Neetel Inside 文芸新都
表紙

イルカ日記
8

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 それからはしばらくまた雨の夜が続いた。雨は僅かに残った夏の熱気を洗い流し、湿り気を帯びた冷たい風を連れてくる。季節は秋の入り口から更に奥へ進もうとしていた。昼は晴れていても夜になると待ち構えていたように雨が降り始める。雨を認めるたび、私はどこかで安心していた。雨が降っていれば海に行かずに済むからだ。腕のない彼女の身体は痛々しく、これ以上の欠落を目にするのを出来るだけ先延ばしにして居たかった。
 少女と私は毎夜雨の音とレコードを聴き、話をしながら過ごした。彼女はしきりに恋人の話を聞きたがったが、話相手がいるのは私としてもありがたかった。
 今では夢で見るだけではなく、起きているあいだにも、ふとした瞬間に記憶の手触りが蘇るようになっていた。微妙な影の色や何かの匂い、首の傾げ方。思わぬことが引き金になり断片的な記憶が浮かび上がってくる。けれどそれを意図的に引き寄せることはできない。それはいつも唐突にやってくる。気がつくと私は穴の内側に居て、置き去りにされていた痛みたちと再会する。


「私、今までこんな風に音楽を聴いたことなかった」
 ある夜、少女が言う。
「こんな風にっていうのは?」
「ゆっくりと時間をかけてクラシックを聴いたことってなかったの。小さい頃学校で給食とか掃除の時間にかかってたり、音楽の授業で習ったりするくらいで。歌詞のない退屈でわかりにくい音楽ってくらいの印象しかなかった」
「僕もそうだったよ。恋人が好きだったんだ」
「それで聴くようになったの?」
「そうだね。彼女が居るときには一緒に聴いていたし、居なくなってからは彼女のレコードを譲り受けたから」
「へえ。どうしてその人はクラシックが好きだったんだろう」
「自分一人で暮らし始めたときに聴き始めたと言ってた。音楽でもなんでも自由で選べるってことに気がついて嬉しくなって、それまでまったく知らなかったものを聴いてみたんだって」
「……家族仲が良くない人だった?」
 私は思わず少女を見る。
「どうしてそう思う?」
 一瞬の沈黙。
「どうしてだろう。なんとなく」
「あまり穏やかな家庭ではなかったみたいだ」
「そう」
 そこでレコードが終わる。立ち上がりプレーヤーの蓋を開け、裏返して針を落とす。そのあいだ少女は律儀に沈黙している。
「その人、綺麗だった?」
 音楽が流れ出すと、また彼女が質問する。
「どうかな。綺麗にも色々あるから」
「誤魔化さないで」少女が少し強い口調になる。「ちゃんと知りたいの。お願い」
 それで私は少しのあいだ考えてから答える。
「世間的に言えば綺麗な人ではなかったと思う。醜いとは思わなかったけれど、彼女自身は自分をすごく醜いと思っていたみたいだ。そのせいでものをうまく食べられなくなることもあった」
「食べられなかったの?」
「普段は普通に食べていたけどね。何かの拍子に食べ物が気持ち悪いものに見えてしまうんだって、その自分の弱さにもうんざりしてた」
 少女はしばらく沈黙する。そのあいだに私はウイスキーをグラスに注いだ。
「わかると思う」やがて堅い声で彼女が言う。
「自分を醜いと思ってたっていうのは、容姿のこと、内面のこと?」
「両方じゃないかな」
「そして実際に綺麗な人ではなかったのね」
「誰かから見ればね」
「あなたから見て綺麗だった?」
「どうだろう。なんというか、それはあまり重要なことじゃなかったんだと思う」
 私は言葉を探す。少し息を止めて、白い砂のような無数の言葉の切れ端が脳内でゆっくりと沈殿していくのを待つ。
「いろんな種類の綺麗さがある。人目を引くものから引かないもの、見つけやすいものから見つけにくいものまで。誰かにとってまるで意味がなかったり、寧ろ醜悪に見えるようなものもある。それはあるとき何かの加減でふと姿を見せる」
「その人の中のそういうものを見つけて、好きになったの?」少女が言う。
「わからない」私は答える。
「それはもっと致命的なものだったと思う。綺麗だから好きになるんじゃなくて、好きだから綺麗に見えただけなのかもしれない。彼女の中に有るものは他人から羨まれるような種類のものじゃなかったと思う。でも僕は彼女が人間の形をしていれば、もうそれで十分だったんだ。本当にそう思っていた」
 そして気づく。胸の奥で疼くように何かが揺れている。目蓋の裏側が熱い。記憶の炎が喉の奥を焼いている。声が震えてかすれる。頭が痛い。何かが引きずり出されてしまいそうだ。目を閉じて息を吐き、精神の昂ぶりを抑えようとする。
 しばらくのあいだ少女は何も言わなかった。ただ音楽だけがそこにあった。
「泣いているのね?」
 やがて少女が小さな声で言った。
 涙は出ていなかった。けれど私は何も答えられなかった。


 恋人が泣いている。床に座り、身体に薄い毛布を巻きつけて、頭を抱えるように両手で髪を掴み、俯き、何度も小さく首を振る。必死に痛みをこらえる人のように小さく身を固め、小刻みに震えていた。声は出さない。濃い息を吐き、時々鼻をすすり上げる。涙がこぼれて膝の上に落ちる。
 時間は既に真夜中だ。輪郭を溶かしこむような暗闇に、カーテンの隙間からわずかな外灯の光が差し込んでいる。それが彼女の頭を後ろから照らしていた。俯いた顔は影に沈んでいる。
 まただ、と私は思う。また顔だけが見えない。
 私は彼女に触れようと手を伸ばす。でもそれは拒絶される。彼女は大きく首を振り、更に小さくうずくまる。
「ごめんなさい」しゃくりあげながら、その合間に彼女は吐き出すように言う。
「混乱しているだけなの。大丈夫だから」
 でもその姿はとても大丈夫には見えない。
 それはひどく微妙な時間だった。始めて二人で寝た夜だ。彼女が未経験ではないのは態度でわかった。それでも私はごく丁寧に、ひとつひとつ確かめるようにものごとを進めていった。彼女の中に踏み込むには慎重であるべきだと直感的にわかっていたから。
 彼女の身体に触れているあいだ、それが性的な行為だという感覚はひどく薄かった。ほとんど動かない力の抜けた彼女の身体を抱き寄せ、静かに支え、唇で触れる。あらかじめ刻み付けておいたしるしをたどっていくように。その細く起伏に乏しい身体を以前から知っていたような気がした。
 そしてそこには、ある種の特別な親密さが確かに存在した。少なくとも私はそう感じていたのだ。
「わかってるのよ。こういうことに一個ずつ慣れていくしかないんだって。嫌なんじゃないの。ただ時々、何かがどうしようもなくなるだけなの。私には色んなものの全部が圧倒的過ぎるだけなの。あなたは悪くない」
 ごめんなさい、と彼女はまた呟いてから鼻をすする。
「君も悪くない。謝らなくていいんだ」
 私は何とかそれだけを口にした。
 彼女はまた首を振った。でも何も言わない。
 私は彼女に近づけない。彼女は一人で何かを押さえ込んでいる。それがなんなのか私にはわからない。触れられない。

 あるいはそれは夕暮れだった。私たちは休日になるとよく一日中何もせずまどろみながら過ごし、日が暮れると二人で当てもなく歩き回ってはとりとめのない話をした。
 一日の規則的な時間の流れから引きちぎられ、彷徨っているような夕暮れの時間。影の色が空気と同じ色に近づいていく。彼女のゆっくりとした歩調に合わせて、肩を並べて住宅街の路地を歩く。声を上げて遊んでいた子ども達はもう家に帰ってしまった。路地には人の気配だけがまだくすぶるように残っている。あちこちの家の窓には光が点り、時折風に混じって夕餉の匂いがする。
「普通の人々が幸せそうに暮らしている」
 彼女が傍のマンションを見上げて、確認するように言った。私は頷く。
「きれいな時間。……」
 彼女はそれだけ言って黙り込む。そして少し歩幅を広げて先を歩いた。
 その背中と、肩先までの黒い髪が揺れているのを見る。瞬間、何かが私の心を抉るように掴む。それが何かを知りたいと思うのにうまく把握できない。時間が余りに頼りなく感じられた。空気はどこか別の世界に流れていくように不思議な匂いがした。それは恐らく、彼女の住んでいる世界だった。
 息苦しさを覚えて、私は手を伸ばして彼女の手をつかんだ。彼女はそれに応えて歩調を戻し、隣に並ぶ。しばらくそのまま黙って歩く。
「ねえ、私、あなたのこと大好き」
 彼女が何気ない口調で言う。すぐに乾いた風に紛れて消えるような甘さの無い声。
「それはたとえあなたが私のことをどう思っていたとしても、全然関係ないところにあるものごとなの」
 そう、と私は答える。彼女はゆっくり頷く。
「でも私は、あなたには幸せになって欲しいのよ」
 彼女の視線はまっすぐに遠くを見ていた。
 その二つは両立するものだと思う、と私は言う。彼女は少し笑って首を振る。でも何も言わない。
 マンションの部屋に戻り、玄関のドアの鍵を回す。開いた途端に彼女は隣から滑り込むように先に入り、こちらを振り返って、「外でだったら何を言っても、部屋に戻ると全部チャラになる気がしない?」と笑った。

 記憶の再生は痛みの再生産でもあった。
 私は記憶の中の彼女がこの先居なくなってしまうことを知っている。けれど何もできない。ただ既に起きた物事をなぞっていくだけだ。
 そして以前よりも更に深く重苦しい、新しい痛みがやってくる。


「どうして人って何かを忘れてしまうんだろう」
 随分経ってから、沈黙がほとんど意味を失いかけた頃、少女が呟いた。
「私は色んなことを忘れ始めているのに、一番忘れたい記憶だけはいつまでも鮮明に残ってる。すごく苦しかったことや嫌いだったこと。まるで人生の全部がそんなのばかりだったみたい」
 いつの間にかレコードは終わっていた。それに気がつくと、空気が急に重くなった。
「その人もうまく忘れられなかったのかな」
 それは質問というよりは単なる呟きだった。
「そうかもしれない」
 私は何とかそれだけ言った。頭の芯が重苦しく疼いていた。
 雨の音が部屋に忍び込み静かに響いていた。秋を連れてくる冷たい雨だ。私は真夜中の海のことを想像する。月明かりのない曇り空の下で、細かい雨粒を受け止めてそれは揺れている。太古からの沢山の記憶を湛えて蠢いている水の塊。
「でもあなたは忘れてしまったはずのことを思い出している。本当は、完全に何かを忘れられることなんて出来ないのかもしれない」少女が言う。
「昔から時々そんなことを思ってた。何もかもがどこかで繋がっていて、本当の意味で失われるものなんてないんじゃないかって。それがいいことなのかそうじゃないのかわからないけれど」
 私はその時何かを考えていたと思う。けれどそれは曖昧なかたちにさえならない。言葉はどこか中空を彷徨っている。


 その夜は夢を見なかった。
 眠りは密度の濃い、どろりとした手触りの湿った闇に満たされていた。脳髄を侵し思考を麻痺させ、手足を重苦しく縛りつける闇だ。何のイメージも見えない。ただ意識だけが頼りなく彷徨っている。ここはどんな光も届かない深海の底だ。温度も空気も存在しない。強い圧力の下で生き延びるために適応した、誰も目にすることの出来ない異形の生き物たちの世界。そこには地上や海の表面世界とはまったく異なる秩序が存在している。
「イルカが跳ねているみたい」少女の声が言う。
 イルカ? ここにはイルカは居ない。彼らは暖かい海で泳ぐ平和な生き物達だ。こんなに冷たい海の底では生きられない。
「それは忘れかけた頃に姿を見せるのよ」
 次は恋人の声だ。
「鯨が息継ぎのために海面に浮かび上がってくるみたいに」
 ここには鯨も居ないんだ、と私は言おうとする。けれど声は失われている。
 イルカや鯨よりもずっと冷たい生き物がここにはいる。私はそのことを彼女達に伝えようとする。けれど彼女達はもうそこにはいない。どんな生き物もそこにはいない。気がつくと私は海の底で一人きりになっている。水だけが存在する。光はない。濃密な闇。低く揺らぐような音が意識を不安定に揺らす。
「誰も居ない」私は言う。それは言葉にはならない。溶けていく。意識は洗い流されてどこかに運ばれていく。恋人の名前を呼ぼうとする。けれど思い出せない。その顔さえ暗闇に包まれたままだ。微かなイメージが曖昧に歪み、掠れていく。これが忘れるということなんだろうか、と考える。その思惟もほどけてさらわれる。そして私はかたちを失ってしまう。


「起きて!」
 低く抑えた、けれど空気を切り裂くような鋭い声で、意識は急激に収束する。
 息を呑みながら目を覚ます。
 心臓が震えるように鳴っていた。見開いた目には暗闇に紛れた天井が映っていたが、認識したのは少し後のことだ。手足が硬直し、冷たい汗が首筋を流れている。私は息を吐く。すると遅れて血が巡り始め、ようやく乱れながらも呼吸が再開される。
 必死で呼吸を繰り返しながら、目だけでぐるりと部屋を見回した。
 そこは普段どおりの見慣れた自分の部屋だ。
 少し身体を起こす。脳の中心に留められた糸の端が地球を周回しているような、ひどいめまいがした。頭を抱えるようにうずくまってそれをやり過ごす。喉が渇き、舌は自分とは別の生き物のようにもったりと口内にうずくまっている。
 随分時間をかけて意識を取り戻してから、少女の寝ているベッドを見る。
 覚醒を促した声は少女のものだった。恐らくは。けれど段々と自信がなくなってくる。それは恋人の声にも似ていたような気がする。だとすれば、今度こそ幻聴だ。
「随分うなされてた。大丈夫?」
 少女が静かな声で囁く。
 私は頷き、返事の代わりに深いため息をついた。まだうまく声を出せる気がしない。
「ねえ、ちょっとこっちに来てみて。心配なの。落ち着いてからでいいから」
 しばらくの間、私は俯いたまま眩暈が収まるのを待っていた。時間をかけて呼吸の間隔を徐々に落ち着かせていく。手足の痺れが少しずつ和らいでいくのを感じながら。
 ゆっくりと立ち上がり、小さな背もたれのない椅子を取り上げてベッド脇に置いて腰を下ろした。少女はいつもの通り完全に、生き物の気配なく静かに横たわっていた。カーテンの隙間から月明かりが差し込みうっすらと輪郭を照らしている。いつの間にか雨は止んでいる。時刻はまだ真夜中だ。
「夢を見てたの?」
 彼女がゆっくりと訊ねた。私は迷ってから曖昧に頷く。
「そう」
 声に出さなくても彼女は私の返事を受け取った。見えなくてもそこにあることがわかる、と言っていたが、私にはその感覚がまだつかめない。
「随分怖い夢だったみたい」少女が淡々と言う。
「わからない」
 ようやく私は声を出した。掠れている。喉が不快に張り付いていた。
「海の底の夢だった。怖いというより、何もなかった」
「何もない夢」彼女は繰り返す。「でも本当にひどくうなされていた」
「何かしら良くない夢だったと思う」
「そう。出来れば手を握ってあげたいけど、私にはもう手がないの」
 彼女の着ている白いワンピースの袖は本来あるべき支えを失い平坦に潰れて、細い身体にうずくまるようにして寄り添っていた。
―― 腕を千切ってでもしがみつくのをやめるわ。
 ふと、恋人の声が蘇る。一瞬鋭い頭痛が走り、思わず目尻を歪める。
「ねえ、たぶん私の記憶の欠落は、身体を失うごとに深まっていくんだと思う」
 少女が言う。
「私が忘れてしまってもあなたが覚えていてくれるんだった?」

 あらゆる記憶は失われずに、やがて息を吹き返す。潜り続けていた鯨が深海から浮上するように。それはどこかで繋がっている。


       

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Neetsha