Neetel Inside 文芸新都
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白雨
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 夜の道を歩く。見上げた空は灰色の雲に覆われ、その裂け目から僅かに黄色の輝きが顔を覗かせていた。全身にねっとりと絡み付く空気は昼間に比べ湿っており、忍び寄るような風が吹く度に、何者かに全身を撫でられているような錯覚を起こさせた。熱帯夜なのかは分からないが、昼間と変わりない気温に、僕はうんざりしていた。衣服は、噴き出すというよりも止めどなくしみ出すような汗ですっかり湿っていて、それがひたひたと肌に吸い付く感触が心地悪い。
 無機質なコンクリートで塗り固められた町は静寂に包まれていて、四方から聞こえる虫の鳴き声と、コンクリートを踏む二人分の足音だけが静かに響いていた。ぽつぽつと数メートル間隔で設置されている街灯が煌々と輝き、その奥行きのない光が、僕とは別の、もう一人分の足音の主を照らし出す。暗闇の中で照らし出されたのは一人の少女。彼女は振り返り、その歩みを止める。未来から来たという僕の何代か後の少女。僕の子孫。
 ――彼女との出会いは、数時間ほど前の出来事だった。
 今日のアルバイトは午後十時までのシフトだったが、急な残業が入ってしまい、自宅に到着したのは日付が変わる頃だった。明日が休日であることに感謝しつつ、鞄から玄関の鍵を取り出した。小さなキーホルダーが付けられているそれを差し込み、左側へひねると、かちゃりという硬質な音がアパートの通路に響いた。扉を開いた先にあるのは、真っ暗な自分の部屋。
 手探りで電灯のスイッチを探し当て、灯りを付ける。人一人分の幅しかない通路と、備え付けられている台所が照らされた。乱雑に靴を脱ぎ捨てて、あくびをしながらリビングへ足を運ぶ。再び手探りで電灯のスイッチを付ける。部屋の隅に置いてある、というよりは床面積の大半を占めているソファベッドに、見知らぬ少女がいることに気が付いたのは、その直後だった。
 僕の頭が、それが少女であることを理解するのに、数秒の時間を要した。一人暮らしの部屋なのだ。知り合いを部屋に呼んだ覚えもなければ、この部屋の合鍵を持っている人物も、このアパートの管理人以外にはいないだろう。思わず、手提げ鞄を床に落としてしまった。教科書が詰め込まれた鞄は重く、ごとりと鈍い音を立てた。
 その音で目が覚めたのか、彼女はまだ開ききっていない瞼を擦りながら僕の方へ顔を向けた。正確な年齢は判断することが出来ないが、大学生の僕よりは幾分幼い顔付きに見えた。少し色の薄い髪は短めに切られており、小さめで形の良い鼻が顔の中心に付いている。垂れがちな目は眠気のせいか更に垂れており、穏やかな印象を感じさせた。幼いながらも整っている顔立ちだった。身に付けている物は何の変哲もない洋服で、Tシャツの袖からは、色白で華奢な腕が伸びていた。一見しただけでは怪しい所は見当たらない、そう考えていると完全に目を覚ましたらしい彼女から声を掛けられた。
「あ、どうも」それだけを言って、再び無言に戻る。
 どうやら僕に危害を加えようだとか、そういった類の人間ではないらしい。十数秒待ったものの、言葉を続けようとする様子は見られない。このまま見つめ合っていても埒が明かないと思い、僕は「どちら様ですか?」と率直に訊ねた。すると彼女は思い出したように、あっ、と声を上げ、「ついさっき未来から来たの。あなたの子孫だよ」と言った。予期していなかった発言に、僕は相当な間抜け面を晒していたのだろう。彼女の言葉を頭の中で反芻させる。彼女は不安を表情に浮かばせながら、「信じられる」と、僕の顔を覗き込むように聞いた。
 信じるも信じないも、アルバイトで疲れ切った頭では上手く考えることが出来なかった。コーヒーでも飲んで落ち着こうと思い、水で満たしたやかんを火にかけると、「やっぱりマイペースなんだ」という呟きが聞こえた。彼女が本当に未来から来たのなら、僕のこの性格は代々遺伝しているようだ。馬鹿げた考えだと思いながらも、そう考えると無性に笑えた。僕の笑いに釣られたのか、彼女もくつくつと笑った。
 二人分のマグカップが置かれた小さなテーブルを挟み、僕と彼女は向かい合って床に座っていた。お互いの間に会話はなかった。彼女は僕の飲んでいるものよりも薄く、ミルクを多めに入れたコーヒーを啜りながら寛いでいる。しばらく二人でコーヒーを啜りながら一息付いていると、どこから取り出したのか、彼女はテーブルの上に小さな包みを置いていた。
「お土産、一応持って来たんだけど」シンプルな茶色の包装紙に包まれた小包の中身は、数箱の煙草だった。銘柄は確かに僕の愛飲している物で、ロゴも変わりないけれど、外箱のデザインは初めて見る物だった。そこに記載されている賞味期限の欄には、平成ではない別の年号を表す英字が記されている。昭和でも大正でもないその略記。
 彼女は本当に未来から来たのだろうか。確たる証拠になる訳でもないが、この煙草を見る限りは、少しだけ信じていいかもしれない、と僕は思った。
「思ったんだけど、この時代は煙草、まだ高価じゃないんだよね」「高価?」彼女が言う未来では、煙草は高価なものであるようだ。今でも増税などで煙草の値段は上昇の一途を続けているが、更に吊り上がっているのだろうか。
「うん、私の時代じゃ嗜好品は高いからいいかな、って思ったんだけど」気が付かなくてごめんね、と彼女は付け足した。
 確かに今は、自動販売機やコンビニエンスストアで時間を問わずに煙草を購入することが出来る。それでも、彼女にとって高価な物をお土産として持って来てくれたことは嬉しいし、僕にとってはありがたいものだ。
 そう伝えると彼女は、「ジドウハンバイキ?」と首を傾げながら言った。その発音はたどたどしく、それが彼女が言う未来には存在しないのだということが推測出来た。「お金を入れたら商品が出てくる機械が、道端に設置してあるんだよ」と簡単な説明をしてあげると、驚きと感心の入り混じったような声色で、へえ、と言った。息を吐き出すような、透き通っていて静かな声だった。
 すっかり冷えてしまったコーヒーを飲み干し、マグカップを片付ける。洗剤を付けたスポンジでカップを磨きながら流しに立っていると、背後からTシャツの裾をちょんと摘まれて、「ジドウハンバイキ、見に行きたい」と声を掛けられた。壁掛け時計に目をやると、アナログ時計が指し示す時刻は、既に日付が変わっていた。躊躇したものの、今日は早く起きなければならない用事がある訳でもない。アルバイトで疲れているとはいえ、今すぐにでも休まなければ倒れる訳でもない。更に言えば、僕が付いて行かずとも一人で見に行くと、彼女の目が語っていた。こんな夜半に女性、それも少女を一人で外出させるなど、褒められた行動ではない。二つ返事で了承し、財布と彼女から貰った煙草だけを持って玄関へ向かった。
 彼女の持ち物は身に付けている衣服と先程の小包だけで、履き物を持っていなかった。収納棚から適当なサンダルを手に取り、うっすらと積もっていた埃を手で掃って渡す。彼女の足にはいささか大き過ぎるそれに足を通すと、「面白い靴だね、涼しくて気持ちいい」と言った。玄関の扉を開けると、生温い空気が部屋に入り込んで来た。
 夜の道を歩く。僕の前方で歩みを進めている彼女の背中は小さい。その背中が上下する度に、短めに切り揃えられた髪が波打つ。サイズの合っていないサンダルは、彼女が足を持ち上げる度に、不安定に揺れていた。大事な質問を宙にぶら下げたまま、僕は未来製の煙草を咥えながら彼女の後を行く。僕の口から吐き出される紫煙が彼女の姿を霞ませる。
 その姿が街灯に照らされると同時に、彼女がこちらを振り向く。ねえ、と言いながら、右手で前方を示される。その先にあるのは、赤い自動販売機。白い光に寄せられた虫が、その黒々とした存在を主張している。「あれが、ジドウハンバイキ?」僕はその問いに、頷きを一つ返した。彼女は僕の返答に目を輝かせ、放り出されそうになるサンダルを気にもせず、恐らく彼女にとっては全力疾走であろう速度で駈け出した。幼い顔立ちも相俟って、玩具店のショーウィンドウに駆け寄る幼児のようだ、と僕は思った。サンプルの前に張られている透明な板に鼻を付けて中を観察したり、釣り銭を出すために付けられている灰色のレバーをいじりながら、無邪気にはしゃいでいる姿は、僕の部屋で見た彼女と全く違っていた。
「どう?」「面白い。光ってるし、一杯並んでるし、うん、すごいね」「そう、よかった」
 自動販売機の光に照らされた彼女の顔には、無数の汗の滴が浮いていた。この蒸し暑い空気の中を全力で駆け抜けたのだから、それも当然だった。普段のペースで歩いている僕も、体中が汗ばんでいた。ぺたぺたと肌に張りつくTシャツを扇いで風を送り込みながら、ジーンズのポケットから財布を取り出し、硬貨を取り出して自販機に入れる。
「好きなやつ飲んでいいよ、喉乾いたでしょ」「うん、ありがとう」
 礼を言いながらも、心は既に自動販売機へ向いているようだった。唸りながら真剣な表情で飲み物を選ぶ彼女は、姿だけを見れば骨董品の真贋を調べる仕事人のようだった。真贋はともかく、彼女にとって骨董品なのは違いないが。
 彼女は僕がそんなことを考えている内に選び終わったらしく、瑞々しいオレンジがプリントされている缶を指差している。僕の顔を見上げて「これ」と満面の笑みで彼女は言った。ボタンを押し、取り出し口に落ちてきた缶を手渡す。汗ばんだ手に冷たい感触が心地良い。僕も彼女と同じ物を買った。
 プルタブを開けて喉を潤そうとすると、僕の隣で彼女が悪戦苦闘していた。缶の開け方が分からないらしい。振ってみたり、指で突いてみたり、撫でてみたりと、そのまま眺めているのも面白いかもしれない、そう思った。「貸してごらん」と言い、彼女から缶を受け取る。輪に指を掛けて持ち上げてやると、小気味良い音と共に開封される。それを見て彼女は、へえ、と驚嘆した。
 自動販売機の前の縁石に腰を下ろして、彼女とジュースを飲む。僕の隣に座っている彼女は、一口一口をゆっくりと、大切に味わっていた。少量を口に入れては、舌の上で転がすように。こくりと音が鳴り、小さく白い喉が動く度に、名残惜しそうに缶を見つめている。その表情が何ともいじらしかった。
「他に何か、見たい物ある?」
 僕の問いに彼女は考え込む。僕はジュースを一口だけ含み、彼女がしていたように舌の上で転がした。口内に広がる甘さは、ひどく人工的に感じられた。
「明るいのって、落ち着くよね」彼女がぽつりと零した。続けて、「あのね、白い雨が見たいな」と頼まれた。白い雨。あまりの土砂降りに、雨が白く見える光景を想像したが、恐らく違うのだろう。直接的な雨ではなく、何かの比喩表現なのだろうか。
「白い雨って、何?」僕の問いに彼女は首を傾げた。
「え、だって古い本で読んだもん。別名『にわか雨』って」白い雨とは、つまり白雨のことだと理解する。
「ううん、見せられるかどうかは分からないよ」僕の言葉を聞いて、彼女の表情にぼう、と陰が浮かんだように感じられた。そこから読み取れるものは何もない。本当に何もなかった。空虚で、乾いた表情に光は感じられなかった。それを見た途端、僕は言いようのない不安に駆られて顔を伏せた。彼女のいるべき世界は、その瞳に何を映していたのだろうか。そして僕のいる世界は、彼女の瞳にどのように映っているのだろうか。それを聞くことは出来なかった。いや、聞かないことが最良の選択だと、僕は頭のどこかで既に理解していた。
「夜が明けたら見られるかもね」僅かな希望を彼女に届ける。しかし、彼女は僕の言葉を理解することが出来なかった。
「ヨガアケタラ? どういう意味?」そこに冗談の色は見られなかった。何ということだろう。え、と聞き返したくなる欲求を抑えて、僕は彼女に教える。
「朝が来ることだよ」「アサ? それが来るとヨガアケルの?」
 僕はもう、答えたくなかった。答えれば答えるほど、彼女が傷付けられる気がした。それでも彼女の疑問は止むことを知らない。彼女が何か口にするたびに、僕の胸は小さな手で握り潰されたように、きゅう、となった。息苦しい。心臓が血液を送り出す音が、全身に響く。
 どれくらい経った頃だろうか、僕は伏せていた顔を上げた。彼女は身を乗り出して疑問をひたすらに吐き出していた。熱っぽくなるその口調とは反対に、瞳からは温度を感じられなかった。漆黒と言うよりは蝋色の虹彩。光を受けて輝くこともなく、じっと見つめていると、吸い込まれてしまうような、取り込まれてしまうような感覚を抱いた。
 話し疲れてしまったのか、彼女は足を投げ出して、ぼうと空を仰いでいた。空を覆っていた灰色の雲はいつの間にか消えており、代わりに真円の月が黄色く輝いていた。その周りを取り囲むような、無数の光点。思えば、こんな風に星空を見るのは初めてかもしれない。いつまでも当たり前のように、そこにあるものだと思っているこの星空も、彼女にとっては当たり前ではないのだろう。
「綺麗だね」僕は彼女に呟く。「うん」「もう少し、歩いてみる?」「うん」
 機械のように頷く彼女の姿は、儚く、おぼろげなものに見えた。
 自動販売機を後にした僕たちは、すぐ近くに位置する河川敷を目指す。特に目的があったわけでもない。ただ、あの自動販売機の前で座り続けているのもどうかと思った、ただそれだけのことだった。彼女は何も言わずに、僕の後ろを付いて来る。
 彼女は、ここからどれほど先の時代から来たのだろうか。少なくとも、僕の娘ではないようだ。そのことから推測すると、最低でも数十年は先なのだろう。四十年ほど先の可能性もあれば、数百年、数千年先から来た可能性だって捨てることは出来ない。いつの間にか、彼女が未来からやって来たのだという、冷静になってみれば夢物語のような考えを、僕は当たり前のように受け入れていた。それに気が付いて、僕は苦笑した。振り返ると、くす、という声が聞こえたのか、彼女が怪訝な表情でこちらを窺っている。
「どうかしたの?」彼女が訊いてきたが、なんでもないよ、と返した。
 河川敷を見下ろす形で伸びている土手を二人で歩く。街灯は設置されておらず、星と月明かりだけを頼りに、二人は歩く。目がこの闇に慣れてきたせいか、特別歩き辛さは感じなかった。遠くの道路を走っている車のヘッドライトや、住宅街の街灯がぼう、とした輝きに見えて、幻想的な空間を作っていた。土手の両脇には彼女の背丈ほどもある野草が生い茂っており、足を踏み外して転落することはなさそうだった。足を踏みしめるたびに、じゃり、という小石がこすれる音が、夜空に響いた。
 この時期の河川敷は、草がぼうぼうと茂っており、サンダル履きの彼女を歩かせるのに少しばかり躊躇した。しかし、彼女はそんなことなど気にしていないようで、黙々と前へ進んでいった。僕は慌ててそれを追いかける。十メートルほど進んだ所で、彼女がその場に屈みこんだ。さらさらという、水の流れる音。水面に反射した月光が、彼女の顔を照らす。ここ数日の晴天に川の水は透き通っていた。僕は彼女の隣に屈み、静かに波打ちながら流れる川を、ぼうと見つめる。川縁に生えている菖蒲に似ている草が、水の流れを受けて、ゆらゆらとうたた寝をするように揺れていた。
「こんなに綺麗な川、初めて見た。それも、こんな町中で」水面に映りこむ月を眺めながら、彼女がぽつりと零した。君の町には、川はないの、と僕は尋ねる。彼女は何も言わずにこくりと頷いた。それに続く言葉はなかったけれど、聞かずとも分かるような気が、僕にはした。それを聞く気にもなれなかった。
 川の水を手で掬ってみると、思いのほか冷たく、火照った体に心地好かった。僕のその行動を真似したのか、彼女は恐る恐ると言った様子で、同じように川の水を掬おうとする。しなやかな指先が水面を突き破った瞬間、彼女の小さな体がびくっ、と震えた。どうやら冷たかったらしい。指先を慌てて引く抜くと、再びそうっと川へ指を挿す。今度は慣れたのか、手首まで水に浸けて、扇ぐような手付きで流れる水の感触を確かめていた。彼女が作り出す波が底まで届き、泥を巻き上げ、川を黄土色に濁す。巻き上げられた粒子が、川の流れに逆らえず、下流へ流されていた。
 僕は手近にあった、平たい石を一つ手に取り、サイドスローで川に投げ入れた。水面と平行に着水した石は大きく跳ね、ぱしゃり、という音を立てた。その音が三回続いた後、ぽちゃり、と大きな音を立てて、石は底へ沈んだ。彼女は小さな口を半開きにしながら、石が飛び跳ねる様子を食い入るように見つめていた。石が沈み、着水音がコンクリートの堤防に反響した音が止むと、彼女は手頃な小石を手に取った。顔を上げて、僕に訊く。
