助手席は革張りで、いつもと違う感触に驚く。なんだか社長令嬢にでもなったかのようで、少し楽しい。自転車の荷台に乗るのとは訳が違う。でも、あれはあれで楽しい。私は制服の袖を少し伸ばして、買ってもらったコーンスープの温かさを制服ごしに感じていた。さっきから流れている曲がある。
「ねえ、『カード』って何さ?」
「カードって、知らない?」
「知らない。あたしバカだし」
この言い方は良くない、と自分でも思った。良くない、というか、嫌いだ。知らぬ存ぜぬで済ませてしまう、事勿れ主義。それで良い時もあるけど、良くない時も確かにある。
「何? プリペイドか何か?」
「おい、待ってくれよ」彼は苦笑いした。
「テレホンカードだよ。わかるでしょ?」
「聞いたことあるかも」
「本当に? 『現代っ子』ってどころか、『ゆとり』って呼ばれるよ。」
「いいもん。ゆとりだし。だってあた……」
「分かった分かった。ほら、サビ入るから。」
彼は話を誤魔化すのが上手い。私の話も、勿論自分の話も。そんなこんなでどうにか持っていってしまう。でもどうにかなる。すごいとは思う。でもそれだけ。それが好きだ。
小説を動かすには大きな求心力のある人物が必要らしい。小さな世界に住む彼には、彼なりの求心力がある。小説を動かす程の行動はとらないし、だいいち彼を主人公に小説を書いた所で、恋人の私でさえ見開きに三ページが限界だ。彼はいつも自分で言う。
「オレの人生なんてね、圧縮すれば三分半だから。」と。
三分半。私だって機関銃のように喋り続けても授業ひとコマ分は話せそうだけど。その三分半に、私はどれくらい出てくるだろう。ぺちゃんこになった彼の中で、ぺちゃんこになった私を想像する。何だか可笑しい。
「なにがおかしくて笑ってんだよ。」
「いや、なんでもない」
「ふうん」
買い物して、ドライブして、夕暮れの海をふたりで眺めた。
「いやにロマンチックだったね。気持悪いよ」
「今に始まったことじゃないでしょ」
「まあね、変態だもんね、秀くん」
「お前はオレを何だと思ってんだよ」
やんわりとした口調で文句を言われた。柔らかい手でくすぐられて、撫でられているみたいだ。彼が私のコーンスープを飲む。
「やめてよ、気持悪い。」
「いいじゃん、ほら、着いたよ。」
「えっ」
知らないうちにもう私の家の前だった。夜から降り出しますという予報どおり、雨はいつの間にか本降りになっていた。ほら、と彼がビニール傘を差し出す。
「次はいつ逢えるの?」
「年度末と年度始めは忙しいからなぁ……また何週間か空くかも。」
「うん、そっか……」
弱く言うか強がって言うか。少し迷ったけど、結局いつも通りの気の抜けた返事をしてしまった。
「今日だって、仕事抜けてすぐだからさ、社用車だっただろ? どうしてもこの時期は立て込むんだよ。」
私は小さく頷いた。彼はまた傘を出す。
「次会う時でいいから」
「要らない。ちょっとの距離だし。その代わり、これ貸して」
私はダッシュボードの上のCDケースを指さす。端正な顔立ちの女性が写ったセピア色のジャケットだ。
「でも、八センチだぞ? お前ん家で聴けるか?」
「お母さん持ってる」
「うん、じゃあ」
取り出しボタンを押す。外周についた黒い輪っかを外し、CDだけをケースに嵌める。
「ありがと」
素っ気なく言ってすぐにドアを開けた。彼が何か言っている。聞こえないフリをして、玄関に駈け込む。
「じゃあね」と叫ぶ彼。恥ずかしいじゃん、やめて欲しい。でも、やめないで欲しい。
車が走り去った。私はもう一度CDジャケットを見てみる。
Alone
なんであの人はこんな曲聴いてたんだろう。今日から、よろしくね。
次会うまでの幾日かの間で、彼の中に私はどれくらい出てくるだろう。ぺちゃんこになった彼の中に、私は確かに存在するだろうか。
ジャケットの女性も泣いていた。よく見てみると、雨粒だったのだけれど。