「行ってきます」
第一章 星降る夜に~チョコレートトースト~
俺が晴香のことを思い返す時、やはり小学生の頃まで時を遡ることになるのだろう。
世界が美しいと知る前、俺の世界は暗黒に塗りつぶされていた。
冥府の底のようなその世界に救いの光が射すことはなく、その絶望の世界を呪う術すら知らなかった俺は、母に見捨てられた赤子のように身を縮めるばかりだった。
――このセカイにはボクをたすけてくれる神さまなんていないんだ。
そんな諦観に支配されていた俺という少年の心はもはや、冥府の重力によって永遠に縛り付けられようとしていた。
我ながら随分と酷い過剰装飾だと思う。一応、当時の心象風景のスケッチとしてはそこまで間違っていない。しかし、ここまでかっこつけだと流石に自分で言っていて恥ずかしくもなってくる。
分かりやすく事実だけを言おう。
小学生だった頃の俺はどうしようもないいじめられっ子だった。
具体的には、常に下らないことに脅えてウジウジとしているような、同級生たちの格好の嘲笑のマトだったのである。
別に勉強や運動が特別出来なかった訳ではない。その脆弱なメンタルが原因で団体競技ではトンマに足を引っ張ってはひんしゅくを買ってはいたものの、運動自体は決して苦手ではなかった。個人競技全般はむしろ相当優秀で、徒競走では一度も負けたことがない。勉学にしてもクラスでほぼトップだったくらいで、担任の先生から「雪輝くんは本当に理解力があって賢い子ねえ」と褒められたこともあった。
しかし、そのことが俺にとっての救いになる訳じゃなかった。いくら勉強や運動が出来ようが、病的なまでにウジウジとしてれば人に好かれることはあまりない。人間というのはそういうものだし、ましてや小学生ともなると尚更のことだった。
だからその頃の俺にとって、学校というものは苦痛を伴う場所でしかなかった。学校にいけば、ビクビクと脅える自分なんてあっという間にいじめの対象になってしまう――そして実際にいじめられてしまう。そんな場所を好きになれと言うほうが無理な話だった。
だから俺は朝起きるといつも「今日という今日は、ぜったいにガッコーになんていってやらないぞ」と決め込んで毛布の中で丸くなっていたのだ。
例えば小学三年生だったある日。その日もまた、母親がいくら学校に連れ出そうとしても、俺は布団にしがみついて離れなかった。
普通だったら、これで卑屈で惨めな不登校になって終わりだったのかもしれない。しかし俺の場合はそうじゃなかった。
何故なら俺には晴香がいてくれたからだ。
俺にこの世界がかくも美しいことを教えてくれた晴香がいてくれたからだ。
「おーい! てるくーん、おはよー! いっしょにがっこーにいこー!」
玄関から離れたこの部屋まで届くくらいに、大きくて一生懸命な女の子の呼びかけの声。
この声を聞くといつもたちどころに毒気が抜け、無性に恥ずかしくて情けなくなった。なんでそうやっていつもボクなんかの家に来て大声出してまで構うんだよ、と。
しかしそれでも――この声を聞くたびに、例えようもない程に温かな気持ちが溢れてくることも決して否定出来なかった。そしてその否定だけは、このちっぽけな魂にかけても絶対にしてはならないのだということも分かっていた。
「ほら……はるちゃんが来てくれたことだし、ね?」
布団を掴んだまま固まってる俺に、呆れの混じった声で語りかけてくる母。俺は外で待っている晴香のことを思い、仕方なく学校へ行く準備を始めるのだ。
そしてモソモソと身支度を終えた俺が食パンを片手に外に出ると、そこにはニコニコと笑顔を浮かべる晴香が門の外に立っている。
「えへへー! おはよーてるくーん!」
「う、うん……おはよっ……」
花が満開に咲いたような笑顔を浮かべながらこちらに手を振る晴香の顔を、俺はいつも直視出来なかった。
そして俺たちはいつものように学校へと向かって歩き出すのだ。朝ごはん代わりの食パンをモソモソと食べているその横を、晴香は楽しそうに鼻歌交じりで歩く。まるで母親に連れ添われて学校に向かうような気分で情けなかったのだが、だからといって逃げ出してはいけないことも分かっていた。というか逃げ出そうという気にもなれなかった。もしここで晴香から逃げ出してしまえば、一人ぼっちになってしまいそうで怖かったのだ。
「ねえ、そんなんじゃ足りないでしょ?」
食パンを食べ終わると晴香はいつも意味深に笑い、「ジャーン!」という元気いっぱいな大声と共に左手に持つ袋を俺に差し出すのだ。
「はい、てるくん。これあげるねっ!」
その袋の中には、焼きたてのソーセージパンが入っていた。いつも晴香が来るまでグズグズしていて、ゆっくり朝食を食べる暇のない俺に毎日パンを持ってきてくれるのだ。
晴香の家はパン屋だ。今でも普通に営業しているその店は、毎日七時半にはパンが焼き上がり、味も中々のものだということで近所では評判になっている。ただ、当の俺は晴香が死んでからは一度も訪れたことがない。
そもそも、晴香の家族に合わせる顔なんてないのだ。道端で偶然出会っても、出来るだけ目を合わせないですれ違うようにしている。
「いつも思うんだけど、これって売りモノなんでしょ?」
「いつも言ってるけど、しゅっせばらいってことになってるから大丈夫だよー」
出世払。
イタズラめかしてニッシッシと笑う晴香を尻目に、俺は沈鬱な気分になる。
それはつまり俺が将来的に偉くなるという信頼の下、例えばこの場合はお金の支払いを先送りにしてパンを受け取るということだ。もちろん、晴香がほとんど冗談で言っていたことくらい、当時の俺にも分かっていた。しかしこの時の俺は偉くなった自分なんて想像もつかなかったのだ。総理大臣やスポーツ選手どころか、誰かから賞賛される自分すら想像が出来なかった。そもそも偉くなるどころか、学校に行けばいつもバカにされてべそをかかされていたのだ。
――ボクはいっしょうバカにされるようなジンセイをおくって、晴香ちゃんのしゅっせばらいにこらえられるようなニンゲンになんてなれないんだ。
そんな救いのない思い込みをしていた俺なので、本当は晴香の申し出を固辞したかった。しかし、食パン一枚しか入ってなくてお腹の虫が不満げにグーグー鳴いていたのを、少なくとも当時小学生だった俺の自制心では抑えられなかった。だから俺は結局、しぶしぶと晴香からパンを受けとることになるのだった。
俺はとてつもなく申し訳ない思いで「あ、ありがとう」と口ごもり気味にお礼を言ってから、黙々とソーセージパンを食べ始める。
焼き立てのパンはいつもモチモチとしていて、マヨネーズとウインナーが絶妙に絡み合う。一口噛むたびに、味気ない食パンとは比べ物にならないほどの旨みが口の中を満たすのだ。
「どう? おいしい?」
「……う、うんっ」
微笑みながらこちらの顔を覗き込む晴香から視線を逸らしつつ、そっけない態度で答える。それでも晴香は「ホント? やったー! 今日もほめられたー!」といってフワフワと俺の周りをはねるのである。欠片ほどの裏表もない、全面的な嬉しさいっぱいの躍動に、俺は照れくさくなって顔を赤らめた。
本当は声を大にして「おいしい!」と叫びたいのだが、「ねーねーどーしたのどーしたのーー?」と、晴香がこちらの顔を覗き込んできたので出来なかった。太陽よりも真っ赤に染まった顔を絶対に見られたくなかったからだ。
「ねーてるくん。そういえば昨日、なにかいいことあった?」
ほんのりと幸せな気分でパンを頬張っていた俺に、晴香は明るい声で問いかける。その一言で俺の手は止まり、あっという間に気分が暗くなった。
これは当時の晴香がいつも俺に向かって発していた問いだった。
この問いかけをしてくる時の晴香は、必ず何かを期待するようにキラキラと輝かせながらこちらの目を見てくるのだ。
その問いかけを聞くたびに、美味しかった晴香のモチモチなパンが、あっという間にパサパサの食パンと同等のものへと変わってしまう。
「……ううん。あんまり、楽しいことなんてなかったよ」
せめてもの申し訳ない気持ちを込めながら、俺は苦々しい思いで笑顔を作る。もしも鏡を覗いたならば、自分のことがとことん大嫌いになるであろうと思われる、作り物で醜い笑みだ。
いつも通りの俺の返事に、晴香はいつも通りの悲しそうな笑顔で「そっか」と答える。
当時の俺にとって、晴香のこの問いかけはとてもとてもとても残酷だった。
その問いかけは自分の弱い心を見せつけられるようで嫌だった。
それを承知の上で問いかけてくる晴香の辛い心境が透けて見えてくるようで嫌だった。
なによりも、俺が暗い返答をする度に浮かべる晴香の表情を見つめなければならなかったのが本当に嫌だった。
当時の俺は、晴香の真摯な問いかけに対し、自分を欺いてまで明るい話が出来るほど器用な奴ではなかった。
当時の俺は、そんな自分が情けなくて、本当に情けなくて、気を緩めてしまうとあっという間に泣きそうになってくるのだった。
「えっとねー……そういえばわたし昨日ね、りょうこちゃんとかなちゃんと遊んだんだけどねー、その時にりょうこちゃんが……」
晴香は何かを捻り出すように、昨日あった“楽しかったこと”を語る。それは晴香にとってのめいいっぱいな表現力が使われた、めいいっぱいに一生懸命な語りに違いなかった。
それはきっと本当にあった出来事で、本当に楽しかった出来事なのだろう。しかし、それを語るという幸福な行為が、歪に行われているのを目の当りにするのは本当に辛かった。
晴香は苦しんでいるのだ。
俺なんかのために。
俺という下らない存在の弱さのために。
――ごめんね……ごめんね……。
許されることなら今すぐにでもこの場にうずくまり、ひたすらに懺悔の言葉を泣き叫びたかった。しかしそんなことを一度でもしてしまったら、今度こそ俺は一生晴香に許してもらえなくなってしまうだろうと思った。だからひたすらに耐え続けた。そしてせめてもの贖罪として、俺は出来るだけ明るく取り繕った笑顔で話を聞き続けた。
本当ならとても美味しいはずの、ちっとも味を感じない晴香の家の出来立てのパン。
当時の俺にとっての登校の時間は、俺の弱さを懸命にかばってくれる大好きな女のこの横で、そんな自分を無味なパンと共に飲み込まなくてはいけない一時だった。
世界が美しいと知る前、俺の世界は暗黒に塗りつぶされていた。
冥府の底のようなその世界に救いの光が射すことはなく、その絶望の世界を呪う術すら知らなかった俺は、母に見捨てられた赤子のように身を縮めるばかりだった。
――このセカイにはボクをたすけてくれる神さまなんていないんだ。
そんな諦観に支配されていた俺という少年の心はもはや、冥府の重力によって永遠に縛り付けられようとしていた。
我ながら随分と酷い過剰装飾だと思う。一応、当時の心象風景のスケッチとしてはそこまで間違っていない。しかし、ここまでかっこつけだと流石に自分で言っていて恥ずかしくもなってくる。
分かりやすく事実だけを言おう。
小学生だった頃の俺はどうしようもないいじめられっ子だった。
具体的には、常に下らないことに脅えてウジウジとしているような、同級生たちの格好の嘲笑のマトだったのである。
別に勉強や運動が特別出来なかった訳ではない。その脆弱なメンタルが原因で団体競技ではトンマに足を引っ張ってはひんしゅくを買ってはいたものの、運動自体は決して苦手ではなかった。個人競技全般はむしろ相当優秀で、徒競走では一度も負けたことがない。勉学にしてもクラスでほぼトップだったくらいで、担任の先生から「雪輝くんは本当に理解力があって賢い子ねえ」と褒められたこともあった。
しかし、そのことが俺にとっての救いになる訳じゃなかった。いくら勉強や運動が出来ようが、病的なまでにウジウジとしてれば人に好かれることはあまりない。人間というのはそういうものだし、ましてや小学生ともなると尚更のことだった。
だからその頃の俺にとって、学校というものは苦痛を伴う場所でしかなかった。学校にいけば、ビクビクと脅える自分なんてあっという間にいじめの対象になってしまう――そして実際にいじめられてしまう。そんな場所を好きになれと言うほうが無理な話だった。
だから俺は朝起きるといつも「今日という今日は、ぜったいにガッコーになんていってやらないぞ」と決め込んで毛布の中で丸くなっていたのだ。
例えば小学三年生だったある日。その日もまた、母親がいくら学校に連れ出そうとしても、俺は布団にしがみついて離れなかった。
普通だったら、これで卑屈で惨めな不登校になって終わりだったのかもしれない。しかし俺の場合はそうじゃなかった。
何故なら俺には晴香がいてくれたからだ。
俺にこの世界がかくも美しいことを教えてくれた晴香がいてくれたからだ。
「おーい! てるくーん、おはよー! いっしょにがっこーにいこー!」
玄関から離れたこの部屋まで届くくらいに、大きくて一生懸命な女の子の呼びかけの声。
この声を聞くといつもたちどころに毒気が抜け、無性に恥ずかしくて情けなくなった。なんでそうやっていつもボクなんかの家に来て大声出してまで構うんだよ、と。
しかしそれでも――この声を聞くたびに、例えようもない程に温かな気持ちが溢れてくることも決して否定出来なかった。そしてその否定だけは、このちっぽけな魂にかけても絶対にしてはならないのだということも分かっていた。
「ほら……はるちゃんが来てくれたことだし、ね?」
布団を掴んだまま固まってる俺に、呆れの混じった声で語りかけてくる母。俺は外で待っている晴香のことを思い、仕方なく学校へ行く準備を始めるのだ。
そしてモソモソと身支度を終えた俺が食パンを片手に外に出ると、そこにはニコニコと笑顔を浮かべる晴香が門の外に立っている。
「えへへー! おはよーてるくーん!」
「う、うん……おはよっ……」
花が満開に咲いたような笑顔を浮かべながらこちらに手を振る晴香の顔を、俺はいつも直視出来なかった。
そして俺たちはいつものように学校へと向かって歩き出すのだ。朝ごはん代わりの食パンをモソモソと食べているその横を、晴香は楽しそうに鼻歌交じりで歩く。まるで母親に連れ添われて学校に向かうような気分で情けなかったのだが、だからといって逃げ出してはいけないことも分かっていた。というか逃げ出そうという気にもなれなかった。もしここで晴香から逃げ出してしまえば、一人ぼっちになってしまいそうで怖かったのだ。
「ねえ、そんなんじゃ足りないでしょ?」
食パンを食べ終わると晴香はいつも意味深に笑い、「ジャーン!」という元気いっぱいな大声と共に左手に持つ袋を俺に差し出すのだ。
「はい、てるくん。これあげるねっ!」
その袋の中には、焼きたてのソーセージパンが入っていた。いつも晴香が来るまでグズグズしていて、ゆっくり朝食を食べる暇のない俺に毎日パンを持ってきてくれるのだ。
晴香の家はパン屋だ。今でも普通に営業しているその店は、毎日七時半にはパンが焼き上がり、味も中々のものだということで近所では評判になっている。ただ、当の俺は晴香が死んでからは一度も訪れたことがない。
そもそも、晴香の家族に合わせる顔なんてないのだ。道端で偶然出会っても、出来るだけ目を合わせないですれ違うようにしている。
「いつも思うんだけど、これって売りモノなんでしょ?」
「いつも言ってるけど、しゅっせばらいってことになってるから大丈夫だよー」
出世払。
イタズラめかしてニッシッシと笑う晴香を尻目に、俺は沈鬱な気分になる。
それはつまり俺が将来的に偉くなるという信頼の下、例えばこの場合はお金の支払いを先送りにしてパンを受け取るということだ。もちろん、晴香がほとんど冗談で言っていたことくらい、当時の俺にも分かっていた。しかしこの時の俺は偉くなった自分なんて想像もつかなかったのだ。総理大臣やスポーツ選手どころか、誰かから賞賛される自分すら想像が出来なかった。そもそも偉くなるどころか、学校に行けばいつもバカにされてべそをかかされていたのだ。
――ボクはいっしょうバカにされるようなジンセイをおくって、晴香ちゃんのしゅっせばらいにこらえられるようなニンゲンになんてなれないんだ。
そんな救いのない思い込みをしていた俺なので、本当は晴香の申し出を固辞したかった。しかし、食パン一枚しか入ってなくてお腹の虫が不満げにグーグー鳴いていたのを、少なくとも当時小学生だった俺の自制心では抑えられなかった。だから俺は結局、しぶしぶと晴香からパンを受けとることになるのだった。
俺はとてつもなく申し訳ない思いで「あ、ありがとう」と口ごもり気味にお礼を言ってから、黙々とソーセージパンを食べ始める。
焼き立てのパンはいつもモチモチとしていて、マヨネーズとウインナーが絶妙に絡み合う。一口噛むたびに、味気ない食パンとは比べ物にならないほどの旨みが口の中を満たすのだ。
「どう? おいしい?」
「……う、うんっ」
微笑みながらこちらの顔を覗き込む晴香から視線を逸らしつつ、そっけない態度で答える。それでも晴香は「ホント? やったー! 今日もほめられたー!」といってフワフワと俺の周りをはねるのである。欠片ほどの裏表もない、全面的な嬉しさいっぱいの躍動に、俺は照れくさくなって顔を赤らめた。
本当は声を大にして「おいしい!」と叫びたいのだが、「ねーねーどーしたのどーしたのーー?」と、晴香がこちらの顔を覗き込んできたので出来なかった。太陽よりも真っ赤に染まった顔を絶対に見られたくなかったからだ。
「ねーてるくん。そういえば昨日、なにかいいことあった?」
ほんのりと幸せな気分でパンを頬張っていた俺に、晴香は明るい声で問いかける。その一言で俺の手は止まり、あっという間に気分が暗くなった。
これは当時の晴香がいつも俺に向かって発していた問いだった。
この問いかけをしてくる時の晴香は、必ず何かを期待するようにキラキラと輝かせながらこちらの目を見てくるのだ。
その問いかけを聞くたびに、美味しかった晴香のモチモチなパンが、あっという間にパサパサの食パンと同等のものへと変わってしまう。
「……ううん。あんまり、楽しいことなんてなかったよ」
せめてもの申し訳ない気持ちを込めながら、俺は苦々しい思いで笑顔を作る。もしも鏡を覗いたならば、自分のことがとことん大嫌いになるであろうと思われる、作り物で醜い笑みだ。
いつも通りの俺の返事に、晴香はいつも通りの悲しそうな笑顔で「そっか」と答える。
当時の俺にとって、晴香のこの問いかけはとてもとてもとても残酷だった。
その問いかけは自分の弱い心を見せつけられるようで嫌だった。
それを承知の上で問いかけてくる晴香の辛い心境が透けて見えてくるようで嫌だった。
なによりも、俺が暗い返答をする度に浮かべる晴香の表情を見つめなければならなかったのが本当に嫌だった。
当時の俺は、晴香の真摯な問いかけに対し、自分を欺いてまで明るい話が出来るほど器用な奴ではなかった。
当時の俺は、そんな自分が情けなくて、本当に情けなくて、気を緩めてしまうとあっという間に泣きそうになってくるのだった。
「えっとねー……そういえばわたし昨日ね、りょうこちゃんとかなちゃんと遊んだんだけどねー、その時にりょうこちゃんが……」
晴香は何かを捻り出すように、昨日あった“楽しかったこと”を語る。それは晴香にとってのめいいっぱいな表現力が使われた、めいいっぱいに一生懸命な語りに違いなかった。
それはきっと本当にあった出来事で、本当に楽しかった出来事なのだろう。しかし、それを語るという幸福な行為が、歪に行われているのを目の当りにするのは本当に辛かった。
晴香は苦しんでいるのだ。
俺なんかのために。
俺という下らない存在の弱さのために。
――ごめんね……ごめんね……。
許されることなら今すぐにでもこの場にうずくまり、ひたすらに懺悔の言葉を泣き叫びたかった。しかしそんなことを一度でもしてしまったら、今度こそ俺は一生晴香に許してもらえなくなってしまうだろうと思った。だからひたすらに耐え続けた。そしてせめてもの贖罪として、俺は出来るだけ明るく取り繕った笑顔で話を聞き続けた。
本当ならとても美味しいはずの、ちっとも味を感じない晴香の家の出来立てのパン。
当時の俺にとっての登校の時間は、俺の弱さを懸命にかばってくれる大好きな女のこの横で、そんな自分を無味なパンと共に飲み込まなくてはいけない一時だった。
たまに、晴香との日常の中にこんな一幕が入ることがあった。
夕暮れのさす放課後の廊下を、俺は慌てながら駆けていく。晴香と待ち合わせている司書室に向かっているのだ。当時の彼女は図書係で、こっそりと待ち合わせをするために司書室を使っていたのである。もちろん私用のために司書室を使うのは禁止されていたのだが、当時の司書教諭や上級生が「恋する乙女」のために気を利かせてくれていたのだ。
「もーっ! おそいよてるくん! わたしすっごい待ちくたびれたんだけど!」
こっそりと戸を開けて司書室に入った矢先、晴香のへその曲がった声が飛んできた。確かに今の時刻は四時を過ぎた辺りで、総下校時刻もとっくに過ぎてしまっている。
「ご、ごめん……そうじがちょっと長びいちゃって……」
「ええー? それにしてもなんかおそい気がするんだけどー?」
「いや、あの……今日は体育館の倉庫をそうじしてたんだけど……それで、その……一人でそうじ、してたから……」
晴香はうっかり犬の尻尾を踏んでしまったようにアッと口をOの字に開けた。要するに、実に分かりやすいイジメの一例である。最も、掃除を押し付けられたついでに倉庫に閉じ込められていたことまでは言わなかったのだが。
しかし俺にとっての救いは、晴香はそんなことで気まずさに沈まない女の子だったことだ。
晴香はすぐにニッコリと笑顔を作ると、トコトコと俺のそばに近寄り、ポケットから一粒の飴玉を取り出した。
「図書係のセンパイからこっそりもらったの」
キョトンとした心持で佇む俺に向かって、イタズラっぽくニヒヒと笑う。
「ほしい?」
オレンジ味の飴玉は、空きっ腹の小学生にはなかなか魅力的だった。ただでさえ大変な体育館倉庫の掃除を押し付けられた挙句、閉じ込められた後ではなお更。
しかし、俺はここで意地をはった。特に意味らしい意味など欠片もない、幼く内気な男子の下らない意地である。
「……いいよ、大島さん食べなよ」
「えー? ホントは食べたいんでしょー? っていうか、名字で呼ぶのと、さんづけはやめてっていっつも言ってるんだけどなー?」
「ご、ごめん、大島……さん」
「もー! ……まあ、いいか。それでけっきょくアメ玉いるの? いらないの?」
「い、いいよ、べ、べつにいらないから」
「いいの? ホントに食べちゃうよー?」
「だからいいってば、いらないよ……」
「じゃあ食べちゃおっ!」
晴香はそう言うなり包み紙を開けると、ヒョイっと飴玉を口に放ってしまった。晴香はわざとらしいくらいに顔をほころばせながら飴玉を舐める。
それを見つめる俺のお腹の虫は、キュルルと空しい鳴き声を鳴らすばかりだった。
「うん、すっごくおいしいっ!」
「そ、そう? ……それはよかったね」
「またまたー! ホントは食べたかったくせに、そういうこと言っちゃうんだー!」
「いや、だから別に……」
「あー、アメ玉おいしいなー! でもいじっぱりなてるくんはアメ玉食べられなーい!」
「い、いじなんかはってないよっ! アメなんていらないって言ってるだろっ!」
「あれ? てるくん怒っちゃった?」
「お、怒ってないよ! うるさいな! 黙って食べればいいだろっ!」
「だってアメ玉おいしいんだもん。おいしいものをおいしいって言ってなにが悪いの? っていうかそもそもてるくんはアメ玉なんていらないんでしょ? だったら黙るのはそっちだよ」
「う、ううっ……!」
何も言い返せなくなり、俺はギリリッと唇を噛む。それを尻目に晴香は、ますます幸せそうな声をあげながら飴玉を舐めるのだった。
「……ねえ、どうしてもアメ玉食べたい?」
しばらくして、晴香がそんなことを言い出した。その目は必要以上に笑っていて、何かしらよからぬことを企んでいることは明らかだった。
「え? だ、だってアメは、大島さんが……」
「アメ玉ならあるじゃん、ほら」
そう言って、晴香は口を大きく開ける。そこにはもちろん、晴香の舐めていた飴があった。
晴香の意図を悟った俺の頬は、瞬間的に真っ赤に熱くなった。
「は、はあ? なにバカなこといってるの大島さん? ジョウダンがきついよっ!」
「えー? わたしはべつにいいんだけどなー」
「だ、だって、それじゃあ……その……」
「キスって言いたいんでしょ?」
晴香は口元にニヤリとした笑みを浮かべる。
「ねえ、わたしはいいって言ってるんだよ?」
「そ、そんな……」
「それとも、わたしとキスするのイヤ?」
俺は固まったまま、何も言うことが出来なかった。晴香が嘘を言っていないことが表情から伝わってきて、どうしたらいいのか分からなくなってしまったのである。
晴香はそんな俺を見て、口元に笑みを浮かべると、ジワジワと追い詰めるように詰め寄ってくる。俺はただ後ずさりをするしか出来ず、気がついたら壁際に追い詰められていた。
それこそ、どちらかが後もう半歩ほど詰め寄ればキスが成立してしまいそうな距離。鼻先が紙一重で触れ合いそうなほどに近くで、晴香は俺の瞳を覗き込む。怖いくらいに真剣な表情を浮かべる晴香の瞳は本当に熱っぽく濡れていて、晴香の温度が俺にまで伝わってくるようだった。頭の中が真っ白になる。自分の顔が真っ赤っ赤になっていることも嫌というほどに自覚していた。しかし、顔を背けようにも、下手に動けば唇が触れてしまいそうだったし、何よりも晴香の瞳を前にした俺の方が、さながら釘付けにされたかのように固まってしまったからだ。
「ねえ、てるくん……目をつむって」
晴香の声を聞いていると、頭がクラクラして気が遠くなりそうだった。まるでそれは、魔女の使う魔法(チャーム)のようだった。
「え……そ、そしたら……」
「それとも、てるくんは目をあけたままするのがスキなの?」
「そ、そんなの知らないよ……! ね、ねえ、やめてよ……やっぱり、こんなの……!」
「じゃあ、やっぱり目をつむりなよ」
「そ、そんな……」
「いいから早くしてってば……! 早く目をつむらないと、キスしちゃうよ?」
本当の本当にやりかねないと思った俺は、観念するようにギュッと目をつむる。
「じゃあ、大きく口をあけてごらん」
今度こそキスをする気だと思った俺は、首を思い切り振って拒絶した。しかし晴香はすぐに俺の顔を両手でガッチリと押さえ、「もう! いい加減にしないとホントにキスしちゃうぞってば!」と、少し苛立ったような声をあげた。
逃げ場がなくなったのを悟った俺は、炎の中に身を投じる思いで口を思い切り開けた。しかし、この時の俺は、観念とはまた違った思いをその胸の内に抱いていた。
それはすなわち、キスをする相手が晴香だったら良いかな、という感情。
――だってボク、ホントは晴香ちゃんのこと……。
俺の口の中に何か丸くて甘い物が放り込まれたのはその時だった。
真っ当な生物として、口の中に入り込んできた思わぬ異物を吐き出そうとするが、その口をすかさず晴香の小さな手が抑えこんだ。
「だいじょうぶだよ、わたしがなめてたやつじゃないから」
俺が目を開けると、そこには先ほどまでとは打って変わって、俺の口を押さえ込みながらいかにも子どもらしいイタズラっぽい笑顔を浮かべる晴香が立っていた。
「たしかてるくん大好きだったよね? コーラ味のアメ玉?」
「……(コクコクッ)」
「どう、おいしいでしょ?」
「……(コクコクッ)」
俺が頷くのを見た晴香は、満足げに笑みを深めると、ゆっくりとその右手を口から離した。
「このアメはどうしたの?」
「えへへ、家にあったのを持ってきたんだよ」
つまり、最初からこの飴玉をくれるつもりだったのだろう。俺の口の中に、程よくシュワシュワとしていて、コーラ風味の大味な甘みが心地よく広がっていく。
「ねえ、てるくん」
そう言って、晴香は俺に語りかけるようにして俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「てるくんはもっと、自分の思ってることをスナオにはっきりと言った方がいいと思うな」
それは紛れもなく、俺の弱さだ。
「てるくんは一人でそうじなんてしたくなかったんだよね? てるくんはアメ玉を食べたかったんだよね? だったらそれを言わないと、誰にもてるくんのこと分かってもらえないよ?」
俺はそのことを自分でも分かっていたのだ。しかし、この時俺は何も言うことが出来ず、ただ気まずそうに視線を下に向けるしかなった。
世界が美しいと知る前、俺の世界は果てしのない暗黒に包まれていた。それというのも、他でもない俺自身が、その暗黒になす術もなくやられてしまうくらいに弱かったからでもある。
「だーかーらっ、わたしとキスしたかったら、ちゃんとそう言うことー!」
「そ、それはいいよべつに……」
「もー、これでもわたしだってけっこうはずかしいんだよ? わたしみたいなかわいい女の子のキスをキョヒるなんて、ほんっとゼータクなんだからー!」
そう言ってニヒヒと冗談めかして笑う晴香が、まるで太陽を見るかのように眩しくて、俺みたいな奴の目なんてあっという間に潰れてしまいそうだった。
「じゃ、そろそろいこっか!」
「ねえ!」
司書室を出ようとした晴香を、俺は自分でもびっくりするほどに大きな声で呼び止めた。
「……ごめんね」
俯いて、少しだけ泣きたいような気分でそう力なく言葉にする。
自分のことを真剣に案じてくれる、俺自身も本当は大好きな女の子。そんな彼女の心から真剣な言葉に、情けないくらいに弱々しい言葉を返すしかない自分が大嫌いだった。
「ホントに、ごめんね……」
こちらを振り返った時の晴香の表情は、とても悲しそうだった。悲しそうな表情を浮かべながら、晴香はその唇を思い切り噛んでいた。
晴香はツカツカと近寄ると、俺の額に対して思い切りでこぴんを放つ。不意を突かれた俺は、短い悲鳴をあげてひるんだ。おでこを押さえながら晴香を見ると、彼女は笑顔を浮かべていた。しかしその笑顔は、笑顔になりきれていない、身体のどこかがとても痛むのを下手糞にごまかしてみせているような笑顔だった。
「もう……ホントにバカ……!」
表情では辛くも笑っていても、目の方は全く笑えていなかった。怒っているようで哀れむようで、酷く複雑でそれでも酷く傷ついていることだけは酷く伝わってくる残酷な目で、晴香は俺の眼を真っ直ぐに見据えていた。俺はそんな晴香から目を逸らすことが出来なかった。他でもない俺自身が晴香にこんな表情をさせていることを思うと、俺は今すぐここで首をかききって死んでしまいたい気持ちになった。
しばらくして晴香はツイッと顔を背け、早足に司書室から出ていった。晴香のいなくなった司書室は、気が遠くなるほどに無音だった。
俺はこの時も泣かなかった。今回のことに限らず――例えば朝の登校時に「昨日は何かいいことあった?」と聞かれて、それに不細工な返答をすることになった時にもそうだったように――俺は自分自身の弱さによって晴香を傷つけてしまった時には、例えどれほどに惨めな思いをしようとも絶対に泣かないことにしていた。少なくとも晴香の前では絶対に泣かなかった。
だから俺は身を縮める思いで晴香の後ろについていくのだ。泣いてはいけない――逃げてはいけない。掛け替えのない晴香を絶対に裏切ってはならないと、自分に言い聞かせながら。
夕暮れのさす放課後の廊下を、俺は慌てながら駆けていく。晴香と待ち合わせている司書室に向かっているのだ。当時の彼女は図書係で、こっそりと待ち合わせをするために司書室を使っていたのである。もちろん私用のために司書室を使うのは禁止されていたのだが、当時の司書教諭や上級生が「恋する乙女」のために気を利かせてくれていたのだ。
「もーっ! おそいよてるくん! わたしすっごい待ちくたびれたんだけど!」
こっそりと戸を開けて司書室に入った矢先、晴香のへその曲がった声が飛んできた。確かに今の時刻は四時を過ぎた辺りで、総下校時刻もとっくに過ぎてしまっている。
「ご、ごめん……そうじがちょっと長びいちゃって……」
「ええー? それにしてもなんかおそい気がするんだけどー?」
「いや、あの……今日は体育館の倉庫をそうじしてたんだけど……それで、その……一人でそうじ、してたから……」
晴香はうっかり犬の尻尾を踏んでしまったようにアッと口をOの字に開けた。要するに、実に分かりやすいイジメの一例である。最も、掃除を押し付けられたついでに倉庫に閉じ込められていたことまでは言わなかったのだが。
しかし俺にとっての救いは、晴香はそんなことで気まずさに沈まない女の子だったことだ。
晴香はすぐにニッコリと笑顔を作ると、トコトコと俺のそばに近寄り、ポケットから一粒の飴玉を取り出した。
「図書係のセンパイからこっそりもらったの」
キョトンとした心持で佇む俺に向かって、イタズラっぽくニヒヒと笑う。
「ほしい?」
オレンジ味の飴玉は、空きっ腹の小学生にはなかなか魅力的だった。ただでさえ大変な体育館倉庫の掃除を押し付けられた挙句、閉じ込められた後ではなお更。
しかし、俺はここで意地をはった。特に意味らしい意味など欠片もない、幼く内気な男子の下らない意地である。
