Neetel Inside 文芸新都
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Perspective

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 凪

 この世界ではもう生きていくことなんてできない――。
 夏(なつ)原(はら)凪(なぎ)は、ふとした瞬間にそう感じた。それは抗いがたく、決定的で、ほとんど直感によるものだった。彼女は、夏休みの近づく美術室のアトリエでそれを知った。目の前にはまるまる一カ月をかけて完成させたばかりの油彩画があった。抽象絵画だが、一目見た瞬間にその人の心をとらえ、放さない、観賞後も身体と心のどこかに、美しい滴のように残ることのできる絵だった。あざやかな色彩と、彼女固有のものである繊細な、それでいて自由奔放なタッチは、コンクールに出展すれば今回も何らかの賞を彼女にもたらすことを予感させた。高校三年生の凪は、小さい頃から美術に親しんできた。両親がともに芸術分野の人間ということもあり、物心つくころにはもう鉛筆や筆を握っていて、絵を描くことは彼女にとって呼吸と同じくらい自然な行為だった。この高校には理系と文系に加えて芸術系のクラスがあり、凪はそこに在籍していた。冬には私立の美術大学を受験する予定だ。すでに彼女は合格圏内にいて、別の大学からは推薦入学の話も来ていた。凪はこれまで、すでにいくつものコンクールで入選を果たしていたし、そのデッサン力も確かだった。鉛筆を使っていても、色が見えそうなほど彼女の素描はきめ細やかで、見る者の感性に新しい風を吹かせることができた。それは努力というより、彼女固有の、生まれつきの才能だった。凪もそれを知っていたが、決して鼻にかけたりはしなかった。彼女はただ絵を描きたかっただけで、賞や推薦入学の話は、これまで凪がやってきたことのいわば付随物だった。たしかに、進む道がすでに決定していることは彼女にとってありがたいものだった。
 しかし凪は悟ってしまった。彼女や、同じ年頃の少年少女が、もっとずっと後、大人になってから知るような、あまりにもやりきれないこと。それらをひとつのイメージに凝集したような観念を、凪はその一瞬でつかみ取ってしまった。彼女は自分たちの未来を見たし、大人の現在を見た。いままで、正の要素だけで成立していると思っていた世界は、実はそうではなく、大いなる負のエネルギーとともに存在しているということを知ってしまった。それはどうしようもない部類のもので、この世界が存在するためにはなくてはならないものだった。しかしそれでも、彼女は打ちのめされないわけにはいかなかった。凪が知ったのは、これから先何十年にもわたって彼女や、ほかの同級生や下級生、もっと幼い少年少女を苦しめるに違いないものだった。彼女は、大人がなぜ自分たちほど頻繁に笑ったり、走り回ったり、飛び跳ねたり歌ったり踊ったりしないのか知ってしまった。そもそも、彼女がいままで思っていた大人と、今知ったほんとうの大人は、あまりにかけ離れたものだった。所詮、自分が見てきた愛すべき、美しい、希望に満ちた世界はまやかしにすぎない。それは子どもの持つ、いわば能天気な、幼い身体と脳が見せる幻なのだと知ってしまった。彼女は自分がたった今描きあげた絵を通してすべてを知覚した。現実は子どもに夢を見せるためになど存在しておらず、むしろそれを打ち砕き、破壊するためにあるのだと知ってしまったのだ。凪は、これまでの自分がいかに護られ、愛され、風雨や嵐、雪や猛暑といった過酷な環境から遠ざけられていたのかを知った。人間も結局のところ動物にすぎず、避けがたい障害や災害によっていとも簡単に死んでしまうことを知った。そして、彼女は生きることそのものがいかに危ういことであるかを知ったのだった。どうとでもなりそうな、無限に広がっている、今にしてみれば浅はかな、凪たち高校生が抱くような夢は、映画館で上映される娯楽作品のほうがまだしもましであると言えるほど、根拠のない、脆弱なものなのだと気がついた。凪はまわりの大人が欠落した存在であることを知り、その多くが信念など持っていないことを知り、堕落していることを知り、同時に、かつては自分たちと同じように無垢な学生であったことを知った。それは言葉などでは到底説明しきれない、根源的な感覚だった。作品を介することでまだしも表現できるかもしれないが、問題なのは受け取る側がそれを正しく解釈してくれそうにないことだった。理性で解釈したのでは何の意味もないのだ。感覚として伝えなければならない。そしてもっと問題なのは、凪自身にここまで衝撃を与えたのは、これを知り、誰かに伝えたところで何がどうなるわけでもないということだった。この世界はこれまでもずっとこうだったのであり、これからもそれは永遠に変わらない。凪は地球上のあらゆる問題がなぜ発生するのかを一瞬にして悟ってしまった。そもそもそんな問題が、じっさいに存在しているなどと考えもしなかった凪は、あまりにも重たく、のっぴきならない事実に、床にへたりこんでしまった。何をどうしたところで変えられないものがある。そんなことを彼女は生まれて初めて知った。絵を描き続ける人生を無自覚に歩いていた夏原凪は、突如そんな啓示を受けたのだった。
「遠い場所に行きたいな」すっかり打ちのめされた凪は、気がつけばそうつぶやいていた。「ものごとがこんな風に成り立っていない場所、ついさっきまで私が考えたり、空想していたような世界に行きたい」
 しかしそれはもはや叶わぬ夢だった。たった今抱いた。新しい願いは、それを抱いた理由そのもの、凪がこの世界のなりたちを知ってしまったことによって跡形もなく打ち消されてしまった。凪にはそれもよく分かった。彼女は普通の人よりずっと早く欠けた存在となってしまった。年齢的にはまだ子どもに含まれていたが、彼女は大人になってはじめて身についていくような感覚を有してしまったのだ。そして、これについて彼女はまだ気づいていなかったが、この瞬間をもって彼女は芸術家となった。
「どうすればいいんだろう」凪はまたつぶやいた。絵を描いている間、彼女はしばしばひとりごとを口にしたが、今のそれはこれまでとはまるで性質の違うものだった。彼女は床に視線を落とした。梅雨が明けたばかりの空から、陽の光がさんさんと降り注いでいた。それは開け放った窓を通り、リノリュームの床に反射して、天井にまでゆらめく光を投げかけていた。窓際にある水槽は藻ばかりが浮いていて、緑に濁っていた。何も飼われていない水槽だった。それをぼんやり見つめているうち、凪はこの一瞬が永遠であるかのような錯覚を覚えた。そうか、と彼女は思った。だから彼らは作品を世の中に残してきたんだ。ピカソやミレイ、ゴッホにルノワール、ルソー。トルストイ、ヘッセ、カポーティにサリンジャー、太宰治。ベートーベンからロバートジョンソン、ジョンレノン。まだ無自覚な凪自身の芸術的本能が、そう告げていた。
 そうして、凪は歴史上のありとあらゆる芸術家を思い浮かべた。中には彼女の知らない作家も数多くいたが、それはこの場合何ひとつ問題ではなかった。宮崎駿や坂本龍一、村上春樹まで思い浮かべた時、彼女はあることを決心した。
「死んでしまおう」

     

 榛

 凪の通う経川南高等学校には、彼女の在籍する美術部以外にも数多くの文化部がある。科学クラブもそのひとつだった。凪のいる美術部には十数名の部員がいたが、科学クラブにはたったの二人しかいなかった。ほんの十年前、まだ娯楽も少ない時代には、多くの生徒が集い、この化学室で部活動という名目の談笑、およびトランプ等の遊戯に興じていたが、それは今や見る影もなかった。時の流れによる栄枯盛衰が無視できないものであるのと同じく、科学クラブも今や風前のともしび同然の状態だった。化学室には夏の空気が入り込んできていた。全面開け放たれた窓からは、時折思い出したように、なまぬるい風が吹いた。
「暑いっすねえ」窓から半分身を乗り出しながら、三(み)崎(さき)榛(しん)は言った。高校三年の男子にしてはいささか頼りのない声だった。彼は夏服である半袖シャツのボタンを上から二つ開け、裾をズボンから出していた。足元では上履きをつぶして履き、靴下は履かずに裸足だった。榛は窓枠に両腕をかけ、恨めしそうな顔で夏の空を見上げていた。しかめつらをしていなければなかなかいい顔立ちだった。鼻梁が通り、目は切れ長、輪郭もなめらかで、雑誌のモデルになったことがあるといえば、二百人に一人くらいは信じなくもないだろう。体育会系さながらの背丈だったが、榛は生まれてこのかた運動部に入ったことも習い事をしたこともなかった。もちろん運動が得意でもない。だから科学クラブに入っていたが、かといって研究熱心ということもなかった。ほとんど在籍しているだけといってもいい。
「そりゃ夏は暑いよきみ。当たりまえのことを言って気を散らさないでくれ」
 先頭の教師机から、榛とは別の声がした。同じく高校三年生の男子で、科学クラブの部長である中(なか)田(た)秋(あき)斗(と)だった。眼鏡の似合う、理知的な顔立ちの生徒だ。日頃はほとんどの生徒から部長と呼ばれている。というのも、秋斗はこの部活動で数々の発明をし、高校生発明王コンクールや化学グランプリなどで多くの賞をもらっていた。校内や近所では有名人だ。科学クラブは現在、ほとんど彼だけのために存続している部だった。多くの生徒は榛がいることを知らず、唯一「部長」たる秋斗だけが在籍しているものと思っていた。経川南高校では、美術部の夏原凪と、科学クラブの中田秋斗の二人が、その存在を校内外問わず知られていた。部長は新しい発明の真最中で、暑い顔ひとつせずにはんだごてを使って作業に励んでいた。「しかし素晴らしい季節だ。夏。僕は秋斗じゃなくて夏斗って名前がよかったとも」部長が言うと榛は、
「俺は嫌です、それ。年中夏の暑さにまとわりつかれてるみたいで」
「ほう。というときみは夏が好きじゃないのかい」部長は榛を見もせずに言った。
「だって暑いですもん。それに今年は受験ですよ。この後予備校行かなきゃいけないってだけでうんざりです」榛が敬語で話すのは、彼と部長がヒラと上司の関係にあるからではなく、部長が普通の高校三年生よりひとつ歳が上だからだ。部長は高校一年生の頃に一度留年している。榛は入道雲を恨めしそうに見上げ、「夏休みがあるから、多少暑くてもチャラにできたのに」
「僕は好きだがなあ。夏、夏だよ榛くん、高校生と夏といえば黄金の組み合わせだと思わないか」
「甲子園とかありますもんね」榛はぼそっと言うと、制服を煽いで胸元に風を送り込んだ。
「何も球児だけではないさ、我々は二度と訪れない時間の連続の上にいるのだから。いつだってそれは貴重なものさ。それに、映画や小説にしたって、冬より夏の物語のほうが僕は好みでね」部長ははんだごてを置くと、「よしできた」
 黒い筒のような物体を取りあげて部長は言った。榛は目を丸くして、「何ですかそれ」
「顕微鏡のように精細なズームが可能な望遠鏡、顕微望遠鏡だよ」部長は言って、榛のほうへ顕微望遠鏡の端を向けた。榛は口をOの字に開けていた。部長はピントを合わせて、
「ほほう。きみの下の歯には銀歯が二つあるね。小さい頃ちゃんと歯磨きしなかっただろう?」と言った。榛は慌てふためき、「な、何ですかそれ。人の口を勝手に見るなんて、プライバシーの侵害ですよ」
「何を言う。きみと僕の仲じゃないか。この二年間苦楽を共にしてきただろう。黄金コンビだ。おかげで数々の賞をかっさらってきたではないか」
「俺はほとんど雑用でしたよ。すごいのは部長のほうでしょう。部長の存在はみんなに知られてても、俺は空気同然ですから」榛は両手を開いて言った。
「無理もない、きみは文系だものな。このクラブに入ってきたのだから、てっきり理系に進むと思っていたのに」部長は顕微望遠鏡をのぞいたまま肩をすくめた。「まあ内助の功だ。どんな偉大な研究も助手無くして成功はしないからな。きみのおかげで、僕はこれまでずいぶん色々なものを作り上げることができた。どれも僕らがいなければこの世に存在しなかったものばかりだ。あの念力で飛ぶヘリコプターを作った時は楽しかったなあ」部長はけらけらと笑った。「よし榛くん、完成記念だ。これを君に使わせてしんぜよう」
 部長は顕微望遠鏡をくるくる回してつかみ、「これのすごいところは手ぶれ補正だ。通常、望遠鏡というものはズームすればするほど、夏場の蚊のようにふらついて、焦点なんてまるで合わなくなってくるが、そのあたりの問題はばっちり解決しておいた。まあ使ってみたまえ。フリーハンドでもまったくブレない。遠いクラスにいる女子のシャツに透けるブラジャーまでばっちり見えるぞ。それどころか彼女の肌のハリつやくすみまでばっちりだとも」
「本当ですか……それはありがたい」榛は澄んだ瞳で部長を見た。目の前で繰り広げられた手品師の手練に感激する小さい子のようだった。「さすがは部長様です。俺幸福です」両手をすり合わせると、榛は部長を拝んだ。部長は口の端で笑い、
「校内にも、出来上がったら売ってくれという不埒な男子生徒がたくさんいるからな。さて、実売価格はいくらに設定しようか。わりとチープな材料だが最低二万はほしいな。利用は自己責任でと但し書きを添える必要があろう」部長は榛の近くへ歩み寄り、顕微望遠鏡を渡した。「かのエジソンを超える発明王になるのが僕の夢だ。なあ榛くん、人には夢が必要だと思わないか?」部長はそう言って笑った。
「部長ならやりかねませんね」そう言いながら、榛は顕微望遠鏡を受け取った。
「ここを右に回すとズームインで、左がズームアウトだ」部長は顕微望遠鏡の中ほどを示して言った。「ちなみに僕がここから試してみたところ、校庭の陸上部女子なんかおすすめだ。だいたいのおいしいシーンはばっちり見えるぞ」
「おおー、これはすごい」榛はツマミをいじりながら校庭をあちこち眺め渡した。草木の生えない殺風景な地面、すなわち校庭には、百花繚乱と言わんばかりに、ヤグルマギクにタンポポ、アヤメにチューリップと形容したくなる、部活動にはげむ少女たちの運動風景があった。その瑞々しい美しさと可憐さ、無垢な心が作る何とも言えぬ耽美さに、榛は人生の喜びを享受した。一瞬一瞬にこの世の永遠があるようだった。肩までまくりあげた袖からのぞく二の腕や、まだ育ちきっていない胸、大人には達しないあどけない笑み、軽やかでありながら適度な質量を感じさせる動き。榛はうっとりしてため息をついた。
「神は罪深くも美しいものをおつくりになりました」榛が鼻の下を伸ばしていると、
「ああ榛くん、知っているだろうがトイレは隣だからな。色々こみあげるものがあったら適当に処理してくるがいいぞ。この階はほとんど人が来ないからな。耽っていても問題ないだろう」部長は机に戻ってはんだごてやねじ、ドライバーにレンズといった作業道具を片づけ始めた。榛はしばらく地上の楽園を堪能していた。優美な曲線を描く、少女たちの若き肢体は、夏の夕日を受けて青春真っ盛りにきらめいていた。榛は首筋にきらめく汗の光までをばっちり堪能した。そして、何気ない調子で校舎のほうへ顕微望遠鏡を向けた。屋上を見た榛は、そこにも一人、少女が立っていることに気がついた。
「夏原さんだ! ねえねえ部長、夏原さんが屋上にいますよ。相変わらずかわいいなあ」
 屋上にいたのは夏原凪だった。興奮していた榛は、夏原凪がなぜそこにいるのかということにはまるで思い至らなかった。片づけをしていた部長は、榛の言葉を聞いて手を止めた。「榛くん、屋上と言ったか?」窓際に歩み寄ると、部長は屋上へ目を凝らした。「榛くん、顕微望遠鏡を貸したまえ。何か様子がおかしいぞ、彼女」
「何言ってるんですか部長。なんという愛らしさ。夏原さんってけっこう天然なんだよなあ。一回くらい同じクラスになりたかったなあ。俺話したことすらありませんよ」などと言って榛は部長に取り合わなかった。榛は凪が屋上にいることも、フェンスの外側にいることも不思議だと思わなかった。屋上から、まるで世界を見透かすように校庭を眺める凪の姿は、榛にとっては天使も同然に見えた。
「あれは、もしかしたら飛び降りる気じゃないか?」部長が言った。
「何言ってんですか部長。そんな嘘でこの顕微鏡取り返そうったってだめですよ」
「顕微望遠鏡だ」部長は榛の言葉を訂正した。顕微望遠鏡を取り返すことをあきらめた部長は、もういちど目を凝らし、屋上を見つめた。夏原凪は屋上のフェンスを越え、コンクリートのヘリに足をかけていた。
「うはっ、美しい太もも!」榛は鼻の下を普段の倍に伸ばして言った。
「榛くん、行くぞ。今なら間に合う」部長は言った。榛は不思議そうに、「何がですか。俺ならもう間に合ってますから気にしなくても」
「いいから来たまえ!」部長は榛の腕を引っ張った。

     

 凪

 屋上からは街の景色が眺望できた。夏の青空と、わきあがる白い雲の下、こぎれいに区画整備された家々が見えた。そのすぐ近くにはモノレールの線路が走っている。多磨地区を南北に走るその路線は、まるで近未来の小説か映画に出てくる乗り物のようで、凪はとても好きだった。モノレールに限らず、凪はこの街も、人も、空気も、何もかも大好きだった。小さい頃に東京に来てから、長い間この街で暮らしていた。はじめはここまで近代的な街並みではなかったが、凪が成長するにつれ、まるでそれを祝福するかのように街も成長した。今ではすっかり綺麗になったこの街は、凪の感性をふるわせ、彼女の作品につよく影響した。凪は空想の世界や、植物や、人やお店や、そんな光のあふれるものをモチーフにして、天衣無縫に絵画を描いてきた。これまでのところ、彼女の人生には迷いがなかったし、彼女はとても幸福だった。毎日は楽しいものだったし、これからもそのように続いていくと信じていた。しかし、それはもう過去のものだった。凪はすべてを感じ取ってしまった。私が今こうして見ている風景は、結局のところ幻にすぎない。それは大人になるあいだに、移ろい、流れ、消えていく定めにあるのだ。夢が覚めれば、そのあとにはただ己を消耗するだけの世界が待っている。人間の一生においては、そうして失っていく日々のほうが遥かに長く、重たい。そして、そんな毎日には終わりがない。いつか、心や身体からは生命の輝きが消え、希望はしぼみ、疲弊するだけの暮らしに身を置くことになる。凪ははっきりとそれを感じ取った。
 西に傾きかけた太陽の光が、凪の白い肌を焼いた。しかし彼女は暑いと思わなかった。彼女は知ってしまった「ほんとうの世界」から、ただ冷たさだけを感じていた。それは暗くやりきれない場所で、救いがない。凪は脊髄から、自分の四肢まで、身体が少しずつ凍っていく気すらした。これが本当の世界の冷たさなのだ。彼女は思った。私は、私たちはこれからそんな場所に放りこまれるのだ。たくさんの人が孤独になる場所。たった一人で、よるべもなく、じっと耐えなければならない場所。春のこない冬。そんな世界で、私はきっと動けなくなるだろう。それらは私から自由を奪う。喜びを奪う。夢を奪い、すべてを奪う。そして、いつか私は絵を描くことの喜びを感じなくなる。
 だからその前に死ななければならない。まったくもって、自ら命を経つというのは人生の正当な結末である、と凪は思った。今まではニュースで目にする年間自殺者の数だとか、失業者の割合とかいったものがよく分からなかった。しかし凪は今でははっきりと、まるで彼ら自身になったかのようにそれが分かった。この世界で、死ぬ以外ほかにどんなまっとうな選択肢があるのだろう? 仮に一度や二度危機を回避して、つかの間の安息を得たところで、今度はもっと巨大で深い闇が私たちを飲みこむのだ。それは前よりつよい力で私たちを吸いこもうとする。身体から力が抜けて、血の気が失せて、心がからっぽになる。死にものぐるいで這いだして、また休息を得る。そんなことを繰り返すうち、すっかり擦り減ってしまうのだ。そしていつか、子どもだったころの明るい世界はすっかり失われ、心のない、魂の消滅した、時の牢獄とも呼べる生の余白だけが私たちを待ちうけるのだ。だから大人は笑わないんだ、と凪は思った。彼女の両親はどちらも優しく、大らかな人間だったが、彼らにしたって凪の知らないところでは別の顔を見せているかもしれない。仮にそうではないとしても、別のところでは別の誰かが、確実に今も苦しんでいるのだ。それを知ってどうして笑うことができよう? そこまでして生きて何になろう? 凪はもう一方の足を蹴って、屋上のへりに上がった。校庭ではサッカー部や陸上部、野球部が練習に打ち込んでいた。彼らもやがて大人になる。そうなればあんな風に無邪気に運動したり、笑ったり冗談を言ったりしなくなるだろう。日常におけるのっぴきならない悩みだけではなく、世界がどうしたって暴力的であること、人は時の流れの中で無情にならざるを得ないこと、子どもの頃描く世界は幻想でしかないこと。それらを知って、すっかり損なわれてしまうだろう。そして彼らは今、そんなことなど夢にも思っていないのだ。大人になる。彼らはそれを頭では理解することができるけれど、今はまだ、それがどういうことだか身体で感じることはできない。ただ一人、凪を除いて。
 凪の頬を涙が伝った。誰にも見られることのない涙だった。凪は思った。こんなものがこの世界にはいくつもあるはずだ。今この時だって、誰にも気づいてもらえずに苦しんでいる人たちがたくさんいる。助けを求めても誰にも振り向いてもらえない人々がいる。私たちが笑顔でいられるのは、それを知らないからだ。もともと、私たちは全員で生きるために存在しているわけではない。生まれた者のうち、誰かが幸福になり誰かが不幸になるのだ。そこから弾きだされた者は、底のない闇に落ちていくしかない。
「さよなら」
 凪は言った。そして次の瞬間、地上に身を投げた。

     

 榛

「急いで下へ降りるんだ、榛くん!」
 部長がそう言ったのはほんの一分前のことだった。何が何だか分からぬまま、階段を大急ぎで下ろされた榛は、いつになく真剣な部長の様子に驚きながら、必死で彼の後を追った。榛は「いったいどうしたんですか部長」などと口走っていた。榛は先ほどまで自分が浮かれていたことや、顕微望遠鏡を手に持ったままでいることも忘れ、無我夢中で走っていた。部長はそんな榛よりもずっと速く階段を下り、昇降口を出て上履きのまま校庭にすっ飛んで行った。彼が事態の大きさに気づいたのは、屋上から何かが急加速して落ちてくる間だった。校庭の端から榛はそれを目撃した。ほんの一瞬だけ、それは空中で静止するように見えた。無限のような一瞬だ。このとき直感的に、榛は取り返しのつかないことが起きていると悟った。それが夏原凪だと、この瞬間には思わなかったが、身も凍るような恐ろしい結果になると、まるで電撃が身体を走り抜けるように榛は感じ取った。そして、すぐさまそれは急加速して、地上に一直線に落ちていった。
 死んでしまう。
 そう思った直後、着地地点で何かが爆発的な膨張をした。榛には見覚えのある光景だった。すこし遅れて、榛はそれが部長の発明品であることを思い出した。
 二年前の発明品である「ハイパークッションボム」。当時の部長の説明を榛は回想する。
『榛くん、これは画期的な発明品だぞ。その名もハイパークッションボムだ。使い方は簡単、ピンを抜いて任意の場所に投げつけるだけだ。それだけでその場所にクッションフィールドが展開される。するとどうだ、救難時に助けを求める子らが助かるのだ! 僕はかつてニュースで高層ビルの火災現場を目撃して以来、ずっと何とかしたいと願ってきた。梯子車の梯子が届かないとか、救助隊員が間に合わないとか、そんな理由だ。これは試作品だからな、高層ビルから落ちる人を受け止めるほどの強さはない。しかしそれでも、雑居ビルくらいの高さから落ちる人を受け止めることならできるだろう』
 ハイパークッションボムだとか、巨大な空気マットをクッションフィールドとか呼ぶ部長のセンスはさておき、この発明は素晴らしい、と榛はあらためて実感した。世に出した当時、市長から表彰されただけのことはある。
 ともかく、屋上から飛び降りた夏原凪は、クッションフィールドに軟着陸し、事なきを得た。飛び降りに気づいた生徒が何人か悲鳴を上げたが、凪自身は無事だった。榛はそっと、クッションフィールドに落ちた凪の様子をうかがった。まっ白な、小作りの顔がそこにあった。横を向き、目を閉じている。気を失っているようだが、無事らしい。榛は胸をなで下ろした。学生服のスカートがずいぶんまくれ上がっていて、そこから華奢な脚がきわどいところまで覗いていることに気づくと、榛は慌てて目を反らした。
「やったそ榛くん! チームワークの勝利だ!」部長はガッツポーズをして榛の肩を叩いた。「チームワークも何も、部長のお手柄じゃないですか」榛は目の前で起きた事の大きさに驚きながら言った。部長は笑顔のまま首を振り、
「何を言うか。きみが気づかなければ僕が彼女の落下をあれで救うこともなかった」クッションフィールドにに教師が駆け寄ってくるのを眺めながら部長は言う。「いいか榛くん、力というのは、誰かがそれを持っているだけでは意味がないのだ。他の誰かと結びつくことで初めて効力を発揮する。やっていることが雑用だろうが何だろうが、きみの力は必要だよ。我々も二年以上のつき合いだ、いい加減分かってくれてもいい時期だと思うんだがね」部長はそう言うと眼鏡を外した。今年の二月、バレンタインで学内一位のチョコ獲得数を誇った容貌があらわになると、近くの女子生徒から黄色い声が起きた。榛はため息をつきながら、「いいえ、それでもやっぱり俺は雑用ですよ」と肩をすくめた。
 榛と部長は間もなく職員室に呼ばれた。事情を聴く役目になったのは、凪の担任である女性教師、一ノ瀬だった。まだ二十代の独身で、男子生徒を中心に人気がある。
「あなたたちが夏原さんを助けてくれたのね。ありがとう」来客用の椅子に榛と部長を並んで座らせると、一ノ瀬はロングヘアを後ろに描き上げて言った。色っぽい……と榛は思った。彼女が使っているシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
「彼女、無事でしたか?」部長が言った。こうして教師と話すのは部長のほうが慣れていた。毎月のように表彰されているうえ、成績もよく、推薦入学の話がいくつも来ている、となれば教師から好かれない理由がない。一ノ瀬は頷いて、
「ええ。気を失っているから。今は保健室で安静にしているわ」
「それはよかった」部長は言った。「榛くんが千里眼で目ざとく見つけてくれたんですよ。彼女の飛び降りを」部長がそう言って榛の肩を叩いた。榛は顕微望遠鏡をまだ持っていることに気がついた。そして自分がそれを使って何をしていたか思い出した。彼は部長の発明品を慌てて背中に隠した。「偶然でしたけどねはははは」榛は自分でもびっくりするくらいの、あからさまな演技口調で言った。
「ありがとう」一ノ瀬はほほ笑んだ。榛は謙遜の言葉を二、三口にして、「それにしても、なぜ夏原さんが飛び降りなんかしたんですかね?」
「そうね。私もそれが気になって」一ノ瀬は顔を曇らせた。「知っているかもしれないけれど、夏原さんはとても真っすぐで素直な子なのよ。絵であれだけの才能を発揮しているのは、彼女の生来の気質によるものだと私は思うの。夏原さんは人を疑ったりしないし、ずるいことも考えない。だからいじめられていたとか、そういうことではないと思う。家庭の環境が悪いってこともないと思うわ。彼女のご両親とは話す機会が何度かあったから。とても大らかな人たちなのよ。だから、どうして夏原さんが飛び降りたのか、私にもよく分からないわ。このままいけば問題なく卒業も進学もできるし、将来だって明るいはずよ」一ノ瀬は足を組んだ。ミドル丈のスカートから何ともいえぬ色気が漂っているのを榛は生唾飲んでこらえた。「まあとりあえず、彼女が目覚めないことにはね」一ノ瀬は言った。「そうだ、あなたたち名前は? あなたは中田くんで、ええとあなたは」
 榛のほうを見て一ノ瀬は言った。このような反応には慣れっこだった榛は、「三崎です。三崎榛」すると一ノ瀬は思い出したようなそぶりで、
「あ、そうよね、三崎君。ごめんなさいね」明らかに初めて知ったようだったが榛は愛想笑いをした。榛が名前を知られていた確率など十パーセントもなかった。
「夏原さんが目覚めたら、あなたたちが助けてくれたと伝えておくわ。今日は本当にありがとう」
 窓の外では、夕方に近づいた空を旅客機が飛んでいた。榛は夏原凪がなぜ飛び降りたのか知りたいと思いつつ、この後予備校に行かなければならないことを思い出し、憂鬱になった。

 将来有望な天才画家が飛び降り自殺を図った、という噂は、翌日以降またたく間に校内に知れ渡った。それは榛のいる三年五組においても同様で、まことしやかな噂がいくつも、まるで週刊誌の見出しのように多種多様な形を持って飛び交った。たとえば、ほんとうは両親と不仲で家庭崩壊寸前にあったとか、賞を取ることで積み重なっていくプレッシャーに押しつぶされそうだったとか、実は芸術などに興味はなく、周囲に描かされていたのが苦痛だったとか、どれももっともだが何ひとつ真実性はない、と榛には思われるエピソードばかりだった。
「そんなわけないじゃない。普通に考えれば分かることよ」そう言ったのはクラスメートの女子、茅(ち)野(の)里(り)央(お)である。彼女はつい最近バスケ部の部長を引退したばかりの、活力あふれる生徒だ。凛とした意志の強い顔立ちに、長髪をたばねたポニーテールが、クラスの中でも存在感を放っていた。彼女は榛の隣の席だったが、女子のグループに入って噂話をするようなタイプではなかった。孤高の一匹狼、というと大げさだが、常に大勢に流されないところが個性的で、魅力的だった。「ねえ、三崎くん?」急に里央は榛に話を振った。授業中だろうが何だろうが話したい時に話すのは里央の特徴だった。ゆえ、たびたび榛は当惑した。今が休み時間で助かった、と思いつつ榛は、「ごめん、何の話だっけ?」
「夏原さんの飛び降りについての噂よ。みんな言いたい放題だわ。人ってどうして大勢集まると実体のない流れみたいなものを生み出すのかしらね」などと言いながら里央は腕組みをした。榛は里央と話すことが楽しかった。榛はさも考え深げな顔をしながら、
「俺も茅野さんと同じこと思うけど。でもさ、そういう噂話してるほうが楽しいんじゃないかな。噂に何も根拠がなくても」そう言ってから、これでは里央の感情をより昂らせるだけだと思った。案の定、「それよそれ! 何で、どうして。仮にも同じ学校の生徒でしょう。どうしてそんな適当な根も葉もないことを言えるの? そういうのが大人になっても残るのよ。誰のためにもならないわ。ねえ分かる三崎くん、こういうの?」
 やっぱりだ、と榛は思い頭をかいた。こんな風に、授業中にうっかり里央を刺激してしまった時など、間違いなく教師に二人セットで教科書の問題を当てられる。里央は相応に優秀なのでさらりと答えてしまうが、榛はそうもいかない。結局、榛の分も里央が答えてしまう。
「うーん。そうは言ってもさ、茅野さんみたいに自分の意見をきっちり通すのって難しいよ。だって、そういうの恥ずかしいじゃない?」
「私に言わせれば大衆に紛れているほうがよっぽど恥ずかしいわ。馬鹿みたい。平均点取りたがったり、授業で当てられるのが嫌だったり、委員会やりたがらないとか。そのくせ人の悪口だけは一人前なのよね。だったらあなたがやってみろって話よ。ふんっ」
 素敵だ、と思い榛は頭をかいた。実は里央にはかなり多くの隠れファンがいることを榛は知っていた。しかしあまりにも主張が強い子なので、誰も彼女に告白したりはしなかった。当の里央は頬杖をついて黒板を眺め、「私、夏原さんと話したいなあ。三崎くん、そういえば、あんな風に噂してる子たちって、絶対その本人に直接話したりしないのよ。訊けば一発で分かることでもさ。どうしてかしら」
「そういえばそうだね。後ろめたいのかな」榛は自分にもそんな心当たりがあるなと思いながら言った。そして、それらはみな何人かで集まって話をしている時にしか起こらないことだと思った。なるほど。
「ねえ、これって日本特有の現象なんじゃないかしら? 誰か一人を疎外して、その人を影でこそこそ笑うの。って、私外国行ったことないしよく分かんないけど」里央は窓際で女子のグループがくすくす笑いを浮かべるのをうらめしそうに眺めながら言った。どう見ても爽やかな夏と青春の一ページのような光景だったし、榛にはそれだけで口元が緩みそうなほほえましさだったが、里央はそう思わないらしい。
「俺も外国行ったことないなあ。あんまり行きたいとも思わないけど」なにせ榛は今の生活がけっこう好きだった。学校でクラスメートと話し、自分の成績の悪さに苦笑し、たまに友達と会ってゲームをし、放課後は科学クラブで部長の手伝いをする、この毎日が。だから、里央のように現状に対する不満を抱く理由が、榛には実のところよく分からなかった。

