地獄の沙汰も顔次第
「不幸じゃない」という幸運
たとえば、家族が全員死ぬということ。
天涯孤独の生い立ちを、不憫だと哀れむ人がいるだろう。
たとえば、蒸発した親の借金に追われるだけの人生だということ。
これ以上の不幸はなかなか見当たらないだろう。
それでも、こんな事はまだ『まし』なのだ。
天涯孤独が百人いれば、その内の一人か二人ぐらいは、独り身になったことを喜ぶかもしれない。
親が遺した返しようのない借金に包まれながら、自分を悲劇のヒロインに見立て悦に入る者がいるかもしれない。
本当に――、生まれた瞬間からその身に食い込む、抗いようのない本物の不幸。百人いれば百人が「不幸だ」と口を揃える本物の災難とは、そんな程度のものではないのだ。
○
鳥坂瑠衣は五歳になった。
身体の順調な成長に伴い、その表情には微かに色気すら帯びている。少なくとも幼児から小児へと顔の変化に、陰りはまったく見られない。
大山夫妻が瑠衣と面談を行ってから早二年、この間、瑠衣を欲しがった里親候補は数知れず。しかし瑠衣はその全てを強く拒絶し、後ろ足で砂をかけてきた。
しっかりとした金銭の感覚などまだ無かった。あるいは、瑠衣が里親候補を受け入れようとしないのは、本当にただ単に人見知りをしているだけなのかもしれない。ただ少なくとも、これまでの候補の中にたとえば目の覚めるような資産家などいはしなかったというのも事実だ。
「瑠衣ちゃんの面談、また駄目でした」
関尾は随分慣れたように面談の結果を園長に報告した。
「そう……。もう、あまり期待もしていなかったけれど」
二年後も園内の職員に特に変わりはない。関尾は順調に仕事を覚え子供の扱いも上達し、相変わらず杉本が今年も新人の教育に手を焼いている。変化といえば半年前に男の職員が一人移ってきた程度で、これが中々の男前であった。
「そろそろ、どうにかするべきかもしれないわね。何しろあの子本人の為だもの。今は気に喰わなくても、引き取ってもらうのは本来少しでも早い方が良いのに」
「どうにかと言うと、面談無しでということですか」
関尾は少し驚いたように聞き返した。黒松つくし園では子供を引き取ってもらう場合必ず養親・里親候補と子供との面談を設けていた。そのあたりの考え方は施設・子供の年齢によってまちまちだが、ここの園長は面談を何よりも重要視している。
「こうなると、いよいよとなれば仕方ないでしょう。瑠衣ちゃんの意志は無視することになるけど、元々正常な判断ができる年齢でもないし。何よりも、あの子の為よ」
もちろんこれは園長の本音だ。ただ、園長としては一人でも多く子供を引き取ってもらうべき立場であることも多少なり関係している。それは関尾としても同じであり、もし胸の中に疑問や違和感を抱いたとしても、瑠衣を新しい親の元へと送り出してあげるのが仕事。当然、里親候補の人間性については杉本ら職員が慎重に吟味するのだが。
こうして、瑠衣に引き取り先を探してあげようとする園長たちの行動が瑠衣にとって吉と出るか凶と出るか、それはもちろんまだ誰にも分らない。早くとも、次に誰かが瑠衣を欲しがるまでは。
「あ、それと京子ちゃんの事ですが」
部屋を出ようとした、すんでのところで関尾が振り返った。
「他の子供に比べて、面談まで行く回数が圧倒的に少ないんですよね」
園長が、一層深刻な顔をした。
「面談をして、京子ちゃんに文句はなくても、結局本当に引き取るまでには至らなかったり。本入りで京子ちゃんの同い年は瑠衣ちゃんだけですし、瑠衣ちゃんの里親探しを急ぐなら尚更、出来れば京子ちゃんにも引き取り先を見つけてあげたいんですが」
関尾の位置からもはっきりと見える程、園長は眉をしかめて頭をかいた。
「ええ。もちろん」
本当に世知辛い。
天涯孤独の生い立ちを、不憫だと哀れむ人がいるだろう。
たとえば、蒸発した親の借金に追われるだけの人生だということ。
これ以上の不幸はなかなか見当たらないだろう。
それでも、こんな事はまだ『まし』なのだ。
天涯孤独が百人いれば、その内の一人か二人ぐらいは、独り身になったことを喜ぶかもしれない。
親が遺した返しようのない借金に包まれながら、自分を悲劇のヒロインに見立て悦に入る者がいるかもしれない。
