ぱしゃん、ぱしゃんと足首下まで水に浸かりながら歩く。ビルケンはびしょ濡れで濃い茶色になり、足の指は白くなっている。キャリーバックじゃなくてボストンバックで来て良かったと溜息をつく。トレンカを膝くらいまで捲り上げて足を水に入れている。
会社を辞めて、実家に逃げ帰って、そこも追い出されて、親戚のよく知らないおじさんの家を紹介された。どこ繋がりの親戚かもわからない、初めて行く家に向かう。初めて聞く町名、初めて乗る電車、初めて乗るバス、そして何故か道路が水浸し。道路というよりは全てが浜辺のような土地だ。東南アジアか何かに無かっただろうか、水面で暮らすような場所。それと似ている、家は皆多少浸水している。
実家自体東京から新幹線を乗り継がなければならない田舎で、その実家から更に特急に乗って、その終点から普通電車に乗り換えた。二両しか無かった電車は途中で一両に切り離され、その一両も空かすかだった。その一両電車の終点に下りて、無人駅の箱に切符を投げ入れて一日三本のバスに乗ってこの町まで来た。バスの終点はまだ浸水していない場所だったが、怪訝な顔をした運転手から説明を受けてここまで歩いてきた。田舎は余所者を排除する特性があるから面倒くさい。
オープンカフェのような造りの家からラジオが聞こえる。出ている椅子もテーブルも全て足元が浸水している。開けた店内は三段程階段があり、一段目までは水が届いているが、店内は浸水を免れている。南国のカフェのような店内からは甘ったるい匂いがする。
沈みかけた夕日が綺麗で、水にも反射して眩しい。右側に建物が点々と立ち並んでいて、左側は水面と島なのか山なのかわからない陰がある。オレンジと水色と透明と青黒と白。空気も景色も綺麗で、静かで、私の足音である水音とラジオ音が響いていた。
右側に探していた名字の表札を見つけた。広い一軒家だ。純和風の豪邸は表札のある門から家まで日本庭園があったのだろうが、今や水没してだだ広い空き地に石灯篭なんかが立つ形になっている。門にはインターフォンが無く、その空き地を横断する。足元には飛び石が水没していて、その上を滑らないように気をつけながら歩く。家には何故か玄関のような物が無かったので縁側から踏み石の上に乗って声をかけた。踏み石がぎりぎり水面に付くので、家自体は浸水してないようだ。
「すみませーん、笠原さーん」
跳ね返ってきた声が無く、もう一度声をかける。今度ははいはいと声が返ってきて、笑顔の男の人が出て来た。真っ黒の髪をオールバックにして、黒い袈裟のような着物を着ている。身長が高くて体つきも細くは無さそうだ、着物でよくわからないが。張り付いている笑顔が胡散臭くて、苦手意識が生まれる。
「あ、あの、初めまして、桂田恵子の娘の紗江です。母の紹介で来ました、ご迷惑をおかけしますが、しばらくよろしくお願いします」
「聞いていますよ、どうぞ好きなだけ居て下さいね。さ、上がってください。ああ、これで足を拭いて下さい」
縁側の扉のすぐ横に置いてあったタオルを渡されて足を拭く。水の中からサンダルを取り出して、促されるままに棚に置いた。縁側を歩いて居間のような和室に着いた。座布団の上に座って、ボストンバックの中から菓子折りを三つほど取り出す。そして地元の地酒の瓶も。これが重かったのだ。
「これ、つまらない物ですけど、どうぞ食べてください」
「ああ、ありがとうございます」
テーブルの上に菓子折りと酒を並べるとテーブルの半分くらいを占めた。母に土産は山ほど持って行けと持たされたのだ。笠原さんも当然のように受け取った。
笠原さんは菓子折りをテーブルから下ろすと、立ち上がり、麦茶と菓子鉢を持ってきて勧めてくれた。お礼を言って麦茶に手を伸ばす。
「紗江さんは退職なされたばかりなんですよね、お疲れ様でございました」
「いえ、単なるクビですから、あはは……」
本当は頭おかしくなって布団から出れなくなって無断欠勤が続いて心療内科に連れて行かれそうになったから自主退職したんだ。あの時はよくわからない圧力に潰されていて、一日中金縛りに遭っていたみたいな状況だった。起きているのか寝ているのかもわからなくて、記憶が飛んだ時にどうやら排泄と食事はしているみたいで自分の身体が誰かに乗っ取られているみたいだった。正直自分で自分が気持ち悪かった。
心配してくれる同僚と蔑むような目で私を見てくる上司に挟まれ、クビという不要物のレッテルが嫌で自分から退職した。そのため金銭的には損をした。退職金は無く、ボーナスも貰い損ねた。失業手当も微々たるものだし、住んでいたのが会社の借り上げマンションだったから追い出された。当然引越し費用も何もかもこっち持ちだ。
貯金は大部切り崩され、残りはプラダのバック、ルブタンのブーツで消費してやった。それらは今実家の自室に箱に入れられたまま放置してある。腕時計も買おうと思ったが残金が足りなかった。数年働いた結果がこれだ、笑える。
最終的に使い古したヴィトンのボストンバックに入れられたのはファストファッションの衣類と通販やセールで買った下着、ドラックストアで買い揃えた化粧品類だ。私に釣り合うのは詰まる所、安物なのだ。高島屋じゃなくてイオン系ショッピングセンター。ハーゲンダッツじゃなくて安売りされて百円を切るスーパーカップ。ミシュランガイドに乗る店じゃなくてモンテローザ系居酒屋。つまりはそういう物が似合うのだ。
笑う私に笠原さんは変わらぬ笑顔を向けてくる。その目が不意に怖くて、お茶に口を付けて目を反らした。この人は私ときっと正反対の人だ。自然と高級品が似合う人、着物の袖からちらりと見える時計はシンプルな作りだけれど高級品だろうと思う。ロレックス、パティックフィリップ……、ぼんやりと覚えている腕時計ブランドを反芻しながら、お茶をテーブルに戻した。
「今日は紗江さんがお越しになったので宴会を催しますよ、是非沢山食べて飲んで元気を出しましょう。皆さん色々美味しい物を持ってきてくれますから」
「お気遣いありがとうございます、働き出してからあまり美味しい物食べてなくて嬉しいです」
笑いながら自虐めいた言葉を言うと、笠原さんは急に真剣な顔つきになって大丈夫ですか?と私の顔を見つめてきた。大体宴会って何だ、皆さんって誰だ。わからない事だらけなので笑顔で全て流すしかない。
「食事は基本です、疎かにしてはなりません。紗江さんはもっと質の良い物に囲まれて良い人間ですよ、ご自身をそんな卑下してはいけませんよ」
先ほどの考えが読み取られたような言葉に硬直しながら震えた声で、はいと返事をした。笠原さんは立ち上がって、奥に入っていくと細いファイルのような物を持ってきた。黒い分厚いフォトアルバムに似たそれを開く様子を見ていると、どうやら中身は名刺のようで、その中から二枚取り出して私の元に差し出された。
首を傾げて、これは、と呟くと笠原さんの顔は笑顔に戻っていた。
「もし金銭的に問題があるのでしたらこちらの方々に連絡をしてみなさい」
名刺を取り上げて名前を見ても全然知らない人だった。一人は厚労省の副事務次官、もう一人は名刺に何も肩書きが書いてなかった。ただ住所が港区白金で、あの白金に一軒家で住んでいるのかと背筋が寒くなった。
名刺をテーブルに戻して、意味がわからないので苦笑いを浮かべた。
「え、あの、存じ上げない方々なので……」
「私の名前とお母さんの名前を出せば手助けしてくれますよ」
「いやいやいや、本当に申し訳ないので!私が無駄使いして食を疎かにしてるだけです、ご心配ありがとうございます!」
「……そうですか?でもその名刺は差し上げます」
言われるがままに名刺を受け取ってカードケースに入れる。麦茶を飲むと、笠原さんはではお部屋に案内しますねと立ち上がった。
黒光りしている廊下を歩いて、階段を上ると襖が幾つかと障子の部屋が見えた。笠原さんが襖を開けると一気に西日が注いできた。窓が二箇所に設置してあって、とても明るい。畳は小奇麗だけれど西日のせいか少し薄い色になっていて、鏡台と簡易な文机と言った方が似合う机が同じ濃い茶色だった。竹籠のような物もあり、その横にパイプの簡易な洋服掛けがあってハンガーが数本かかっていた。西日が差し込んでいる窓に布団がかけてある。
「西日があれなのですが、明るいですからよく光を浴びて元気になって下さい。布団は後で取り込んで下さい、こちらにシーツ等ありますからね。必要品は言って頂ければ良いですし、もし欲しい物あればトラックで日用品を売りに来る業者が明日来ますから買いに行きましょう」
「はい、今の所大丈夫だと思います、ありがとうございます。本当にご迷惑おかけします」
「いえいえ、お気になさらず、私昔宿坊に居た事ありますから慣れていますよ。もう一人居候していらっしゃる方も居ますし、後でご紹介します。少しゆっくりして下さい、ああお風呂にでも入りますか?七時、ですかね、その頃から宴会を始めるつもりなのでちょっと短いですかね」
「そうですね、後で使わせて頂きます」
「わかりました、では、七時頃声かけますから」
笠原さんはそう言って笑って襖を閉めて出て行った。ふぅ、と一つ溜息をついて無駄に気疲れをしてしまったと畳に転がる。向こうも掃除や布団等用意をしてくれたのだから、お互い様なのだろうけれど。
寝転んで、鞄に手を伸ばして携帯を取り出す。圏外だった。親に連絡をしようと思ったけれど、いいやと放り投げる。母親は以前住んでいたのだ、圏外なのは知っているだろう。ああ、厄介払いにも程がある。
身体を起こしてボストンバックから荷物を取り出してハンガーに掛けたり竹籠の中にTシャツなんかを仕舞ったり、化粧品を鏡台の前に置く。鏡に掛かっていた布を上げると顔色の悪い自分が見えた。色が青白く目の下は黒っぽい。短期間でどっと落ちた体重のせいで、肌にも髪にも艶が無い。無理矢理肌に乗せている色でも隠せない青さがある。小声で酷い顔、と呟いて布を元に戻した。
布団を部屋の中に入れて、シーツを掛けたり整えると、階下がざわつき出した。簡単に化粧を直してチークを濃い目に付ける。口紅も付けたかったが、これから宴会らしいので付けずに階段を降りた。
集まってきた人に初めましてと挨拶をして、笠原さんにお手伝いをしますと言って皿やコップを並べる。知らないおじいさんやおばあさんが次々と集まってくる。片手に酒や料理なんかを持って、皿を運んだりしている私をじろじろ見てくる。それに対して一人一人に笑顔を返して、恵子ちゃんとそっくりやねーという言葉を得たりする。
皆が持ってきたお酒は全て一升瓶で大吟醸ばかりだったし、料理は全て高そうな重箱や大皿に入っていた。この人達の収入源は何なのだと首を捻る。が、藪蛇なので黙って手伝いや挨拶に徹した。
三十人近くが集まって、笠原さんが音頭を取って宴会が始まった。
「皆さんお集まり頂きありがとうございます、先日お伝えした通り桂田恵子さんの娘の紗枝さんです。他所の方がいらっしゃるのは久しぶりですので、こう歓迎会を開きました。紗枝さんは療養に来られたのですし、桂田さんのお嬢さんですから良くしてあげて下さいね」
実際私の本名は桂田でなく瀬戸だ。桂田はお母さんの旧姓なのだが、笠原さんは特に説明をしなかったのでここで私は桂田紗枝になるのだろう。ぼんやりとそんな事を考えながら乾杯、とグラスを上げた。
その後は適当に周りの人から前職の事等を聞かれ、お酒を勧められ、私もお酒を注ぎに回り、料理の話等をした。皆の名前は聞いたものの、職業は何故か怖かったので止めておいた。
ある程度時間が経って、酔いも大分回ってきた頃、一人の少女が入ってきた。セーラー服を着た黒髪の少女はスケッチブックと小さな鞄を持っていて、無表情でただいまとだけ言って二階に上っていった。
「……あの方は?」
「もう一人の居候人の川内弥生さんです。絵が好きな高校生ですよ。人見知りなんですが、仲良くしてあげて下さいね」
少し顔を赤くした笠原さんに言われて、はぁと気の無い返事をしてしまった。
宴会は十二時を過ぎた辺りでお開きになり、酔いつぶれたおじいさんを起こしたり皆を見送ったりしていたが、一人のおじいさんが起きなかった。揺さぶっても起きず、そのまま机から落ちて床に寝転がったので固まった。
「あ……ちょ、っと救急車、救急車呼びましょう!」
「いやいや紗枝さん落ち着いて、鉄さんは私が運んで帰りましょう」
「はい、先生お願いします」
「え、あの、だって……」
「大丈夫ですよ、すみませんが紗枝さんお片付けをお願いしますね」
「あの……救急車……」
私の震える言葉に傍に居た違うおじいさんがそんなモンここには来やせん、と呟いた。笠原さんは笑顔を私に見せて倒れたおじいさんを背負ってその人の奥さんと一緒に出て行った。固まる私を他所に皆続々と帰っていく。一人のおばあさんに大丈夫大丈夫と背中を撫でられて、私は広い宴会場となっていた座敷に一人きりとなった。
ぞくっと背中に冷や水を掛けられたような思いになりながら、必死に机の上を片付けた。食器を運び、お酒の空き瓶を片付け、コップやお皿を洗う。何度も何度もルーティンのように流しと机を往復し、台所で食器を洗って拭いて片付ける場所がわかる物を収納する。何故か手先が震えそうになる、微温湯で洗い物をしているのに。何度もその往復が終わって、机を拭いていると階段を降りる音がした。
「帰ったの」
「あ、うん。あの、初めまして、せ、桂田紗枝です。よろしくね川内さん」
「よろしくしなくていいよ、どうせ貴女もすぐ出てくでしょ」
「それはわからないけど……」
「……そうなの?」
「うん、今私の心は軽く壊れているからすぐは帰れないかもしれない」
「ふぅん、じゃあお揃いだね」
「お揃い?」
「皆壊れてるよ、私も、皆。死を待つ場所なのここ」
川内さんは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲みながら、会話を続ける。先ほどは長めの前髪で俯いていたからよく見えなかったが、きちんと見ると綺麗な顔をした子だ。
笠原さんが出て行ってから結構な時間が経っているのに彼は戻ってこない。全てを片付け終えていると、横で川内さんが水を飲みながらこちらを見ている。じっと台所の壁にもたれ掛って視線を私に寄越してくる。
「何か食べる?」
「それは生きるための欲求でしょ、私には関係ない」
何この子、電波なのかなと引きつった笑いをする。
片付けを終えて洗った手を拭いていると、川内さんがすっと手を握ってきた。え、と驚いているとそのまま無言で二階に連れられた。階段を上って、案内された部屋とは違う部屋に入れられる。おそらく彼女に宛がわれた部屋なのであろうそこに明かりが点されると、ほとんど荷物が無く、ただ壁にスケッチブックを破った状態の絵が沢山張ってあった。全て鉛筆書きの写生だ。
手を引っ張っていた彼女は窓を開けて真っ暗な方向を指差した。
「あそこ、ダムを作ろうとして何かなったの。私はよく知らないけれどこの地域は水没するしダム失敗したのは隠さなきゃいけない事なの。政府が沢山お金くれるの。ここにはお医者さんも何も居ないの。笠松さんが聖職者なの、先生なの。医者であり、住職であり、教師であり、全ての頂点なの」
「は?」
「ダムじゃないって話もあるし、原子炉が壊れて冷却水が漏れ続けているとか、水力発電所が壊れたとか、工場が壊れて廃液が流れ続けているとか、どれが本当か私にはわからないけど、水没するらしいのは事実。あと笠松さんが頂点で皆が壊れているのも事実。政府から多額の送金が来るのも事実」
「そう、なんだ。……川内さんは何でここに居るの?まだ若いでしょう?」
手を繋がれたまま彼女と会話をする。真っ暗な外は怖い、この部屋も写生画だらけで怖い。この、女の子も怖い。
「若くても未来は無いの。私は親に捨てられたの、死ぬべきなの」
「死ぬ、べきって……」
「私には水子が二人付いているし、世界の何もかもが嫌いだから生きていたくもない」
「水、子って、高校生じゃないの?」
「年齢的には高校生だけど。貴女よりずっと未来は無い子供よ。この制服は中学の」
セーラー服のスカーフを掴む女の子に、そんな事無いよ、と私は手を握り返した。指を持たれるように握られていたので、指先と親指を握るだけとなったが、柔らかくて細い手は冷たい。
彼女は指を握ったまま私の胸元に顔を寄せた。胸骨に黒い髪が埋まる。
「貴女も細い、ね、何でこんな所に来たの?」
「私も親に捨てられたからかな。あと社会の何もかもが嫌いだから」
「ふふっ、お揃いだね」
胸元に彼女の吐息が当たる。その息が皮膚から骨、肺に伝わる。彼女は汚くて綺麗で繊細で鈍感で私を侵食して来ようとする魔性がある。そっちの気は無かったのに、彼女であれば抱いてしまいそうな色気があった。
私も彼女の頭頂部に顔を寄せる。何をしているのか自分でわからなかった、酔っているのかもしれない。
「桂田さん、エッチする?」
「うーん、仕方わかんないし、しない」
「そっか。私好きな人とはするんだけど、女の人としたいって思ったのは初めてだから私もやり方わかんない」
「止めとこう、それこそ川内さんが言う無駄な欲求だよ。同性のセックスなんて非生産的行為だよ」
「桂田さんは私の言葉全部覚えているんだね」
「気持ち悪い?」
「ううん、嬉しくてぞくっとする」
彼女は私の腰に手を回した。暑苦しくて息苦しくて、ぐっと頭を上げて天井を見た。光が目を射して、痛くて目を閉じたら目の前が真っ赤になった。遠くから波の音のような物が聞こえて、頬を涙が落ちていった。