Neetel Inside 文芸新都
表紙

引退試合
花の名前は百合

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教室に入ると、私の机の上に花瓶が置いてあった。
花は百合。茎は白い花弁の重みに耐えきれず、頭を垂らしている。まるで「はじめまして」と挨拶をしているようだ。
「み、みゆちゃん、あのね。私が来たときにはすでに置いてあったの。」
弓道部の朝練でいつも一番にクラスに来るまひるが、声を上ずらせながら説明する。「私、じゃないよ」と。
「まひるがやったって思ってるわけじゃないから気にしないで」
「うん……」まひるは少しほっとした表情を見せた。

机の上に花瓶。そこには明確な悪意がある。
始業前にクラスに来た担任に事情を説明すると、朝のホームルームで犯人探しが始まった。
「菅田さんの机の上に花瓶を置いた人、正直に名乗り出てください」と担任がクラス全員に問いかける。名乗り出るものは誰もいない。
「みんなの前では名乗りづらいかも知れません。反省をしているのであれば、後で私のところに来てください」
担任主導の犯人探しは終わった。しかし、犯人探しはまだ続く。

みんなはまひるがやったんじゃないかと疑った。まひるは常に最初にクラスへやって来る。それは周知の事実だった。
彼女が来る前から花瓶があったという事実を彼女以外が証明できない以上、まひるに疑いの目が向けられるのは仕方のないことだった。
私はまひるがやったとは思っていない。彼女が私の机に花瓶を置く理由がないからだ。私がまひるに嫌われているというような兆候は今までなかった。それに、まひるは嘘をつくような子ではない。むしろ素直な女の子だ。
私はまひるに好意をいだいていた。まひるは背が低くて控え目で、守ってあげたくなるようなか弱げな雰囲気を持つ少女だった。
私はまひるが常にまひるが花瓶の水を替えてくれていることも知っている。目立たないところで、他の誰かがやらないことをやってくれる気の利く子なのだ。
しかし、花瓶の水を替えていることが、逆にクラスでの彼女への疑いを深める要因になってしまった。直接言うものは誰もいないが、クラスメイトは彼女のいないところでよからぬ噂を広げていく。数時間も立たないうちに彼女は通う女子高で百眼視される存在となった。
気が弱いまひるは、急に悪者にされたことに傷つき、表情を曇らせていった。見かねた私は、彼女に声をかけた。
「まひる、私はあなたがやっただなんて思ってないから。」
「……ほんとに?」帰る家を失った幼子のような瞳でまひるは私の方を見る。目には涙を浮かべていた。
「私はあなたを信用してるから、ね。」まひるの瞳をじっと見つめる。潤んだ水晶体に私の姿が映る。私の心もそこにあった。

その日、私はまひるのもとから離れなかった。彼女とはじめて一緒に弁当を食べた。掃除時間も、自分の持ち場を離れて彼女のそばにずっといた。
まひるはまだ傷ついていた。しかし雲の切れ目はすぐそこに見えていた。あとは太陽が彼女の真上で彼女を照らすだけなのだ。
私は、帰りも彼女と一緒だった。帰る方向は違ったが、構わず彼女に付き添った。そのまま彼女の家まで行ってもいいとすら思っていた。
校門を出て、彼女への冷たい視線が消えるとまひるは少し安堵したのか少し表情を緩ませた。その瞬間を私は幸運にも見逃さなかった。
「みゆちゃん、何……?」無垢な瞳でまひるは私の方を見る。さっきから彼女の方ばかり見ていることのに気づかれてしまったようだ。
「いや、また笑ってくれてよかったな、って……」言って私は少し照れてしまった。その様子を見て、まひるも照れてしまう。

私はまひるの手を握りたかった。夏服の袖から伸びる、細く白い腕。その先の小さな手のひらと、私の手のひらを重ねてみたかった。
太陽は沈みかけ、橙の光が私たちを照らす。夕日が照らすまひるの影は、彼女よりも大きくアスファルトに移った。でもあと少ししたら、太陽は消えてしまう。影も消えてしまう。
彼女の影が消える前に、私は彼女の手を握りたかった。握るべきだった。
しかし、その思いを遮るように、携帯が震える。

今日もウチに来て―――

「まひる、じゃあ私はこのへんで」
「みうちゃん……」
「また明日ね」

「う、うん」とまひるが小声で頷いた気がした。

     