本当に――、生まれた瞬間からその身に食い込む、抗いようのない本物の不幸。百人いれば百人が「不幸だ」と口を揃える本物の災難とは、そんな程度のものではないのだ。
○
鳥坂瑠衣は五歳になった。
身体の順調な成長に伴い、その表情には微かに色気すら帯びている。少なくとも幼児から小児へと顔の変化に、陰りはまったく見られない。
大山夫妻が瑠衣と面談を行ってから早二年、この間、瑠衣を欲しがった里親候補は数知れず。しかし瑠衣はその全てを強く拒絶し、後ろ足で砂をかけてきた。
しっかりとした金銭の感覚などまだ無かった。あるいは、瑠衣が里親候補を受け入れようとしないのは、本当にただ単に人見知りをしているだけなのかもしれない。ただ少なくとも、これまでの候補の中にたとえば目の覚めるような資産家などいはしなかったというのも事実だ。
「瑠衣ちゃんの面談、また駄目でした」
関尾は随分慣れたように面談の結果を園長に報告した。
「そう……。もう、あまり期待もしていなかったけれど」
二年後も園内の職員に特に変わりはない。関尾は順調に仕事を覚え子供の扱いも上達し、相変わらず杉本が今年も新人の教育に手を焼いている。変化といえば半年前に男の職員が一人移ってきた程度で、これが中々の男前であった。
「そろそろ、どうにかするべきかもしれないわね。何しろあの子本人の為だもの。今は気に喰わなくても、引き取ってもらうのは本来少しでも早い方が良いのに」
「どうにかと言うと、面談無しでということですか」
関尾は少し驚いたように聞き返した。黒松つくし園では子供を引き取ってもらう場合必ず養親・里親候補と子供との面談を設けていた。そのあたりの考え方は施設・子供の年齢によってまちまちだが、ここの園長は面談を何よりも重要視している。
「こうなると、いよいよとなれば仕方ないでしょう。瑠衣ちゃんの意志は無視することになるけど、元々正常な判断ができる年齢でもないし。何よりも、あの子の為よ」
もちろんこれは園長の本音だ。ただ、園長としては一人でも多く子供を引き取ってもらうべき立場であることも多少なり関係している。それは関尾としても同じであり、もし胸の中に疑問や違和感を抱いたとしても、瑠衣を新しい親の元へと送り出してあげるのが仕事。当然、里親候補の人間性については杉本ら職員が慎重に吟味するのだが。
こうして、瑠衣に引き取り先を探してあげようとする園長たちの行動が瑠衣にとって吉と出るか凶と出るか、それはもちろんまだ誰にも分らない。早くとも、次に誰かが瑠衣を欲しがるまでは。
「あ、それと京子ちゃんの事ですが」
部屋を出ようとした、すんでのところで関尾が振り返った。
「他の子供に比べて、面談まで行く回数が圧倒的に少ないんですよね」
園長が、一層深刻な顔をした。
「面談をして、京子ちゃんに文句はなくても、結局本当に引き取るまでには至らなかったり。本入りで京子ちゃんの同い年は瑠衣ちゃんだけですし、瑠衣ちゃんの里親探しを急ぐなら尚更、出来れば京子ちゃんにも引き取り先を見つけてあげたいんですが」
関尾の位置からもはっきりと見える程、園長は眉をしかめて頭をかいた。
「ええ。もちろん」
本当に世知辛い。
○
贈られた腕時計の針は、十一時を回っている。
「もうこんな時間かあ」
男はジントニックを喉で転がして、とくんと飲み込んだ。
「終電で帰るから良いわよ。俊也も明日は仕事でしょ?」
関尾春花には四年目の恋人がいる。専門学校時代に出会った五つ年上の男前。年が開いているということもあるが、これまで大きな喧嘩もなく順調な交際が続いている。
小洒落たバーのカウンターに並ぶ、美男美女。こうしている関尾は孤児院で働いている時とはまるで別人で、普段とは違った化粧、表情は薄暗い店内に溶け込んで、映えた。
「仕事と言えば、そういえばあの子どうなった? お前がめちゃくちゃカワイイとか言ってた子」
「それがねー、まだ貰い手が見つからないのよ。まあチャンスはいくらでもあるんだけど、本人の意志がなかなか」
カラカラカラ。グラスの中の氷を行儀悪く転がした。
「そんな可愛い子なら、俺が育ててやっても良いんだけどな」
俊也は笑いながらそう言った。
「冗談でしょ~? 俊也なんか審査通らないわよ」
関尾も冗談ぽく悪態をつくと、俊也が関尾の頭をポンと叩いてまた笑いが起きた。もっとも、関尾はこう言ったが、まあまあの企業に勤め、人付き合いも上手い俊也ならば養子をとることに問題はないのだろうが。
「それに~、私達の子供ならきっとその子以上にカワイイわ」
きゃははと高い笑い声を上げながら、俊也の胸元に倒れるようにして抱きついた。二人とも、相当酒が進んでいるようだ。
かもな。俊也もそう言って、おでこをコツンとくっつけた。
翌朝。関尾が重たい体を引きずって孤児院に来ると、既に子供たちの何人かは布団から起き出していた。
「おっはよ~」
まだ眠っている子を起こさないよう、小声で笑顔を作った。
子供のいない箇所を大股で歩きながら、ふと部屋の隅に目をやる。定位置で、瑠衣はまだ眠っている。
(ほんと、可愛いわ)
関尾は、己の生まれもった顔立ちからなのか、人一倍他人を顔の良し悪しで判断する傾向にあった。もっとも、自分が他人に比べてそういう傾向だということは分かりようがないし、少なくともこのことを誰かに悟られて失敗するほど間抜けでもない。ただ、仕事に慣れ余裕も出てきた今ではもう完全に子供たちを「そういう目」で見てしまっていた。
すやすやと眠る五歳児。真っ白な肌、すらっとした鼻筋、綺麗な歯並び。
(私、子供の頃あんなに可愛かったかしら)
関尾は自分の頬に手を当て、気付けば寝顔に見入っていた。
贈られた腕時計の針は、十一時を回っている。
「もうこんな時間かあ」
男はジントニックを喉で転がして、とくんと飲み込んだ。
「終電で帰るから良いわよ。俊也も明日は仕事でしょ?」
関尾春花には四年目の恋人がいる。専門学校時代に出会った五つ年上の男前。年が開いているということもあるが、これまで大きな喧嘩もなく順調な交際が続いている。
小洒落たバーのカウンターに並ぶ、美男美女。こうしている関尾は孤児院で働いている時とはまるで別人で、普段とは違った化粧、表情は薄暗い店内に溶け込んで、映えた。
「仕事と言えば、そういえばあの子どうなった? お前がめちゃくちゃカワイイとか言ってた子」
「それがねー、まだ貰い手が見つからないのよ。まあチャンスはいくらでもあるんだけど、本人の意志がなかなか」
カラカラカラ。グラスの中の氷を行儀悪く転がした。
「そんな可愛い子なら、俺が育ててやっても良いんだけどな」
俊也は笑いながらそう言った。
「冗談でしょ~? 俊也なんか審査通らないわよ」
関尾も冗談ぽく悪態をつくと、俊也が関尾の頭をポンと叩いてまた笑いが起きた。もっとも、関尾はこう言ったが、まあまあの企業に勤め、人付き合いも上手い俊也ならば養子をとることに問題はないのだろうが。
「それに~、私達の子供ならきっとその子以上にカワイイわ」
きゃははと高い笑い声を上げながら、俊也の胸元に倒れるようにして抱きついた。二人とも、相当酒が進んでいるようだ。
かもな。俊也もそう言って、おでこをコツンとくっつけた。
翌朝。関尾が重たい体を引きずって孤児院に来ると、既に子供たちの何人かは布団から起き出していた。
「おっはよ~」
まだ眠っている子を起こさないよう、小声で笑顔を作った。
子供のいない箇所を大股で歩きながら、ふと部屋の隅に目をやる。定位置で、瑠衣はまだ眠っている。
(ほんと、可愛いわ)
関尾は、己の生まれもった顔立ちからなのか、人一倍他人を顔の良し悪しで判断する傾向にあった。もっとも、自分が他人に比べてそういう傾向だということは分かりようがないし、少なくともこのことを誰かに悟られて失敗するほど間抜けでもない。ただ、仕事に慣れ余裕も出てきた今ではもう完全に子供たちを「そういう目」で見てしまっていた。
すやすやと眠る五歳児。真っ白な肌、すらっとした鼻筋、綺麗な歯並び。
(私、子供の頃あんなに可愛かったかしら)
関尾は自分の頬に手を当て、気付けば寝顔に見入っていた。
まだ重たい瞼に負け、半開きの目で朝食を頬張る姿に愛らしさを感じながら。
その後、たった一人で部屋の隅へと向かう背中を後ろから抱きしめたく思う。瑠衣に対する関尾の特別視は既に児童養護施設の職員として重大な欠陥レベルであった。
「瑠衣ちゃ~ん、ちょっとおいで」
笑顔で手招きすると、何か良い事でもあるのかとワクワクした表情で駆けてくる。それがまたたまらない可愛らしさで、他の子に抱くものとは明らかに違った感情で、瑠衣の体を胸に抱き寄せた。
(可愛すぎるわい)
いきなり抱き寄せられた瑠衣は一瞬戸惑いながらも、すぐに体を関尾に預けた。この二年、瑠衣の方も関尾に一番懐いていた。よもや、五歳の子供が他人を、しかも大きく年の離れた同性の職員を顔で判断しているという訳はないだろうが。
「よしよし。一人でどうしたの?」
関尾は愛情たっぷりに猫撫で声を上げた。
「おねむなのかな?」
「うん」
そう言って小さく頷いた。
「おねむなのかあ! ん~よしよし」
瑠衣の体を持ち上げて頭を自分の左肩に乗せ、また右手で何度も頭を撫でた。そうすると瑠衣も嬉しそうにして、関尾にしがみつく腕に力が入る。
両腕で瑠衣を抱きながら、この美しい子の未来に思いを馳せた。
ちゃんとした養親が見つかるだろうか。これだけ可愛ければモテるだろうなあ、チャラくなったりもしちゃうのかな。学校に通って恋愛して、就職するもよしどこかのエリートを捕まえるもよし。アイドルなんかになっちゃうのもよし。今はたまたまこんな所に身を置いているけれど、きっと幸せにたくましく育っていってくれるだろう。
――その過程を、親として見守り続けることができたなら。
関尾と俊也と瑠衣。三人で幸せな家庭を築くイメージが頭の中から溢れ出る。美男美女の両親と美少女。道行く人々が目を惹くような三人家族。一瞬で頭の中を様々なイメージが駆け廻り、関尾はそれに強烈に憧れた。
(俊也、本気で育てる気ないかなあ。五歳から育てるってのがまた良いしね。一番大変な時期もう終わってるし)
そんな明るい未来に思いを馳せていた関尾のお尻に、何かが勢いよくぶつかってきた。
「瑠衣ちゃん眠いの!? 一緒にあそぼうよ!」
京子だった。
関尾のお尻に抱きついてじゃれている。
子供相手なら、別に分からないと思ったのだろう。振り返り、見下ろす視線に強い不快感を惜しみなく込めた。
その後、たった一人で部屋の隅へと向かう背中を後ろから抱きしめたく思う。瑠衣に対する関尾の特別視は既に児童養護施設の職員として重大な欠陥レベルであった。
「瑠衣ちゃ~ん、ちょっとおいで」
笑顔で手招きすると、何か良い事でもあるのかとワクワクした表情で駆けてくる。それがまたたまらない可愛らしさで、他の子に抱くものとは明らかに違った感情で、瑠衣の体を胸に抱き寄せた。
(可愛すぎるわい)
いきなり抱き寄せられた瑠衣は一瞬戸惑いながらも、すぐに体を関尾に預けた。この二年、瑠衣の方も関尾に一番懐いていた。よもや、五歳の子供が他人を、しかも大きく年の離れた同性の職員を顔で判断しているという訳はないだろうが。
「よしよし。一人でどうしたの?」
関尾は愛情たっぷりに猫撫で声を上げた。
「おねむなのかな?」
「うん」
そう言って小さく頷いた。
「おねむなのかあ! ん~よしよし」
瑠衣の体を持ち上げて頭を自分の左肩に乗せ、また右手で何度も頭を撫でた。そうすると瑠衣も嬉しそうにして、関尾にしがみつく腕に力が入る。
両腕で瑠衣を抱きながら、この美しい子の未来に思いを馳せた。
ちゃんとした養親が見つかるだろうか。これだけ可愛ければモテるだろうなあ、チャラくなったりもしちゃうのかな。学校に通って恋愛して、就職するもよしどこかのエリートを捕まえるもよし。アイドルなんかになっちゃうのもよし。今はたまたまこんな所に身を置いているけれど、きっと幸せにたくましく育っていってくれるだろう。
――その過程を、親として見守り続けることができたなら。
関尾と俊也と瑠衣。三人で幸せな家庭を築くイメージが頭の中から溢れ出る。美男美女の両親と美少女。道行く人々が目を惹くような三人家族。一瞬で頭の中を様々なイメージが駆け廻り、関尾はそれに強烈に憧れた。
(俊也、本気で育てる気ないかなあ。五歳から育てるってのがまた良いしね。一番大変な時期もう終わってるし)
そんな明るい未来に思いを馳せていた関尾のお尻に、何かが勢いよくぶつかってきた。
「瑠衣ちゃん眠いの!? 一緒にあそぼうよ!」
京子だった。
関尾のお尻に抱きついてじゃれている。
子供相手なら、別に分からないと思ったのだろう。振り返り、見下ろす視線に強い不快感を惜しみなく込めた。