった。当然だ、友達も居ない、部活も無い、恋人は社会人、そんな人間に予定なんか無い。
 お兄ちゃんは最近忙しいとメールが来てからあまり連絡が来ないし、会いにも行けない。だから本当にあたしは一人ぼっちだ。家族以外会話する相手が居ない。
 家に居るのもだるく、やる事が家事と宿題くらいしか無かったので学校に向かった。毎日簡単にお弁当を作って、電車に乗って図書室と自習室を気分で使い分けて勉強や読書をした。たまに市立図書館に足を伸ばしたり、チェーンのコーヒーショップに入ったりもしたが、やはり学校が一番楽だった。来るメンバーも大体決まっていて、定位置も決まった。図書室では窓側の奥から二つ目の端っこの席、自習室では入り口から三列目のど真ん中。
 お昼ご飯は晴れていたら屋上で食べて、雨や暑過ぎたら部室で食べた。冷蔵庫のある部室はかなり重宝した。図書室の好きな本は全部読んでやろうと思った。

 その日もいつも通り図書室で読書をしていた。午後から日差しが当たり始めてカーテンをひいて外の景色を消した室内はクーラーが効いて心地よかった。ずっと下を向いていた顔を天井に向けて、凝り固まった頭と首に血液を流した。
 この前まで図書室の終わる時間に合わせて帰っていたのだが、部活終わりのヒエギ先生と鉢合わせをして服装について色々言われたので最近は少し早めに帰っている。夏休みなのでネックレスと指輪を着けていたし、ブラウスの胸元を第二ボタンまで開けて指定のリボンは着けていなかった。あとスカートもいつもより折っていた。そのせいで、笑顔で注意をされて不快だった。何が夏で暑いからってあまりハメ外しちゃダメよ、だよ。暑いのとハメ外すのに何の関係性があるんだよ。
 読み終わらなかった文庫と新しい物を二冊選んで貸し出しの手続きをした。カウンターでバーコードの読み取りをぼんやりと眺めていると、後ろから肩を叩かれた。
 振り向くと立花君が立っていた。ライブTシャツっぽい黒のシャツにワイシャツを羽織っていて、学校がやっていた時より頑張っている感が出ていた。それは私もなのかもしれないけれど。
「久しぶりだね」
「うん、お久しぶり。立花君は返却に?」
 彼の手に本は無く、重そうな紙袋があったからにっこりと笑って声を潜めて尋ねる。丁度貸し出し手続きが終わってレシートみたいな用紙を受け取って横にずれると、立花君はうん、と返事をしながらその紙袋から本を出した。ハードカバー三冊と文庫五冊と新書二冊。貸し出し上限の十冊分の本が出てきて、凄いね、と何かわからない感想を述べた。
「そんな事無いよ、若林さんも結構読むでしょう?」
「うーん、そうかな」
 手にある文庫本を見て、首を傾げた。久しぶりに人と会話しても盛り上げる気力も起きない。大体立花君とは以前二度ほど話しただけで久しぶりも何も無いただのクラスメイトだ。
 面倒臭くなってきて、返却手続きを待たずにお疲れと声をかけて図書室を出た。
 早足で廊下を抜けて、校舎から出て校門をすり抜ける。この時間でもまだ全然明るい外は蒸し暑くて、駅まで街路樹で日陰となっている部分を選びながら歩く。
 駅に着いて、帰りの電車の時間を確かめるとまだ二十分ほどあり、駅の本屋に向かった。軽く小説と漫画の新刊コーナーをチェックして、入り口近くにある女性ファッション誌の所へ足を進めた時だった。
 大きな自動ドア越しに、前の通りをお兄ちゃんと茶髪の女の人が並んで歩いて行くのが見えた。何となく同僚や友達ではない雰囲気を感じて、固まった。あたしと正反対の茶色でふわふわした髪の毛をしたおばさんとお姉さんの間ぐらいの人がお兄ちゃんの腕に触れて、二人で笑いながら歩いていく。
 視界から二人が消えるまで見つめて、大きく息を吐き出すと本屋からホームへ向かった。改札を抜けてまだ十分以上待ち時間のある線路を見つめた。ホームには疎らに人が居た。
 ……ばっかじゃねぇの、何で見つかるような時間に、よりによってここ歩くんだろ。忙しいってのもあれか、嘘か。もう一度大きな溜息をついて、ホームにある椅子に座ると鞄からペットボトルを取り出してがぶ飲みをした。もう温くなったそれは全然乾きを癒してくれない。
 ああ煙草吸いたい。小さく舌打ちをして、空のペットボトルをすぐ横のゴミ箱に投げつけた。大きな音を立ててゴミ箱内を跳ねるペットボトルに何故かイラついた。
 それから電車が来るまで無心でピーラーをした。がつがつと指の逆向けを剥いてホームに落として、両親指と左の薬指から流血した。ティッシュを取り出して血を吸わせながらずっと下に向けていた顔を上げた。誰も私を見ず線路に向かって並んでいた。
 電車が来たので立ち上がった。スカートの上に残っていた小汚い皮は音も無くホームに落ちた。血を吸わせたティッシュをペットボトルの横のゴミ箱に投げると、それも音も無く中に消えた。何故かまたイラついて舌打ちをして電車を待つ列に並んだ。

     

 屋上でゼリー状の栄養補助食品を食べながら、空を見上げた。お兄ちゃんの浮気現場を見てからやる気が無くなった。ご飯は夕食を何とか作るが、昼食を食べる気が起きない。夏休みの宿題もまだ半分以上残っているし、借りた本も読めていない。ずっと何か眠たい。
 お兄ちゃんとは別れたり付き合ったりを繰り返しているが、別れたりの全てが音信不通かあたしが嫌になったかのどっちかだった。浮気現場を目の当たりにしたことはなかった。浮気とか、そういうのをした事無いとは思っていなかったけど、想定の中と実際目にするのでは受けるダメージがこうも違う。
 ゼリーを半分程無理矢理飲み込んで、煙草に火をつけた。暑いので汗が吹き出てくる。左手で冷凍庫に入れておいた保冷剤を額や首に当てながら、右手で煙草を持つ。
 辛いなぁ。裏切られたって事よりもう周囲に家族以外誰も居なくなってしまった事が。あたしはこれから先誰に愚痴を話すのだろう。トイレやゴミ箱を取り上げられた感じだ。
 お兄ちゃんのアドレスはまだ携帯の中に残っているし、メールは一度来たが返していない。直接的に喧嘩をしたり指摘したりはしていない。煙草はお兄ちゃんに買って貰うかタスポを貸して貰っていたのにどうしようか。値上がり前に山ほど買ったからまだ三カートン程あるけれど、ここ最近の消費量はハンパ無い。
「てかあのババアに入れてたモンあたしにも入れてたのかよクッソ汚ぇ」
 小声で吐き捨てると急に吐き気が込み上げた。口に手を当てて我慢する。胃がぐっと動き出して逆流させようとしてくる。身体まであたしの言う事聞かねぇのかよ。
 何考えているんだろう、あたしだってお兄ちゃん以外を受け入れた物でお兄ちゃんを受け入れた。お互い様だ。でも気持ち悪い物は気持ち悪い。どうしようもない。
 その時にがちゃんがちゃんと屋上のドアが大きな音を立てた。以前保健室の先生に指摘されたように内側から鍵をかけていたので、無理矢理に人が入ってくることはない、はずだ。驚いたが、ドアが何度が揺れて開かないと悟ると諦めたのか静かになった。一息ついて、溜まった灰を携帯灰皿に捨てて口に付ける。グラウンドから運動部の五月蝿い掛け声は聞こえてくるけれど、あたしの周りには何の音も無くなった。じじっと火があたしに近づく音しかない。

 それからゆっくりと五本程煙草を消費して、何とか生温くなってしまったゼリーを全て胃に流し込んだ。消臭ケアをすると煙草や携帯を雑誌付録の小さな安物のお弁当ポーチに仕舞って、伸びをして屋上を出る。安物のポーチだけれどサイズは丁度良いし、保温保冷機能として裏地にアルミのような物が施してあるし、花柄が結構可愛いしお気に入りだ。煙草も携帯も昼ご飯も全部まとめて放り込んである。携帯なんか最近ではほとんど電話としての機能を果たしていない可哀想な奴だ。
 ドアの内側の取っ手に巻き付けてある鎖を外して、南京錠を持って屋上から出ると、目の前の階段に人が居た。
「やっぱり、久しぶり、元気だった?」
「お久しぶり、です」
 保健室の先生が壁によりかかりながら携帯を見ていた。耳にはイヤホンが着いていて、あたしの姿を確認するとそれを外して肩元に落とした。手には野菜ジュースがあって、足元にはコンビニの袋があったからここでお昼ご飯を食べたのだろう。
 ちょっと付き合って、と明るく話されて鎖と錠を持ったまま屋上に逆戻りをさせられた。あたしは持っていた鎖をもう一度ドアの括り付けて、先生の後を追う。暑苦しい太陽の下で先生は伸びをして、自分の白衣から煙草を取り出して火を点けていた。甘ったるい煙の匂いがした。あたしは携帯灰皿がぱんぱんになってしまったので、ぼんやりとその様子を見つめた。
 まだ、この人が居たか、会うのは数度目でしかないけれど。
「あれ、吸わない?」
「結構吸っちゃったんで、もう灰皿いっぱいですし」
「うわーヘビーだねぇ、若いうちからそんなんだと大人になって大変だよー。最近厳しいし。煙草ぐらい自由に吸わせろってね」
「そうですねー、先生が言うべき言葉じゃないですけどねー」
「ああ、そっか、健康第一って言うべきか」
 先生が顔を真上に上げてふっと煙を吐き出す。それはすぐに風に流れて消えてなくなった。世間がこんなすぐに消え去る異物に何の害を見出してヒステリックに騒いでいるのかあたしもわからないが、それが民主主義ってものなのだろう。大衆主義、衆愚、一人で居るあたしに未来なんか無いと思う。それなら世間が言うように肺ガンでさっさと死ねばいいと思う。
 煙草を吸う先生の姿を眺めているだけでも汗が噴出してくる。会話が無くなったが別に嫌な空気ではない。この人とはそれでも平気なのだ。でも何か、話したい。
「先生、それ、何聞いてるんですか?」
 イヤホンを指差して聞くと、ああこれ?と先生はイヤホンを持ち上げた。
「東京事変」
「え、先生事変好きなんですかー。あたしも結構好きでしたよ」
「椎名林檎で青春育ってきたからね、リアル十七歳で17聞いてたから」
「あー林檎名義はあんまり知らないんですよね」
「うそージェネレーションギャップ!」
 けらけらと先生は笑って短くなった煙草を携帯灰皿に入れた。甘ったるい煙と薄い香水の匂い、消毒液っぽい匂いを纏う先生は綺麗な笑顔で笑ってあたしの頭を軽く撫でた。撫でた、というよりは、ぽんぽんと手を置く感じだ。驚いて固まっていると、綺麗な笑顔は破顔した。くしゃっと目が潰れて鼻も広がって、でもさっきの綺麗な笑顔よりずっと親しみのある笑顔だった。
「じゃあ今度聞いてみて。17は泣けるよー。もしあれならCD貸してあげる。家に来てもいいし」
「お家、行ってもいいんですか?」
「ん?来たい?いいよー、こっからちょっと遠いから車なんだけどね。ま、来たい時言って」
 その言葉に頷いた。先生は笑っているが社交辞令を真に受けてしまった感があって、恥ずかしくなった。どれだけ人に飢えているのだろう。
 二人で笑いながら屋上を出て、元通り施錠をすると先生とは別れた。
 それから部室に戻って冷蔵庫に入っていた飲み物をがぶ飲みすると、ソファーに倒れこむ。暑かった、良い匂いがした、クソみたいな会話してしまった。大きくため息をつくと自分のコミュ障ぷりが嫌になりながら身体を起こす。 
 早いけれど帰ってしまおう。今日は暑い。 

     

 学校から駅までの間にあるコーヒーショップで本を読む。帰ろうと思ったけれど、暑さが最高潮の時間では歩いているだけで暑くて、フローズンドリンクを宣伝看板を立てていたお店に入ってしまった。全席禁煙だし制服だから仕方ない、と言い聞かせて煙草の代わりにストローを咥える。水滴が本に垂れないように気をつけながらページをめくる。寒いくらいのクーラーに当たっていると汗が冷えてくる。もしこれを飲み終わっても空いていたらホットドリンクを飲もうかなと、ぼんやりと考える。
 本を読み始めて集中していると、すみませんという声が聞こえて顔を上げた。普通のサラリーマン風の男性が良いですか、と椅子の背もたれを掴んでいた。まだそこまでいっぱいでもないのに一人の人間の椅子取るかよ、と思いながらもどうぞと言って本に視線を戻す。するとその男は掴んでいた椅子に座った。よく見るとコーヒーを片手に持っていた。
「は?」
「本好きなの?何読んでるの?」
 思い切り顔を顰めたのに、男は意にも介していない様子で喋り続ける。これ見よがしにため息をついた。男はコーヒーを飲みながらあたしの容姿や制服から判断した学校の事なんかを褒めてきた。
 うざい、本当にうざい。いい年こいた大人が真昼間から女子高生をナンパして馬鹿じゃないのか。仕事しろ、黙れ、消えろ、死ね。
「あの、何なんですか?」
「あ、俺ね、営業で色々回っててー、今日分のノルマ達成出来ちゃったから、暇してて。で、君も暇そうだったから一緒に遊ばないかなって。どっか行きたい所ない?俺車だからどこでも行けるよー」
 営業、という言葉でお兄ちゃんを思い出して、気分が悪かったのが最悪になる。底辺になる。あたし忙しいので、と舌打ち交じりに言うと立ち上がって本を片付けて飲み物を手に持つと席を離れた。どうしてこっちが逃げなきゃいけないのか、ガチでナンパは規制法作ればいいと思う。残っていた氷が解けてしまった液体を飲めるだけ飲み込んでコップをダストボックスに捨てて店を出る。
 道路に出て、着いてくるということは無かったから胸を撫で下ろした。冷房の効いた室内から一気に暑苦しい外に出て軽く眩暈がする。ちっともう一度舌打ちをして歩きながら左手の親指を皮を中指剥く。皮の表面が毛羽立って、剥き取る取っ手が出来上がる。