花瓶が置かれた前日の夜、私は処女を失った。

相手は兄の大学の友人。彼の名前は深也(しんや)。
兄を通じて、知り合い告白されて付き合うことになった。
その夜、私は初めて彼の下宿先に行き、酒を飲み、気が付けば彼の身体を受け入れていた。
正直に言えば、私は彼に抱かれるつもりはなかった。そもそも付き合うつもりもなかった。
それでも私は、彼の告白された私は拒否権を行使することなく、ただ流されるままに彼の思いを受けいれ、そして彼の身体も受け入れてしまった。
「ノー」と言うことはできただろう。ベッドの上に押し倒された時も抵抗できただろう。
しかし、拒絶を頭によぎらせた瞬間、何かが私の耳元でささやいたのだ。「受け入れなさい」と。
快感はなく、酔いと痛みだけが身体に広がる。私は女であり、女として男に愛されていく。こうやって私は生きていくのか、と私は彼の胸元で思った。



「来てくれてありがとう」
彼の部屋を再び訪れた私を、深也は物憂げな笑顔を作りながら迎えた。
彼のベッドに私は腰を下ろし、床で深也は胡坐をかいた。深也の背は高く、大きな体で胡坐をかく姿は窮屈そうに見えた。
「昨日はごめん」
低い声で、深也は私に語りかける。
「みゆの気持ちを考えず、無理に抱いてしまって……」
ヒグラシの鳴き声が部屋の中まで聞こえる。私はどう答えればいいか分からず、ただ秋の訪れを告げる蝉の声だけが沈黙の中で鳴り響いた。
言葉に詰まっているのは深也も同じだった。長い無言の後で、私はようやく口を開く。
「私は深也君の彼女なんだし……だからするのは当然だと思う。」
「だけどあんな形で、したのは間違いだったと思う。」
「うん。でも、いずれはしなきゃいけなかったと思うし、たぶん私の方からじゃ切り出せなかったと思うから」
だから、結果オーケーだったのか。いや、結果オーケーということにしなければならない。
「許してくれるの……?」
「うん」そう答えると私は深也を抱きしめた。彼の大きな肩が腕に当たる。この肩はきっと丈夫だろう。

その日、深也と私は寝なかった。彼の部屋で一緒に夕飯を食べ、そのまま彼の部屋から私は帰っていった。日はすでに沈み切り、夜の黒が空を覆っていた。

次の朝も、花瓶が私の机の上に置いてあった。「また会いましたね、こんにちは」と百合の花は頭を垂らしている。
まひるは他のクラスメイト達に詰問されていた。「いい加減にしろよ。」「私じゃない。」まひるはまた、犯人になっていた。
「みゆちゃん、違うの!また、私が来たときには花瓶が……」震える声で、まひるは私に訴えかける。「分かってるから」と私はまひるをなだめる様に、彼女の小さな体を抱きしめた。
「菅田さん、今日も彼女が一番に来てたの!そのときにはすでに花瓶が置いてあったの!」一番にクラスに来たから、花瓶を置いているのは必然、とメガネをかけたクラスメイトは声を上げる。
「……状況証拠でしょ。誰かまひるが花瓶を置くのを見たの!」私は熱くなっていた。私の怒鳴り声がクラスに響き、教室は静まり返る。
誰かが「菅田さんは被害者なのに、人が良すぎるのよ」と小声で言った。まひるは私の胸の中で泣いている。彼女の「違うの。違うの。」と必死に何度も訴える声が、私の心臓に響いた。

その日も私はなるべく彼女の傍にいるように努めた。お姫様に付き添う騎士のように、彼女をありとあらゆる戯言から守った。
花瓶を置かれたことは不思議に気にならなかった。それよりも、まひるを守ってやらなければならないという使命感で頭の中がいっぱいだった。

放課後、まひるは弓道部の練習に参加しなければならなかった。しかし「行きたくない」と彼女は私の袖を引っ張りながら言う。噂はネズミの群れのように広がり、弓道部という彼女の居場所を食い荒らしてしまったようだった。
校門を出れば、騎士の役目は終ってしまう。しかし騎士にも欲はあった。姫を守るという使命感は、気が付けば姫の傍にいたいという我欲に変わっていた。

「部活、行かないなら……ウチに来ない?」
欲望は、私の口を開いた。

     

チャイムを鳴らしたが、返事はない。カバンからカギを取り出し、私は玄関の扉を開ける。

「遠慮せずに、上がって」
「……おじゃまします」

まひるは、そっと扉を閉めた。小さくガチャンと扉は音を立てた。「おかえり」と私を迎える声は帰ってこない。父も、母も、兄も、家には帰っていなかった。まひると私はこうしてまた二人きりになった。
私は部屋にまひるを連れて行くと、「そこでいいよ」とベッドの上に座らせた。「ちょっと待ってて」と言って彼女を残し、私はお茶でも出そうと台所に行った。
母が今朝沸かした麦茶が、ガラスの2リットル容器の中でよく冷えていた。その横に、父のビール缶が二缶並んでいる。
私はコップに麦茶を注いで、お盆に載せて部屋へと向かった。勢いよく注がれた麦茶の上っ面には、小さな泡が浮かんでいた。これがビールだったら、まひるは飲んでくれるだろうかと私は戯言を頭に浮かべた。