「どうやったの?」これもまた、彼女にとっては初めて見るものだったようだ。
 出来るだけ平たい石を選ぶこと、水面と平行になるように投げること、手首のスナップを利かせること。彼女は、僕の一言一句を、真剣な表情で受け止めていた。ここまで真剣になる理由が、僕には理解することが出来なかった。しかし、彼女の眼差しを見ている内に、僕も水切りに夢中になっていた。
 遊びにここまで本気になったのは、いつ以来だろうか。小学生の頃は、遊びにも本気を出していた記憶がある。。時が経つにつれて、何かに心から熱中することも少なくなったような気がする。どこか冷めた目線で世の中を眺め、遊ぶ時でさえも、心の底から楽しんではいなかった。疲れるから、恥ずかしいから、面倒だから。消極的な理由を前方に掲げて、流されるように生きていた。
 彼女は、この時を心から楽しんでいる。石が水上を跳ねるたび、全身を使って喜びを表現している。僕がどこかで落としてしまった、大切な何かを、そこに見付けられるような気がした。
 ふと足元を見下ろすと、薄くて平たい、水切りには最適な丸石を見つけた。それを拾い、彼女の横に立つ。右足を軸にして、振りかぶる。左足は地面を踏みしめる。体勢を低くした状態で、右腕を鞭のように、しなやかに前方へ振る。水面と平行に、飛びきりの回転を掛けて、僕が出せる本気のスピードで、石は飛ぶ。ひゅん、と空気を切る音が耳に届く。半秒ほど間が空き、石が水上を跳ねる音が響く。一回、一回、また一回と、規則的な音を立てて、石は水を切りながら飛んで行く。十回ほど飛んだ頃だろうか。一際大きな音を立てて、石は川の底へと沈んだ。ずいぶんと遠くから聞こえたような気がした。
「十回も。すごいね」「うん、僕もこんなに多く出来たのは初めてだよ」
 僕も内心では驚いていた。小学生の頃はせいぜい五回程度が限界だった。この十回という結果が、肉体の成長によるものなのか、もしくは他の要因によるものなのか。僕にはさっぱり分からない。しかし、彼女の存在が含まれているだろう、と僕は思った。
「ねえ」彼女が僕に問いかける。「もうすぐ、ヨガアケル?」ヨガアケル、の発音が、少しだけ違う。「そうかもしれないね」と僕は返した。
 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。頭上を仰いでも、空はまだ薄暗い。月はその姿をまだ残しているし、星の輝きも失われていなかった。僕たちの見える範囲に、太陽は昇っていない。家を出てからどれ位の時間が経ったのか、全く推測できなかった。僕を包む時間が止まってしまったような、世界が停止してしまったような、そんな錯覚を起こさせた。
 明けない夜はない、と最初に言ったのは、誰なのだろう。一繋がりの言葉は、これから先、遠い未来にも残っているのだろうか。そんなことは、知らない。彼女がいるべき時代は、僕の考えるそれとは、どう違うのだろうか。明るい未来、なんて無責任な言葉を使い始めたのは、どこの誰だろうか。僕は彼女の頭に右手を乗せ、ぽん、と軽く撫でた。上質な絹のような感触だった。
 二人で川を後にし、再び土手を歩き始める。河川敷にいる時は気が付かなかったが、遥か遠くの山間がうっすらと白んでいた。僕はそれを指し、彼女に言う。夜が明けてきた、と。相変わらず、何も言わずに、彼女は僕が指す方向へ目をやる。白が空を徐々に染める。緩やかに、しかし確実に夜が明けている。肌が感じる空気は、いつの間にか早朝のものになっていた。半袖では少し涼し過ぎるほどの、朝の空気。明けない夜は、ここにはない。太陽は、当たり前のように、沈めば再び昇ってくる。それが、僕の生きている時代だから。
 白い雨を見せることは叶わなかった。それでも、彼女は満足してくれたのだろうか。隣に立つ彼女の表情から、それを窺い知ることは出来ない。彼女は変わりゆく空に熱中していた。
 ――しかし、彼女に夜明けを見せることは出来た。
 それだけで十分だ、と僕は思った。

       

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