事の起こりは、この部活ではお決まりのミーティングという名の雑談だった。「サガ×カノン最高」「いやいや、カミュ×氷河でしょ」「ちょっと、シャカ様忘れないでよ!」
少し離れたところから聞くとドン引きの内容を、彼女たちはときに行き過ぎた妄想なんかをして、それを突っ込まれたり反論したりしながら、みなそれぞれ好き勝手に自分のベストだと思うカップリングを挙げて盛り上がっていた。
このミーティングもどきには終わりがない。正解がないのだから結論が出るはずもなく、いつも時間切れで解散になる。そしてまた、同じ話題を繰り返すのだ。
それでも飽きる者はいなかった。Y女の漫研部員になるためには、漫画がうまいでも好きでもなく、カップリング議論をいつまでも繰り広げられるかどうかにかかっている。
今回もミーティングという名の熱いカップリング議論は平行線をたどり、時間だけが無意味に過ぎていった。
いつのまにか教室の時計は午後六時をさしていた。こういう、好きなことを語ったり聞いたりする時間は、本当に過ぎるのが早い。議論は今日も決着が着かないまま、持ち越しの気配が漂っていた。そろそろ解散する頃合だ。部長が締めのあいさつに入る。
「じゃあ決まりね。みんなが選んだベストカップルは、サガ×カノンで」
誰も何も言わなかった。菜乃もべつにそれでいいのではないかと思い、黙っていた。実際、サガ×カノンのカップリングは嫌いではなかった。
反論がないのを確認して、部長は満足そうに立ち上がった。そのまますぐに帰り支度を始める。他の部員も、それにならってぼちぼちとイスから立ち上がった。
一年生は、会議仕立てに並べた机とイスを元に戻し始めた。菜乃もそれに参加する。手伝ってくれようとする先輩もいたが、菜乃はその申し出を丁寧に断った。片付けは一年生が率先してやるものだ。
半分ほどを戻し終わったところで、菜乃は、まだ座っている人がいることに気付いた。副部長だった。
副部長がまだ座っている理由を考えないわけではなかったが、早く片づけを終わらせたかった菜乃は、イスを片付けてもいいかを副部長に聞こうとした。他に座っている人もいなかったので、彼女はすぐにどけてくれると思った。
「あの……」そう言って、近づこうとしたときだった。
「いいかげん気付いてくれないかしら」
副部長が座ったままで言った。
「えっ?あ、すいません……」
自分が言われたと思った菜乃は、反射的に謝った。けれど、謝ったものの、なぜそんなことを言われたのかがまるでわからない。
「それとも、そのまま逃げて強引に決定ってことにするつもり?」
そしてさらにそんなふうに続いたものだから、菜乃の頭の中は疑問符だらけになった。理由を聞いてみようにも、副部長は目を合わせてくれない。どうしようかと困っていると、菜乃の肩に誰かが手を置いた。
「私に言ったのよね?」
「あ、部長……」
帰ろうとしていたはずの部長が、いつの間にか菜乃の後ろに立っていた。部長は菜乃の肩から手を離すと、割り込むようにして菜乃と副部長の間に入った。菜乃は暗に二人きりにしてほしいと言われた気がして、その場を離れた。いつ結成されたのか、部員による部長と副部長を見守る会が、向こうで菜乃を呼んでいた。
「不満みたいね」
部長が、副部長に正面向かって言った。副部長が顔を上げる。
「大いにね。少しは期待してたんだけど、結局あなたは最期まで新しいことに挑戦しようとしなかった」
「どういう意味かしら」
「また同じものを描くのかってこと」
「同じもの? わたしは同じものなんて描いた覚えはないんだけど」
部長がそう言うと、副部長は眉をつり上げて、部長をにらみつけた。
「よくもそんなことが言えるわね。バカの一つ覚えみたいに、サガ×カノンサガ×カノンサガ×カノン。思い出したかのように、たまに一輝×瞬をはさんでまたサガ×カノン。そして今回も最期だっていうのにまたサガ×カノンじゃないの」
「王道ってことでしょ? いいじゃない。サガ×カノンの何が悪いのよ」
「王道? ……王道ですって?」
副部長は、あきれたようにため息をついた。
「あなたのはね、王道じゃなくてワンパターンっていうのよ。市場のニーズは常に変化してるのよ?そんなことじゃ、取り残されるだけだわ」
「だったらいったい、あなたはどのカップリングがいいっていうの?」
「ふ……そんなの決まってるじゃない。蟹×魚よ!」
副部長は待ってましたとばかりに、高らかに言い放った。
「えっ?」あまりにも予想外、あっ気に取られる答えだった。部長だけではない、副部長以外のその場にいた全員が、変な顔になってしまったはずだ。
「ちょ、ちょっとまって。それって単にあなたの好みってだけよね」
部長が聞き返す。さすがに聞き間違いではないかと。
しかし、副部長はきっぱりと言った。
「違うわ。市場のニーズよ!」
部長と副部長の争いは、段々と長引きそうな雰囲気を見せ始めていた。こんなことになってしまっては、他の部員もそう簡単には帰れない。見守る会は、悪い意味で存続することになってしまった。今はみな、並べ終えた机やイスに腰掛けて、二人の争いを眺めている。
「なんか、ごめんね?」
二年の先輩が、菜乃たちに小声で謝った。どうやら一年生には耐え難い状況だと思ったらしい。確かにまだ入部して二ヶ月ほど。これをきっかけに、辞めると言い出す子がいてもおかしくはない。だが、今年の一年生に関しては、それは杞憂だと思われた。
現在、一年生は菜乃を含めて三人いる。三人とも性格はまったく違っていて、勝気な木梨柚子、弱気な乙菜しぃ、そしてマイペースな菜乃といったかんじで、わかりやすくていいと部内では好評である。彼女たちは、カップリングの好みも全然違うのだが、性格が違いすぎるのでそれが当たり前だと思ってしまうのか、お互いを批判するようなことはなかった。三人は徐々に部活以外でも一緒にいることが多くなり、ときに部活の話題になることもあった。そしてそんなとき、三人の結論はいつも同じになるのだ。こんな居心地のいい場所はないと。
そんなわけで、菜乃は他の二人が辞めようかと考えるなど、微塵も思わなかった。実際、柚子はこんなことならもっと議論を続けているべきだったんだと、不満を先輩に漏らしているし、しぃはどんな結末になるのかおろおろしながらも、どちらの方につくべきか真剣に考えて成り行きを見守っていた。二人とも部活を辞めるといった考えは、少しも頭になさそうだった。そして菜乃は……この状況を実はちょっとばかり楽しんでいた。
カップリング議論には決着をつけない。入部して以来、漫研にはそんな暗黙のルールが存在していると、菜乃はずっと思っていた。そしてそれは段々と、菜乃に物足りなさを感じさせるようになった。だから二人の言い争いが始まったとき、菜乃は内心、心躍る気持ちだった。
部長と副部長の争いは、まだまだ終わりが見えない。それどころか泥沼化して、明日まで続きそうな勢いだった。さすがにみな、止めたいと思ってはいるのだが、なにせケンカしている人が人なので、見ていることしかできないのが現状だった。
「なんかあたし、こうなる気がしたんだぁ」
早くも、二人が飽きるのを待つしかないとあきらめた先輩がつぶやいた。
「まあねー。考えてみたら、去年から兆候あったかも」
「え、うそ、どのへん?」
「秋ぐらいかなあ」
見守る会の話題は、当初の部長と副部長をどう収めるかというところから、二人の確執はいつからかというところに移っていた。話題は当然、過去のことばかり。必然的に、一年生たちは入っていけなくなる。
「ねえ、菜乃ちゃん……」
しぃが菜乃の隣にやってきてイスに座った。取り残されたのが心細かったのだろう。
だが、菜乃は返事をしなかった。無視したのではなく、気付いていなかったのだ。菜乃は、二人の争いに見入っていた。自分の思いのたけをここぞとばかりにぶちまける姿は、菜乃を興奮させた。ピンク色の妄想が膨らんでいく。口の中に唾液がたまってあふれそうになった。妄想しだすと、どこまでも止まらないのは菜乃の悪い癖だ。
「へっ? あ、何?」
菜乃がしぃの呼びかけに気付いたのは、名前を5回も呼ばれた後だった。菜乃は、たまった唾を噴き出さないように、慎重に飲み込んでから聞き返した。
「ううん、菜乃ちゃんはどっちがいいのかなって」
しぃは特に怒ることもなく、口調も穏やかなままだった。
「ああ……そうね……」
菜乃は口ごもった。正直、どちらも捨てがたい。だから聞き返して時間を稼ごうとしたのだが、すぐにやめた。しぃが熱烈な副部長信者だったことを思い出したのだ。
「って、迷ってるんだよね」
「うん……」
予想は当たっていた。
「どうしたらいいかな?」
しぃは純粋に、副部長の画力に憧れていた。だからできれば、副部長に味方したいのだ。けれど、選んだカップリングのチョイスがしぃを押しとどめる。しぃの好みは、まさに部長と同じだった。それはこれまでのミーティングに参加していればわかるし、一年同士での雑談でもうかがい知ることができた。
どうしたらいい……。菜乃はその問いに、答えを出してあげることができなかった。
「ねえ、柚子ちゃん、ちょっと力ずくでもいいから止めてきてくれない? 私、そろそろ帰りたいのよね」
原因を探るつもりが、思い出話になっていた会話もひと段落し、すでに先輩たちはお疲れモードである。中には、机の上に寝そべっている先輩もいた。ちょっと離れたところで、菜乃としぃが何か話していた。
「無理ですよ。一年に無茶言わないでください」
柚子は断固として拒否してみせた。あんな危険地帯に、何の武器も持たない一年生を突っ込ませるなんて、戦車に竹やりで挑んで来いと言っているようなものだ。
「なんだ、やっぱり柚子ちゃんも部長たちは怖いんだ」
先輩が意地悪く笑う。
「な……べ、べつに怖くありませんよ」
言ってから、柚子はしまったと思った。挑発されると、柚子はそれをどうしても受け流すことができない。それがまた先輩の挑発を呼ぶのもわかっているのに。
「いやいや、今日はしょうがないって。なんたってあの日だもん」
だが結果的に、今回はそれが反撃の糸口になった。先輩が今、うっかり口走った一言を、柚子は聞き逃さなかった。
「どういうことですか?」
「あ、やば……」
失言した先輩は慌てて口をふさいだが、さすがに手遅れだった。
「あの日? あの日ってなんですか? 部長が今日に限ってベストカップルを決めた理由、先輩たちは知ってるんですか?」
柚子は先輩たちに納得のいく説明を迫った。
「いや、それはつまりね……」
上級生に対しても物怖じしないその迫力に、先輩たちはついに白状し始めた。
「まあ、あれよ。今日のミーティングって、次の同人のカップリングを決めるための超重要なものだったのよ。それであんなに必死なわけ」
簡単にいうとそういうことだった。簡単だが重要なことだ。
「どうしてそんな大事なこと教えてくれなかったんですか!」
柚子が身を乗り出して怒鳴った。
「ゆ、柚子ちゃん……」
柚子の声を聞いて、しぃが慌てて柚子を押しとどめた。
「ちょ、ちょっと離してよ。まさか殴りかかるとでも思ったんじゃないでしょうね」
しぃはこくりとうなずく。
「……あのね」
まったく、重度の心配性だよあんたは、と柚子は思った。
先輩は言い訳を続ける。
「予算の都合上、出せるのは一種類だし。三年生には最後の作品なわけだし。一年生にはそんな権限ないし。それが伝統だし」
「それが理由ですか?」
「うん」
「それなのに、何も知らない一年生に部長たちの争いを止めさせようと?」
「うん」
「……」「……」
「理不尽ですっ!」
「ゆ、柚子ぅ……」
ぎゃあぎゃあわめく柚子と、それを必死でなだめるしぃ、そしてたじたじの先輩たちと。こちらもずいぶんにぎやかになってきた。
「菜乃ちゃん、止めないの?」
菜乃の横で、先輩の一人が言った。
「どっちをですか?」
「えっ?」
先輩が驚く。
菜乃も言ってから後悔した。そんなもの、ちょっと考えればすぐにわかることだ。
「すいません、生意気言いました。柚子ちゃんたちの方ですよね」
「べつに部長たちの方でもかまわないわよ?」
「勘弁してください」
「あら、意地悪で言ってるわけじゃないのよ。本当にそう思ってるの。私たちじゃ無理だから」
「そりゃまあ、あそこに割り込むのは勇気がいりますよね」
「勇気? うーん、それはちょっと違うかな」
先輩はちょっと考えてから、自嘲気味に笑った。
「私たちがあそこに入っていけないのはね、私たちがあの人たちに敵わないからよ。……止めるんなら、二人より優れたもの持ってないとだめなのよ」
「優れたもの、ですか」
「そう、例えば画力とかストーリーの構成力とか、経験とか」
確かに、部長も副部長も、他の部員とは比べ物にならないほど絵も話も作るのがうまかった。かくいう菜乃も、彼女たちの作品に惹かれて入部したわけだし、気後れする彼女の言い分もわからなくもない。
それならば経験……。いやいや、それこそ無理だ。横で笑っている先輩には本当に失礼だけれども、男だったら百人が百人、部長か副部長を選ぶと思われた。
「だからまあ、みんなが柚子ちゃんに言ってるのは、期待もちょっとは混じってるわけよ」
「柚子、絵うまいですもんね」
ああ、そうだったのかと、菜乃は少し納得した。
「私はべつに、菜乃ちゃんでもいいと思ってるんだけど」
しれっと、とんでもないことを言う先輩。まったく何を言っているのかと、菜乃は思った。画力もストーリー作りも部長たちには遠く及ばない。経験だって、恥ずかしながら菜乃は生まれてこの方、人様に自慢できるような経験なんてしたことがなかった。むしろ、できることならしてみたいとさえ思っている。……でも、もし自分が部長たちのような容姿をもっていたら? 菜乃はそんなことをぼんやりと考えた。
「いやいやいや、できるわけないじゃないですか」
菜乃は、慌てて妄想を振り払った。
「そう?」
先輩は残念そうだったが、それ以上しつこく言うようなことはなかった。
「えー、まことに残念ではありますが、現時点を持ちまして、部長と副部長を見守る会は解散といたします」
時間は午後七時。漫画研究部に臨時で設置された見守る会は、その役目を果たせぬまま消滅することとなった。外もすっかり暗くなり、もう帰らなければいけないという部員たちの不満が大きな原因だった。もっとも、かなり前から士気は下がりきっていたのだが。
「じゃあ、ま、みんなどっち派なのかだけでも確認しておきましょうか。決めるのはあの二人だけど、参考にはなるでしょ」
「で、帰ると」
「そう」
「まったく、最初からそうしてくれればいいんです」
散々いじられた挙句の遅すぎる決定に、柚子は不機嫌そうだった。
「まあまあ」
残念ながら、先輩に内緒だと釘を刺されていたので直接は言えなかったが、菜乃は心の中で「期待の現われなんだよ」と柚子に言ってあげた。
「私は部長派かな? やっぱり今までどおり、無難にいきたいし」
黒板を二つのスペースに分け、一人一本、黒板に白い線を入れていく。
「あ、私は副部長に一票。可能性を模索するのって悪くないと思うのよね。思い切ってニオベ×アルデバランとか」
「あんたマニアックねえ……」
ああだこうだと言いながら、みな楽しそうだ。漫画研究部はそんなに部員が多いわけじゃない。投票はあっという間に終了した。
「そりゃまあ、こうなるよねえ」
「うわぁ……」
「圧倒的」
黒板に書かれた正の数。それは偏りに偏っていた。
「わざわざ投票するまでもなかったね」
「いいの? あんたニオベ×アルデバラン押しだったんでしょ?」
「こんな結果見せられたら、普通はあきらめるって」
「それもそうだ」
先輩たちは笑った。
「まあ、これであの二人の争いも明日には終わってるでしょ」
これだけ大きく書いたのだ。さすがに目に入るだろう。それで二人がどう思うのか、素人でも容易に想像ができた。
「帰ろうか」
誰ともなくそう言って、菜乃たちはカバンを肩に掛けた。
一番最後に出ることになったひとりが、部長たちの邪魔にならないよう、そっとドアを閉めた。
けれど、その判断は大いに間違っていたのだと、菜乃たちは後に思い知ることになる。