まひるは、初めてくる私の部屋に少し落ち着かない様子だった。麦茶の入ったコップを渡すと、私は彼女の隣に腰を下ろした。
私は、ずっと前から彼女のことが気になっていた。でも、彼女にとっての私は、花瓶の一件があるまではただのクラスメイトにすぎなかった。
急に縮んだ私との距離にまだ戸惑っているのだろう。しかも、私は花瓶を机に置かれた被害者で、彼女はその犯人と見られている少女。端から見れば、この組み合わせは奇妙だろう。
「みゆちゃん、ご家族の方は?」このまま縮こまっている訳にもいかないと思ったのか、まひるは「何か話さなきゃ」と言った顔で私に話しかけた。
「お父さんは帰りが遅くて、お母さんはパートで夕方まで帰ってこない。お兄ちゃんも大学が終われば夕方に帰ってくるはずだけど、たぶんもっと帰りは遅いと思う。最近彼女ができたみたいでさ。」
「そうなんだ。」まひるは会話を続けようとしたが、彼女の口からは次の言葉が出てこない。私も、彼女に振る話題がなかった。彼女と急に距離を縮められたことに舞い上がっていたのか、家に来るまでに私は話のタネを尽かせてしまったのだ。

「さあ、どうしようか」と困った私の目に、埃のかぶったゲーム機が映った。ニンテンドー64。コントローラーがちょうど二台挿し込まれている。
「ゲームでもする?……ロクヨン。」とりあえず、まひるを誘ってみる。彼女はゲームをやるような子だろうか。意外にも反応は良かった。
「スマブラ、昔よくやってたんだ。」大乱闘スマッシュブラザーズのカートリッジが、64にずっと挿し込まれたまま放置されたいた。最後にやったのはいつだろうか。
「じゃあスマブラやろっか」と、私は64のスイッチをつける。カートリッジの底にフーッと息を吹きかけなくても、何の問題も起こさずに64は起動した。
まひるは見かけによらず、相当な腕前の持ち主だった。昔、兄との対戦で鍛えられていたはずの私が全く歯が立たない。彼女の操るカービィが、器用に素早く動くたびに、私のマリオは情けない声を上げ彼方へと飛んで行った。
ブランクを取り戻そうと私は必死であったが、慣れを取り戻したところでまひるの絶対的な優位は変わらなかった。ワンサイドゲームが続き、やがて二人は遊戯に飽きてしまった。

もう誰も選ばれることのないキャラクター選択画面から、BGMが虚しく鳴っている。沈黙が再び訪れる。沈黙を破ったのは、まひるだった。
「みゆちゃん、ありがとね。」
「何?急に。」
「みゆちゃんだって辛いはずなのに、こうやって私のこと心配してくれて……」
「気にしないでいいよ。まひるが犯人扱いされるなんて、おかしいし。」
「でも、みんなが言うように私がやったかもしれないんだよ。どうして、みゆちゃんはそんな私に平気な顔で声をかけられるの?」
「まひるがやったも何も……そもそもまひるが私の机の上に花瓶を置く理由がないだろ?」理由はなかった。私と彼女はただのクラスメイトで、それ以上の接点はなかった。恨まれるようなことどころか、喜ばれるようなこともした覚えもない。ただ、密かに彼女のことを私が想っていただけだった。
花瓶は皮肉にも、そんな私たちの接点となった。花瓶が私の机に置かれなければ、こうして私たちは話すこともなかっただろう。彼女とつながりが持てただけで私はうれしかったのだ。
「みゆちゃん、私はやってないよ……やってないけど……」彼女の顔が再び曇っていく。
「『やってないけど、私はもう嫌われ者だし、関わるとみゆちゃんも嫌われるよ』とか言いたいの?」
「……うん。だから、みゆちゃんは私にかかわらない方がいいと思う。」
「でも、そうしたらまひるが一人になっちゃうでしょ?そんなの私は嫌だよ。人として。」人として。嘘でない。それは私の偽らざる本心だった。しかし、私は全てを曝け出してはいない。
「それに、誤解はいつか解けるかもしれない。私はまひるのそばにいるから、それまで頑張ろうよ。」
「……うん。」彼女の瞳は潤んでいた。その長い睫毛から、滴が彼女のスカートへ落ちようとしていた。
「みゆちゃん、ありがとう。」彼女の小さな手のひらが、私の手のひらをそっと包んだ。

今なら、私を彼女は受け入れてくれるかもしれない――――そんな馬鹿げた期待が私の頭の中で過った。彼女の手のひらから伝わる何かが、私を愚か者にしてしまったのだろう。
「みゆちゃんは好きな人っている?」突然、まひるは私に尋ねた。
「……うん。」私の声は、おかしなくらい震えている。私の全てを曝け出すときは、今しかないような気がした。
「付き合っている人は?」
「……いない。」嘘をついた。罪悪感が感じられないほど、私の胸の鼓動は高まっていく。深也は私を押し倒したとき、きっとこんな感じだったのだろう。


「あのね、みゆちゃんに聞いてほしいんだけど……前から好きな人がいるんだ。相談に乗ってほしいの。」
宇宙が限界まで広がって、破裂する寸前のところで全てが凍りつくような音が聞こえた。

     

女は男に愛され、男を愛して生きる。まひるもまた、女だった。

まひるは、中学の頃からその彼に片思いをしているらしい。卒業してしばらく経っても、連絡を取り合っていると言う。
外でひぐらしが騒々しく鳴いている。ゲームに飽きてつけっぱなしのテレビも煩く、心がかき乱される。私は、電源をオフにした。
「男の子の気持ちは良く分からないけどさ、まだ連絡が続いてるんなら向こうも気があるんじゃないの。」
「分からない。」まひるは不安げな顔で答える。泣いていたさっきまでと違って、頬が少し火照っている。
「でも、このままじゃ何も変わらないよ。まひるから、行かないと。」彼女の肩をポンと叩く。
「うん、でも……どうしたらいいと思う?みゆちゃんならどうする?」
「……私なら」―――私なら。「何も言わずに後悔はしたくない。ちゃんと自分の想いを伝える。」
気づけば蝉の声も止んでいた。まるでスイッチでも切られたように。風の音も、道路を走る車の音も、ありとあらゆる音がピタリと聴こえなくなった。
まひるとのその後の会話の内容は詳しく覚えていない。なかなか恋に前向きにならないまひるを、ただ叱咤激励するばかりであった。

日は沈みかけ、母が帰ってきた。その時にはまひるは帰ろうとしていて、ちょうどすれ違いになろうとしたところで、私は母にまひるのことを紹介した。
「はじめまして。坂上まひるです。みゆちゃんとは仲良くさせてもらってます。勝手にお邪魔して申し訳ありません。」
「気にしないでいいのよ。でももう帰るの?」
「はい、お邪魔しました。」
「じゃあね、まひるちゃん。みゆとこれからも仲良くしてあげてね。」
母はまひるのことが相当気に入ったらしく、まひるが帰ったあとで彼女のことを私に尋ねてきた。「どこの中学出身なの」、「何部に所属しているの」などと。礼儀正しく、可愛らしいところが好印象だったらしい。
花瓶のことと、彼女がその一件のせいで除け者にされていることを伏せて、聴かれたことに私はだいたい答えた。仲良くなったのはつい最近なのに、彼女について多くのことを私は答えられた。
「またまひるちゃん、連れてきてね。お父さんにも紹介したいわ。」と母は言った。
「何、まるで彼女紹介するみたいなその言いぶり。」ちょっと冗談めかして私は言ってみた。
「だってねえ。娘になってもらいたいくらい可愛かったんだもん。みゆが男の子だったら、嫁に来てもらえたかなあ。」
「何言ってるの」と私は笑って母の冗談に返すと、「ご飯できたら呼んでね。」と言い残して自分の部屋に戻って行った。

休日、私は深也を初めて自分から誘った。急な誘いだったが、深也にも予定もタイミングのいいことに空いていたようだ。
昼過ぎに私たちは落ち合い、映画館でコメディ映画を見た。それから彼の下宿先へと行き、今度は「合意」で彼と寝た。
「本当にいいの?」と深也はペニスをインサートする間際に何度も私に聞いてきた。「本当にいいから」と何度も答えるうちに、少し彼がうっとおしく思えてきた。
それでも初めてのときとは違い、深也は私を優しく抱いてくれた。ゆっくりと、彼の動きが伝わってくる。身体が、段々とセックスになじんでいく。
「これが女としての悦びなのだ」と誰かが私にささやいたような気がした。「これが女としての悦びなのか」と私は思った。

月曜日、私は誰よりも、まひるよりも先に学校へ行き、机の上の花瓶を持ち上げると床へと叩きつけた。
花の名前は百合。もう咲くことはない。

(終わり)

       

表紙

ジョニーグリーンウッド 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha