Neetel Inside 文芸新都
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駅前の雑踏の中、繁華街のネオンが騒がしく光り、足音さえ声に飲まれる濁流に男はまぎれていた。明らかに顔色の悪く、少し頬のこけた顔。しかし良く見てみれば顔はまだ多少の幼さを残しており、頬に残るニキビがまだ思春期の盛りを抜けたばかりだということを示していた。なんというかくたびれた格好だった。古着というと多少お洒落な雰囲気がするが男の恰好は、古着というよりただの古い服。もうすぐ夏だというのに季節はずれな茶色の厚手のパーカーに、いつ洗濯したかわからない色の落ちた暗めのジーンズ。足にはそこらへんの公民館のトイレからこっそり盗んできたようなサンダルを履いていた。無造作に伸ばされている髪の毛は男の視界を半分は奪っているだろう。つまり、一般的な感性から友人でもなければ隣に置いておきたくないと思わせる格好をしていた。
男は、ちょうどたったいま財布の紙幣を一枚残らずスロットに突っ込んできたところだった。
スロットというゲームは、情報が多いほど、そして早起きの得意なものほど有利なゲームである。メダルは一枚20円の借り賃となっており、それを流したレシートを景品に変え、換金所で交換するというやや遠まわしな方法をとっている。パチンコと違い、設定というものがあり1~6までに分けられる。それは数の増えるほど機械割りが良くなりスロットを打つ人間は躍起になって設定の高い台を探す。片手に子役カウンターを持ち、設定ごとに頻度の違う演出を追い求めるのだ。その他には、朝一で並び朝の7の並びから台の設定を推測したり、イベント台にさしてある札から高設定を狙ったりなど様々だ。それが賢い者、または負けて余りある金を持たない者の打ち方だろう。しかしこの男の行動は両者ともに無縁だった。
男はただ座って、打つ。勝ったり、負けたり。当然負けのほうがすっと多い。
男は自分が何かを持ってると思いたがっていた。つまり、いわゆる豪運、天運の類を持った人間だと信じこみたかった。自分の勘はまさに神の力が宿っている。なぜなら自分は他のやつらとは違うのだ、と。
しかし、ここは断言をさせてもらうが男はそんな豪運、天運などと笑ってしまうような夢物語な代物を一欠けらも持っていない。
男は自分が座ろうと思っていた台が大当たりを頻出しているのを見て「やはり座っておくべきだった、自分の直感は間違っていなかった」などと、検討違いなことをよく考える。そんなものは他にも座ろうとした台などいくらでもあるし、たまたま10台ほど見たうちの一台に都合よく思っているにすぎない。そんなものは直感でもなんでもない。ただの負け惜しみだ。
 つまるところ、この男はどこにでもいるようなただの人間だし、他のどこにでもいるようなただの一般人にさえなれなかった存在である。
雑踏の中、男は歩いていた。
人々が靴底で地面を叩く音に酔いそうになりながら、へらへらと笑いながら通りすぎるサラリーマンに心の中で呪詛を吐きかける。笑っているやつが憎かった。自分がこんなに沈んだ気持ちなのに幸せそうなやつが許せなかった。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。頭の中で負け惜しみだけがぐるぐるぐると回る。
そのとき、目線を下げていたせいか男は正面から歩いてくる恰幅の良い男とぶつかってしまった。
文句をいってやろうと声を張り上げようとするが、小心者ゆえにそんなことも出来ず口をもごもごと動かしたあと舌打ちだけして通りすぎようとする。だがいつの間にか胸倉にはそんな男を引きとめるごつごつとした腕があった。
耳が痺れるような音量で恰幅の良い男が声を張り上げる。
「殺すぞ」「なめてんのか」という二言だけはなんとか言葉になっていた。
男は反射的にいつのころからか身に着いたトラブルになった際の愛想笑いを浮かべて頭を下げた。しかし相手の男の怒りは収まらない。相手の男は胸倉をつかみ上げたまま、腕を大きく振りかぶって固い拳を頬に叩きいれた。殴られた衝撃でバランスがとれず多少大げさに吹っ飛んだ男はどこかの居酒屋の看板に頭をぶつける。それを見て多少は溜飲が下がったのか、地面に唾を吐きかけて、相手の男は去っていった。
ざわめきだけが残った。
男はそのいつもの駅のざわめきが自分にむけられた気恥しさからか、そそくさと立ち上がり「ひどいことするなぁ」「まいったな」なんて余裕ぶった独り言をいって足早に現場から離れた。だが、いくら現場から離れたといっても頬の痛みが先ほどの現実を訴えかけてくる。すると今度はさっきの男への怒りがふつふつと沸いてきた。
むこうが前を向いていなかったのが悪いんじゃないか。俺だって昔はスポーツマンだったんだ、本気で喧嘩をすれば勝てる。しかし、それで怪我をさせるのも馬鹿みたいだ。そもそも怪我をさせたら罪になってしまう。そんなのリスクのほうが大きすぎる。
言い訳、言い訳、言い訳。
本当ならあんなやつにこんなみじめな気持ちにさせられることはなかった。だが自分が我慢したんだ。
言い訳、言い訳、言い訳。
そうして自分に言い聞かせて言い聞かせてようやく男の心の平穏が戻る。痛む頬を抑えながら「はぁ」と吐いたため息は男の想像以上に重かった。


先ほどから世間一般的に「屑」といわれる立ち振る舞いしているこの男、名は多田という。所詮名前などは、個人の識別ぐらいにしか役に立たないので下の名前は割愛しておく。この多田という男現在はまだ20歳。本来なら大学生という身分の筈だったが、中学を卒業したときの一時のテンションというものに身を任せて、役者の専門学校に入学した。親に金を貰い上京したのが4年前、バイトをするも決して長続きはせず今は親からの仕送りだけで暮らしている。役者はどうしたかというと、結局は専門学校などそんなもので多田はどこぞの劇団、プロダクションなどにも引っかからず、形ばかりの卒業式を終えたときには中卒という学歴しか残っていなかった。働きたくない、でもお金が欲しい。多田の頭にはそんなことしかなかった。
多田がはじめてパチンコに手を出したのが二年前。ビギナーズラックからすっかりのめりこんでしまい、そのままの流れでスロットにも手を出した。周りが吸っているからという理由で煙草も多少は吸うようになった。アルコールも飲む。しかし、付き合いでやるだけで決してうまいとは思っていなかった。
多田は様式美を好んだ。好きな子に振られたらやけ酒をしなければいけない、ストレスが溜まったら煙草を吸わなければいけない。一般的な理由と結果をよく逆に解釈していた。それでも身体がなまってきたと感じたらジョギングなどしたりもする。
その日、その日。多田は将来の事など考えずただその日一日のことだけを考える。眠かったら寝続けるし、遊びたかったら遊ぶ。金がなくなれば実家に帰って祖母に金をせびる。身体の弱い母が入院すれば、見舞いにも行くし体調を心配に思うがそんな考えは一週間も続かない。読書も好きだが、読むのは早いが内容はあまり覚えていられない。ほとほと中途半端な男だった。
その日もいつの間にか頬の痛みなど忘れ、眠くないからという理由で朝方までインターネットをした後、陽が昇ってきたころにようやく眠りについた。

     

夢なんてものはみる日とみない日がある。しかし、多田は例外だった。
彼は毎日夢を見た。内容は様々。蜂に追い立てられる夢。狩人から山の中で延々逃げる夢。とりあえず夢の中の多田はいつも走っていた。厳密にいうと何かに追いかけられていた。それが現実の圧迫感から見る夢か、それともたまたまそうゆう夢を見るのかはわからなかった。ただ記憶している限り、全て走る夢を見続けているのだからやはり偶然ではないのだろう。この日も、多田は夢の中で追いかけられていた。何に追いかけられているかは走っている本人ですらわかっていなかった。ただ走る、足を止めず、少しでも距離を多く。


時刻は正午を過ぎたというのに多田はまだ寝ている。またいつもの夢を見ているのか、横たわった身体からは寝苦しそうな寝息が時折聞こえてくる。
その日も多田は自分の寝息の騒々しさで目を覚ました。
多田の意識がひきつけを起こしたように覚醒する。だんだんと脳に血が巡っていくなか、息使いはまだ聞こえた。聞こえたも何も息を荒くしているのは多田自身なのだから。
ベッドの上で天井を見上げる。順調に下がり続けている視力ではコンタクトをつけないとただ白いという事しかわからなかった。夏だというのに身体が随分と冷たかった。首筋に手をやって着ている服が汗で重くなっていることに気がつく。
諦めるように布団に腕を叩きつけ「糞っ」と悪態をつく。その声が自分の想像以上に大きかった事に多田自身驚いた。
ここ最近、気持ちの良い朝など迎えたことがない。記憶にあるのは先ほどのように夢から現実への逃避のすえの目覚めだ。そう考えて多田は己の思考に笑った。
今はもう夢に逃げたいよ。
多田は身体を起こし、窓に目をやってが、カーテンに覆われて外の様子をうかがうことはできなかった。長すぎて、フローリングの床についているカーテンには随分と埃がついていた。室内の温度の高さから外の天気を思いうかべてげんなりする。今のような生活を始めてから太陽が随分と嫌いになった。単純な理由に明るいところにあまりいかないせいか眼が痛いというのもある。だが、どうも午前中やお昼頃の太陽光を浴びると、まるで自分の存在をくっきりと他者に見せつけているような、どうしようもない気恥しさに襲われる。こんなのでも元々は役者を目指してた身だったのだが、今ではそれはどうしようもない。スウェットから着替える気力も起きずに、ゆっくりとベッドからおりて、6畳間の真ん中の丸テーブルからコンタクトケースを手に取った。
伸びをしながらベッドから立ち上がり、恐る恐るカーテンを開けた。しかし、外は警戒していた太陽光を照らすこともなく、窓にばたばたと雨粒をぶつけているだけだった。だが、これも嫌だなと多田は思う。雨も嫌いだ。晴れた日も嫌いだが雨の日はもっと嫌いだ。こんな考えが子供の我儘のようなものだとわかっている。だが服がぬれるのも、湿気で天然パーマ気味の髪の毛がはねるのも嫌だった。
眼にかかる前髪をつまみながら髪をもっと短くするかとも思うがそれもまた嫌だなと思い指を離す。思いだすのは専門学校の卒業公演だ。なぜだか知らないが自分は兵隊の役にされて、兵隊が坊主じゃないとおかしいと頭をバリカンで剃られた時のことはまだ鮮明に覚えている。あの時はしばらく髪の毛と一緒に何か他のものまで落としてしまった気がした。
フローリングを見つめ「嫌な事を思い出した」と呟きながらカーテンを閉めた。
部屋の中にまた暗闇の静寂が戻ってくる。何故、自分は暗いところを好むようになってしまったのか。昔は特にそんなこともなかった筈なのだが。
頭の中でぼんやりと考えを巡らしながら、ベッドの上に腰をかけたまま何もせずに座っていると腹減っていることに気がついた。しかし財布の中身は昨日スロットですったせいで紙幣は壱枚もない。それこそ500円玉すらない。今日の日付をなんとか思い出してみる。次の仕送りまではあと10日。考えるのも嫌になる。とりあえずコンビニに行こう。
多田は玄関に落ちている昨日脱いだままの形のジーパンに履き替え、上はスウェットのままコンビニに向かう。
 外に出てみると想像以上の雨が地面を打っていた。多田が傘をさすとばたばたと物凄い音がする。耳が慣れるまでビニールが雨を弾く音で周りが何も聞こえなくなってしまった。しかし、どことなく世界に自分一人しかいような気がして多田はそれが嬉しかった。
「たまには雨もいいもんかな」
呟いてみると、足取りが少し軽くなった気がした。
歩きはじめると予定も無いのになんとなく現在の時刻を確認したい気持ちになった。だが、残念ながらズボンの尻ポケットに携帯はなく、もちろん腕時計など洒落たものはつけていない。もっとも携帯は随分前から料金滞納で止められており、もう長い事充電が切れたままになっているのだが。
まぁ、コンビニに行けばわかるか。ジュースやらなんやらが陳列されている棚の上にある時計を思い描き、歩みを進めた。
本当にひどい雨だった。昔に呼んだ小説に、空がひっくりかえったような雨という表現があった気がしたが、今日の天気はまさにそれだった。
水たまりを避けようと歩くが、道路全体がまるで一つの大きな水たまりのようで、コンビニまでの道のりを半分ほど歩いたところで無駄な抵抗はやめた。足を落とすごとに地面がばしゃばしゃと飛沫を上げる。本当に、今日は厚めの靴を履いてきたよかったと思った。もしも運動靴など履いてきていたらとっくに靴下まで浸水していたに違いない。
鼻から入る外の空気は夏に近いせいか随分と温い。急な夕立のようにも感じられた。
多田はそこまで考え、ようやく梅雨という言葉に思いあたった。
「そうか、梅雨なんてあったな」
思わず口に出していた。最近はあまりにも季節感のない生活をしていたせいか、完全に頭の中から抜けていた。あまりにも浮世離れしていることに思わず苦笑しながら景色を眺める。歩いている途中にある、金網のむこうの畑に実った野菜の数を数えているといつの間にかコンビニの看板がすぐ近くにあった。
引き押し式のドアの向こうから店員の声が聞こえてくる。
血管に鉛を流し込まれたような心地がした。
多田はすでに2年ほどまともな会話をしたことがない。弱性の対人恐怖症といってもよい。もちろん家族とは普通に会話できるのだが、それ以外の人と会話をするとなんとも喉がつまったような感覚に陥ってしまう。
身体の内側にぐっと一本の棒を突っ込むような意識をする。
こうすると背筋が伸びて、少しだけ強気になれるのだ。
傘をたたみ、傘入れに突っ込もうと思ったが、天気を鑑みて、盗まれたら家まで濡れ鼠になって帰らなくてはならなくなってしまうので、そのまま手に持っておくことにした。店内に入ると店員の表情と不一致な明るい声を聞こえてくる。スロット、パチンコ雑誌に大雑把に目を通した後、時間を確認したかったことを思い出す。多田の顔が映りそうなぐらいにピカピカの盤面とはアンバランスに安っぽい時計を見つける。時刻は3時。多田は12時間ほど寝ていた計算になる。
目的のパンの陳列棚のところに向かい、品物を手に取る。100円の多少は腹がふくれそうなパンだ。そのままレジに持っていこうとした時、あることに気がついた。
前にもここでこのパンを買っている。
あの時の店員がこちらの顔を覚えていて、いつも同じ物を買う人と思ってないだろうか?くだらない事だが、社会から離れて培った対人恐怖症により、地球ほどに肥大化させられた自意識が警報を鳴らしていた。
汗が首筋を流れる。それは豪雨のせいでついた水滴か、それとも独特の蒸し暑さのせいか、それとも、動揺のせいか。それは多田自身にもわからなかった。
結局、隣の菓子パンを手に取り、会計を済ませて外に出た。

     

外に出ると、先ほどの雨はまるで何かの手違いだったかのように止んでいた。やはり一過性のものだったのだろう。雨が止んでいたことに多少心を軽くしながら帰り道に歩きながらパンを食べた。太陽はやはり好きにはなれないが、空の下で食べる飯はうまかった。多田はそのとき、機械だった。ただパン食べ続けながら足を動かす機械。パンの残量だけを頭で考えながら家までの道を歩いた。家に着き、靴を脱いでゴミ箱にパンの袋を突っ込んだときに気がついた。
もう、腹が減っている。
喰ったのに。なけなしの金をはたいて食糧を手に入れたのに。それでも育ち盛りを抜けたばかりの多田の腹は、その程度では満足しなかった。
まるでたちの悪い詐欺にひっかかったような面持ちになりながらも、この後、最低の選択肢をとることに腹をくくった。
脱いだばかりの靴をまた履いてまた家を出る。男の一人暮らしには不要なオートロックを抜けると外はもう太陽が顔を出し、陽が照っていた。まるで女の心のような天気の移り変わりに怪訝な気持ちになるが、頭の中で気持ちを萎えさせないようにマンションを出て、歩いて5分ほどのところにある公園に足を向けた。
携帯は料金を滞納しているので使えない。公園の飾りと化している、随分と骨董品になってしまった電話ボックスを使いたかった。
多田は実家に電話をかけるつもりだった。あまり気が進むことではないが、背に腹は代えられない。恐らくいくつかの小言を受けるだろうが、基本的に男兄弟の末っ子である多田に甘い両親はお金を送ってくれるだろう。
気持ちのせいか、早足になりながらも金をすぐに送って貰うための設定を頭の中で考える。なんていおうか…。今のところは友人と舞台を見に行くためのチケット代という言い訳が第一候補だった。他は病気になって診察代と薬代を随分とられたからなどが次点に挙げられる。
頭の中の設定をようやく決めたころ、やる気のなさそうな遊具がチラホラと置いてある公園に着いた。目的の電話ボックスまでに公園の真ん中を横断した。
しかし、いつからこんなに公園の遊具は覇気を失ってしまったのだろう。昔はもっと魅力的な遊具が子供たちを誘っていた気がするのだが。果たして、それは多田が成長した今だからこそ思うのか、それとも本当に「安全」という言葉に負けて「魅力」を奪われたのかということを考えると、多田にはどうも後者に思えた。
 身分違いにも公園の将来の事を多田は憂いた。しかし結局そんなことを考えてもどうしようもなく、本来の目的である電話ボックスに入った。
なんていったらいいのかわからない、電話ボックス独特の扉が閉まると、密室の中の空気は不潔に感じられた。
小銭を入れたあと、自宅の番号を押していく。コールがはじまって五回目で繋がった。電話から聞こえた「もしもし」という声は若い男の声だ。多田は思わず舌打ちしそうになる衝動をこらえる。恐らく電話に出たのは長男だろう。
はずれだ。
多田は自分の名前を告げ、ぼそぼそとした声で「母さんに代わって」といった。だが、それを無視したように電話の相手が喋り出す。
「なんだよまた金か。おまえふざけんなよ、毎月いくらもらってると思ってんだ」
 電話の向こうで軽蔑の眼を向けているのがわかるような声色だった。ひどく気に障る。もうこのまま電話を切ってしまいたかった。
兄は昔から現実主義者だった。小学生の頃、多田が友人に守銭奴と思われるような金の価値観を教え込んだのも兄だったし、多田が役者になるといったときも、最後まで侮蔑の言葉を投げかけたのは兄だ。
多田は受話器から聞こえる兄の言葉を意図的に黙殺して、また「母さんに代わって」と告げた。昔から、兄は苦手だった。あの男はずるいのだ、上手いのだ。要領が良いという言葉があれほど当てはまる男を多田は他に知らない。
多田から見て兄弟間での兄は今の多田から見ても「屑」といえるような男だった。しかし、外面は良く、適度にさぼりながらも大事なところでは絶対に外さず上手く上手く生きていた。そんな要領の良い兄が多田はたまらなく嫌いだった。
兄の舌打ちの音が聞こえる。最後に「クソ餓鬼」といったあと受話器の向こうで兄が母を呼ぶ声が聞こえる。ようやく胸のつかえがとれた。
その後、電話を変わった母に先ほど考えた突発的に金が必要になった理由を告げ、今月の仕送りを早めにくれるよう頼み込んだあと通話は終わった。恐らく身体の弱い母は今日中にでも父に頼みこんで振り込みをしてくれるだろう。受話器を本来の置く場所に押し込むとき、押し込んだ手に合わせて、思わず声が漏れた。
「くぅっ…!!」
どうしようもないような唸り声が多田の前歯の隙間から漏れている。
小さい隙間に挟まった自分がその中で両手足を思い切り広げようとしているような、そんな声だった。罪悪感、兄への怒り、母への申し訳なさ。父に対する情けなさ。嘔吐感がして咄嗟に手を口にやるが、えづいただけで何も出てこなかった。
 スロットやって生活費をすっちゃいました。お金ください。
 いえるわけがない。
母は息子の多田から見ても出来た人だった。昔から身体が弱く入退院を繰り返していた母は勉強を無理強いすることもなく滅多に怒らない。だが、クラスメイトをいじめただとか、人の心に関わるところでは非常に厳しく兄弟を叱った。はっきりいって人生で母以上に良い人を見たことがないといってもいいと多田は思っていた。そして父もまた立派だった。勤めていた会社が倒産し、再就職した会社でリストラ。それでもまだ工場に働きに出て家族を養っている。
涙が出てきた。なぜ、なぜ、なぜ。何故こんな出来た人たちから自分のような屑が生まれたのだろう。多田はいつの間にか涙をこぼしそうになっていた。思わず上を向いたとき、昔聞いた曲のフレーズを思い出して少し笑った。上を向いて歩こう。涙がこぼれないように。小学生の時、何度かクラスの合唱で歌ったあの曲だ。ぐっと目に力をいれて涙がこぼれないように努める。頑張ろう。何がというわけでもなくとにかく頑張ろう。決意を新たに、頑張ろう・・・! 握りしめた拳から肉の圧迫される音が聞こえるような気がした。だが、そんな時でもやはり多田の心の片隅で思っている。
いったい何度こんな事を決意しただろうかと。
専門学校のオーディションで箸にも棒にもひっかからなかったとき。祖母がなけなしの金をはたてわざわざ用意してくれた小遣いをスロットですったとき。仕送りの金を貰ったその日に全てスロットですったとき。毎回、毎回、涙が出るような決意を多田はした。そして、その上で多田は今、ここにいる。こんな吐瀉物が溜まった出来たドブのような状態に。
こんな決意の安っぽいことは良く知っている。こんな決意など大安売り、罪悪感に流す涙などその辺の水たまりほどの価値もない。先ほど感じた罪悪感も後悔も怒りも時間で流れるように風化していく。心の片隅に冷めた多田自身が黙ってこちらを見ていた。歩く足は鉛のように重く、自身の決意は風船のように軽い。「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」専門学校時代にやらされたハムレットの台詞の一部が蘇る。
死ぬべきだ。何一つ生み出せず、親が生みだしたものを消費していく。こんな人間は、いらない。処分されるべきだ。視界から見える景色がどろどろとアメーバ状になっていく。多田の頭の中には怒りしかなかった。現在の自分への、過去の自分への、親への八つ当たり、優秀な兄への妬み、そしてまた自分自身への・・・。頭がくらくらした。足がとけそうだった。目がまわりそうだった。
そしてそのまま自室のベッドに倒れこんだ。
 ああ、帰ってきてしまった。
 何故帰ってこれた。そのまま前後不覚になり、どこかの車にでも轢かれたほうが良かったのではないか。死ね、なんで死なない。大丈夫、誰も、みんな、おまえをいらないんだから、だから死ね。
そんふうに一杯一杯になったときにも、やはりどこかそう見せかけている自分がいる。心の底からではない。嘘っぱち。くだらない。くだらない。
世間へのポーズ。何かへの言い訳。自分は一杯一杯になってますよ~。自分もそれなりに苦労してますよ~。罪悪感だって感じてますよ~。
そういって卑屈になって上目遣いで誰かをうかがっている。それは、親、兄弟、世間、全てに対して。失うものなんて何もないくせに何かを守るように媚を売っている。そういう自分自身が一番嫌いだった。
多田その日、泥酔者のように小さいベッドに身体を曲げて、そのまま眠りに落ちた。

     

そして
また
やってしまった。
多田は茫然とパチンコ店に入口に立ちつくしていた。仕送りを受け取ったのが今日の午前中、7万円。昼から少しだけと打ちに来て、赤くなったり青くなったりしながら慌ててやめたときが残り3000円。口元だけ、夢だと信じたいかのように口角が上がっている。
もう涙も出ず。茫然と、頭の中には何故という言葉がずっとリフレインしていた。
何故、何故、何故…わけがわからない。何故こんなふうに自分は負けなくてはならないんだ。何一つ顧みない自分の心が悲鳴を上げ続ける。ふざけるな。殺してやる、それか殺せ。そのまま癇癪を起しそうになる自分自身を胸の上から心臓を掴むようにこらえる。
ため息を吐いたところで気持ちは何一つ軽くならない。それどころかため息すら出ない。死にたい。殺してほしい。こんな自分を磨り潰して消して欲しい。
嘔吐感がひどかった。
今吐いたら楽になるのだろうか。わけがわからない、いつの間にか、いつの間にか、金がない。俺のせいじゃないと思った瞬間もじゃあ俺の以外の誰のせいだと俺が問いかける。  
とうぜん、俺のせいだ。
「うっ・・・!」
えづいた拍子に涙まで出てきた。ふらふらと、鉛のような身体すら感じられず、腐り落ちそうな心臓の重みだけを胸に感じながら歩く。いや、歩いているといっていいのかもわからない。心臓を地面に叩きつけるように倒れ続けて、足を進めた。奇妙な歩き方のまま飲食店が並ぶ裏道に入る。
壁にもたれかかるとその冷たさだけがこの世の確かなものに感じられた。
「俺は、この先、どうすればいい」
 息苦しい。酸素を求めて、言葉を続ける。
「金も無い。友人もいない。恋人もいない。残ったのは中卒って学歴だけ。ふざけんな…! ふざけんなよ…! どうしろっていうんだよ」
 酸素を吐き出しながら、吐いた言葉の返しで息を吸うごとに、多田の身体はずるずると壁から落ちていく。しまいには路上に横たわってしまう。咳こんだ拍子にはねる身体からは「どうしろっていうんだ」と小さく聞こえてくるだけだった。
多田がその状態から動いたのは1時間後だった。1時間。60分。3600秒。指一本たりとも動かすことが出来なかった。精神、心が折れてしまっていた。その間に人が通らなかったのだけが救いだろう。そのまま意識を失いかけた時、遠くで音がした。誰かの携帯だ。電子音がどんどん近くなっていく。あぁ、そうだ。今日は携帯持ってきてたんだっけ。料金滞納していても着信、受信は出来るって変だよな。心と体が別々のものになってしまったような気分で思った。小学生にも負けそうな力でポケットをまさぐる、やはり鳴っているのはこの携帯だ。着信画面を見ると「実家」とだけ映っている。ばぁちゃんにでもまた小遣いもらうかな。自分で考えて笑ってしまった。
「もしもし」
 ちゃんとそういえているのかも自信が無かった。
「ああ、ようやく繋がった」
 父の声だった。
「今、大丈夫か?」
「うん」
 もっとはやくにかけていてくれていれば、自分はまだ金を持っていたかもしれなかったのに。
「母さんがなぁ、ちょっとまた救急車で運ばれちゃってなぁ」
「え?」
「今日のお昼頃に倒れちゃってな。おまえ、もしも予定がなかったら一回こっちに帰ってきてくれないか。母さんの入院の準備とかちょっと手伝ってほしくてな。ほら、あーちゃんも今入院してるだろ。二人のところに毎日顔出すのはちょっと時間的に難しくてな」
 あーちゃんとは多田の父方の祖母の事だ。ばーちゃんが母方の祖母。
あーちゃんは庭の花に水をやっている最中にクモ膜下出血で倒れた。そのまま救急車で運ばれてなんとか一命はとりとめたが、それ以来、家族の区別がつかなくなった。つまり多田の事を父と間違え、父の事を父の弟と間違える。そして何故か何十年も前のことを昨日の事のように話した。あの痛々しさは忘れられない。
「うん、わかった。帰れるよ、多分」
 所持金は3000円。実家まで電車で2500円。なんとか足りる。
「そうか、それじゃあ頼むぞ。帰れる日が決まったらメールしてくれ」
「うん、わかった。それじゃあ」
 電話がきれた。
多田の母の入院自体はそれほど珍しい事ではなかった。
昔に乳がんを患わってしまった母は元々心臓の弱かったこともあり、激しい運動が制限された。マラソンを見ると感情移入して動悸を激しくしてしまい、苦しそうにしていた母の姿をよく見ていた。しかし救急車で入院は今までにない事態だ。定期的に病院に診察に行く母はよくそこで入院を言い渡されたりはしていたが、今回の倒れるといった事態は初めての事だ。
兄と父と多田は母に秘密を持っている。それは医師から父に伝えられ、父から兄弟に伝えられた。母は長くて5年、短くて1年しかもたないと。あの時の、心臓に大きな穴をあけられたような気分はよく覚えている。母が人並みに長生きする。それだけのことが認められないことが憎かった。憎くてしかたがなく、色々なものに当たり散らしたりもした。
父にその事を聞いてからもう4年。その時は、テレビに出て母に晴れ姿を見せてやるなんて意気込んだりもしていた。昔の話だ。だが母のことはそれだけで捨て置けなかった。無理やり心の中でまぁ大丈夫だろうなんてなんの根拠もなく思いこむ。頭をふって考えないように努めた。
帰るならば、さっさと帰ろう。どうせ食費も持っていない。父にメールを送ろうと思ったが、この携帯は発信が出来ないことを思い出してやめた。
多田は立ち上がり、服についた土をはらう。気分はすっかり切り替わっていた。この切り替えのはやさも自分が同じ失敗を繰り返す原因だろうなと薄らと思ったが、とにかく今は帰路を急いだ

       

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