八戸心理を中心に据えた相関図は、周囲に並ぶ顔写真のほとんどと敵対を示す赤色で結ばれているが、その中にたったの2本だけ、友好な関係を示す緑色の線がある。その片方の先に結ばれているのが、芦屋歩だ。
八戸心理の項にて、彼女が犯罪者になる事を防いだ人物としてその名前を挙げたのを覚えていただけているだろうか。クラスメイトの耳を切り落とそうとした彼女に躊躇無くタックルをかました人物。芦屋歩は小中高と、常に八戸心理の傍にいる。
朝、始業のベルが鳴るギリギリのタイミングに、まるで測ったように現れる八戸心理によって、クラスは雑談をやめて黙に沈む。目を合わせる者はいないが、無言の訴えがある。「学校に来るな」「俺を巻き込むな」「こいつと一緒のクラスになるなんて、全ツイていない……」やがて静まり返った教室に教師がやってくる。行儀の良い羊達の中に狂った狼が1匹。教師の目にはそう映る。
その日は特に、喧騒と静寂の差が激しかったはずだ。八戸心理が現れるまでは、彼女がフラれた腹いせに野球部の炊き出しに下剤を混ぜたのだ、という噂で大いに盛り上がり、本人が来れば何も聞いていないというような素振りを見せる。クラスのほとんどがそうだった。唯一、芦屋歩を除いて。
「随分と機嫌が良いじゃないか。ハチ公もついに傷心から復活か?」
ここで言う傷心とはつまり、八戸心理がマネージャーとして潜伏する為に必要だった、猫かぶり時期を指す。が、他の生徒にとって今はそんな事はどうでも良く、芦屋歩の叩いた軽口が、火山の核を刺激して、噴火させてしまわないかが肝心だった。八戸心理と同じクラスに所属していれば、冷や汗を流す瞬間が毎日少なくとも1度はある。
周囲の生徒から必要以上に距離を離された机の上に、鉄板の入った鞄をぶっきらぼうに降ろした八戸心理は、静かに呼吸をしながら芦屋歩を睨む。
「芦屋歩。お前の力を貸せ」
「なんだって?」
「力を貸せ、と言った」
芦屋歩はこの時、八戸心理の鋭い眼光を興味深そうに眺めたが、それは彼女が何を言っているのかを確かめたかったのではなく、そこにいるのが確実に彼女である事を確かめたかったのだ。しかし良く考えてみれば間違える訳が無い。こんな人物、2人もいたら世界が滅ぶ。
上から見下ろし、命令口調で要求を押し付ける。それは決して人に物を頼む態度ではなかったが、八戸心理の仕草は今までに見た事の無い物だったので、それが彼女にとっての人に物を頼む態度なのであると芦屋歩は理解した。
「……さて、困った事になった」
というのは、時に八戸心理の保護者や弁護士や下僕を買ってでる芦屋歩の口癖となっていた言葉だったが、今回の場合は本当の意味で「困って」いた。彼女の頬をゆっくりと伝う涙を止める言葉が、彼には見つけられなかった。
芦屋歩の最も大きな特徴を挙げろ、と言われれば、八戸心理と比較的良好な関係を築いている希少な人物であるという事を僅かに差し置いて、指が「6本」あるという事実を私は挙げよう。
多指症と言い、読んで字の如く普通の人より指が多い。先天性異常の部類では割とメジャーな方らしく、有名なところでは豊臣秀吉やサリンジャーもそうだったという。
多指症の者は思っているよりも多いが、人が勝手に想像する意味での綺麗な6本指というと意外と少ない。6本目の指が歪であったり、骨が無く、指としての機能を有していなかったりして、生まれてすぐ手術で取ってしまうケースの方が多いようだが、芦屋歩の6本指は、まるでそこに指があるのがごく普通で、5本しか無いのが異常な事であるかのようにシンプルで美しく、そして動きも滑らかだった。しかも両手両足全てがそうだったので、非常に稀有な存在といえる。
「確かに、指をそのままにすればいじめられるかもしれない。でも息子は息子として生まれてきたんですから、6本指も彼の個性だと思って最大限尊重したかったんですよ。それで、歩がハイハイ出来るようになった頃、ギターとボールとキーボードを横に並べましてね……で、歩が選んだのがボールだったという訳です」
6本指を個性として認めつつ、それでも成長の過程でいつか抱くであろう「普通とは違う」という感情を「恥」だと思わせたくはなかった。6本目の指が他人には無い唯一の武器であれば、その思いも軽減されるはず。目を細め、はにかむように語る芦屋歩の父に、私は感動さえ抱いた。
が、それを見事にぶち壊してくれたのが八戸心理だった。
自らの意思でボールを選び、それを1番お気に入りのおもちゃとした芦屋歩は、0歳の頃から野球の英才教育を受けてきたといえる。これは何も私のようなスカウトマンでなくても分かりきった事だとは思うが、スポーツというのは才能の良し悪しと始めた時期の早さが物を言う。タイガーウッズは生後9ヶ月からクラブを握っていた。芦屋歩は3歳の頃には野球のルールを理解していたし、同時に楽しい物だとも思っていた。そして自分の6本指を、上手く使いこなす事が出来たなら、誰にも投げられない球を投げられると確信した時、野球はますます楽しいスポーツになった
野球における「変化球」とは主に、マグヌス効果によって得た揚力を使い、ボールを普通の軌道から曲げる事にある。単純に考えてもらう為、ざっくりとした説明になるが、例えばボールが時計回りに回転しながら打者に向かっていった場合、揚力は進行方向と鉛直に発生し、投手から見て右に曲がる変化球となる。右投げ投手の場合、これはスライダーやカーブと呼ばれる。変化球の種類は100種類以上はゆうにあり、それぞれ変化量、速さ、球の伸びなどの特性が細かく違っているのだが、ここでは割愛する。とにかくこれだけ覚えていただければいい。「変化球はボールの回転によって生まれる」
では、どうやってボールに回転を加えるのか。答えは握り方と手元を離れる瞬間のスナップにある。カーブ、スライダーはボールの直径を親指と人差し指で抱えるように握るし、シュートは中指と薬指で挟み込むように握る。スナップをきかせて切るように投げるのがカットボールで、手首を動かさずに指の間から抜くように投げるのがフォーク。
とはいえ、握りや投げ方を真似しただけで同じ変化球が投げられる訳ではない。先に述べたのはあくまでも一般的な方法であって、当然、プロはここに工夫と改良を重ね、それを毎日の練習の中で少しずつ体に覚えこませ、なおかつ実戦で活躍させて、ようやく変化球を自分の物にする。芦屋歩は、その作業を5歳の頃からやっていた。そして6本指による奇妙な回転の力は、常識を超えた物となった。
「で、俺は何をすればいい?」
「お前に野球以外の特技があったか?」
お前の子守りだよ、と芦屋歩は答えそうになったが、寸での所で堪えた。そして申し訳なさそうな表情をわざとらしく作って、肩をすくめて答える。
「……野球はやめたって言ったはずだぜ」
中学生最後の年まで、芦屋歩はヒーローだった。
6本指を生かした投球の秘密はその独特の握り方から発生させる、完全な「進行方向に対して直角になる縦回転」にあると芦屋歩は言うのだが、正直言うと私自身よく分かっていない。しかし事実として、芦屋歩の変化球は、まったく同じ「握り方」で違った変化を起こす事が出来る。それも、ボールを無回転させる事で得るナックルボールのような不規則な変化ではなく、狙った方向に曲げる事が可能だと言ったら、私は詐欺師扱いされるだろう。
芦屋歩の弁によれば、ピッチャーマウンドからキャッチャーの手元までにつく時間、約0.54秒の間に、ボールは約15~19回転する。この回転数の違いによって、ボールに発生させる揚力を調整し、空気抵抗による回転の減速とシーム(ボールの縫い目)の方向を微妙に変える事によって、好ましい気流を生み出す。一言で言ってしまえばただの魔法だ。
芦屋歩の変化球の握り方は、一見するとシュートのそれに見える。しかし彼には6本目の指がある。中指と薬指でボールを押さえ、なおかつその薬指に、「6本目の指」を交差させ、小指と親指でボールをグリップする。薬指と「6本目の指」の交差は、さながらキリスト教におけるクロッシング・フィンガース(十字架を模し、意味は「幸運を祈る」)のようで、彼はこのオリジナル変化球に「アンセムボール」と名前をつけた。
見事自らの特徴からオリジナルを生み出し、それを特技として発展させた芦屋歩はリトルシニアの選手として活躍したが、中学2年生でチームを止めた。
原因は、チームメイトの嫉妬と他チームによる批判だった。芦屋歩に対して取材をした当初、私にはここがどうしても不思議で仕方なかった。小学校でリトルリーグに所属していた頃から中学1年生までは、確かに奇異の目で見られる事はあったものの、野球を止めざるを得なくなる程に人間関係が悪化する事はなかったと言う。「他人の目が変わるような、何かきっかけがあったのかい?」と尋ねると、芦屋歩は少し考えた後、答えた。それは突然の事だったという。「あいつは自分の6本指を鼻にかけて、普通のピッチャーを馬鹿にしていた」だとか、「あいつが強いのは指が6本あるおかげであって、努力した訳じゃない」だとか、スポーツに励む中学生としては酷く陰湿な噂や憶測が飛び交いだしたのだという。これにより、私の違和感と疑惑はますます増幅した。写真の中、並んで肩を組み笑う野球少年達に、陰口はどうしても似合わないように思われたのだ。
当時の芦屋歩にとって、野球は確かに得意なスポーツであり、自己を構成する重大な要素の1つであったが、嫌な思いをしてまで続けるほどの物でもなかった。終わりの無い練習に耐える事は出来ても、終わりの無い試合に耐える事は出来ない。
以来、現在に至るまで、芦屋歩は野球から離れ、ボールを握ろうとすら思わなかった。しかし八戸心理が、平気で人の心をえぐる人物だという事は前章で述べた通りだ。
「やめたのならまた始めろ」
「……まったく、勝手な事を言ってくれるなぁ」
ぼやく芦屋歩の口は、自然と緩んでいた。
「芹高第二野球部を、ここに発足する」
「だ……第二野球部!?」
「そうだ」
八戸心理の決心は固かった。
何者かの手によって作られた下剤入り豚汁を食べた野球部1軍2軍は、その次の日、隣県の甲子園出場候補のとある高校との練習試合に出る事が出来ず、急遽補欠組で作った3軍に、運良く難を逃れた杵原良治をピッチャーとして加え、これに対応した。結果は1-0で芹高の勝利。いつもの通り、完全試合だった。
「えっとつまり、まだ復讐は終わっていないって事か?」
「『まだ』というのが何を指しているのかは分からんが、私の告白を笑った奴らはもう許した。肝心なのはあの『かたわ』だ」
意識して名前を出さなかったのに、顔が脳裏をよぎっただけで歯軋りをする八戸心理。芦屋歩は頭をぽりぽりと掻きながら、例の言葉を述べる。
「……あーあ。困った事になったもんだ」
「他人事のように言うな。お前は栄えある2番目の部員なんだぞ」
「2番目? 1番目は?」
「当然私だ」
「一応聞くけど、3番目は?」
「今はいない。これから捕まえる」
「……野球って、何人でやるか知ってるか?」
「知らん。教えろ」
こうして、芦屋歩は芹高第二野球部の最初の選手となり、そしてエースとなった。
これは余談ではあるが、芦屋歩が中学の時野球をやめた理由に対して私が抱いた疑念と違和感は、ひょんな事がきっかけで払拭される事になった。裏を返せば、なんという事はない。犯人はやはり八戸心理だった。
彼女を良く知るもう1人の人物曰く、芦屋歩の放課後を練習によって奪った野球と、野球に夢中になって彼女の世話を怠るようになった芦屋歩が許せなかったそうだ。チームに悪い噂を流し、芦屋歩を精神的に追い詰め、野球をやめさせた八戸心理は、今度は自分がフラれた腹いせに新しい野球部を作り、復讐をしようという企みに無理やり芦屋歩を引き込んだ。これはあくまで私個人の主観的な意見であり、個人を貶めるつもりのないただの感想なのだが……八戸心理を好く男などこの世にいるはずがない。
別の日にもう1度行った取材の時、その事実を芦屋歩本人に教えると、芦屋歩は諦めたように苦笑いして答えた。
「ええ、前から知ってましたよ。でもあいつは俺が知っているという事を知りませんから、出来れば黙っておいてくださいね」
世の中、まだまだ分からない事だらけだ。