重たい石は、未だに私の背中から離れようとしない。べったりとくっついたままにやりと私を嘲笑うと、お前はどうせそのままなのだと耳に囁き続けてくる。それでいいと思っていた頃は、こんなものなんともなかったのに、何故今になって私はこんな居心地の悪さを感じるようになってしまったのだろうか。
――安藤さん。
そう声をかけられ私は振り返る。ああ、彼は確か三組の、おはよう、どうしたの。ええ、今からでも間に合うか掛け合ってみるわ。ああ貴方は何か用? それは少し面倒なトラブルね。先生に伝えて、処置を考えてみるわ。
――安藤さん。
――安藤くん。
――安藤先輩。
今まで何も思わなかった筈の出来事が途端に煩わしくなっていく。歩くだけで問題を抱えた生徒達が私の名を呼ぶ。私はそれを、作り慣れたいつもの笑顔で応対し対処していく。周囲の印象は良くなるし、交友関係に関しても問題はなくなる。
けれども、それでよかったのだろうか。私は何故こんな生き方を選んだのだろうか。斉藤さんの言葉でそれは更に明確な輪郭を現し、私の中にどっかりと座りこんでいた。
濃紺に染め上げられた制服も、赤と黒のチェックのスカートも、使い込まれて黒ずんだ廊下の床も、全てから色だけが抜き取られていく。生徒達の談笑も窓を開ける音も、まるで耳に液体でも満たされたかのようにぼやけている。
白と黒と音の滲んだ世界。そんな中に私は立っていた。ぐるりと視界が揺れた気がして、壁に身を預けてみるが、それでも眩暈は止まらない。依然として私の意識にぴったりと張り付いて離れない。
――ああ、どうしたのだろう。
――完璧で良い人の安藤奈津が、こんなところで何をよろめいているのだ。
ずぶりと真っ黒い沼の中に、私の意識は溶け込んでいく。どうにかもがこうとするけれども、泥は私の足を離そうとはせず、更に引き込む力を強めていく。
「安藤」
不意に、手を掴まれた。
顔を上げると、周囲には人だかりができていた。ざわざわとそれぞれが言葉を呟いている。
そんな人ごみの中で、蜜柑の顔が一番近くにあった。とろんとした少し眠そうな目が覗き込んでくる。ああさっきまで寝てたんだね。そう言おうと思ったのだけれど、うまく声が出ない。断線しかけたイヤホンのように、うまく外にアウトプットができない。
「立てる?」
迷惑はかけられない。私は蜜柑の言葉に頷くと、放りだされていた足に力を入れ、窓のさっしに手をかけ歯を食いしばる。
だが、それでも駄目だった。込めた筈の力は留め口を開けた風船のようにどこかから抜けていく。原因不明のこの虚脱感をどうすればいいのか、必死に考えるのだが、どうしても答えが見つからない。
「わからないの」
私の言葉に、蜜柑は静かに一度頷く。
「安藤奈津は、どんな人なんだろうって……」
蜜柑は、変わらずに私を見つめ続けていた。どう答えていいのか困惑しているのかもしれない。
暫くして、彼はやっと口を開いた。今にも泣きそうな、とても哀しげな眼をしていた。
「それは、君が一番理解しているんじゃないの?」
いや、その目はもしかしたら同情だったのかもしれない。
「うん」
斉藤さんに対する憧れを抱いた時、私は一番最初に「安藤奈津という理想」に傷がつくのではないかを気にしてしまった。自分自身である筈なのに、何一つ自分じゃない。誰かの理想であり、私の理想である安藤奈津という存在が、崩れてしまうのを恐れたのだ。
なら、私は一体誰なのだろうか。
安藤奈津に憧れる私は、一体――。
それから私は、やってきた教師に抱えられその場を離れた。瞼の裏に、悲哀に満ちた目でこちらを見ていた蜜柑の顔が焼き付いて離れない。自らを束縛し、孤立や幻滅といった言葉から逃げてきた私のなれの果てを見て、きっと呆れたのだろう。
結局、私は私で、安藤奈津にもなれなければ、園田蜜柑や斉藤宙のようにもなれない。完璧を装った不完全な“どうにもならない人間”なのだ。
―――――
帰宅は久々に一人だった。
保健室から教室に戻ると明かりは消えていて、他の教室にも誰もいなかった。親御さんに連絡をとるかどうかを聞かれたが、私はそれを拒否した。
玄関口から出るとすっかり陽は落ちていた。フェンス越しの道路をライトの点灯した車が横切っていく。行ってしまった車を目で追うと、信号の赤い丸の前でブレーキランプが点灯し、停車した。
正門へと歩いていく途中でグラウンドにさしかかり、なんとなくそちらを覗いてみる。運動部がそれぞれ片付けや整備を始めている。あまり出来の良くないクレーコートをならしていくテニス部員から目を離すと、私は再び正門への道を歩きはじめた。
「安藤」
自分が憧れている名前が呼ばれた気がした。けれど私は振り返らず、歩を早める。今は誰とも話がしたくない。なにかを頼まれもしたくない。学校は私にとって休息の場所ではない。
かといって、自宅も私にとっては――
「……奈津」
左手を掴まれ、強く引かれた。突然の後方からの力に体勢を崩し、咄嗟に足を一歩後退させることでかろうじて転倒を避ける。それからこの乱暴な行いを働く者は誰かと、私はきっと後方を睨んだ。
「やっと振り返ってくれた」
蜜柑だった。体を揺らし呼吸を繰り返しながら、それでも視線は私から離そうとはしない。どうやら思い切り走ってきたようだ。しかし、何故彼はそんな駆けてきたのだろうか。
「保健室、行ったら、君が、いなくて」
途切れ途切れに言葉を吐き出しながら、彼はそう言う。
「どうして……」
「どうして?」
「そんなに私を探して、何になるの? 問題事でもまたあった?」
ゆっくりと、蛇口を開けるような感覚だった。
「私はいい人なの。わかるでしょう? 何でも満遍なくできて、何でも知っていて、どんな時でも力強くて、困っている人間の助けは決して断らない。誰の助けもいらない人間。それが私なのよ」
彼は目を逸らさず、そして頷くこともしないで、ただ私を見ている。その目がとても嫌で、嫌でたまらなくて、何か言っていないと、言葉を吐き出していないと負けてしまうような気がしたのだ。
「お母さんだって私には何の苦労もしていない。いや、させないようにしている。私は完璧なの。全部全部優秀で、私一人でできる。誰かの助けなんて必要な女じゃないのよ」
助けてって言葉を、何故言う事がこんなにも下手なのだろう。どうにかしようと思っても、私の口から出てくるのは「なんとかする」や「大丈夫」といった励ましの言葉だ。もしかしたら、誰かに対して言っていたつもりのその言葉は、自分の虚栄に対する逃亡の為だったのかもしれない。
「だから、いい人なの。都合のいい人。肝心の中身は空っぽのね……」
何故、私は蜜柑に対してこんなにも自分をさらけ出してしまっているのだろうか。
「……安藤は、すごい奴だと思ってる」
彼が、やっと言葉を開いた。
「自分で作ってきたものを、責任もって自分の中に抱き続けようとするって、そうできない。いつの間にかどこかでボロが出てしまうものだと思う」
だからすごいんだ、と彼は微笑む。
正面だけじゃ見ることのできない、立てかけられたハリボテの安藤奈津のその奥を見ようとしているのだ、彼は。
「俺はさ、そんなに強くもないし、自分が居心地が良いと思える場所にしかいられない。全部引き受けることもできない脆弱な男だ」
蜜柑は背負っていたギグバッグを下ろす。
「でも、だからこそ俺はこうやってここにいられるんだよ。飾ることが生きる全てだったのが君なら、さらけ出すことが俺にとっては全てなんだ。飾って生まれた虚像に、俺はすぐにでも押しつぶされていたと思うから」
「……私だって、もう押しつぶされかけてる」
そう言うと、彼は私の頭に手を置くと、乱暴に髪を掻きまわし始める。私は戸惑い、その手を掴んで辞めさせてから、彼を睨みつける。
だが、彼は相変わらず微笑みを浮かべ、私を見ていた。
「それだけ長く続いた。君の惜しみない努力の結果だよ。自己を犠牲にしてでも他を優先するなんて、並の人間にはとてもじゃないが、できない」
それから彼は掴まれた腕を強引に引きはがすと、逆に私の右手を掴む。
「あの喫茶店に行こう。本当はこれを言うために君を探していたんだ。今日はどうしても聴いてもらいたくてね」
そう言うと、蜜柑は返事なんて聞かず、私を連れて走り出す。
正門を出る寸前にふともう一度グラウンドを見た。クレーコートの整備はすっかり終わっていて、作業をしていた部員達が背伸びをしながら数人で談笑している姿があった。濃い暗闇の中ひっそりと電灯に照らされるその部員達の姿が、羨ましくてたまらなくなった。
この掴まれた手を、掴み返せるようになれたらいいのに。
―――――
窓から洩れる明かりが陰によって揺れている。今日はあの時よりも人の入りが良いようだ。元々あまり繁盛しているような店に見えなかったため、落ち着いた外見から盛況な姿を思い描くことは難しかった。
蜜柑は何も言わず、掴んだ手も離さずに、喫茶店の扉に手をかけ押し込んだ。
出された机はほぼ全て埋まっている。その光景に驚いたあと、次に内装を見てこの状況をすぐに理解した。机にはクロスがかかり、ワインにビールに、カクテル、少し手の込んだ料理が並べられ、座っている客たちも皆スーツやドレスといった出で立ち。
「遅いぞ、蜜柑」
「ごめん、すぐに準備するから」
店員はそう言うと蜜柑の頭を軽く叩いたあと、背中を押してステージへと連れていく。ぽつんと一人取り残された私は、壁際に移動し、それから周囲をきょろきょろと見る。
多分、同窓会か何かなのだろう、と思った。談笑する男女の顔には皺が刻まれており、白髪混じりだったり、紫や銀に染め上げられた髪の女性もいる。多分、五か六十はいっているだろう。いや、それ以上も以下の人もいるかもしれない。
「やあ、また来てくれたのね」
聞き覚えのある声に私は振り返って、それからあっと声を出した。パンケーキを出してくれたあの女性の店員だ。私の反応を見て、女性はとても嬉しそうに微笑むと、私を抱きしめる。ふくよかな体と栗色の髪から漂うシャンプーの香りが、とても心地良かった。
「あの時の……」
「おばさんでいいわよ、実際そのくらいの歳はいっているから」
そう言うと彼女、おばさんはあの柔和な笑みを浮かべた。
それから彼女に連れられ、空いていたカウンターの席に私を座らせる。その間も客たちはグラスを傾けながらそれぞれ笑みを零していた。
「紅茶にはお砂糖、入れる? それともコーヒーの方が好みだったりするかしら?」
「あ、私……」
「悪いけどアルコールは出さないわよ。今日が特別な日だとしても、未成年には流石に飲ませられないわね」
「いえ、そういうわけではなくて……今日は、なにかのパーティなんですか?」
ああ、とおばさんは言うとステージの方を目を細めて見る。
「あの子言ってないのね」
「何も言わずに連れてこられたので」
溜息と共に肩を一度すくめた後、おばさんはカウンターに紅茶を出した。飴色をしたそれからは湯気がたっぷりと吐き出されていて、乳白色をしたティーカップとの色合いがとても綺麗だった。取っ手を指でつまむと、少し傾けて口に紅茶を注ぎこむ。じわりと沁み渡るような香りと苦みが私の体を温めてくれる。そんな感覚を覚え、私は思わずもう一度紅茶を口にした。
その姿が彼女にはとても良く映ったのか、おばさんは小さく微笑み机に頬杖をつく。
「ここの店主、うちの旦那なんだけどね、彼の大学からの知り合いが集まっているの。音楽をやっているのがほとんどなんだけれど、うちのってなんだかとっつきやすいみたいで、いつの間にか繋がりが多くなってて、この状態なのよ」
夫を語っている彼女の眼は、少し柔らかで優しく見えた。私はもう一口紅茶を頂くと、ステージに視線を移す。
「素敵な方ですね。旦那さんはどこにいらっしゃるんです? 私、多分おばさんと、あの気の良さそうな店員さんしか見たことがなくて」
「死んでるの」
彼女の言葉で、背中がさあっと冷たくなっていく感覚がした。どうしよう、なんだかいけないことを言ってしまった気がして、私は慌てふためく。
だが、彼女はそんな私を見て声を上げて笑う。
「そんなに気にすることじゃないわ。哀しい別れってわけでもなかったから」
「……すいません」
「三年前だったかな。癌で逝ってしまったの。けどね、もう衰弱しきって、今にも死んでしまいそうな時に彼、私の手を掴んでこう言ったのよ」
おばさんは右腕を眺めている。多分、この腕を掴んだまま、彼女の夫は息を引き取ったのだろう。
「「歌って、踊って、弾けて、お前がいて、何も後悔はない。幸せだった」ってね」
「後悔がない、ですか」
「ええ、でも多分強がりよ。どうせ死んでもあの人、あっちで我慢できなくなって好き放題セッションなりなんなりきっとやってるでしょうよ」
そう語る彼女の眼には、一つとして悲哀の色は感じられなかった。いや、むしろ明るいとすら感じられた。
「悲しくは、ないんですか?」
「そうね、寂しい時はあるけれど、悲しいとは思わないのよね。旦那のおかげで沢山の繋がりができたし、皆未だにここに来てくれるし」
繋がりという言葉が、私の心をじわりと震わせた。そして同時に、同情だけで彼女の気持ちを汲み取ろうとした自分がとても恥ずかしくなった。上澄みだけで誰かを評価なんでできないのに。
「あの人ね、俺は音楽があれば幸せだってずっと言ってて、それからロックからジャズだったり、時には聖歌にまで首を突っ込んでね……。とにかく沢山の音楽と触れあいたくてたまらなかったみたい。それまでの安定した仕事放ってこんな辺鄙なとこに喫茶店建てちゃうし。おかげでお客は常連しか来ないし困ったものよ」
そんな文句を洩らしつつも、彼女の顔からマイナスととれる色が浮かぶ様子はない。声は明るくなっていく一方だ。
「素敵な旦那さんですね」
「ええ、本当に。ああ、パーティはね、そんな旦那の友人達の年に一度の集まりなのよ。必ずこの日にやるの。あの人が死んだ時にもう終わってしまうのかなと思っていたのだけど、皆そんなことでやめるなんて勿体ないって。人の夫のことをそんなことでって言うの。全く失礼よね。とにかく、この店がなくなるまで続けようってやってるの」
「彼は」
「彼? ああ、蜜柑は丁度夫が亡くなる一年前だから、今から四年前になるのかしら。ここにやってきてね。その時はものすごい暗い子だったんだけど、夫が「そんな俯いてばっかりいる奴は駄目だ、糞みてぇな奴にしかならねぇ」って怒鳴りつけたかと思ったら、それからつきっきりであの子にギター持たせて、あのステージで歌わせ続けてたの。スパルタでね、時々大号泣よ。なんでこんなコードも抑えられないんだ! って」
「蜜柑、ここを気に入ってるのはあのステージが理由でもあるって……」
そこで、満面の笑みで話していたおばさんの顔が、穏やかになった。
「なんだかんだ楽しかったみたいね、あの人と音楽やるの。お葬式でもぼんやりと棺を見つめてるだけだったから、あの子があの人に対して何を思ってるのかわからなくて困ってたの」
不意に照明が落とされて、机の上に置かれた色とりどりのキャンドルの灯と、ステージの抑え目の青い明かりが暗闇を照らした。
赤い幕が引くと、三人立てるかどうかだったステージが途端に広々とした空間へと変わった。ピアノとベースとパイプイス。後ろには少し小さなドラムが。
フロントには、初めてここに来たときと同じギターが置かれていた。蜜柑が弾いていたアコースティックだ。
「そろそろ始まるわね。身の上話ばかりしてごめんなさいね」
「いえ、とても楽しかったです」
首を振ってそう答えると彼女はにっこりと微笑み、それからステージの方へと行ってしまった。私はカウンターに残り、紅茶をもう一口飲んでから奥を覗く。
大分年齢のいった男性が三人、それぞれドラム、ピアノ、ベースに座る。一人一人出て来る度に観客側から拍手や声が飛び交う。暖かい空間だ。
そして、遅れて彼が入ってきた。園田蜜柑は神妙な面持ちでやってくると、アコースティックを手に取り、パイプイスに座ってから、マイクを調整する。
「今年もか小僧」
観客席から飛んだ声に、蜜柑は一度小さく微笑んだ。野次というよりは、期待のこもった言葉のように感じられた。キャンドルに照らされた彼らの顔を見ると、やはりどちらかというと穏やかで、まるで自分の息子を見ているような視線のようだった。
「ええと、今年もこの日がやってきまして……。こんな僕をパーティに組み込んでくれて、本当にありがたいと思ってます」
彼は軽く弦にピックを流した。カラッとしたギターの音が響き、余韻を残しながら消えていく。
「僕は皆さんに比べたら彼に会った日も浅いし、してもらったことといえばギターと歌うことを教えてもらったくらいで……でも、それが僕にとっては一番大事なものになっていて……」
ああ、と彼は頭を掻いた。
「こんなこと言いたくて来たわけじゃなくて。今年も、僕がどれだけのことをやってきたか、聴いてもらいに来ました。どうだ、また上手くなっただろって。きっと彼もどっかで聞いてんだろうなって思うので」
蜜柑の言葉に周囲から小さな笑いが零れ、キャンドルの灯が揺れた。
闇に包まれている筈なのに、けして寂しさを感じない。不思議な空間だと思った。青い光に照らされた蜜柑は、他のメンバーに目配せをした後、一度だけ頷いてマイクを手にした。
「彼に初めて歌わされた曲です。聴いてください。Desperado」
蜜柑の言葉を合図に、静寂の中鍵盤を叩く音と穏やかなピアノの旋律が歩き始める。
「Desperado――」
鍵盤に乗るように蜜柑は歌い始める。丁寧に、少しでも歌詞の意味を観客に受け取ってもらえるように。彼の歌い方はそんな風に見えた。まるでこの曲の歌詞を知ってもらうため、どんな想いを込めたのかを自分の声で描くように、一つ一つをじっくりと言葉にしていく。
「Don’t you draw the queen of diamonds,boy――」
蜜柑とピアノ、ギター。二人の三つの音が静寂に溶ける中、彼は更に声を張り上げる。他のメンバー達のコーラスが彼の歌声を更に昇華させ、声のその先の「何か」へと変貌させていく。透き通るような高音が私の胸にじわりと沁み渡り、思わず目を閉じ耳を澄ませる。英詩をすぐに読み解くことはできないけれど、彼が何故今日、この曲を持ってきたのか。それはなんとなく分かった。
彼はこの曲で救われたのだ。暗かった自分を変えることのできた曲だった。だからこそ、彼は今日歌うことを選んだのだ。二度とあの頃の自分に戻らない為に、戻っていないことを、彼に伝える為に。
音の間にドラムフィルが入った。二人だけの音楽の中で四人の音が馴染み、一つの音の塊となって響き渡る。あの穏やかな旋律が、途端にバンドとしての力強いものへと姿を変えていく。
「you better let somebody you――」
繊細で且つ力のこもったコーラスが響いた。空気を震わせながら、それらは全て私の中へと溶け込んでいく。君は一人じゃないんだと、もっと頼ってもいいんだと、蜜柑が言っている気がした。
「before it’s too late…」
最後の言葉と共に、曲は再びピアノの旋律だけの静寂へと戻っていき、そして次第に弱弱しくなって、まるで雪が溶けるように消え去った。
それぞれの音達は、余韻だけをこの空間に残して消えた。
遅れてやってきた拍手に、四人が静かにお辞儀をした後、彼らは何も言わずに裏へと消えていった。
そんな四人の姿を、いや蜜柑の姿を見て私は、拍手すらできずそこにいることしかできなかった。彼を変えたもの、音楽に対して彼が何を思っているのか。その全てを彼は今夜私に打ち明けようとしたのだ。そう簡単にはできない。言葉じゃどうにもできないと思ったから、彼はその想いを音楽に託した。
「あの子、この日になると必ずあれを歌うのよ」
戻ってきたおばさんは、呆然とする私にそう言って紅茶のおかわりを注いでくれた。
「元々センスはあって、どんな曲でも歌いこなしてきたけど、あの曲だけは夫に最後までダメ出しを受け続けてたの。あの子も蓋を開けてみたら随分な負けず嫌いだったからか、あの曲で認めさせたら一人前だと思ったみたい」
「最後は……?」
聞かなくても分ることを、私はあえて彼女に問いかけた。
「亡くなる前ね、あの人が「聞かせろ」って蜜柑を呼びつけたの。それであの子全力で歌ったんだけど、あの人は笑いながら「まだまだ」って。もう認めてあげていたくせに、変なところで意地っ張りなのよ」
「意地っ張り?」
「あいつはどこまでもうまくなるからって言い続けて、認めたらそこで止まっちまうって。「だって見てみろよ。未完だぜ。完成がないってことはどこまでも伸びるってことだろう」って」
「駄洒落ですね」
「ほんと、ひどい駄洒落よ」
そう言って私とおばさんは顔を合わせた後笑った。落ちていた証明が少し明るくなり、次のバンドがやってくる。ウッドベースとピアノとドラムの編成だ。あれはなんていうバンドなのだろう。
「蜜柑をよろしくね。あの子、貴方をすごく気に入ってるみたいだから」
ステージの方を見ていると、おばさんはそう言って私の手を両手で包みこんだ。とても暖かくて、抱きしめられた時と同じくらい心地よさを感じた。
「そんな、私がお世話になっているくらいで、なにも……」
「誰かが君を愛してくれるようにしなよ、遅くならないうちに」
彼女の言葉に、私ははっとしてしまう。
「さっきの曲の最後の邦訳。色々な訳があるけど、私はこれが好きかしら」
そう言って、あら、と声色を変えたかと思うと、裏から出てきた蜜柑に手を振る。蜜柑はやりきったという顔でこちらを見て笑うと、私の隣にどっかりと座った。
「疲れたよ」
「いつにも増して気合い入ってたわね」
「ありがとう。おじさん、これ聴いてたらなんて言うと思う?」
その問いに対して、二人は顔を見合わせると悪戯に笑い、そして同時に言った。
『まだまだ』
―――――
パーティが終わり、ギターを手にした蜜柑と共に店を出た。また来なさい、とおばさんはそう言ってほほ笑んだ後、もう一度抱きしめてくれた。多分蜜柑のことだから、保健室で寝ている間にでも、私がとても悩んでいることをあらかじめ話していたんだろう。
「今日は、ありがとう」
「良い曲でしょ」
彼はそう言うと胸を張って得意げな顔をした。私はほんと、と頷いて、それから夜空を見上げる。星は見えなかった。少し厚い雲が空にかかっているようだ。これで星座や月でも見えたらよかったのだけれど、少しだけ残念に思った。
「君のしたいようにすればいいと思うよ」
蜜柑の言葉に、私は目を瞑った。
「私、完璧でないと認めてもらえないと思ってた。誰かと共通であり続けないと、何も繋がれないって思ったし、結局それが元々の理由をそっちのけにしてしまっていた」
母を楽にしたいという理由を、私は本当に達成できていたのだろうか。時々憂いを帯びた表情の母を思い出して、ふとそんな疑問を覚えた。
「あの曲とても良いね。いつか、私も歌いたいと思った」
「歌いたいんだ」
「うん、歌いたい」
蜜柑が歌ってくれると、その曲がとても好きになる。
そう言おうと思って、私は口を閉じた。これは留めておこう。きっと、亡くなったおじさんも同じような思いだったからこそ、何も言わなかったのだと思った。彼はもっともっと上手くなる。そして、自分をもっと音楽好きにしてくれると、そう信じていたのだと思う。
「でも、蜜柑の歌が引き立つようなベースを、弾けるようになりたい。今日聴いていて、一番そう思った」
「今日のベーシスト、上手かったでしょ」
「うん、とっても」
少し先を歩いていく蜜柑の背中を眺める。私のやることは、決まった。
「ねえ、蜜柑。お願いがあるの」
彼は振り返ると、どうしたのと笑った。多分、もう彼は私のお願いに気づいているのだろう。でも、こればかりは気づいてもらうだけじゃいけないと思った。私は一度深く深呼吸をした後、空を見上げる。
彼からの答えはもう決まってる。そんな確信があった。
「私と、バンドを組んでください」
厚い雲の切れ目から、小さな星が一つ、二つこちらを覗いていた。