「……いいよ、大島さん食べなよ」
「えー? ホントは食べたいんでしょー? っていうか、名字で呼ぶのと、さんづけはやめてっていっつも言ってるんだけどなー?」
「ご、ごめん、大島……さん」
「もー! ……まあ、いいか。それでけっきょくアメ玉いるの? いらないの?」
「い、いいよ、べ、べつにいらないから」
「いいの? ホントに食べちゃうよー?」
「だからいいってば、いらないよ……」
「じゃあ食べちゃおっ!」
晴香はそう言うなり包み紙を開けると、ヒョイっと飴玉を口に放ってしまった。晴香はわざとらしいくらいに顔をほころばせながら飴玉を舐める。
それを見つめる俺のお腹の虫は、キュルルと空しい鳴き声を鳴らすばかりだった。
「うん、すっごくおいしいっ!」
「そ、そう? ……それはよかったね」
「またまたー! ホントは食べたかったくせに、そういうこと言っちゃうんだー!」
「いや、だから別に……」
「あー、アメ玉おいしいなー! でもいじっぱりなてるくんはアメ玉食べられなーい!」
「い、いじなんかはってないよっ! アメなんていらないって言ってるだろっ!」
「あれ? てるくん怒っちゃった?」
「お、怒ってないよ! うるさいな! 黙って食べればいいだろっ!」
「だってアメ玉おいしいんだもん。おいしいものをおいしいって言ってなにが悪いの? っていうかそもそもてるくんはアメ玉なんていらないんでしょ? だったら黙るのはそっちだよ」
「う、ううっ……!」
何も言い返せなくなり、俺はギリリッと唇を噛む。それを尻目に晴香は、ますます幸せそうな声をあげながら飴玉を舐めるのだった。
「……ねえ、どうしてもアメ玉食べたい?」
しばらくして、晴香がそんなことを言い出した。その目は必要以上に笑っていて、何かしらよからぬことを企んでいることは明らかだった。
「え? だ、だってアメは、大島さんが……」
「アメ玉ならあるじゃん、ほら」
そう言って、晴香は口を大きく開ける。そこにはもちろん、晴香の舐めていた飴があった。
晴香の意図を悟った俺の頬は、瞬間的に真っ赤に熱くなった。
「は、はあ? なにバカなこといってるの大島さん? ジョウダンがきついよっ!」
「えー? わたしはべつにいいんだけどなー」
「だ、だって、それじゃあ……その……」
「キスって言いたいんでしょ?」
晴香は口元にニヤリとした笑みを浮かべる。
「ねえ、わたしはいいって言ってるんだよ?」
「そ、そんな……」
「それとも、わたしとキスするのイヤ?」
俺は固まったまま、何も言うことが出来なかった。晴香が嘘を言っていないことが表情から伝わってきて、どうしたらいいのか分からなくなってしまったのである。
晴香はそんな俺を見て、口元に笑みを浮かべると、ジワジワと追い詰めるように詰め寄ってくる。俺はただ後ずさりをするしか出来ず、気がついたら壁際に追い詰められていた。
それこそ、どちらかが後もう半歩ほど詰め寄ればキスが成立してしまいそうな距離。鼻先が紙一重で触れ合いそうなほどに近くで、晴香は俺の瞳を覗き込む。怖いくらいに真剣な表情を浮かべる晴香の瞳は本当に熱っぽく濡れていて、晴香の温度が俺にまで伝わってくるようだった。頭の中が真っ白になる。自分の顔が真っ赤っ赤になっていることも嫌というほどに自覚していた。しかし、顔を背けようにも、下手に動けば唇が触れてしまいそうだったし、何よりも晴香の瞳を前にした俺の方が、さながら釘付けにされたかのように固まってしまったからだ。
「ねえ、てるくん……目をつむって」
晴香の声を聞いていると、頭がクラクラして気が遠くなりそうだった。まるでそれは、魔女の使う魔法(チャーム)のようだった。
「え……そ、そしたら……」
「それとも、てるくんは目をあけたままするのがスキなの?」
「そ、そんなの知らないよ……! ね、ねえ、やめてよ……やっぱり、こんなの……!」
「じゃあ、やっぱり目をつむりなよ」
「そ、そんな……」
「いいから早くしてってば……! 早く目をつむらないと、キスしちゃうよ?」
本当の本当にやりかねないと思った俺は、観念するようにギュッと目をつむる。
「じゃあ、大きく口をあけてごらん」
今度こそキスをする気だと思った俺は、首を思い切り振って拒絶した。しかし晴香はすぐに俺の顔を両手でガッチリと押さえ、「もう! いい加減にしないとホントにキスしちゃうぞってば!」と、少し苛立ったような声をあげた。
逃げ場がなくなったのを悟った俺は、炎の中に身を投じる思いで口を思い切り開けた。しかし、この時の俺は、観念とはまた違った思いをその胸の内に抱いていた。
それはすなわち、キスをする相手が晴香だったら良いかな、という感情。
――だってボク、ホントは晴香ちゃんのこと……。
俺の口の中に何か丸くて甘い物が放り込まれたのはその時だった。
真っ当な生物として、口の中に入り込んできた思わぬ異物を吐き出そうとするが、その口をすかさず晴香の小さな手が抑えこんだ。
「だいじょうぶだよ、わたしがなめてたやつじゃないから」
俺が目を開けると、そこには先ほどまでとは打って変わって、俺の口を押さえ込みながらいかにも子どもらしいイタズラっぽい笑顔を浮かべる晴香が立っていた。
「たしかてるくん大好きだったよね? コーラ味のアメ玉?」
「……(コクコクッ)」
「どう、おいしいでしょ?」
「……(コクコクッ)」
俺が頷くのを見た晴香は、満足げに笑みを深めると、ゆっくりとその右手を口から離した。
「このアメはどうしたの?」
「えへへ、家にあったのを持ってきたんだよ」
つまり、最初からこの飴玉をくれるつもりだったのだろう。俺の口の中に、程よくシュワシュワとしていて、コーラ風味の大味な甘みが心地よく広がっていく。
「ねえ、てるくん」
そう言って、晴香は俺に語りかけるようにして俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「てるくんはもっと、自分の思ってることをスナオにはっきりと言った方がいいと思うな」
それは紛れもなく、俺の弱さだ。
「てるくんは一人でそうじなんてしたくなかったんだよね? てるくんはアメ玉を食べたかったんだよね? だったらそれを言わないと、誰にもてるくんのこと分かってもらえないよ?」
俺はそのことを自分でも分かっていたのだ。しかし、この時俺は何も言うことが出来ず、ただ気まずそうに視線を下に向けるしかなった。
世界が美しいと知る前、俺の世界は果てしのない暗黒に包まれていた。それというのも、他でもない俺自身が、その暗黒になす術もなくやられてしまうくらいに弱かったからでもある。
「だーかーらっ、わたしとキスしたかったら、ちゃんとそう言うことー!」
「そ、それはいいよべつに……」
「もー、これでもわたしだってけっこうはずかしいんだよ? わたしみたいなかわいい女の子のキスをキョヒるなんて、ほんっとゼータクなんだからー!」
そう言ってニヒヒと冗談めかして笑う晴香が、まるで太陽を見るかのように眩しくて、俺みたいな奴の目なんてあっという間に潰れてしまいそうだった。
「じゃ、そろそろいこっか!」
「ねえ!」
司書室を出ようとした晴香を、俺は自分でもびっくりするほどに大きな声で呼び止めた。
「……ごめんね」
俯いて、少しだけ泣きたいような気分でそう力なく言葉にする。
自分のことを真剣に案じてくれる、俺自身も本当は大好きな女の子。そんな彼女の心から真剣な言葉に、情けないくらいに弱々しい言葉を返すしかない自分が大嫌いだった。
「ホントに、ごめんね……」
こちらを振り返った時の晴香の表情は、とても悲しそうだった。悲しそうな表情を浮かべながら、晴香はその唇を思い切り噛んでいた。
晴香はツカツカと近寄ると、俺の額に対して思い切りでこぴんを放つ。不意を突かれた俺は、短い悲鳴をあげてひるんだ。おでこを押さえながら晴香を見ると、彼女は笑顔を浮かべていた。しかしその笑顔は、笑顔になりきれていない、身体のどこかがとても痛むのを下手糞にごまかしてみせているような笑顔だった。
「もう……ホントにバカ……!」
表情では辛くも笑っていても、目の方は全く笑えていなかった。怒っているようで哀れむようで、酷く複雑でそれでも酷く傷ついていることだけは酷く伝わってくる残酷な目で、晴香は俺の眼を真っ直ぐに見据えていた。俺はそんな晴香から目を逸らすことが出来なかった。他でもない俺自身が晴香にこんな表情をさせていることを思うと、俺は今すぐここで首をかききって死んでしまいたい気持ちになった。
しばらくして晴香はツイッと顔を背け、早足に司書室から出ていった。晴香のいなくなった司書室は、気が遠くなるほどに無音だった。
俺はこの時も泣かなかった。今回のことに限らず――例えば朝の登校時に「昨日は何かいいことあった?」と聞かれて、それに不細工な返答をすることになった時にもそうだったように――俺は自分自身の弱さによって晴香を傷つけてしまった時には、例えどれほどに惨めな思いをしようとも絶対に泣かないことにしていた。少なくとも晴香の前では絶対に泣かなかった。
だから俺は身を縮める思いで晴香の後ろについていくのだ。泣いてはいけない――逃げてはいけない。掛け替えのない晴香を絶対に裏切ってはならないと、自分に言い聞かせながら。
空が群青色に染まった住宅街の中を、俺と晴香はゆっくりと歩いていく。
十月下旬という冬の入り口のような時期。最低気温も知らずに薄着にしてしまった俺は、少しばかり肌寒さを感じる。しかしそれ以上に、普段はうるさいくらいに話しかけてくる晴香がムッツリと黙り込んでいることの方がよっぽど堪えた。飴は途中で噛んでしまって、奥歯の隙間には作り物のオレンジの強くて粘っこい甘みばかりが嫌味に残ったていた。
こうして待ち合わせた俺たちが向かうのは、住宅街にある公園だといつも決まっていたし、そこで星を眺めることも決まっていた。
とはいってもごく一般的な市民公園ではなく、小さな森や丘があるような、ちょっとした自然公園の体をなしている公園だ。桜の名所としても知られていて、花見の季節になると沢山の人々が訪れる。
結局、俺たちは公園の入り口に着くまでずっと無言だった。
公園は山の上にあり、公園に行くには階段を上っていく必要がある。
彼女は一度こちらを振り返り、複雑な、敢えて言葉にするならば歯がゆそうな表情で一瞥した後、何も言うことなく階段を駆け上がって行った。仕方がないので、俺も黙ってその後ろについていく。
聞いた話によると、この公園の山は東京でも一・二位を争うくらいに標高が低いらしい。実際、大の大人がこの山を登ろうとしたら五分もかからずに頂上まで辿り着くことだろう。それでも山を登っていることに変わりはなく、小学生の低学年にとってはちょっと疲れるような立地ではある。普通に歩いて登る分には問題ないのだが、流石に小学校低学年の女の子が駆け上がっていくともなると厳しいものがあった。現にその日も、半分に差しかかった辺りで息を切らし、欄干に寄りかかって立ち止まってしまった。心配になった俺は、少し迷った後に駆けよろうと思ったのだが、その前に再び、振り返りもせずに駆け上がって行ってしまった。
間もなく、俺たちは公園に辿り着いた。流石にこの時間ともなると人の姿もあまりなく、物寂しい印象を受けた。一応外灯はあるのだが光は弱々しくて薄暗い。公園に植えられている木々がこの場合、返って気味の悪い雰囲気を作り出してしまっていた。空を見上げると、群青色だった空はほとんど闇夜のそれに変わっていて、まばらに散らばる星々が瞬いていた。
先に到着していた晴香は中腰になり、ハアハアと荒い息をあげている。冷たい風が吹いている中で、晴香の額には汗がにじんでいた。
「はい、ハンカチ」
見かねた俺はポケットから取り出したハンカチを晴香に差し出した。
「…………」
晴香はそんな俺のことをジロリっと見つめてくる。そんな晴香が怖くなった俺は、思わず後ずさりをしてしまった。
しかし晴香はすぐにハッとした表情になり、それから苦笑いのそれになった。
「うん、ありがとう」
ハンカチを受けとった時の晴香の微笑みは、少し照れくさそうに見えた。まるで、作文の中にちょっとおかしな誤字があることを友人に指摘された時に浮かべるようなそれのように。
一息つくと、俺たちはいつもの丘へと向かう。特に何かを喋った訳ではなかったが、晴香の表情はいつもの穏やかな笑顔のものになっていた。
そこは、俺たちが星を眺める時にいつも腰掛ける場所なのである。階段を上った後、ずっと左手を歩き、遊具が置かれている児童エリアを抜けた先にその目的の丘はある。
この丘周辺の空間を一言で言い表すと、ビリヤードのポケットと言ったところだろうか。
公園の木々がうずたかい丘を遠巻きに囲むようにして半円を描いて生えわたっており、それが結果としてこの丘をちょっとした広場のような空間にしているのである。もし今の時刻が朝なら、太陽の光がスポットライトのように降り注ぐステージのような空間になったのだろうが、今は夜空に浮かぶ星々を映り出すプラネタリウムのような空間になっているのだった。
俺はランドセルからタオルを取り出し、それを地面に敷く。余り大きくはないタオルだが、小学生二人くらいなら無理なく座れる程度の大きさはあった。晴香は「ありがとう」とお礼を言うと、そこに腰を下ろした。俺もその隣に座り、晴香に習って空を見上げた。星の瞬く夜空は、いつもと変わらず美しかった。
一見すると何ともロマンチックな風景なのだろうが、実際のところはどうだっただろうか。
確かに晴香はとても楽しそうだったし、俺としても晴香といること自体はとても楽しかった。しかし、少なくとも当時は夜空の星を見ることはそんなに言うほど楽しくもなかったのだ。
そもそも、ごく一般的な小学校低学年の男の子にとって、劇的に変化する訳でもない夜空をずっと座って眺めることは、そんなに楽しいものでもないのだ。俺というか、普通の小学三年生の男の子からしたら、女の子と夜空を見上げるロマンよりも、肌寒い中でジッとしている窮屈さの方が問題だろう。しかし、そんな風に思っていることが晴香にばれた日には、とてつもない怒りを呼び込みそうだったので黙っていた。
「なにか、あったかい飲みもの買ってくるよ」
だからこの一言も、先ほどの汗が乾いて少し寒そうにしている晴香を心配してというより、何かしらの口実を作って少しでも身体を動かすことにあった。無性に温かいココアを飲みたくなってきた、というのもあったのだけれども。
「おごってくれるの?」
「そ、それはムリだけど……」
「いいじゃん、おごってよー、てるくんのカイショーなしー」
「ごめん……そこまでお金ないし……」
すっかり真に受けてションボリとした俺であったが、晴香はバカだねえと言わんばかりにクツクツと笑った。
「えへへ、ジョーダンだよー。わたし、コーンポタージュね」
「う、うん。わかった」
俺はお金を受け取ると、とっとと自販機へと向かって駆けていったのだった。
自販機は、児童コーナー内の売店のすぐそばにある。この売店は大変オンボロで、俺の知る限りではずっと閉まりっぱなしだった。
自販機から出て来たコーンポタージュを手にとり、自分の分のココアを買おうとしたその時、ふと左手からかすかな足音が聞こえた気がして、俺は瞬間的にビクンと身体を震わせた。
実はこれは、「気がした」だなんて曖昧な感覚ではなく、はっきりとした確信だった。
ここ最近、俺のことを付け回している人間がいることは知っていたし、そいつがそのことを隠す気が全くないことも分かっていた。そして何よりも、そもそもそいつが一体何者であるのかもはっきりと見知っていたのだ。
恐々と後ろを振り返ると、ここから十数メートル離れた程度の位置、程よく隠れられそうな草木の陰に、一人の女の子の姿があった。黒く淀んだ双眸で、彼女は地縛霊のような佇まいで俺のことを見据えていた。
俺じゃなくても、ちょっとゾッとするようなシチュエーションではないだろうか。
もっとも、彼女は幽霊でも何でもなくて、ただのストーカー女ではあったのだけれども。そして、いくら怖いシチュエーションでも、何度も繰り返されれば慣れてもくる。もっとも、臆病だったこの頃の俺にとってはそれでも十二分に恐怖を感じさせる状況ではあったのだが。
そいつは俺の眼を見据え続ける。感情を感じられない目で、身動きも取らずに。
俺は背筋をジワジワと上って来るような恐怖を感じてはいたのだが、視線を逸らしたり逃げ出すことは出来なかった。心臓が鋭く高鳴り、意識は白んでいく。
やがて彼女はふいっと背中を見せ、ゆっくりと闇に溶けていくように去っていった。彼女が去ると、白んでいた意識がハッと元に戻り、その場にへたり込んだ。右手に持つコーンポタージュは、まだ熱いくらいの熱を放っていた。
十月下旬という冬の入り口のような時期。最低気温も知らずに薄着にしてしまった俺は、少しばかり肌寒さを感じる。しかしそれ以上に、普段はうるさいくらいに話しかけてくる晴香がムッツリと黙り込んでいることの方がよっぽど堪えた。飴は途中で噛んでしまって、奥歯の隙間には作り物のオレンジの強くて粘っこい甘みばかりが嫌味に残ったていた。
こうして待ち合わせた俺たちが向かうのは、住宅街にある公園だといつも決まっていたし、そこで星を眺めることも決まっていた。
とはいってもごく一般的な市民公園ではなく、小さな森や丘があるような、ちょっとした自然公園の体をなしている公園だ。桜の名所としても知られていて、花見の季節になると沢山の人々が訪れる。
結局、俺たちは公園の入り口に着くまでずっと無言だった。
公園は山の上にあり、公園に行くには階段を上っていく必要がある。
彼女は一度こちらを振り返り、複雑な、敢えて言葉にするならば歯がゆそうな表情で一瞥した後、何も言うことなく階段を駆け上がって行った。仕方がないので、俺も黙ってその後ろについていく。
聞いた話によると、この公園の山は東京でも一・二位を争うくらいに標高が低いらしい。実際、大の大人がこの山を登ろうとしたら五分もかからずに頂上まで辿り着くことだろう。それでも山を登っていることに変わりはなく、小学生の低学年にとってはちょっと疲れるような立地ではある。普通に歩いて登る分には問題ないのだが、流石に小学校低学年の女の子が駆け上がっていくともなると厳しいものがあった。現にその日も、半分に差しかかった辺りで息を切らし、欄干に寄りかかって立ち止まってしまった。心配になった俺は、少し迷った後に駆けよろうと思ったのだが、その前に再び、振り返りもせずに駆け上がって行ってしまった。
間もなく、俺たちは公園に辿り着いた。流石にこの時間ともなると人の姿もあまりなく、物寂しい印象を受けた。一応外灯はあるのだが光は弱々しくて薄暗い。公園に植えられている木々がこの場合、返って気味の悪い雰囲気を作り出してしまっていた。空を見上げると、群青色だった空はほとんど闇夜のそれに変わっていて、まばらに散らばる星々が瞬いていた。
先に到着していた晴香は中腰になり、ハアハアと荒い息をあげている。冷たい風が吹いている中で、晴香の額には汗がにじんでいた。
「はい、ハンカチ」
見かねた俺はポケットから取り出したハンカチを晴香に差し出した。
「…………」
晴香はそんな俺のことをジロリっと見つめてくる。そんな晴香が怖くなった俺は、思わず後ずさりをしてしまった。
しかし晴香はすぐにハッとした表情になり、それから苦笑いのそれになった。
「うん、ありがとう」
ハンカチを受けとった時の晴香の微笑みは、少し照れくさそうに見えた。まるで、作文の中にちょっとおかしな誤字があることを友人に指摘された時に浮かべるようなそれのように。
一息つくと、俺たちはいつもの丘へと向かう。特に何かを喋った訳ではなかったが、晴香の表情はいつもの穏やかな笑顔のものになっていた。
そこは、俺たちが星を眺める時にいつも腰掛ける場所なのである。階段を上った後、ずっと左手を歩き、遊具が置かれている児童エリアを抜けた先にその目的の丘はある。
この丘周辺の空間を一言で言い表すと、ビリヤードのポケットと言ったところだろうか。
公園の木々がうずたかい丘を遠巻きに囲むようにして半円を描いて生えわたっており、それが結果としてこの丘をちょっとした広場のような空間にしているのである。もし今の時刻が朝なら、太陽の光がスポットライトのように降り注ぐステージのような空間になったのだろうが、今は夜空に浮かぶ星々を映り出すプラネタリウムのような空間になっているのだった。
俺はランドセルからタオルを取り出し、それを地面に敷く。余り大きくはないタオルだが、小学生二人くらいなら無理なく座れる程度の大きさはあった。晴香は「ありがとう」とお礼を言うと、そこに腰を下ろした。俺もその隣に座り、晴香に習って空を見上げた。星の瞬く夜空は、いつもと変わらず美しかった。
一見すると何ともロマンチックな風景なのだろうが、実際のところはどうだっただろうか。
確かに晴香はとても楽しそうだったし、俺としても晴香といること自体はとても楽しかった。しかし、少なくとも当時は夜空の星を見ることはそんなに言うほど楽しくもなかったのだ。
そもそも、ごく一般的な小学校低学年の男の子にとって、劇的に変化する訳でもない夜空をずっと座って眺めることは、そんなに楽しいものでもないのだ。俺というか、普通の小学三年生の男の子からしたら、女の子と夜空を見上げるロマンよりも、肌寒い中でジッとしている窮屈さの方が問題だろう。しかし、そんな風に思っていることが晴香にばれた日には、とてつもない怒りを呼び込みそうだったので黙っていた。
「なにか、あったかい飲みもの買ってくるよ」
だからこの一言も、先ほどの汗が乾いて少し寒そうにしている晴香を心配してというより、何かしらの口実を作って少しでも身体を動かすことにあった。無性に温かいココアを飲みたくなってきた、というのもあったのだけれども。
「おごってくれるの?」
「そ、それはムリだけど……」
「いいじゃん、おごってよー、てるくんのカイショーなしー」
「ごめん……そこまでお金ないし……」
すっかり真に受けてションボリとした俺であったが、晴香はバカだねえと言わんばかりにクツクツと笑った。
「えへへ、ジョーダンだよー。わたし、コーンポタージュね」
「う、うん。わかった」
俺はお金を受け取ると、とっとと自販機へと向かって駆けていったのだった。
自販機は、児童コーナー内の売店のすぐそばにある。この売店は大変オンボロで、俺の知る限りではずっと閉まりっぱなしだった。
自販機から出て来たコーンポタージュを手にとり、自分の分のココアを買おうとしたその時、ふと左手からかすかな足音が聞こえた気がして、俺は瞬間的にビクンと身体を震わせた。
実はこれは、「気がした」だなんて曖昧な感覚ではなく、はっきりとした確信だった。
ここ最近、俺のことを付け回している人間がいることは知っていたし、そいつがそのことを隠す気が全くないことも分かっていた。そして何よりも、そもそもそいつが一体何者であるのかもはっきりと見知っていたのだ。
恐々と後ろを振り返ると、ここから十数メートル離れた程度の位置、程よく隠れられそうな草木の陰に、一人の女の子の姿があった。黒く淀んだ双眸で、彼女は地縛霊のような佇まいで俺のことを見据えていた。
俺じゃなくても、ちょっとゾッとするようなシチュエーションではないだろうか。
もっとも、彼女は幽霊でも何でもなくて、ただのストーカー女ではあったのだけれども。そして、いくら怖いシチュエーションでも、何度も繰り返されれば慣れてもくる。もっとも、臆病だったこの頃の俺にとってはそれでも十二分に恐怖を感じさせる状況ではあったのだが。
そいつは俺の眼を見据え続ける。感情を感じられない目で、身動きも取らずに。
俺は背筋をジワジワと上って来るような恐怖を感じてはいたのだが、視線を逸らしたり逃げ出すことは出来なかった。心臓が鋭く高鳴り、意識は白んでいく。
やがて彼女はふいっと背中を見せ、ゆっくりと闇に溶けていくように去っていった。彼女が去ると、白んでいた意識がハッと元に戻り、その場にへたり込んだ。右手に持つコーンポタージュは、まだ熱いくらいの熱を放っていた。
俺はこのストーカー女が糸杉菊花(いとすぎ・きっか)であることを知っていたし、俺と同じいじめられっ子であることも知っていた。何故なら俺と糸杉は列記としたクラスメイト同士で、いじめられっ子同士ならではのちょっとした因縁もあったからである。
簡単に言ってしまえば、その因縁は俺が糸杉に告白したというものである。もちろん自発的なものではなく、いじめっ子に無理やりやらされたものだったが。
茶番の告白であることを知らなかったはずの糸杉の返事は曖昧で、その場はあやふやな感じで終わってしまったのだが、その日から彼女は俺のことを付け回すようになったのだ。
先述の通り、糸杉は俺を付け回していることを隠す様子は全く見せない。そして何かしらのきっかけで俺が振り返って目が合うと、彼女は黒く淀んだ目で俺をしばらく見据え、やがて何事もなかったかのように去っていく。
少なくともこの時の俺には、一体なんで糸杉がこんなことをするのかさっぱり分からなかった。しかし一つだけ言えたのは、俺は彼女の目に慄き、そしてそれによってその当時の俺の心底にあった恐怖が、死者が墓場から這い上がるように浮かび上がってきたという事実である。
一言で言ってしまえば、この頃の俺は人が怖かったのだ。イジメの原因になったウジウジした性格を形成した原因のほぼ全てがこれにあったと言っても過言ではない。
俺は先ほどの、こちらを見据えていた糸杉の相貌を思い出す。黒く淀んだ瞳――人形のように感情の見えない表情。糸杉の場合に特に顕著だったことは事実だが――赤の他人、近所の住民、教師、生徒、両親――とにかくほぼ全ての人間の顔の表情が分からなかったのである。良く分からない内に喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりしている、表情のない人形に取り囲まれて生きていた、とでも表現すればこの頃の俺の恐怖が少しでも伝わるだろうか。
自慢でも何でもないが、この頃の俺だって勉強や運動は人一倍出来たのだ。傍から見れば、いつもテストで90点以上を取ったり徒競走で一番を取っていたような子どもが、何でこんなにも脅えなければならないのか理解出来なかったことだろう。そういう一面を嫌味に感じてイジメに加わった奴までいる始末だ。流行だってそこそこには追いかけていて、そんなに言うほど浮世離れしていたわけでもないのだ。
しかし俺から言わせて貰えれば、そんなものは人形の中で囲まれて生きることには何の役にもたたないのだ。
例えばある日の休み時間。一人で寝た振りをしているところを突然話しかけられ、顔を上げてみたらそこには表情の分からないクラスメイトという人形が立っていて、こちらに何か話しかけてくる。それで俺が混乱しているのを知ってか知らずか、彼らは好き勝手に話し出し、ケタケタと笑ったりザワザワと怒りだす。そんな時に、学力や運動神経や流行の知識が一体何の役に立つというのだろうか。
だからこの時も、俺は怖くて仕方がなかった。俺に逃げる場所なんてありはしないのだ。俺にとっては家族でさえ人形で、それ故に自分の家さえ決して安息の場所ではなかったのだ。
俺は自分の分のココアを買うことなどすっかり忘れて、フラフラとした足取りで晴香の下へと戻っていく。丘の上で星を眺める晴香のことを見て安堵すると同時に、それ故にと言ってもいい不安が急激に俺の脳裏に去来する。
全ての人間が人形に見えてしまう俺が、唯一「人間」と感じられる人間は晴香だけだった。彼女だけはいつだって「晴香」という温かい女の子で、可愛らしい女の子として喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりしてみせたのだ。
だけどもし、晴香までが人形になってしまったら? この温かくて優しくて可愛くて大切な晴香までもが人形になってしまったら? 俺はそれを想像する度に、気が狂ってしまいそうなくらいに怖くなってくるのだ。
「あ、てるくん。おかえりー!」
俺が近くにいるのに気づいた晴香がにっこりと微笑みながら、こちらに手を振る。彼女の笑顔は確かに人間の笑顔のはずだった。しかし、今の俺にはそれが本当に人間のものであると心の底から確信出来なかった。俺の脳裏には、こちらを見つめる糸杉の目が浮かび、先ほどまでの晴香の不機嫌が浮かぶ。
「てるくーん? なーにボーっとしてるのー? 早くこっちにおいでよー!」
黙って突っ立っている俺に向けて、晴香が屈託のない笑顔で催促する。俺は言われるがままに晴香の隣へと座った。
「あれ? てるくんのココアは?」
晴香はキョトンと首を傾げる。別に言った訳でもないのに、俺がいつも何を飲んでいるのかを知っている。晴香が人形じゃないのは分かってる、分かっているはずなんだ。
「いや……やっぱりいいやって思ってさ。家帰ったらすぐにご飯だし」
「ふーん……」
頷きはしながらも、晴香は思案顔でこちらの顔を覗き込む。俺はそんな視線から逃れるように夜空を見上げた。相変わらず綺麗だが、何の変哲もない星空だ。
程なくして再び星を見始めた晴香を、俺は横目で眺める。
いつものように、微笑んで、いる、ように見える、人形を思わせ、ないような、気がしないような、人間の笑み、に見せかけ、ているようには到底、見える気がしない、する訳がない、そう思いたくないだけ、だなんてことを思うはずがない――人間のような人形のような、とにかくどっちかには決まっている笑顔。
寒かった。
ここはとても寒くて、震えが止まらなかった。
もし晴香まで人形だった時、一体どうすればいいのだろうか。
人形に囲まれて生きる俺は、果たして真っ当に生きることが出来るだろうか。
分からない、怖い――寒い。
身を縮めて震え上がり、俺の心が闇夜のような黒に染まりかけた。
ふわりと、抱擁のように優しい何かが俺の身体を包み込んだのはその時だった。
温かくて、芳しくて、心安らぐ。
それは、晴香の羽織っていたジャケットだった。
「どう、てるくん? あったかい?」
晴香の微笑みは優しかった。
この優しさは、まさに人間が、それもとても温かい人間だけが出せる優しさだった。
震えが止まり、その代わりに心臓がトクンっと高鳴る。黒く染まった俺の心は、まるで曙光に照らされるかのように明るくなっていった。
俺は先ほどまで、こんなにも優しくて温かい晴香のことを、人形ではないかと深く疑ってしまっていたのである。
「ご、ごめ」
「てるくん」
俺の言葉を制するように、晴香はすうっと俺に顔を寄せる。
「わたしはね、自分が好きでてるくんといっしょにいるんだよ」
真っ直ぐに心のこもった晴香の目。
「だから、おねがいだから、ごめんねなんて言わないで。そうやっててるくんにあやまられたら、わたしすっごい悲しいよ」
「大島さ……」
「晴香!」
晴香が怒ったように大きな声で叫ぶ。
「わたしは晴香だよ! たしかにわたしは大島さんだけど、てるくんには晴香ってよんでほしいの! わたしの名前をよんでほしいの!」
「…………」
「ねえ、なんでわたしのこと晴香ってよんでくれないの? なんでそんなにこわがるの? いったいなにがそんなにこわいの?」
「…………」
「てるくん……わたしは、こわくないよ?」
晴香の瞳は悲しみに揺れていた。
分かっているんだ、と俺は思う。晴香が怖くないことは分かっているんだ。それでも、人形は怖い。時折、頭の中をよぎる晴香が人形であるという可能性があまりにも残酷過ぎて、俺は晴香でさえも疑いの対象にしてしまうのだ。
「それに……ごめんねはわたしのほうだよ」
晴香はフッと苦い笑みを浮かべる。
「今日、学校でてるくんにあやまられたときすっごくかなしかったんだ。悲しくて、なさけなくって、くやしくって……こんな思いをしないためには、もっともっとしっかりしなきゃいけないんだって思って……だから、たしかに今日のわたし、とってもこわかったと思う」
「…………」
「だから、今日はごめんね。わたし、少しムリしちゃった」
無理して愛嬌を出すように、晴香はペロリと舌を出す。明らかに強がっている晴香が、というよりはそれをさせている自分自身の心が痛すぎて、俺は奥歯を強く噛み締めた。
「わたし、もっとつよくなるから。てるくんが悲しい思いをしないでいいように、もっともっとつよくなるから」
――違うよ。晴香がつよくならなきゃいけないなんて、そんなの違うよ。
俺はそう言葉にしようとしたが、実際にはその言葉は出てこなかった。今の自分では薄っぺらな言葉にしからならないということを、その時の俺にも分かっていたのだ。
だから、晴香の言葉には何も答えなかった。何も答えることなくただ星空を見上げる。
だけどそれでも、俺はなんとかこれだけは言うことが出来た。
「……う、上着、すごくあったかいよ……は、晴香……ありが……とっ……」
ボソボソとしていて、つっかえつっかえになってしまった言葉。終いには、恥ずかしさに耐えかねて消え入るようになってしまった。
それでも、晴香は俺の言葉を聞いてくれていたのだった。
「うん。どういたしまして、てるくん」
そういって浮かべるのは最高の微笑み。