 駅前のショッピングビルに入る。一階から六階までがファッション、七階がスポーツメーカー、八階が本屋、九階十階がレストラン街という商業施設だ。駅の所の本屋で嫌な思いをしたから、このビルの本屋に入ろうと思った。イライラするのでファッション雑誌でも文庫でも新書でも何でもいいから一冊買って帰りたい。
 エレベーターはきっと一階まで来るのに時間がかかるので、エスカレーターでゆっくりと八階に向かう。ふと七階のセールというエスカレーターの広告に目が行く。特に買う物は無いが暇だしチェックしようと七階でエスカレーターを降りる。適当に店を見回って、欲しいと思っていたスニーカーが安くなっていないか見る。……なっていない。なっていようといまいとお兄ちゃんに給料が出たら買ってもらおうと思っていたのに。
 二万円のスニーカーを手に取って一度じっくりと見てからディスプレイに戻した。二万円は流石にお年玉か何かが手に入らない限り無理だ。店員も高校生の私に買う気がないのがわかっているのか、セール品でないからか、接客には来ない。まぁ周りを見ても三十パーセントオフばかりなので、セールで一万四千円になったところで買えないけれど。
 ショップを出て次のショップも一応見ようかと思ったところで肩を叩かれた。
「やっぱ暇なんじゃーん」
 身の毛がよだつとはこれか、と振り向いた先に居た男性にぞっとする。さっきあたしをコーヒーショップから追い出した人が立っていた。あからさまに顔が強張ったのを見て、そんな警戒しないでーと軽い調子で彼は話す。
「ね、もしかしてあれ欲しいの?あれ、あのスニーカー。買ってあげようか?」
「……いえ」
 後をつけられていたのか、本当に偶然あたしの姿を見つけたのかは知らないが、スニーカーを手に取っているところは見られていたようだ。背筋に寒いものを感じながらも、スニーカーは欲しいなという欲求は生まれてくる。お兄ちゃんが居なくなった今スニーカーを易々と手に入れる手段は無くなっていて、この人が本当に買ってくれるのならば利用しない手はない。どうせ対価を求められるのだろうけど、と一方的に喋る男を見る。
 適当にいえ、いいです、と否定の言葉を繰り返していたのだが、ドライブしてくれるだけでいいからという言葉に乗ってしまいそうになる。本当にドライブだけであのスニーカーを買ってくれるのか。
 ふと彼の容姿を見る。普通のサラリーマンのようで脂ぎっても禿げても気持ち悪くもないし、スーツも清潔そうだ。ぺらぺらと喋るのは気に食わないし、下がった目尻は嫌いなタイプの顔だがそこまで生理的な不快感はない。彼の言動が気持ち悪いというだけで。
 うん、最悪セックス出来そうだ。セックスで二万か、安っ、と思ったが、本当にドライブだけかもしれないし、自嘲的な笑いが浮かんできて、彼と目を合わせた。
「わ、若林さん!!」
 彼の声ではない別の男性の声がして、腕を掴まれた。そちらを振り返ると立花君が立っていた。あたしの腕を持つ手が震えている。あたしとナンパしてきた男が呆気に取られているうちに、立花君はあたしに話しかけて歩き出した。
「どこ行ったのかと思った、行こう。ひ、人の彼女に手出さないで下さい、行こ」
「あ……うん」
 言われるままに立花君に従って歩く。そのままエスカレーターに乗って八階の本屋に連れて行かれた。ずっと無言で腕を掴まれて、それが小刻みに震えていて居心地の悪さを感じる。何か喋ってくれたらいいのに、てめぇは携帯のバイブかよ。
 本屋の高校参考書の本棚に着くとようやく立花君は手を離した。
「ご、ごめんね若林さん、助けなきゃって思ったら腕掴んじゃって。知り合い、じゃないよね?ナンパみたいなのだよね?本当は本名出して呼ぶのもどうかなって思ったんだけど、本名じゃないと若林さん反応してくれなそうだったし、うん、ごめんね」
「え、謝られる理由ないよ、助けて貰ったのこっちだし、ありがとう。助かったよ、何か気持ち悪くて……ホントありがとう」
 笑って軽く会釈をする。一気にまくし立てられてよくわからなかったが、助けてもらったのは事実だ。その代わりセックスの機会とあのスニーカーを手に入れる機会を失ったが。
 別にいいのだけど、どうでもいい知らないサラリーマンとの下らない時間を過ごすことが無くなっただけだ。立花君は私につられたように笑顔になった。
「大変だね、最近変なの多いから……」
「うーん、ちょっとしつこくてびっくりしちゃった。立花君みたいな人がいつも居たら頼もしいんだけどね」
 首を傾げながら立花君を見て笑うと彼は俯いた。そのまま目も合わせずに、いや、別に、と口ごもっていた。
 さて、どうやってこの場から離脱しようか、と考える。しばらく吸っていなくて煙草を吸いたくなってきたし、本を買って電車に乗って家に帰ってから一服して夕飯の買出しして、とこれからの計画を考えると、さっさと帰りたい。
 もういいか、本を買うのは諦めて用事があると言って帰ろうか、と声を出そうとすると立花君が先に声を発した。
「若林さん番号交換しない?」
「ん、いいけど?」
 至極普通に言われたが、立花君の顔は引きつっていた。何こいつ童貞臭い、そう思いながら赤外線で番号を送りあって、あたしはさっき考えた通りの言い訳を言って帰った。携帯の電話帳に立花誠治という名前が新しく入った。

     

 家に着いて、途中で寄ったスーパーで買った食材をトートバックから取り出して冷蔵庫に入れていると携帯が震えた。久しぶりに携帯電話としての機能を果たした機械を開くと立花君からメールが来ていた。内容はどうでもいい話で、初めてメールしたとか、今何してるとか、返すのも面倒くさいものだった。律儀に返す気も起きなかったので、携帯を放り出して、夕食の準備をする。
 今日は夏野菜のパスタだ。パスタは簡単だけれど、いつ帰ってくるかわからないお母さんに合わせてソースだけ作っておく。夕食の準備を終えて、煙草を吸って、自分は麦茶とサラダを少し食べて自室に戻った。お母さんには久しぶりにメモでパスタを茹でてと指示しておいた。
 

 立花君とのメールが頻繁になったのと反比例するようにお兄ちゃんとのメールは無くなった。あたしが返さないから当然なのだが。そして同時に、立花君があたしの帰りと帰る時間を合わせてくるようになった。全く意味がわからないのだが、彼の中であたしの立ち位置が変わったのだろう。時間をずらして気まずい思いをするのも微妙なので合わせたまま一緒に帰った。あたしもあたしで彼を必要としていた、唯一学校で繋がりのある人間だったから。
「そっかー立花君はキーボなんだね、カッコ良いね」
「そうでもないよ、やっぱり花形はボーカルとかギターだし。縁の下で支えるのは低音のベースとドラムだし。僕は結構どうでもいい立ち位置だよ」 
「そうなの?あたし音楽あんま知らないけど単純に数増えたら音に深み出そうだし、キーボってそれだけで全部の楽器の代わりこなせそうだから重要じゃない?」
「そう、かな、ありがとう」
 照れたように目を反らす立花君を見ながら、ああ暑いと持っている団扇で扇ぐ。たまに立花君も扇いであげるとテンプレのように涼しいねと笑う、同じ事しか言えないのかと思う。
 二人でコンビニでアイスを買って、それを食べながら歩いたり、駅の待合室のクーラーの前で涼んだりしてここ数日過ごしている。その数日で少しずつ立花君の情報を得た。軽音楽部でキーボ担当、コピーバンドとオリジナルバンドを二つ掛け持ちしていてコピーバンドはイエモンとかいうもののコピー、音楽が好きであたしがよく知らないバンドを知っている、小説はW村上が好きでどちらかと言えば龍派らしい、小説や詩を少しだけ書いたりもしている、あたしと同じ路線を使っていてあたしより早く乗車して二駅目で降りていく、成績はそこそこ良くて英語が得意、猫派。どうでもいい情報が新鮮な情報として脳内に溜められていく。今まで入ってきていた文字列とは違う言語が脳に記憶されて、目新しいのだ。
「こうも暑いとこれだけの距離で汗出てきちゃうよね」
「うん、キーボとか本当は持ち運びたいんだけど、この暑さとあの重さはキツくてさ」
「絶対重いでしょあれ、ガチで重そう!じゃあお家では違うキーボで練習したりするの?」
「いや、家にはピアノがあるんだ、練習はそれで、かな。あんましないけど」
「元々ピアノ習ってたとか?凄いねー」
 実際あたしは音楽関係に弱い。無知、と言った方が早いのかもしれない。流行の曲を少し知っているだけでクラシックもジャズもバンド系も知らない。楽譜は読めないし、弾ける楽器も無いし、歌だってそんなに上手くない。選択科目も書道だから音楽、美術といった芸術関係に弱いのだ。だからピアノを弾けたり、楽譜を読めるというだけで一目置いてしまう。
「母親がピアノ好きで、だから無駄にグランドピアノなんかあってさ」
「凄い、ガチでお金持ちだね!!あたしピアノ弾けないから羨ましいー」
 あたしが凄いとか、ガチとか同じ単語を繰り返しているのにこの男は気付いているのだろうか。もう少しで駅に着きそうな、駅手前の信号に捕まってしまって、二人で横断歩道の前で立ち止まる。
「じゃ、じゃあ家、来る?ピアノ教えてあげるよ?」
「へ?」
「あ、あの……ピアノ、てか家、来たら色々貸せるし。若林さんが面白そうって言ってた小説とかCDとか……ピアノとか……」
 立花君は信号を見たまま話を続ける。一番最初に話しかけて来た時や、ナンパから助けてくれた時のように少し震えている。
「じゃあお邪魔するね、いつが暇?」
 こちらは立花君の顔を見て笑顔で返事をする。信号は青に変わって周囲が歩き出したので足を進めると、信号を凝視していたはずの立花君は一歩遅れた。
 歩幅が違うのですぐに追い付けれて、二人で並んで駅まで歩く。その間にいつでも暇だと聞いて、駅からホームまでの間に軽音楽部の練習が無い日が良いだろうとなり明後日向かう事になった。ホームで電車を待ちながら、何手土産を持っていこうと考えていると、立花君が恥ずかしそうに笑う。
「あんまり期待しないでね、グランドピアノあるだけでそんなお金持ちじゃないから」
「えーじゃあ期待し過ぎないように期待する」
 二人で笑うと丁度電車が着いて、乗り込む。定期範囲内だから行けるよね、といった話をしながら電車は立花君の降車駅に着いて、彼は降りていった。
 軽く車内からバイバイと手を振って、会釈する立花君を見送る。扉が閉まった瞬間に大きく溜息をついて、携帯を開けた。祖父母の家に電話して今から行きたい、と告げると了承の返事を受けて、笑顔になる。あまり夕飯を食べれる気がしないのだが、夏バテと伝えておけば祖母はそんな量を作らないでくれるはずだ。
 また、買うのも面倒だけれど、話を聞く分に立花君の家はお金持ちそうなので何か良い菓子折りでも祖父母の家から貰っていこうと思う。一々買い物に行くのも、私が自腹を切るのも嫌だ。グランドピアノのある一軒家というのは洋風なイメージしか湧かないが、流石に和菓子食べないなんて事は無いだろうし和菓子が日持ちがして良いかもしれない。
 家より一駅早く降りて、道を歩く。祖父母の家に着いて、麦茶を飲んで祖母と一緒に買い物に出かけた。祖母には女友達と説明しているので、可愛い干菓子なんかが良いかねと言っていたが、食べやすくて美味しい物が良いよー等と返事をして老舗和菓子店名物の創作菓子のゼリー詰め合わせを買った。八個入りのそれと、自分達で食べるように白玉あんみつを買う。その後、軽く買出しをして家に帰った。何も気を遣わずに喋れる祖父母は喋っていて安心する。あたしの息苦しい高山病みたいな病は、祖父母が酸素をくれる事で軽くなる。


 午前中は学校に行って、昼食を取ると、菓子折りを持って立花君の家の最寄り駅に降りた。改札を抜けると私服の立花君が立っていて、制服の自分自身に気後れしてしまった。ジーパンとポロシャツという簡易な格好ながら、ジーパンは青黒い綺麗な物でポロシャツもよく見る鰐のロゴが無くて、形が横に広い感じの妙な作りの緑色だった。
「制服で来ちゃった」
「全然。僕の家ちょっと遠いから歩くか、もし良かったらチャリ二人乗りで行きたいんだけど大丈夫?あ、スカート大丈夫かな」
「ちゃんと下に敷いて押さえとくから大丈夫、あたし重いけど平気?」
「絶対重いとか無いでしょ、鞄カゴに入れるよ」
 自転車置き場にあった自転車に立花君が乗る。
「足、右か左どっちが良いかな?」
「ん?ああ座る向き?あーそんなに変わんないと思う、好きな方にどうぞ」
 適当に右側に足を置いて、後ろに腰掛ける。ウエストの辺りに手を置くと立花君がびく、と震えた。そのまま勢いに乗って立花君が自転車をこぎ出す。
 見慣れない景色が目の前を通っていって、風が抜けていく。駅前のビジネスホテル群を抜けて、コンビニやお弁当屋が立ち並ぶ広めの道路から脇に反れてアパートやマンションの類を抜ける。その後一軒家が連なる場所に着いて、緩めの上り坂になる。立花君が少し腰を上げて立ちこぎをして、声をかけたが大丈夫、と返ってきてすぐに一つの家の前に止まった。
 塀が覆っている家は立花という黒に白抜きの表札がかかっていて、塀の合間にある玄関から入っていく。少しだけ塀と家の間に植物が植えてあって、丸く綺麗に刈り込まれた低い木々やオレンジ色の花と向日葵が少し生えている。あたしは植物に全く詳しくないけれど、どれも洋風な植物だ。ベコニア、マリーゴールド、ガーベラ……思いつく限りのオレンジっぽい花を思い出したがどれかはわからなかった。
 家自体はクリーム色の大きめの家で、玄関は大きくて下駄箱の上にはパステルカラーの絵画が飾ってあった。傘立ても藍色の円柱状の陶器で高級感がある。玄関には家族の靴が無くて、サンダルしか無かったので客用の玄関なんだと知る。
「凄いーお邪魔しまーす」
「凄くない凄くない、とりあえずピアノの所行こっか」
 笑いながら立花君がスリッパを出して案内をしてくれる。
「あーっとお家の人とかは?あたし一応お菓子持ってきたんだけど」
「あ、きょ、今日は居ないんだ。てかお菓子ありがとう、これ美味しい所のだよね」
「うん、美味しいよねーここ」
 立花君に紙袋を渡して、連れて行かれた部屋に入る。ここまで幾つかの部屋の扉を横目に抜けてきた。途中縁側のような場所もあって、庭と言うよりガーデンと呼んだ方が良さそうな庭園があった。その緑の中で椅子とテーブル、テーブルの真ん中から黄緑のパラソルが立っていた。
 ピアノの部屋は中心にグランドピアノがある部屋で、広い窓とエアコンと空気清浄機があった。簡易な本棚があって、楽譜が幾つも入っていた。涼しい部屋は明るく光が差し込んでいて、フローリングがワックスで綺麗に光っている。
「すごーい!綺麗!!何か弾いて立花君!!」
「うん、じゃあ適当にね」
 持っていた紙袋を立花君が本棚に立て掛けて、グランドピアノを開ける。椅子に座ってペダルを確認して、立花君がピアノを弾き始めた。節くれ立っているけれど、細く長い指が鍵盤を叩く。指が何度も何度も持ち上がるように跳ねて、重々しく叩きつけられて、大きな音を奏でる。早い運指に手元があまり確認出来ない。立花君は大人しい感じの人だったから、ゆっくりとしたメロディーを奏でるかと思ったのに、弾く曲はとても荒々しい。
 途中から緩やかなメロディーになって、それも一呼吸ほど置いて、徐々に元に戻って激しくなる。トンと高い音が跳ねて、演奏が終わった。
「……凄い、ね、凄い。ごめんね、あんまり言葉が出て来なくて良い表現言えないや。立花君めっちゃ上手いんだね、ガチで技巧派だね!」
「ありがとう、結構練習した曲なんだ。技巧派って若林さん知ってるじゃん」
「え?何を?」
「あ、知らなかったんだ。そっちの方が凄いなぁ、超絶技巧練習曲集ってのからの一曲なんだよ。今は途中までしか弾かなかったけど。リストって知ってる?」
 椅子に座ったまま立花君がこちらを見上げる。ピアノは凄かった、何か痛々しいくらい凄かった。立花君の言葉にこくんと頷く。リスト、は知っている。凄い難しい曲作った人じゃなかったかな。そんな曲が弾けるのか、とただただ感心する。
「そっか、その人の曲。難しくて練習大変だけど上手く出来たら凄い達成感あるよ」
「凄いねーー!!他にも何か弾いてー?」
 純粋に面白くて、軽くはしゃいで立花君に話しかけると、彼は笑ってまた手を動かしだした。二曲ほど弾いてもらって、凄いと笑って拍手をする。
 彼は照れたように頭をかくと、眼鏡を直して若林さんは、ねこふんじゃったとかは弾けないの、と聞いてきた。
「あーそれくらいなら弾けるよー。あ、あとね、これだけ弾ける」
 立花君の横にすっと身体を入れて右手を鍵盤に乗せる。エリーゼのために、を少しだけ弾く。片手一本で主旋律の一部しか弾けない。これだけは凄く簡単で覚えやすくて、小さい頃ピアノを習っていた友達に教えてもらったのを覚えている。
 弾いて顔を立花君に向けると彼は笑って少し椅子の左側にずれた。
「横、座って。ここ、ここからさっきの弾いてみて」
「ん?いいよ」
 指差された白鍵の上からあたしが同じ様に弾くと、立花君が左手で鍵盤を叩いた。ほんの少しだけ完成型のエリーゼのためにが流れる。弾きながら横を見ると立花君が顔を赤くして笑った。
 それにつられてあたしも笑うと立花君の顔が近づいた。近すぎないかと思っていると唇が触れた。驚いて右手の全指を鍵盤の上に投げ出してピシャンと高い不協和音が響いた。勝手に触れて離れていった立花君の顔は照れたように笑っていた。
「え…………今の、何?」
「何って……え……っと、ごめん」  

     

 急に勢いを無くして立花君はピアノに顔を向けた。怪訝な顔をしていると、立花君がゆっくりと低めにエリーゼのためにの主旋律を弾いた。片手だけの演奏が終わって、立花君が大きく息を吐く。
「こんな気持ち。うん、凄いねベートーヴェンは。僕は作曲あまり得意じゃないけど。あ、あの、変な事してごめん」
「ううん、変な事、ではないけどさ。あたし達付き合ってないじゃん」
 雰囲気で付き合うとかあるのだろうけれど、あたしはこの男と手も繋いでいないし、何か積極的なスキンシップがあったわけでもないし、ましてセックスしたわけでもない。二人きりで帰った事が数回、こうして家に呼ばれて来たのが初めて、それでキスをされたら堪ったものではない。
 立花君はあたしから目を反らすと、あたしも同じ様にピアノ側に目を向けた。部屋は変わりなく綺麗でクーラーの音と空気清浄機の音しか聞こえない。
「そういえば今日眼鏡だね」
「う、うん、家では眼鏡なんだ。あ、えっと……付き合う?」
「え?」
 会話がどうもままならない。はっきり言ってあたしは立花君をそういう目、つまりは恋愛対象として見た事がない。こう数日二人きりで居ると普通は好きになるものなのか、それともこの人は最初からあたしが好きだったのか。仲良くなったら好きになられるのか、手軽に済ませていそうでウザイ思考回路だ。
 あたしが首を傾げていると、立花君は小声で僕は若林さんと一緒に居て楽しいよと言った。
「うん、あたしも楽しいよ」
「若林さんは僕の事は好きじゃない?」
「好きじゃなくはないよ?」
「じゃあ好き?」
 首を傾げながら好き、と疑問符が付いたような状態で立花君に返事をした。何だこの誘導尋問は。立花君はようやくこちらを向いて、僕も好きだよと言った。震えた手で立花君が眼鏡の縁を押し上げて、何故か頷いた。
 ちょっと意味がわからない、何故あたしが先に告白したみたいになっているのか。何がどうなったのか。立花君が椅子から立ち上がって、あたしの後ろから手を重ねてきた。震えていながら、きちんとした手取りであたしの指を鍵盤の上に誘導する。
「何、弾くの?」
「エリーゼのためにをもっと長く。僕が上から押すから合わせて。ゆっくり行くからね」
 指を上から押されて、一音一音弾かされる。知っている主旋律の部分を越えて少し難しい箇所に入る。ぼんやりと押された音を覚えて、三回目くらいで少し覚えて、自分一人で弾けるようになった。一人でその後何度か練習して覚えきる。
「良い?じゃあ連弾しようか」
「連弾?」
「さっきみたいにお互いに弾いて一曲作り上げる事、要領は一緒だよ。僕が左側弾くね」
 流されるままに右手を動かす。立花君が左手を聞いて曲が完成する。私の速度に合わせて立花君が弾いてくれて、連弾という物が出来上がる。
「曲っぽくなった」
「うん、曲っぽいね」
 あたしが笑うと立花君も笑って肩を掴んでキスをしてきた。何度かキスをされて、なされるがままに受け入れる。
 その後二人であたしの持ってきた温くなってしまったゼリーを食べて、立花君の部屋に案内されて何故か幾つか小説とCDを借りて帰ることになった。立花君の部屋は小説とCDと漫画と楽譜で溢れていて、息が詰まるような場所だった。広い部屋なのに、それ以上に情報量が飽和してしまいそうな場所だ。こんな場所で眠れる神経がわからなかった。ただベッドは広くて、寝てみたいと思った。
 


 駅から出た帰り道にお兄ちゃんの車が止まっていた。顔を顰めて横を通り抜けると、運転席からお兄ちゃんが出てきた。スーツ姿で髪の毛を撫で付けたおっさんとしか見れなかったけれど、お兄ちゃんの姿を見るのは久しぶりだ。
「舞、久しぶり」
「うん」
 短い会話をして、お兄ちゃんに誘導されて助手席に乗る。今日のあたしは人になされるがままだ。立花君に流されてキスされて付き合うような事になって、ピアノを弾かされて変な小説とCDを預けられて、お兄ちゃんに車に乗せられて。鞄が重いのは借り物のせいだ。
 走り出した車の中でお兄ちゃんと視線を合わせないように窓の外を見る。街路樹が流れていく。数時間ぶりに鞄の中から煙草を取り出して火をつけた。煙を吐き出して、車内の空気を変える。
「どうしてメール返してくれなくなったの?」
 信号で車が止まるとお兄ちゃんはこちらを覗き込むようにして声を発した。煙をその顔にかけるようにしながら、別に、と言った。
 信号が青になって車が進むとどんどん山側に行った。人気の少ない山の上にある大きな公園の駐車場に車を止められる。土日は子供連れで混む場所で、田舎の娯楽施設の一つだが平日はほとんど人が居ない。ランニングしている人をちらほら見かける程度だ。
 煙草が丁度無くなって備え付けの灰皿に捨てた。お兄ちゃんは身体をこちら側に寄せてきた。
「何、結構怖いんだけど」
「彼女じゃなくてもやり友とかは無理なの?」
 お兄ちゃんはとんでもない台詞を吐きながらあたしのブラウスのボタンを外した。ボタンに気を取られているうちにリクライニングを倒されて、背中と後頭部を軽く打ちつける。お兄ちゃんの口が胸元に落ちてきた。
「やり友って友達?」
「セフレって言った方がいいのかな?」
「性欲持て余してんの?」
「結構。舞は?」
「…………ふふっ、あたしも」
 鼻で笑ってお兄ちゃんの首に腕を回した。お兄ちゃんが顔を上げてキスをしてきた。久しぶりの刺激に腰が動きそうになる。
 お兄ちゃんは跡を付けたりしないので、特に注意をする事なく行為が続いていく。跡を付けるななんて忠告をして無駄に刺激する必要は無いだろう。久しぶりに胸を弄られて、膣内に指なんて異物を入れられて、揺すられて声を上げる。車内にあたしの声と水音が響く。
「っ、あっ、ぅ、ぁ……あっ」
「すっげ濡れる。シート汚れそう」
 笑うお兄ちゃんの腕に爪を立てた。指を抜き差しされるのに合わせて自分の腰も動かして軽く達する。気持ちが良い、久しぶりの快感に身体が震える。
 そのまま突っ込んで来ようとしたお兄ちゃんの姿に急に浮気現場の光景を思い出して、ゴムを着けるように頼んだ。薄い膜一枚でも気持ち悪さは収まる、あたしの身体はかなりの愚鈍のようだ。お兄ちゃんは少し顔を顰めながらもゴムを着けてあたしの中に侵入してきた。結構濡れていたが、広げられる感覚が痛い。大きく身体が震えてお兄ちゃんを受け入れる。
 二人で荒い呼吸を繰り返してお兄ちゃんの動きが止まって、圧し掛かってきた。膣に力を入れると中の物が無くなったようだったから、あたしも大きく息を吐く。重いが、お兄ちゃんが退いてくれないので大人しくしている。
「退いてよ」
「舞ちゃん冷たいなー」
 軽口を叩きながらお兄ちゃんは身体を起こしてゴムを持って引き抜く。ずるりと精液の入った袋が引きずり出されて、お兄ちゃんが運転席側に戻っていった。運転席と助手席の間に置いてあるティッシュに手を伸ばして身体を拭く。クーラーのかかった室内でも暑くて、身体を起こしてエアコンの温度を一気に下げた。
 お兄ちゃんも後処理を終えたようで、行こうか、と言って車を走らせ出した。駐車場を出るまでの間に煙草を咥えて火を点ける姿を見て、あたしもリクライニングを起こして煙草に火を点けた。二人とも窓を少しだけ開ける。
 あたしの家の近くまで来たからふと煙草の火を消して灰皿に入れる。ずっと無言だったお兄ちゃんが口を開いた。
「舞は、実年齢から十歳以上大人びているよなー。さばさばしてて良いな」
「は?」
 誰と比べて言っているんだ、と一気に不快感がこみ上げてきてお兄ちゃんの横顔を見た。あたしの声のトーンに気付かないお兄ちゃんは前を向いたままだった。
 酷く、軽んじられているように感じた。何故かはわからない、ただ、あたしはこの人の褒めているように見せかけて鍍金だらけの言葉に腹が立った。やり友という立ち位置がお似合いだとでも言いたいのか、あたしには何を言ってもセックスはさせてくれるとでも思っているのか。丁度ここで引きずり下ろされても家に帰れる、というのも引き金となったのだろう。
「お兄ちゃんはあたしの事キープか何かだと思っているの?あたしそんな安い女じゃないよ、やり友とかガチでキモい。もう二度とやったりしないから、今日が最後だから。もう下ろして」
 睨みながらお兄ちゃんに言葉を返すとお兄ちゃんはこちらを見て目を見開いた。舌打ちをしてハザードランプを押す。早く、と言うとお兄ちゃんは言われるがままに路肩に車を止めた。
 鞄を持ってさっさとドアを開ける。お兄ちゃんがあたしの腕を掴んだ。
「何?」
「いや、えっと……何か悪い事したみたいで謝る」
「いいよ、離して。じゃあね、平戸さん」
「舞……」
「ちっ、叫ぼうか?あたし女子高生だからあんた社会的に死ぬよ?」
 瞬時に離された腕でドアを閉めて、振り向かずにあたしは歩き出した。今のあたしはあんたに頼らなくたって生きていける、と足を踏みしめた。   

     