     

 凪

 凪は目を覚ました。自宅のベッドだった。いま何時だろう、と思いながら、彼女は今日、学校を休んだことを思い出した。そして、昨日屋上から飛び降りたことを思い出した。ものすごい勢いで地面に向かっていく、あの落下の感覚を全身が覚えていた。凪は身震いした。「なんて恐ろしいことをしたんだろう」彼女はつぶやいた。昨日、保健室で起きた後、駆けつけた医師の診察を受けて、問題ないことが分かると、続けざまに両親に抱きしめられた。両目いっぱいに涙を浮かべ、凪が無事でよかったと口々に言った。凪はその時、それがどこか自分とは別の世界で起きている出来事であるような気がした。彼女の身体感覚は、あの美術室での大いなる瞬間から、何もかもが変わってしまっていた。相変わらず凪にはこの世界が恐ろしく、不平等な、救いのない、嘆くべきものであると思われたし、それを誰かに話したところで何も変わらないと分かっていた。
 凪の両親は今日も仕事だが、娘を思いやるあまり今日は学校を休ませた。凪は午前中を浅い眠りとともに過ごし、目を覚ましたのだった。凪は学校で騒ぎになっているだろうか、と考えた。自分のせいで、両親をはじめ少なからぬ人たちに迷惑をかけてしまったことが、彼女には申し訳なく思われた。しかし、もし死んでしまっていたらもっと迷惑をかけていたのだと思うと、彼女の気持ちは揺れた。飛び降りなんて方法を取るべきではなかった、と凪は思った。でも、他にどんなやり方をしても何かしら迷惑がかかる。誰もが一度は死に、周囲の人に悲しみをもたらすのだ、と思った。そして、それならやはり、死ぬのは早いほうがいいのではないか、と考えた。老人になって、身体の自由も利かなくなり、よるべもなく、毎日を苦痛とともに生きるなら、いっそ若いうちに命を絶ってしまったほうがいいのではないか。まわりは悲しむだろうが、それはいつ死んだって同じだ。
「これは利己的な考えなのかな」彼女は言った。人のために生きる、という言葉を凪は思い浮かべた。命は天からの授かりもので、自分にどうこうできる権利はない、とか、そういう感じの文言だった気がする。たしかにその通りだと凪は思った。今、私は自分の力で生きてはいない。お父さんやお母さんをはじめ、たくさんの人がいるおかげで私もここにいられるし、絵が描ける。絵を褒めてもらうたび、凪は申し訳ないような気持になる。彼女は誰かのために描いているわけではなく、描かずにはいられないだけだ。だから、自分の絵の価値がどうとか、将来有望だとか言われても彼女にはぴんと来なかった。
 この世界がほんとうはどんな風であるかを凪は知ってしまった。これまでのところ、凪は森羅万象を目で見たまま、肌で感じたままとらえていたし、それについて何ひとつ疑いを持っていなかった。たとえばどうしてこの街にモノレールが走っているか、大きな公園があるか、人々が楽しそうに見えるか、多くの通勤通学者が駅を利用するか、ビルが建っているか、バスが走っているか、以前の彼女には分からなかった。それらの物事にはちゃんと存在理由があること、そのすべては人が動かしていて、その人々は絶え間ない人生の一時をそれぞれの思いとともに過ごしていること、そしてそれには少なからぬ苦痛が伴うのだということを、凪は何ひとつ知らなかった。彼女はそれらを景色として眺めていた。だからこそ幸福な思いをそこに重ねることができた。しかし、あの絵を完成させた今、霊的とも言える、宇宙の真理を垣間見るかのような永遠の一瞬に触れた今となっては、もう何もかも取り返しはつかなかった。凪は、自分が周囲の生徒よりずいぶん早く「欠けた」ことを知った。もう取り返しがつかないと思った。そう思うだけで涙が出てきた。もう普通の高校生のように無邪気に笑うことはできない。この先に待ち受けているものについて、目を背けるとか、あるいは知らないふりをしてやり過ごすことなど、到底できはしない。
「やっぱり生きていくなんてこと、できやしないわ……」凪はそう思わずにはいられなかった。彼女は布団に顔をうずめ、小さく肩を震わせた。彼女の部屋を包む静けさはかりそめのものであり、その背後には底のない闇が無限に広がっている。ちょっとよろけただけで、誰もがその闇に飲みこまれかねない。凪は胸が熱くなった。喉が詰まり、嗚咽が漏れた。止まれと思っても、むしろそう思えば思うほど、感情はほとばしるばかりだった。
 どれだけ泣いたか分からない。もともと繊細な感性の凪だったが、こればかりは受け止めるにはあまりに大きな問題だった。結局のところ、すべては移ろってしまうのだ。春に見られる出会いの桜も、にぎやかな夏の日差しも、かわいた秋の風も、手袋とマフラーに身を包む冬の寒さも、高校も大学も会社も主婦も幼稚園も老人も、こちらがのぞんでいなくとも、全部全部変わっていってしまうのだ。失っていってしまうのだ。
 前にも似たようなことがあった。中学を卒業する時のことだ。凪はふいに、このクラスメートとすごす時間はもう永遠に訪れないのだと身体で感じ、動けなくなってしまった。卒業式が終わり、体育館から出る時になって、凪は椅子から立ち上がれなかった。当時の友人が「凪ちゃん、ほら、行こう?」と呼びかけた。凪自身もそう思っていたにも関わらず、力が入らなかった。結局担任の女教師が凪を支えて教室まで連れ添い、様子を見ているうちに元通りになったが、その日一日、凪は何かがからっぽになったような感じを拭えなかった。ベッドの上で、凪はその頃のことを思い出していた。あれが前兆だったのかもしれない。あの時にそれだけで済んだのはさいわいだった。きっと足が止まって、何もかもできなくなっていただろうから。
 しかしもう起きてしまった。何もかも手遅れだ。私はこのまま美術大学に進むかもしれない。画家として、両親の恩恵に支えられながら、道を歩いていけるかもしれない。傍目にみればそれは幸福で、じっさい、何も知らないままでいられれば私もそう感じたかもしれない。でもちがうのだ。それは目に見える範囲の幸福でしかなく、そう知ってしまった私に何をもたらすものでもない。世の中には数えきれないくらい死にたがっている人がいる。またそれとは反対に、生きたいのに生きられない人がたくさんいる。今までもいたし、これからもいる。その存在を感じる。
(私にはどうしようもないわ。かといって、割り切って自分の道を進むなんてこと、できやしない……)凪は布団に身を沈めた。自分が百年生きた老婆になったようだった。それならいっそすがすがしかったが、彼女はまだ若く、純粋だった。

     

 榛

「休んでいるらしいね、夏原くん」部長が言った。毎日ある科学クラブの集い。榛は受験期に突入する憂さを紛らわせるために、ほとんど毎日顔を出していた。
「そうなんですか? まあ、そりゃそうですよね」榛はまた窓から身を乗り出していた。顕微望遠鏡を手にしてはいたが、校庭で無邪気に運動する若き乙女たちをじっくり観察する気は起きなかった。
「何かあったんでしょうか?」榛は言った。榛は凪のことを「かわいらしいうえに天才的な絵描きで手の届かないすごい人」くらいにしか知らなかったので、やはり榛のクラスメートと同じように適当な噂話をするくらいの想像しかできなかった。
「何かあったのだろう。人間は日常的に自殺を図るような生き物ではないからね」部長は淡々と言いながら、また研究に没頭していた。その姿を横目で見ながら榛は、部長のような人間に生まれれば人生はさぞ楽しかろう、と思った。
「悩みとかあったんすかね。天才とか言われる人でも」実のところ、榛にも凪の飛び降りに対する好奇心があった。彼女のようにかわいらしく、才能にあふれ、周囲に愛される存在が。いったいどうして。これでは自分も里央の批判対象だ、と榛は思った
「そりゃあるだろうさ。人間は考える生きものだっ、と」部長はノードパソコンのエンターキーを押した。プログラムを組んでいるらしかったが、榛には分かりそうもなかった。
「適当言ってませんか部長」
「何を言う榛くん。ははあ、さてはきみ、この僕には悩みが何ひとつないからそんな薄っぺらな回答しか用意できんのだとか考えているだろう」部長は榛のほうを見ていった。実に楽しげな目だ。榛は部長をちらと見て、
「な、何言ってます部長。そんなわけないですよははは」榛は嘘をつくのが苦手だった。
「きみにだって悩みはあるだろう?」部長は言って、ノートパソコンを閉じた。榛はぎくりとして部長を見た。適当に話していたかと思いきや、いつの間にか真剣になっているのは部長の性質だった。榛は逃げ口上を探そうと思ったが、思い浮かばなかった。
「受験が憂鬱です」榛はぽつりと言った。
「そりゃきみの歳なら誰でも憂鬱かもしれない」部長は両手を組んで、教師机に据え付けてある水道の蛇口を眺めた。
「部長も俺と同じ三年じゃないですか」榛が言うと、
「しかし僕は受験なんぞ正直どうだっていい。だから不安もなければ悩みにもならない」
 部長はまだ水道の蛇口を見つめていた。水滴がぽつっと落ちた。
 やはりこの人は常人と違うのだ、と榛は思った。彼は窓に背をもたせて、両肘を桟にかけた。青空を仰いで、
「俺はこの生活が結構好きなんです。だから変わってほしくないというか」
「それは僕も同じだ、榛くん。これ以上能天気にやってられる時間はそうそうないだろうからな。ま、大学ならまだいいが、そこから先は時間が経つにつれ懸念も増えるだろう」
 部長があまりに淡々と言うので、彼が本当に共感してくれているのか、榛は気になった。
「しかし榛くん、僕がいくら発明好きでも、時間を止めるのは不可能だ。それに、進まない時間の中に生きることは、案外変わり続けることより苦しいかもしれないぞ?」
 部長が言ったことの意味が榛にはよく分からなかった。どう考えても今の無邪気な状態が榛には一番楽しく思われた。
「榛くん、僕はこの国の教育システムにいくつか不満を持っているがね、その中でも何かひとつ挙げるとしたら、それは我々に将来について考えるきっかけを何も与えないことだ。進路についてはさんざん考えろと言われるのに、どう生きたいかについて考える機会をまるで与えないんだ。おかしなものだよ。将来と進路、この違いは分かるかい」
「分かりません」榛は誰も通らない廊下の窓を見ながら言った。
「いちど考えてみるといい。学校でこれだけ重大なこととして扱われる進路ってのは、実は将来と直接関係ないものだ。進路で将来がすべて決まるわけではない」部長はそう言うと、またノートパソコンを開いた。言われたことの意味がさっぱり分からず、榛は首を傾げた。

 週末がきた。榛はのろのろと勉強したり、予備校に行ったりした。予備校の講師は学校と違ってとても事務的に講義を行う。そういうものだと榛は思っていたが、それがなぜなのか彼には分からなかった。

 月曜日の午前は終業式だった、暑い体育館での式を終え、二時間目のホームルームが始まると、隣の里央が話しかけてきた。
「ね、ね。三崎くん」トレードマークの長いポニーテールを揺らせ、里央は手の平を振った。「今日科学クラブにお邪魔していいかしら?」
「え。どうしてまた?」榛は思わぬ申し出に当惑した。「茅野さん、科学に興味あったっけ?」里央はいたずらっぽく笑い、「あの部長さん楽しそうだしさ、会ってみたいわ」
「楽しい人であることには違いないけど、茅野さん予備校とか勉強は?」榛が言った。
「そんなのやりたくない時はやらなくていいの。今日は気晴らししたいから――って、三崎君が迷惑だったらまっすぐ帰るけど」里央は口をすぼめた。
「いや俺も部長も迷惑じゃないよ。それどころか歓迎する。いつも二人じゃつまらないからさ」
「ほんと? じゃ決まりね」ほとんど言われるままにそう決まってしまった。
 一学期が終わり、榛は高校生としての楽しみがもうほとんど何も残っていないことを実感した。クラスメートたちは日頃受験の話ばかりだし(彼らにとって凪の件は受験期の話題における一種の清涼剤でしかなかった。一度ピークが過ぎると、もう興味は他へうつっていた)、榛も男子の友人とはそんなことばかりしゃべっている。唯一普段通りの会話を交わせるのが、今隣を歩く里央だった。彼女は背が高く、並んで歩いても榛はさほど視線を下げず会話できた。
「この頃みんな遊べないじゃない? 私退屈でさあ」里央は榛に笑いかけた。クラスではあまり見せない表情だった。「部活も引退しちゃったしなあ。インターハイまで行きたかったな」経川南高校のバスケ部は都大会で準決勝まで行ったが敗れた。もともと強い高校ではなかったが、里央が部長を務めた一年間、彼女たちは目覚ましい活躍を見せた。
「茅野さんはあのバスケ部の部長だったんだもんなあ。すごいよ」
 里央は首を振り、「そんなことないわ。ただやりたかっただけだもの。バスケは小学校からやってたしね」そう言って渡り廊下から夏の空を見上げた。日射しが深緑の木々を照らしていた。「終わっちゃって残念。どんなに楽しくてもいつかはそうなっちゃうのね」
 榛は里央が少ししょげているような気がしたが、勘違いだといけないので何も言わなかった。

     

 凪

 凪は滅多に来ない化学室の中にいた。廊下側の壁には窓付きの棚があり、実験用のビーカーや試験管、フラスコなどが並んでいた。夏の光が教室に差しこんでいた。静かな風景は、今の凪にとってありがたいものだった。体調がまだ完全ではないため、一時間目の終業式は休ませてもらった。二時間目のHRでは、クラスメートに奇異な目を向けられたが、凪はそれでも今日出席する必要があった。自分を助けてくれた人たちに礼を言うためだ。
「夏原凪くんだね」科学クラブの部長が凪の前に座った。凪は何度か彼を見たことがある。月に一度の全校朝礼で、凪とともに表彰されることの多い彼は、互いに顔見知りだった。
「よく顔を合わせていたが、こうやって話すのは初めてだ。僕は科学クラブの部長、中田秋斗だ。みんなは僕のことを部長と呼ぶから、そっちのほうがより望ましいかもしれない」
 爽やかな笑顔だった。全校の女子に人気というだけあって、何もかも優秀な人なのだろう、と凪は思った。「はじめまして。……っていうのも変ですね。この前は本当にありがとうございました」凪はお辞儀した。部長は眼鏡の向こうから、涼しい目で凪を見て、
「いやいや。気がつけば身体が動いていた。まさしくあの発明を使うべきタイミングだと思ったからね。発明品は誰かのために使わなければ」部長は言った。「しかし僕だけではなく、僕の助手がきみを発見したからこそ救うことができたんだ。礼なら彼に言ってほしい。前から思うのだがね、何かの功績を残したものだけが表彰されるのは変だよ。その周囲の支えこそが本当に尊く、価値あるものさ」凪は部長を見ていた。そして少し不思議な人だと思った。たしかに優等生のようだが、凪には彼の言葉や行動が生来のものだとはどうしても思えなかった。ほとんど直感的にそう思っただけなので、なぜそうなのかとか、それ自体がいいことなのか悪いことなのか、凪には判別できなかった。
「どうした夏原くん? 何か不思議そうな顔をしているが」部長は言った。「あ、そうだ。きみ昼食はとったかい? 弁当を作ってきたのでよかったら半分食べないか。こう見えて料理が得意でね。このごろは暑いし、しっかり食べておかないと突然倒れかねないだろう」
 部長は鞄から大きめの弁当箱を取り出した。熟練の主婦と互角にわたりあえそうなほど、手慣れて綺麗な弁当だった。しかし凪はあまり食欲がなかったので、手を振って断った。
「そうか。では失礼していただくことにしよう」部長は両手を合わせ、昼食をとりはじめた。「夏原くん。きみの絵は素晴らしいよ。前からそれを伝えたかったんだが、同じクラスになったこともなかったし、なかなかいい機会がなくてね」
「あ。ほんとうですか? ありがとうございます。でも私、あんまりそういう自覚がないっていうか、やりたいことをやっているだけなので」凪は少し恥ずかしくなりながら、「部長さんみたいに誰かの役に立つとか、そういうことを考えられるわけじゃないから……」
 部長は首を振った。「いやいや、結果的にとてもいい作品になっているのだから、きみはそのままでいいと思うよ」部長は凪が飛び降りたことに言及しないようにしていた。凪にはそれがすぐに分かった。「そう、だといいんですけど……」しかし凪はあの一瞬を思い出さないわけにはいかなかった。あの時、それまでの凪を一変させるほどの巨大な直感が彼女にわき起こった。それは「そのまま」でいることを凪に許すものではなかった。凪は自分が立っていた場所の外側で起きている様々なものごとを一度に見たような衝撃を受け、それに打ちのめされたのだ。今は化学室の椅子に座っているが、平穏そのものの教室の風景は、どう考えても幻でしかないのだった。
「おや。どうやら助手がやってきたらしい」部長が言った。凪が振り向くと、生徒の姿がふたつ、教室に入ってくるところだった。

     

 榛

「やあ榛くん。終業式の日までここに来るとは、きみもよほど暇なんだな」榛が入るなり部長が声をかけた。部長は教師机で弁当を広げて食べていた。相変わらずだ、と榛は思った。そして、部長の隣にいる人物に気づいて仰天した。
「夏原さんだ!」榛の代わりに里央がそう言った。夏原凪が部長の隣に座っていた。「私、一年の頃彼女と同じクラスだったのよ」榛にそう言うと、里央は教師机に駆け寄った。凪は部長のように昼食をとっているわけではなく、ただ隣に行儀よく座っていた。喜んでいるようでもなければ悲しそうでもなかった。見たところどこも異常はなさそうだった。無事な姿を見ることができて、榛は少しほっとした。
「茅野さん……?」凪は里央を見上げてつぶやいた。「茅野さんも科学クラブの人?」
「ちがうちがう。私はたまたま三崎くんについて来ただけ。この頃暇で暇で」
「あ、そうだよね。たしか茅野さんはバスケ部」凪は自分に言い聞かせるような口調だった。「三崎くん? そっちの人?」凪は榛のほうを指さして言った。
「そうだ、彼こそが我がクラブの有能な事務員、三崎榛くんだ」部長がうなずいた。
「僕の相棒だと知ってるのは校内でもたぶん三人くらいだが、それでも二年間適当に助手をつとめてくれたのだよ。恩に着る」部長は紙パックの緑茶をストローですすった。
「もう少しまともな紹介してくださいよ部長。いえ、俺も大したことしてない自覚しかないですけど」女子二人を前に、榛は格好がつかないな、と思った。
「ははは。まあいいじゃないか。とにかく彼はまあそれなりに魅力があるからな、がしがし絡むといいぞ」部長はいつもの適当な台詞を吐いた。お世辞ではあったが、榛は顔が熱くなった。
「夏原さんはどうしてここに?」つい先日屋上にいた彼女を盗み見ていたなど死んでも言えないと思いつつ、榛は言った。凪は部長のほうを見て、
「あの、お礼を言いに来ました。ここの人たちが助けてくれたって聞いたので。ありがとうございました」そう言って申し訳なさそうにお辞儀した。「私、飛び降りを……」
「そっか、そうだよね。ごめん」榛は慌てて手を振り、頭を下げた。ちょっと考えれば分かることなのに、相手をわざわざ傷つけるようなことを訊いた自分を榛は小突いてやりたかった。凪は頭を振って、「いいんです。私が悪いんだもの。人に迷惑かけたし」凪はまた下を向いた。このままでは謝罪合戦になりそうだった。榛が困っていると、
「まあとりあえず座ろう三崎くん! 夏原さんも。無事でよかったよ」里央が溌剌とした声で言った。そして四人は教師机に向き合って座った。
 よく晴れた夏の日だった。グラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくる。校舎の中は熱気を含んで膨張しているかのように、いつもより広く感じられた。榛は購買で買った菓子パンを食べた。里央にもあげた。凪は手を振って断った。食欲がないのだろうか、と榛は思った。
「いや珍しく賑やかだな! いつもは僕と榛くんの二人っきりだから、それはそれはムード満点なのだよ」部長はそう言うと、引き出しからガラスでできた球形のオブジェを取り出した、金属のフレームで縁取られたそれは、部長が息を吹きかけると台座の上をくるくる回った。しばらく経っても止まらなかった。巧緻な絵柄がゆっくりと動き、模様が変形するように見えた。「すごーい。綺麗」里央が言った。
「フレームゴーランド。これにはちょっと細工をしてある。放っておけば一時間はこうして回っているだろう」部長が言った。里央はフレームゴーランドを楽しそうに見ながら、
「部長さんは今までどのくらい発明品を作ったんですか?」
「数えたことはないな。何せ、祖母の話では読み書きを覚えるより早くものを作っていたらしいから」部長はフレームゴーランドが回るのを機嫌よく眺めて言った。「昔っからこういうのが大好きだった。僕の頭にはいつもイメージがあって、それを何かに使えないか探しているんだ。そうやっているうちに何か作り出している。ひとつ仕掛けをつくる。すると今度はそれがどんな道具になるか考える。考えて、作って、考えて、作る。繰り返しているうちにここに来ていた。そんなところかな」部長がよくする説明だった。何度も聞いていたが、榛にはぴんと来ない話だった。しかし部長にとっては自明らしい。
「すごいなあ。才能ってやつかしら?」里央が言った。「普通の人にはない力だよね」
 榛は里央から凪に視線を移した。才能と言えば凪もずば抜けた力を持っている。彼の視線を感じたのか、フレームゴーランドを見つめていた凪がこちらを見た。目が合うと、榛は胸がどきどきした。間近で見る凪は人形のようで、途方もなくかわいらしかった。
 部長が、「夏原くんは小さい頃から絵を描いているんだろう?」と呑気な声で言った。
「え。あ、はい。そうです。私も物心つくころには鉛筆とか筆を持ってて」凪は記憶を辿るようにして、人さし指を口元に当てた。そんな仕草のひとつひとつが榛には魔法のように魅力的だった。「よくご飯食べるのとか眠るのを忘れて描いてるので、たまに学校に遅刻したりとか」凪は言った。
「そういえば一年の時、遅刻魔人だったよね夏原さん」里央が笑った。「そうなの?」榛が言うと、里央は頷いた。凪は顔を隠して、頬に手を当てた。「そうそう。初めのほうなんか担任に要注意人物扱いされてさ、大変だったよね」里央が言うと、凪は恥ずかしそうにこくんと頷いた。里央は屈託のない声で、「絵で表彰されてからは、なぜか大目に見られてた気がするけど」
「実に教師らしい反応だ」部長が言った。「僕も身に覚えがあるぞ。これでも一年の頃から授業をさぼりまくっているからな。おかげで一年留年してしまったくらいだ」
 榛、凪、里央の三人がこの学校に入る前、部長は怒涛の発明ラッシュを経て見事留年した。いくつかコンクールに通ったが、単位を落とした。二学期の半ばに留年が確定すると、残りの期間、部長はさらに発明に没頭した。受賞する回数が増えていった。そんなこともあり、榛が知り合う頃、部長にはすっかり箔がついていた。部長は世間がどうとか教師がどうとかそういうものを一切気にしない人間だった。それは榛が一年で同じクラスになってすぐ分かったことだ。授業中だろうと寝たい時は寝るし、思いついたアイディアは体育の最中でも立ち止まってメモする。そんな自由奔放な性格に榛はつよく惹かれた。当時はもう少し部員のいた科学クラブに入ったのも、部長につられたからで、榛一人の意思ではなかった。部長の近くにいるといつも楽しいことに出会えた。部長は発明品を役立てるべく、校内外にしょっちゅう繰り出した。新作のモニタや実験、調査。博物館に出かけたりもした。榛は助手として二年間そんな毎日を送ってきたが、それも少しずつ変わり始めている。
「二人の天才とはよく言ったものだわ。そういえば部長と夏原さんって話したことあったんですか? うちの学校ではよくまとめて名前が挙がるけど」里央が言った。部長は否定して、「いいや、なかったな。しょっちゅう全校集会の舞台で顔を合わせてはいたが」
「そう、ですね」凪が言った。榛はふと、凪に元気がないように見えた。額に汗をかいている。暑さによるものかもしれないが、まるで冷や汗のようだった。
「君の絵からインスピレーションを受けたことが、覚えている限り二回ある」部長は朗らかに言った。「え。そうなんですか」凪は額を押さえた。恥ずかしそうだった。全校集会で表彰される時も、部長とは対照的にいつも申し訳なさそうにしているのが凪の特徴だ。
「君の絵は何というか、想像力にあふれている。旅の途中に美しい風景に出会った時のような感動があるな」部長は眼鏡の向こうにある瞳を輝かせた。
「部長さん詩人ですねー」里央が楽しそうに言った。凪は恥ずかしいのか、何も言えずにうつむいてしまった。「ね、三崎君は夏原さんの絵どう思う?」里央が言った。不意に話が振られ、榛は驚いた。「え? あ、ええっと。俺は部長みたいにうまく表現できないけど。すごく綺麗だよね。夏原さんの絵」
 もう少しまともなことが言いたかったと榛は思ったが、昔から口下手だった。それに、実を言うと榛は間近で凪の絵を見たことがなかった、「うん。とっても綺麗。実はね、私夏原さんの絵を見て、感動しちゃって、泣いたことがあるんだよ」里央が言った。
「そうなの……?」凪は驚いたようだった。里央はうなずいて、
「美術室の前に何枚か飾ってあるでしょ? あれをね。夕方にぼうっと見ているとさ。こう、とっても透き通った気持ちになって、いつもより多くのものを感じられる気がしてくるの。夏原さんの見ている世界が伝わってくるっていうか。それで気がつくと、涙が流れてた。そんなのって初めてだったからびっくりして。ほんと言うと、それまで私、絵ってほとんど興味なかったんだ。身体を動かすほうが好きだったしさ。でもね、夏原さんの絵を見てからはいいなあって思った。それで、私ももっとやりたいことをやろうって思った。部活をもっと頑張ったの。そうしたら部長になって、前よりチームが強くなった」
 凪は里央の話をほとんど瞬きもせずに聞いていた。やがて凪は、
「私、自分の絵が誰かにそんな影響を及ぼしていたなんて、思いもしなかった」
 そう言うと、凪は教師机に反射する光を見つめて、「ただ描きたいから描いてきたんです。他のことはよく分からないけど、描くのは楽しかったから。上手になりたかったし、描きたいものもいっぱいあったんです。だから、誰かに見てもらうとか、そういうのは全然考えてなくて」すると部長が、
「なるほど。いかにも夏原くんらしいな。たしかに、君の絵は人に余計なことを一切考えさせない純粋さがある。そういうのは作品を見るだけでもよく分かる。そう思うのは何も僕だけじゃないだろう。君の絵のよさは誰にでも伝わる。それは素晴らしいことだ」
「部長さんはどうなんですか? 誰かに発明品を使ってもらおうと思ってアイディアを練るのかしら」里央が言った。彼女はこの話を楽しんでいるようだった。
「考える時もあるし、そうじゃない時もあるな」部長は頷いた。「発明は人に使ってもらってなんぼな部分がある。僕は作ることが大好きだが、それが道具である以上、誰かの役に立たなくてはならない。そう思っているよ」
「そうなんだあ。どっちも私には分からない世界だわ」里央は言った。榛は思わず頷いた。自分にはそんな才能は何ひとつないという自覚があった。
「こういうのは役割の問題だと僕は思っている」部長は言って、「道具をつくる奴がいれば、それを使う人がいる。絵を描く芸術家がいれば、それをいいと思う観賞者がいる。どっちが偉いとかそういうものではない。それに何もこんなことに限らなくてもいい。新聞を書く人間がいれば、それを印刷する業者があるだろう、そして配る人がいる。誰かがどれかをやっているんだ。どれが欠けても成立しない。僕の発明も凪君の絵も、ひとりきりで完結しているものではないはずだ」
「そう、なのかな」凪は言った。彼女はそういうことがうまく理解できないようだった。部長はうなずいて、「問題なのは、人が無意識の間にそこへ階級を設けてしまうことだ。たとえば、発明をした人間こそが偉いのであって、それを大量生産できるようにした人や、売っているお店の人などは偉くないというようにね。そんなものには実体がないが、しかし人は確実にそれを生み出している。動物の本能なのかもしれないな。しかし我々には理性がある。ちょっと考えれば、階級というものが本来存在しないものであるにもかかわらず、日頃我々がどれだけそれを意識し、それにとらわれているか分かるはずだ。日常がそれを発生させる。力のかかっていない状態でものを考えるのはとても大事なことだが、なかなかそれができないのだね」
「よく分からないなあ、難しいよ」里央が言った。「だって私たち高校生だもん。そういうのはピンとこないな」
 部長は人さし指を立てた。「たしかに。我々の年でこれについて考えるのは困難だ。しかし、だからこそ意識に置いておくべき事柄だと僕は思っている。今言った、力のかかっていない状態でものを考えること。それは、何かが行き詰った時に道を切り開く光をもたらすからね」部長は笑って、「里央くんは正直でいいな。そんな風に素直だとクラスでモテるのではないか? 何よりきみは美人だ」
「部長さんは口がうまいわ」里央は照れもせず、ポニーテールを揺らせて頭を振った。「それが全然そんなことないのよ。文系クラスだから男子が少ないってのもあるけどさ。たぶん、今の男の子はもっと大人しい子が好みなのよ、ねえ三崎くん?」
「え!?」榛は驚いて、「そそそうだな、俺はどっちも魅力的だと」そこまで言って榛は固まった。ちょうど里央と凪を交互に眺めて幸福に浸っていたところだった。部長が声を上げて笑った。「はっはっは。いやあ、さすが榛くんだ。僕は彼の純朴さが好きでね。彼には悪気ってものが何ひとつないんだよ。自分ではあまり気づいてないらしいが」
 榛は恥ずかしくなってきた。部屋の気温が上昇したように思った。凪を見た榛は、彼女の顔色が悪いことに気づいた。血の気が引いている。
「夏原さん、大丈夫?」榛は言った。凪は榛を見た。「え。あ。その」と凪は言った。彼女は汗をかいていた。「大丈――」言いかけて、彼女は机に突っ伏した。
「夏原さん!?」里央が立ち上がって叫んだ。榛もびっくりして立ち上がった。
「保健室に連れていこう。榛くん、先に行って連絡を頼む」部長が言った。珍しく真剣な表情だったが、凪が飛び降りた時にも同じ顔をしていたと榛は思い出した。

 部長が凪を背負い、保健室へ向かった。彼は文化部に属しているが、運動も得意で、力と体力も相応にあったので、凪を軽々運ぶことができた。「夏原さん、しっかりして」急ぎ足の里央が隣から何度か凪に呼びかけた。「調子が悪かったんだわ……」
「僕が悪かった。彼女のことなど気づきもせずに好き勝手話してしまった。悪い癖だ」
 部長はそう言って奥歯を噛んだ。保健室の前には先に連絡に行った榛が立っていた。
「先生はいないけど、保険委員の子に言ってあるから。ベッド使っていいって」榛はそう言って部長たちを中に入れた。

 部長は凪を空いているベッドの一つに寝かせ、布団をかけた。凪の額には汗が浮かんでいた。部長、榛、里央の三人は椅子を持ってくると、並んで座った。保険委員の女子がカーテンの向こうから顔を出した。「夏原さん、大丈夫なの?」
「気を失った。しばらく安静にしていれば大丈夫だと思うが……」部長が言った。
「沢井先生を呼んだわ。すぐに来ると思う。職員会議だったみたい」保険委員の生徒が言った。彼女は凪を見て、「他に私にできることがあるかしら」と言った。
「今は大丈夫だ。ありがとう。なにかあったらまた言うよ」部長が言った。保険委員の生徒はカーテンの向こうに引っ込んだ。
「夏原さん、どうしちゃったんだろう」里央が言った。「一年の頃はこんな風じゃなかったわ。おっとりしてるけど、こんな風に気を失ったことなんてなかったもの。飛び降りたって聞いた時もショックだった。どうしてそんなこと……」里央の瞳には涙がにじんでいた。「何かつらいことでもあったのかな」
「分からないや」榛は言った。何せ彼は凪とほとんど初対面に近い。顔を知っていただけだし、同じクラスになったこともない。「でも、さっきから顔色が悪かったよ。俺、もっと早く言えばよかった」
「ふむ」部長が言った。「何かあるのだろう。それまでの彼女を一変させてしまったような何かが。それは外的なものかもしれないし、あるいは内的な、もっと精神的なものかもしれない」
「内的なもの?」里央はつぶやいた。「それってどういうことですか」
「たとえば何か大きな悩みを抱えているとか、精神を揺るがす出来事があったとか、そういうことさ。それを境に性質が変わってしまうことは、珍しいことではない」
「夏原さんは、少なくとも一年の頃はふつうの生徒だったわ。絵がすごく上手なことを除けば、ごく普通の、かわいらしい子だったもの」里央は主張した。
「里央くん、しかしそれは誰でもそうなのだよ。我々は誰でも、傍から見れば『普通』の範疇に含まれるのだ。酷な言い方だが、結局その人の世界がどんなものなのか、外にいる人には分からない。僕はそう思っている」
 榛は部長がこんなことを言うのを初めて聞いた。榛と部長は喧嘩したことがないし、今までずっと呑気な部活仲間だった。今の言葉を聞いて、それでは自分は部長の何を知っているのだろう、と思った。
 保険教師の沢井が姿を現した。よくいる気のいいおばさん先生で、大らかでありながらけじめある性格が生徒に人気だった。「はーいはい、夏原さんのベッドはここ?」
「ちょっと三人とも、開けてくれるかしら」そう言って、沢井は凪の健康状態を確かめはじめた。「ふむ、ふむ。熱はなしと。呼吸も普通ね。あら、汗かいてるわ。吉野さーん、タオル持ってきてちょうだい」沢井は保険委員の生徒に言いつけた。「夏原さんは気を失ったのかしら?」部長のほうを見て沢井は言った。
「そうです。僕たちと科学室で話していたところで。ちょうど彼女が先日のお礼を言いに来てくれて」と部長は言い、凪を片手で示した。
「そっかそっか。なるほど」と沢井は言った。里央が黙っていられないという様子で、
「沢井先生。夏原さんは大丈夫なんですか?」
「命に別状はないわ。病気でもありません。ただ、私の見たところちょっと心を痛めているわね、この子は。私には理由が分からないけれど。この前……あの時ね。あの時も二人で話したんだけど、夏原さんは理由を教えてくれなかったから」この前というのは飛び降りのことだと誰もが分かった。沢井は凪から離れ、「あなたたち、夏原さんのお友達?」
 三人が迷っていると、「何となくだけど、あなたたちは夏原さんを助けてあげられる気がするわ。みんな優しいものね」そう言って笑い、カーテンを開けて外に出た。

「夏原さんは仲のいい友達とかつくらなかったのよ」五分後、里央は言った。三人はふたたび椅子に座り、凪の様子を見ていた。
「そうなの?」榛が言った。凪は人気がありそうなので、これは少し意外だった。
「そう。何となく、一定以上のところまで仲よくならないように、彼女が無意識で遠ざけている感じだった。クラスでは普通に誰とでも話すのよ。でもね、誰かと放課後一緒にカラオケに行くだとか、休みの日に渋谷に出かけるとか、そういうことはなかった。ま、私もクラスのグループにはいなかったから、あんまり詳しくは知らないけどね。でもそんなに間違っていないはずよ」里央は一息にそう言うと、心配そうに凪を見た。
「でもね、私一度だけ夏原さんとお祭りに行ったことがあるの」里央は言った。
「どうしても夏原さんとお話したくてね。ほら、絵を見て泣いたって言ったでしょう。その日、どうしてそんなだったかっていうとさ。部活で上級生にきつくあたられてね、ちょっと参っちゃったの。やめようかって思ったくらい。ふらふら廊下を歩いていると、一枚の絵の前で足が止まった。それが夏原さんの絵だった。一目見ると、身体が軽くなって、心が温まる気がした。その日本当に嫌だったことでも、夏原さんの絵は一瞬で吹き飛ばしてくれた。それでいいんだよ、って、大丈夫だよって言ってくれた気がした。だから、そんな絵が描ける人のことをちょっと知りたくなったの。それで、どうしてもお願いって言って、一回だけ一緒に出かけたんだ」里央はカーテンレールを見上げて、「もう二年も前なんだなあ」里央は回想に浸りながら、「その時は全然普通のお話をしただけなんだけどね。好きな映画とかドラマとか、俳優なら誰がかっこいいかとか。あ、何よ、意外?」
 榛の表情に里央が目を留めた。榛は慌てて手を振った。「そんなことないよ。ただ何となく、茅野さんってそういう話しないのかと思ってたから」
「そんなことないわよ。なんだ、やっぱり意外なんじゃない」里央はおかしそうに笑った。
「私も夏原さんもちょっと趣味が変わっててさ。それで話が合ったわ。お互い無邪気に笑ってた。それを見て、どうして日頃友達づきあいしないんだろうって不思議に思ったくらい。この前のあれがあって。私ショックだったんだ」里央は凪の頭を撫でた。「だから今度は私が言ってあげたいの。大丈夫だよ……って」
 榛は胸か苦しくなった。そこには何か切実な感じがあった。「ねえ、夏原さんの絵って美術室の前にある?」榛は立ち上がって訊いた。
「あったはずだ」部長が答えた。「何なら僕も一緒に行こうか、榛くん」
 凪の看護を里央に頼み、部長と榛は美術室へ向かった。後者の仲は、夏休みを迎えたことへの解放感に、全体が安堵しているような雰囲気があった。
「俺、夏原さんの絵を近くでちゃんと見たことがありませんでした」榛は言った。部長は窓の外に浮かぶ雲の影を眺めながら、「見るといい。歴史上の画家にも負けていない強さがある」
 美術室は中央棟の三階にあった。授業に美術があるか、美術部に属しているかのいずれかでない限り、日頃あまり通らない場所だった。榛も前にいつここに来たか思い出せなかった。文化祭の期間中などに通りかかったことがあるかもしれないが、覚えていない。
 廊下に面した壁面に、凪の絵は飾ってあった。高校生美術コンクールで金賞を受賞した絵だ。「自由への旅」というタイトルだった。
 榛はその絵を見た瞬間、身動きが取れなくなった。時間の概念が彼の中から消失していった。絵の中には大きな翼が描かれていた。それは光に包まれ、空を七色に染めていた。下のほうには地上の風景が描かれている。鷲になって大空から眺めたような、遥かな風景だった。榛は自分が翼をもった生きものになった気がした。身体が軽くなり、どこまでも羽ばたいていける、そんな風に思った。
「すごい……」ずいぶん経ってから、榛はやっとそう言った。今まで絵画に関心を持ったことのない榛だったが、それでも彼は凪の絵から生じる途方もないエネルギーを全身に感じることができた。絵からは風が吹いていた。それは榛の髪や頬を撫で、文字通り、「自由の旅」へいざなってくれた。
「我々とはものの感じ方が違うのだろうな」部長が言った。「見ての通り、夏原くんは紛れもない画家だ。だからこそ、人には感じられないものを感じ取っているのだと僕は思う。そしてその発露を僕たちはこうして見ることができる。あいにく彼女の絵の魅力に気づいている生徒は少ないが。しかしその少数にはたしかにこうして伝わっている。誇るべき存在だよ、夏原くんは」
 榛は圧倒されていた。彼は背筋がぞくっとするのを感じた。里央が凪を夏祭りに誘った理由が分かった気がした。「部長、夏原さんはどうして飛び降りたんでしょう」榛はそうつぶやいていた。
「さて、どうしてだろう」部長は言った。「彼女は人とちがう『目』を持っている。それはただ目に見えるものだけではなく、感じられるものすべてに対する鋭敏さだ。彼女の精神は透明でいて、あざやかなのだ。これは僕の想像だがね、榛くん。夏原くんはその『目』をもって、我々には感じられない何かをとらえてしまったんだ。おそらくは彼女に負の感情をもたらす何かを。そしてそれが自殺行為の引き金となった」
「想像できません」榛は言った。しかし部長の言わんとすることは榛にも理解できた。要するに彼女は感じやすすぎるのだ。おそらく、普通の人が察知するものの何倍も大きなものを彼女は受け取ってしまう。そして、たった一人でそれに耐えなければならない。なぜなら、他の人間には知る由のないものだから。打ち明けても分かってもらえないのだ。
「彼女の両親も美術や音楽に携わっているらしい。それゆえの感受性だろう。凪さんはおそらく内的な奔流を止めておけないのだろうな。だからこうやって絵を描く。若々しく、強力でありながら、どこまでも繊細な絵を。そして、描いている間に我々が知りえない世界を見てしまったのだ。その目で」
 三十分ほどして二人が保健室に戻ると、凪が目を覚ましていた。さきほどよりも血色はよくなり、呼吸も落ちついていた。彼女は枕に頭を沈めて、里央と何か話していた。
「ただいま」榛が言った。二人が話しているのを見ると、なんだか幸福な気持ちになった。
「あ、おかえり。ついさっき目が覚めたのよ」里央が言った。
「ごめんなさい」消え入りそうな声で凪が言った。部長が首を振り、
「気にしないでくれ。我々の前だったら何度倒れても大丈夫だ。僕たちはきみを助ける」
 そう言って笑った。榛も笑った。すると凪は、
「あの日、私は絵を描いていたんです」と言って、天井を見上げた。「新しい絵。いつもより時間をかけて、今まで描けなかったものを描こうと思って。いつもより大変だったけど、楽しくて。思うように進まなかったけど、でもやめようとは思いませんでした。一カ月くらいかかったあとで、今日中にできあがると思った日に、私……」凪は口をつぐんだ。
「何かあったの?」榛が言った。弱冷房の利いた保健室は、どこまでも静かだった。
「気がついたんです。何もかもに」凪は言った。「この世界のこと」
 それで三人の理解を得られないことは彼女もよく分かっていた。それでも、凪は何とか言葉で伝えようとした。「何もかも変わっていってしまいます。それは二度と戻ってきません。今、高校生の私たちが見ている風景はかりそめのものなんです。大人になったら、そういうのは大きく変わってしまって、どうにもならないことが増えていきます。この世界は全然公平じゃないし、私たちは何に護られているわけでもないんです。ここ、学校での生活は、そういうほんとうの世界からあまりにも離れています。ほんとうは、人間の世界も動物と同じで、厳しく残酷なものなんです。そこには……」凪は言い淀んだ。つよく目をつむり、また天井を見た。「暴力……そう、暴力があります。直接のものもあるし、そうじゃないものもあります。私たち高校生は、日頃そういうものが見えない場所にいるんです。絵を描き上げた時に、私はそれを感じました。こんな言い方をすると笑われちゃうかもしれないですけど、世界の真ん中にある色が何色なのか、私はそれを知ったんです。たぶん、間違いないわ」凪は自明のことを話しているようだが、榛には何ひとつ分からなかった。彼女は明らかに、自分とは違う何かを見ているらしい。それはまやかしや思い込みではないと分かったが、彼女の言葉だけを頼りにそれを理解するのはあまりにも困難だった。
「だから飛び降りたんです」凪は言った。
「もう生きていけないと思いました。そんな風に思ったのは生まれて初めてだったけど、でも間違いのないことでした。これから先、いいことがあるとかないとか、幸福になれるかなれないかとか、そういうのとも違うんです。ただ、生きていかれない。苦しんでいる人が世界中にいるんです。それはどうしても変わりません。誰かを助けても、別の誰かが苦しい思いをします。両方を助けても、時間が経てば別の何かがちがう誰かを苦しめます。それがあまりにもつらかった……。私、これまで、どこかでそういうものが解決できると思い込んでいました。考えていなかったっていうのが近いのかも。でもダメです。何にも変わらないです」
 凪は顔を向こう側へ傾けた。「私が絵を描くことにも意味がありません。誰かによかったよって言ってもらえても、それは何にもならないんです。どうにもならないものを変える力はありません。私がずっとやってきたことは、ただ無価値なものだったんだわ……」
 凪は声を震わせた。榛は凪が特異な感性を持っていることを知った。自分にはとても想像できない悩みがあるのだと知った。自分が彼女だったら、果たして飛び降りずにいられるのだろうかと思った。よほど強いものを感じなければそこまでしないだろう。そして凪はそれを感じたのだ。そしておそらく、今もそれは続いている。
「大丈夫だよ、凪ちゃん」里央が言った。里央は凪の手を取った。里央と凪の目が合った。
「大丈夫だよ。私たちがついてるよ」里央は凪のすぐ傍に寄り、やさしく微笑んだ。
「つらかったらいつだって傍にいるよ。だから、そんな風に悲しまないでよ。ね? 凪ちゃんは一人でたくさんのことを抱え込みすぎなんだよ。そんなことしたら、きっと誰だってつぶれちゃうよ……」
「茅野さん」凪は透き通った瞳で里央を見た。凪は泣くのをこらえているようだった。
「里央くんの言うとおりだ」部長が言う「凪くん、今言ったことは一人で思い悩むようなことではないぞ。なにせきみが感じたのは、言わば地球規模の悲しみだろう。それは本来、六十七億の人すべてで分かつべきものだ。昔から言うではないか、困難は分割せよとな」
 部長は言った。秦は思う。おそらく、そんな言葉だけで凪が元に戻らないことなど承知の上だろう。それでも部長は凪を励ましたのだ。それは素晴らしいことだった。
「俺たちでよければいつでも助けになるよ」榛は言う。「そうだ、今度四人でどこかに出かけようよ。僕たちは受験生だけど、一度くらいいいよね」
「僕ならいつでもいいぞ榛くん。何せ僕はものごとにとらわれるのが大嫌いだからな。服従などもってのほかである」部長がいつもの調子を取り戻して言った。
「私も、いつでも呼んでね。凪ちゃんのためなら何度だって駆けつけるから。って、これじゃ榛くんがまとめ役みたいだね」里央は笑った。
「それに榛くん、四人で出かけようとはきみもなかなかやるじゃないか。それは世間的に言うところのダブルデートというやつだぞ、え?」部長が榛を冷やかした。
「え? あ、そうなの?」榛は言った。そんなことなど夢にも思っていなかったので、耳まで赤くなった。
「だぶるでーと……」凪がつぶやいた。凪の声でそう言われると、何かとても耽美なものに思われ、榛は今すぐカーテンの向こうに消え去りたくなった。
「凪くん、むろん拒否権はきみにあるからな。どさくさに紛れて口実を設けるちゃっかりものの榛くんを蹴り出すのは君の自由だぞ」部長はけらけら笑った。
「部長、そりゃないですよう」榛は言った。里央も笑った。すると、凪の表情から緊張がとけた。楽しい気持ちになって、榛も笑った。
「ありがとう」凪は言った。そして布団を引き寄せた。榛はとても幸福な気持ちになった。凪が傷つく姿はなるべく見たくない、そのためなら何だってしたい。そう思った。
 その後、目覚めた凪の体調を沢井に診察してもらい、問題ないことが分かると、凪はゆっくりと起きあがった。里央が彼女を支えた。五分もすると、凪は一人で歩けると言った。
「みんなありがとう。嬉しかった……」凪は言った。

 電車を使って帰る凪、里央の二人と別れ、部長と榛は自転車で帰途についた。夕暮れが来て、遠く大きな夏の空にはしぶきのような雲がかかっていた。ブルーとオレンジのグラデーションが、夜を少しずつ近づけてくる。
「不思議な子だな、凪くんは」部長が言った。榛と部長、それぞれの自転車には、部長が発明した省エネランプが点いていた。最初の一分間タイヤに付けていれば充電が完了し、一晩持つほどの電気を確保できる。「彼女の才能はうらやましがられるが、それが必ずしもいいことばかりではないと知っている者がどれだけいることか」
「部長はどうなんですか」榛は言った。「部長にも何か苦労があるんじゃないですか?」二人はモノレールの線路下を自転車でのんびりと走っていた。二年間、ほとんど毎日繰り返していても飽きない時間だった。榛はこの帰り道が好きだった。入学式の日、心弾ませながら自転車を漕いだことを今でも思い出せる。部長はちらと榛を見て、
「僕か? 僕にはさして苦労はないよ。何せやりたくて発明をやっているし、彼女のような芸術的感性とはまた違うからね。飛び降りようとは思わない。僕の感覚はもう少し一般的で、即物的なものだ」部長はそう言った。しかし榛は言葉通りだとは思わなかった。部長の家は医者をやっていて、たしか彼は一人っ子のはずだった。両親は医学部へ進学しろと部長に言っているらしいが、榛の見たところ部長にその気はないようだ。だとすれば、少なからず両親と行き違いがあるはずだった。しかし部長はそんなことを一切表に出さない。そんな風に、どこまでも自分のままでいられる部長は、榛の憧れだった。ひとつ年上であっても、人生を何年か多く生きている先輩のような。
「榛くん、夏だよ。どんな人にでも夏を楽しむ権利がある、そう思わないかい?」
 部長は言った。自転車が下り坂にさしかかり、心地よい風が髪をさらった。その通りだ、と榛は思った。

     

 凪

 凪は落ち着きを取り戻していた。あの絵を描いたことで彼女が得た、暗い感触はいまだに凪自身の中に存在し、この平穏が一時的なものでしかないと彼女に告げていたが、しかし今のところ彼女は穏やかな気持ちだった。それは今日、彼女を助けてくれた三人の友人のおかげだった。凪は、今まで自分が仲のいい友達をつくらなかったことを不思議に思った。そんなことが意識になかったというのが近い。絵を描くことは彼女そのものだったし、何よりも優先しなければいけないことだった。そのためにはいくらでも時間をささげる必要があったし、そのためには年頃の少女がするような一般的な日常を送るわけにはいかなかった。というより、そんな余裕がなかった。しかし、彼女は友人を持つことの素晴らしさに気がついた。それは彼女の意識をある面で呼び覚まし、変化を及ぼした。自分は三人に迷惑をかけてしまった。そして、あの時感じたことを少しでも話してしまった。里央などは特に、今も自分を心配しているはずだ。帰りの電車で「いつでも相談してね」と彼女は言った。それが凪には申し訳なかった。どうして自分なんかのためにそこまで親身になってくれるのだろう、私など、誰のために何をすることもできない、無力な存在なのに。そして凪は友人をつくってしまったことをすぐに後悔した。凪が死んでしまえば、友は永遠に彼女の死を悲しむだろう。そんな里央たちの姿を想像すると、それだけで心が裂けてしまいそうだった。イメージが浮かぶ。棺桶があり、その上に自分が霊魂となって浮かんでいる。里央、榛、部長の三人はその棺桶を暗い目で見つめている。三人の間には会話もなければ笑顔もない。ただ黙って、冷たい棺桶を見つめている。凪は里央たちを救いたいと強く願う。お願い、笑って。元の楽しい三人に戻って。しかし凪の願いは届かない。彼女がどれだけ叫ぼうとも、それは無音の闇に消える。凪の心は地上からわずかに浮いた場所に残り続け、三人が悲しむ姿をいつまでも見ていなければならない。死とはそういうことだった。あの時図った自殺というものは、周囲にそんな影響を及ぼすのだ。あの時であれば両親や親類だけで住んだかもしれない。しかし、今となってはそこに里央や榛や部長が加わるのだ。とてもじゃないが、そんなこと凪にはやりきれなかった。彼女の無垢で、透き通った心は、友の悲しみを無視することなど到底できなかった。
(じゃあ私はどうすればいいの)
 凪は思った。この世界はこうして、個人の中にやりきれないものを積み重ねていくのだ。そのたび、何度も心が揺さぶられ、感情をわしづかみにされ、やがてほんの少しずつ、魂が削れていくのだ。ただ死ぬのであればそんなのは何の問題にもならなかった。しかしそうではない、私という存在は、私一人のものではない。私は自力で生きてきたわけでもなければ、誰ともつながっていないわけでもない。身勝手な判断で命を投げ捨てれば、己でなく他者が深く傷つくのだ。凪はそれをつよく感じた。そして、彼女は肩を抱いた。
「こわい……そんなのってあんまりだわ」また彼女は泣きそうになった。以前であれば、もっと簡単に、描きたいものを描きたいように描いていればよかった。評価など関係ない、凪にとっては完全な自己完結だった。何も知らないから彼女はそうしていられた。それが今となっては、もう取り返しがつかない。ただ描きたくて描くことなどできない。自分のためにだけ描く絵はもはや彼女に何ももたらさなかった。今すぐ家のアトリエか、学校の美術室に行って、今までに描いた絵をすべて焼き払ってしまっても彼女はいっこうに構わなかった。それくらい凪がしてきたことは彼女にとって無価値で、空疎だった。
 当分絵は描けない、と凪は思った。筆を置いたらパパは怒るかしら。今までにそんなことはただの一度もなかった。凪の父は画家であり、彼女のよき理解者だった。それなら凪の心情を理解してくれそうなものだが、彼女にはその確信がなかった。
「こわいことばっかりだわ。いっそ私なんて生まれなければよかったんだ……」凪はつぶやいた。それこそが今の彼女の願いだった。そうだ、生まれていなければこんな悲しみは起こらなかったし、彼女がいなくとも誰ひとり傷つかない。叶えようもない願いだったが、凪は本心からそう願わずにはいられなかった。
 その時、凪の携帯電話が机の上で振動した。凪は驚いて身をはずませた。日頃、彼女の携帯が鳴ることなどなかった。凪はおそるおそる机の上に手を伸ばし、無機質な端末に手を触れた。「茅野里央」と表示があった。保健室で三人と連絡先を交換したのだ。ほとんど成り行きだったが、今の凪にはそれが恐ろしいことのように思われた。これから何度彼女たちに迷惑をかけるのだろう、と思った。しかし出ないわけにもいかない。凪は通話ボタンを押した。「もしもし、茅野さん?」凪は言った。
「もしもし? 凪ちゃん。よかったー。まだ起きてた。ごめんね、遅くに」
 里央の声を聞くと、凪はまた泣きそうになった。まるで母親に抱きしめられているような安堵感が凪を包んだ。部屋の時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。
「どうしても言っておきたくて。迷ったんだけど」里央は言った。もう何年もこうして話している、打ち解けた相手であるかのように、凪は里央の声に親しみを感じた。
「凪ちゃん、何度でも私たちを頼ってね。できることもできないことも、何でもいいから打ち明けてね。お願いよ」里央はたしかめるようにそう言った。「ほんとは帰り道で言いたかったんだけどね。なかなか言い出せなくて。……ごめんね」
 そんなことない、と凪は思った。どうしてそこまで言ってくれるのだろう。私は誰に心を開いたわけでもないのに、なぜそこまで親身になってくれるのか。凪はそれを訊きたかったが、答えを聞いたところで今は分からないかもしれないと思った。
「ううん、悪いのは私のほう」凪は言った。言えたのはそれだけだった。凪はすぐに、こんなことを言った自分を恥じた。もう何を言ってもダメだ、全部エゴか、そうでなければ欺瞞になってしまう。しかし里央はそんなこと何ひとつ気にしなかった。
「凪ちゃんはそのままでいいんだよ。そのままで。それだけでたくさんの人の光になれるんだよ。凪ちゃんは気づいてないかもしれないけど、絵だってちゃんと誰かの力になれるんだよ。そりゃお腹をいっぱいにするわけにはいかないけど、でも、心がからっぽで冷たいところを、温かく満たしてあげることができるんだよ」
 凪は膝を抱え、顔をうずめた。とても返事などできなかった。里央は凪の声が聞こえなくなっても、電話の向こうで待っていてくれた。やみくもに励ますことが無意味だと里央は知っていたのかもしれない。おそらく、里央が伝えたいのは気持ちだった。それは理屈じゃないものだった。なかなかうまく伝わらないものだった。しかしそれでも里央は凪にそれを伝えたかったのだ。

     

 榛

 夏休みが始まった。榛にとっては夏休みとは呼びたくない期間だった。連日何時間も予備校に行かなくてはならないし、それが終わったら自習しなければならない。自転車での道中、汗を流しながら、まるで永遠の世界のような入道雲を見ると、榛は何となく恨めしい気持になった。「どうしてこんな素敵な日に勉強しなくちゃいけないんだろう」彼はつぶやいた。
 最初の一週間は世界史の講義が待っていた。榛は講師の話を完全な受動態で聞いていた。
 はっきりいってまったくやりたくなかった。冷房が利いているのは快適でよかったものの、かといって彼はなにひとつ自由ではなかった。榛は半自動的に板書を進めながら、頭ではまったく違うことを考えていた。それはさきほどの命題「自分はなぜ勉強するのか」ということだったが、さしあたって何ひとつ回答が得られそうになかった。いや、結論ならあった。それは「現状のような生活を少しでも維持するため」で、ようは大学に行くことで少しでも自由でいられる時間を増やすことが主な目的だった。進学の理由を述べられない榛だが、かといって就職という言葉にはもっとピンとこなかった。ゆえ、ほとんど消去法で彼は進学を希望し、そのために予備校に来ていた。それに大学を出ておけばとりあえず大卒になれる。その先の進路をどうするにせよ、怠惰な榛がひとまず選択する進路として大学進学は悪くなかった。榛の両親は彼がそう考えていることをはっきりと見抜いていたが、とやかく言わなかったし、予備校選びにもつきあってくれた。榛の家庭はわりあい放任主義で、あれをしろこれをしろと言われた覚えが榛にはなかった。彼はただ、何となくまわりがそうしているからというだけでこれまで歩いてきたし、これからもそのつもりだった。
 榛は凪のことを考えた。一度も笑わなかった凪。きっと笑ったらかわいいに違いない。自分とはまったく違う世界に身を置いている彼女は、いったい何を感じているのだろうと榛は思った。そして彼女の絵を思い出した。自分などでは一生かかっても描けないような絵を描く、その才能。それが単純な技量だけではないことは榛にも分かった。彼女固有の感性の発露があれだけ人を惹きつける絵を生み出すのだ。そして、だからこそ苦しんでいるのだ。
 榛は勉強が嫌だったが、だからといって死のうとは思わなかった。彼にとって死はあまりにもかけ離れた概念であり、頭でしか理解しえないものだった。それは高校生においてはごく一般的な状態だった。ゆえ、榛は凪が飛び降りるほど強い衝動に動かされたことがどうしてもうまく理解できなかった。榛にしてみれば、凪は才能を発揮して自由闊達に絵を描いていて、しかもそれを評価されて世にはばたいていけるすごい人だった。そこには超人めいた雰囲気があったし、そういった人たちはみな迷いもなく日々を進んでいるような気がした。何も凪だけではなく、榛は世間一般の大人もみな、何か信念を抱き、誇りをもって行動しているのだと思い込んでいた。彼は大人の多くがどこか欠落していて、意思とは半ば無関係のところで生き、高校生である榛の比ではないほど思い悩んでいることがあるなどと考えもしなかった。たとえば今目の前で話している予備校講師は見たところ元気そうだったし、榛には立派に職務をまっとうしているように見えた。そのように見せかけることができるのが大人だなどとは思いもしなかった。榛は自分がそんな大人(彼が思い込んでいる大人や、彼にはまだ見えない、実態としての大人)になるとは思っていなかった。彼の世界は今現在、自分が高校生であり、いずれ大学生になるというところで完結していた。それより外にはまるで意識がいかなかったし、その想像もできなかった。
 講義が終わると榛は自習室に向かった。予備校の学生証を係員に見せて、席の指定を受けた。ここも冷房が利いていた。半袖の隙間から、榛はひんやりした空気が肌を伝うのを感じた。整然と並んだ机の中から指定された席に座ると、榛は世界史の勉強を始めた。中学の頃は大まかなことしかやらなかったのに、今はより詳細な知識を得る必要があった。榛はすぐに、これが何の役に立つのだろうと思った。大人はみな、こういった知識をたくわえていて、日々何か崇高なものに思いをめぐらせているのだろうか、と考えた。榛にとっての大人は頼れる存在であり、自信と信念に満ちた人々だった。たまに冷たい人もいたが、だからどうだということはなかった。テレビのニュースではこの頃、総理大臣がよく変わっていたし、世界経済が混乱しているとか、失業率が高いことなどが伝えられたが、それもどうということはなかった。彼にとってそれらはみな「大人の世界」の出来事で、今そんなものを理解するのは不可能だった。
 今度は里央のことを考えていた。凪とは好対照な魅力がある里央。クラスで彼女と話すのは三年生になってからの榛の大きな喜びであったし、それだけで彼は幸福だった。榛は昨日、部長も含め四人で話していた時間を思い出した。そしてまたみんなで話したいと思った。あのメンバーで話したり、遊んだりすれば、きっと楽しいことがたくさんある。榛はそうなればいいのにと思った。「でも俺たちは高校三年生なんだ」彼は小さく言った。
 自習は二時間ほどで終わった。気乗りしなかっただけあって、大して頭に入らなかった。時計を見ると午後一時をまわっていた。昼食にすべく彼はファストフード店に向かう。榛は、毎日五百円を昼食代として貰っている。あと百円あればメニュー選択の幅が広がったが、これでも榛には十分だった。注文をすませてセットメニューを受け取り、二階の席の窓辺に座った時、携帯電話が振動した。「茅野里央」と表示が出ているのを見て、榛は嬉しくなった。
「もしもし、茅野さん?」榛はハンバーガーの包みに指で触れながら言った。
「あ、三崎くん? やっほう」里央は持ち前の明るい声で答えた。榛は草花がどこまでも広がる草原に立ったように、気持ちが安らいでいくのを感じた。
「どうしたの?」なるべく印象のいい声になればいいと思いながら、榛は言った。
「ええとね。そうそう、昨日さ、三崎くん、四人でどこか出かけようって言ってたじゃない?」里央の言葉に、榛はたちまち元気になってきた。榛はそれが声に出ないよう気を配って、「言った言った。ごめんね、変なこと言っちゃって」
「ううん、全然。それでね、今度の週末、土曜日なんだけど、暇あるかな?……って、受験生だしこういう言い方も変だけど」里央は電話してよかったか、少し迷っているような様子だった。榛は迷わなかった。「いいよ。俺ならいつでも」ちょっと格好つけた言い方だったかな、と思った。
「ほんと? それじゃ四人で出かけない? 部長さんと凪ちゃんと、私と三崎くんで」里央は嬉しそうに言った。里央の喜びは受話器を通して榛にも伝わった。榛は季節がひとつ戻って春になったような気分だった。
「ほら、凪ちゃんがさ、参っちゃってるじゃない。だから気晴らしになればいいなあって。私たちもそうよ。ずっとこもってるのって私、性に合わないっていうかさ」
「分かるよ。俺もそんなだもの」榛はファストフード店の窓から広がる、明るい夏の街を見ながら言った。さきほどまで恨めしかった風景が、たちまち希望に満ちた世界に思えてきた。電話の向こうで里央が、「凪ちゃん次第だけど、予定では新宿か渋谷あたりかな。三崎くんは大丈夫?」
「俺ならどこだって平気。そっか、夏原さんは心配だよね」榛は言った。
「うん。あ、もしかしたらもう少し遠出して、上野とかになるかも。ほら、あっち美術館が多いから。あと静かだしさ」里央は言ったが、榛はほとんど言ったことのない場所なのでよく分からなかった。「何でもいいよ。あ、これじゃ何か面倒くさがってるみだいだけど、そんなことないからね」榛はあわてて付け足した。里央は安心するような息をして、
「それじゃ決まりね。細かいことは決まったらメールするよ。それじゃ。あ、今三崎くんも予備校?」
「そう。お昼休憩中」榛はハンバーガーの包みを開けた。
「そっか。頑張ってね。って、私もだけどさ」里央は笑った。
「うん。茅野さんも頑張って」榛が言うと、里央は挨拶して電話を切った。榛は電話をしまうと、ハンバーガーを食べた。いつもよりずいぶんおいしかった。
 その後の勉強は不思議とはかどった。榛にしては珍しいことで、彼もその自覚があったので、調子がいいうちにたくさんやっておこうと思い、その日は夜まで自習室にいた。

     

 凪

 凪は自宅の二階にあるアトリエにいた。南に面した大きな窓から、夏の光がいっぱいに降り注いでいた。今日もよく晴れている。遠くには彼女の想像力をかきたてる雲の群れが、青い空に浮かぶ島のように飛んでいた。凪はその風景から遠く南の海原を思った。青い海に浮かぶ、緑の島々にパームツリーが並び、健康的な黒い肌をした人々が、素朴な暮らしを営んでいる国。海はどこまでも澄んで、色鮮やかなコーラルリーフが遠浅の岸辺に広がっている。見たこともないような模様の魚が水中を泳ぐ。楽園の情景。そんな場所で、凪は空を飛ぶ一羽の海鳥になる。青々とした世界を眺め、自由を喜ぶ。
 凪はアトリエの、まっ白なキャンバスの前に立っていた。今思い描いたような世界を、そこに余すことなく表現するのが彼女の使命だった。しかし、筆を手にした凪はまったく動かなかった。今までに、ただの一度もこんなことはなかった。ひとたびイメージさえ湧いてしまえば、そこからどんなものだって描きだせるのが凪の天性だった。しかし、それは数日前に発生した、彼女の中の暗い、無視できない領域によってはばまれた。見えない闇は、緩慢な毒素のように凪の腕を乗っ取り、絵を描くことの自由を彼女から遠ざけた。今まで自分がどうやって絵を描いていたのか、凪は何ひとつ分からなくなってしまった。あの瞬間から、凪という存在はまったく別のものに変わってしまった。彼女はそう思わないわけにはいかなかった。目の前の大きなキャンバスは、まっ白な壁となって彼女の前に立ちはだかった。凪はそれを乗り越えようとも、倒そうとも、壊そうとも逃げようとも思えず、その場にへたり込むことしかできなかった。
「もう描けないんだ……」凪はつぶやいた。そして父と母のことを考えた。私が描けなくなったことを知ったら、二人は何と言うだろう? 今までずっと、私が絵を描くことだけに専念できるよう、すべてを与えてくれたパパとママ。私に与えられた、ただひとつの力である絵を二度と描けないと知ったら、二人は悲しむに違いない。
 凪はまた苦しくなってきた。世界そのものの冷たさとは別に、彼女自身の環境を巡る憂いが彼女をさいなんだ。描けるからこそ彼女はここにいた。それがなくてはすべてが台無しになってしまう。凪は永遠に飛び立つことのできない雛鳥がいるとすれば、きっとこんな気分だろうと思った。
 結局なにひとつ描けぬまま、凪は自分の部屋に戻った。ベッドの上に置いていた携帯電話が震えていた。凪は駆け寄って、表示を見た。「部長さん」と書かれていた。
「もしもし」凪は通話ボタンを押して言った。
「おお、凪くん。ごきげんよう。どうだ、その後?」部長はいつもの颯爽とした調子で言った。木陰に吹く風のような人だ、と凪は思った。「何とか大丈夫です」凪は言った。彼女はアトリエに残してきたまっさらなキャンバスのことを思い浮かべた。
「そうか。ふむ。それで凪くん、昨日の件だがな」部長は言った。
「あ、今度みんなで出かけるっていう?」凪は昨日も部長から電話があったことを思い出した。「話は進みましたか?」
「里央くんが榛くんに連絡してくれてな。どちらも行けるようだ。それで場所なんだが、新宿と渋谷と上野だったらどこがいい?」
 上野がいい、と凪は思った。小さい頃から両親に連れられてよく出かけているからだ。不慣れな街を歩くより、知っている場所のほうがよかった。渋谷も新宿もうるさそうなイメージがある。「上野がいいです」と凪は言った。「みんなは何て?」
「ああ、君の意見を尊重しようというのが皆の意思でね。では上野で決まりかな」
 凪は申し訳ないような気持ちになった。自分ひとりだけわがままを言っているのではないか、そんな観念があった。「いいんですか?」
「かまわないよ。特に僕と榛くんなどはどこだっていいのさ。彼と話していると安らぐからね。ほら、高校三年のわりには幼いところがあるだろう、彼は」部長は言った。
 凪は自分などもっと子どもっぽいと思いながら、「そうですね。かわいい感じ」と言った。部長は笑うような声を出して、「だからまあ、見ていて飽きないんだ。それに助手としてなかなか優秀でね。榛くんは自分では気づいていないが、あれでけっこう律儀なところがある」
 優しい人なのだろう、とは凪も思っていた。しかし、それではこの先様々な困難に遭う、と彼女は思った。本当はもっと強くなければならない。今の凪や榛のようでは、どこかで徹底的に打ちのめされてしまう。
「そっか。仲がいいんですね、二人は」凪は当たり障りのないことを言うに止めた。
「まるで昔から彼を知っていたようだよ。そういえば、君と里央くんはどうなんだ?」
「茅野さんは……一年の時によくお話ししてて。私の絵をすごく気に入ってくれて。一度、一緒にお祭りに行ったことが」凪は一息ついて、「私、自分からは人と仲良くなれないから、嬉しかったんです」
「ほほう。きみたちはきみたちで何か縁があるのかもしれないな」と部長は言った。「それで行く場所のことなんだが――」
 凪と部長はそれからしばらく週末の予定を打ち合わせした。部長はすでに行き先の候補をいくつか定めていた。凪は上野のほとんどの場所を知っていたので、驚くほどスムーズに話が進んだ。「それじゃ決まりかな。いや、凪くん、きみはずいぶんあっちに詳しいんだね。さすがと言うべきか」部長が最後の取りまとめを終えて言った。
「あのあたりは落ちつくし好きなんです。それにパパとママに連れられてよく行きます」
「む、ならば行き先を変えたほうが退屈しなくてすむかな?」
「いいえ。大丈夫です。慣れないところって私、苦手だから……」凪は手を振って言った。
「そうか。ではこれで決まりだな。楽しみにしているよ」部長は言って、まもなく二人の通話は終わった。
 凪は、気分転換でもすれば、もしかしたら絵が描けるようになるかもしれないと思った。歴史上の画家たちは、みな同じように行き詰まったことがあっただろう。彼らと自分を重ねるのはあまりにおこがましいけれど。それでもそう思うと少しだけ凪は安心できた。むしろ、今まで何の苦もなく描けたことのほうが不自然なんじゃないかしら。創作者はみな、失敗してはめげずに挑戦して、それを繰り返して成長していくもののはずだわ。とすれば、今まで私にできたことは、本当に芸術的とはいえないのかもしれない。彼女はそう思った。

     

 榛

 榛は週末が待ち遠しくてたまらなかった。何せ女の子二人と出かけるなど、今までの彼の人生において滅多にないことだったし、しかもそれが共に彼の気を惹く相手ともなればなおさらだった。榛は平日の間、予備校の行き帰り、講義と自習の合間、寝る前と何度もデートの空想をした。それがもっぱら彼のこの一週間の原動力となった。榛の気持ちには大きくムラがあったし、相変わらず勉強は受動的であったものの、全体としては普段より張り合いが出てはかどった。
 しかし前日になると榛は気が気でなくなり、勉強は滞るようになってしまった。講義を聞いても耳に入らず、板書するのが精一杯だった。彼の頭の中は凪や里央の私服姿や、彼女たちの心華やぐそぶりでいっぱいだった。それだけで彼は昼食を必要としないほど舞い上がっていた。今ならば天上の神々と会話ができそうなくらい彼の精神は軒昂していたのだ。「神よ。私をこの世に生み落としていただき感謝します」などと出鱈目な感謝を榛はささげた。神に感謝を捧げたわりに、諸行無常も自己献身も彼の精神には何ら関係なかった。神の恵みというよりは、年相応の自我による幸福が彼を満たしていた。それは永遠であり無限だった。今ならば第一志望の大学だろうと彼の敵ではなかった。そもそも視野に入っていなかった。認識していない以上闘う必要すらなかったのだ。榛のような若々しい心身の持ち主にはそのようなことなど容易だった。要するに楽しければ何でもよかった。今年の夏休みが彼にとって憂鬱極まりないものなのは、ただ単純に遊ぶことが許されないからだ。何も法律で禁じられてはいないが、高校三年の夏に遊び呆けるなど、元来天然の精神を有する榛においてももってのほかだという意識があった。彼にとっては万引きだとか、未成年者の飲酒喫煙だとか、それらと同程度に禁忌とする向きがあった。しかし、ひとたび週末の予定が、天の使いのような乙女との交友が決定してしまった今となっては、榛はもはやそんな戒めなどどうでもよかった。猛暑の中外遊びしてきた子どもが衣服を投げ捨てるがごとくやすやすとそれらを放り捨てることができた。榛はさながら歴史上の偉人になったような誇らしさとともにそれをした。彼は夜の自習をあっさりと放擲し、ダーク・サイドに堕ちることすら厭わなかった。今ならばあっさりと赤き光子の剣を手にしただろう。彼はデパートメント・ストアに向かうと近ごろ持て余していた小遣いをはたいて服を購入した! 試着の際、店員に褒めそやされた榛はエベレストの頂を極めるかのごとく有頂天になった。ああ、蒙昧なる若者のかくも愚かしいことよ! しかし彼は、純朴なる少年は、生の喜びを余すところなく享受していた。 彼の心は優雅なハチドリのごとく舞い飛んでいた。彼は四着の洋服を前に店員にこう言った。「やべどうしよう、迷っちゃいますね。こっちの柄もいいんですが、僕としてはシンプルなデザインも捨てがたいです」さながらにわか評論家のような心持ちだった。クラッシックやジャズの音楽的美点や奏者の技巧に対する識別眼を有するかのように、榛は知ったかぶりを存分に発揮した挙句、迷うようなふりをした挙句、結局店員の選んだ服を購入した! 残酷な大人の店員は形式じみた営業スマイルを浮かべ、榛がいかに痛々しい存在であるかなどおくびにも出さなかった。彼ら大人の手にかかれば、無垢なる子どもの財布から金銭をかっさらうことなど造作もなかった。ロールプレイング・ゲームにおいて魔王がレベル1の勇者をつぶすようなものであった。フィクションの世界に住まう魔王はそんなつまらないことをしないが、しかし現実に暮らす大人は無慈悲にもそれを断行するのであった!
 かくして榛は主観的には英雄に、客観的には愚者になりたもうた。彼は帰る頃には鞄の中におニューの服を隠しもち、素知らぬ顔で母親に「ただいまー」と挨拶したのだった。ああ、しかし誰が彼を責められようか! 榛はあまりにも無垢な十七歳の少年だった。未来にどんな過酷な命運があろうとも、そんなことを榛は微塵も知らなかった。先の行動はみな、世の中を知っていないからこそとりうるものだった。かのトルストイは著書の表題でこう言った。「光あるうち光の中を歩め」と。つまりそういうことだ。疑いを知らぬからこそできることというのがこの世の中には存在するのである。だから若者よ! 彼を笑うことなかれ! 卑屈になることなく、己が愚行に身を委ねるがいい!

     

 凪

 いっぽう凪のほうも急激にまいってきていた。彼女は生まれて初めて異性とどこかに出かけるのだった。彼女は一時的に例の薄暗い感情を忘れ、ただこう思っていた。「ど、どうしよう……お洒落ってむずかしい」彼女は一人で頬を染めては翌日の服装をどうしたものか考えあぐねていた。凪は親と祖父母の過保護を一身に受けた結果、店を開けるくらい洋服をたくさん持っていた。それはおおむね清楚な、いかにもご令嬢といった感じの、あるいは不思議の国を彷徨う少女のような趣味の(実はそれは彼女の父親の趣味だったのだがそれはさておき)、そうでなければちょっと憧れていてこっそりネット注文したゴシック・ロリータ的服装だったが、もう少し大人びた服も持ってはいた。凪は日頃アトリエで怒涛のごとく素描する時のように、あるいは九月に列島を襲う台風のような破竹の勢いで次々服を変えてはため息をついていた。「決まらないわ……」千着近い服からひとつ選べというほうが土台無理な話であったし、十七歳の無垢で可憐で潔癖な少女がするにはあまりに酷な決断だった。もしも部長さんや三崎くんに、あるいは茅野さんに変な子だと思われたらどうしよう。せっかくお友達ができたのに、つながりにヒビでも入ってしまったら私はどうすればいいの? その時こそ飛び降りるしかないんじゃないかしら。そうね、そうよね。そうなれば誰も私を心配しないし好都合だわ。でも今はだめ、だってこんなに楽しみなんだもの。あの優しい茅野さんや、かわいらしい三崎くんや、爽やかな部長さんと過ごせるなんて素敵じゃない。今や凪の心はダンスパーティに初めて赴く乙女のようだった。心臓はとくとくと音を立て、桃色の唇はきゅっと引き結ばれていた。そこには純潔なるものの尊い清らかさがあった。愚鈍で醜く、狡猾で堕落した大人の女とは到底似ても似つかないものだった。凪はそういった領域においてまだ完全だった。先日彼女を悩ませた暗い闇は、友情や愛情という場所には影響していなかった。だからこそ彼女は洋服選びにここまで迷っていた。自分でもこんなに迷うとは思わなかった。いつもなら適当にひっつかんだ服を着ていたし、絵を描く時はTシャツとショートパンツを履いていた。作業用の服は、いつも絵の具により色鮮やかに染まってしまうが、勝手にスタイルを作ってくれるようで凪は好きだった。しかしよそいきの衣装となると混乱する。凪は服選びに精一杯で、とてもじゃないが明日の具体的な出来事にまで意識が向かわなかった。それどころではなかった。彼女のたぐいまれなる想像力は、待ち合わせの場所に全員が集合する瞬間にのみすべてが向けられていた。実のところ、彼女は何を着ても似合っていたのだが、凪自身にそんなことを考える余裕はなかった。嫌われたらどうしよう、とそればかり彼女は考えた。ちょっとでも嫌悪感を持たれたら、凪はそれでいとも簡単に絶命してしまいそうな気がした。そうして考えているうちに疲れてきて彼女はあっさり眠った。

     

 榛

「すっごい可愛いよ!」里央の声が寝ぼけた榛の耳を打った。もう午前十時だったが、榛はすさまじく眠たかった。なにせ昨日はほとんど一睡もしていないのだ。今日という日があまりにも楽しみで、榛は去年修学旅行の日に犯したあやまちを繰り返した。すなわち、楽しみなものが次の日に迫ると一切眠れなくなるという、子どもそのものの反応を今回も起こしてしまった。昨日ばっちり決定した服をなんとか忘れず着てきたのはいいが、日頃の榛からするといささか洒落すぎていて浮き気味だった。
 今の里央の声は凪に向けられたものだった。凪はおとぎの国から現れたようなかわいらしい服装をしていた。曲線のシルエットを持つスカートに、淡い色のブラウス、襟元にはチェック模様が入り、胸元には小さな懐中時計がついていた。いつもの榛であれば釘づけになってしばらく話せなくなっていたところだが、今日は眠気がそれを相殺していた。
「うわあ、このまま妹にしたいくらい可愛いなあ!」凪の服装にもっともつよく反応したのが里央だった。里央は凪の頭をそっと撫でた。凪は恥ずかしそうにしていたが、
「そうかな、よかった。昨日、服決まらないまま眠っちゃって……」
 榛と反対に凪はたいそうよく眠ったようだ。服を選ぶ余裕がまるでなかったことを除けば、今日の彼女は調子がよさそうだった。
「すっごく似合ってるよ」そう言う里央もまた、ダークカラーを基調にしたパンツルックのボーイッシュなスタイルが決まっていた。長いポニーテールは斜めの位置で結わえられ、凪の姉にも見えた。
「皆ずいぶん洒落た格好をしているなあ」と言ったのは部長だ。しかし彼もまた社会人のように大人びた、渋い格好をしていた。ボタンダウンの長袖シャツは、肘までまくりあげられて留められている。腕には金属製のベルトを持つ時計をはめていた。榛はそれが部長の発明品であることを知っていた。ちょうど彼と出会った頃に「とっておきの発明品」と言って見せてくれたのだ。特別な仕掛けはないが、代わりに丹念に作りこまれていて、狂わない。「機能美というやつだ。場合によってはそれだけを追及するほうが望ましい」と部長は言っていた。ちなみに榛も同じものを持っているが、今日は寝ぼけるあまり忘れてきた。
 四人は上野駅を出てすぐのところにある会館前の広場に集合していた。このあたりは鑑賞するものも多く、公園もあるのでデートにも持ってこいだった。休日ということもあり人でにぎわっていた。太陽はすでに高く昇っている。四人のいる木陰でも気温は高かった。
「三崎くん、なんだか眠たそうだけど大丈夫?」里央が言った。夏の草木のように活力あふれる声に、いつもの榛であればときめいていてもおかしくなかったが、実際のところどこかで眠りたいというのが正直な気持ちだった。
「何とか大丈夫」といった傍から、榛は大あくびをした。部長は笑って、
「またほとんど眠れなかったのだろう。前からそうなんだ榛くんは。以前高校生発明コンクールの表彰式に科学クラブが招かれた時もそうだった。本当は二人でステージに上がるはずだったのに、彼は客席でぐっすり寝ていたのさ」そういえばそんなことがあったなあ、と榛は思った。頭がぼんやりして、今の景色が夢のように思えてきた。
「榛くん、あんまりにも眠かったら言ってくれ。いいものがある」部長はそう言って笑ったが、榛は返事をするのがやっとだった。
 まもなく四人は美術館に入った。あくまで主役は凪なので、彼女の嗜好に合いそうな場所、ということでプランが立てられたのだ。里央と部長が率先して計画をすすめたおかげで、何ひとつ問題が起こらず当日になった。楽しみにしすぎて空回りした榛と凪のほうはほとんど何も協力していなかったが、里央と部長はそうなるだろうと思っていたようだ。
 榛は激しい睡魔に襲われながら、夢遊病者さながらに館内を歩いていた。彼は展覧会に来ることがほとんど初めてで、最初に展示された絵を見た時、どう受け止めればいいのかよく分からなかった。凪の絵には理屈を超えて伝わるエネルギーがあり、それは知識のない榛にもよく分かったが、逆に技巧を凝らし、主題をすえて描かれた由緒ある絵画を見ると、榛はかえってそれをうまくとらえられなかった。むしろ退屈な作品に思え、彼の眠気は増した。「んー、よく分からないなあ」榛はぼんやりとつぶやいた。部長と里央はひとつ先の絵を眺めながら何やら話しあっていた。部長が何かを言って、里央がくすくす笑った。置いて行かれた気がして榛はむっとした。その時、榛の袖が引かれた。
「大丈夫ですか? すごく眠そう……」凪だった。榛にとっては、展示された絵画より彼女のほうが遥かに魅力的だった。榛は頭を振り、
「大丈夫。でもこういうところって初めて来るから、よく分からなくてさ」正直に榛は言った。凪はそっと横を向き、絵を見上げた。彼女は真剣なまなざしで作品を見つめた。凪の、純度の高い結晶のような瞳に、うすい光が差すのを榛は見た。榛は作品より凪のそんな表情を通じて、いかにこの絵が優れているかを知ることができた。凪は作品の向こうにある作家の魂のゆらめきを感じることができるのだ、と榛は感じていたのだが、その時は「彼女は自分とは違う何かを見ることができる」という漠然とした感覚でしか分からなかった。もっとずっと後になって、榛はこの時の感情をそう形容できるようになった。しかし、今の榛がそれを知るにはあまりにも早かった。榛は絵を見ている凪の横顔がこれまでに見たどんなものより美しいと思った。凪の瞳の中で、作品から受けたインスピレーションが、新鮮な水分をふくむ霧のように揺らめいているのを榛は感じた。榛は、こんなに真摯に鑑賞できる人の傍にいられるというだけでも、かなり幸運なのかもしれないと思った。
「夏原さん」榛は凪を呼んだ。ひとつの絵をそんなに長い間見ているわけにはいかないだろうと思ったのだ。「えっ、あ。何?」凪はここがどこで、今誰といるのか忘れていたようだった。「あ、そっか……ごめんなさい。私、見入っちゃって」
 榛はとても嬉しくなった。どうしてかは分からないが、凪が作品を見ていると榛は幸福を感じることができた。「行こう。ゆっくり見ていいけど、部長と茅野さんを待たせすぎないようにね」
 彼らはゆっくりと絵画を見て回った。休日ではあったが、さほど館内は混んでいなかった。客層は大人や老人が多く、榛たちのような若い世代の姿はあまりなかった。榛は何か特別なことをしている気がして、また嬉しくなった。
 榛が気に入った絵に、ゴッホの「星降る夜」があった。彼にとってはよく分からないような絵も多い中で、その絵画は心をとらえた。深い青の中に、星明かりがまたたき、夜の世界が広がっている。街の明かりが水辺に反射して、幻想的な情景が浮かび上がっていた。手前には夫婦だろうか、男女が一組寄り添っている。榛は画家が感じたものをほんの少しだけ共有できる気がした。凪もまたその絵を長い間見つめていた。彼女は星降る夜に入り込んでいるかのように、じっと立って、明かりの瞬く様を眺めていた。榛と凪は絵の中の男女と同じように、そっと静寂に耳をすませた。
「いい絵だね」榛は言った。「これは俺にも分かるなあ」
「こんな風に、誰にでも伝わる絵を描ければいいなって思います」凪は言った。「でも、ゴッホみたいに、感じているものを自分の考えを通して表す、っていうことは私にはできないから」凪の表情が曇った。榛は、彼女が画家の目線で作品を見ていることに気がついた。榛はこの絵が誰かの手によって描かれたとなかなかイメージできなかったが、凪にはそれができるようだった。
 広い美術館だったので、途中四人は椅子に座って休憩した。
「部長さんは絵にも詳しいのね」里央が榛に言った。「係員の人みたいに説明してくれたわ。面白いことをたくさん知ってた」
「部長はいったん興味が湧いたものだったら何でもよく調べるから」榛は言った。目の前を 婦人が歩いていくのを見ながら、「俺なんか初めて来たよ、こういうとこ」
「実を言うと私もなんだ。だから今日はすごく楽しいよ」里央はそう言って両手をつき、前に身を乗り出した。耳元で小さなイヤリングが揺れた。「部活が終わってからさ、何かこう、毎日からっぽになっちゃったみたいで、つまんなかったのね」
「バスケ、好きだったんだね」榛は言った。館内には控えめな照明が落ちていた。夏のいっときが記憶に染みこんでいく気がした。里央は膝に手を置いて、
「だって、ずっと、ずうっとやってきたんだもん。楽しかったんだよ。終わっちゃうなんて、思いもしなかった」里央は足元に視線を落とした。黒いミュールと対照的な白い素足。「ね、榛くんと部長さんはいつまであのクラブにいるの?」
 その質問は榛の心を揺らした。そういえばいつまでだろう? 本当なら、もうとっくに解散していてもおかしくない。他に部員もいない。榛と部長が去れば科学クラブは廃部になるだろう。今だって人数は足りていない、部長の功績のおかげで存続できたようなものだ。当の部長は榛の後ろで、壁にかかった小さな絵画を眺めている。部長はいつも楽しそうだが、科学クラブが終わって、榛と会わなくなっても変わらないのだろうか。そう思うと榛は寂しくなった。変わらざるをえない。何もかも。
「どうだろ。分からないや。部長のことだから、卒業するまで部は残しておくかもね」
 榛は言った。希望的観測。どちらかといえば、榛自身がそうなればいいと望んでいた。里央はじっと榛を見ていたが、また足元へ目を向けて、
「なんかさ、このままあっという間に秋になっちゃって。そうなったらもう勉強するばっかりで、受験して卒業しちゃうよね。忘れ物してるような気分なんだ……私」里央は言った。「部長さんや凪ちゃんみたいに、ずっと続けられる何かを持ってるわけでもないし。こういうの、何ていえばいいんだろ」榛は里央が気を落としていることを知った。今まで分からなかったが、彼女が凪と話したがっていたことや、科学クラブに顔を出したことや、四人で出かけようと言ったことなど。思えば少し妙だった。里央は前方にある海辺の絵を眺めて、「せつない、かな。部活やってる間はずっと無邪気に走り回ってたけど、いったん止まってみちゃうとさ、いつかはみんなみんな終わっちゃうんだなって思ったんだ。それってすごくせつない。いつまでも続けばいいのに、って思う。でもそうならないんだもん。榛くんも分かるでしょう?」
 榛はゆっくり頷いた。今まで知らなかった里央の一面を垣間見た気がした。里央は、
「凪ちゃんはさ、たぶんそういうのをすごく強く感じたんだと思う。色んな事がずうっと変わっていって、決して戻ることもなく、ずっとずっと変わり続けて、その間に何がなくなって、何を得て、また失って、どうなるのか。そういうのを感じたんだよ、たぶん」
 里央は、広間の右手で一枚の絵を丹念に鑑賞している凪の背を見つめた。これから先に起こるあらゆることを一度に負ってしまうには、あまりに華奢な背中だった。
「ねえ榛くん、私たちは弱虫なのかな」里央は言った。「こんなんじゃあ、これから先やっていかれないのかもね」
 榛の胸を冷たい風がさっと吹き抜けた。まるで、一足はやく秋が来たようだった。榛は、
「そういえばさ、ちょっと前だけど、予備校の先生がこんなこと言ったんだ。講義のちょっとした合間だったんだけど、『大人になったらいいことなんか何ひとつないから』って。ずいぶん力をこめて言うものだから、その時、講義聴いてた人たちがみんな静まり返っちゃって。俺もなんかショックで、どうしてそんなこと言うんだろうって。正直よく分からなかったしさ。でもずっと記憶に残ってるんだ、それが。今まで予備校に行った中で、一番強く記憶に残ってる。講義内容と何も関係ないのにね」
 当時、榛は大人がそんなことを言うのが衝撃だった。まして公の場で。たとえばお酒を飲みながら愚痴のように言ったら、高校生である榛は、まだ彼なりの受け止め方をできたかもしれない。しかし、予備校の講義中に講師がそのようなことを言うのが榛にはうまく理解できなかった。それはとても真実味のある行いだったのだが、若い、今の榛にはとらえきれない出来事だった。
「そんなこと言うなんて」里央は言った。「でも、もしかしたら大人はそういう気持ちを隠してるのかもしれないね。普段はさ」たしかに、と榛は思った。そう考えれば少しは納得できる。しかし何にせよ、なぜそんな暗い感情を隠さねばならないのか榛には分からなかった。誰かに話すとか、休日に出かけるとか、解消法ならいくらでもありそうなものじゃないか。何が感情を抑えこむのだろう?

     

 凪

 それを理解したのが他ならぬ凪だった。彼女は、年頃の少年少女が知るより遥かに早く、世の中の成りたちを感覚的にではあるが察知してしまった。ゆえに彼女は傷つき、潰れてしまいそうになった。しかし彼女は、今日この場所に来ることで、久しぶりに心の中にできた暗い、やりきれない領域から脱出することができた。絵を眺めていると、凪は自分の心が思いのほか落ちついていくのが分かった。それはまったく新しい発見だった。今まで凪は数々の作品を鑑賞し、それらに強い感銘を受けてきた。だが、絵に彼女自身の迷いや憂いを浄化する作用があるなどということを知らなかった。それもそのはずで、これまでのところ彼女には悩みらしい悩みがほとんどなかった。以前まで、凪はあるがままに世界を見つめていたし、その裏側がどうなっているかなど想像もつかなかった。そもそもそんなものの存在を意識すらしなかった。あの日、放課後の美術室で瞬間的にそれらをつかみ取ってしまった凪は、生まれて初めて人間の苦悩というものを知った。それは彼女にとってはあまりにも耐えがたいものだった。事実、彼女は自殺を図った。結果それは失敗した。榛や部長が助けてくれたからだが、実のところ、凪は本当にありがたいことだとは思えなかった。相変わらず暗い領域が彼女の心をさいなんでいたし、いつまた屋上から身を投げ出してしまうかも分からなかったからだ。先日は気分が悪くなって失神してしまったし。それでも心の声は凪に、助けてくれた彼らへ礼を言うよう告げていた。凪はじっさいその通りにした。すると彼らと凪は友だちになった。そして今度は凪を、彼ら新しい友との関係からくるさまざまな思いが襲ったのだった。もはや彼女は一人ではない。死んでしまえば彼ら友人が傷つく。ゆえに凪はどうすることもできなくなってしまった。そんな折、外出の誘いが彼らからあり、凪は部長や榛、里央とともにここへ来た。初めこそ断ろうかと思ったが、前日には我を忘れそうになるほど舞い上がってしまった。友と遊びに出ることが、凪は素直に嬉しかった。さらに驚いたのは、今までさんざん見てきたはずの絵画が、ここにきて彼女に対し新たな方向から光をさしたことだった。凪は知った。なぜこれらの絵が名画と呼ばれ、ながい歴史の中で時の洗礼に耐え、風化せずに残り続けてきたのかを。画家たちはみな、あるいは嘆き、あるいは憂い、あるいは絶望し、しかしそれでも光を見出そうとしていた。その発露が作品だった。凪は、自分が今までほとんど何も見ていなかったのではないかとすら思った。これまでにもよさは分かった。確かにどの絵も素晴らしかったし、凪はひとつひとつからインスピレーションを得ることができた。それは凪の無意識下に沈み、爆発的な才を彼女から引き出す一助となった。しかし、その頃の凪はほんとうの意味で作品を理解しているとは言えなかった。そこに画家が何を込めているのか、なぜ生涯すら賭して絵を描くことに献身したのか、そんなことを思いもしなかった。
 しかし今は違った。凪ははっきりと、自分が新しい観点、感覚から作品を眺めていることを自覚した。それは凪に、今、みずから命を絶つことがいかに空疎であるかを教え、ただ生きることへの兆しだけを示していた。まったく思いもよらぬ発見をし、凪は全身が総毛立った。自分がいかなる場所に立っているのかを凪は知った。今後、生きる上で彼女がなすべきことも知った。そして、それが決してひとりきりではできないものであることも、彼女は感じ取った。彼女は誰かを支えねばならないし、そうすることで誰かに支えてもらわなければならない。ちょうど部長や榛、里央に助けてもらったように。凪はいま、紛れもない芸術家として世界に立っていた。それはほんの入り口にすぎなかったが、素晴らしい、心地よくも頼もしい風の吹く場所だった。凪は大いに恐れていたが、それとは反対に、そんな場所を歩くことへの希望も同時に見出していた。もしも私にそこを歩くことができたなら。
「凪くん、調子はどうかな?」部長が凪に声をかけた。凪は新しい発見と変化が心を塗り替える最中だったので、ずいぶん驚いてしまった。飛び上がった凪は、
「わわっ。あ、え、ああ、部長さんかあ……びっくりした」両手を合わせ、ほっと息をついた。「すまない。声をかけてはまずかったか。しかしきみの集中力はすごいな。それだけ真っすぐな目で鑑賞してもらえれば、この画家たちもさぞ喜ぶだろう」部長は言った。
「あ、はい。つい見入ってしまうんです。なぜかは分からないけど、今日は特に。どの絵もずっと見ていたいくらいです」凪は言った。それはまさしく彼女の本心だった。「今日ここにきてよかった。今までとはちがう発見があって。すごく不思議なんですけど……どうしてかしら」凪が部長を見ると、彼は目の前の絵を遠い眼差しで眺め、
「きみは絵の中に宿る魂というものを感じたのかもしれないな」部長は言った。「優れた作品が世に残るのは、その技術もさることながら、そこに作家固有の魂が宿っているからだ。他に代わりの利かない、芸術家生来のものからくる感情、思い、信念。それらが数百年の時を経た今もなお、作品を通じて感じられる。凪くん、おそらくきみは同じ年の誰よりもそういったものに敏感なのだ。だから誰よりも繊細だし、傷つきやすい」
 繊細とか傷つきやすいと声に出して言われると、凪は恥ずかしくなった。顔が赤くなる。
「今まではただすごいなあって思っていたんです。でも、今は少し違う。描いた人が何を思って、何を感じていたのかが、何となくだけど、見えるっていうか……」言葉を使って説明するのは凪の苦手とすることだった。しかし部長は意を得たらしく、ほほえんだ。
「きみは図らずも一歩先へ足を踏み出したのかもしれないな。もう前までの場所には引き返せないかもしれないが、かといってためらうこともない。凪くん、きみと同い年で未来が見えずにいる人はずいぶんたくさんいるんだよ。ほら、榛くんや里央くんはそうだ。彼らは時が移ろっていくことに対し迷いがある。彼らが他の者と違うのは、惰性で足を進めず、心の声に従い、ちゃんと立ち止まったことだ。時間はかかるかもしれないが、彼らもきっと、自らの場所へ進んでいくことができるだろう。僕はそう信じている」
 凪は部長を見つめた。この人はいったい何者なのだろう、と凪は思った。ひとつ年上とは思えないほど、色々なことを知っている気がする。もしかしたらそこらの大人よりよほど意思がしっかりしているのではなかろうか。「部長さんは迷ったりしないんですか?」
「そうではない、凪くん」部長は言った。眼鏡の表面がきらりと輝いた。「僕も彼らと同じように迷っているんだ。ただ知ったようなふるまいができるだけで、じっさいのところ、この年頃の誰とも変わりないんだよ」
 凪はさらに驚いた。というのも、今部長の顔にはこれまで見た事のない色が浮かんでいたからだ。色で言うならば、それは一見空のようだった。が、よく見ると海に近く、悲しみをたたえているものだと分かった。それをこの人は表に出さずにいたのだ。凪は知った。部長の悲しみもまた、確かに存在していて、おそらくはどこか隠された領域で彼をさいなんでいる。「そうなんですか……」凪は言った。部長は腕を組んで首を振り、
「しかしきみの気にすることではない。凪くん、きみは自らの進むほうへ目を向ければいい、迷う必要もない。さもなくば多くの人がきみを知る機会を失してしまうかもしれない。君にはとても大きな才能がある。もうしばらく磨きをかける必要があるだろうが、それは間違いなく、誰かを救う風になるはずだ」そう言うと、部長は榛たちのもとへ歩いていってしまった。凪は何を言うこともできず、その場に立ちつくしていた。