俺は、自分なりに晴香に言葉を伝えられて良かったと心の底から思った。
晴香だけは、何があっても間違いなく人間でいてくれると信じようと思った。
俺が晴香のことを信じている限り、晴香はきっと人間でい続けてくれるのだろうと思った。
そして出来ることならば、人形への恐怖に打ち勝てたならば、今度は晴香のことを守ってあげられる人間になりたいと思った。
夜空にはいつもと変わる事のない星々が、いつもと変わることなく美しく瞬いていた。
まるで晴香の笑顔みたいだとそんなことを思い、俺は一人で笑顔を浮かべていた。
簡単に言ってしまえば、その因縁は俺が糸杉に告白したというものである。もちろん自発的なものではなく、いじめっ子に無理やりやらされたものだったが。
茶番の告白であることを知らなかったはずの糸杉の返事は曖昧で、その場はあやふやな感じで終わってしまったのだが、その日から彼女は俺のことを付け回すようになったのだ。
先述の通り、糸杉は俺を付け回していることを隠す様子は全く見せない。そして何かしらのきっかけで俺が振り返って目が合うと、彼女は黒く淀んだ目で俺をしばらく見据え、やがて何事もなかったかのように去っていく。
少なくともこの時の俺には、一体なんで糸杉がこんなことをするのかさっぱり分からなかった。しかし一つだけ言えたのは、俺は彼女の目に慄き、そしてそれによってその当時の俺の心底にあった恐怖が、死者が墓場から這い上がるように浮かび上がってきたという事実である。
一言で言ってしまえば、この頃の俺は人が怖かったのだ。イジメの原因になったウジウジした性格を形成した原因のほぼ全てがこれにあったと言っても過言ではない。
俺は先ほどの、こちらを見据えていた糸杉の相貌を思い出す。黒く淀んだ瞳――人形のように感情の見えない表情。糸杉の場合に特に顕著だったことは事実だが――赤の他人、近所の住民、教師、生徒、両親――とにかくほぼ全ての人間の顔の表情が分からなかったのである。良く分からない内に喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりしている、表情のない人形に取り囲まれて生きていた、とでも表現すればこの頃の俺の恐怖が少しでも伝わるだろうか。
自慢でも何でもないが、この頃の俺だって勉強や運動は人一倍出来たのだ。傍から見れば、いつもテストで90点以上を取ったり徒競走で一番を取っていたような子どもが、何でこんなにも脅えなければならないのか理解出来なかったことだろう。そういう一面を嫌味に感じてイジメに加わった奴までいる始末だ。流行だってそこそこには追いかけていて、そんなに言うほど浮世離れしていたわけでもないのだ。
しかし俺から言わせて貰えれば、そんなものは人形の中で囲まれて生きることには何の役にもたたないのだ。
例えばある日の休み時間。一人で寝た振りをしているところを突然話しかけられ、顔を上げてみたらそこには表情の分からないクラスメイトという人形が立っていて、こちらに何か話しかけてくる。それで俺が混乱しているのを知ってか知らずか、彼らは好き勝手に話し出し、ケタケタと笑ったりザワザワと怒りだす。そんな時に、学力や運動神経や流行の知識が一体何の役に立つというのだろうか。
だからこの時も、俺は怖くて仕方がなかった。俺に逃げる場所なんてありはしないのだ。俺にとっては家族でさえ人形で、それ故に自分の家さえ決して安息の場所ではなかったのだ。
俺は自分の分のココアを買うことなどすっかり忘れて、フラフラとした足取りで晴香の下へと戻っていく。丘の上で星を眺める晴香のことを見て安堵すると同時に、それ故にと言ってもいい不安が急激に俺の脳裏に去来する。
全ての人間が人形に見えてしまう俺が、唯一「人間」と感じられる人間は晴香だけだった。彼女だけはいつだって「晴香」という温かい女の子で、可愛らしい女の子として喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりしてみせたのだ。
だけどもし、晴香までが人形になってしまったら? この温かくて優しくて可愛くて大切な晴香までもが人形になってしまったら? 俺はそれを想像する度に、気が狂ってしまいそうなくらいに怖くなってくるのだ。
「あ、てるくん。おかえりー!」
俺が近くにいるのに気づいた晴香がにっこりと微笑みながら、こちらに手を振る。彼女の笑顔は確かに人間の笑顔のはずだった。しかし、今の俺にはそれが本当に人間のものであると心の底から確信出来なかった。俺の脳裏には、こちらを見つめる糸杉の目が浮かび、先ほどまでの晴香の不機嫌が浮かぶ。
「てるくーん? なーにボーっとしてるのー? 早くこっちにおいでよー!」
黙って突っ立っている俺に向けて、晴香が屈託のない笑顔で催促する。俺は言われるがままに晴香の隣へと座った。
「あれ? てるくんのココアは?」
晴香はキョトンと首を傾げる。別に言った訳でもないのに、俺がいつも何を飲んでいるのかを知っている。晴香が人形じゃないのは分かってる、分かっているはずなんだ。
「いや……やっぱりいいやって思ってさ。家帰ったらすぐにご飯だし」
「ふーん……」
頷きはしながらも、晴香は思案顔でこちらの顔を覗き込む。俺はそんな視線から逃れるように夜空を見上げた。相変わらず綺麗だが、何の変哲もない星空だ。
程なくして再び星を見始めた晴香を、俺は横目で眺める。
いつものように、微笑んで、いる、ように見える、人形を思わせ、ないような、気がしないような、人間の笑み、に見せかけ、ているようには到底、見える気がしない、する訳がない、そう思いたくないだけ、だなんてことを思うはずがない――人間のような人形のような、とにかくどっちかには決まっている笑顔。
寒かった。
ここはとても寒くて、震えが止まらなかった。
もし晴香まで人形だった時、一体どうすればいいのだろうか。
人形に囲まれて生きる俺は、果たして真っ当に生きることが出来るだろうか。
分からない、怖い――寒い。
身を縮めて震え上がり、俺の心が闇夜のような黒に染まりかけた。
ふわりと、抱擁のように優しい何かが俺の身体を包み込んだのはその時だった。
温かくて、芳しくて、心安らぐ。
それは、晴香の羽織っていたジャケットだった。
「どう、てるくん? あったかい?」
晴香の微笑みは優しかった。
この優しさは、まさに人間が、それもとても温かい人間だけが出せる優しさだった。
震えが止まり、その代わりに心臓がトクンっと高鳴る。黒く染まった俺の心は、まるで曙光に照らされるかのように明るくなっていった。
俺は先ほどまで、こんなにも優しくて温かい晴香のことを、人形ではないかと深く疑ってしまっていたのである。
「ご、ごめ」
「てるくん」
俺の言葉を制するように、晴香はすうっと俺に顔を寄せる。
「わたしはね、自分が好きでてるくんといっしょにいるんだよ」
真っ直ぐに心のこもった晴香の目。
「だから、おねがいだから、ごめんねなんて言わないで。そうやっててるくんにあやまられたら、わたしすっごい悲しいよ」
「大島さ……」
「晴香!」
晴香が怒ったように大きな声で叫ぶ。
「わたしは晴香だよ! たしかにわたしは大島さんだけど、てるくんには晴香ってよんでほしいの! わたしの名前をよんでほしいの!」
「…………」
「ねえ、なんでわたしのこと晴香ってよんでくれないの? なんでそんなにこわがるの? いったいなにがそんなにこわいの?」
「…………」
「てるくん……わたしは、こわくないよ?」
晴香の瞳は悲しみに揺れていた。
分かっているんだ、と俺は思う。晴香が怖くないことは分かっているんだ。それでも、人形は怖い。時折、頭の中をよぎる晴香が人形であるという可能性があまりにも残酷過ぎて、俺は晴香でさえも疑いの対象にしてしまうのだ。
「それに……ごめんねはわたしのほうだよ」
晴香はフッと苦い笑みを浮かべる。
「今日、学校でてるくんにあやまられたときすっごくかなしかったんだ。悲しくて、なさけなくって、くやしくって……こんな思いをしないためには、もっともっとしっかりしなきゃいけないんだって思って……だから、たしかに今日のわたし、とってもこわかったと思う」
「…………」
「だから、今日はごめんね。わたし、少しムリしちゃった」
無理して愛嬌を出すように、晴香はペロリと舌を出す。明らかに強がっている晴香が、というよりはそれをさせている自分自身の心が痛すぎて、俺は奥歯を強く噛み締めた。
「わたし、もっとつよくなるから。てるくんが悲しい思いをしないでいいように、もっともっとつよくなるから」
――違うよ。晴香がつよくならなきゃいけないなんて、そんなの違うよ。
俺はそう言葉にしようとしたが、実際にはその言葉は出てこなかった。今の自分では薄っぺらな言葉にしからならないということを、その時の俺にも分かっていたのだ。
だから、晴香の言葉には何も答えなかった。何も答えることなくただ星空を見上げる。
だけどそれでも、俺はなんとかこれだけは言うことが出来た。
「……う、上着、すごくあったかいよ……は、晴香……ありが……とっ……」
ボソボソとしていて、つっかえつっかえになってしまった言葉。終いには、恥ずかしさに耐えかねて消え入るようになってしまった。
それでも、晴香は俺の言葉を聞いてくれていたのだった。
「うん。どういたしまして、てるくん」
そういって浮かべるのは最高の微笑み。
俺は、自分なりに晴香に言葉を伝えられて良かったと心の底から思った。
晴香だけは、何があっても間違いなく人間でいてくれると信じようと思った。
俺が晴香のことを信じている限り、晴香はきっと人間でい続けてくれるのだろうと思った。
そして出来ることならば、人形への恐怖に打ち勝てたならば、今度は晴香のことを守ってあげられる人間になりたいと思った。
夜空にはいつもと変わる事のない星々が、いつもと変わることなく美しく瞬いていた。
まるで晴香の笑顔みたいだとそんなことを思い、俺は一人で笑顔を浮かべていた。
顔面をクシャクシャに歪め、醜い嗚咽を漏らしながら、俺は放課後の住宅街を駆けていた。
胸の中には、人形たちに対する押さえがたい悔しさがグルグルと渦巻いている。しかし、俺が実際にしていることと言えば、彼らから尻尾を巻いて逃げ出すという醜態だった。
「ううっ……! うううっ……!」
情けない! 情けない! 情けない!
そんな思いで胸が張り裂けそうになっても、俺は弱虫の嗚咽を止めることは出来ない。
どうしても我慢ならないことが起こったのだ。
別に、俺が何か特別に酷いことを言われたわけではない。クラスメイトという名の人形に囲まれて、そいつらに良いように笑われたり馬鹿にされるのはいつものことだ。
しかし、その日はよりにもよって晴香のことを馬鹿にされたのである。
――お前、ホンットにいつも大島にべったりくっついてるよなー!
――そうそう! ヨーチエンがか母ちゃんにすがりつくみたいにさー! 大島のおっぱいがほしいならガッコーくんじゃねーよ!
――つーかあいつブスじゃね? いちいち大きい声だしたりムダにがんばったり、見ててうざってーんだよな!
――あーそういやさっ! 女子たちがすげーバカにしてたぜ! いっつもうじユキのそばにくっついててきもちわるいってさー!
――だよなー! あいついっつも笑ってっけど、ひょっとしてかわいいつもりでいんのか? ――さいきんあいつの笑ってるところ見ると、身体にうじがわいてくるんだよなー! うじユキなだけによー!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
人形たちの下品な嘲笑が八方から飛んでくる。いつもの光景。ただ一つ、自分にとって掛け替えのない女の子を馬鹿にされているということを除いて。
もちろん俺は全身が震えるくらいに腹立たしかったが、それ以上に全身が固まってしまうくらいに怖かった。だから俺は、負け犬のように逃げ出すことしか出来なかった。せめて彼らの前ではと堪えていた涙も、今は赤子のように垂れ流すばかりだ。
俺はこの惨めな姿を、何が何でも晴香に見られる訳にはいかなかった。こんな姿を見られるくらいなら、本当に死んだほうがマシだった。
今、俺の脳裏に浮かぶのは、晴香の問いかけに対して、「あまり楽しくなかった」と答えた時に浮かべる、とても悲しそうな笑顔だった。
家に着くなり二階の自室へと駆け上がり、布団の中へと潜り込む。母親の呼ぶ声が聞こえてきたが、そんなことに構わず、「うぅ! うぅ!」とうめき声のような嗚咽を漏らし続けた。
「ねえ、一体どうしたっていうのよ?」
たまりかねた様子の母が部屋の中にに入ってきたが、俺はそんなことに構うことなく布団の中で泣き続けた。
「また学校で何かあったの?」
「うぅ! うぅ!」
「どこか殴られたりしてない?」
「うぅ! うぅ!」
「何か酷いことでも言われたの?」
「うぅ! うぅ!」
「ほらほら、何かおやつでも作ってあげるからもう泣かないの、ね?」
「うぅ! うぅ!」
「……ねえ、一体何があったのよ? 話してくれなきゃ、私だって分からないわよ?」
「うぅ! うぅ! うぅ! うぅ!」
こんな感じにしばらく、問答にすらなっていない不毛なディスコミュニケーションが続く。話をしたところでどうにかなるなんて全く思えなかったし、そもそも話なんてしたくなかった。ただ、晴香を馬鹿にされたにも関わらず、人形の恐怖に押しつぶされて何も出来なかった自分自身に絶望し、それでいて未だに脅えているが故に泣き続けた。
突然、暴力的な力によって腕が引っ張られ、布団が母親に取り上げられてしまう。俺はその勢いでベットの上に前のめりにつんのめって倒れた。
震える身体で、佇む母を見上げる。
「もう、いい加減にしなさい! そうやって泣いてばかりじゃ何も分からないでしょ! みっともない!」
そう怒鳴る母も、言うまでもなく人形の一体だった。
瞬間、俺は猿のような悲鳴をあげ、手にとった枕で母親に殴りかかった。
予想していなかったであろう行動にたじろぐ母親に向かって、爆発的に湧き上がってきた怒り、あるいは怯えの感情の赴くまま、遮二無二に殴り続ける。枕がすっぽ抜けてどこかに飛んでいくと、さらに手近に落ちていた本やらおもちゃやら筆記用具やらを手当たり次第に投げつけた。そして俺がはさみを投げつけた辺りで、母親は逃げるようにして部屋から出て行った。
俺は再び布団の中に潜り、絶対にここから出て行かないぞという決意をいよいよ固くした。
その後、夕食の席に呼ばれ、風呂に入るように言われたものの、俺はあらゆる呼びかけに断固として応じなかった。
一度、痺れを切らした様子の父親が部屋の中に入ってきて無理やり引きずり出そうとしたものの、俺はやはり徹底的に抵抗した。モノを投げつけ、殴りかかり、終いには掴みかかってきた腕に思い切り噛み付いた。
母親がそうであったように、父親だって人形だった。むしろ、母親なんかよりもよっぽど人形的な人形だった。そんな奴の呼びかけになんて応じるはずがないのだ。
やがて呼びかけの言葉もなくなり、暗闇に覆われた時間だけが無為に流れる。
腹は減り、汗もかき、心が弱り続ける。
布団の中は温かくて安心感があった。ここにいれば、全ての人形からから守られるような気がした。
それでいて真っ暗でただひたすらに不毛だった。ここにいると、決してどこにも行き着きはしないような気がした。
まるでここは、世界の終わりのようだった。
胸の中には、人形たちに対する押さえがたい悔しさがグルグルと渦巻いている。しかし、俺が実際にしていることと言えば、彼らから尻尾を巻いて逃げ出すという醜態だった。
「ううっ……! うううっ……!」
情けない! 情けない! 情けない!
そんな思いで胸が張り裂けそうになっても、俺は弱虫の嗚咽を止めることは出来ない。
どうしても我慢ならないことが起こったのだ。
別に、俺が何か特別に酷いことを言われたわけではない。クラスメイトという名の人形に囲まれて、そいつらに良いように笑われたり馬鹿にされるのはいつものことだ。
しかし、その日はよりにもよって晴香のことを馬鹿にされたのである。
――お前、ホンットにいつも大島にべったりくっついてるよなー!
――そうそう! ヨーチエンがか母ちゃんにすがりつくみたいにさー! 大島のおっぱいがほしいならガッコーくんじゃねーよ!
――つーかあいつブスじゃね? いちいち大きい声だしたりムダにがんばったり、見ててうざってーんだよな!
――あーそういやさっ! 女子たちがすげーバカにしてたぜ! いっつもうじユキのそばにくっついててきもちわるいってさー!