「これ、このアルバムが良かったよ、あたしボーナストラックが一番好きかも」
「ああ、僕もその曲好きだよ」
 借りたアルバムを全部聞いて、小説を全部読んで、こんなにも人の好みとは合わないものかと思った。五枚借りた内三枚が何故良いのかわからない音楽で、一つはずっとインストで退屈だったし、もう二つは全部変わり映えのしない音楽で良さがわからなかった。残り二つは何とか良いと思える曲が幾つか入っていて、それを言っておいた。小説もあたしが苦手な気持ち悪い描写やカッコつけたような描写が続く物で、微妙だった。芥川賞や純文学系の小説で、一つはあまりにグロテスクな描写で吐き気がした。自分だったら絶対に選ばない物が多かった。
 一つ一つ面倒な感想は言わなかったが、自分の中でも良いと思えるものだけ喋って、立花君が反応するのを見ていた。
 あの後、一緒に昼食を食べる機会が何度かあって、今日の昼食時にアルバムと小説を返した。一緒に食べる時は目の前で栄養補助食品のゼリーを食べるわけにはいかないので、簡易な弁当を作っている。それを見て立花君は舞ちゃんは小食だねと笑った。あのキスをされた日からあたしは舞ちゃんと呼ばれるようになって、あたしも誠治君と呼ぶようにした。
 今日も一緒に食べると決まっていたのでサンドイッチを作って食べている。立花君は綺麗な弁当を食べていて、比較的大きな弁当箱には色取り取りのおかずが並んでいた。あたしはとりあえず家の奥に仕舞ってあったランチボックスにサンドイッチを入れてきたが、あまり彩りなんかは意識していないので単色だ。
「舞ちゃんのそれ、手作りの?」
「一応。サンドイッチだったら簡単に出来るよ」
「え、自分で作っているの?」
「うん、家でご飯作るのはあたしの役目だし」
 空いている自分達の教室に二人で机を合わせて座って、ご飯を食べながら顔を上げて頷く。サンドイッチなんか一番くらいに簡単な弁当だ。前日にパンに具材を挟んで重を乗せておけばいいだけだ。夏はちょっと食中毒が怖いけれど、幸いにもあたしの部室には冷蔵庫があるからその心配は無い。
 立花君は手を伸ばしてあたしのサンドイッチを一つ掴んだ。
「一個貰ってもいい?」
 掴んでおきながら何を言っているんだろうと思いながら、もう一度頷いた。サランラップに包まれたそれを開いて、口をつけるのを見る。ハムサンドとポテサラサンドと卵サンドの三種類を順番に食べていたのに、立花君の介入のせいで卵が一つ無くなってしまった。クソ、卵は簡単だけど一番好きなのに。
 二口ほど食べて、凄く美味しいねと立花君は笑った。あたしもそれにつられて一応笑う、褒められた事自体は嬉しかった。
「マヨネーズなのに重くないっていうか、ちょっとピリっとしてるのが良いな。単純に卵だけじゃないんだね、胡瓜入っている?舞ちゃん料理上手いね」
「全然!うん、胡瓜刻んで入れてるよ、歯応えが良いから。ピリっとしてるのは胡椒、マヨネーズに胡椒混ぜてあるの。重くないのはあれかな、あたし油っぽいの好きじゃないからパンにバター塗らないせいかな」
「舞ちゃんは料理が好きなんだね」
 は、と首を傾げる。ふふっと笑われて意味がわからないと眉間に皺を寄せる。
「自分から結構喋ってきたから。舞ちゃんの好きな物って本以外よくわからなかったんだけど料理だったんだなーって思って。ほら、よく僕に話合わせてくれるでしょ?」
 いかにも自分はわかっていましたといった風なのがイラつくし、あたしはそこまで料理なんか好きでも無い。必要に迫られたから作っているだけで栄養なんかゼリーで補給すればいいって考えの持ち主で舌打ちをしたくなったが、抑えて笑顔を見せた。まだ付き合いだして初期の段階だ、お互い分かり合えない部分なんていっぱいあるだろう。今の時点で全然分かり合えていないが、特にあたしが。
 笑いながら、そうなのと言うと立花君が今度何か作ってと笑う。
「えーだって誠治君マジ綺麗なお弁当持ってきてるじゃん。作ってって言われても気後れしちゃうよー」
「いやいや、じゃあ今度舞ちゃんの家行ってもいい?そこでお昼作ってよ」
「え……」
 それはちょっとと口篭る。家なんてあたしの中の聖域だ。他人に土足で踏み込まれたくない。言えば立花君を部室にも屋上にもあたしが学校の中で作っている逃避場所には踏み込ませていない、それを急に家と言われても困る。
 立花君は顔を赤くして、あ、ごめんねとどもりながら喋ってきた。二人で黙ってしまう事になって、教室には運動部の掛け声みたいのが響く。この教室でさえ暑いのに、炎天下の中よくやると思う。
「あの、家祖父母が常に居て、それでご飯作るってのはちょっと……」
「あ、そっか、そっか!家とは違うもんね、ごめん同じ感覚で喋っちゃって」
「ううん、こっちこそ何かごめん。サンドイッチくらいならいくらでも作って来れるからそれで良かったら誠治君の分も作ってくるよ」
「だったらさ、今度どっか行こうよ。ハイキングとかピクニック?どこかお弁当持って行こう。その時作ってきてよ」
「うん!ピクニックとか楽しそう!」
 二人で携帯を持ち出して良さそうな場所を検索する。学校からもう少し先まで電車に乗って、その駅から少し歩いた所に大きな広場があるらしく夏の間に向日葵迷路なんかもやっている事を知った。


 それから二人で色々とデートに出かけた。例の大きな広場、遊園地、隣県の大型アウトレット、映画館、美術館。彼の家にもあの後も数回行った。何度かお弁当を作ってあげると喜んで貰えた。
 立花君と合わない部分も合わせられるようになってきたが、彼の少し中二病めいたカッコつけた物言いは好きじゃなかった。親しくなればなるほど気を許しているのか、変な単語が飛び交った。ハイポサラマス、皮膚を削り取って生まれたような湿疹。前者は視床下部の事で、後者は好きな小説で出てきた表現らしい。鳥肌が立ちそうになるのを抑えながら凄いねと褒めておいた。少しずつではあるが、あたしも染まってきたようだ。
 その日は久しぶりに立花君の家にお邪魔した。あたしが東京事変が好きだと知ると、ライブDVDを持っているからと家に呼ばれた。特に断る理由も無かったのでまた手土産片手に立花君の家に入った。今日は私服だ。薄手のレースシャツの下は黒とピンクのキャミ、ボトムはデニショーで、一応くるぶしソックスは履いてきた。
 立花君の部屋は相変わらず色々な物で溢れていて、どこで見るのだろうと思っていると、彼が白いカーテンを閉めた。その後に部屋を出て行って、小さな機械を持ってきた。それが部屋の真ん中辺りに置かれた。
「これどこでも映せるんだよ、持ち運べるし」 
「え、映写機って事?カーテンに映るの?」
「うん、僕の部屋どこも映す場所無いからね。リビングにスクリーンあるんだけど、もしかしたら弟が帰ってくるかもしれないから鉢合わせは気まずいでしょ。一応遮光カーテンだからそこそこ綺麗に映るよ」
 カーテンの上に映像が現れる。あたしと立花君はカーテンの前の床に腰を下ろした。ついに本編であるライブが始まって綺麗な映像が流れた。必死にカーテンの皺を伸ばすように閉められているが、多少皺は残っていてそこは見辛いが、大きなスクリーンに映されているみたいで見応えは十分だった。二人の間に置いたあたしのお土産の羊羹と麦茶に時々手を出しながら、ライブを見た。映像で見る事変は大掛かりで神秘的で綺麗だった。
 特に会話も無く映像を見ていると、ぼんやりと床に置いていた手の上に手を重ねられた。一度隣を見たが立花君がこちらを見ることは無かったのでそのままにしておく。何度かお茶を取るためか離されたりしたが用事が終わるとすぐに元通り重ねられ、手が重なったままライブはアンコールを迎えた。
 あたしは重ねられた手と反対の手でピーラーをしながら見ていた。薬指で親指の皮に触れたり、親指で中指の皮に触れたりする。人様の家で皮を落とすわけにはいかないので軽く逆剥けを毛羽立たせる程度だ。アンコールが終わると立花君が話しかけてきた。
「舞ちゃん、さくらんって映画見たことある?」
「ううん。名前は知ってるよ、あれでしょ安野モヨコのやつ。昔のじゃない?あたし漫画は読んだよ」
「そっかー。蜷川監督の作品で主題歌なんかが椎名林檎なんだよ」
「そうなんだー。それが何?」
「それもDVDあるけど見る?内容知っているなら微妙かも。でも丁度良い、僕なりの見方あるんだ、それをやらない?」
 立花君が立ち上がって、DVDの棚を探りながら喋ってきたので適当にいいよーと返事をする。蜷川という言葉にせーら様を思い出してちょっと眉を顰めたくなった。別にどうってことの無い事なのだが、やはり高校当初のグループは思う所がある。あたし自身が喧嘩別れしたわけじゃないし、険悪なわけではないが。
 数時間座り続けていて腰と尻が痛い。デニショーは生地が薄くてあまり尻を守ってくれないし、貰った座布団も夏のせいか、い草仕様で弾力性に欠けた。断ってトイレに向かって、便器にもう剥ぎ落ちそうな皮を削り落としてきた。帰ってくるともうDVDの準備はされていて、立花君も僕もトイレと言って出て行った。適当に麦茶を飲みながら腰の辺りを揉む。
 これがベッドの上だったら良かったのにと何気にベッドに座ってみた。広いそこに上半身を倒すとふわっとした布団に包まれたのと同時に立花君の匂いがした。うっ、と反応してすぐに身体を起こす。嫌いな匂いではないが好きな匂いでもない。そこに立花君が帰ってきた。
「え、あれ……」
「ごめんねー、ちょっと座ってみただけなの。同じ体勢で居ると腰ちょー痛くって」
「あ、うん、そう、だね。ベッドで見ようか」
 ん、どうやって?と首を傾げていると返事は無く、立花君は映画を再生させた。そしてリモコンで消音設定にする。ただただ映像が流れているところにCDを幾つか入れたミニコンポから音楽が再生された。
 立花君の動向を見ていると、あたしの横に腰掛けてきた。そのまま後ろに下がってあたしを背中から抱きしめた。
「うぉ!?」
「ふふっ、舞ちゃん凄い声。……こうやって見よう。さっき言ってた好きな見方、さくらんは僕的に映画としては微妙だけど映像はとても優美なんだ、だから音消して椎名林檎のアルバムかける。極上の映像作品になるよ」
「へ、へぇ……」
 抱きしめられたままカーテンの方に向きを動かさせられて、体育座りのような形で後ろに立花君がいる。肩元に立花君の顔があって息が首にかかってくすぐったい。暑苦しいなぁと思いながら立花君が少し腰を引いているのがわかって、笑いを噛み殺した。

     

 鮮やかな映像が目の前を流れて、耳に立花君の吐息とミニコンポからの音楽が入り込んでくる。特に何をするわけでもなく、二人で映像を見ていた。ふと立花君がリモコンを操作して映像を一時停止にした。鮮やかな色町の風景で画像が止まる。
「どうしたの?」
 返事は無く立花君の手があたしの髪の毛に触れた。首付近の髪を全て前の方に流されると、隙間の肌に舌を這わされた。ひ、と短い悲鳴を上げて身体が硬直した。
 首筋を舐められて、短い喘ぎを出した後に顔を膝に埋めた。執拗に舌が追ってきて、首を舐めてくる。ちょっとだけぞくぞくする。だけどずっと同じ刺激で前戯としての意味はあまり為していない気がする。あたし自身この人とセックスする気が起きないのでなされるがままにしている。ぼんやりと声を押し殺しているフリをしながらミニコンポから流れる音楽を聞いていた。この曲は好きかもしれない、と歌詞検索出来るように歌詞を少し暗記する。
 気が済んだのか、立花君の舌はあたしの首元から退いて、鼻を鳴らすような音と共に後頭部に口付けられた。
「せい、じ君……」
「舞ちゃん、ふふ、ちょっと煙草臭い。意外と不良だよね」
 笑う立花君にやっぱり髪に付いた匂いは消せないものかといやに冷静な自分がいた。顔を伏せてから立花君の身体がこっちに触れて腰元に硬い物が当たっていて気持ち悪いのだ。少しだけ顔を起こして後ろを振り向くと、ないしょにしてねと首を傾げた。
 肩を掴まれて振り向かされるとキスをされた。何度も唇を食まれて、大人しくしていると、唇が離された。
「僕も少し吸うから、ないしょにしてね」
「……うん」
 その後笑い合ってキスをすると立花君はあたしの身体から離れていった。送っていくよ、という声と共に映像が消える。怪訝な顔で見ているあたしの前で立花君はミニコンポも停止させて、映写機を片付け出した。そのまま部屋を出て行かれて、一人取り残される。
 何だ、これは、と舐められた部分を手で擦る。もう唾液は乾いてしまっているが、手で拭くように擦って、ベッドのシーツに手を擦りつけた。戻ってきた立花君は駅まで送るよと言ってあたしは立花君の家を後にした。同じ様に自転車に二人乗りをして駅に送ってもらって、何事も無かったように別れた。
 最後まで行かなかったどころか、胸も何も触られなかった事に疑問を感じながらも帰りの電車に乗る。どっと疲れが来て、指をささくれを掻き毟った。


 それから二日に一回くらいの頻繁さで立花君の家に行って、あの鮮やかな映像と椎名林檎のBGMの元に身体を触られた。何故か最後まではいつも辿り着かなくて、あたしはなされるがままにベッドの上に転がっていた。
 行く度に覚える曲が増えていく。東京事変でなく椎名林檎個人名義の歌もわかるようになってきた。
 一度だけ弟さんとすれ違って挨拶をしたのだが、立花君にすぐ促されてその場を立ち去る形となった。何度も家に来ているのに家族に会ったのはそれが初めてだった。あたしも出来れば立花君の家族になんか会いたくないので丁度良いのだが。
 その日もきっと同じ様になるのだろうと思いながら立花君の部屋に上がった。ローテーブルの上に見慣れないプリントの束が置いてあって、A4の白い紙に「リトルグレイセルズの死滅(仮)」と一文だけ書いてあった。普段はどこかに片付けてあるのか、ローテーブルがこの部屋にある事自体初めてで単純に目に付いた。
「あ、やばい片付けてなかった」
「凄い量だね、自由研究のレポートか何か?」
「いや、えっと小説だよ、僕の書いた」
「マジで!凄ーーーい、見たいーーー!!」
 わかりやすく興味を示すと、立花君は恥ずかしそうに、けれどどこか誇らしげにその紙束を渡してきた。綴じられていない本当にまっさらな紙束なので、捲る事が侭ならず表紙をもう一度凝視した。リトルグレイセルズ、単純に直訳すると小さな灰細胞、ああ、と気付いた。
「アポロ、じゃなくてポアロでしょ」
「あははは、アポロかー。うん、正解、灰色の脳細胞の英訳」
 あたしが間違えた事に立花君は笑いながら、デスクの引き出しから大きめの文具を取り出して来た。
「何それ?」
「ホッチキスの大きい版みたいのだよ、これならその量でも留めれるから」
 ガッチャンと大きな音がして紙束が留められて、ぱらぱらと紙を捲る。縦書きは良いのだが、如何せんパフォーマンスとして興味を示しただけで事実興味のない文章を読む気にはあまりなれない。ざっと最後まで見ると視線を立花君に送る。
「すぐは読めない量だねー」
「そうだね、じゃあ貸すよ。良かったら感想教えて?」
 その時顔を歪ませなかった自分を自分で褒めてあげたい。立花君は読みやすいようにあらすじみたいの書いておくねとポストイットを取り出して何行か文字を書くと表紙に貼り付けた。笑顔で受け取ったが、頭の中で必死に面白い小説でありますようにと願った。最悪感想を言わずに逃げればいいのだけど。
 それからは同じ様に身体を触られて、たどたどしくブラのホックを外され、直に胸を舐められて声を上げた。あたしも手を伸ばして立花君の肩や腕、背中を撫でた。身長差のせいで下半身の方には手が届かなかった。
 そして、特に進展は無くまた駅まで送られた。溜息をついていつもと同じ様に電車に乗り込む。電車がホームに入ってくる大きな音の中で舌打ちを隠して指の逆剥けに触れた。
 
 
 家に帰って家事を終えて、適当にご飯を食べた後、自室のベッドに寝転ぶと立花君から借りた小説の紙を取り出した。立花君が貼った大きめのポストイットには手書きであらすじが書いてある。ケイというギターボーカルの男が色々な女性と関係を持つけれど、ナユタという処女の女子中学生と出会ってデフロランティズム(処女性愛)に目覚める。それから今までの女性との関係を絶ってナユタに傾倒する。けれどナユタはオーバードラッグで死んでしまう。
 何これ、ちょっとあらすじにネタバレが入っているんですけれど、と思いながらポストイットを取って表紙を捲り、並んだ文字列に目を通した。


 リノリウムの床に落とされた吐瀉物が綺麗だ。
 口にするとセツナは頷いた。強烈な酢酸の匂いを放つが、色は綺麗な乳白色だ。吐いた唇を洗いもせず、セツナは僕に口付けた。僕も吐き気をもよおした。
 カーテンから差し込む晩夏光に埃が反射する。これこそダイヤモンドダストだと瞬きをする。
「ケイ、もう一回しよう」
 セツナが僕の上に乗りかかってきて、キャミソールの紐を下ろした。下着を着けていない乳房が汗でヌルヌルと光りながら現れた。サンタナのブラックマジックウーマンを聞きながら、壁に上半身を預ける僕の顔をセツナは胸に押し付けた。そのメロディーを揺籃歌のように所々口ずさみながら、セツナは自分の性器に僕の指を入れた。ケイの指、好きよ。ずっとケイのレスポールが羨ましかったわ、ケイに弄られて、鳴かされて、それに反響して。ねぇ、私の中も同じ様に……。そこでセツナの声は喘ぎで途絶えた。右手を入れられたので、僕は愛器に触れているのは左手だよ、と笑った。セツナの赤いアイシャドウがのせられた奥二重が震えて、右手が性器からグチャと音を鳴らしながら出された。先ほどのセックスで濡れた性器は僕の指を汚した。
 左手の指を入れると、高い喘ぎを吐き出しながら、セツナは達した。目の前で細い喉が動く。身体が地上に打ち上げられた海洋生物のように痙攣する。潮も吹いたのか、太ももに愛液がポタポタと垂れ落ちてくる。
「君は本当に……」
「ケイ、私もうダメかもしれないわ……ケイが酸素なの……」
 セツナはそのまま言葉を紡ぐ。ここが現だと認識していないように、クチャと唾液交じりの声が響く。ケイ、知っている? ケイとするのを夢見ていたのよ、どんな風に抱かれるんだろうって。海みたいに包容されるのかしら、それともトマト畑みたいに赤く情熱的なのかしら。ふふっ、トマトって変よね、情熱の国のイメージからだったのかな。
 

 開始早々こちらが吐いてしまいそうな苦手な文章だった。リノリウム、吐瀉と言ったどこか中二病めいた表現。吐いたままのキス。よくわからない表現、気持ち悪い睦言、すぐイく女。意味不明な例え。
 この人吐いた事あるのか、あの匂いは吐き気をもよおすだけで留まる物ではないはずだ。色だって色んな物が交じり合って決して綺麗なんかじゃない。それにあたし以外の女と付き合った事があるのか、というか童貞じゃないのか。どこか夢物語のくせにやけに現実性を持たせようとする汚さがあって、顔を顰めた。
 これを読んで感想を言う事が、立花君と意味不明な背景で身体を触り合うよりも苦痛であることが明らかで自分の安請け合い具合に溜息をついた。 

     

 ナユタは黒目がちな瞳で僕を見下ろしていた。左頬が腫上がり、ドブ臭い匂いを放つ僕を見て言葉を発さずに、慣れた手付きで冷凍庫から氷を取り出した。ガタッ、カツンカツンと重い音がする。ビニール袋にロック用のそれを幾つか入れて僕に差し出す。
「……ありがとう」
 氷を頬に当てるとナユタは僕の横を通り抜けてベッドに腰掛けてテレビを点けた。深夜のローカル音楽番組、二度ほど出た事のあるものだ。


 一生懸命読んでいるのだがどうも気が向かない。当然と言えば当然だ、元々プロ作家の作品だったとしても好みでない文体なのに、素人の作品なんか読むに耐えない。自室で麦茶を飲みながら読んでいたが、暑苦しく気持ち悪いので財布と携帯をバッグに入れて家を出た。今日母親は久しぶりの夜勤で帰ってこない。面倒臭いので制服のままだったから、補導等されないか不安だったが道路にはあまり人は居ない。
 近くのコンビニに入って冷房に当たって涼みながら雑誌を立ち読んでいると、男女数人の五月蝿い集団が入ってきた。本棚が入り口近くに設置してあって、通路の幅が狭いために後ろを五月蝿い男がぎりぎり通り過ぎていく。ちらりと盗み見ると金髪やらほとんどがスエットを着ているやらの典型的なヤンキーのような集団だった。
「酒酒!!ポン酒でいいか?」
「鬼ころし!」
「うぜぇ、ガチうぜぇんだけど、黙れよー」
「あたしチューハイでいい?」
「はいはい、カゴ入れろや」
 舌打ちしたい気持ちを耐えて雑誌のページをめくる。可愛い秋物の洋服も上手に頭に入ってこない。早く買い物を終えて出て行って欲しい集団だ。
 買い物を終えたらしく後ろを通り抜けていくかと縮こまっていると、どんっと背中に衝撃が走った。一人の男がぶつかって来たみたいだ。思わず舌打ちしてしまった。
「あ?邪魔なんだよ、今舌打ちしたか?」 
「…………してません」
「しただろーがよ、女だからって……」
「ちょっと!!何女の子に絡んでんの!!しかも私の妹と同じ学校の子じゃん!!これ以上絡んだらあんた一人置いて行くからね!!」
「……はいはい、あのガリ勉学校ねー」
「ガリ勉じゃなくても入れるの!私だって入れたしー!」
「でも中退じゃん」
「うっせぇつーの!!あ、ごめんねー大丈夫?あれ、そのタイって一年?良かったら蜷川聖羅よろしくねー」
「セーラ様?」
 聞き覚えのある名前に反応を示すと、あたしを助けようとしてくれた女の人は動きを止めた。よく見ると何となくセーラ様と似た顔をしていた。
「え、せーら知ってる?」
「蜷川聖羅さん、だったら知ってます。同じクラスですよ」
「おぉぉ、ガチの知り合いか!!」
「はい、一応友達?でしたし」
「でしたって何それ、ウケんだけど。私せーらの姉、蜷川精華、よろしくねー」
 握手を求めてきた女の人に大人しく握手をする。腕を振りながら彼女、精華さんは名前教えてーと軽いノリで聞いてきた。それに若林舞です、と答える。
 一人だけテンションの上がっている精華さんを周りの男は訝しげにこちらを見てくる。
「舞ちゃんか、舞ちゃん暇ある?今から家行くんだけど来ない?せーらも居るよ?」
「え……ご迷惑じゃないですか?」
「全然っ!!せーらの友達は私の友達だから!!」
 精華さんはあたしの了承を聞いているのか聞いていないのかわからないうちに車に誘った。大人しく雑誌をラックに戻してそれに従った。ワゴンに乗ると安物の香水のような酷い匂いと煙草のヤニ臭さが広がっていた。あたしは精華さんの隣に座ってぼんやりと彼女の顔を見つめていた。
 ワゴン車には運転手を含めて男が四人と精華さんとあたしが乗っていて、変なレゲエのような音楽が流れていた。
「舞ちゃんって呼べばいいのかな?」
「皆にはマイちんって呼ばれています」
「じゃあ私もマイちんって呼ぼうかな、てかせーらってセーラ様って呼ばれているの?」
「あたし達の中では」
 その言葉に精華さんがウケると笑っていた。あたしはこの女の人が一度しか言っていない言葉をきちんと反芻する事に恐ろしい物を感じながら、笑顔を見せた。セーラ様の血筋の人だ、流石に頭の回転は速いようだ。授業で当てられてすらすら返答するセーラ様の様子や、テスト返却で特に落ち込みも何もしない様子を思い出す。
 ワゴン車内でコンビニで買ったばかりの酒を開ける事になって、あたしは大人しくチューハイを握っていた。音を立ててプルタブは開けたものの、一度口を付けて甘ったるい炭酸とエタノールの匂いが気持ち悪くて持ったままにしていた。周りの男がバカみたいに酒を一気して、バカみたいにあたしに話しかけてくる。
「マイちーんはー高一ってことー?」
「はい」
「てかマイちんーって下ネタじゃね?ちんって、ちんこじゃね?」
 笑う男に作り笑いを見せる。こいつらには羞恥心や常識といったものが備わっていないのか。苦笑いをしているあたしに精華さんが庇うような言葉を続けた。
 何だこの下品な男達は、ただあたしが今拠り所としている立花君に比べてストレートな物言いに好感は持てた。オブラートを何重にも被せて、それが美しいと勘違いしているあの男よりも汚い内臓を露呈してくる方が好感が持てる。面倒くさい表面の上面が無さそうで楽だと思ったし、精華さんに庇ってもらえる位置が気楽だった。ワゴン車はそこそこの距離を走って、止まった。普通の一軒家の駐車場というか、ただ平地が広がっている所に車が止まって、促されたのでそのまま降りた。
 促されるままに玄関に入って、部屋に入った。広い座敷だったそこにはセーラ様と男が二人居て、セーラ様は驚いたようにあたしを見ていた。 
「マ、イちん?」
「セーラ様、久しぶり」
 片手を上げて笑顔を見せると、セーラ様はつられたように笑顔になった。
「マイちんコンビニでナンパしちゃったー。せーらの友達なんでしょ?」
「てかナンパってせーかウザイ。ごめんねマイちん。こっち座りなよ」
 セーラ様があたしを呼んで、隣に座らせると小声でマイちんお酒って大丈夫、と囁いた。あたしも小声でわかんない、飲んだ事無いからと返した。セーラ様はアイコンタクトでわかったと瞬きをして、適当にお茶を入れた紙コップを握らせてくれた。皆の乾杯に合わせてあたしはそのコップを持ち上げる。
 車内で一度口にしたが、アルコールは得意とは言えなさそうだ。適当に周りに合わせてテンションだけ上げておけば大丈夫だろうと大声で喋ったり、笑ったりしておいた。一時間程で一気を続けた男二人は倒れて畳の上に寝転がっていた。他の男は精華さんと飲んでいて、あたしとセーラ様を隔離するような形にしてくれた。この姉妹の気遣いと思う通りに男を操る能力は何なのだろうと感嘆する。
「何か、セーラ様ごめんね、来ちゃって」
「ううん。マイちんとは話したかったんだよ、あんなんなんちゃったけどさ」
 二人で苦笑いに近い顔で笑い合う。一度一緒に打ち上げに行ったのだけれど、そんなにじっくりと二人で話したことは無かった。あの初期のグループに居た時はあたしはよっしーと一番仲が良くて、セーラ様はナギーや花音と仲良かったのだ。今思えば全員が全員それぞれに仲良いわけではないうちに空中分解してしまった。
「ていうかマイちんって見た目と違うよね、ちょー真面目そうに見えて全然予習して来なかったりするし、一番弱そうに見えて一人で生きていく道選んだりするしー」
 ギャルっぽくて強面だったセーラ様はお酒のせいなのかふわふわと笑っていて、あたしもつられて笑う。ある意味タブーだった部分に平気で乗り込んで来るセーラ様にあたしも心を許しつつある。
「買い被り過ぎだよ、あたしそんな強くないよ?てかセーラ様もちょー頭良くてびびったし、それなのにこんなお酒飲んだりしてるし」
「家はこんなんだからね。お母さんが今は女でも高学歴じゃないとやっていけないって五月蝿くてさ。あの人自分が風俗でしか働けないからうちらに勉強押し付けるんだよね」
「え……風俗?なの?あ!ごめん、別に差別してるとかじゃなくって……」
「わかってる、ふふっ、大丈夫気にしないで。言葉悪かったね、スナックとか水商売?何かそんなのなの。家お父さん居ないからさー」
 明るく笑うセーラ様に酔っているのかなと思いながら、開示された情報の重さにあたしも何か開示しないと、と紙コップに力をこめる。
「あたしもさ、お父さん居ないよ?居ないっていうかあれなの、別居状態なの」
「マジでー!仲間仲間!!あ、家は完全に別れちゃっててさ、ちょっとねー」
「そーだったんだ……」
「うん、仲間だねー。やっぱマイちんは良いなぁー」
 今まで聞いた事の無い二人の家庭環境を暴露し合って、セーラ様は缶チューハイとあたしの紙コップで軽く乾杯をした。新しい居場所をあたしは見つけたつもりになって、酷く高揚していた。

     

 結局あの小説を読み終えるのに五日を要してしまった。一日毎に計算すれば結構な時間を費やしたのに超スローペースで読書は終わった。自習室で解く嫌いな長文英語の問題が癒しにさえ見える。そう考えると、ある意味良い効果をもたらしてくれたのかもしれない。
 静かな自習室で二ページ丸々英文で埋まっている問題集をざらっと黙読してページを開いて問いに答える。下線部単語の意味は複雑化、性質……さらさらとシャーペンを走らせて大半を埋めると電子辞書を開く。わからない単語を調べるためだ、わからない単語は丸で囲ってある。
 学生の本分を十二分に楽しんでいる夏休みだ。ぞくっとするクーラーの涼しさが、真夏なのに日焼けしていない白い肌が、毎日勉強と読書しかすることのない優等生ぶりが、夏の記憶を消去させようとしている。屋上で一人、お昼を食べている間が唯一夏っぽい。真上から直線的に日光があたしの肌を刺してくる。蒸し暑く、全身に温度が戻ってきそうな時間だ。目を細めて空を見上げると、大きな入道雲が出ていてその輪郭がはっきりと見えた。
 ふと、立花君の小説のラストを思い出した。

 発作的に死にたくなった。ナユタが居ないこの世界など無意味で、無価値で、僕が生きている理由が無い。涙腺から雪崩のように落ちる涙はオックスフォードシャツに染みを作る。太陽を奪われた月、いや太陽を奪われたら銀河系が崩壊してしまう、それが今の僕だ。砂漠でのオアシスを見つけた後に幻想だとわかった瞬間のよう。しとどに晴天だったのに局地的スコールが降ったよう。ダメだ、上手い例えが思いつかない。
 買ってきたスコッチを二本程飲んで、頭も視界も混濁し始めた頃、ふと延長コードが目に入った。ガシャンと大きな音を出してスコッチの瓶を落とした、トクトクと小さな音が床に流れる。感覚が狂った僕は、鼻を啜りながらドアノブにそれを引っ掛けて首を吊ろうとした。
 ぐえぇ、と美しくも何ともない声が響いて首筋が痛み、脳に酸素が届かなくなり、過呼吸になったと同時にコードから首を外した。酷く咳き込みながら酸素を取り込む。
 どうやら僕は後追いも出来ないようだ。
「ごほっ、えほっ…………ナユタっ…………」
 目の前の唾液か涙が胃液かわからない液体を見ながら咽び泣いた。
 ナユタの死に顔が浮かぶ。綺麗だったが頬骨が浮出て、細く象牙色の皮膚はその下に藍を隠す憂いがあった。全ての温もりを奪う色を孕んでいた。ゴーギャンの油絵のような肌色に、全く正反対の真冬をモチーフとしていた。脳裏に焼きついた映像を思い出しながら、唇や鼻からポタポタと零れ落ちる液体が波紋のように、木目のように僕を中心に拡がる。
 本当に好きだ、好きだったんじゃないんだ、好きなんだ、愛しているんだナユタ。君が死ぬ事で僕に罰を与えたのだとしたら、なんという厳罰だ。君を救えなかった自分の不甲斐なさも苦しい。これが、愛別離苦というものか、これが……。
 それでも死ねない、君の後も追えない。延長コードを握りながら僕は生きている証の汚い呼吸をした。 
 

 大きな溜息をついた。何が書きたいのかわからないし、生死を題材にすれば心に残るとでも思っているのか、酷く単調で予定調和な最後だった。あたしはお酒を飲んだことも、死のうと考えたこともないから、上滑りの感想しか持てないのかもしれないが、それをさて置いても共感も感銘も無いものだった。普通主人公の恋人が死んだらもっと盛り上がりが生まれるものではないのだろうか。今感想をまとめていると言って、あたしは彼の期待から逃げている。
 屋上からそんな事を考え続けて、電車に揺られて、立花君の最寄り駅に着いた。 
 セーラ様と遊んだ後に立花君の家に行くと、心が今まで以上に乾いていることに気付いた。流れる音楽、映像、全てが人工的で不自然で気持ち悪く、首元を這いずる彼の舌は鳥肌を立たせた。あたしも立花君も慣れないことをしている。嘘と幻想と利己的な理由で出来上がった薄暗い空間。椎名林檎とさくらんから始まった音楽と映画は知らないフランス映画に変わった。
 薄目を開けると立花君の後頭部というか髪の毛と天井が見えた。小さな喘ぎを出して顔を立花君と反対に向けると投げ出された自分の腕と二の腕辺りで留まっているブラウスが目に入った。ブラウスは脱がされても、下着を外されることは今のところ無い。カップをずらして胸を露出させられたことはあるが、押し潰されて痛いだけだった。
「舞ちゃん……」
 立花君はあたしの手を掴んで自らのベルトの近くに誘導した。ジーパン越しに触ると存在がわかる程度に大きくなっていた。え、と息を飲むと、ベルトを外す音が聞こえた。
「誠治君、ちょ……っと」
「触ってみて」
 ずるりと出されたモノは淡いピンクであたしの乳首なんかより綺麗じゃないのかと笑いそうになった。笑いを堪えて、誘導されるがまま握る。
「これくらい、これぐらいの強さで動かしてみて」
「……うん」
 身体を起こして立花君の手に覆われた右手を動かす。だるい、何だこの子供みたいなモノは。フランス語と知らない音楽が流れる中であたしはぼんやりと立花君に手コキをしていた。動かしている手を見ていると指先の逆剥けが気になって毟り取りたい衝動に駆られる。
 立花君は手の握りを強くすると、あたしが戸惑っているうちにもう片方の手を掴んで射精してきた。良いとも、イくとも言われないまま、あたしは左手に精液を受け止めさせられた。零さないようにすぐに右手で支えて、立花君にティッシュを要求したとき、彼の何とも言えない顔が目に入った。すぐに目を反らしたくなる気持ち悪さだった。
 色白の腕、肌蹴た白いブラウス、白いシーツ、白濁色の精液、白いティッシュ紙、今すぐあたしの皮を剥いて出した血液でこの空間を汚してやりたかった。
「…………ごめん」
「ううん、手、洗ってくるね」
 あたしは勝手知ったる立花君の家の洗面所に向かった。後ろからとぼとぼ着いて来る立花君が滑稽でたまらない。手を洗っているときに後ろから抱きしめられるのは邪魔で、あたしは何故か気を使って二回しか洗えなかった。本当はあと二回程洗いたかったのに。自分が賢者タイムに入らない男は苦手だと気付いてしまった。


  
 セーラ様から呼び出しを受けたのは、家でパソコンを立ち上げてあの小説の感想を書こうと苦しんでいた時だった。先週と同じ曜日で母親が夜勤で独りだったあたしは、すぐギンガムのシャツにフレアスカートに着替えて、サンダルをつっかけて家を出た。埋まらないワードの白い画面が苦痛でしかなかった。ここまで引き伸ばしたのだから感想文を打ち出して渡そうと思ったのだが、一向に文字が打てなかった。
 家の近くのコンビニに迎えに来てもらって、あたしはワゴン車のような大きな車に乗り込んだ。この前の車とは違った、丸っこい形をした大きな車だった。乗り込んで適当に知り合いに挨拶をして、知らない人には初めましてーと笑った。そして、そのままセーラ様の家に向かった。
 その後の記憶は少し曖昧だ、どうやらお酒を口にしたようで浮遊感があって、面白くて、楽しかった。それが続いた後に、急に頭痛が襲ってきた。宴会が行われている部屋の隣の和室であたしはタオルケットに包まって横になっていた。畳の井草の臭いが吐き気を呼ばない臭いで安心して仮眠を取ったけれど、すぐに目覚めて帰りたくてたまらなくなった。家で眠りたい欲求があたしを突き動かした。
 帰る前にお手洗いに寄った。トイレを済ませて、頭がふらふらするのを堪えながら歩みを進めた。その時、知らない声がかかった。
「ちょ、マイちん大丈夫ー?」
「大丈夫、大丈夫」
「全然大丈夫じゃないじゃん、一緒帰る?」
「んー大丈夫」
「ははっ、まぁ掴まって」
 名前も知らない男に腰を掴まれて廊下を歩く、誘導されるがままにサンダルを履いてセーラ様の家を出た。そしてそのままその人の車に押し込められた。ワゴンとは違う普通乗用車だった。
「マイちんお家どこ?」
「わかんない、眠い」
 こんな奴に家を教えるものかという気持ちが生まれて、助手席に寝転がる。頭が上手く働かない、脳味噌に液体糊みたいな水饅頭みたいな透明なゼラチン質を注ぎ込まれてぶよぶよに膨らんでいる感じ。目は水中みたいに薄膜がかかって、色と形しか判別出来ない。すん、と鼻を鳴らすと車の中の嫌な臭いが入ってきて、多分エアコンからの臭いだろうけれど、大きく空気を吐き出した。
「大丈夫?ほら、ちょっと横に……」
 シートのリクライニングががくんと倒されて、その男が乗りかかってきた。
「……何」
「マイちん暑くない?汗かいてるよ、脱ぐ?」
「脱がない……」
「いやいや、このままじゃ危ないって」
 頭が痛くなってきた、大体ここはどこで、こいつは誰で、今どんな状況なんだ。
 すっと腹元が涼しくなったので、視線を送ると肌が見えていた。
「なに、してんの?」
「暑いって言うから、脱ごう脱ごう、俺も脱ぐから」
「はぁ、そう……」
 もう、いいや、そんな諦めが頭に浮かんだ途端にその男が覗き込んできて、そのままキスをした。久しぶりに喫煙者とするキスは舌が苦くて生暖かくて気持ち悪かった。ただ、酷く喉が渇いていて、送りこまれる唾液を飲み干した。お酒を希釈する水分が欲しかった。
 横を向いていた顔を完全に正面に向けて、キスというよりも唾液を貰う作業を続けた。きつく目を閉じていると腕を首に回されて、舌打ちをしたくなった。頭が各所で内出血しているみたいで重く痛い。首に腕を回したことで背中が持ち上がってブラのホックを外された。流れるような手順に一向に進まない立花君を比べてしまう。二人共喋らずに、車内は唾液の音と衣擦れの音とエアコンかエンジンが動く音だけが響いていた。静かで端的で効率の良いセックス。あたしはこの男の顔も名前も知らない。
「マイちんこっち向いて」
 目を開けるとその男の顔があって、そいつは眼鏡を外してキスを再開してきた。眼鏡、していたのか、ともう一度目を閉じると男の顔が離れて、首筋に唇を押し付けられた。困ったな、こいつも首筋から始めるタイプか、とマニュアル制度の功罪について思考を飛ばしたかったけれど、脳は動く事を放棄していた。

     

 その男はあたしを脱がせながら、可愛い、綺麗を連発していて、酷く薄っぺらいと思った。別にもう褒めなくていいよ、あたしはあんたに抱かれることを了承しているから、さっきみたいに無言で進んでよ。彼は上半身を脱がしてスカートをめくり上げ、パンツを脱がしてきたので、右腕を顔の上に乗せて顔を隠した。触感以外の全ての器官が機能不全になってくれないかしら、と思っていると性器に舌が触れる感覚がした。
「ちょっ!!」
 慌てて顔の上に乗せていた腕を動かして男の頭を掴んだ。いきなり舐められて驚いて、顔を上げさせると、にやりと笑われた。男は身体を起こして髪を撫でると、大丈夫大丈夫と言いながら額と頬にキスをしてきた。
「や?」
「嫌っていうか、汚い……から」
「ふふ、汚くないよ?俺舐めるの好きだしー」
「ま、じか……」
「うん、マジマジ、ちゅーしよちゅー」
 きも……という言葉は飲み込んで、目を閉じた。
 目を閉じるととても楽なのだ。世界は全て消えて、頭の痛みは残るけれど快楽の世界に浸れる。キスしているこの相手はあたしの大好きなサッカー選手で、あたしの肩を抱くこの腕はサッカー選手の腕で、と妄想に浸れる。そう考えるととても気持ちいい、あの人が煙草を吸っているとは考えられないけれど、そんな現実は彼方へ放る。
 男の顔はあたしの口から離れて、下がっていった。ずりゅ、と卑猥な水音がして、舌が入ってきた。目の前は真っ黒だ、鼻は幸いな事に車の臭いを捕らえていて男の臭いを感じない。あっ、と適当に喘いで、気持ち良いところに当たるように身体を動かした。初めての人とのセックスは何が正解かわからないから、この気遣いが面倒くさい。ある程度濡れたせいか、性器から口が離れて、違うモノを押し付けられた。
「マイちん、入れて欲しい?」
 素股というのか、股の上に押し付けるように動かされて、こっちの方が気持ち良い。見下ろされているのであろう顔を見るのが嫌だ、そもそも何で言葉を発したんだろう、あたしは妄想で盛り上がっていたのに。自分のテクニックで濡らしたとでも思っているのかな、おめでたい。目を閉じたまま、やぁ、と首を振った。頭を動かした事で痛みが鋭く来て、舌打ちを耐えた。
 あたしの反応が悪かったせいか、逆に燃えたのかはよくわからないが、男はあたしの肩元から背中に手を回すと抱きかかえるようにして押し付けてきた。ぐっと、押し付けられて入りそうになる。
「あっ!」
 急に身体は離されて、下腹というか股の付近に生暖かいものを感じた。目を開くと陰毛の上に精液がかかっていた。男は慌てたようにダッシュボードからティッシュを取り出してあたしの股を拭いた。
「ごっ、ごめんごめん。……えっと……マイちんが可愛すぎて……」
「はぁ……」
「ガチでごめんね、洗った方がいいよね、ホテル行こうか」
「いえ、大丈夫です、最寄り駅までお願いします」
 急に身体を起こして服を着始めたあたしに男は気圧されたかのように、あ、ああと小声で呟いた。車内の空気は最悪で、男が話しかける言葉にあたしは生返事しかしなかった。駅に着いて、車から降りようとした時に腕を掴まれた。
「マイちん、アドレス教えてよ」
「何で?」
「え、何でって、また、遊びたいから」
「何で?」
 しどろもどろになる男の腕を振り切って、車を降りて駅に入った。朝の空気は夏だけれどまだ涼しくて心地良い。車内が吐きそうな空気で充満していたから、きっとどんな空気を吸っても清く感じるのだろうけど。知らない駅だったが、無人駅ではなさそうだったし、待合室は鍵がかけられずに開いていた。時刻表を確認すると始発がまだだったから駅の待合室のベンチに寝転んだ。ふと、立花君と付き合っているんだっけ、と思い出した。入れていないから問題ない、と納得させて目を閉じた。今日は現実から目を反らしてばかりだ、あたしはずっと早く帰りたいだけだ。あたしはただただあの場所から早く帰りたかっただけなのだ。
 始発に乗って家に着いたのはお母さんが帰ってくる時間のぎりぎりだった。急いでお風呂に入って身体と髪を洗うと陰毛辺りがばりばりになっていて、時間がかかって名前も知らない男を恨んだ。そしてその後に朝食を作った。作る、と言ってもそれほど手間はかからない。お母さんは夜勤で帰ってきてすぐ寝てしまうので、昼食が朝食替わりになるからレタスを千切って胡瓜とトマトを一緒にドレッシングで和えたものに焼き豚をスライスして添えた一皿を冷蔵庫に入れておいて、お味噌汁を作って鍋のままコンロに放置しておく。午前中はまだそこまで暑くならないから腐りはしないのでコンロでも大丈夫だ。そして納豆とゆで卵、浅漬けはいつもの場所にあるからテーブルに冷蔵庫に入れた皿のメモを残して終わりだ。あとでお母さんが自分で温めて食べるだろう。勝手にそうめんなんかを茹でて食べるかもしれないし。
 あたし自身は味見で食べたレタスと味噌汁一口で十分で、ビタミンウォーターをがぶ飲みした後に二日酔いの薬を薬箱から探し出して服用するとベッドで眠った。風呂に入ったせいか頭痛は少し消えている。眠る前に最後の力で立花君に今日は行けないことを伝えるメールをした。メールをしている間にお母さんが帰ってきた音が聞こえてすぐに携帯を置いて眠りに入った。



「舞、そろそろ起きないと」
 久しぶりにお母さんに起こされて、寝ぼけ眼で彼女を見上げた。お母さんはパジャマのままで、あたしを起こすと自分も欠伸をしていた。勝手に部屋に入られたことと、寝ぼけている状態を見られたことであたしは軽いパニックだった。
「お昼一緒に食べる?」
「ううん!あたし学校に用事あるんだった!起こしてくれてありがとう!」
「用事?お友達?」
「うん!前言ってたでしょ、セーラ様とかナギーとか花音とか」
「ああ、仲良い子達ね」
「そうなの!危ないとこだった、じゃあ急いで準備するね!」
 必死に明るさを振りまいて部屋から洗面台に向かった。お母さんの前ではあたしは子供でいなければならない、健全で快活ではつらつとした子供。友達は沢山いて、成績も優秀で、家事もこなす優等生な子供。あたしを産んだことは母の失敗ではないと思わせる子供、駄作ではいけないのだ。今日はちょっと寝過ごしてしまった、たまに抜けている子供を演じる事が出来ただろうか、顔を洗いながらあたしは酷い疲労感を背負った。
 お母さんがご飯を食べている横をすり抜けて、制服姿で駅に向かった。嘘をついて出てきたものの、特に予定は無いので携帯を開く。立花君からどうしたの?と、この前はごめんね、という内容のメールが数通来ていた。予定無くなったから家行ってもいい?と返信すると、着信が来た。短時間での応答を少し気味が悪く思ったが通話ボタンを押した。
「もしもし」
「もしもし舞ちゃん、えっと、ごめん、急に電話して」
「ううん、こっちこそグダグダでごめんね。お家伺っても大丈夫?」
「うん、それはもちろん。あの、怒ってない?」
「え?」
「いや、えっと、怒ってなければいいんだけど……」
「怒ってないよ、どうして?」
「あーっと……僕、変な事、を強要した、かな……と」
「……そんなことないよ、下手で、ごめんね?」
「いや!!全然!!いや、全然ってか!!……うん、待ってるから、駅着いたら連絡して!」
「ありがと、着く時間メールするね」
 そう言うとあたしは通話を終えた。大きな溜息をつくと駅までの間に胸元のボタンを開け、スカートを折り曲げた。駅で到着時間を確認して立花君にメールすると、鞄に入れてきたネックレスと指輪を着けて鏡を取り出して身だしなみを整えた。バレないように入れたグレーのアイライン、色つきのグロス、幼いながらの気だるげな自分が見えて、可哀想、と呟きそうになって喉元で押さえた。
 電車に乗っている間、メモを開いて立花君の小説の感想を打ち込んだ。何の罪悪感かわからないけれど、二日酔いを逃れた頭と指は別人のように働いて文字を吐き出し始めた。立花君と付き合っているとすると、あたしは世間でいう浮気をしたことになると思う。何がボーダーかわからないが、お兄ちゃんが女の人と腕を組んで歩いているのを見て浮気だと思ったのだから、他の男とキス以上は浮気に入るだろう。浮気というような言葉通りに気持ちは全く動いていないのだけど。大体あれは誰だったのだろう。そんな事を言うとあたしには本気の相手は居ないのだから、浮気も何も無くよくわからないことになってしまうが。頭とは切り離されたかのように動いていた指は何文字書いたのか、スクロールを二回程出来る程度にメモ帳を文字で埋めて、電車は降車駅に着いた。メモ帳の文字は共有ファイルに上げておいて、あたしは携帯を閉じた。
 駅に着くと立花君はもう来ていて、制服姿のあたしに笑顔で近寄ってきた。 
「あれ制服?用事あったの?」
「あー着る服無くて」
「制服楽だもんねー、わかるよ。さ、後ろ乗って」
 変わらない立花君の自転車の後ろに乗って腰に手を回した。煙草臭い車内特有の臭いとは違う柔軟剤と汗の臭い。
 部屋にいつものように連れて行かれて、隣同士でベッドに座ると、立花君は音楽雑誌を取り出して喋りかけてきた。夏のフェスがいくつか終わって、いくつかはまだで、なんていうスケジュールと夏フェスに出るアーティストを特集している記事を見せて、聞いてもいない知識を披露してくる。これが九十年代のダンスミュージックのようなのにベースが技巧的でカッコイイのだとか、これが舞ちゃんが好きそうな音造りをしているとか、本棚から溢れる雑誌やCDなんかの情報量に加えて、立花君のどうでもいい情報吐き出しと鳴らされている音楽であたしの頭はずっとテレビ画面の砂嵐のようになっていた。ノイズ、意味の無い画面、酷く不快だ。
「誠治君……」
 雑誌片手にあたしに話しかける立花君を押し倒す。倒された衝撃で立花君の眼鏡はずれて、雑誌は床に音を立てて落ちた。厚みがあった雑誌が上から押し潰されたように不規則な扇子の形に広がる。言葉が出なくなった彼を見て静かになった、と安堵しながら首筋に唇を落とした。あたしもマニュアルに従おう、それがルールなのだから。知らないアーティストの楽曲のリズムに合わせて首筋を舐めて、腰元から彼のTシャツを捲くる。
 手を出してみようと思ったのだ、ずっと積んだり崩したりのこの行為に進歩を求めるために。ベッドに押し倒されてあたしに良い様に触られている立花君は小さなうめき声のようなものを出していた。喋らない男性は素敵だ。ジーパン越しに彼のモノに触れる。生地が厚くてあまり何も刺激にならなそうだけど、擦ると身体をよじられた。ベルトを外してボクサーパンツの隙間から取り出して口を付けた。
「うっ……舞ちゃん」
 そのまま舐めていると、外から車の音が聞こえた。その音に立花君は素早く反応してあたしを引き離すと、パンツを戻して服を凄い早さで着直した。驚いているあたしを尻目に立花君は床に落ちた雑誌を拾って、あたしの手を引っ張って立たせた。そして思い立ったかのように通学鞄からフリスクを取り出してあたしの口に二粒押し込んだ。
「んぐっ!」
「やばい舞ちゃん、下降りて!」
「は?」
 引っ張られるままに階段を下りている間に、口の中から刺激が鼻まで通って来て泣きそうになったし、足が縺れて転びそうになった。そのままリビングのソファーに連れられて座らさせられた。誠治君、という言葉は無視されて彼は一人で玄関の方に行ってしまった。何だこれは、と思っていると玄関から知らない女性の声がした。
「誠治、誰か来ているの?」
「あ、っと、うん、同じクラスの若林さん」
 立花君と一緒に玄関からリビングに入ってきたクリーム色のスーツを着こなした女性はあたしを見つけると上から下までじろじろと見定めてきた。あたしはリビングのソファーから視線に拘束されて動けなくなった。

     

「初めまして若林さん、誠治の母です」
 そう自己紹介をした女性にあたしは、初めまして若林舞ですと返した。彼女は訝しげにあたしを見つめて、誠治お茶くらい出しなさい、と言ってキッチンに入っていった。
 最悪だ、最悪。母親と鉢合わせるなんて。何を話していいのかわからずにソファーの上で固まっていたあたしに、立花君は小声でごめんね、と言って母親の後を追ってキッチンに行った。その後にお盆を持った彼女はあたしの前に紅茶とフィナンシェを置いて、どうぞ、と手で示した。言動は優しげなのに一切笑っていなくて、溜息をつきたくなった。一先ずカップの取っ手に手を伸ばす。ふと顔を上げると、立花君は母親の横に座っていた。目を見開くと同時に、フリスクを噛み砕いた。鋭い刺激が鼻腔を抜けて目にまで届いた。
 カップのふちから覗くクリーム色のスーツは身体のラインより少し大きく、細い彼女の腕はスーツの中で泳いでいるようだった。私側のソファーは人一人眠れるくらいの長さで、彼女のスーツと似たような色に茶色のストライプが入っている。対する立花君側は一人用の同じデザインのソファーが二つ並んでいる。透明なローテーブルの上にはロココ調のような白を基調とした花柄が描かれているカップがのっている。カップというかソーサーとセットなのであろう皿はソーサーと同じく縁がぎざぎざになっていて、洗いにくそう、と思った。波線のように膨らんだ部分の先に小さく穴が開いていて、酷く凝った造りになっていた。その上にのせられているフィナンシェはよくわからないフランス語っぽい文字が書いてある包装紙に包まれていて、プレーンとチョコが一つずつ置いてあった。何となく有名店そうで、プライドが高くて面倒くさそうだと思った。良い匂いがする紅茶を一口飲むと、フリスクの清涼感と紅茶の苦味が口に広がった。
 かちゃと紅茶のカップをソーサーに置く音が響いて、口を開いたのは立花君の母親だった。
「若林さんは誠治とどういったお付き合いをされているのかしら」
「はぁ……」
 どういった、というのはこちらもよくわからない、付き合っているのですが肉体関係はまだありません、先ほどまでフェラをしていました、と言っていいのだろうか。フィナンシェの袋をいじっていると、立花君がただの学友です、と言った。
 なんだそれ、なるほど、お前はそちらにつくのか、と顔を伏せて笑った。
「学友なの、じゃあ若林さんも優秀なのかしら」
「いえ、別にそんな事はありません」
「そうなの、うちの誠治はあの学校でも優秀な成績を修めているのよ。ねぇ誠治」
「そんなでもないよ母さん……」
「若林さんはどのくらいかしら?」
「はぁ?」
「ほら、休みに入る前に期末試験があったでしょ、あれ」
「覚えていません」
 そう言ったあたしに目の前のババアは目を見開いた後に、あらーと厭らしく目を細めた。実際問題覚えていないのだ、順位は二桁だった気がする、確か全体で五十何番か、どこかそれくらい、具体的な番数なんか一桁じゃないんだから覚えているわけない。
「そうなの、そうね、覚えたくない数字もあるわよねー」
「そうですね」
「若林さんはご両親何をなさっているのかしら」
「……父は会社員、母は看護師をしています」
「あらぁ、素晴らしいわ、どちらにお勤めなのかしら」
 何故そんな事まで初めて会ったババアに喋らないといけないのか。大体面倒くさいから会社員と答えているが父は取締役だ、勝ち誇ったように笑う女が哀れで馬鹿らしくて笑えてきた。きっと知らないのだろう、自分以外の人間のテリトリーを。きっと知らないのだろう、自分の息子が目の前の女にどんな態度を取ってきたか。
 ねぇ、教えてあげようか。お前の息子は酷く気持ち悪い小説を書いていて、変な音楽をかけてセックスを要求して来て、変なこだわりで本番まではしなくて、多分皮被り野郎だって。
 手に持っていたフィナンシェを皿に戻すとあたしは顔をきちんと上げた。
「えっと、そんな事何でお答えしないといけないのでしょうか」
「え?」
 驚いた顔をした彼女に対して優越感に浸っていると、思わぬところから攻撃に遭った。
「若林さん!母さんにそんな言い草は無いだろう!」
「誠治、いいのよ……」
 強い口調で嗜めた立花君に対してババアが止める様に言った。目の前で茶番が繰り広げられている。ただ付き合っているだけの女に姑気分のババアとよくわからない正義感に溢れた息子。あまりに馬鹿らしくなってきて、フィナンシェをもう一度取って袋を開けた。やけ食いだ、食べてしまおう。バター臭くて粘っこくて喉に引っかかる菓子だ。
 目の前の茶番はまだ続いている。立花君はあたしに対して非難の目を向けてくるし、ババアは逆に優越感に満ちた顔をしている。意味がわからない、貴女の息子にあたしは何の価値も見出していない、こんな意味不明な詰問をされて直大人しくして好かれようと思うような気持ちは一切ないし、貴女の優越感はあたしがあんたの息子に好意を持っているという事が大前提だがその大前提が無いんだ。貴女はそのロクデナシを生んで今まさに庇って貰っているのかもしれないけど、あたしはそのロクデナシを射精させることが出来るんだ。人間が一番情けない姿を知っているんだ、そう、情けない姿としか思っていないんだよ、貴女の大事な大事な息子さんを。
 チョコ味のフィナンシェを食べ終えて袋を皿に戻すと紅茶で流し込んだ。それと同時に立ち上がる。
「あたし……帰ります」
「えぇ、ゆっくりしてらして、もっと若林さんのこと知りたいわ」
「いいえ、失礼します」
「そう?だったら駅まで送って行くわ、ね、誠治」
「あ、うん……」
 立花君に同意を求めながらババアは立ち上がった。車を用意しに行くみたいだ。
「ねぇ誠治君」
「…………がっかりした」
 ソファーで俯きながら立花君は声を出した。立ち上がった状態で椅子に座っている彼を見下すように視線を投げると、彼は無表情であたしを見つめた。
「舞ちゃんには年配への気遣いが無いと思う。それに僕の親なんだからもっと好意的に接してくれるべきじゃないかな」
「……ふぅん」
 だったらお前の母親がもっと好意的にしたらどうなんだ。とんだマザコン野郎だったんだな、と立花君の顔を見ると彼はあたしから目を反らさなかった。今までの少し頼りない彼はそこに居なかった。
「悪いけど、もう、家には来ないでくれる」
「…………わかった」
 何故あたしがフラれなきゃいけないのか死ぬほど腹が立つけれど、そのままババアの車で送ってもらって駅に着いた。じゃあ、と手を上げる立花君に笑顔で右手を振り替えして駅に入った。ずっと左手人差し指で親指の逆剥けを削り取って逆立てていた。途中から液体が指先に付いたのがわかった。
 電車はまだ来ていなくて、待合室に入ると、そのままピーラー行為に没頭した。指の皮を一つ一つ削り取った。クーラーの効いた室内は涼しくて、背中に寒気が襲ってくるくらいのものだった。老人が二人ほどしか居なく静かな空間に、上の方に置いてあるテレビから各地のニュースが流れてくる。暑い時期の川涼みの様子、アナウンサーの綺麗な声が響いていた。
 イライラが止まらない、何だあの親子は、勘違いも甚だしい。そして何だあのマザコン野郎は、どうしてお前からこのあたしがフラれなきゃいけないんだ。大体お前が恋人なのだとしたらババアからあたしを護る役だろうがよ、何で母親の味方してんだよガチでムカつく。
 左手のピーラーが終わると痛々しい赤が覗く指先となった。スカートの上に落ちた皮を払って、携帯を取り出した。先ほど保存したページを開いて文書のファイルを削除する。携帯に残っていたデータも削除した。デリートボタンを押して消すのも面倒くさくて全てを一気に消去した。機械はとても便利だ、ボタン一つで全て無かったことに出来るのだから。
 あたしのこの徒労、あたしを卑下したこと……絶対に許さねぇから、と心に誓って、時間通りに到着した電車に乗った。きっと二度とこの駅には降りないだろう。いや、駅は降りるかもしれないけれど、二度とあの家の敷居は跨がないだろう。この胃に入ったフィナンシェも紅茶もフリスクもあいつの体液も全部全部吐き出してしまいたかった。
 空いた電車の中でふと思った。あいつの童貞をクソみたいな方法で奪ってやろうって。残念ながらあたしはあいつが思うような処女ではないのでセックスしたところでさして大きなダメージは無い。
 そうだ、奪ってやろう全部全部。あいつの矜持、綺麗な思い出、男としての砦、あのババアが大事にしている息子の子供の部分、大事な大事な息子さんのババアには奪えない部分。指で唇の皮を剥くと、ひっかかりと共に鋭い痛みが走って、唇の上に液体が浮かび上がった。ぷっくりと膨らんだ赤い滴を舌で舐めると鉄の味がして内臓全てが鉄に侵食されたような気がした。重く錆付いた内部はきっと何にも揺らがないし冷め切っている。中途半端な熱では溶けることもないだろう。体中に流れる血液に金属片が紛れているような重みを感じる。今あたしの五臓六腑は鋼鉄だ、この身体は冷え切った鉄製だ。
 窓から少し落ちかけた日に照らされたあたしの顔は歪んで、唇から血を流しながら笑っていたと思う。


 屈辱的なフラれた男に縋り付くという行為をして、立花君をカラオケに呼び出した。二人きりになれる密室がここしか思い浮かばなかったので、仕方ない。あたしの聖域の屋上や部室には呼びたくなかったし、二人の思い出だとでも思っていそうな教室にも呼びたくなかった。だからといってラブホはあまりにも飛ばし過ぎている。彼はしおらしいあたしにいい気になったみたいで、困ったような顔をしながらカラオケの一室に入ってくれた。彼を座らせてドリンクバーでウーロン茶を二つ取って来た。いざとなったらこのウーロン茶をぶちまけてやろうと思った、腕力的なものを行使されたら敵わないから。それに後から入った方があたしが扉側に座る事が出来て逃げ道を塞げる。コップとストローをテーブルに置いて、あたしは少し距離を置いて隣に座った。 
「若林さん、用って何だろう」
 畏まってあたしに話しかける立花君が酷く滑稽で、笑いを堪えながらやり直せないかな、と呟いた。俯いてスカートを両手で握った。同時に太ももも抓る形にして表情を消す。室内は飲み物の氷を立花君がストローでかき混ぜる音とテレビから流れる音で占領されていた。二人とも制服で、立花君は気まずそうにあたしと目を合わせない。あたしは顔を上げて立花君の横顔を見つめながら、いつ強硬手段に出るかばかり考えていた。この日のためにあたしは口でコンドームを着ける練習までしたのだ、口内に広がるゴムの味は気持ち悪くて堪らなかったし、鼻を抜けるゴム臭はえずきそうで不快で仕方なかった。だけど絶対に生でしたくはなかった。あたしの内部にこいつの体液が残ると考えるだけでそこから穢れてしまいそうだと思った。
「ごめん、それは出来ない」
「……どうしても?」
「……うん、ごめん」
 想定内だ、すがっても切り捨てられることは、そしてこの気まずそうな態度も。ここまで想定内の行動ばかりされると飽きてきてしまう。想定内の行動をする男に何の魅力も感じない。どうしようか、もうこの時点であたしはこの男が本当に嫌いかもしれない。いや、嫌い以上に憎んでいるから潰すのだ、打ちのめすのだ。トラウマを作ってやるのだ。
 あたしは立花君との距離を詰めて隣に寄り添った、彼の身体はびくんと震えたがかまわずに胸と頭を押し付けた。彼の左腕を抱くように身体を寄せると、彼の耳辺りを見つめた。
「ねぇ誠治君……あたしは、好き、なの」
「……いや、えっと……」
「好き、触りたい……」
 顔を下腹部まで下ろしていくとソファーに寝転ぶように立花君の制服のチャックを下ろした。下着の上から何度か触れて、その後に引きずり出して口を付けた。ガキ臭いピンク色の性器にそれより色の濃い舌を押し付けて、吸い上げた。夏のせいかこもった体臭があたしの鼻を襲った。歪みそうになった顔を整えて、根元に手を添えた。
「ちょっと!!!若林、っさん!!!……舞ちゃん!!!!」
 気の抜けた腕で押し返されたけれど、一度強く啜ると怯えたように抵抗は弱くなった。ああ、可哀想、本当に可哀想、急所をあたしなんかに押さえられて。歯で砕いてやりたい。
 ある程度立ち上がったら、身体を動かして立花君の上に乗っかった。膝立ちをして立花君に跨って、パンツをずらして性器同士を触れ合わせる。残念なことに全然濡れていない性器に彼の性器を触れ合わせて、気持ちいいところを擦った。
「舞ちゃん!!ほんとに、ダメ、だよ!!」
「ダメ?……あたし、誠治君、と……」
 立花君の脆弱な抵抗を跳ね除けて、ポケットに入れておいたコンドームを取り出して破ると口に咥えた。やっぱりこの匂いと味には慣れない、それを立ち上がっている性器に被せていった。立花君は驚いたような顔でこちらを見つめている。萎えなくて良かった、と思いながらそのまま立花君の性器を食らった。あまり濡れていない性器を無理矢理こじ開いて飲み込んだ。痛い、とても痛い、熱い、泣いてしまいそうだ。
 立花君の、嫌だ、舞ちゃんという声と、モニターから聞こえる音楽を耳に入れながら、あたしは彼の童貞を奪った。奥まで突っ込んで一往復したくらい、あたしは性器を抜き去って、身体を立花君から離した。彼は目を見開いてあたしを見ていた。それを余所目にあたしはパンツを履いて身だしなみを整えた。
「……舞、ちゃん?」
「童貞卒業おめでとうございまーす、良かったじゃん、歌と映像の中でやりたかったんでしょう?」
 あたしの言動に立花君は性器を丸出しにした情けない格好のまま固まったようだった。顔色がさぁっと青くなり、目を見開いたまま全ての筋肉が硬直していた。そう、その顔が見たかったのだと自然とこちらは笑顔になってしまった。服装を整えると鞄を持って部屋を出ようとした。
「っ舞……」
「あ、そうだ、大変残念な事にあたし処女じゃないから。最後に小説、何だっけ、リトルグレイトセル、何とか、あれクソ気持ち悪かったよ、覚えたての言葉使いたい中学生みたいで。すごいねーあんなつまらないモノあんな量書き続けられるんだ、尊敬するよ。じゃあね、マザコン君」
 笑顔で手を振りながら部屋を出た時に見た立花君の顔は傑作だった。絶望というか驚愕というかどうとも言えない最高の顔。あんな顔出来たらきっともっと素敵な小説が書けるのではないだろうかと思う。荒く脱がさせられた性器に張り付いているコンドームのピンクと制服の黒の対比が滑稽で綺麗だった。早足でカラオケ店内を抜けると、そのまま駅まで早歩きで進んで電車に飛び乗った。
 全部計算していた、立花君の反応、カラオケを抜ける時間、カラオケから駅までの徒歩でかかる時間、それに合わせて電車が来る時間、それが全て想定通り進んで半笑いで電車の席に座ると笑い出したい気持ちを抑えた。声を上げて笑いたい、何だあの顔、想定通り過ぎて何も面白くない、こんなに上手くいくものか、童貞、矜持、プライド、全て奪ってやった、楽しい、最高に楽しい、あたしを裏切った奴の末路に相応しい。トラウマになれ、もっともっと可哀想になれ。大好きなママに話せない仕打ちで悩め、綺麗な思い出を全部汚せ、ああ声を上げたくて仕方ない。最低の童貞喪失を貴方にプレゼント出来てあたしは死ぬほど楽しいよ。性器のひりひりとした痛みも、ゴムに付着したローションの感覚も、立花君の力無い腕も、最高のスパイスでしかない。
 笑い出してしまいそうな顔を耐えて、電車内で荒い呼吸を繰り返した。
 あたしは祖父母の家の最寄駅で降りると、そのままそこに向かった。笑いたい気持ちと虚しい気持ちが共存して、誰でもいいからあたしに問答無用で優しくしてもらいたかった。無償の愛に包まれたくて、早足でおばあちゃんの家に着いた。
「あれ、どうしたんけー」
「ただいまー。暑っいーお風呂入りたくて、おばあちゃんお風呂入っていい?シャワーでいいから」
「ええけど、夕飯食べてくけ?」
「うん!」
 あまり顔を見れないまま風呂場に入ると全てを脱ぎ捨てて熱いシャワーを頭からかぶった。おばあちゃんの顔をまともに見たら泣き出してしまいそうだった。他愛も無いと思っていたけれど、身体を張ることはあたしの精神を大きく削り取っていたみたいだ。あの最高だった興奮と笑いが血と一緒にざぁっと引いていった。
 シャワーが熱い、頭皮が熱くてたまらない、出せる最高温の温度のお湯を頭からかぶって、汗と全てを流した。指を性器の中に入れてコンドームに付いていたであろうローションをかき出した。お湯の湯気が辺りを包んで、あたしの表面を熱いお湯が流れ落ちていく。
「ちくしょう…………身体……張らねぇと…っっ……何も出来ねぇ……のかよ……」
 涙と鼻水が出てきたが、熱いお湯で全てを流した。この虚無感は夏と熱湯には不釣合いだ。
「何で……あたしが……あたしが……」
 鼻水をすすっていると、風呂場の外からおばあちゃんの舞ちゃんスイカ食べるけーという声が聞こえて、涙が更にあふれた。何の重大事件も無い、何も無い、晩夏光の厳しい日なだけだ。今日はあたしにとっては何の大きな出来事なんてない、ただ熱いシャワーの熱量だけは忘れない日だった。失われた水分を補ったスイカは、薄い甘さでとろりと喉を通り抜けた。痛々しく赤くなったあたしの肌は湯気を出しながらスイカと同じ色をして、中に通る血液を表しているみたいだった。
 あと数日で夏休みは終わりの日、あたしは陽炎のような思い出を叩き潰した。残ったのは終わらせた課題と読破した冊数と大量の紙屑で、紙屑は後日燃えるごみに出した。

       

表紙

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Neetsha