ある友人と小樽に一泊二日の小旅行に出かけた時の事であった。晩飯が決まらず、私は友人が見せた半ば議題を投げ出した態度に苛立ちを感じながらも、外食先をどうにか思案していた。全く関係のない書類に目を通し始める友人を宥め賺したり咎めたりしつつ何とか候補先を選び出し、友人の普段見せる嗜好を鑑みつつ、あるビアパブへ向かうことに決めた。私たちが部屋をとっていたのは運河のすぐ側のホテルで、目指すパブは運河を挟んだ向かい側にあった。歩いて五分と掛からない場所だった。
パブは夕飯時にしてはそこまで人も多くなく、昼間人混みの中で歩き詰めだった私はスムーズに食事ができると思い嬉しかった。
しかし店の手前で不意に、友人が「醸造所の見学をしたい」と言い出した。私は空腹でそれどころでも無かったのだが、まあ好きな酒のことであるから見学も悪かないとそれに応じ、見学者の待合室に座って待っていた。
鞄を膝に置き、一息つくと、向かいの席に座る親子連れが目に入った。桃色のコートの母親と、黒いフリースを着た男の子。その隣では赤いパーカーの兄と思しき子供が、正方形の箱を開ける所だった。中から出てきたのは赤いグラスで、サンドブラストと言われる加工がなされ、絵柄が付いていた。話を聞けば、父親の為に作ったのだという。
しばらく放っておかれて、待ちくたびれていた。向かいの母親は「もういいから、あんた達だけで見に行きなさいよ。私はビール飲んでたいの」と息子達に言い放った。私は不意を突いた台詞に、ふとこの母親に興味を憶えた。とその時、二人組の店員が来て
「見学の方、どうぞ」と声を掛けた。
我々は立ち上がり、二人組の片方が案内する通りにパブの片隅へと向かった。途中、片割れが、「この人はウチでも一番の解説上手ですから」とよく解らない口上を述べていたが、私はふうんそんなものかといった風で側を抜けて行った。
斯くして解説上手による講釈が始まった。ビールを構成する麦とホップと酵母と水とをそれぞれの役割と種類について事細かに説明していく。麦を食べて見てくださいと言われ、その通りに噛んでみると、成る程説明通りに甘い。この甘みを酵母が喰って炭酸ガスとアルコールを出すのだと言う。流石は大した解説上手であった。その後もドイツのビール純粋令について、店内の醸造機器について、今どこでどんな行程にあって、その麦汁が何処へ行くのだとか、せっせせっせと身振り手振りを交えて軽快に喋る。我々も彼に伴って動き回る。歩きしなに試食の麦をもう一度頬張る母親。なんと可愛いことか。子供以上に子供である。父親が見えないあたり、シングルマザーであろうか。彼女のような嫁に振り回されるのも悪くない、などと妄想は麦より早く醸造されて行く。とっくに飲み頃である。
最後の醸造室では麦芽糖の段階の液体を飲み、そのまろやかな甘さに舌鼓を打つと同時に、それまでの説明を二割五分忘れてしまった。いやしかしあんた良くやったよ。
最後に簡単な挨拶と、大量生産品と地ビールとの質の違いを述べた所で解散となった。
その後友人と私はビールを酌み交わし、プレッツェルやウインナーを食い漁っていた。
その時我々の横を先の解説上手と子供とが一緒に厨房へ抜けて行った。解説上手は厨房の中へ「これがうちの息子です」と誇らしげに紹介し、また子が何か言うと「そんな言葉何処で覚えたんだ」と褒めるでも叱るでもない微笑ましい言葉を投げかけた。
「そうか、連休中も休み返上で働く父親を見に来たんだ」と我々は推測し、勝手に微笑ましき物語として彼等を生温い目でもって見守っていた。
その後暫くしてスーツに着替えた解説上手が再び姿を現し、子供を連れて店の奥の席に向かった。解説上手の向かい側には、見憶えある女性、ピンクのコートを脱いだあの母親が座っていた。私はそこではっとした。あの子供は、さっき見学で一緒になった母親の息子だった。という事はあの親子連れこそ、休日返上で働く父親の姿を見せようと、また見ようとして子供らには飲めもしないビール醸造所の見学に向かった家族だったのだ。
我々は、いや、正直に言うとあの時は私だけがひとり、酒の力もあって、そんなハートウォーミングなエピソードに心震わされていた。
暖かい。暖かすぎる。
残りかすのような希望に誘われ、なんとなく生を享受してしまっている私のようなテンプラ学生なんかに背負いきれる話では無かった。それでも感涙のあまりしおしおになってしまったプレッツェルを齧りながら、私は妄想を逞しくしているのだった。実をいうと、酒の所為であまり記憶の整合性に自信が無い。
あれは本当に家族団欒のエピソードだったのだろうか。話が出来過ぎちゃいないか。場が円滑に回りすぎている。しかしそれで良い。偶然見に来た醸造所、休日返上の父親、「ひとりで飲みたい」なんて言いながら夫の説明に首いっぱいに頷いている妻。今夜は早上がりで家族水入らず。夫婦で酒を交わす幸せ。満貫だ。満貫じゃないか……
「お客様、お客様、閉店の時刻ですので、起きて頂けますか?」
お客様、お客様……