     

 榛

 美術館をまわった四人はレストランで昼食にし、その後公園を散歩した。榛はまた眠気が襲ってくるのを感じた、まるで地底から彼の四肢を絡め取る縛鎖のように、榛は眠気が彼を深いところへ引きずり込んでいくのを感じていた。
「榛くん」部長が声をかけた。「きみから声をかけてくれないから僕から言うが。眠気覚ましにいいものを作ってみた。ぜひ使ってみたまえ」部長が差し出したのは丸いキャンディのような、錠剤のような粒だった。それは黒いようでもあり赤いようでもあり、なにかいびつな代物だった。まがまがしい。
「何ですか部長これ」榛は眠気で今にも身体が崩れ落ちそうになるのをこらえて言った。「見るからに怪しいんですけど」
「目覚めの薬だ」部長は言った。「それを使うといくつかの意味で目覚めることができる。
 自分で使ったことがないのでどの程度の副作……効能があるか未知数だが、眠気覚ましという点においては太鼓判を押すぞ」
 凪と里央は並んで前を歩いていた。榛は遠のきかける意識の中、今ここで寝たら比喩的な意味で死ぬと思った。いまこの瞬間にこそわが人生ありき。
「ありがたくいただきます部長」そう言うなり、榛は謎の薬を口に入れた。
 途端に榛は口を尖らせた。すさまじく酸っぱかった。レモンをまるごと食べたほうがまだマシだった。かと思いきや、今度はコーヒー豆をそのまま咀嚼したかのような苦みが口いっぱいに広がった。今すぐ吐きだしたくなったが、部長が笑いながら口を塞いだ。
「ここがこらえ時だぞ榛くん。たまには気丈に耐え忍ぶことで男になってみるのも悪くないだろう」部長はにっこり笑った。ほほ笑みながら、しかし全力で榛の口を押さえていた。榛は抗議のうめきを漏らしながら、自分が部長の発明の実験台になってきた数々の過去を思い出していた。たとえばジャンピングスーツという機械仕掛けのズボンは、跳躍力を三倍に高めてくれたが運動神経のない榛は思いきり転倒して保健室送りだったし、味覚や聴覚を複合的に利用して暗記力を高める五感刺激式記憶装置は、当分の間、榛の味や匂いや音などに対する感覚を出鱈目にしてしまった。テストの文章を読んでいる間にラーメンの香りがしたり、歴史上の人物名を見ていると頭の中にハードロックが流れ出すといった有様だった。榛が回想している間に、口の中に濃縮したシロップのような甘さが広がってきた。そののち、猛烈な辛さとともに錠剤は溶けて消えた。榛の眠気はさっぱり消えてなくなった。頭の中に清涼な空気が流れ込んでくるような、さわやかな感覚だった。
「ほれはらひ」漫画じみた言語外言語を榛は発した。部長は、「効果てきめんのようで何よりだ。はっはっは」穏やかに笑った。榛は怒る気などしなかった。部長の新しい発明を試すのはなんだかんだ言って楽しかった。「即効性ですね部長、これ」
「そうだろうそうだろう」部長は満足げに頷いた。
「ん?」榛は突如、自分の身体の一部が熱くなってくるのを感じた。すぐさま、新たなる衝動が生まれてきた。それは若さを象徴するかのような膨張ぶりで彼の脳、おもに下垂体を刺激し、異性に対する強烈な憧れとなって全身を支配した。特にある一点、榛の一部、若き(ヤング・)息子(チャイルド)は九十度近い方角変更を余儀なくされた。しかもそれは呪いのように解除することが困難なものだった。榛は元気いっぱいになった!
「部長?」榛はなるべく前方の乙女たちを見ないように注意しながら言った。今や、彼の男性の象徴は進行方向へ真っすぐに伸びていた。
「どうした榛くん、新しい世界が開けそうか」部長は悪気など何もないと主張するような笑顔だった。榛は部長に、「こっちを目覚めさせる必要がどこにあるんですか!」
「馬鹿言いたまえ榛くん。全身のすべてを解き放つことで真の目覚めは生まれるのだよ。物語の主人公などはみな、極限まで自己を高めることで未知の領域へ足を踏み入れた」
「今覚醒しても何にもならないんですけど……くう」
 榛は今ならばどんな夜間試合にでも勝てるのではないかと思ったが、あいにく彼はリングに立ったことがなかったので定かではなかった。歩くたび彼は衣擦れを感じ、そのたびに心地よい刺激が禁断の快感とともに彼を引き返せない楽園へと導いていきそうだった。
「部長、タイムを要求します」榛は叫んだ。眠気は完全に吹き飛んだものの、眠気覚ましの不要な副作用は榛に別の危険をもたらせたのだった。檄鉄を上げたリボルバーの暴発だけは何としても止めなければならなかった。「いかんともしがたい」榛はつぶやいた。
「おうい里央くん、凪くん、ちょっと待ってくれ! 榛くんが休憩したいそうだ」部長は二人を呼びとめた。
 その後、四人は集まり、ベンチに座って色々な話をした。榛は刺激を避けるべく、部長のほうだけを見るように努めた。しかしそれを疑問に思った里央が「どうしたの榛くん、さっきから部長さんのほうばっかり見て」と言い、部長が、「里央くん。きみもうすうす感づいていたかもしれないが、彼は僕にぞっこんでね、去年のバレンタインなど女子生徒に混じって彼がチョコレートを作って僕にくれたくらいなんだよ。きみたちのいる前ではなるべく見つめるのを我慢していたようだが、とうとう抑えきれなくなったらしい」と、ないことないことしゃべりだすと、榛は、「部長! ふざけないでくださいよ! 元はと言えば部長があの変てこな錠剤を――」立ち上がりかけた榛はすでに立ち上がっていた己が分身の存在に気づき慌てて動くのをやめた。元気いっぱいの少年はまだまだ疲れを知らなかった。それに気づいた部長はくすくす笑っていたが、冗談を微妙に解さない凪は、「えっ! 榛さんって部長さんのこと……えええ」と言って頬を赤らめたので榛はこの世の無情に絶望した。そうか、冤罪はこうして生まれるのか。
「わあ、ショックだなあー。私、榛くんのことちょっとだけ狙ってたのに」などと冗談めかして里央が言うと榛は気も狂わんばかりだった。「ああ部長!」(ああ無情)
「そういうことなんだ、悪いな里央くん。残念だか二年以上もつきあっていると愛情が生まれないわけにはいかないらしい」部長は感慨深そうな態度で頷いた。「それで榛くん、どうしたものだろう。同性の挙式が認められている国への移住でも将来の展望に含めるべきだろうか?」
 凪は顔を赤くして部長の話を聞いていた。相当刺激的らしい。彼女に勝手な幻想を抱いていた榛は凪の嗜好が今一つつかみきれなかった。かといってさきほどの絵画に向ける真っすぐなまなざしを思い出すと幻滅もできない。「部長のせいですよもう!」
 かくして素晴らしい一日が終わった。それらはみな夏の光のなかにあった。二度と訪れない時間の中にあった。しかしその時間、彼らはそんなことを気にしなかった。他の多くの高校生と同じように。

     

 凪

 夜、家に帰った凪は胸がいっぱいだった。今日一日で、新しい世界が目の前に開けたような気がした。それは高揚をもたらせたが、もっと地に足のついた感覚でもあった。二度と描けないと思った絵も、もしかしたらまたできるようになるかもしれない、そう思った。あの美術館での時間、凪はいくらでも絵を描ける気がしたからだ。
 しかし今はまだ試すのが怖かった。これでもしも描けなかったら、その時こそおしまいになってしまうかもしれない。初めて訪れたスランプゆえ、凪は慎重だった。
「パパやママに何と言えばいいかしら」凪は言った。何にせよ、凪は少し絵から離れてみたかった。今日、まったく新しい観点から絵画を鑑賞することができたのは、自分の中に起きた変化が理由だったが、それは榛や里央や部長のおかげだ。凪はそう考えた。
「またどこかに行きたいなあ」まるで幼い子が出かける先を空想するように、凪は彼らと様々な場所へ出かけることを思い描いた。同時に、今までなぜ友達を持たなかったのか不思議に思った。絵を描く時間は減っていたかもしれないが、それよりもずっと素敵なものがたくさんある。
「そうだ。絵が描けないことをパパとママに相談しよう。少し休ませてってお願いしてみよう」凪は言った。彼女の両親は優しい人だった。凪に対してきつく当たるようなことはただの一度もなく、叱りもせず、ただ凪を褒めて育てた。だからこそ彼女はどこまでも自由に羽ばたくことができた。だからこそ世の中に潜む暗い景色に気づいた。そして、だからこそ傷ついたのだ。凪にはひとつの確信があった。凪の両親であれば、彼女が本気で迷っていると知れば休むための暇をくれるだろう。今まで止まらずにやってきたけれど、両親は何度かそんな風に休息することを勧めてくれていた。凪はふと、前に聞いた父親の言葉を思い出す。
「パースペクティヴという言葉がある。遠近法のことだ。これを習得することで、絵をより正確に描けるようになる。そうすれば意図して崩すこともできるし、ある部分にだけ適用したり、わざと無視することもできる。要するに見通しをよくすることが大事でね。凪、これは何も絵に限った事ではない。きみはこれから先、思いもよらず立ち止まってしまうことがあるかもしれない。そんな時に、一度深呼吸をして、見晴らしのいい場所から遠くまで見渡してみることがとても大事になる。いいかい、見通しをよくすることだ。そうすればきっとうまくいく。どんな場所、どんな時間にいてもだ」
 その言葉の意味はまだよく分からない。しかし凪には今がその時であるような気がした。凪は椅子から立ち上がると、自分の部屋を出た。

     

 榛

 榛もまた深い満足とともにあった。ようやく部長の薬のありがた迷惑な効能も治まって、今日一日の幸福な余韻に浸ることができた。凪も里央も、自分と一緒に行動してくれるのがもったいないくらいのいい子たちだった。榛は、また今度どこかに出かけられたらいいなあ、と思った。そしてあらためて受験生の身分を窮屈に感じた。せめて去年だったら、もっと気兼ねなく、どこへだって行けたのに。
 榛は出しぬけに思った。俺はほんとうに縛られているのだろうか? たとえば、まったく別の時代や国に生まれていたらどうだろう。それでなければ、猫や犬にでも生まれていたらどうなんだろう。今よりもっと自由だったんじゃなかろうか。いや、反対にもっと嫌なことばかりかもしれない。待った、俺は何を考えようとしているんだろう。現実から逃避したいのだろうか。それは少し違う。惰性で身体が動いていくのが嫌なんだ。だって、今の俺には何も意思が伴っていないじゃないか。なぜ勉強するのか分からないし、将来どうしたいとかもない。部長や夏原さんみたいに才能があるわけでもない。だから目下のところ受験勉強しているわけで。でもやる気があるかといえば、そうではない。
 榛はふとこんな言葉を思い出した。「目の前のことを頑張れ」それは確かに、形のない迷いに対するひとつの答えであるような気がした。がむしゃらにやっているうちに前に進めるという意味だろう。そうしているうち、気がつけば見えることやできることが増えているかもしれない。そうなればおのずと意思が伴って、はっきり「これをやりたい」と言えるようになるかもしれない。
 しかし榛は迷った。がむしゃらにやるなんてこと、俺にできるだろうか? 俺は怠け者だし、面倒くさがりだ。それにどうしても勉強がこれからの自分に必要とも思えない。だって、仕事には直接関係がないじゃないか。それこそ職業訓練でもすれば、あるいは必要な研修を受ければ、ビジネスマナーや資格取得や、そういうものがあれば仕事はできるだろう。ならばなぜ歴史や古文や、人によっては化学や数学を勉強するのだろう。
 その問いは榛の中につよく残り、無視できないものとなった。昼間見た凪の表情が、榛の疑問をより強固にした。凪ははっきりと自分の使命を持っていた。それは理屈や惰性とは別の領域にあると榛は感じた。だからこそ、受験勉強がそういったものと結びつくイメージが持てなかったのだ。実のところ、社会に出ていくためには勉強そのものより、むしろ学校という場で生活できること、人間関係や集団生活の中で生きていくことのほうが大事だったのだが、榛はそこに意識が行かなかった。
 榛は凪に憧れていた。それは異性という意味よりは、表現者としてすでに多くのものを持ち、今なお成長の過程にあること、道の途中にいることがその理由だった。榛は自分の境遇を鑑みて、俺などまだ始まってもいないな、と思った。
 榛はふと、机の脇に置いたエレキギターを見た。淡いオレンジのストラトキャスター。一年前に何となく買ったものの、簡単なコードだけ覚えたままほとんど弾いていない。駅でギターを背負っている人などを見ると、どうして続けられるのだろうと不思議に思う。
「こんな風に迷ってないのかな。他の人は」榛は言った。疑問に対する答えはなかった。

     

 里央

 ある日の昼間、茅野里央は市立図書館の自習室にいた。そこは夏休みの間だけ解放されているスペースで、地区の中高生がちらほら現れては利用している場所だ。里央もその一人だった。彼女も予備校に通っていた。榛とは別の場所だった。しかし、予備校で自習するのは彼女の性に合わなかった。あの場所にいると、まるで自分が決められたレールの上を意思もなく走らされているような気分になる。里央はそれが嫌だった。彼女もまた榛と同じく文系で、第一志望はここから電車一本で向かうことのできる私立大学だった。現時点での里央の偏差値からすれば、まじめに勉強していけば合格圏内に達することができるはずだった。
 しかし里央は気が乗らなかった。実を言えば、夏休みに入ってからずっとそんな調子だった。里央もまた榛のように未来への疑問を抱いていた。彼女の場合は榛とはまた事情が違い、より現実的にこの先のビジョンを見ることができた。彼女の父親は保険会社で働き、母親はパートをしながら里央を養っている。「うちにはあんまり余裕がないんだから」というのが母親の口癖だった。里央には兄がいる。彼は国立の大学に進んだ。しかし里央はそこまで優秀ではないため、国公立の受験は視野に入れていなかった。自分の存在が家計を圧迫していることも憂鬱だったし、この先に伸びている普通の人生を思うとさらに憂鬱だった。里央は大学生というものはそれまでとは別の世界の入り口だと感じていた。ひとたびそこに入ってしまえば、もうこれまでの自分は永遠に失われてしまうのではないかとすら思った。今の、誰かに媚びたりしない自分。考えを曲げずに、人に迎合したりしない自分。何もわがままでありたいわけではなかったが、何らかの形で集団に溶け込まなければならないのが里央は嫌だった。
 バスケットボールを続けていたのは、チームワークでありながら一人ひとりの意思や決断が雌雄を決するスポーツだからだ。他の団体種目と比べ人数が少なく、それゆえに決断の重要度が上がる。何をするにも自分に責任が降りかかってくるのを、里央はむしろ好んだ。里央は自分の信念を貫いた結果、部長になり、なかなかの成績を収めた。しかし、これから先のことに対しては迷わないわけにいかなかった。どう考えても、これからの人生はそんな単純なものではない。きらめく光のような青春時代は少しずつ過ぎていき、だんだんとのっぴきならない現実に自由を奪われていく。まもなく十八歳になる里央にはそれがはっきりと分かった。
 凪が感じたのはそういうことではないか、と里央は思っていた。彼女は人一倍感性が強く、人が感じないことまで感じ取ってしまう。友人を設けずにいたのは、もしかしたらそんな彼女の本能がはたらいていたからかもしれない。おそらく、まともに人とつきあっていたのでは、凪は普通の人よりずっと人づきあいに摩擦を感じるだろう。そうなれば彼女の作品には影が落ちる。もともとあった魅力は消え、飛べないと思い込む鳥のようになってしまう。凪の症状に対して、自分たちが関わっていいものかどうか、里央は自信がなかった。あの時、どういうわけか「大丈夫だよ」と言ってしまった。里央はそれを不思議に思っていた。何の考えもなく自然に出てきた言葉だった。仮に現実がどうであれ、凪には傷ついてほしくなかった。あの絵が見られなくなるという危惧があったかもしれない。何にせよ、彼女が絶望し、死んでしまうようなことだけは止めたかった。
「大丈夫だよ、か。私もそんな風に言ってもらいたいな」里央はつぶやく。
 この前のデートは楽しかった、と里央は思う。この一カ月の間、もやもやしていたものが、ほんのいっときではあるがふっきれた。「なぜかしら」と里央はつぶやいた。眠そうだった榛や、初々しいお洒落をする凪や、颯爽とした部長のことを考えると、里央は幸福な気持ちになった。あの四人で会ったのはあれが二回目なのに、もうずっと前から四人仲良しでいるような感じだった。もっと早くに出会えていればな、と里央は思った。そして榛のことを思った。この前冗談めかして言ったが、実のところ里央は榛が気になっていた。男らしさはまるでないし、勉強や運動ができるわけでもないが、榛と話すのは楽しかった。こっちのことを意識して照れくさそうにする姿がかわいかった。それに、凪や部長とは違い、榛は普通の男子高校生だった。同じように予備校に通い、進路を決め、受験勉強している。そして迷っている。あの様子だと、少なからず将来に対して不安があるだろう。四月以降、教室からたまに窓の外を眺める榛は、例外なく物憂げだったからだ。もしかしたら本人はそんな表情を浮かべていることに気がついていないかもしれない。榛を見ていると、里央の胸はざわついた。たわいなく過ごす日々もやがて終わるのだ。そう思わずにはいられなかった。部活を引退してしまうと、いよいよそれは決定的になった。里央はどこか上の空になった。
 里央は携帯電話を手に取った。この前の別れ際、「今日は楽しかった。また四人で会えるといいな」と部長が笑っていたのを思い出す。それは里央も同じ気持ちだったし、榛や凪もそうだろう。しかし今の彼女たちにそんな自由がないことを時間が告げていた。里央は思う。どうしてだろう。私は自分の意思で手足を動かすことができるのに、なぜ「できないこと」なんてものがあるんだろう。
 すぐさま里央はその理由を列挙することができた。受験があるから、親に迷惑がかかるから、自分で選んだことだから、そういう時期だから。自分で選んだこと、というのに里央は引っかりを感じた。私は本当にこうすることを選んだのかしら。形だけはそうなっているけれど、それは選択と呼べるのかしら?
 すでに志望校へは見学に行った。実際のキャンパスライフがどういうものかは分からなかったが、少なくとも場の雰囲気をつかむことができた。校舎には楽しそうに歩く学生の姿があったし、目指す場所としては十分にも思えた。それなのに里央は能動的になることができなかった。「私はどうにもならないことを嘆いてる」と里央は言った。時間の流れが止まるか、戻るかすればいいと思いもしたが、そうなったところで何にもならなかった。それらはもう過ぎたことで、里央がすでに経験したことだった。同じことを繰り返していても意味はない。ではいったい自分はどうすればいいのだろう?
 里央はその日、夕方まで迷っていた。自習室にいる他の学生を見て、彼らが一心不乱に勉強できることを不思議に思いながら。

     

 榛

 榛の心が弾んだのは、夕方、予備校の自習室にいる時のことだった。ちょうど長ったらしい歴史の年表を睨むことや、人物と出来事を関連付けて覚えるためにルーズリーフに走り書きするのに飽きてきた頃だった。携帯電話に茅野里央からのメールが来た。
『三崎くん。夜、暇ある?』女子にしては簡潔な内容のメールで、榛は少し意外に思ったが、里央のさっぱりした性格を思い浮かべると、むしろ顔文字や絵文字などで装飾してあるほうがおかしいかと思い、榛は笑った。
『大丈夫だよ』と打って榛は返信した。予備校の自習室でも問題なく使える、携帯電話のメールという発明を榛はありがたく思った。榛はいったい何の用だろうと思いながら返信を待った。すぐに反応がなかったので、勉強を進めようとした。しかし気が散ってしまう。気になって、待ち受け画面の電波表示を見つめる。時刻は午後六時だった。
 五分経って返信が来た。『学校の前で待ち合わせしよう。時間は七時半でいい?』
 榛はすぐに『いいよ』と返した。『それじゃあとでね』と返信が来て、メールのやり取りは終わった。榛は先週末と同じような高揚を感じた。そして、今の服装がごく普通のTシャツとジーンズであることを少し後悔した。せめて髪型くらい整えておくべきだったと思った。
 勉強道具を片づけた榛は、母親に『夕飯いらない』と味気のないメールを送り、自習室を出た。外は夏の薄い闇に包まれていた。気温がわずかに下がってきている。もっとも過ごしやすい時間帯だ。夕方の街にもやはり夏の風景があった。暑さのせいか、道行く会社員などは疲れが見えもしたが、榛のような高校生たちは、休みの時期特有の軽やかな足取りで通りを行きかっていた。夏の街にはどこか幻想的な空気がある、と榛は前から思っていた。それは榛の着るシャツの裾から入ってきて、榛自身をも夏の景色の一部にしてしまう。街には街灯がともりはじめ、空が朱から紺へとグラデーションを帯びて染まっていく。榛は地下にある予備校の自転車置き場に向かった。整然と並ぶ自転車の中から、自分のものを引っぱりだした。二年以上使ってあちこちへこんだり錆びたりしている。学校と予備校の駐輪許可証が貼ってある。榛は、いつかそれらが必要でなくなるとは思いもしなかったし、いつか自転車を使わない日がくるとも思わなかった。電車通学ならまだ違うことを感じていたかもしれないが。榛は自転車で学校に通うのを気に入っていた。
 駐輪場を出た榛は、近くのコンビニエンスストアに行ってサンドイッチとカフェ・オレを買い、映画館のある通りのベンチに座って食べた。モノレールが定期的に頭上を滑っていく場所だ。その下の広い歩道を等間隔にともす街灯は、夏の夜の時間をゆっくりしたものに変えていく……そんな気がした。こんな風にのんびり過ごせればそれが一番いいのかもしれないな、と榛は思った。ただ存在しているだけでこんなに気持ちがいいなんて。榛は映画館から出てくる人々を眺めた。榛のような学生もいたが、主婦や老人もいた。きっと、上映されていたのは老若男女問わず楽しめる作品なのだろう、と思った。時計を見ると、七時まであと十分だった。まだ時間があるので、榛は近くのCDショップに入り、適当に新しいアルバムを試聴した。初めて聴いたロックバンドの新譜がほしかったが、財布と相談してやめにした。今度レンタルですませようと榛は思った。不況によりCDの在庫が少なくなっていることや、新譜もすぐに片隅へ追いやられてしまうことなど、榛は気にも留めなかった。CDショップを出ると今度は本屋に向かった。大きな書店で、どんな種類の本でも豊富に取りそろえている。榛は全然本を読まないくせに、本屋に行くのが好きだった。いざはまりだすと延々読んでいるタイプだったが、興味を持てる本でなければまるで読む気がしなかった。榛はどういうものが自分の興味に合致していて、どういうものが外れているのかうまく見極められなかったから、日頃自分から本を買ったりはしなかった。それならゲームやアニメを見ているほうが、余計に頭を使わなくていいぶん楽だった。しかし、最近は以前ほどそれらのものを楽しいと思えなくなってきていた。どうしてなのか、自分では分からなかった。そういえばこの前行った美術館はおもしろかったなあ、と榛は思った。榛は、あの場所で見た数々の絵画の記憶が、ぼんやりとしたかげろうのように胸の奥で揺らめいているのを感じた。そんな感覚はゲームやアニメを通しては得られなかった。しかしそんな「ゆらめき」を榛は初めて察知したので、ほとんど理性の外でそれを感じただけで、その正体が何であるとか、なぜおもしろいと感じたのかについては考えなかった。ふと気がついて携帯電話を見ると、時刻はもう七時二十分になっていた。榛は慌てて店を飛び出し、駐輪場に停めた自転車に乗ると、学校まで急いだ。
 正門の前にはもう里央が来ていた。この前とは違ってシンプルなスタイルだった。榛とほとんど同じで、ジーンズとシャツ。長い黒い髪はうなじのところで束ねられていた。つややかなポニーテールは夏の夜に溶けだしていくようだった。
「お、時間ぴったりとはやるじゃない、三崎くん」と里央は言った。榛は慌てていたので、里央に見とれる暇もなかった。「危うく遅刻しそうだったよ」と言って榛は頭をかいた。
 学校の敷地は静まり返っていた。もう部活をやる時間帯ではない。
「ちょっとくらい遅刻しても全然問題ないよ。私が勝手に呼んだんだもの」里央は言った。
「茅野さん、歩き?」榛が訊いた。私服で学校に集まるのは新鮮な感じがした。
「うん。昼間は図書館で勉強してた」と言って里央は手に持っていたトートバックを示した。「ごめんね、突然呼んだりして」
 正門の前にひとつだけある電灯のまわりを虫が飛んでいた。その光のもとに榛と里央は立っていた。完全には熱の引かない、夏の空気があった。榛は不意に、この風景をいずれ思い出すことになるかもしれないと思った。
「三崎くんの自転車って、二人乗りできたっけ?」里央は言った。榛はぼうっとしていたので、「二人乗り」が何のことがとっさには分からなかった。それから慌ててサドルの後ろを確認した。荷台には部長が取りつけたクッションシートがあった。『榛くん、これできみも青春を謳歌する高校生になりたまえ! 後ろに座るレディがお尻を痛めないようにしておいたからな!』という言葉を思い出す。これが榛の自転車の荷台につけられたのはほんの三か月前だ。それならもう少し前にほしかったと思ったものの、過去二年を通じ、榛が女の子と自転車二人乗りをするような機会は一度もなかった。
「部長ができるようにしてくれたんだよ、ほらこれ」と言って榛は後部座席を指さした。
「さっすが部長さんね」そう言うと、里央は榛の自転車に近づき、クッションシートを指で押した。それから腰かけた。「わ。ずごいこれ、普通の自転車の椅子よりも座りやすい気がする」
 榛は戸惑った。身体が石になってしまったような気がした。里央は榛のすぐ近くに座り、座席の沈み具合を確かめていた。細い首筋に電灯の明かりがさして、綺麗なシルエットをつくった。榛はなおさらどうしたらいいか分からなくなった。
「三崎くん? どうしたの」里央は言って、榛を見上げた。綺麗な瞳が輝いていた。榛は立ったまま、自転車が倒れないよう、ハンドルを支える手に力をこめた。
「えっと、どこか行くの?」榛は自分が何を言っているのか分からなくなりそうだった。
「適当にふらふらしようよ。一日勉強なんて疲れるじゃない? さ、レッツゴー」
 言われるがまま、榛は頼りない手つき足つきで、それでもしっかりと自転車を漕ぎだした。里央は榛のシャツを両手でつまんでいた。その感触が榛にはとてもこそばゆかった。昔、部長が開発した『罰ゲーム専用鬼くすぐりマシン』の比ではなかった。あれはあれで容赦のない一品だったが、今の状況も強烈だった。身体が溶けてしまうのではないかと思った。榛は、いったいなぜ自分が里央と夏の夜を自転車二人乗りで走っているのか分からなかった。さっきから分からないことだらけだった。榛は学校を出発すると大通りに出て、しばらく道なりに走った。里央は座り心地を確かめるように、「わあ。これすごいよ三崎くん、部長さんにお礼言わなくちゃね。座ってても全然痛くない」と言って喜んだ。
「そ、そう? そりゃよかった。はは。あの『ハイパークッションボム』ってあったじゃない? 夏原さんを助けた。あれの余りを見つけた部長が、思いつきで作ったんだよ」榛は後ろを向くべきか迷った。しかしそうすると倒れかねないので前を向くよりほかなかった。自転車はゆっくりと進んでいった。
「へえ。さすが部長さんね。何でも作っちゃうんだ」里央は言った。背後で彼女がどんな表情でいるのか、榛には知るすべがなかった。背中に触れるかすかな温度を通して、榛は里央が自分のすぐ近くにいることを常に感じていたが、あとのことは想像するしかなかった。どんな表情でいるとか、何を考えているとか。二人が何も言わずにいると、街の音がよく聞こえた。夏の夜の街の音が。
「ねえ三崎くん、こういうのしたことあるの?」里央は言った。夏の通りを走る車のライトを横目に、榛はこういうのってどういうのかと思った。「それってどういう意味?」
「だから。誰か、他の女の子と二人乗りとかさ、したことある?」そう言われて、榛は首を振った。緊張して何が何だか分からなくなりそうだった。「全然ない」
「そっか。よかった。私が一番乗りなんだね」里央は言った。そして榛のシャツを握る手に力がこもった。榛は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。「公園のほう行こうよ。あそこぐるっと一周するのとかいいなあ」里央は楽しそうだった。
 里央に言われた通り、榛は公園へ向かった。踏切を渡り、交差点を渡ればすぐに大きな公園に着く。「一周って言った?」榛は里央に訊いた。この区画をまるごと一周すれば、自転車でもまる三十分はかかるだろう。榛は一度止まって、里央を振りかえった。薄暗くてよく見えないが、里央は笑っているようだった。
「そう、一周。ねえ三崎くん。今できることは今しないと、もう永遠にできないかもしれないんだよ。それって分かる?」里央は言った。自転車に乗りながら話すにしては難解な話題に思われた。「そりゃあそうだろうけど」榛は口ごもった。里央が何を思ってそう言っているのか、榛には分からなかった。
「さ、とりあえず行こう。三崎くん、夏の夜はきっと優しいよ。私たちはもっと自由なんだよ」里央はそう言って榛の背中をつついた。そして今度は榛の背に手を置いた。温かさがじんわりと伝わってきた。榛はふたたびペダルを漕ぎだす。
 公園の周りは片側二車線の大きな道路に囲まれている。歩道の幅も広く、夜、自転車に乗っていても困ることはない。しかし警察がよくパトロールしているため、見とがめられないか榛は心配だった。「見つかったらその時だけ降りて歩けばいいよ」と里央は言った。
 この突然の里央の思いつきに、榛は気が気じゃなかった。心臓はとくとくと鼓動を打って、すぐ後ろにいる里央に聞かれるのではないかと思った。里央の手は温かかった。何か特別な力がそこから発しているような、不思議な感じがした。榛はなるべくふらつかないよう、自転車を漕ぐことだけに集中した。歩道には樹木が並び、薄明かりの夜を幻想的なものに変えた。夜風はなまぬるかったが、さほど暑くもない。気持ちのいい時間だった。榛は、まるで遠い国の田舎道を走っているような気分になった。里央と自分は昔から互いを知っていて、今日はちょっと街で羽目をはずしてしまった帰り道なのだ。それはまさしく想像だったが、榛はそう考えると幸福な気持ちになった。里央は右を向いて座っていて、どこか遠くを見ているようだった。背中越しの気配で榛はそう感じた。なぜ里央がこんな風に榛を誘ったのか、それだけが分からなかった。
「この前さ、楽しかったね」里央が言った。「私、展覧会なんて滅多に行かないからさ」
 里央は車道を走る車の光を見ているようだった。それは幻想的な夏の光となって川を下っていくように見えた。
「俺もそうだよ。初めて行ったしさ」榛は言った。自転車と会話の両方に神経を使うのは難しかった。うっかりすると手元がふらつきそうになる。「もっと早く行っておけばよかったかも。何がすごいのかは、あんまり分からないんだけど」
「そんなの私もだよ」と里央は言った。「凪ちゃんはそういうのが分かるんだろうなあ。でもさ、私たちにもあれが綺麗だなあとか、素敵だなあとか、そういう風には思えるじゃない? それだけでもさ、いいな、って思うんだ」
「そっか」榛は並木道を抜け、角を曲がった。「そうだよね」
 左手の金網越しに自衛隊の駐屯地が見えた。大きく開けた土地には滑走路がある。道路を挟んだ反対側は一軒家の多い住宅地だ。榛は小学校の頃、よくこの辺りの友達と遊んでいた。当時は頻繁に通った場所だった。その頃から今に至るまで、自衛隊がなぜ存在しているのかなど榛は考えたこともない。彼にとって、そこは広い空き地であって、たまにヘリコプターが離着陸するだけの、開けた滑走路がある場所でしかなかった。だからこそ、榛はそこにも幻のような空想を描くことができた。ヘリコプターは遠い国まで誰かのために飛んでいくのかもしれない。
「またみんなで何かしたいよね」里央が言う。「公園の花火大会とか、そろそろじゃなかったっけ? 見に行こうよ」
 里央の声に、いつもの凛とした調子がないのを榛は感じ取った。そう思うと、背中に触れた手のひらの温度が別の意味を持つ気がした。「そうだね。そのくらいならいいと思う」
 榛は冷たい答え方をしてしまったような気がして、少し憂鬱になった。それからしばらく、二人は何も言わずにいた。夏の夜は気持ちがいいのに、榛は心からそれを喜べなかった。榛は、里央も何かに迷っているのではないかと思った。たとえば榛は、もう高校三年生の夏が始まってしまったことを悲しく思っていた。どうにもならないと知りながら、それでもまだ、時間が少しずつ過ぎていくことに対してためらいがあった。
「茅野さんさ。何かあった?」
 ふと、そんな言葉がこぼれた。榛の背中に当たる手に、また少し力がこもった。里央はすぐには返事をしなかった。榛が小川にかかる橋を渡った。夜の光が水面にきらめいていた。しばらく進んだところで、里央はやっと応えた。「どうしてそう思うの?」
「だって、こんな風に二人でさ……」榛は顔が熱くなるのを感じた。「突然だから驚いて」
 里央はいつもの軽やかな調子を引き戻すように、
「三崎くんをびっくりさせようと思ったんだよ。私彼氏とかいないしね。こういうのやってみたかったんだ。なんて言ったら嬉しいかな?」
 榛は何を言ったらいいか分からず、うめくような声をひとつふたつ発しただけだった。里央は笑った。「ふふ。やっぱり三崎くんはかわいいね」
 そう言われてなおのこと榛は固まってしまった。また二人は静かになった。やがて、区画最後の角を曲がり、銀杏の並ぶ通りにさしかかる。あと三か月もすれば、木の葉があざやかな黄色に染まる通りだ。今は夏の夜だったから、葉は青く染まっているように見えた。榛は隣の大きな道路を車が走るのを見ていた。なるべく無心でいたかったが、彼自身と里央の持つ迷いがそれを妨げた。彼らは似たような思いを共有していた。具体的に何か話をしてそれを確認したわけではない。しかしこの一時間、一緒にいることで、二人は互いにそれを感じ取った。自転車を漕ぎながら、榛はもう少しだけこの時間が続けばいいのに、と思った。榛は少しだけ自転車の速度を落としたが、それでも終着点は近づいてきてしまう。あと五百メートルほどで一周するというところで、榛は自分の背中に里央が手をまわし、頭をくっつけるのを感じた。榛は思わずブレーキをかけ、自転車を止めてしまった。
 里央はじっとしていたが、榛に寄り添ったまま離れなかった。手だけが触れていたさっきまでより、ずっと温かかった。二人の間に言葉はなかった。榛は里央が何を訴えようとしているのか、注意深く聞きとろうとした。声に出して自分がそれを尋ねたら、たちまち何もかも壊れてしまう気がして、榛は唇を引き結んでいた。
 人に弱いところを見せないのが里央に対する榛のイメージだったが、それは今日大きく変わった。イメージはイメージでしかないのだ。
「榛くん、夏はいつまでも続いたりしないんだね」里央はそう言った。それは榛が感じていたことを言葉で表したものだった。榛はその意味がとてもよく分かった。今夜は分からないことだらけだと思っていたが、その瞬間、榛はすべてを知った。
「茅野さん」言いながら、榛はどうにもならないと思った。
 里央が抱えているのは、自分がまさに今抱いている迷いと同じものだった。彼らの抱く迷いは、具体的な内容には違いがあるかもしれない。しかしそれは大きく見れば何も変わらなかった。普通の学生であれば見過ごしてしまうか、割り切ってさっさと先に進んでしまうものだ。しかし榛と里央は立ち止まってしまった。
 榛は振り向いた。里央はうつむいたままだったが、しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。彼女は笑っているように見えた。しかし榛は知った。人は楽しいから笑うとは限らない。それを笑顔と呼ぶのはつらかった。里央の表情にはどこか神秘めいたものがあり、榛はじっと彼女を見つめていた。里央の瞳は夜の光を受けて、美しく輝いていた。榛は引き寄せられるように近づくと、里央に口づけした。
 そよ風が吹き続けていた。里央の長いポニーテールがなびく。榛は初めて女の子の唇に触れた。何度となく思い描いたものより、もう少し立体的で、生きた匂いがあった。里央は、両手で榛のシャツをつまんでいた。榛はそっと里央の腕に触れた。はかない体温がそこにあった。二人は、まるで時を止めようとするかのように、そっと互いの唇に触れていた。それ以上押すことも、引くこともなかった。榛は今までの、大好きだった日々が終わりを告げることをはっきりと感じ取った。楽しく過ごすことのできた、まっさらでいることのできた時間は、みな終わるのだ。ぼんやりとした憧れも、夢のような空想も、あるはずのない場所も消えて、すべては現実に置き換わってしまうのだ。やがて、二人はどちらからともなく離れた。
「ねえ榛くん、私たち受験生だよね」
「そうだね」
「受験生ってこんなことしてちゃいけないと思うんだ」
「俺もそう思う」
「でも今、榛くんから来たじゃない」
「だって、それは」言いかけた榛の唇を里央が塞いだ。口づけをしながら、里央は榛の手のひらを探しだし、そっと握った。榛も握りかえした。榛はこの手が離れなければいいと思った。そうして二人は両想いになった。

 家に帰った榛は何も手に着かず、ベッドに寝転がって天井を見上げていた。何が起きたのか、正確に思いだすことができる。しかし、あの時そこにいたのが自分だと思うのは難しかった。まるで自分そっくりの人物が出てくるショートフィルムを見た後のようだ。榛には、あの行為にどんな意味があったかとか、それで未来にどんな影響があるかとか、そんなことを考える力はなかった。今はまだ変化の直後だった。榛は無邪気な高校三年生だったが、あの瞬間を境にそれは終わりを告げた。それだけが榛に分かることだった。日頃目にしながらも、頭の中だけで幻想のように存在していた女の子が、突如として実在感をともなって榛の世界に現れた。それは榛が今まで思っていたものと、どこかでずれていた。榛は、女の子もまた現実に生き、それぞれの時間の中で迷い、傷つく存在であることを知った。そしてそれは変わり続けるものだと知った。そして榛は初めて、未来というものを具体的に考えるきっかけを得たのだった。

 次の日から、榛の勉強は今までよりはかどった。手と頭を動かしていないと、里央と過ごした夜の記憶がさまざまな迷いを榛にもたらせる。無心になるためには勉強するのが一番だった。榛は数日間誰とも連絡を取らなかったし、部長や凪のことも考えなかった。榛にはまた四人で集まる日が来るだろうという予感があったから、それまでの間は何も考えずにいたかった。そのためには世間の要求に応えるのが好都合だった。榛は朝起きると手早く朝食をすませて、自室で三十分自習した。そののち予備校へ向かい、午前の講義を受け、その後は自習室で昼前まで勉強した。近場の店で昼食をとり(何軒かをローテーションさせた)、午後はまた自習室にこもり、そののちもうひとつ講義を受け、もう一度自習すると日が暮れた。まったく同じ日課を彼は一週間繰り返した。
 榛の携帯に部長から連絡があったのはその時だった。彼は自分の部屋にいた。夕飯をすませた後だ。「やあ榛くん! ごぶさただ。これだけの時間僕たちが会わずにいたのは初めてのことだと思うがいかがだろう」
「そういえばそうですね」去年と一昨年の夏休みは、ほとんど毎日、部長と一緒に実験やら観察やら出かけていたことを榛は思い出した。「たまにはいいのかもしれません」
「ほう、きみも成長したのかな。まあいい。それでだな、里央くんが花火大会にみんなで行かないかと言ってきた。前回ほど時間を食うわけでもないし、どうだろう?」
「行きましょう。息抜きは必要です」榛はほとんど何も考えずにそう言った。すると部長が、「む。榛くん、きみは夏風邪でも引いたのか?」
「え。いったいどうしてそんなこと訊くんですか? 俺ならいつも通りですけど」
「そうか。いや、何となくいつものきみと違う感じがしたのでな。気にしないでくれ」
「えっと、それで集合場所と時間は?」
 榛と部長は必要事項を確認すると、軽い冗談を交わし、電話を終えた。榛は椅子に座ると、少し考えてから携帯を取った。「茅野里央」の番号を探してコールする。
「あ、もしもし。榛くん?」里央の声は明るかった。榛は安らぎを感じた。
「茅野さん、ひさしぶり……ってほどでもないか」榛は笑った。「元気?」
「うん。とりあえず落ちついたよ。ありがとね。何かあの時は、変になっちゃってて」
「いいよ。いつでも言って」里央の声を聞いていると、榛は里央に会いたくてたまらなくなった。今すぐにでも会って里央を抱きしめたかった。しかし、花火大会になればまた会えると自分に言い聞かせた。「花火、楽しみだね。部長からさっき聞いた」
「あ、ほんと? ごめんね。榛くんに電話するよりもそっちのほうが早そうだったから」
「正しい判断だね」榛が言って、二人は笑った。
「ねえ、榛くん」笑いがやむと、里央はすこしまじめな声で言う。「私たち恋人同士なのかな」
「ああ、えっと」榛は電話越しなのに視線を泳がせる。「茅野さんがいいのなら」榛が言うと、里央がまた小さく笑った。
「うん。それじゃよろしくお願いします。なんて言うのも変か、あはは」
「こっちこそよろしく」榛はまた嬉しい気持ちでいっぱいになった。
「でもさ、この前も言ったけど、私たちは受験生だよね。それでいて、私も榛くんも何か迷ってる。そうだよね?」
「そうだね。この一週間不思議と勉強は進んだんだけど、でもそのあたりは全然分からないままだもん」榛は言った。参考書を読もうと、単語を覚えようと、それだけはどうしても分からなかった。「変なのかな、こういうの」榛が言うと、里央は嬉しそうに、
「そんなことないよ、きっとね。本当はみんなそう思ってるんだよ。でも、こんな風に足が止まっちゃったり、声に出したら、困ったことになるでしょう?」
「じっさい困ったことになっちゃった」榛はくすくす笑った。楽しくて仕方なかった。里央も榛の声を聞いて笑った。そしてやや真面目な調子になった。
「ほんとなら、こんな風に迷ったままでいるのってよくないんだよね。ほら、バスケはそんなふうにためらっちゃうとすぐにボール取られちゃうからさ」
「そっか。……そうだよね」榛は感心しながら言った。「でもさ、バスケと違ってどこにゴールがあるか分からないよ。これって」
「そう! そうなんだよ、だから私も迷ってるんだと思う」里央は喜ぶような声を上げた。
「時間は待ってくれないもんなあ」里央は少し憂鬱そうに言った。しかし榛はそれを悪くは受け止めなかった。それから榛は里央とも笑い話をした。つい長引いてしまう電話を切り上げるのは名残惜しかったが、榛はさよならを言った。「じゃあね」と里央も返し、電話が終わった。

     

 凪

 凪はアトリエで、まっ白なキャンバスの前に座っていた。二週間も絵を描かないというのは彼女にとって初めてのことだった。前の展覧会から帰ったあとで、父親に事情を打ち明けると、「それなら少し休んでみるといい。凪、あせる必要はないんだよ」と言われた。凪の父親は、凪と同じように小さい頃から美術に親しんできた。ゆえ、そうしたスランプや伸び悩みを幾度も経験していた。だから凪に対しても深い理解を示してくれた。凪は申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、同時に安堵していた。他の反応をされたらどうしようと思っていたからだ。凪は長年使ってきたアトリエを眺める。真っ白だったアトリエの壁は、長年使ってきたおかげで、ところどころに絵の具や塗料がついている。凪はそれを見ながら、今まで一度も立ち止まらなかった自分のことを不思議に思った。どうやってそんなことができたのか、今の彼女には何も分からなかった。凪はことあるごとに「変わってしまった日」のことを思い出したし、そこから生まれた、世界に対する彼女の暗い認識はもはや変えようがなかった。凪はテレビでニュースを見るのを避けるようになったし、新聞もなるべく見たくなかった。目を背けたところで、世の中に起きる悲しい出来事が治まるわけではない。それでも凪自身の平穏を保つためには、そうするよりほかなかった。凪はこのところ、世界各国のアーティストやミュージシャン、小説家や詩人の作品、映画などを見ていた。それらはみな素晴らしいものだった。凪は、作家というのもまた例外なく、凪が感じたような憂いを持っていたのだと知った。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだった。自分にもそのような作品がつくれるだろうか? と凪は思った。作れるかもしれない。今までずっと絵を描いてきた。ある程度の力は持っている。しかし今度は、別の迷いが持ち上がった。なぜ自分がわざわざそんなことをやるのだろう? そこには間違いなく苦悩があるだろう。制作は孤独な行為であり、凪はたったひとりでそれに耐えなければならない。これまでのように、何も考えずに自由に描いていくこととはわけが違う。まして、それを生業として続けていくことなどできるのだろうか? たちまち嫌気がさして、絵など嫌いになり、世界や自分を憎み、また身を投げてしまうのではないか? そう思うと、凪はまた意気消沈し、頭の中が湿気を帯びたようになり、生きていることがつらくなってくるのだった。
「大人はみんなこうなのかしら」凪はつぶやいた。以前の凪の目には、彼らには迷いなどないように思えた。それが今となっては、大人というのは外面と内面があまりに分かれた存在であり、凪が今までに見ていた姿など虚構と呼んでもかまわないものだと分かってしまった。実態としての大人はまがまがしいものだった。しかも凪たち高校生もいずれそうなってしまう。それは止められないものだ。それならばやはり、若く無垢なまま生を終わらせてしまったほうがよいのではないか?
 電話が鳴った。「部長さん」という表示を見て、凪はたった今考えたことが実行できない理由を思い出した。凪は電話に出た。「もしもし」
「やあこんにちは。凪くん」部長は明るい声で言った。それを聞くと凪の心はすっと軽くなるように思えた。「時間は大丈夫かい?」
「あ、私なら平気です」凪は思わず時計を探してしまったが、アトリエには時計を置いていなかった。「どうしたんですか?」
「いや、また四人で出かけようという話になってな。公園で花火大会があるのは知ってるかい? それにみんなで行こうというわけさ」
「あ、そうなんだ」凪はまた四人で出かけることができると聞いて嬉しくなった。
「凪くん、きみのほうは予定など入っていないかい?」
「私は平気です。またみんなで会えたらいいなって思ってたくらいなので」
「そうか。それはよかった」部長はそれから少しおいて、「凪くん、その後調子はどうだい?」
「えっ。私ですか? 調子っていうと」凪は心臓がきゅっと縮むような感じがした。
「体調や絵のことだ。前回も上野まで出てきて平気かどうか、僕たちは心配していたからね」部長は言った。凪は思わず首を振って、「私なら大丈夫です。だってほら、上野では何ともありませんでしたから」
「ふむ。それならいいのだが。凪くん、誰に頼ってもいいから、つらいときは言いなさい。きみ一人が苦しむほうが僕たちはよほどつらいからね」
 凪は携帯電話を握りしめた。感謝の気持ちを伝えたかったが、何も浮かばなかった。
「ありがとうございます」それから少し、待ち合わせ場所と時間の話をして、凪は電話を切った。通話を終えた凪は、アトリエの床にことんと崩れて横になった。
「どうしてそんなふうに言うのかな……」凪はつぶやいた。「それじゃ、かえってつらくなってしまうわ」部長の言葉はとても嬉しかった。しかし、凪には部長や榛や里央に迷惑をかけてしまうという気持ちのほうが強く、なかなか素直に受け入れることができなかった。「花火かあ。ひさしぶりだなあ」凪はまっ白な天井を見上げた。凪のイメージによって、そこへ水彩絵の具のような花火が上がり、ぱあっと広がった。しだれ柳やスターマイン、色の変わる火花。次々に打ちあがってははかなく消えていく幻。凪はすこしさみしいような気持になった。「きっと楽しいに決まってる」でも、それはいつか思い出して、戻れないことを憂う記憶になってしまうだろう。凪はどこかへ出かけるたび、いつもそうして必要のないことを考えてしまう。感傷的な気持ちに浸っているうちに、凪はアトリエで眠ってしまった。

     

 榛

 花火大会の日、榛はずいぶん早くに目が覚めてしまった。集合は夕方だが、その十時間前にもう榛は起きていた。真夏の早朝は清々しい。服を着替えると、榛は家を出て、近所を散歩した。ふと思い立ったのだ。少し歩くと、小さな畑で昔ながらに野菜を育てているお婆さんに会った。「おはようございます」と榛が挨拶すると、お婆さんは「おはよう。今日も暑くなりそうだねえ」と言った。榛は「そうですね」と相槌をうち、お婆さんと少し話をした。畑で野菜を育てていると、些細な変化に敏感になるのだという。「このごろは急に雨が降ったりするだろう。夕立よりずっと強いのが。それで泥が崩れてしまうんだよ」榛は、日頃食べている野菜や魚、肉にもそれを作る人たちがいるという、ごく当たり前のことをあらためて感じた。そんな簡単なことすら、決まった毎日を繰り返していると見失ってしまうのだ。お婆さんに別れを告げ、榛はまた歩き出した。なじみの風景を眺めながら、榛はずいぶん久しぶりに近所を散歩していると思った。小学校の頃はこの辺りをよく走り回っていた。友達と近くの公園や広場や、あるいは人の家の軒先まで使って遊んでいた。それはずっと前のことに思えた。一日中めいっぱいはしゃいでいた気がする。その頃に比べると、色々なことが変わっていると榛は思った。
 家に戻ると榛はシャワーを浴びた。同じ服をもう一度着て、玄関から新聞を取ってきた。休日なので、両親は十時くらいまで寝ているだろう。清浄で、ゆっくりした朝の時間だった。学校に行く時の早起きはつらいものの、こんな風に早朝に目が覚めて、自主的に行動するのには充実感があった。榛はキッチンに向かうと食パンをトースターにかけ、フライパンに油をひいてベーコンエッグを焼いた。冷蔵庫から昨晩の残りのサラダを取り出し、イタリアンドレッシングをかけた。コップにオレンジジュースを注ぎ、ひとそろえを盆に載せると、テーブルまで持っていって朝食にした。新聞の朝刊に目を通すと、内閣支持率の下落が一面の小見出しになっていた。榛はいつもニュースを見て、おおむね世論と同じ印象を抱いていたので、支持率の低下にさして疑問をはさんだりしなかった。しかし、里央が言っていた「集団になることで生まれる実体のない印象」について思い出すと、榛は、日頃の考えが自分のものではないような気がして、何か妙な感じだった。だとすれば自分の考えはどこにあるのだろう? と彼は思った。朝食を終えると食器を流しに運び、自分で洗った。洗い物をしていると気持ちが落ちつくので、榛は家事の中では一番好きだった。
 洗い物をしながら、榛は学校という場所について考えた。たとえば学校では、クラシックや演劇を鑑賞したあとに感想を書かされる。しかしそんなところに「自分」などというものは一切反映されていないのではないかと榛は思う。ただ書かされているだけだ。思ったままを書けばろくな成績にならないから、あたりさわりのないことを書いて終わりだ。そんなのは間違っている、と榛は思う。「つまらない曲」「眠くなった。もう聴きたくない」などと書けば、それが正直な感想であっても、音楽教師から通知表に下から一番目か二番目の評定を出されるだろう。感じたまま書いたのがそういった答えなら、そこに何も悪いことはないじゃないか、と榛は思った。そんな風に考えているうち、榛は学校という場所が実はとても恣意的な、ある方向に子どもを歩かせているだけの場所に思えてきた。しかしそうはいっても、学校があるから多くの時間を自由に過ごせることもまた事実だった。だからこそ素敵な友人とも知り合うことができる。クラスは楽しかったし、学校行事だって榛にとっては魅力的だった。ゆえ、いちがいに否定的になることはできなかった。榛のように受け身の人間にとって、学校は丁度いい場所だった。そして丁度いい場所だからこそ、榛は今までさしたる疑問も持たずにここまで来たのだ。榛は時間の性質というものをまだ全然知らなかった。歳が増えるにつれ体感速度が上がることだとか、人生は決して無限ではないことだとか、今彼が思っているほどには自由がないこと、しかしそれを変えうるのが意志であることなど、榛は知らなかった。
 部屋に戻った榛は、昨日買ってきた海外小説の日本語版を読み始めた。小説の中のある人物はどこまでも自由で、無垢だった。榛は初めのほうを読みながら、すでにこの作品が気に入ってきていた。小説はほかの分野に比べて自分に合うものを見つけるのが難しいと思っていたため、榛はこの出会いを幸運に思った。そのような、大切な作品との出会いもまたその人をつくる。三十分ほど読書すると、榛は部屋のオーディオからロックンロールのCDを選んで、音が大きくなりすぎないよう注意しながら再生した。中学生の頃に気まぐれで買った編集盤だったが、夏になると聴きたくなるのだった。日頃日本の曲ばかり聴いていた榛だが、このCDをかけている時はいつもと違う気分になる。まるで別の国で別の生き方をしているような。そこでの榛はもう少したくましく、行動力もある。それはきっと憧れなのだろう。この世界ではない場所への憧憬。しかし、榛はそんな場所が実在しないと思っていなかった。それは頭の中にあるにもかかわらず、現実のどこかにあるような気がしていた。だからこそ、そういった空想が存在しないと知る時、誰もがその落差に苦しむのだ。一般的な高校生である榛が、いまそれに気がつくというのは無理な話だった。学校や、子どもというものがそもそもある種の幻想によってできているのだから、しかたがない。子どもは夢を持たなくてはならなかった。自由な空想を許されるべきだった。じっさい榛はそのように過ごしてきた。おおむね楽しかったし、今では名残惜しさも感じている。
 音楽を聴きながら、榛は窓から夏の空を眺めてぼんやりした。榛ははやく里央に会いたかった。会ったら何を話そう? 何でもいい、楽しい話がいい。楽しければ、それが真実であってもなくてもいい。どうせそんな判断はできないのだから。里央は何を考えているだろう。また何か、どうにもならないことで迷っているだろうか。それだったらいい。きっと共有できる。今のままでは、涼しい秋を越え、つめたい冬を迎えるには用意がなさすぎる。
 榛はひとしきり考えるのを終えると、勉強を始めた。どうせ今日はそわそわしてはかどらないのだから、のんびりやろう。そう思いながら。

     

 凪

 凪は自分の部屋で十着の浴衣とにらめっこしていた。かれこれ三時間が経過し、夕方が近づいていた。浴衣選考会は難航を極めていた。彼女は過去三年にわたってほとんど体形が変化していなかった。ゆえ、新しいものと古いものを合わせれば候補はかなりのものになった。その中から明らかにダメな、イケてない、ナウくないものを取り除くと十五着にのぼる。それから三時間かけて消去法で、あらゆる可能性を考慮に入れたあとで(たとえばかき氷や焼きそばをこぼしてしまうだとか、裾をふんづけてしまうだとか、あまりにも柄が派手で挑発的だとか)、十着まで絞ったのだった。
「やっぱり決められないわ……」凪はもはやお約束とでも言うようにつぶやいた。早い話彼女には決断力がなかった。絵に関しては迷う前に描く性質だったので心配はなかったが、ことその他の分野になるととにかく決めるまでに時間がかかった。小学校時代の夏休みにした家族旅行など、行き先を北海道と沖縄で決めかねて結局出発を三日も遅らせたくらいだった。凪はあらゆる点で一般的な人々とはかけ離れていたため、別段それが困ったことだとも思わなかったが、今この場においてはかなり切羽詰まっていた。
「時間になっちゃうよう」凪は部屋の時計を見た。集合時刻まで一時間を切っていた。今すぐ決めなければ着る時間がなくなってしまう。さいわいなことに、凪はまだ化粧を覚えていなかった。そんなことをしなくても彼女は十分に愛らしかった。榛に訊けば化粧などしなくていいと即答するかもしれない。部長も頷くだろう。そもそも、榛の場合は化粧に彼の世界を一変せしめるほどの絶大な効力があることを知らないので無理もないが。ともあれ、時間が迫っていた。凪は思い切って浴衣をひとかたまりにすると、ふたたび広げ、目をつむって一着を選び取った。「これっ!」
 着つけには母親の手を借りてまる三十分かかった。俗に言うところの幼児体型である凪は、母親の助けなしに帯を腰に綺麗に巻くのが困難だった。「彼氏ができたのかしら? いつか紹介してね」と言われ、凪は完熟したトマトのように赤くなった。「彼氏」などという概念は凪の銀河には生まれてこのかた一度も存在したことのないものだった。彼女の辞書にはその言葉の意味が描かれていなかった。まったくの空白である。それなのに、彼氏という言葉を聞いた途端、凪にはとても原初的な、傍から見てもほほえましいほどの高揚が見られた。「か、彼氏……?」真っ赤になる凪を母親は思わず抱きしめた。「可愛い子。そうよね。ずっと絵を描いていたからそんな暇なかったものね。私たちが反省しないといけないわ」と母親は言った。母親は凪の髪を撫でた。わりと大らかな、別の言い方をすれば能天気なのが凪の母親だった。というか父親もそうだった。とてもシリアスな、切実な心情で飛び降りた凪に「そういう日もあるわよね」といって彼女をきょとんとさせた母親だった。それはさておき、凪は頭の中で彼氏かれしカレシと反芻していた。何ということかしら。彼氏ですって。ママったらそんな破廉恥なことを何だって突然口にするのかしら。おかげで私の心臓はどきどきしっぱなしよ。榛くんや部長さんに会った時、普通にしていられるかしら。凪は頬に手を当てた。その姿はさながら、一昔以上前の社交界にはじめて赴く、ドレスを着た若い娘のようであった。初々しい恥じらいと、無垢な仕草。何をやっても裏目にでてしまい、そのたびに頬を赤らめ、世界が終ったかのように考えこんでしまう、可憐な姿。およそ現代人、特に大人には到底得られない純潔がそこにあった。少女漫画など比較にならないほど彼女はきらめいていた。「それじゃママ、言ってくるわ」海外小説からうつった文語口調を出しながら凪は言った。「いってらっしゃい。困ったら彼氏さんを頼るのよ。いつか紹介してね」そう言われて凪はまた赤くなった。
 夏至からひと月以上経っているためか、少しだけ日が短くなってきているのが凪には分かった。赤みがかった光が凪の丸みがかった頬を照らした。凪は駅のプラットフォームに立って電車を待っていた。日頃通学に使っている場所だったが、いつもとは何もかも違う別世界のように感じられた。空の青と夕陽の赤はどんな絵画よりも複雑な色彩に溶けあい、遠くの影のような雲は帯のような尾を伸ばしていた。飛行機に乗ってあの空を遊覧飛行できたら素敵だろうな、と凪は思った。彼女は自分の浴衣と下駄を確認した。そして母親が差してくれたかんざしに指先で触れた。つるつるした感触が楽しかった。ちゃんと似合っているかしら。凪はまわりを見た。ホームは人で混みあい、凪のように浴衣を着た人も多くいた。誰もがずいぶん綺麗に着こなしている気がして、凪は少しだけ帰りたい気持ちになった。みんなに気に入ってもらえなかったらどうしよう。その後ずっと、似合っていない浴衣を着たまま歩くのなんて嫌。今からでも戻って、ちゃんと選んだものに替えてこようかな。そう思っていると電車が来た。ずいぶん混んでいることに驚いたが、意を決して凪は車両に乗った。
 ほんの数駅移動するあいだに、凪の調子は一変してしまった。もともと人混みが苦手というのもあるが、知らない人と密接していると凪は気分が悪くなりそうだった。例の、この二週間ばかり凪の心身に宿っている感覚が、彼女に酔いのような具合の悪さをもたらせた。頭の中がぐるぐる回り、血の毛が引いて、くらくらしてきた。凪は必死で座席脇の金属製のバーにつかまった。早く降りたかった。乗っていたのは十分にも満たなかったが、凪はもうすっかりまいってしまった。電車から降りると、凪はホームの椅子に座って、大きく息を吸い込んだ。「大丈夫かしら……」凪はつぶやいた。十数年つき合ってきた自分の身体が、この二週間はまるで別人のものになってしまったようだった。どんな時に気分が悪くなるのか、彼女にはよく分からない。凪は椅子にもたれたまま、うすく目を開けた。花火大会に向かう大勢の人が歩いていく。若い男女、凪のような学生、家族連れ、独身男性もいる。その中に、普通の生活に自分が入ることは許されないのだろうか? 凪はそう思った。もともと学校でも少し距離を置かれていたような気がする。表彰されるたび、クラスメートから自分が孤立するような感じがあった。むろん自分から入っていかなかったというのもあるが。まるで別の世界に住む人のように扱われていた気がする。じっさいにそうなのかもしれない。自分は絵を描くことだけが使命で、普通に誰かと遊んだりすることなど許されていないのかも。しかし、凪は榛や部長や里央と仲よくしたかった。まだ少ししか会っていないのに。こんな面倒な体質では嫌われるかもしれない。
 それでも凪は会場に向かわなければと思った。彼女は背もたれから身を起こすと、ゆっくり呼吸した。そこでふと、父親から聞いたパースペクティヴの話を思い出した。力のかかっていない場所から、これまでやこれからを見通すこと。ものごとの正確な距離感をとらえること。それはまさしく今の凪に必要なことだった。だから絵を描くのを止めているのだ。花火大会に来たのも、今までしなかったことをしたいからだ。
 次の電車がホームに滑り込んできた。人の群れを見ると、凪はまた目まいがしてしまった。思わず椅子の背にもたれる。やっぱり入っていくことなんてできない。
「あれ、凪ちゃん」目の前の扉から浴衣姿の里央が降りてきた。黒っぽい生地に赤紫の帯がよく似合っている、と凪はぼんやり思った。里央は凪の様子に気がついたらしく、「わ、ちょっと大丈夫? 汗かいてる」凪の隣に座ると、手にした小物入れからハンカチを取り出し、凪の額を拭った。
「里央ちゃん……」凪は安堵した。心配してくれる里央を見たとたん、凪は例の、つめたく暗い感覚が消えていくのを感じた。呼吸は楽になり、平衡感覚を取り戻した。「里央ちゃん、ありがとう」凪は言った。
「大丈夫? 何か飲み物買ってこようか。顔色が悪いわ」立ち上がりかける里央の手を凪は握った。「平気。それより一緒にいて。お願い……」凪は自分を情けなく思いながら言った。
 二人は、しばらく駅のホームに座って休憩した。凪は前と同じ症状が出たことを里央に告げ、里央が来たことで落ちついてきたと言った。「私が凪ちゃんを迎えに行けばよかったね」と里央が言うと、凪は首を振った。「ううん。もう大丈夫だから……」
「でも凪ちゃん、つらかったら無理して行かなくてもいいんだよ。部長さんや榛くんならちゃんと分かってくれるもの」里央は凪の肩にそっと手をふれた。
「大丈夫。私行きたいんだもの。みんなで花火が見たい」
 そう言うと凪は立ち上がった。里央も立ち上がった。いつなんどき凪が倒れても支えられるよう、気を張っていた。凪はゆっくり呼吸すると、うなずいて、「大丈夫、行こう」と言った。

     

 榛

 榛はそわそわしながら乙女二人の登場を待っていた。時計を見て、会場の方を見て、そこへ向かう人の群れを見る。そんなことをもう何十回も繰り返していた。
「ちょっとは落ちつきたまえ、榛くん」部長が言った。部長は紺色の浴衣に下駄を履いていた。まるで普段から着物で生活している人のような落ちつきがあった。
「そりゃ部長は冷静ですけど。もう待ち合わせの時間から二十分も経ってますよ。何かあたんじゃないかと心配になります」榛も浴衣を着ていた。下はサンダルだったが、それでもずいぶん慣れない感じだった。特に腰から下など、ズボンのように脚が分かれていないから心もとない。
「榛くん、女性の遅刻にいちいち目くじらを立てるものではないよ」部長は悠然とたたずんでいた。足元には買ってきたお菓子や飲みものがあった。榛は落ちつかず、「でも部長、連絡がなくちゃ、そりゃあ心配にもなりますよ。俺だって別に怒ってるわけじゃ」
「お待たせ!」
 榛は振り向いた。里央と凪が並んで立っていた。榛は顔の温度が上がるのが分かった。凪も里央も想像より遥かに浴衣が似合っていた。凪は現代的なデザインの、彩度の高い水玉があしらわれた柄で、まっ白な生地が純粋な彼女にふさわしいと榛は思った。
 しかしやはり榛は里央に心を奪われた。黒い浴衣は里央のためにあると言ってもいいくらい決まっていて、榛は息を飲んだ。何せ榛は彼女と数日前に口づけをしたのである。榛は胸が高鳴った。
「ごめんね! 私が凪ちゃんに無理言ってつきあってもらってさ。お店覗いてたのよ。髪飾りがぱっとしなかったから、別の探したいなって思って。でもいいのがなくてね、こんな時間になっちゃった。携帯持ってるんだし、連絡くらいすべきだったね。あはは」
「大丈夫全然気にしてないよ」榛は言った。部長が横目で榛を見て、おかしそうに笑った。
「ごめんなさい、遅れて……」凪が言った。彼女はうつむいた。しかし榛はそれがなぜなのか考えもせず、里央に見とれていた。部長はしばらく凪を見ていたが、頷いて、
「それでは行くとしよう。実を言うと座席を確保しておいたんだ。知り合いがシート席のチケットを譲ってくれてね」

     

 凪

 四人は、まさに今この時間を楽しむための話をたくさんしながら、園内まで歩いた。榛は浮かれっぱなしで、里央に見とれてしまうのをなんとか抑えようと葛藤していた。里央はあっさりそれを見抜いたらしく、榛の耳元に「似合ってる?」とささやいた。榛は天まで垂直飛びできそうなほど高揚し、赤べこ人形のようにかくかく頷いた。部長はそんな榛をほほえましく眺めていた。それから凪の隣にそっと移り、「体調は大丈夫かい」と、彼女にだけ聞こえるように言った。凪ははっとして部長を見た。凪はなぜ分かったのかと驚いているようだった。部長はそれも察したようで、「あれで気づかないのは榛くんくらいのものさ」と言った。凪は口元に手を当て、驚いたまま部長を見ていた。それから「大丈夫です。私、駅のホームで気分悪くなっちゃったんですけど、そこに里央ちゃんが来て、そしたら落ちつきました。どうしてかは分からないけど」凪がそう言うと部長は頷いた。「それはよかった。でもまた具合が悪くなったら、遠慮せずに言いなさい。決して一人で我慢しちゃいけないよ」すると凪は部長を形容しがたい、どの感情を表しているとも言える目で見た。部長のほうは顔色ひとつ変えず、いつもの涼しい表情をしていた。「それはそうと凪くん、きみの浴衣はとても似合っているよ。榛くんが里央くんに見とれっぱなしなので僕が代わりを務めるがね」部長が言うと、凪の表情が変わった。今度は誰が見ても分かる、明るい顔になり、「ほんとですか? よかった……。すごく迷ったんです。三時間くらい」凪は浴衣の袖をひるがえした。「三時間かい? 凪君、きみは一人前のレディだね」部長はおかしそうに笑った。「今時それだけ気を遣う女性がどれだけいることだろう?」凪は部長の言うことがよく分からなかったのか、首を傾げた。部長は凪を見て、「要するに恥じらいを持っているってことさ。それは精神的なものだが、自我とはまた別のものでね、何も準備や化粧に時間をかければいいってものではないんだ」そう言われても凪はやっぱり分からないようだった。「まあいいさ。今の話が分かってしまうようだと、きみのいいところが損なわれてしまいそうだ」部長たち四人は人の波に混じって歩いていた。部長は榛と里央の話に水をさして楽しんでいるようだった。榛が部長の茶々に抗議の声を上げたが、部長はやすやすとそれをかわし、里央も部長に味方するようにふるまった。冗談だと分かっていたが、そうなってしまうと榛はお手上げだった。凪はそれを見ているのが楽しく、幸福だった。榛たちといると不思議と落ち着いた。人混みのなかでも不安にならなかった。彼女をとらえる実体のない闇は、友人と話していると恐怖にはならなかった。凪はそれをとても不思議に思った。怖いどころか、むしろそれに対する力がわいてくるような、身体があたたまってくるような感じがした。楽しそうに話す三人を見ながら、凪は友人のことをとても大切に思った。何か、自分にも彼らのためにできることがあればいい、と思った。そして凪は、自分でも知らないうちに笑っていた。まるで空想の世界に降り立って、そこで望むままに旅しているような気分。凪はこうなることなど夢にも思っていなかったし、そんな空想をしていたわけでもないが、その喜びは凪が望むどんなものにも代えがたいものだった。凪は榛も里央も部長も好きだった。まだほんの少ししか会っていなくても、凪は自分と彼らの波長が呼応するのを感じていた。生まれ持った波長。それがシンクロするならば、友達でいる期間はさして問題ではなかった。合う時は合うし、合わなければ何十年経っても合わないのだ。つらつらと考えているうち、凪は目的地にたどり着いていることに気がついた。
「到着だ」部長が言った。そこは日頃、芝生のある大きな広場の一角だった。今夜は区画が設けられ、人々が腰を下ろして花火見物できるようにシートが敷かれていた。すでに人でひしめき合っていて、みな思い思いに話をしたり笑ったりしている。
「あいにくそこまでいい席ではないかもしれないが」部長は言った。彼らの場所は全体でも端のほうだった。木の陰になっているせいで、部分的に空が隠れている。
「全然構わないです。席が取ってあるだけでもすごく幸運だわ」里央が言った。さっそくシートに座り、榛と凪の手を引いた。部長も下駄を脱いで、シートに座った。部長は手に持っていたビニール袋からジュースやお菓子を出した。
「そっか忘れてた。お祭りだもんね。さすが部長さん」里央が言う。部長は首を振って、「このくらいは何でもないさ。それより、出店もあるみたいだし、そっちにも買い出しにいかないかい?」
 部長の提案により、四人はじゃんけんをした。結果、部長と凪が買いに行くことになった。「凪ちゃん、大丈夫? まだ調子悪かったら私が変わるよ」里央が凪にささやいた。凪は「大丈夫。ありがとう、里央ちゃん」と言って、小さく笑った。
「部長、俺も変わりましょうか? また買ってきてもらうんじゃ悪いです」榛が言った。しかし部長は片手で制して、「いやいや。負けたわけだし、潔く行くことにするよ。榛くんと里央くんは席を取っておいてくれ」そう言ってウィンクし、立ち上がった。条件反射のように凪も立ち上がる。部長は、「凪くん、僕もきみが心配なんだが、ほんとうに大丈夫かい。榛くんなら多少適当に扱っても案外大丈夫だが、きみのほうは分からないからね」
「部長それどういう意味ですかっ。俺だって人並みに繊細な神経が」と言いかける榛を里央が止めた。凪は一度下を向いて、「行きます。行きたいです。こういうの久しぶりだから」そう言って凪は里央を見た。里央は凪にほほ笑んだ。凪は頷いた。
「そうか、それじゃ行くとしよう。凪くん、はぐれないようにね。もし離れたら、すぐに携帯で連絡しよう」部長は言って、凪とともにシート席を離れた。

 歩きながら、凪はお祭りの光景に目を奪われた。とてもたくさんの人が行きかっていて、屋台には行列ができている。夏の夜の中、電球と電灯の光が揺れ、まだ昼間の熱を残す空気に溶けてゆく。凪は、里央と前に一度だけ出かけたお祭りを思い出していた。もっと人手と規模の小さいものだったが、あの時もこれと同じくらい楽しかった。もうずいぶん長い間忘れていた。あの時、里央と何を話したのか、凪はうまく思い出せなかった。素敵な夜だったことだけは覚えている。里央とはその時に打ち解けたのだと思う。それなのに、自分のほうは里央ともそれ以上仲良くなろうとしなかった。凪は過去の自分を少し恨めしく思った。どうしてもっと誰かと触れあわなかったのだろう。その代わり、凪は今の時間がとても大切に思えた。そして、今日の時間もやがて終わってしまうと思うと、せつなくなった。
「凪くん?」自分を呼ぶ声に、凪は辺りを見回した。人の群れをかき分けて、部長が凪のところまで戻ってくるところだった。回想にふけっている間に、距離ができていたらしい。
「あ、部長さん。ごめんなさい。ぼうっとしてて……」凪は前髪のあたりをかいた。部長は穏やかに笑った、肩をすくめて、「放っておくと、きみは風船みたいに飛んでいってしまうな」部長は腕組みをすると、すぐに解いて、凪の手を握った。凪は心臓が鳴るのを聞いた。部長が空いた手で侘びをして、
「失礼。しかしこれが一番合理的だった。嫌だったら別の方法を考えよう」
「あ。そんなことないです。突然だったからびっくりしちゃっただけで……」凪は自分の手のひらより一回り大きい部長の手を握りながら、小さい頃、父親にこんな風にしてもらったのを思い出した。それから、相手が部長だと思い直して、さらに、出かける前に母親が言った「彼氏」という言葉を思い出して、顔が熱くなった。「ママのばか」
「ん。何か言ったかい? 凪くん」歩きかけた部長が凪を振りかえった。凪は頭を振って、
「何でもないです!……ひとりごとです」凪は恥ずかしくなった。
「そうか。もし気分が悪くなったら言ってくれ。その時こそ榛くんを補充しよう。さて、それじゃ行こう」
 凪と部長は、人の群れを縫いながら、一緒に屋台村の中へ入っていった。凪は心臓がどきどきするのを感じていた。ただでさえ身長の低い自分が、普段よりもっと縮んでしまったような気がした。だからだろうか、心臓の鼓動がいつもより響くようだった。脈拍が、指の先までとくとく打っているのが分かった。それは部長の、すこしだけごわついた手のひらに繋がっていた。部長の指の節が硬いのは、もしかしたら、発明品をつくるときに工具をいろいろと使っているせいかもしれない。凪は何となく、自分に兄がいたらこんな感じかもしれないと思う。自分を気遣ってくれて、守ってくれる。しかし、兄相手にこんな緊張はしないだろう。凪は部長の横顔を見上げた。屋台の明かりに照らされた、大人と子どもの狭間のような表情が凪には印象的だった。そしてまたしても、凪は部長の表情に影のような、さみしさのようなものを見た。部長がそれを自覚しているかは分からない。もしかしたら気づいていないかもしれない。他の人が見ればただの思いすごしと言うかもしれない。しかし凪には分かった。凪はそういうものを察する力に秀でていた。
「あの、部長さん」凪は言った。部長は呼びかけに気づくのに少し時間がかかった。
「どうした凪くん。具合が悪くなったかい?」
「いいえ。そうじゃないです。あの、部長さんってその……」凪は何と言ったらいいか分からなかった。部長が自分から言わない以上、それは訊くべきことではないのかもしれない。そう思えて。「えっと、あの、その」
「凪くん、きみは感じやすい子だから、僕が何かを隠していても、きっとそれを他のところから感じ取ってしまうのだろう?」部長は凪のほうを見ずに言った。凪は、「え、あの。ええと……」どもってから「そうです」と言った。「部長さんはよく悲しい顔をしています。それを見ると、私は何だかすごく心配です」部長は凪の手を引いたまま、ゆっくり歩き続けていた。すぐには返事がかえってこなかった。何メートルか進んで、
「きみの思っている通りだよ。榛くんや里央くんは気づいていないと思うし、うまく隠せているはずだがね。僕も彼らと同じだ。このまま時間が進まなければいいのに、と思っている」部長は言った。凪は、繋いでいる部長の手が少しだけこわばったのが分かった。
「凪くんはそう思ったりしないだろう。きみはどちらかといえば、時が進むことよりも、そうなることで見えるもののほうに怖れを抱いている。時が進むことそのものに怖れを持ってはいない。僕たちのものが個人的な迷いなら、きみのものはもっと全体的なものだ。僕らのほうは解決するすべがなくはないが、しかしきみは違うだろう? だから先日――」そこで部長は言葉を切った。その先に言おうとしたことを凪は察知した。凪は頷いた。凪は、行きかう多くの人たちと自分が隔たっているように思った。彼らは凪の迷いを理解してくれるだろうか? たとえ話してみたところで、理解を示す顔をして、「しかたのないこと」と言い、凪を励ましておしまいにしてしまうかもしれない。それはほんとうに理解しているとは言いがたかった。なぜって、もしもほんとうに凪の感覚になれるなら、彼女と同じように身を投げずにはいられないはずだから。彼らが普通にしていられるのは、そうした恐怖に対し、ある程度鈍感でいられるからだ。いや、あるいは、鈍感でいられるようになったからだ。おそらく、少しずつ傷ついて、少しずつ立ち直ることを繰り返すうち、凪のように打ちのめされることはなくなったのだ。それが大人なのだ。凪は大人になってはじめて分かることを感じ取ってしまったのだ。あの時、絵が完成する瞬間に。
 凪は思う。結局誰も、誰かの迷いを分かってあげることなどできないのかもしれない。誰の迷いにもその人個人の事情があり、気持ちのふれがある。大人だってつらいはずだ。凪のように衝動的に身を投げてしまえないだけ、余計に。
「凪くん。きみは苦労しているな」部長が言った。
「僕がきみの心をもっていたら、きっとこうして立っていることすらままならないだろう」
 凪は部長を見上げた。涙が出てきた。こんなところで泣くわけにはいかなかった。しかし止められそうになかった。部長はつぶやくような声で言う。
「きみに比べれば、僕の迷いなど存在しないようなものだ。ただ成長できないだけだからね。しかしきみの迷いはそうではないだろう」
 凪は胸が熱くなった。奥歯を噛んで、涙腺が緩むのを抑えなければならなかった。嗚咽を我慢すると、喉が苦しかった。
 あれ以来、凪が思ってきたことはただひとつだった。

 どうしてこうなのだろう?

 ついこの間までは、色々なことが、ずっとずっと、このまま続いていくような気がしていた。思い描いたことも、このお祭りのような楽しい出来事も、変わらずに、どこまでもどこまでも続いていくと信じていた。大人になっても、無垢なままで、傷つかずに歩いていけるのだと信じていた。心を失ったりせず、楽しいまま、誰かを傷つけることを言ったりもせず、孤独にもならず、未来から一切の希望を失うようなこともなく、世界がつながっているとも思わず、テレビのニュースや新聞の記事が実際に起きていることだなどと思いもせず、いってみれば、能天気なままで生きていけると思い込んでいた。
 でもそうじゃない。子どもは守られた存在で、その先は厳格な、とてもやりきれない世界が待っている。そこでは、今笑っている同級生たちや、もっと年下の子たちも、みんなみんなぼろぼろになってしまう。あまりにも乱暴なものに巻き込まれてしまう。今の笑顔はいつか消えてしまい、もう二度と自由な想像をすることも、希望を描くことも、夢を抱きしめることもなくなるんだ。ひどいことがたくさん起きる。悪気のないひどいこと。そうするよりほかないこと。そんなものがたくさんたくさんたくさんたくさん起きる……。
 凪は手の平で顔を隠していた。その陰から、涙の粒がこぼれて、落ちた。
「つい最近まではもう少し自由だったんだ。でももうタイムリミットだ。引きのばそうとしてもいつかそれはやってきてしまう」

     

 榛

「遅いねえ、二人とも」里央が言った。榛は「そうだね」と相槌を打ったが、正直なところ、もう少し遅れていても構わないと思った。里央と二人きりでいられるのが榛には幸福だったからだ。
「花火始まっちゃうよ。混んでるのかな、やっぱり」里央は腕時計を見た。浴衣の袖に隠れていた細い時計を見つめる里央は、しおらしく見えた。
「これだけの人だもん。そりゃしょうがないよ」榛は言って、夜空を見上げた。雲のかかっていない空は、まるで宇宙そのものを巨大な天井にしたようだった。榛のいる広場が明るいため、星はほとんど見えない。しかし無数に散らばっている様を、榛はイメージすることができた。そして、榛はふと自分の小ささを感じた。どれだけ生きようが、この宇宙では榛の存在など点にも満たないのだと思った。
「ね、榛くん」里央が近づいて、榛の腕にふれた。榛は現在に引きもどされた。「私に会えなくてさ、さみしかった?」里央は榛一人の前でしか見せない、困っているような、照れているような表情で言った。榛は途端にまいってしまいそうだった。里央の言葉は即効性のある麻酔のように榛の身体を巡った。そんなの当たり前じゃないか、と榛は言いたかった。「う、うん」しかし結局そんな返事しかできなかった。しかし里央にはそれでも十分だったようだ。「ねえ榛くん、今度さ、また二人きりでも会おうね」里央は言った。榛はもう一度返事をした。それから、里央は榛の手を取って、じっと観察しはじめた。「手相って見方が分からないなあ。これが生命線だよね。榛くんのはあんまりはっきりしないなあ。これが運命線かな?」里央は指先で榛の手のひらをなぞった。なめらかな感触が榛の神経をふるわせた。榛は身体が溶けてしまいそうだった。今すぐ里央を抱きしめたくなる。いっぽうの里央は、手相をまじまじと見つめている。
「手相ってほとんど毎日のように変わるんだよね。ふしぎ」里央のうなじからはいい香りがした。甘い、果物のような。何かつけているのだろうか、と榛はまるで無関係なことを考えていた。しかし口はしっかりと話題に応えていた。「俺はあんまり占いって気にしてないけど、茅野さんは信じてるの?」里央は両手で榛の手のひらを持ったまま、視線を上に向けて、「手相とか血液型はさ、何か気にしちゃうんだよね。一人ひとりの身体にあるものじゃない? だからかな」里央は自分の手のひらを広げた。「ね、ほら見て。私さ、生命線長くない? おばあちゃんになるまで生きるのかな」
 榛は遠慮がちに里央の手のひらを触った。そして手相を見た。たしかに生命線が長く、はっきりしていた。「茅野さんらしいなあ。なんか」榛は言った。
「でも、いくら生命線がはっきりしてるからって、こんなの何にもならないよね」里央は言って、空を見上げた。最初の花火がひゅるひゅる上がって、大きく鮮やかな円になった。星屑のような火花が瞬いて消える。「わ。始まっちゃったよ!」里央が大きな声を出した。しかし榛は花火を見ていなかった。里央の肩を抱き寄せると、そっと口と口を重ねた。

     

 凪

 凪と部長は屋台に並ぶのをやめ、広場の端で花火を見上げていた。あれから、凪はずいぶん長い間泣いていた。部長は「人が少なくなるのを待とう」と言った。この人手では、そんなことが起こらないのをどちらも知っていた。二人は花火が次々破裂するのを見ていた。
「きれい」凪が言った。打ち上げ花火など、今までに数えるほどしか見に行っていない。凪は作品を鑑賞する時とは別の感銘を受けていた。一瞬だけ鮮やかな光を発し、見届ける頃にはもう夜の闇に変わっている。そんな幻想の連続。花火は凪の頬を照らした。涙の跡がひとすじの軌跡となって浮かび上がった。
 凪と部長は手を繋いだままだった。ごく自然にそうしていた。
「いいものだな。花火は」部長が言った。「これを発明した人がうらやましくなるよ」
 凪は部長を見上げた。笑っているように見えた。しかし悲しそうな表情だった。凪も悲しくなった。部長は花火を見上げながら、
「なあ凪くん、我々はもしかして、自由など何ひとつもっていないんじゃなかろうか。知らない間にある場所まで歩いてきて、ふっと気がつく。一見、そこまで自分で歩いて来たような気がする。しかし全然そんなことはないとも思う。そこから先へ進むのだって同じだ。意思があるようにも見える。しかし実は意志などまったく関係ないのかもしれない。どの道を進もうが、それは自由でも何でもないのではなかろうか」
 答える代わりに。凪は部長の手をつよく握った。手首に、工具でついたと思しき火傷の跡があった。花火の光をうけると、それは七色に変化した。凪は何と言ったらいいか分からなかった。部長は静かな声で、
「両親に発明をやめろと言われた。今からで間に合うから、勉強して医学部に行き、医者を継げと言ってきた。今までもさんざんやりあってきたが、子どもぶって意地を張っているのも、いい加減ばかばかしくなってきてね」部長は力なく笑った。
「なあ凪くん。我々は生きたいように生きられないのだろうか?」凪が答えるかどうかを部長は気にしていないようだった。部長は、今まで思っていたことを口にしたいように見えた。たぶん誰にも言えなかったのだろう。凪は部長を見つめていた。端正な顔と眼鏡に、花火の光があたる。凪はこんな身近なところにも憂いがあるのだと思った。部長はそれを個人的なものと言ったが、今このときの凪には、そちらのほうが大事なものに思えた。今、他にどれだけの人がつらい思いをしていても、凪は部長を助けてあげたかった。
 凪は部長の手を引いた。部長は眉を少し上げて、凪のほうを向く。部長の目が見開かれた。凪はまた涙を流していた。部長がそれを見たあと、凪は部長に抱きついて、彼の代わりに泣いた。
「凪くん、きみにこんな話をすべきじゃなかったな……」部長は言った。凪は部長の浴衣にうずめた頭を、小さく振った。花火はさまざまに形を変えていた。惑星のような環がついたものや、キャラクターの姿を模したもの、柳のようにしだれるものに、色が途中で変わるもの。時間差で二回破裂するもの。そんなひとつひとつが消えるたび、また少しずつ時間がすぎるのだ。凪はそう思った。今のこの時も、いつか思い出すだけの記憶になってしまう。いつまでもこの人のために泣いていたいのに。
 部長は凪の肩に手を置いていた。それ以上のことをするのを怖れているようでもあった。
「僕も、榛くんも里央くんも。そしてきみも、みな似た者同士なのかもしれないな」部長は花火に感激している来場者を眺めた。「これだけたくさんの人がいる中で、通ずる波長を持った四人なのかもしれない。不器用で、一度迷うと立ち止まってしまう」
 凪は泣きながら、ずっと前におばあちゃんの家に行ったことを思い出していた。父方の祖母だが、芸術にはまったく関わりがなく、田舎で一人暮らしをしている。当時、まだ幼かった凪は、田舎を走り回って色々な絵を描いた。おばあちゃんに見せるとすごく喜んでくれた。朝早く起きて畑に手伝いにも行ったし、昼は車で町まで買い物に行った。夕方には一緒に散歩をしたし、夜には花火で遊んだ。一週間もいなかったのに、凪はあの頃のことをいまでも鮮明に思い出すことができた。その帰り際の寂しさを思い出したのだ。凪はあの時こう思った。私たちが帰ったらおばあちゃんは一人になってしまうの? おばあちゃんは「大丈夫、もうすっかり慣れているからね。それに知り合いもたくさんいるんだよ」と言っていた。でも、あの家にはおばあちゃん以外いないんだ。私がいなくなって、これからずうっと一人で暮らすんだ……。そう思うと、凪は帰りの車を飛び出して、おばあちゃんの家に戻りたくなった。後部座席から見える、凪に手を振るおばあちゃんの姿は、どんどん小さくなっていく。でも結局凪には何もできなかった。めいっぱい手を振ることしかできなかった。すっかり見えなくなってしまうと、凪は疲れて眠ったふりをしながら、気づかれないように泣き続けた。過ごした一週間分の思い出が一気に蘇ってきた。抱きしめられた時のぬくもりが蘇った。もうそれは戻らない時間なのだと知った。凪は泣いて泣いて、いつしかほんとうに眠ってしまった。
 三年前に通夜があったが、その時凪は泣かなかった。中学生になっていたが、かつて田舎で遊んだ記憶は、その頃の凪とは遠いものになっていた。しかし今、それらの出来事が凪の心にひとつの世界となって現れた。凪は草の匂いを嗅ぎ、用水路のせせらぎにきらめく光を見て、蝉の声を聴いた。まるで小さい頃に返ったみたいだった。おばあちゃんの声や、しわのある手のひらや、抱きしめられた時のあたたかさを思い出した。今、部長の浴衣に顔をうずめた凪は、そうした感情がいっせいにあふれだすのを止めることができなかった。
 部長は凪に必要以上のことを言わなかったが、凪が泣きやむまでずっと、彼女を支えていた。花火は夏の夜を綺麗に染め上げ、人々へ明るい光を降らせた。
 ながい夜が、そうして終わった。

     

 榛

 また何日か過ぎて、八月に入った。ここ数年は梅雨時から暑いために、八月になる頃には暑さへの倦怠感がある。榛はそう思っていた。もう何年も予備校に通っているような感じがした。勉強は進んだり進まなかったりして、調子にムラがあった。講義が変わり、講師が変わった。周囲の生徒はみな一心に勉強しているように見えた。榛はそれを眺めながら、自分は傍から見たらどう映るのだろうと考えた。大して違いはないかもしれない。自分も形だけは受験生を続けている。もしかしたら他にもこうして抜け殻のように身体だけ動かして予備校に来ている人がいるのかもしれない、と思った。そんな人が多ければ面白いのに、とも思った。
 講義が終わり、自習室に入ると、榛はうなだれて机に突っ伏した。相変わらず勉強する理由は見出せなかったし、見つけたところでそれが将来の役に立つとも思えなかった。果たしてこの中の何人が心から勉強に身を捧げているのだろう。義務感でやっている人が半分以上だろう。それだけでも人は動けてしまうらしい。榛にとってはそもそも予備校という場所そのものが謎に包まれていた。学校での勉強では足りないから予備校に行って受験に備える。受験は大学に入るためで大学は会社に入るため。あるいは在籍中にモラトリアムを得るため。ほんの一部の人は純粋に勉強したくて行くが、ほとんどはそうじゃない。その「そうじゃない人たち」が世の中の大部分だ。それはこの予備校においても同じだろう。榛は思う。いったいなぜこんな場所が必要なのだろう? 友達を作るわけでも部活をやるわけでも文化祭をやるわけでもない。ただこもって講義を受けて自習するためだけの場所。考えてみたものの、榛にはどうしても納得いく答えが出せなかった。論理的帰結はできる。将来のためだ。しかしそれを感覚として理解することが、榛にはどうしてもできなかった。どこかに矛盾というか、気持ちの悪さが残った。この場所はあらゆる意志と無縁だと榛は思った。それは講師にしたって同じかもしれない。何せ「大人になったらいいことなんてひとつもない」という人がいたくらいだ。要するに彼らは仕事で講義をやっていて、信念を持っているわけではないのだ。いや、もしかしたらいるかもしれない。たまに楽しそうな講師もいる。しかしそれらを確認するすべは何ひとつなかった。そんなこと訊けるはずがない。
 榛は花火大会の夜を思い出す。里央との甘いひととき。考えただけで口が半開きになったが、気になったのは部長と凪だった。結局焼きそばやら何やら買ってきたものの、帰ってきたのは終了間際になってからだった。「混んでいた上に互いにはぐれてしまってな。携帯も混線していたし、まいったよ」と部長は言っていた。しかし榛は鈍感なりに、二人の間に何か様子の変化があるのを見てとった。それに、榛の勘違いでなければ、凪は泣いた後のように見えた。「まさかあっちもつきあってるなんてこと」榛はつぶやいた。そして、「いや、似合いのカップルかもしれないな」と思った。そうなれば里央と自分が交際しても気後れする必要がなくなりそうだ。今度こそ正真正銘のWデートになるかもしれない。「デート」榛はつぶやいた。そんなことが去年できていたらどれだけよかっただろう、こんな場所に自ら幽閉されることもなく、自由な翼をはばたかせ、心の底から笑える日々。夏休みの宿題であればみんなで集まってやることもできようが、受験勉強はそんなわけにはいかなかった。それぞれ進む方向も違う。来年の今ごろにはみな離れ離れだ。せっかく気の通じ合う相手に会えても、いつかは別れが来てしまうのだ。
「でも」榛は小さな声で言う。「それが何だっていうんだろう?」
 榛は携帯電話を取り出すと、メールを打った。

     