――だよなー! あいついっつも笑ってっけど、ひょっとしてかわいいつもりでいんのか? ――さいきんあいつの笑ってるところ見ると、身体にうじがわいてくるんだよなー! うじユキなだけによー!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
人形たちの下品な嘲笑が八方から飛んでくる。いつもの光景。ただ一つ、自分にとって掛け替えのない女の子を馬鹿にされているということを除いて。
もちろん俺は全身が震えるくらいに腹立たしかったが、それ以上に全身が固まってしまうくらいに怖かった。だから俺は、負け犬のように逃げ出すことしか出来なかった。せめて彼らの前ではと堪えていた涙も、今は赤子のように垂れ流すばかりだ。
俺はこの惨めな姿を、何が何でも晴香に見られる訳にはいかなかった。こんな姿を見られるくらいなら、本当に死んだほうがマシだった。
今、俺の脳裏に浮かぶのは、晴香の問いかけに対して、「あまり楽しくなかった」と答えた時に浮かべる、とても悲しそうな笑顔だった。
家に着くなり二階の自室へと駆け上がり、布団の中へと潜り込む。母親の呼ぶ声が聞こえてきたが、そんなことに構わず、「うぅ! うぅ!」とうめき声のような嗚咽を漏らし続けた。
「ねえ、一体どうしたっていうのよ?」
たまりかねた様子の母が部屋の中にに入ってきたが、俺はそんなことに構うことなく布団の中で泣き続けた。
「また学校で何かあったの?」
「うぅ! うぅ!」
「どこか殴られたりしてない?」
「うぅ! うぅ!」
「何か酷いことでも言われたの?」
「うぅ! うぅ!」
「ほらほら、何かおやつでも作ってあげるからもう泣かないの、ね?」
「うぅ! うぅ!」
「……ねえ、一体何があったのよ? 話してくれなきゃ、私だって分からないわよ?」
「うぅ! うぅ! うぅ! うぅ!」
こんな感じにしばらく、問答にすらなっていない不毛なディスコミュニケーションが続く。話をしたところでどうにかなるなんて全く思えなかったし、そもそも話なんてしたくなかった。ただ、晴香を馬鹿にされたにも関わらず、人形の恐怖に押しつぶされて何も出来なかった自分自身に絶望し、それでいて未だに脅えているが故に泣き続けた。
突然、暴力的な力によって腕が引っ張られ、布団が母親に取り上げられてしまう。俺はその勢いでベットの上に前のめりにつんのめって倒れた。
震える身体で、佇む母を見上げる。
「もう、いい加減にしなさい! そうやって泣いてばかりじゃ何も分からないでしょ! みっともない!」
そう怒鳴る母も、言うまでもなく人形の一体だった。
瞬間、俺は猿のような悲鳴をあげ、手にとった枕で母親に殴りかかった。
予想していなかったであろう行動にたじろぐ母親に向かって、爆発的に湧き上がってきた怒り、あるいは怯えの感情の赴くまま、遮二無二に殴り続ける。枕がすっぽ抜けてどこかに飛んでいくと、さらに手近に落ちていた本やらおもちゃやら筆記用具やらを手当たり次第に投げつけた。そして俺がはさみを投げつけた辺りで、母親は逃げるようにして部屋から出て行った。
俺は再び布団の中に潜り、絶対にここから出て行かないぞという決意をいよいよ固くした。
その後、夕食の席に呼ばれ、風呂に入るように言われたものの、俺はあらゆる呼びかけに断固として応じなかった。
一度、痺れを切らした様子の父親が部屋の中に入ってきて無理やり引きずり出そうとしたものの、俺はやはり徹底的に抵抗した。モノを投げつけ、殴りかかり、終いには掴みかかってきた腕に思い切り噛み付いた。
母親がそうであったように、父親だって人形だった。むしろ、母親なんかよりもよっぽど人形的な人形だった。そんな奴の呼びかけになんて応じるはずがないのだ。
やがて呼びかけの言葉もなくなり、暗闇に覆われた時間だけが無為に流れる。
腹は減り、汗もかき、心が弱り続ける。
布団の中は温かくて安心感があった。ここにいれば、全ての人形からから守られるような気がした。
それでいて真っ暗でただひたすらに不毛だった。ここにいると、決してどこにも行き着きはしないような気がした。
まるでここは、世界の終わりのようだった。
ウトウトとまどろんでいる内に雀の鳴き声が聞こえてきて、いつの間にか朝を迎えていたことをボンヤリとした意識で感じ取った。
俺としては寝るつもりは全くなかったのだが、自分の意識しない内に深い眠りについていたようだ。深く眠ったはずなのに、身体はたっぷり泥に浸かったかのように重い。
しばらく布団の中で呆然としていると、ノックの音と共に母親の声が聞こえてくる。いつものそれと比べて、その声は不自然なまでに優しかった。
「今日は、学校行く?」
控えめに扉を開けて顔を覗かせた母が訊ねてくる。俺は黙って、重たい首を横に振った。
「お腹すいてない? 朝ごはん作ったけど、下に降りて来る?」
俺は再び首を横に振る。
母はため息をつくと、いかにも憂鬱そうに言う。
「……取りあえず、シャワーだけでも浴びなさい、ね? 昨日からお風呂にも入らないでずっと布団に潜りっぱなしじゃ、汗とかかいていい加減気持ち悪いでしょ?」
そこで始めて、自分がいかに汗まみれであるかを自覚した。言われるまではさほど気にならなかったのだが、べたつく肌とムッとするような臭いが急激に気持ち悪くなってきた。
仕方なく俺はベットからのそりと起き上がると、浴室のある階下へと降りていった。
一日ぶりに浴びる熱いシャワーはとても気持ちよかったが、改めて自分の惨めさが身に染みてくるようだった。結局のところ、どれほど意地を張って閉じこもってみたところで、汗のべたつきが気持ち悪ければ外に出てシャワーを浴びるしかないのだ。
「着替え、カゴの中に入れておくから」
室外から聞こえてくる母の声。
シャワーを終えて、着替えようと思ったのだが、その時カゴの中に入っていた着替えを見た俺は無気力にため息をついた。
まるで俺の気分そのものを表すような、くすんだグレー色のパジャマ。
俺は苦々しい思いでそれに着替えた。
ねえ、朝ごはんは食べないの? という母親の呼び声を無視して二階へと上がろうとした、その時だった。
――てるくーん、おはよー! 今日もげんきにがっこーいこー!
家の中まで聞こえてくる、女の子の一生懸命な呼びかけの声。
晴香だった。呆れかえるほどに晴香だった。
一番焦がれていた癖に、一番聞きたくなかった声が聞こえてきた。
俺は思わず階段を上っていた足を止めて、玄関の方へと振り返る。母もその声を聞きつけたらしく、俺の方へとやってきた。
「……会いたくないなら、私の方から先に行くように言っておくけど?」
俺はそうしてくれと言うつもりだった。しかしそれを言葉にしようとしても異様に重たい口は全く動いてくれず、せいぜい「あぁ……」だとか「うぅ……」などといった呻き声のなりそこないな声しか出て来なかった。
相変わらず外からは、「おーい! てるくーん!」という声が聞こえてくる。思わず当てつけかと勘ぐってしまうくらいには大きな声。
――いいかげんにしろよ……!
恥ずかしくなったり情けなくなったりを通り越して、だんだんと腹立たしくなってきた。
「ねえ、どうするの? いい加減はるちゃんを待たせちゃ……」
俺はにわかに踵を返し、玄関へと向かっていく。戸惑う母を尻目に鍵を開け、わざと乱暴に扉を開いた。玄関のベルが慌しく鳴り響く中、俺は扉の前に立つ晴香のことを睨みつける。背後では、ドタドタと母親が近づいてくる音が鳴り響いていた。
晴香は少しの間びっくりしたような表情を浮かべていたが、やがて俺と目が合うといかにも嬉しそうな笑顔を浮かべた。
笑顔。
間違いなくそれは、幾度もなく俺を救ってくれた、人間の、それも至上の笑顔だった。
「えへへ、おっはよーてるくん! 今日もげんきにがっこーのおじかんですよー!」
天真爛漫を絵に描いたような、晴香のふわふわとしたあいさつ。
しかし俺は何も言うことなく、ただ怒気を孕んだ目つきで晴香を見据えていた。
「あれ? そういえばてるくん、まだパジャマだけど、着がえた方がいいんじゃない?」
俺の様子を知ってか知らずか、能天気なことを晴香は言う。これも当てつけなのだろうか。そんな思いが頭をもたげた俺は、いつの間にか拳を強く握り締めていた。
「あっ! さてはてるくん、今日はおねぼーさんでしょ? だから寝ぼけてパジャマ姿で出てきたんじゃ……」
「うるさいなあ……!」
まるで威嚇する蛇のように低い声だった。
晴香はやっと俺の様子に気づいたよう(今思えば、気づいていない振りをしていただけなのかも知れない)に目を丸くする。
「寝ぼうじゃないよ。もういっしょー学校にいかないんだよ」
最初、晴香は俺が何を言っているのかが理解できなかったのだろう。目を丸くしたまま固まって、俺の顔をマジマジと見つめていたから。
しかし晴香は、このままスゴスゴと引き返すような女の子ではなかった。
「……ねえ、学校でなにかあったの?」
晴香は俺に全く動じることなく、真っ直ぐにこちらの目を見つめながら問いかける。
俺は晴香の静かに力強い視線に思わずたじろぎ、気まずい思いで視線を下に逸らした。
「……いつものことだよ。いつもみたいに、また学校でみんなにイジメられたんだよ」
「でも、それでも学校行ってたじゃん」
「いままでの話だろ? でも今日からはもうちがうんだよ。もう分かったんだよ、ボクなんて学校にいかない方がいいんだって」
「なんで? そんなことだれが言ったの? てるくんはショーガクセイなんだからガッコーに行っていいんだよ?」
「……うるさいなあ! だからみんなだって言ってるだろっ! とにかく、ボクはもうぜったいにガッコーにいかないんだから、もうボクにかまうなよなっ!」
「待っててるくん! にげちゃだめっ!」
家の中へと引き返そうとした俺の背中に、声を張り上げて叫ぶ晴香の声が響く。俺は思わず立ち止まり、振り返らずにはいられなかった。
「ねえ、学校でどんなこと言われたの? おねがいだから、それを話してみてよ! そうやっておうちに閉じこもったら、だれもはるくんの言うことを聞いてくれないんだよ!」
俺は何も答えることなく、晴香のことを睨みつける。本当は何も言うつもりもなかったし、そもそも振り返るつもりもなかった。しかし、晴香の声を聞いた俺はどうしても立ち止まらずにはいられなかったのだ。
いい加減にして欲しかった。
晴香はいつだって付きまとうようなしつこさで、俺なんかの為に真摯に付き添うのだ。そのせいで俺が一体どれほど惨めな思いを味わったか、そのせいで一体どれほど晴香が悲しい思いをしてきたか。そしてその挙句が、昨日の人形たちによる晴香への暴言の飛び火だ。これ以上晴香が俺に付きまとったら、暴言どころか今度は晴香が俺と同じ目にあうかもしれないのだ。
全部晴香のせいなのだ。
全部が全部、晴香にこんな辛いことをさせている俺のせいなのだ。
俺は胸の中がグツグツと煮え立つくらいに苛立ち、そして狂おしいまでに悲痛な感情が胸を打った。それは余りにも混沌に満ちた感情のせめぎ合いで、自分という人間が粉々に砕けてなくなってしまいそうなくらいに苦しかった。
――タスケテ! タスケテヨ!
その衝動の余り、俺の口から一つの切実な叫びが出そうになる。しかしそれは、不毛な意地っ張りによって握りつぶされた。
「おまえ、うっとうしいんだよっ!」
その代わりに俺の口から出てきたのは、拒絶の言葉の中でも最低なものだった。
「おまえ、自分が学校でなに言われてるかしってるか? ブスだよ、ブス! いっつも笑ってんのがきもちわるいんだってよっ! いちいち大きい声だしてるのがうざってーんだってよっ! うじゆきのそばにくっついてんのがきもちわるいんだってよっ!」
――ちがう、ちがうんだよ、春香ちゃん!
さっきから、自分の意志とは正反対な言葉がこの口から出てくる。いくら止めよう止めようと思っても、まるでブレーキが壊れたトラックが坂道を転がるかのように留まることがない。
――タスケテ! タスケテヨ!
「分かったかよ! みんながそういうんだよ! だからもうボクにつきまとうなよなっ! メーワクなんだよ! ボクはもう、いっしょー学校になんて……!」
「はるくん、ひょっとして昨日、わたしのことを言われたの?」
図星の一言に思わず怯む。
しかし、そのことが俺の言葉を止めることはなかった。
「うるさいなあ! だったらなんだよ! おまえがブスで、うざくって、きもちわるいのはかわんないだろうが! 何回も言わせんな! ボクはおまえがうっとうしいんだよ!」
「てるくん、ホントウに、そう思ってるの?」
晴香の表情が、いよいよ深刻な悲しみで歪んでいく。晴香の潤んだ瞳が、すがるように俺の目を真っ直ぐに見つめていた。
「正直に言って。ホントウに今まで、わたしのこと、うっとおしいって思ってたの?」
この問いかけこそ、超えてはならない最後の一線を画するものであることは分かっていた。ここでこれ以上晴香を傷つけるようなら、男として死ぬべき人間であることを証明することになるのだということも。
俺はここで「そんなわけないだろうがあ!」と叫ぶべきだったのだ。それが出来ないのならばせめて、この場で泣き崩れながら「たすけてよ!」と叫ぶべきだったのだ。
しかし、この時の俺は酷く混乱し、脅えていた。自分が本当に望んでいることが分からず、人形への、そして晴香への恐怖ばかりがムクムクと膨れ上がっていった。
結局のところ、俺は自分と向き合うことが出来なかったのだ。
手を取って前に進むことも出来なければ、泣き崩れてその場に留まることすら出来なかった。ただ、人形からも晴香からも背を向けて、あの布団の中へと逃げ出したかった。
晴香から逃げ出す。
そう、俺はこの時確かに、晴香の俺に対する真摯さが怖かったのだ。
嫌だった訳でもなければ、うっとおしかった訳でもない。俺が本当に怖かったのは、晴香の思いに応えられず、人形に脅えてばかりの情けない姿を晴香に晒すことだった。そしてそんな姿を見られ、晴香に失望されることだった。
人形たちに囲まれて生きる中、晴香という人間にまで見捨てられたら、俺は一体どうやって生きればいい? 晴香に見捨てられたその瞬間、俺はこの世の終わりのどん底へと永遠に堕ちていくのだ。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい! なんどもなんどもボクに言わせるな!」
だから俺は晴香から逃げ出すことを選んだ。そうすることで、晴香の失望から逃れられると思っていたのだ――そう思い込んでいたのだ。
「ボクなんかにつきまとってるから、おまえはみんなからきもがられるんだよ! わかれよ、おまえはうっとうしいんだよ!」
気がつけば俺は顔を伏せていた。晴香の顔なんて見ていられなかった。これ以上晴香の顔を直視していたら、俺という人間のどうしようもさの余りに、気が狂いそうだったからだ。
「だから、もう二度とボクなんかにかまうなよな! きもいボクにつきまとうおまえは、きもくてうっとうしいんだよ! ボクなんかにつきまとうから! つきまと――」
「……そうだったんだ」
弱々しい声色。
息を飲み、突き動かされるように晴香の顔を見上げると、晴香の表情には微笑が浮かんでいた。しかしそれは、鈍らな刃物で切り裂いて作ったかのような笑顔だった。作為的で痛ましい三日月形の口と、深い悲しみに潤んだ瞳。そんなものを同時に見せ付けられるくらいなら、いっそ憎悪と殺意を同時に向けられた方が幾億倍もマシだった。
「てるくん、わたしのことが、すっごいめいわくだったんだね……」
ちがう、ちがう、ちがう……。
俺は頭の中が真っ暗になりながらも否定しようとするのだが、口はワナワナと強張るばかりで全くもって動いてくれなかった。動く箇所といったら、ひたすらに左右に振られる強張った首ばかりだった。
「ごめんね……今までホントに、ごめんね」
微笑を湛えながらそう言うとと、晴香はしばらく俺の眼を見つめて、クルリと背を向けてゆっくりと去っていった。その背中はずぶ濡れの服を身に着けるかのように重く沈んでいた。
俺の眼を見つめていた晴香の瞳からは、一粒の涙が零れ落ちていた。
俺はただ、何も出来ずに立ち尽くしていた。俺の頭は、真っ黒な霧に覆われていた。
俺の背後から、「雪輝」と俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。応じて振り返ったその瞬間、俺の頬に手の平が飛んできた。パチンッ! という破裂音と共に鋭い痛みが頬を襲う。むずがゆいさを伴う熱と、そこから発せられる痛み。実際のところ、そこまでの威力がある訳ではなかったのだが、俺の冷え切った心には本来の威力以上に鋭く響いた。
「あんたは、本当に情けない子だよ……!」
――うん、そうだね、おかあさん……。
頬を押さえてうなだれながら、そんなことをボンヤリと思う。俺はきっと、全世界から軽蔑されて然るべき人間に成り下がったのだろう、ということも。
「……はるちゃんのこと、追いかけなさい」
俺はすぐに首を振った。ここで追いかけてどうにかなるくらいだったら、最初からこんなことにはなっていないのだ。晴香と共に進むことも留まることも出来なかった俺の一人ぼっちの終着点。それがこの家、俺の部屋のベットの中なのだから。
母親の方も予想がついていのか、「そう」という相槌以外には特に何も言うこともなかった。
「なら、朝ごはんを食べて部屋で寝なさい。ご飯温めるから、ちょっと待ってて」
それだけ言うと、母親はリビングへと向かう。
「……ごめんね。こればっかりはお母さんにも、何も出来ないの」
その途中、母はこちにを振り返り、俺に向かって言った。
「ゆっくり休んで、それから良く考えなさい。本当に、このままでいいのかを」
そう語りかけた母親の顔に、一瞬だけ人間の表情が浮かんだような気がした。俺のことを、息子のことを真剣に案じてくれる、母親の顔。しかし、それが確信に変わるその前に母親は顔を前に戻してリビングに消えていった。
しばらくして、母親に呼ばれた俺はリビングで朝ごはんを食べた。
ご飯に味噌汁にたくあん、おかずには半熟の目玉焼きに焼いた鮭、そしてネギの入った納豆。これ以上はないというくらいに完璧な朝ごはんだった。いつもは学校に行く直前まで登校を拒み、そのことでゴネにゴネていたために、朝ご飯はパン一枚だけなのだ。俺はすっかりお腹が空いていた。リビングでは、一足先に朝食を済ませている父と母の分の食器を洗っている。ここからでは顔が良く見えなかった。
俺はボソリと「いただきます」と呟いてから、味噌汁をすすり、ご飯を食べる。
おいしかった。とんでもなくおいしかった。
ただこれだけで涙が出そうだったのに、この時俺の脳裏には、晴香の笑顔と、いつも俺にくれるパンのことが浮かんでいた。そういえば今日の晴香の左手にも、いつも通りにパンが握られていた。食べる人のいなくなったパンを、果たして晴香はどうしたのだろうか。
――はい、てるくん。これあげるねっ!
「おいしいなあ……」
――どう? おいしい?
「おいしい、なあ……」
――ねーてるくん。そういえば昨日、なにかいいことあった?
「おいしい……おいしい、なあ……」
俺は左の手のひらで眼を覆い、テーブルに崩れた。溢れ出る涙はとどまることを知らず、無様な嗚咽ばかりが喉から漏れ続けていた。
――ごめんね……今までホントに、ごめんね。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
俺は嗚咽しながらひたすらにそればかりを繰り返した。許される訳がないことは分かっていた。それでもそれ以外に、どうしたらいいか分からなかった。
「どうしたの? もうごちそうさま?」
リビングの向こう側から母が訊ねてくる。
俺は首を横に振り、それからがむしゃらに朝ご飯を掻きこんだ。朝ごはんを掻きこんでいても、涙と鼻水は滝のように流れ出ている。
それでも俺は、この朝ご飯だけは絶対に食べなければならないのだろうと思った。何故ならこの朝ご飯は、間違いなく母親という「人間」が俺のために作ってくれた朝ご飯なのだから。
やっぱり朝ご飯は身に染みるくらいにおいしくて、それがむしろ残酷だった。
俺としては寝るつもりは全くなかったのだが、自分の意識しない内に深い眠りについていたようだ。深く眠ったはずなのに、身体はたっぷり泥に浸かったかのように重い。
しばらく布団の中で呆然としていると、ノックの音と共に母親の声が聞こえてくる。いつものそれと比べて、その声は不自然なまでに優しかった。
「今日は、学校行く?」
控えめに扉を開けて顔を覗かせた母が訊ねてくる。俺は黙って、重たい首を横に振った。
「お腹すいてない? 朝ごはん作ったけど、下に降りて来る?」
俺は再び首を横に振る。
母はため息をつくと、いかにも憂鬱そうに言う。
「……取りあえず、シャワーだけでも浴びなさい、ね? 昨日からお風呂にも入らないでずっと布団に潜りっぱなしじゃ、汗とかかいていい加減気持ち悪いでしょ?」
そこで始めて、自分がいかに汗まみれであるかを自覚した。言われるまではさほど気にならなかったのだが、べたつく肌とムッとするような臭いが急激に気持ち悪くなってきた。
仕方なく俺はベットからのそりと起き上がると、浴室のある階下へと降りていった。
一日ぶりに浴びる熱いシャワーはとても気持ちよかったが、改めて自分の惨めさが身に染みてくるようだった。結局のところ、どれほど意地を張って閉じこもってみたところで、汗のべたつきが気持ち悪ければ外に出てシャワーを浴びるしかないのだ。
「着替え、カゴの中に入れておくから」
室外から聞こえてくる母の声。
シャワーを終えて、着替えようと思ったのだが、その時カゴの中に入っていた着替えを見た俺は無気力にため息をついた。
まるで俺の気分そのものを表すような、くすんだグレー色のパジャマ。
俺は苦々しい思いでそれに着替えた。
ねえ、朝ごはんは食べないの? という母親の呼び声を無視して二階へと上がろうとした、その時だった。
――てるくーん、おはよー! 今日もげんきにがっこーいこー!
家の中まで聞こえてくる、女の子の一生懸命な呼びかけの声。
晴香だった。呆れかえるほどに晴香だった。
一番焦がれていた癖に、一番聞きたくなかった声が聞こえてきた。
俺は思わず階段を上っていた足を止めて、玄関の方へと振り返る。母もその声を聞きつけたらしく、俺の方へとやってきた。
「……会いたくないなら、私の方から先に行くように言っておくけど?」
俺はそうしてくれと言うつもりだった。しかしそれを言葉にしようとしても異様に重たい口は全く動いてくれず、せいぜい「あぁ……」だとか「うぅ……」などといった呻き声のなりそこないな声しか出て来なかった。
相変わらず外からは、「おーい! てるくーん!」という声が聞こえてくる。思わず当てつけかと勘ぐってしまうくらいには大きな声。
――いいかげんにしろよ……!
恥ずかしくなったり情けなくなったりを通り越して、だんだんと腹立たしくなってきた。
「ねえ、どうするの? いい加減はるちゃんを待たせちゃ……」
俺はにわかに踵を返し、玄関へと向かっていく。戸惑う母を尻目に鍵を開け、わざと乱暴に扉を開いた。玄関のベルが慌しく鳴り響く中、俺は扉の前に立つ晴香のことを睨みつける。背後では、ドタドタと母親が近づいてくる音が鳴り響いていた。
晴香は少しの間びっくりしたような表情を浮かべていたが、やがて俺と目が合うといかにも嬉しそうな笑顔を浮かべた。
笑顔。
間違いなくそれは、幾度もなく俺を救ってくれた、人間の、それも至上の笑顔だった。
「えへへ、おっはよーてるくん! 今日もげんきにがっこーのおじかんですよー!」
天真爛漫を絵に描いたような、晴香のふわふわとしたあいさつ。
しかし俺は何も言うことなく、ただ怒気を孕んだ目つきで晴香を見据えていた。
「あれ? そういえばてるくん、まだパジャマだけど、着がえた方がいいんじゃない?」
俺の様子を知ってか知らずか、能天気なことを晴香は言う。これも当てつけなのだろうか。そんな思いが頭をもたげた俺は、いつの間にか拳を強く握り締めていた。
「あっ! さてはてるくん、今日はおねぼーさんでしょ? だから寝ぼけてパジャマ姿で出てきたんじゃ……」
「うるさいなあ……!」
まるで威嚇する蛇のように低い声だった。
晴香はやっと俺の様子に気づいたよう(今思えば、気づいていない振りをしていただけなのかも知れない)に目を丸くする。
「寝ぼうじゃないよ。もういっしょー学校にいかないんだよ」
最初、晴香は俺が何を言っているのかが理解できなかったのだろう。目を丸くしたまま固まって、俺の顔をマジマジと見つめていたから。
しかし晴香は、このままスゴスゴと引き返すような女の子ではなかった。
「……ねえ、学校でなにかあったの?」
晴香は俺に全く動じることなく、真っ直ぐにこちらの目を見つめながら問いかける。
俺は晴香の静かに力強い視線に思わずたじろぎ、気まずい思いで視線を下に逸らした。
「……いつものことだよ。いつもみたいに、また学校でみんなにイジメられたんだよ」
「でも、それでも学校行ってたじゃん」
「いままでの話だろ? でも今日からはもうちがうんだよ。もう分かったんだよ、ボクなんて学校にいかない方がいいんだって」
「なんで? そんなことだれが言ったの? てるくんはショーガクセイなんだからガッコーに行っていいんだよ?」
「……うるさいなあ! だからみんなだって言ってるだろっ! とにかく、ボクはもうぜったいにガッコーにいかないんだから、もうボクにかまうなよなっ!」
「待っててるくん! にげちゃだめっ!」
家の中へと引き返そうとした俺の背中に、声を張り上げて叫ぶ晴香の声が響く。俺は思わず立ち止まり、振り返らずにはいられなかった。
「ねえ、学校でどんなこと言われたの? おねがいだから、それを話してみてよ! そうやっておうちに閉じこもったら、だれもはるくんの言うことを聞いてくれないんだよ!」
俺は何も答えることなく、晴香のことを睨みつける。本当は何も言うつもりもなかったし、そもそも振り返るつもりもなかった。しかし、晴香の声を聞いた俺はどうしても立ち止まらずにはいられなかったのだ。
いい加減にして欲しかった。
晴香はいつだって付きまとうようなしつこさで、俺なんかの為に真摯に付き添うのだ。そのせいで俺が一体どれほど惨めな思いを味わったか、そのせいで一体どれほど晴香が悲しい思いをしてきたか。そしてその挙句が、昨日の人形たちによる晴香への暴言の飛び火だ。これ以上晴香が俺に付きまとったら、暴言どころか今度は晴香が俺と同じ目にあうかもしれないのだ。
全部晴香のせいなのだ。
全部が全部、晴香にこんな辛いことをさせている俺のせいなのだ。
俺は胸の中がグツグツと煮え立つくらいに苛立ち、そして狂おしいまでに悲痛な感情が胸を打った。それは余りにも混沌に満ちた感情のせめぎ合いで、自分という人間が粉々に砕けてなくなってしまいそうなくらいに苦しかった。
――タスケテ! タスケテヨ!
その衝動の余り、俺の口から一つの切実な叫びが出そうになる。しかしそれは、不毛な意地っ張りによって握りつぶされた。
「おまえ、うっとうしいんだよっ!」
その代わりに俺の口から出てきたのは、拒絶の言葉の中でも最低なものだった。
「おまえ、自分が学校でなに言われてるかしってるか? ブスだよ、ブス! いっつも笑ってんのがきもちわるいんだってよっ! いちいち大きい声だしてるのがうざってーんだってよっ! うじゆきのそばにくっついてんのがきもちわるいんだってよっ!」
――ちがう、ちがうんだよ、春香ちゃん!
さっきから、自分の意志とは正反対な言葉がこの口から出てくる。いくら止めよう止めようと思っても、まるでブレーキが壊れたトラックが坂道を転がるかのように留まることがない。
――タスケテ! タスケテヨ!
「分かったかよ! みんながそういうんだよ! だからもうボクにつきまとうなよなっ! メーワクなんだよ! ボクはもう、いっしょー学校になんて……!」
「はるくん、ひょっとして昨日、わたしのことを言われたの?」
図星の一言に思わず怯む。
しかし、そのことが俺の言葉を止めることはなかった。
「うるさいなあ! だったらなんだよ! おまえがブスで、うざくって、きもちわるいのはかわんないだろうが! 何回も言わせんな! ボクはおまえがうっとうしいんだよ!」
「てるくん、ホントウに、そう思ってるの?」
晴香の表情が、いよいよ深刻な悲しみで歪んでいく。晴香の潤んだ瞳が、すがるように俺の目を真っ直ぐに見つめていた。
「正直に言って。ホントウに今まで、わたしのこと、うっとおしいって思ってたの?」
この問いかけこそ、超えてはならない最後の一線を画するものであることは分かっていた。ここでこれ以上晴香を傷つけるようなら、男として死ぬべき人間であることを証明することになるのだということも。
俺はここで「そんなわけないだろうがあ!」と叫ぶべきだったのだ。それが出来ないのならばせめて、この場で泣き崩れながら「たすけてよ!」と叫ぶべきだったのだ。
しかし、この時の俺は酷く混乱し、脅えていた。自分が本当に望んでいることが分からず、人形への、そして晴香への恐怖ばかりがムクムクと膨れ上がっていった。
結局のところ、俺は自分と向き合うことが出来なかったのだ。
手を取って前に進むことも出来なければ、泣き崩れてその場に留まることすら出来なかった。ただ、人形からも晴香からも背を向けて、あの布団の中へと逃げ出したかった。
晴香から逃げ出す。
そう、俺はこの時確かに、晴香の俺に対する真摯さが怖かったのだ。
嫌だった訳でもなければ、うっとおしかった訳でもない。俺が本当に怖かったのは、晴香の思いに応えられず、人形に脅えてばかりの情けない姿を晴香に晒すことだった。そしてそんな姿を見られ、晴香に失望されることだった。
人形たちに囲まれて生きる中、晴香という人間にまで見捨てられたら、俺は一体どうやって生きればいい? 晴香に見捨てられたその瞬間、俺はこの世の終わりのどん底へと永遠に堕ちていくのだ。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい! なんどもなんどもボクに言わせるな!」
だから俺は晴香から逃げ出すことを選んだ。そうすることで、晴香の失望から逃れられると思っていたのだ――そう思い込んでいたのだ。
「ボクなんかにつきまとってるから、おまえはみんなからきもがられるんだよ! わかれよ、おまえはうっとうしいんだよ!」
気がつけば俺は顔を伏せていた。晴香の顔なんて見ていられなかった。これ以上晴香の顔を直視していたら、俺という人間のどうしようもさの余りに、気が狂いそうだったからだ。
「だから、もう二度とボクなんかにかまうなよな! きもいボクにつきまとうおまえは、きもくてうっとうしいんだよ! ボクなんかにつきまとうから! つきまと――」
「……そうだったんだ」
弱々しい声色。
息を飲み、突き動かされるように晴香の顔を見上げると、晴香の表情には微笑が浮かんでいた。しかしそれは、鈍らな刃物で切り裂いて作ったかのような笑顔だった。作為的で痛ましい三日月形の口と、深い悲しみに潤んだ瞳。そんなものを同時に見せ付けられるくらいなら、いっそ憎悪と殺意を同時に向けられた方が幾億倍もマシだった。
「てるくん、わたしのことが、すっごいめいわくだったんだね……」
ちがう、ちがう、ちがう……。
俺は頭の中が真っ暗になりながらも否定しようとするのだが、口はワナワナと強張るばかりで全くもって動いてくれなかった。動く箇所といったら、ひたすらに左右に振られる強張った首ばかりだった。
「ごめんね……今までホントに、ごめんね」
微笑を湛えながらそう言うとと、晴香はしばらく俺の眼を見つめて、クルリと背を向けてゆっくりと去っていった。その背中はずぶ濡れの服を身に着けるかのように重く沈んでいた。
俺の眼を見つめていた晴香の瞳からは、一粒の涙が零れ落ちていた。
俺はただ、何も出来ずに立ち尽くしていた。俺の頭は、真っ黒な霧に覆われていた。
俺の背後から、「雪輝」と俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。応じて振り返ったその瞬間、俺の頬に手の平が飛んできた。パチンッ! という破裂音と共に鋭い痛みが頬を襲う。むずがゆいさを伴う熱と、そこから発せられる痛み。実際のところ、そこまでの威力がある訳ではなかったのだが、俺の冷え切った心には本来の威力以上に鋭く響いた。
「あんたは、本当に情けない子だよ……!」
――うん、そうだね、おかあさん……。
頬を押さえてうなだれながら、そんなことをボンヤリと思う。俺はきっと、全世界から軽蔑されて然るべき人間に成り下がったのだろう、ということも。
「……はるちゃんのこと、追いかけなさい」
俺はすぐに首を振った。ここで追いかけてどうにかなるくらいだったら、最初からこんなことにはなっていないのだ。晴香と共に進むことも留まることも出来なかった俺の一人ぼっちの終着点。それがこの家、俺の部屋のベットの中なのだから。
母親の方も予想がついていのか、「そう」という相槌以外には特に何も言うこともなかった。
「なら、朝ごはんを食べて部屋で寝なさい。ご飯温めるから、ちょっと待ってて」
それだけ言うと、母親はリビングへと向かう。
「……ごめんね。こればっかりはお母さんにも、何も出来ないの」
その途中、母はこちにを振り返り、俺に向かって言った。
「ゆっくり休んで、それから良く考えなさい。本当に、このままでいいのかを」
そう語りかけた母親の顔に、一瞬だけ人間の表情が浮かんだような気がした。俺のことを、息子のことを真剣に案じてくれる、母親の顔。しかし、それが確信に変わるその前に母親は顔を前に戻してリビングに消えていった。
しばらくして、母親に呼ばれた俺はリビングで朝ごはんを食べた。
ご飯に味噌汁にたくあん、おかずには半熟の目玉焼きに焼いた鮭、そしてネギの入った納豆。これ以上はないというくらいに完璧な朝ごはんだった。いつもは学校に行く直前まで登校を拒み、そのことでゴネにゴネていたために、朝ご飯はパン一枚だけなのだ。俺はすっかりお腹が空いていた。リビングでは、一足先に朝食を済ませている父と母の分の食器を洗っている。ここからでは顔が良く見えなかった。
俺はボソリと「いただきます」と呟いてから、味噌汁をすすり、ご飯を食べる。
おいしかった。とんでもなくおいしかった。
ただこれだけで涙が出そうだったのに、この時俺の脳裏には、晴香の笑顔と、いつも俺にくれるパンのことが浮かんでいた。そういえば今日の晴香の左手にも、いつも通りにパンが握られていた。食べる人のいなくなったパンを、果たして晴香はどうしたのだろうか。
――はい、てるくん。これあげるねっ!
「おいしいなあ……」
――どう? おいしい?
「おいしい、なあ……」
――ねーてるくん。そういえば昨日、なにかいいことあった?
「おいしい……おいしい、なあ……」
俺は左の手のひらで眼を覆い、テーブルに崩れた。溢れ出る涙はとどまることを知らず、無様な嗚咽ばかりが喉から漏れ続けていた。
――ごめんね……今までホントに、ごめんね。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
俺は嗚咽しながらひたすらにそればかりを繰り返した。許される訳がないことは分かっていた。それでもそれ以外に、どうしたらいいか分からなかった。
「どうしたの? もうごちそうさま?」
リビングの向こう側から母が訊ねてくる。
俺は首を横に振り、それからがむしゃらに朝ご飯を掻きこんだ。朝ごはんを掻きこんでいても、涙と鼻水は滝のように流れ出ている。
それでも俺は、この朝ご飯だけは絶対に食べなければならないのだろうと思った。何故ならこの朝ご飯は、間違いなく母親という「人間」が俺のために作ってくれた朝ご飯なのだから。
やっぱり朝ご飯は身に染みるくらいにおいしくて、それがむしろ残酷だった。
すぐ近くから俺を呼ぶ声が聞こえて来る。
善意などみじんも感じられない、明らかに対象を嘲ることを目的とした声色だ。
俺はパジャマ姿で机の上に突っ伏し、浅い眠りについていた。眠った振りをしていたら本当に少しだけまどろんでいた、そんな感じの眠りだった。
俺はこれが夢であることを理解した。
「おい、うじゆきっ!」
夢の中くらい、いじめっ子に突っかかればいいのに。それでも俺は現実と同じように、オズオズと脅えながら顔を上げる。
そこには案の定、男子クラスメイト達が立っていた。表情が全く分からない人形の集団。それがそびえ立つようにして俺の周りを取り囲む。俺は反射的に視線を下に逸らした。
「なっ、なに?」
「オレたちヒマなんだよー! いつもみたいにいっしょにあそんでくれよ、なー?」
神経の特別にデリケートな部分を、ビニールで突いてくるかのような笑い声。それが複数、四方から無遠慮に飛んでくる。俺は身を縮めてガタガタと震えてただひたすらに恐怖し、ただ彼らが今すぐにここから消えてなくなってくれることを祈った。実際、夢の中なら望んだ途端に消えてくれてもいいようなものだが、いくら強く望んでも彼らは全く霞みもしなかった。
その代わり、気がつけば俺は教壇の上に立っていた。そこから俺を取り囲む生徒たちの姿を見た瞬間、これから一体何をされるのかを悟る。胃が雑巾に絞られるような、キュウっとした痛みを訴える。
「おーいみんな! 今日もうじゆきの世界一受けたい授業がはじまるぜー!」
先ほどの数百倍の存在感を伴った嘲笑が矢のように飛んでくる。檻に閉じ込めた珍獣を見るかのような、遠巻きで無遠慮な視線をぶつけてくるクラスメイトという名の人形、人形、人形。俺の歯はカチカチと無様なダンスを踊り、目からは涙が出そうになっていた。
――うっじゆき! うっじゆき! うっじゆき! うっじゆき!
俺が震えながら立ち尽くしている間にも嘲りの声は高まり、俺が滑稽を晒すのを催促する手拍子は強くなっていく。
主犯格の一人がニヤリと笑う。その次の瞬間、俺の顔面に向かって何か丸くて白いものを投げつけてきた。短い悲鳴を挙げながら反射的に避けると、ビチャっという妙に水っぽい音と共に背後の黒板へと叩き付けられた。
果たして、投げつけられたものはたまごアイスだった。アイスの中身は黒板にぶちまけられ、深緑色の平面はバニラアイスの白色で暴力的に彩られていた。
「はい、じゃあ今日のジュギョーは、“黒板にぶちまけられたアイスはどんな味がするか”でーす! はくしゅー!」
悪夢のような拍手喝采。訳の分からない人形たちが訳の分からない感情を剥き出しにして喜び猛る。そしてまた気がついた時には人形たちに全身を押さえつけられていた。逃げ出せないように全身を押さえつけられ、髪の毛は主犯格によって引っ張られる。得体の知れない怪物の舌に絡め取られたかのような気分だった。
「はいせんせー、めしあがれっと!」
一度助走をつけるに俺の頭をスッと後ろに引いた後、主犯格は俺の顔面を思い切りアイスに打ち付けた。俺の右頬に冷たく粘っこく甘ったるく臭うバニラアイスの感触が襲う。
「うっわ、きったねー!」
爆発的な嘲笑が耳朶を叩く。人形たちの笑い声は、ただそれだけ目の粗いノコギリのように俺の心を痛めつけるのだ。
「おら、さっさとなめろよきたねーな!」
主犯格が無理やりに俺の口をこじ開けてアイスを舐めさせる。ハトの糞のようなバニラが強制的に舌に触れ、微かに残るチョークの粉の食感も感じた。
目の前が真っ暗になり、そしてまた気がついた時には体育館の倉庫の中にいた。
明かりの付かない、薄暗く薄汚れたかび臭い空間。即座に予感した通り、外に出ようとしてもドアは全くビクともしなかった。外からはケタケタと嘲笑が聞こえてくる。それは耳を澄まして確かめるまでもなく人形たちのそれだった。
――ホンットうじゆきってクソおもしれーよなー! 何やってもちっともていこーしねーんだもんな!
――そーそー、あいつオレたちに声かけられるだけでマジびびってやんの! だからうじゆきトーバツは止めらんねーんだよ!
――うじゆきマジうじゆき! つーかあいつ、ベンキョーとウンドウがあんだけ出来てもあのセーカクとか、マジ人生つんでるだろ!
ひたすらに続く嘲笑。キリキリと痛む胃に、湧き出る冷や汗。
しかし、俺が何かを言われることそれ自体に何かを感じるということはなかった。暴言にはすっかり慣れていたこともあって、彼らの一言一言の具体的な内容が俺の心に傷を作ることはなかった。最も、自分自身が貶められることに慣れるという精神状態そのものが、心に深い傷を負ったことを表してるのかも知れない。
ただ一つだけ、その攻撃を加えてくる対象が人形たちであるという事実だけは、心の底から恐ろしさを感じていた。
感情の一切分からない人形集団が、無表情のままに嘲笑ったり怒り出したりしつつ、俺のことを責め立てる。だから俺は、そんな人形たちに囲まれるたびに、正気を失いそうになるほどの恐怖を感じるのだ。
――お前、ホンットにいつも大島にべったりくっついてるよなー!
――つーかあいつブスじゃね? いちいち大きい声だしたりムダにがんばったり、見ててうざってーんだよな!
――さいきんあいつの笑ってるところ見ると、身体にうじがわいてくるんだよなー!
やがて人形たちの悪罵は別の方向へと向かっていく。つまり、俺にいつも優しく付き添ってくれた晴香の方へと。
瞬間、全身を突き破らんとばかりの怒りが広がる。可能であれば、今すぐに俺のことを閉じ込める倉庫の鉄扉を引きちぎり、返す刀で奴らのことも八つ裂きにしてやりたかった。
しかし、同時に俺の背中にべったりと張り付くのは、無表情に嘲笑う人形たちの影だった。その人形の集団を連想するたびに、俺の怒りは瞬時に凍りつき、ただ無機物に取り囲まれる恐怖に心が染まりきってしまうのだ。
掛け替えのない存在である晴香が、人形たちの嘲りによって貶められていく。天地がひっくり返ろうとも許しがたい行為であるにも関わらず、俺は何も出来ずに震えるばかり。
全身から血が噴き出そうになるくらいの悔しさ。にも関わらず何も出来ない俺自身が本当に嫌になり、俺はその場で情けなく泣き崩れた。
――ごめんね……今までホントに、ごめんね。
俺は逃げ出したかった。進むことも留まることも出来ずにいた俺は、ただ部屋の中に逃げ出したかった。
怖かった。この世界は何もかもが怖かった。表情のない悪意が俺の身に降りかかるのが怖かった、表情のある善意が表情のない悪意に裏返る想像が怖かった。
この世に存在する人形たちは、結局のところ全てが敵なのだった。
――この、出来損ないが! お前みたいな馬鹿は俺の息子なんかじゃない!
かつて、俺がこんな風になってきっかけは何だったかと思い返した時、真っ先に頭に思い浮かぶのはあの出来事だ。
小学一年生の頃の話。今となってはもう、これといって言うこともない出来事だ。
その日、友人から借りていたスティックのりを壊したのだ。当時液体のりを使っていたために使い勝手が分からず、のりの部分を出しすぎて元に戻らなくなってしまったのである。
本当に、今思い返すと呆れ返るくらいに下らない出来事。しかし、小学校一年生だった時の俺と友人にとってそれは、友情を引き裂きかねないくらいに重大な事件だった。
確か、俺が下らない言い訳をしたんだったと思う。余りにも下らなすぎて内容は良く覚えていない。ただ、悪いことをしたのなら素直に謝らなければならないという、至って常識的な教訓がそこにあるだけだ。
とにかく、俺の何かしらの言動が友人の気に著しく触り、瞬く間に大喧嘩――一方的に俺が手酷い言葉でなぶられ続ける大虐殺に発展した。
結局、その友人とは絶交になった。
確か俺へのイジメにも加わっていたはずだが、今となっては顔も名前も覚えていない。
そこまではまだ良かった。そのショックを引きずり、泣きべそになりながら下校道をトボトボと歩いていた、そこまでは。
その日の夕食の席。友人との絶交のことを引きずっていた俺は、ひたすら母親に泣き言を垂れ流していた。
母親は苦笑いを浮かべながらもちゃんと聞いてくれていたが、父親の方はこちらに見向きもせずに、見るからに不機嫌そうな仏頂面で夕食を食べていた。故意か無意識か、父親のたてる食器のガチャ! という音が身の毛がよだつほどに暴力的で、母親の言葉を聞きながら嫌でもそちらに意識が言ってしまった。
先にフォローしておくと、現在の父親はごく普通に、至って真っ当な意味で良い父親である。人並に、親に対して向ける感謝の気持ちを父親に対して持っているつもりだ。
しかしこの頃の俺にとって、父親とは絶望的なまでに強大な石像の怪物だった。
致命的な出来事は、俺が味噌汁をお代わりしようとした時に起こる。
母親の「私がよそって来るわよ」という言葉も聞かずに、ふらふらと味噌汁をお椀によそう。友人との絶交のことしか頭になかった俺の手つきはフラフラと覚束ないもので、傍から見たらとんでもなく危うく見えたことだろう。
そして自分の席へと戻ろうとしたその時、俺はコンセントにつまずいて派手にすっころんでしまったのだ。
――しまった!
強かに打った身体に鈍い痛覚を覚える間もなく、床に出来上がった味噌汁の水溜りを前にして、俺は頭が真っ白になった。
――ガタッ!
ところで俺は、決して人には言わないが、今でも乱暴に椅子を引く音が嫌いだったりする。
この音を聞くたびにこれから起こることを無意識に思い出してしまうからだ。
ゆっくりとこちらに近寄る父。棒立ちでそれを見つめる俺。母はその様子を、ただ何も出来ずに見つめていた。
破裂音。
空気を引き裂くような高音が鳴り響き、俺は右の頬に受けた衝撃のままに吹き飛んだ。
床に投げ出され、呆然と見上げる先には父が立つ。立って見下ろす父と、倒れて見上げる子。父の表情は、さながら悪鬼を模した仮面のようだった。
俺はこの日、始めて父親から体罰を受けた。
「……何なんだお前は?」
孕む怒りに対し、余りにも静かすぎる父の声。
「下らない喧嘩ごときで食事の席でまでメソメソと泣き続けて俺の気分を害し、まるで脅えるように俺のことをチラチラと情けない目で見て、挙句の果てにお前の不注意で食べ物をぶちまける……しかも、俺の服まで汚しやがった」
父の寝巻には確かに、薄茶色の味噌汁が付着していた。
俺は既に涙を流していた。涙を流しながら、何かを拒否するように首を左右に振り続ける。
「ご……ごめんなさ――」
言葉の途中、俺は髪の毛を強い力で引っ張られた。とても強引に、俺の眼と父の眼とが正面からぶつかる。
「最初から謝るくらいなら何故こんな愚かなことをするんだっ! お前は自分のやっていることの良し悪しすら判断出来ない馬鹿なのかっ! 俺はこんなにも働き、働き、働いているというのに、お前は醜く喚きながら涙を流して、一体何でここまで無神経でいられるんだ! 少しは俺の気持ちを考えたことがあるのか!」
今の俺なら、例えこの事を完全には許せずとも、何故父がここまで怒っていたのかを理解することは出来る。
要するに、この頃の父はとんでもなく疲れていたのだ。
真面目すぎる性格が祟って出世レースに出遅れ、仕事の量は刻々と増えていき、会社の業績も伸び悩んでいた。それこそ、家族に目を向けるだけの精神的余裕が完全に消えてなくなる程度には。
ちなみにこの出来事がきっかけで、父と母の仲は数年間、それこそ真剣に離婚を考える程度にはどん底まで悪化していくこととなる。
――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。
しかしこの頃の俺は当然そんなことなど知るよしもなく、ただただ無分別に涙を流し続けた。いつしか俺の心は、父への恐怖から、自分の愚かさの懺悔に塗りつぶされていた。
「この、出来損ないが! お前みたいな馬鹿は俺の息子なんかじゃない!」
「あなたあっ!」
母が怒声を上げて立ち上がると、父親へと思い切り平手を放った。
再び響く破裂音。激しい怒りの表情に染まる母と、それを静かな怒りの表情で見返す父。
――ああ、まるでカイジュウとカイジュウがたたかってる見たいだなあ。
逃避の心理でボンヤリと思う。
人間じゃない二人の戦い――ボクの親なのに、人間じゃない、まるでウルトラマンの怪獣のような、人形同士の。
「あなた……自分が何を言ってるか分かってるの? 自分の息子に向かって、あんな、あんなことを……!」
「……お前もか? お前も理解してくれないのか、緑? 俺はお前らの為に、働き働き働き働き働いていると言うのに……何で俺のことをそんな目で――!」
俺が聞こえたのはここまでだった。
何故なら俺の視界は少しずつ白く塗りつぶされて、完全に意識を失ったからだ。
それからしばらくして意識を取り戻した俺は、放心したように天井を見つめる。
水の滴る音が聞こえたので首を横に向けると、そこでは母がタオルを絞っていた。
彼女の顔は、人形のそれへと変容していた。
母。彼女を人形として見てしまうと、もう何もかもが駄目だった。父も人形になり、教師も、生徒も、教師も、近所の住民も、赤の他人も。一人残らず上書きされていくように人形となってゆき、やがて俺は一人ぼっちになった。
――おーい! てるくーん、おはよー! いっしょにがっこーにいこー!
この広すぎる人形たちの世界の中で、唯一人間であり続けてくれたのが晴香だった。
布団の中で脅える俺のことをいつも優しく引っ張り出してくれて、俺と一緒にこの人形たちの世界を歩いてくれた、守ってくれた。俺にとって、掛けがえのない大切な人
しかし、彼女はもういない。何故なら俺が、拒絶してしまったから。人形たちが怖くて、晴香が――その善意の重みが恐ろしくて、こうしてどこにも行きつくことない布団の中に閉じこもってしまったのだからら。
だから、俺の脳裏に浮かぶのは、今この瞬間も晴香の微笑みだった。
深く傷つきながらも、それでもなお「ごめんね」と呟きながら無理やり作って見せる笑顔。
――ごめんね……今までホントに、ごめんね。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
だから俺は夢の中でも謝り続けた。しかしその言葉は誰にも聞こえることなく、ただ倉庫の中で木霊し続けた。
倉庫の外からは、相変わらず人形たちの笑い声が聞こえてきた。