ラモンは別のアパートに引越した。前の住民がやったと思われる、虫潰しの跡が壁じゅうにあった。ある染みは黒く、別のは黄色かった。虫の羽や足がそこらに落ちている。これを絵の具の材料に出来るな、とラモンは思ったが、しなかった。
あまりにボロいせいで、そのアパートには住民がいなかった。唯一、一階の日当たりの悪い部屋に一人の男が住んでいた。
ラモンが挨拶に行くと、そいつはドアを開けた。中からとてつもない悪臭がした。甘ったるい臭いと、カビの臭いだった。中を見て、その理由はすぐ分かった。彼は食べ残しの食物を捨てない主義らしい。ピザや、食パンや、食べかけのリンゴなど、半分腐れたものが床の上やテーブルに、無造作に置かれている。どうやら食物を全部は食べない主義でもあるようだ。挨拶の前にラモンがその理由を聞くと、
「妖精の取り分ですよ」と男が言った。「ところで先生は、どこで開業されているのですか」
「オレは医者ではない。絵を描くから絵の具が付いてもいいように、白衣を着ているだけなんだ」
「そうですか、ではもし仮にわたしが病気になっても、診てもらえませんね」
「オレが医者でもそうしないかもしれないな」
「そうですか」
ラモンは部屋を出た。それ以上いたら、吐くかもしれないと思ったので。
翌朝ラモンは、金切り声を上げるディジーとともにテレビを見ていた。
画面には都市当局の「執行者」という、黒衣の女が映っていた。
彼女は言った。
「扇動者を潰せば、誰もがスマイルと団欒の待つ、幸せなライフに戻れます。あんたらも幸福に生きたいのであればだ、周囲の扇動者をぶっ殺すべきだと思わないだろうか? 現状だ、現状が肝要なんだ。より良くしようなんて、思ったら、より悪くなるのが決まっているというもの、だから変革をもたらす蛮人を、君たちがキルすべきです。殺るなら首を狙いなさい、首を。朝飯前に、終わらすべきだ……そうは思わないだろうか? え、市民諸君よ」
放送は終わった。
下からは市民たちが、執行者の言ったとおり、相手の首を切ろうと躍起になって、刃物を持ち出し、通りすがった人たちをなぜか悪しき「扇動者」と思って処置に当たろうとしていた。
都市の状況は一見、傭兵たちの活躍でよくなっているように思えるが、彼らは弱めの幻影獣や悪党、騒乱に乗じた小悪党を駆逐しているだけで、巨大な怪物や大魔女は、野放しになっていた。市民たちは相変わらず無気力で、ときおり暴れだした。
テレビや新聞もどうもおかしな感じで、例えば朝のニュースの女子アナウンサーが、いきなりディジーのごとく笑い始めて、何事もなかったかのようにニュースを再開したり、コマーシャルの合間に、どこかの地下室で撮影されたらしい暴行殺人の映像が流れたりした。新聞の広告欄全部に、「あなたがたは監視されています」とか「未来は無い」といった語句が並んだ。
ある日外を見ると、窓が真っ暗だった。どういうことだ、とラモンがよく見ると、汚らしいドロが窓にへばりついているようだった。しかも今なおドロが投げつけられているらしかった。下に行くと、見知らぬ男がドブから両手で粘り気の強いドロをすくって、ラモンの部屋の窓に投げつけていた。
「あんた、何の目的があってそういうことをするんだ」ラモンは聞いた。
「ところでCBGBに行きたいんですけど」
「ああ、それだったらここではなく、そこの道をまっすぐ行くとモジョライジン駅があって、そこから南北線で行ける」
「ありがとう」
男はドロを道行く人の顔に投げつけてから歩き出した。投げつけられた人は男を銃で撃った。男は這って進もうとしたが途中で力尽きて死んだ。ラモンは部屋に戻って、窓を掃除しようと思ったが、ディジーの具合が悪そうなのでやめた。
隻眼の魔女は蒸気の漂う路地を歩いていた。
もうじき、雨が降ってくる。
残った左目がぎらりと光った。
目の前に、赤い髪の毛のテロリストがいた。
魔女もテロリストも、しばし無言で佇む。
蒸気が吹き出す音だけが響く。
「いつも思うんだけどさあ」魔女が言った。「傘って、損だろ? できることと言えばたかが、雨に濡れずにすむってことだけだ。なのに、なのにさ。こちとら片手を塞ぎ、あのデカブツを頭の上に掲げて、間抜けに進まなきゃならない。それでもなお、場合によっちゃ股ぐらの辺りまで下半身は濡れるんだぜ。これを考えれば、ずぶぬれになりながら進むか、決して外に出ないか、そうしたほうが得だと思わねえ?」
「ええ」テロリストの少女は答えた。
再び二人は無言でにらみ合う。
雨が降ってきた。
たちまちそれは、滝のように降り注ぐ。
「魔女デボラ」テロリストは相手の名を呼んだ。「わたしのレコードを買いに来たのかしら?」
魔女は笑った。
少女もそうする。
「アリアンナ・アップルビー、あたしの魔法が雨で弱まると考えているのなら」魔女は笑いを止めて言う。「その体で試してみるかい」
数秒の沈黙の後、デボラが杖を抜いた。
空間が火を噴く。
それより一瞬早く、アンナの脳内の「扇動者」は、彼女の頭部を満たす市民たちに「殺害」の命令を出していた。
それは神経を伝わる信号よりも早く、目の前の人物を破壊せよと、暴力的な正義を肉体じゅうに漲らせた。
魔術は少女の左腕のみを白く燃やした。
片腕を炭化させながら、アンナは魔女の心臓を、肋骨ごと素手で粉砕していた。
魔女は口から血とともに呻き声を出す、「あんたのレコード、金を払ってもいいと思ってたんだがな……」そして絶命した。
アンナは、自分のファンが一人消えたことを、瞬時に冷めた脳ですこしだけ嘆いた。
鼻から落ちた血が、雨に滲んだ。
「見事です、そして恐ろしい」
背後の声を聞いたアンナが動作を起こす前に――正確には、脳内に生まれた狂気が肉体に伝わる前に、その首は刎ねられていた。
「忘れてはいないですか。あなたも、都市がカラッポになるのを防ぐための、人形、に過ぎないってことを。我々都市当局が配置した、エキストラに過ぎないということを。イージーなライフを遅れないのであれば、こうして、キルするしか、ないということですよ。ミズ・アリアンナ・アップルビー。市長の、ご意思の、ままにね。安息な生活に、扇動者は要らない、そうは思わないだろうか?」
すでに執行者の声を聴くものはいない。