 秋斗

 部長、中田秋斗は医者の両親のもとに生まれ育った。自宅の隣には診療所があり、小さい頃から秋斗は父親に「大人になったら俺の跡を継いで医者になれ」と言われて育ってきた。秋斗の家系は父母ともに医者だ。ゆえに秋斗もまた医者になって当然であるものとして扱われてきた。しかし秋斗は物心つく頃にはもう何かをつくることに夢中になっていた。小さい頃こそ両親は何も言わなかったが、秋斗が学年、学校を上がるにつれて、次第に反発しあうようになった。秋斗は中学になる頃には発明や科学の賞を取るようになっていたが、両親はそれらを認めなかった。それでも発明を続けたかった秋斗は、自分だけの力で発明資金や活動費を稼いだ。小さい頃からもらっていたお年玉や、コンクールの賞金を元手とし、インターネットを通じて発明品や違法な品を売って資金を得た。秋斗の中には自分だけのルールがあり、それに反しない限りは、たとえ違法であっても彼の中では問題にならなかった。それに、法で裁かれない年齢を彼はちゃんとわきまえていた。
 もっとも両親と衝突したのは高校進学時だった。両親は医学部を目指すために進学校へ行けと言い、秋斗は普通校へ行きたがった。秋斗にとっては勉強漬けの毎日などにこれっぽっちも価値はなく、研究できなくなるくらいなら首でも吊ったほうがマシだった。ゆえにそのようにした。首は吊らなかったが手首を切った。動脈だけに狙いを定めて、綺麗に傷を作った。手術用のメスを使って開けた傷口は、芸術品のようですらあった。そこから血が噴き出すのを見ていると、秋斗は自分の意思のありかを確認できた。血だまりの机に突っ伏す秋斗を発見した母親は悲鳴をあげ、父親を呼びに診療所まで行った。父親が秋斗の処置を施し、秋斗は一命を取りとめた。しかし秋斗は両親が彼の命を救うことを見越していた。そうすればこの場においては彼の意思を通せると確信していた。実際そのようになった。秋斗は普通校への進学を許可された。秋斗は傷口をカモフラージュするべく、わざとそこに軽い火傷をさせた。彼の父親は秋斗の考えを見越していたが、秋斗にもそれは分かっていた。それは言わば魂の取引のようなものだ。その時の秋斗は、自分の意志をはっきりと父親に伝えたのだ。高校に上がると、秋斗は猛烈に勉強したうえで、学業ではなく研究に没頭した。あまりに楽しかった。自由に行動するあまり、一年の二学期にはほとんど学校をさぼった。ゆえに留年することになった。父親から「今後こんなことがあれば退学させる」と言われ、秋斗は以後ペース配分をわきまえるようにした。学校にはちゃんと行く。活動の中心を学校に移すために、科学クラブに在籍することにした。秋斗にとって、留年は何も問題ではなかった。しかし退学させられるとなると、活動に困難がつきまとう。これは好ましくなかった。二回目の一年生となった秋斗は、その年の春に榛と出会った。秋斗は榛の大らかな気質に触れ、彼に惹かれた。榛は自分では気がついていなかったが、秋斗のように自分のルールというものを持っていた。それは秋斗のものとは異なるが、たしかに存在し、芯の通ったものだった。たとえば榛はよく遅刻をしたし、授業で問題を当てられた時、毎度のように困惑していた。それにテストではしょっちゅう赤点を取った。であるにも関わらず、榛はいつも楽しそうだった。榛には悪気というものがまったくなかったのだ。たとえば彼は嘘をつかなかった。テスト前に「部長、俺全然勉強してないですよー」と言えば、それは社交辞令ではなく真実だったし、秋斗が日頃腹立たしく思うこと(学校が出席日数や試験の結果如何で落第者を出すことや、形式的な進路というものを半ば絶対視していること)などに対して、実にあっけらかんとしていた。「しょうがないですよ」とよく榛は言った。しかしそれは諦めというものではなかった。榛はあらゆるものをありのまま認める性質を有していた。もしかしたら、これは秋斗の推測でしかないが、たとえ殺人犯に対してでも榛は変わらぬ接し方をしたかもしれない。部長はそんな榛の天性に憧れを持った。ゆえに彼を助手として巻き込んだ。傍にいることで、もっと榛という人柄を知りたくなったのだ。それは初めてのことだった。秋斗は長い自主行動のなかで、なかば道化のように行動することが自分にとってもっとも効率よく、かつ他者に悪印象を与えないことを知っていた。そうすればだいたいのことを思うように進めることができる。秋斗は榛に対してもそのようにふるまった。榛は秋斗の望み通り助手になった。秋斗は初めだけ多少の罪悪感を持ったが、天真爛漫な榛を見ていると、たちまちそんな思いは消えた。彼と一緒にいると、あらゆる負の感情が蒸発して、大気にとけていくようだった。二人はよきパートナーとなり、多くの時間を共にした。はじめは役柄として演じていた気さくなキャラクターは、いつしか自然なものとして秋斗の人格になった。秋斗は人に接する時の自分と、日頃ものを考える自分を完全に区別してとらえていた。前者を虚構、後者を真実として。しかし榛に接しているうちに、両方とも自分自身なのだと思うようになったのだ。しかし反作用があった。その頃にはもう、秋斗は榛に対して内面をさらすことができなくなっていた。秋斗はあまりにも長い間つくりあげた「部長」としての自分だけで人に接し続けていたので、自分の迷いを人に打ち明けることができなくなっていた。秋斗は榛にそんな思いを気づかれていないと思っていたし、何より楽しく過ごせるのだから、このままでもいいと思っていた。
 しかし学年が二つ上がり、三年の夏が来ると、そんな日々にも変化が現れた。両親は秋斗にあらためて医学部への進学を告げてきた。秋斗の偏差値の高さは両親もよくわきまえていた。全国偏差。それだけが秋斗に猶予を与える唯一の手段だったからだ。榛と科学クラブで生活する傍ら、秋斗は模試でいい成績を残し続けてきた。秋斗は生まれつき頭の回転がよく、少し勉強すればすぐに結果を出すことができた。しかし、やはり医者になる気はなかった。かといってそれを両親に告げても、もはやどうにもならなかった。そうなれば絶縁状態になるだろう。秋斗はそこまで冷酷になることはできなかった。家出すれば、飛び出していく先は学校ではなく社会になる。そこは今までのような身勝手が通用する場所ではない。一人で自分の行きたい大学の費用と、生活費を工面することは、たとえ主席になり奨学金をもらったとしても不可能だった。そこまで図太い精神は秋斗にはなかった。かといって、両親の言うとおりに進学すれば、もう悠長に発明の研究などすることはできないだろう。医者になることの忙しさはよく分かっていた。
 そうして迷っているうちに、秋斗は凪に出会った。これまでも何度か、体育館のステージなどで顔を合わせてはいたが、話をしたのはこの夏が初めてだった。秋斗はいつもの「部長」としての顔で凪と接していたが、最初に話した日、つまり凪が化学室を訪ねてきたあの日にはもう、彼女に嘘は通用しないと秋斗は思っていた。凪はあらゆるもののもっとも大事な部分、根底に流れる潮流のようなものをまっさきに見抜いてしまうのだ。秋斗はそのようなタイプの人間に会ったことがなかった。凪の絵を初めて見た時、秋斗はそこから吹いてくる風に、何もかも見透かされているような気がしたが、その作者たる凪は、まさしく透明な「目」そのものだった。だから美術館に行った時は里央と共に行動した。なるべく凪と二人になりたくなかった。その予定だったが、彼女が熱心に絵を見つめる姿は、彼女自身の絵と同様、秋斗をつよく惹きつけた。秋斗は、それ以上使えばはがされると分かっている仮面のままで凪に接した。案の定、長年かけて作り上げた、「発明品」たる「部長」の仮面にはヒビが入った。そして花火大会がきた。凪は秋斗の発言をうけ、彼の心を見透かした。そして秋斗の代わりに涙を流した。そんなことさせるつもりはなかったが、凪の前にいると、秋斗は自分自身をうまくコントロールできなかった。泣き続ける凪に、秋斗はどうすればいいのか分からなくなった。彼は今まで、誰かが喜怒哀楽の感情を示すたびに、形式化された自分のキャラクターに照らし合わせた反応をしてきた。もうすっかり慣れていたはずだった。それにもかかわらず、凪が相手だと秋斗は自分を「部長」として機能させることが困難だった。
 秋斗は自室での自習を終え、椅子にもたれた。彼もまた受験勉強に対して何の意志も持っていなかった。彼が榛と違ったのは、身を入れずに適当に手を動かしても、いくらでも結果を出せてしまうことだった。秋斗はこの世の中を不公平だと思っていた。自分にこんな力は必要ないし、もっと有意義に役立てることができる、あるいはその意志のある人にこそ能力が行くべきだった。とはいえ、発明において秋斗は自分の素質を遺憾なく発揮していたし、彼の素質なくして、この歳で頭角を現すことはできなかっただろう。秋斗自身、そのことについても十分承知していた。
 秋斗は迷っていた。いや、迷うというよりは、ほとんど諦めていた。結局のところ己の意思などというものは、抗しがたい、何者かの力によってかき消されてしまうのだ。もう何年も彼は一家の反対を押し切ってきたが、それもこれで終わって、これから他の誰かの意思によって動かされる日々が始まるのだ。そう思うと秋斗は心底うんざりした。
 今後、発明に使う時間がまったくなくなるわけではないだろう。それでも秋斗にとっては何もなくなってしまうのと同じだった。自由な時間があるからこそ柔軟な発想が生まれる。力のかかっていない状態。それこそ秋斗が求めているものだ。しかし、外部から求められているものは秋斗にそれを許さない。
 秋斗はまた凪のことを思い出した。泣き続ける彼女の姿は、秋斗の心を揺らした。心配してもらいたいわけではなかったのに、凪は何もかも見透かしてしまう。秋斗は自分のことで榛たち友人に迷惑をかけたくなかった。「部長」として接し続けていたのは、そういう考えがあったからかもしれない。
 高い場所にいた。風が吹き抜けていた。 秋斗は携帯電話を取り出した。アドレス帳から名前を検索して、目的の項目を探しだす。
「もしもし?」

     

 榛

 何日か過ぎた。夏休みは後半にさしかかっていた。その日、榛は予備校をさぼって電車に乗っていた。傍らには里央の姿があった。JRの列車は南へ下り、榛たちが乗り換えをする駅まで向かっている。
「さぼっちゃったね」里央が言った。榛の隣に座る彼女は、珍しく髪を下ろしていて、今日はすこし前の時代を思わせるドレスのようなワンピースを着ていた。青い色は里央によく合っていた。いつもと違う印象に、榛は思わず固まってしまったくらいだった。「何、榛くん。照れてるんだ、あはは」と里央が笑うと、榛はやっと普段通りに話すことができた。ため息の漏れるような里央の姿に、榛はどきどきした。
「いいよべつに、一日くらい……って言いたいけど、もう三回目だっけ。こういうの」榛は言った。「そうね。私たちは不真面目な受験生」と里央。
 八月十日。この日を過ぎるといつもあっという間に夏は終わってしまう。榛はそんな風に思っていた。小中高と振り返って、榛は思う。結局のところ、夏休みなんてやろうと思ったことの八割以上はできないまま終わるのだ。それでいて、毎年夏が来るたびに幻のような期待を抱いてしまう。今年は何か起こるんじゃないか、そんな空想に浸ってしまう。おぼろに霞んだ青空と雲を見上げながら、榛は少し憂鬱になった。
「榛くん、何を考えてるのかな」里央が言って、榛の手を取った。「そういう迷いを吹っ切るためにここにいるんでしょう? だったらそんな顔しちゃだめだよ」
「そうだね」榛は里緒の手を握りかえした。とても幸せな気持ちになった。
「私たちは自分が思ってるほど自由じゃないよね。でもさ、やろうと思えばこんな風に抜け出すことだってできるんだよ」里央が言った。榛は深く頷いた。
 電車を降りた二人は改札を出て、私鉄に乗り換えるために歩き出した。滅多に来ない駅だったので、榛にとっては新鮮だった。デパートの前を通ると、すでに秋物の服が並んでいた。すぐには秋にならないと思いながら、少しずつ季節は変わっていくのだと榛は思った。そういえばこの前は立秋だったらしい。たしかにこのところ、夕方になるとうだるような暑さも引いて、過ごしやすくなってきている。
「ね、あれとか私、着られそうじゃない?」里央が言って、ショーウィンドウに飾ってある薄手のコートを指さした。榛は里央がそれを身につけて街を歩く姿を想像した。
「ロングブーツとかいっしょに履くと似合いそうだね」榛が言うと、里央はほほ笑んだ。「ありがとう」と彼女は言った。榛は心が軽くなった。そして、今日一日を楽しもうと思った。
 電車を乗り換えると、榛と里央はさらに南を目指した。日が高く昇り、気温が上がっていく。このところ電車は弱冷房の車両が多く、車内にいてもさほど涼しくはなかった。
「この路線、乗るの久しぶりだなあ」榛が言うと、「私もそう。こっちってあんまり来ないもんね。小さい頃はそれでも何回か行ったんだよ。小学校の頃ね。私がお父さんお母さんを催促したみたいなんだけど、あんまり覚えてないんだ」
「小学生の茅野さんはすごく元気そうだね」
「あ、何それ。今も元気ですよ。バスケやったら榛くんに余裕で勝てるわよ」
「今よりもっと元気そうって意味だったんだけど」榛は両手を開いて降伏の合図をした。
「まあそれはそうね。だってほんとに何にも考えてなかったもの。野山を走り回るウサギのほうがまだお利口だったかも。榛くんはどうなの?」
「俺? 俺はそうだなあ、部長には『榛くんは昔もそんな感じだろう。その姿が見えるようだ』とか言われたよ。でも自分じゃ分からないよ、そんなの」
「分からないってことはやっぱり変わってないのよ。いいなあ。それって榛くんのいいところよ。あのね、あなたそれなりにクラスで人気なの知らないでしょう?」里央は流し眼を送った。榛は口を一文字にして、「新しい冗談だね」
「冗談じゃないのよ。だって、部長さんほどじゃないけど、榛くんさわやかだし、それに裏表がなさそうだし、誰とでもすぐ打ち解けられるしさ。女子の会話でたまにあなたの名前が出てくるのを私は知ってるわ」里央は榛の反応を楽しんでいるようだった。榛は照れくさくなって、「でも別に告白されたこととかないし、バレンタインだって全然」
「だから隠れ人気なのよ。思いをなかなか言い出せない内気な子に人気なの。男の子ってそういうの鈍感よね」里央は口元に人さし指を当てて、「だから私が取っちゃった。だって、行動しなきゃ何にも変わらないでしょう?」
 私鉄の電車はゆるやかに南へ向かっていった。遠くの空には暗い雲があり、それだけが榛をどこか不安にさせた。

     

 凪

 夏原凪はすっかり舞い上がっていた。いい加減服選びにも慣れたいところだったが、こ
うも気分が高揚してしまうと、うまくいかなかった。部長から「凪くん、二人でどこかに出かけないか?」という電話があったのだ。二人で、というところを思い出すたび、凪は目まいと熱にくらくらしそうになった。しかし、花火大会で自分がどのようにふるまったかを思い出すと、胸が苦しくなった。「ああ神様、何てことなの」凪は頬を押さえて首を振った。「私が部長さんとお出かけ……」凪はつぶやいた。これはつまりデートというものかしら。殿方と二人きりで逢引だなんて。最近読んだ本で知った言葉を思い浮かべて、凪は顔を赤くした。長い時間をかけて服を選んだ凪は、今度こそ母親に見つからないよう、注意して家を出た。浮かれるあまり凪はスキップなどたしなんでしまった。桃色乙女、という言葉がこの世にあるならば、それは今この瞬間の彼女にこそふさわしい。凪は部長に惹かれていた。異性とまともに交友したのも初めてなら、恋に落ちたのもこれが初めてだった。ずいぶん遅い初恋だが、凪のような特殊な人間にとっては、それが遅いとか早いとかは問題にならなかった。まさしく凪の心は燃えあがる情熱そのものとなって鮮烈な炎をともした。純真な精神による恋の力はいかなる困難をもなぎはらう嵐のようだった。「部長さんのために力になってあげたいわ」と凪は思った。彼女自身は気づいていなかったが、凪はもともと堅忍不抜の人であり、一度決めたことに関してはてこでも動かないくらいに意志の強い少女だった。凪はとてもまっすぐに部長を救いたいと思ったし、そのためなら何だってできると思った。絵を描けと言われれば描くし、やめろと言われれば、大いに迷った挙句ではあるが、ほんとうにやめてしまうかもしれない。少なくともこの瞬間において、凪はそのくらいつよく部長のことを想っていた。花火大会で部長が見せた表情を思い出すと、凪は息が詰まるくらい苦しくなった。できることならいつものように明るく笑っていてほしかった。凪は世界の悲しみに対しては鋭敏だったが、個人的な問題がどのようにして発生するかについては、うまく想像力を働かせることができなかった。彼女の世界はいつでも巨大であり、他者の追随を許さないまでに圧倒的な広がりを見せていた。だからだろうか、現実の細かいことに関して思いを巡らすことが凪は不得手だった。例を挙げるならば、自販機の釣銭を彼女はしょっちゅう置いていったし、画材を買いに行く時、たくさん買うものを決めた挙句に財布を忘れてくるということも珍しくなかった。そして今回は携帯電話を家に忘れてきた。
「凪くん、こんにちは」部長の柔らかい笑顔を見る頃には、もう完全に凪の心はそちらに奪われていた。恋する乙女は恐ろしかった。今や彼女は死のうなどと一切考えていなかった。この人のためならもうすべて投げ打ってでも生きようとすら思った。今時そのような献身的な心を持つ人間がどれだけいることだろう?
「ここ、こんにちは」凪は顔を真っ赤にして下を向いた。通りかかった人には凪が中学生くらいに見えたかもしれない。えらく少女趣味な服を着てきたせいもあった。こ、これが恋なのね。そのように凪は自覚し、身体じゅうの瑞々しい細胞が新たな輝きに満ちたことを知った。全身全霊がつややかに生まれ変わるような、瞬間で何もかもを伝え、感じられるような、そんな存在になれる気がした。
「突然呼びだしてすまないね。どうも榛くんと里央くんが本格的につき合いだしたようだから、こちらもこれくらいしてもいいんじゃないかと思ったんだ」部長は笑った。
「え。あの二人がですか……?」
「そうだ。たぶん前回と前々回の間に何かあったな。僕の推測だとキスくらいはすませている」そう言って部長は眼鏡を押さえた。レンズがきらりと光った。凪は顔から蒸気があがりそうなほど恥ずかしくなった。「き、きす……」凪はつぶやいた。キス、口づけ、接吻。凪の頭はオーバーヒートしてくるくるまわり、情報を正確に認識できなくなりそうだった。その言葉は凪にとってあまりに耽美で、官能的で、禁忌だった。なにか神聖なものを感じるのに、その反面、どこまでも罪深いものに思われるのだった。凪は敏感でもあり鈍感でもあった。
 二人は駅からJRの電車に乗り、榛たちとは逆の方向へむかった。凪と部長は傍から見れば兄妹のようにしか見えなかった。凪は終始「でーと」という言葉を頭の中に浮かべては赤くなっていた。部長は涼しい顔で社内から風景を眺めていたが、しばらくして凪に話しかけた。「空いている列車というのはいいものだなあ。凪くん、こういうところにいるとさまざまなインスピレーションがわいてこないかい?」
 凪は「いんすぴれーしょん」という言葉が何を意味するかとっさにつかみかねた。とりあえず頷いてから「そうですよね。私もです」と言った。これがキャッチセールスか何かだったら間違いなく引っかかっているだろうが、さいわいにして凪は今のところ詐欺にあったことはなかった。凪は窓の外を流れる街の風景や空、樹木の葉にきらめく日差しなどを見ると、心が軽くなった。部長も同じような心境だろうと凪は感じ取った。二人はふと目が合った。それから笑った。
「僕も凪くんのような芸術家だったらよかったのになあ」部長は言う。「こういう瞬間に思ったことや、感じたことを形にできたなら、どれだけ素晴らしいだろう」
 凪は部長を見た。部長は遠く空の向こうを眩しそうに見つめていた。凪は部長の手を取った。部長はすこし驚いて、凪を見た。眼鏡の向こうに、凪は悲しい光を見た。またこの人は本当のことを言わずにいるのだ、と凪は思った。そして、そこにどんな優しさや、憂いがあるかを思い、また苦しくなった。部長は、
「凪くんすまない。きみにはうわべの繕いは何ひとつ通じないんだな」そう言って力なく笑った。凪は首を振る。短い髪が肩の上で揺れた。「部長さんはすごい発明をたくさんしてます。それはみんなの役に立つものです。それで私は助かりました。絵なんて……何の役にもたたないです。よく『励まされた』って言われますけど、私はそう思えなくて」
「凪くん、きみは作品の力を見くびっているな」部長は言った。「作品には作家の感じたことや主張が込められている。いまはそのようなものがこめられていない作品もあるにはあるが、いい作品には必ず作者の信念がある。魂といったほうがいいか。それは凪くんも、僕以上に分かっているはずだ。魂。きみも僕も、誰でもそれを感じることができる。それがなくなると、生きながら抜け殻のようになってしまうだろう。大人になると、おそらく多くの人がそうなりかねない状況に立たされる。僕や里央くんや榛くん、そしてきみはそれをどこかで怖れているんだ。なにかが欠けた時、人はどうなってしまうか分からなくなり、彷徨う。しかし、作品というものには、そこから人を呼び戻し、示唆や兆しを与える役目があるんだ。凪くん、それはほんとうに尊いことなんだよ。きみにはきみの想像を遥かに超えた可能性が秘められている。きみにはすばらしい感性があるし、そして技術がある。どちらが欠けてもいい作品は生まれない。しかしきみならばそれを作り出すことができる」部長は凪の手を握り返した。凪はまた胸が熱くなった。こんなに気持ちが昂ってしまって、凪は普通に話すことができるか分からなかった。どうしてそんな風に励ましてくれるのだろう。私はやりたいことをやってきただけで、誰の助けにもなっていないのに。凪はしばらく何も言えなかった。電車はゆっくりと東へ向かっていった。

     

 榛

 榛と里央が向かったのは藤沢だった。江ノ島電鉄に乗った二人は、数駅で下車し、海辺までやってきた。お盆のシーズンということもあり、どこも人でにぎわっていた。薄曇りの空がらはまだらな陽光が見えた。潮の香りを吸いこみながら、榛と里央は砂浜を歩きだした。海水浴をしている人も多く、江ノ島に至る浜沿いの道路は車で渋滞していた。
「もうちょっと静かな時に来ればよかったかな」里央が言った。「それか水着持ってきて泳げばよかったね」
 榛は里央の華麗な水着姿を想像するあまり、彼女を直視できなくなってしまった。それに気がついた里央はくすくす笑い、「なーに考えてるの!」と榛の背中を叩いた。
「ご、ごめん。茅野さんのその水着姿をあのー、その」
「私も榛くんの海パン姿を想像してやるわ。ブーメランパンツなんて似合いそうよ」
「冗談きついよ。あれって身体がたくましい人が着るべきものなんじゃないの?」
「あ、ほら見て。あのライフセーバーの人とかね。かっこいいなあ。ああいう人に救助されるなら溺れるのも悪くないと思わない?」Tシャツに海パンを履き、日焼けしたライフセーバーの男性を指さして里央は言った。たくましかった。榛は口を尖らせて、「どうせ俺じゃ茅野さんを海の魔物から救い出すことなんてできませんよ」と言ってふてくされた。
「榛くんがそんなに屈強だったらなんにも魅力がなくなっちゃうわよ」里央は笑いながら言った。振り向くたび、長い髪が後ろへなびいた。「ようは役割よ。部長さんが言ってたでしょ? 榛くんには榛くんの魅力があるの。凪ちゃんや部長さんもそうでしょう。みんなはじめからそうなりたくてなったわけじゃないわ。あるがままに生きているだけよ」里央は海を見た。どこまでも続いているように見えた雲は、水平線の近くで途切れ、水色の空から光があふれていた。「いいなあ海って。最低でも年に一回は来るべきだと思わない?」
「そうだね。俺もずいぶん久しぶりだよ。高校になってから初めて来たかも」榛は沖のほうにいるウィンドサーファーたちを眺めて言った。さぞ気持ちがいいだろうと思った。
「この前の花火もそうだけど、こういう場所に来ると、日頃悩んでることがすごく小さなことに思えてくるわ」里央は両手を伸ばして、天を仰いだ。「嫌なことがあったら、まずこんな風に落ちつける場所に行ってみるべきよね。くよくよしてちゃいけないもの」
 榛は予備校をさぼったことなどどうでもよくなってきた。遠くだけが輝く海は、まるで秘境のように神秘的だったし、海水浴や散歩している人を見るのはそれだけで楽しかった。この時間にこそ意志と自由があるのではないか、と榛は思った。しかし、結局のところこれはただの逃避行動にすぎず、逃げたのでは前になど決して進めない。そう理性が告げていた。頭でそうしたことを考えると、榛はまた気持ちが塞ぎそうになった。もしかして、今暗い気持ちでいる人たちは、みなそのように何かを頭で考えているのではないか、それがほとんど国中にまで及んでいるのではないか、と思った。もしもそんなだったら、生きづらくなって当然だ、と思った。榛は胸が火傷したみたいにひりひりした。
「ねえ茅野さん。大人になるのって怖い?」榛はふとそんなことを口にしていた。先を歩いていた里央は、半分だけ振り向いて榛を見た。それからまた前を向く。「どうしてそんなこと訊くの?」里央は歩き出す。しかしその足取りは軽快ではない。榛は、「俺が大人になることを怖がってるから」と言った。里央の足が止まる。二人の距離が少し遠くなった。曇りの浜辺は薄暗く、暗澹としていた。
「怖いよ」里央は言った。「決まってるじゃない」
「すっごく怖いよ。足がすくんで、身体が震えて、逃げ出しちゃいたいくらいだよ」里央は鎌倉の方角を向いた。陸のほうは木々が茂っていて、そちらはもっと濃い雲におおわれていた。海よりずっと暗い場所に見えた。「ね、榛くん。私がいつか読んだ小説にね、働いてた主人公の青年が、南の島に行って、休暇を取るお話があったの」榛に背を向けたまま、里央は言った。榛は周囲の人々の声が小さくなったような気がした。「その主人公も色々とまいっちゃってたのね。大人であることとかさ、他のことでも。だけどね」里央は下を向き、それから空を見上げる。「家出中の島の女の子と出会って、その子のわがままに振り回されるうちに、失ったものを思い出すんだ」
「へえ。読んだことないなあ」榛が言うと里央は頷いて、
「なくしちゃったから今は持ってないんだけどね。その女の子のほうもやっぱり嫌なことがあったのね。だから家出してるんだけど。二人は住んでる場所も歳も違うのよ。だけど共通点がある。それはね、何か大切なものを失くしかけて、居場所を失ってるってこと。それでね、二人は一日楽しく遊んで過ごしたあと、最後に踊るの。ロックンロールの演奏がかかるパブで、子どもみたいに無邪気に。でも、その晩に女の子は泣くの。思いっきりね。泣いても泣いても抑えようがなくて、何で泣いちゃうのかも分からないくらいで。それで主人公はずーっと傍にいてあげる。女の子が泣きやむまで、ずっとずっと傍にいてあげる。その時にこう言うの『一緒にここを出ようか』って。僕もきみも知らない国に行こう、って。でもね榛くん。ほんとはそんなことできないでしょう?」里央は振りかえった。笑顔を浮かべているのに、榛には笑っているようには見えなかった。
「そうだね」と榛は言った。
「それなのに主人公はそんなことを言うのよ。互いに分かってるはずなのに。それで女の子は次の朝に家に戻るの。主人公に『ありがとう』って書置きを残してね。もう二人は会うこともないの。きっと女の子は大人になってしまうし、主人公も全然違う暮らしに身を置いてしまう。いい? 榛くん、大事なのはその一晩なのよ。たった一日過ごしただけなのに、二人が出会って、共有した気持ちは永遠のものなの。それは大人になっても、色んなことが変わっても、損なわれないのよ」
「……悲しい話だね」榛は平凡な感想しか言えない自分がうらめしかった。里央は背中で手を組んで、「あれを読んで私は思ったんだ。結局どこにも楽園はないんだ、って。でも、高校生活は楽しかったから、それが私にとっての楽園だったのかもなって。そう思って」
 里央はうつむいた。声が小さくなる。
「そしたら、部活も修学旅行も学園祭もみんなみんな終わっちゃって、そんな場所がなくなっちゃうんだって、それがすごく悲しくて……」里央は手のひらで瞳を抑えた。長い髪が風になびいている。
「ねえ榛くん。それでも私たちはどこかに行かなくちゃならないの?」
 榛も立ち止まった。
 里央は真下を向いていた。砂浜に一粒の滴が落ちる。それは地面にとけて、すぐに見えなくなってしまった。「私怖いよ。このままでいたい。大人になんてなりたくない。どこにもいきたくないよ。榛くん、私、これ以上変わるのなんてやだよ……」里央は肩を震わせた。彼女の声が榛を揺らす。榛は唇を結んだ。榛はなぜか、小さい頃父親に少年野球のチームに連れていかれて、キャッチボールさせられたことを思い出した。何度やっても全然上手に球が拾えず、榛は泣きだしそうだった。父親はきっと、息子とキャッチボールするのが夢だったのだと思う。でも榛はまるでそれに応えられなかった。結局チームに入ることもなかった。どういうわけか、いまその頃の気持ちを思い出した。こんなことばっかりだ。どうしたらいいかなんて全然分からないで、放り出されて、期待されて、でもできなくて。色々なことが分からないまま、できないまま過ぎていく。そしてそんな記憶だけが残る。無力な記憶。迷っちゃいけないのに迷う。いつだってそんなことばっかりだ。
 榛はゆっくり歩いて、里央に近づいた。そして彼女の手を握った。離れないように。しかし、力がかからないように。榛は言葉を選ぶのが下手だったから、こんな時何を言ったらいいのかさっぱり分からなかった。かといって、榛は里央を抱きしめたり、口づけたりもしなかった。手をつなぐということが、いまの榛にとって唯一の、適切で、誠実な答えだった。榛はそっと手を引いて、里央と一緒に浜辺を歩いた。榛は、さっきの里央の話にでてきた主人公の気持ちが分かったように思った。榛と里央のあいだに言葉はなく、時間はどこまでも続いていた。しかし、榛には自分たちの目の前に未来が続いているとは思えなかった。きっとまた変わってしまう。時間が流れて、今とはちがう場所に行く。こうしてつないだ手も離れてしまう。そこにいる自分はもう別の人だろう、榛はそう思った。今の俺や、今の茅野さんはここ、今この時にしかいない。
 空を覆う雲が分厚くなってきた。雨が降りそうだった。榛は林のほうを眺めた。どうして晴れないのだろう、と思った。

     

 凪と秋斗

 目的地に着いた凪と秋斗は、森美術館の企画展示を鑑賞してまわっていた。先日の上野と違い、こちらには現代アートが数カ月ごとに内容を変えながら展示されている。近頃の作品が特徴的なのは、インスタレーションという空間を用いて表現する芸術作品だ。新しいアートのスタイルで、作品にどんなものを使ってもいい。たとえば、蝋人形を椅子に座らせたり、巨大なモニターを用いて風景の映像を流したり、格子状の鉄の中に飛行機の模型を埋め込むというふうに。絵画という縛りから解き放たれているぶん、より自由な発想から作品をつくることができるのが強みだった。凪はファインアートが中心なので、インスタレーションの制作経験はほとんどなかったが、それらの作品を見ていると、日頃自分が考えたり感じたりしていることもまた固定的であり、一方向からの視点にすぎないのだと思った。秋斗に作品への感想を問われると、凪は抽象的な言葉を使いながら、何とか感じたことを伝えようと奮闘した。それを聞くたび秋斗は穏やかに笑った。ごく自然な笑顔だった。凪は、絵が描けなくなってから今までに感じた様々なものごとか、一度綺麗に混ざりあい、希釈され、濾過(ろか)され、ゆっくりと身体の中をたゆたうイメージを持った。それは不安と圧迫から凪を解放し、元通りの、いや、元より強固な精神を凪の中にはぐくんだ。相変わらず、彼女の存在している世界がどうであるか、そのやりきれなさは変わっていなかったが、凪ははっきりと、この数週間の混乱が静かに落ちついていくのを感じていた。それは彼女自身が望んでいたことであるが、彼女ひとりでは起こせないものでもあった。すべては榛、里央、秋斗の三人と会ったことによる変化であった。
 ある作品があった。それは暗い個室の中に浮かび上がる光のすじで、作品のタイトルもまさしく「光」だった。正方形の暗室の中央には、焦点のぶれたスポットのような明かりだけが降り注いでいた。「おもしろい作品だ」秋斗は言った。近くに行くと、光がただライトを照射しただけではないことが分かった。まるで、秋の昼下がりにやわらかく落ちる木漏れ日のように、自然の風合いを持たせてあった。秋斗は上を見上げて、
「どうやっているのだろう。僕の発想ではこんなものを生み出すことができそうにない。使っているのは機械のはずなのに、不思議だ」秋斗は光に手をかざした。凪も手を伸ばす。
 それは太陽の光と同じくらい温かく、親しみが持てた。二人は長い間その光を見つめていた。そして手をつないだ。

 森美術館の展望階に向かうと、そこからは奇妙な風景が見えた。見渡せる風景の半分は曇り空で、もう半分は青空だった。曇っているのは南西、晴れているのは北東だった。
「榛くんたちはあっちへ向かったはずだ。雨が降っているかもしれないな」秋斗が言った。凪は部長の手を握りながら、胸がざわつくのを感じた。この場所からは自分たちが住んでいる世界のほんの一部が見渡せる。凪は自分が不器用な鳥になった気がした。向かうべき場所を探しているが、見つからず、その間に光の世界は闇に変わっていく、そんな焦燥。
「本当ならもっと清々しい眺めの場所なのに、妙な天気だ」部長が言った。凪は曇っている南のほうを長い間見つめていた。凪は南の方角が好きだった。いつか、海に浮かぶ国を歩いてみたい。しかし今、そちらの方角は真っ暗だった。しかし凪はじっと、雲の方角だけを見つめていた。垂れこめる雲のずっとずっと向こうに、かすかな光が、糸のように、横向きに走っているのを彼女は見た気がした。それは鳥の気持ちになった凪が見た幻かもしれなかった。それでも凪は、北にある快晴の空よりは、暗雲の向こうに見える、見たいと願う光のほうに惹かれていた。「世界が、もしこんな風だったら」凪は言った。
「秋斗さん。私はこの景色が好きです」凪は言った。秋斗は少し驚いた顔をして、もう一度展望階からの景色を眺めた。「まがまがしい景色だ。まるで世の中が終わってしまうみたいにも見える」秋斗は言った。「僕たちがそんな場所に立っているんだとして、それでもこの眺めを愛せる理由は何なのだろう?」
 凪は首を振った。言葉で答えることが困難だった。凪はただ感じていたのだ。
「それでも、この場所は悪くないわ」
「凪くん、僕は足がすくんでしまいそうだよ。これから踏み出していく場所がこんなだったら、僕は気が狂ってしまうかもしれない」秋斗は言った。凪は表情をゆるめ、秋斗にほほ笑んだ。そしてまた彼の手を握りなおした。「私は秋斗さんの力になります」凪は秋斗を見上げ、「何の役に立てるかは分からないです。でも、困ったら話を聞きたいです。話がしたいです。……それじゃだめですか?」
 秋斗は凪を見た。凪も秋斗を見た。「ありがとう」秋斗は言った。
「とても嬉しいよ」

 凪はパースペクティヴの話を思い出す。遠近法。見通し。それがなければ正確な絵は描けない。しかし絵は正確さがすべてではないことを凪は知っている。
「私、帰ったら絵を描いてみることにします。あの……秋斗さん。もしもできあがったら、見てもらえますか?」凪がそう尋ねると、秋斗は頷いた。「もちろんさ」

     

 榛と里央

 突然の雨は、湘南の浜辺や通りに降って、にぎやがだった海をたった数分で静かにした。人々は屋根のある建物に避難した。雷が轟き、空を裂いた。雨が降りだした時、榛と里央は、空を見上げてぼんやりしていた。みるみる雨に打たれ、頭からつま先までぐっしょり濡れた。あまりにも多く降った。本当ならまいってしまうところだったが、ふいに里央が笑いだした。すぐに榛にもそれがうつって、なぜだか二人は笑いが止まらなくなってしまった。緊張の糸が切れると、どういうわけか何もかもが楽しかった。そして、誰もいなくなった砂浜を、彼らだけの場所を二人は走りだした。ライフセーバーが呼びかけても二人は走り続け、とうとう逃げ切ってしまった。

 榛は思った。そうか、と。
「いつでも自由なんだ! 何が待っていても。そんなことが実際に起きても。不安でも。悩んでいても、怖くても、傷ついてしまっても! いつだって自由なんだ!」
「榛くんはやく!」里央が榛を呼んだ。「待って!」と榛は答える。
 二人はなにも怖れなかった。そうして、浜辺をどこまでも駆けていった。

       

表紙

宵野夏 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha