Neetel Inside 文芸新都
表紙

短編集
はじめてのおつかい(87歳)

見開き   最大化      

はじめてのおつかい(87歳)


 満員電車とは異様な空間である。名前も知らない他人同士が密着するような距離で詰め込まれている状況がおかしなことだと、おそらく誰もが考えたことがあるだろう。人間にはパーソナルスペースというものがある。他人に入られると侵されたと感じる、縄張りのようなものである。家族相手だって、密着した状態には違和感がある。しかし実際、満員電車でそのような違和感を感じている人は少ない。
 
 彼女も、先日までは満員電車に乗っていた。綺麗に髪をオールバックにし、少し派手でお洒落なスーツを着た中年のサラリーマン。スマートフォンを持つ左手には年季の入った結婚指輪が見える。その背中で小さくなっている彼女は彼がどんな人物なのか想像する。身だしなみに気を使う彼は、会社でモテるのだろう。きっと仕事も出来るに違いない。かっこいいおじさんだけど、ちょっと既婚にしてはスーツが派手すぎない?不倫でもしてるのかしら。ドラマで奥さんに殺されるタイプだわ―――。次に彼女は周りから自分がどう見られているか想像する。ああ、今日寝坊しちゃって時間なかったし、髪の毛ぼさぼさだなあ。きっとだらしがない女だと思われているに違いない。まあ確かにそうなんだけど。でもあとは大丈夫よね?化粧する時間はとれたし、洋服もアイロンがちゃんとかかってるし。まあたまたま電車が一緒だった人にどう思われようと知ったこっちゃないけどさ。

 谷口優子は3ヶ月前に大学を卒業し、現在は某大手コンビニエンスストアチェーンに勤務している。志望にあたり特に小売業界への情熱は無く、大手ならばどこでもよかった。勤務していると言ってもこういった小売業界では新人に対し現場での研修が課せられるもので、現在彼女は自転車で十分ほどのところにあるコンビニで働き始めて2ヶ月目という状況だ。正直もううんざりである。コンビニというのはどうも、「人がいる自販機」のように思われているらしい。茶髪の大学生風の男が電話をしながら大量に酒を買っていったり、サラリーマンが少しの愛想も見せずにコーヒーと金だけ置いてさっさと立ち去ったり。接客しているあたしの気持にもなってみろ、といつももやもやする。もっとも客に気負いさせない手軽な雰囲気がコンビニの長所なのだろうと、一応正社員として理解はしているつもりなのだが。
 コンビニで働くにあたり嫌なことはもう1つある。変な客が来るのである。18歳未満購入禁止の雑誌を買っていくサラリーマンなんて可愛いもので、毎日昼間の同じ時間に大量の日本酒を買っていくおじさんや明らかに事を済ましたあとの若者とおばさんのカップルなど、想像力をかきたてられる謎の客がほぼ毎日来る。平静を装うのが大変だし何より不快である。

 いつものように挨拶を済ましてタイムカードを押しレジに立った優子に、待っていたアルバイトが声をかけた。19歳のフリーターの佐藤という女で、茶髪にピアスと明らかに頭が悪そうだ。コンビニが手軽なイメージを持たれる原因は、こういうところにもあるのだろう。普通の店なら接客をする人の格好ではない。
 「谷口さん、あと1ヶ月半で終わりでしたっけ? はやいなあー。あたしさみしいです。」
 「そう?ありがとう。」
 「そうだ、今度飲みに行きましょうよ。ね?」
 「あはは、20歳になったらね。」
 軽く受け流して、今日はどれぐらい大変かな、と想像する。平日の昼間で客はあまり来ないだろうし、忙しくならずに終えられそうだ。なによりこの時間帯にやってくる客は主婦や老人ばかりで愛想がいい。もっとも想定外の客というのはどんな時間帯でもやってくるのだが。
 
 「谷口さん、ちょっと」
 「なに?」
 勤務が始まって3時間もした頃、佐藤が珍しく神妙な表情で話しかけてきたので、優子は少し面食らった。周りに聞こえないように意識している声である。
 「今出て行ったおばあさん、万引きです。」
 「え?」
 最近構ってほしさやストレス発散に万引きをする老人が増えているというが、まさか自分が出くわすとは。年長者の自分が止めにいけということだろうか。
 「うーん…じゃあちょっと行ってくるわ。」
 しぶしぶ優子はレジを出て、店の外へ向かった。老人はゆっくりと駐車場を歩いている。歳は高齢のようだがまだまだ元気そうな歩き方だ。紺のロングスカートに白いシャツ、紫の日傘と、金持ちのおばあさんといった出で立ちで、とても万引きをしそうには見えない。
 「あのー、おばあさん。万引きはダメですよ。」
 老人は少しも驚いた様子を見せず振り向いた。何も悪いことをした覚えはないとでも言いたげな、すました顔である。その表情から、まだあまり痴呆が進んでいないことがわかる。
 「あら?私息子に、後で払っておくからコンビニの物は持って行っていいって言われたのよ。」
 優子は苛立ちを覚えた。大体世の中の老人というのは、自分が老人であり守られる立場であることを過ぎるほどに自覚していて、彼らの一部はその立場を利用することさえ考えている。電車で大声で話したり、若者に堂々と文句を言ったり、「老人なのだからしょうがない」と世間に認識されていることを盾にやりたい放題している節がある。この老人もそのタイプだろう。
 「そんな約束してないんです。今からレジを通していただければ大丈夫ですので…。」
 「本当に言われたのよ。ちょっと待ってくださいな、今息子を呼びます。」
老人のあまりに堂々とした態度に怒りを通り越して呆れる。こうなったら最後まで言い訳させてみよう。老人は携帯電話を取りだし、息子に電話をしだした。
 

 

 



     

 「どうも母がすみません。」
 「いえ、お金さえ頂ければ結構ですので…。」
 老人の息子は事務所に来るなり謝罪をした。彼を待つ間出先の店長にも電話で確認したが、老人のしたことだしお金さえ払ってもらえれば今回は大丈夫だということである。息子と言っても老人の域に入りかけている彼は、白い口髭の下で唇を結び下を向いていた。信頼の置けそうな人物であるし、老人のいたずらということで一件落着になりそうだ。優子はちらと掛け時計を見て、こんなことで時間を潰せて案外ラッキーだったかもしれないと思った。
 「ちょっと祐司、あなた言ったじゃない。」
 ふと老人を見ると、祐司と呼ばれた息子を見つめる母の瞳が少しずつ潤んでいく。当惑の表情である。おや、と優子は思った。こういうときって大抵万引き犯は逆切れしたり涙ながらに謝ったりするんじゃないの。
 「母さん、もうやめてくれよ。」
 息子の突き放したような言葉を聞いて、老人はわっと泣き出した。息子もますます縮こまってしまい、ちらちらと母の方を見ている。これは何か状況が違うようだ―――老人は本気で息子を頼りにしているし、息子は本当にすまなそうに見える。どういうことだろう?

 結局老人は泣いたまま、息子は後ろめたそうにしたまま、牛乳とパンの料金を置いて帰って行った。違和感を残しつつも優子は勤務を終え自宅に帰った。
 
 帰ると時間は7時ごろで、母が台所に立っていた。優子は着替えを済まして居間でテレビをつけた。家には優子の部屋も用意されているものの、着替えに少し寄るだけでいつも居間で寛いでしまう。何か会話をするわけでもないのだけど、ソファーに座って麦茶を飲みながらテレビを観るのが習慣になっているのだ。例え親友相手でも気を抜くことが出来ない優子にとって、家族というのは唯一疲れずに一緒にいられる他人であり、本人も意識はしていないのだが、家族と共有する時間は日々の癒しになっているのだった。
 30分ほどくだらないバラエティ番組を観ていると、玄関からがちゃりという音が聞こえた。この時間ならば、弟の帰宅だろう。ほどなくただいまという声が聞こえ、大きなかばんをぶら下げた浩太が居間へ入ってきた。
 挨拶も手短に浩太はどたどたと階段を駆け上り、自分の部屋へ入って行った。かばんを置くどすん、という音とクローゼットを開ける音が聞こえ、またしばらくするとどたどたという音がして居間へ戻ってきた。元気なやつである。
 
 浩太もしばらくソファーに座ってテレビを観ていた。なんとなく優子は今日の話を切り出した。万引きのおばあさんがいてね、息子にお金を払わなくていいって言われたっていうのよ。で証拠に息子を呼ぶっていうんで来てもらうと、そんなことは言ってない、母がすまなかったって言うの。その時の親子の表情が不思議で、おばあさんはなんで息子がそんなこと言うのか分からないって表情だし、息子は申し訳なさそうにしてるの。おばあさんに対してよ。どう思う?
 浩太はしばらく考えてから口を開いた。それって、息子さんが本当に言ってた時の反応みたいだよね。
 確かにそうである。息子が「確かに言いました」と言うパターンを繰り返していたときでも同様の反応は考えられるが、そんなことを言ってもメリットがない。それに店によっては捕まってしまうので繰り返せることではない。ただ、もし息子が本当に言っていたのだとすると理由が分からない。本当にコンビニのシステムを知らないだとか? まさか。
 

 翌日もコンビニへ行き、勤務の合間に店長へ昨日の出来事を説明した。一応彼らの不可解な様子も説明したのだが、店長の関心は当然ながら万引きを繰り返すかどうかにしかないらしく、「まあ大丈夫だろう」と一言だけ聞いてその話は終わりになった。
 レジへ戻ると、今日も一緒である佐藤がぼーっと外を見ながら待っていた。
 「谷口さん、昨日の万引きのおばあさん、結局どうだったんですか?」
 「うーん、まあ息子さんがお金置いて帰っていったよ。」
 佐藤とこのことについて議論を交わすのが面倒に思えた優子は、特に疑問点を説明しなかった。
 「さっき昨日のおばあさんが、こっちを見ながらそこを通り過ぎて行ったんですよねー。凄いこっち見てましたよ。恨みでも買っちゃったのかと思って怖かったです。」

     

 次の日、優子はおばあさんを見た。初夏の暑い昼で、アスファルトから蜃気楼がのぼっていた。その中をおばあさんが横切っていく。寂しそうにこちらを見つめている。まるで幻のようであった。
 それから一週間優子がレジに立っておばあさんを見なかった日はなく、冷えた日も雨の日もやってきて、またある日は少し立ち止まって、去っていくのだった。

 しかし最後の日を境に、おばあさんは訪れなくなった。ほっとした気持ちもあったが、何か気持ち悪さが残る。あたしが何をしたっていうの。ほとんど咎めずいたずらに付き合ってやったんじゃない。逆恨みなんてたまったもんじゃないわ―――。
 このことを浩太に話しても流石によく分からない、というかもう興味を失ってしまったらしく、ああ、とかうん、とか素っ気ない返事を返すだけであった。あの場に居合わせた当事者でないとこの胸くその悪さは分からないだろう。もういいや、さっさと忘れちゃいましょう。あと1ヶ月ちょっと我慢すれば晴れて本社でOLライフが待ってるんだから。良い男捕まえて悠々自適に暮らすのよ。

 ある日高校時代の友達から電話が来て、久しぶりに飲みに行くことになった。3年生の時一緒のクラスだった朝子という女で、現在は市役所で働いているらしい。高校時代は茶髪にミニスカートという格好でたびたび教師に注意を受けていたものだが、今日はワンピースにジャケット、ボブカットのパーマという出で立ちだった。流行に敏感な女である。大学時代もよく恋愛相談の電話を受けたものだった。あたしに相談して的確なアドバイスを受けられるだなんて思ってないくせに。
 「市役所での仕事、どう?」
 「大体定時で帰れるし楽よ。でもちょっと退屈ね…。優子は? コンビニチェーンだっけ。」
 「まだ研修中で、コンビニでレジ打ってるわ。アルバイトみたいでしょ。それより、大学のころから付き合ってた彼とは別れちゃったんだっけ? 職場に良い人いないの?」
 「うーん、地味で真面目な、夫に良いタイプの男はたくさんいるけど。ちょっとまだそんな気分じゃないわ。」
 「こないだの警視庁との合コンはどうだったの? いい体の男が来るに違いないって意気込んでたじゃない。」
 「あれね、確かに体格が良くて自信に溢れた良い男がたくさん来たわ。でもやっぱりあたしああいうのダメ。警視庁なんてかっこいい、ってちょっと言っただけで、市民の平和がどうだとか教育のシステムがどうだとか語りだしちゃって。よくそんな人のことに必死になれるわねって、分かり合えそうになかったわ。」

 研修が終わるまであと1週間というところまで迫った頃だった。もうすっかり夏であり、店内に入った客から涼しいといった声が聞こえるようになる。安いアイスを買っていく高校生の客も多い。まとめて買ってくれたら楽なんだけどな、まあコンビニでそんな気使わないか。優子はアイスを持った男子高校生の列を見てため息をつく。
 「こんにちは」
 突然声をかけられて、びくっとして振り向いた。あの日の老人の息子である。名前は―――祐司だったっけ。
 「少しお話したいことがあるのです。今日の勤務は何時で終わりですか?」
 勿論普段の優子ならばこんな話はお断りである。一度店で話しただけのおじいさんと2人きりで会うなんて考えられない。しかし彼を見てあの日のことを思い出し好奇心が湧いてきてしまった優子はその話を承諾した。

 夕方の、日が暮れかかってきているころだろうか。公園は夕焼けに染まって懐かしい雰囲気である。繁った木々が地面に濃い影を作っている。もうセミが鳴く頃なんだなあ。
 「お待ちしていました。」
 祐司はベンチから立ち、礼儀正しくお辞儀をした。優子も自転車から降りお辞儀をするが、汗だくで息もあがっている今の自分ではとても礼儀正しくは映らないだろうと思った。少々気まずさをごまかしつつ彼の隣りに座る。
 「それで、話というのは。」
 「母が、あなたを家に招きたいというのです。」
 優子は予想だにしなかった彼の言葉に驚いた。祐司が続ける。
 「母は、寂しかったんだそうなんです。私もこんな老人ではありますが、実はまだ仕事が忙しい身です。父も妻も先立ち、母はほとんどの時間を家で1人過ごしているのです。ある日私の携帯電話に着信があり聞くと、母が万引きをしたということでした。訳を聞いても教えてくれず、ごめんなさいと繰り返すばかり。真面目で優しい母がなぜこんなことをするのか私には分からず、きっと何かの間違いに違いないと特に問い詰めずにいたのですが、母は万引きを繰り返すのです。やがてテレビでドキュメンタリーを観て気づきました。最近増えているんですね、老人の構ってほしさの万引き。母の寂しさに気付けなかった自分を恥じました。」
 それで、家に来て母と話せと言うのか。おばあさんのことは気の毒に思うが、私にそんな義理はないし、ずっと面倒を見ることなんてできない。大体、それでなんであなたがおばあさんに呼ばれて店へ来るのだか分からない。
 「先日、母は87歳の誕生日を迎えました。私は誕生日を控えた母に、何か欲しいものはないかと聞いたのです。すると母が、次で終わりにするから、最後に、誕生日の日に、万引きを手伝ってくれないかと―――。母も悪意を持ってやっている行為ではないし、最後にするなら仕方がないとしぶしぶ了承すると、母は嬉しそうに計画を話し始めました。『まず、私が店のものを持ち出すの。そしてわざと見つかるのよ。ここまではいつも通り。でもね、そのあと私が、息子に持ち出していいって言われたんです、って言うの。店員さん、面食らうと思わない? そしてあなたが来て、ええ言いましたよ、いけないんですか? って。さも当然のように。きっと店の人たち、私たちに興味津々になるわ。』―――少しおざなりな計画ではあると思います。母もすっかり歳ですからね。そのあとは、あなたも知る通りです。私はやはり社会的な立場もあって、母の計画を無視してしまいましたがね。あの後母にこっぴどく怒られて、謝るならあの子を連れてきてと―――。」
 「ですが、」
 「いえ、分かっています。勿論そんなこと出来ないですよね。私は提案だけはしたという事実を作りに来たんですよ。母には断られたと伝えておきます。でもね、」
 祐司は少し言葉に詰まったようだった。
 「私には、母の気持ちも少し分かるんですよ。退職して、母も亡くなって、そうしたら私も1人になる。私が若かったころの老人というのは、もっと生き生きとしていた気がするんですがね。やはり、人と関わらなくなってしまうというのは辛いもんですね。」

 研修が終わり、優子はまた満員電車に乗ることになった。誰もが携帯を開き、イヤホンを差し、下を向いている。その時彼女は、はっと周りを見渡し、何故か少し寂しくなるのだった。

       

表紙

めんそうる 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha