Neetel Inside 文芸新都
表紙

人と妖怪シリーズ
【神木は静かに浮かぶ】

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 大樹は死んだ。
 もう十年以上前だ。
 潮風が滲む街で僕は育った。海岸に面しているくせに山に囲まれ、それでいて少し栄えた街だった。昔は交通も不便で山を越えるのにもバスで数時間はかかったが、今は電車で簡単に往来出来るようになっている。
 山際にある街なので高低差は非常に激しかった。街は段々畑の様に段落ごとに分かれており、中心を一本の長い坂道が通っている。街の人はその坂を通って海岸へ行ったり、学校に向かったり、量販店に足を運んだりする。僕も小さな頃はよく走り回った。もっとも、今ではただしんどいだけでしかないが。
 電車を降りると、懐かしい街の気配にぐっと伸びをした。栄えているのにどこかひなびた感じがするのは、この街の良さだと思う。田舎っぽくもなく、かと言って都会過ぎてもいない。街の歴史は長いらしく、小学校の頃はよく道徳の時間などで市民博物館に連れられた。
 改札を抜けるとまず目に入るのは海岸線だ。駅前にある広場の向こう側にそれは広がる。とは言え両脇が山に囲まれているので多少狭苦しく思えるのだが。平日の昼間だからだろうか、あまり人は居ない。
 迎えに来てくれているはずの待ち人を探すのに視線を巡らせる。駅に止まっている車の前に、異様に目立つ懐かしい顔があった。サングラスをかけ、アロハシャツを着ている。
「じっちゃん、何? その格好」思わず笑った。
「久しぶりなのに開口一番にそんな言葉が出るんかお前は」
「そんな格好してたら突っ込むでしょ、普通」
「お前は知らんのか? 今ちょい悪親父がはやっていると言う事を」
「ちょい悪親父って言うよりそれファンキージジイだよ」
 僕は苦笑しながら車に荷物を乗せた。小さな軽自動車だ。まだ新しい。
「車新しいね。買ったの? その歳で」
「その歳でとは何じゃい。年寄りでも車の買い替えくらいするわ」
「後何年くらい乗れるかもわかんないのに」
「百年は乗ったる」
「孫より長生きするなよ。車のキーある? 運転するよ」
 じっちゃんを助手席に乗せて僕は車のエンジンをかけた。軽快な稼動音が車内に響く。
「お前、道分かるのか?」助手席に座ってダッシュボードの上に足を乗せるじっちゃん。やっぱりファンキーだ。
「昔と家変わってないでしょ? だったら大体覚えてるよ。それにカーナビもあるし」
「さすがわしの孫」
「いいからカーナビ設定してよ」
 僕は車を発進させた。駅前の広場を抜け、交差点を左折する。真っ直ぐ走ると目の前に坂道が見えてきた。段々畑の様な街を頂上まで突き抜ける道だ。
「うわ、懐かしいなこの道、この景色」
「ケンヤは十年ぶりか」
「うん。もっと様変わりしてるかと思ったけど、そこまでだね」
 僕は坂の頂上に視線を向けた。この街の頂上にあった大きな神木。大きく変わったと言えば、あの木がなくなったことくらいだ。
「じっちゃん、あの木があった場所って今も……?」
 僕の言葉にじっちゃんはサングラスの向こうから気遣うような視線を向けてきた。
「公園のままじゃよ。毎日子供達が賑やかに遊んどる」
「そっか。なら良いや」
 車を走らせていると、じっちゃんが僕のすぐ横でゴソゴソと作業しだした。何事かと視線をやる。思わず目を見張った。
「じっちゃん、ipodまで持ってんの?」
「機械も使いこなせんジジイなどただのボケ老人と変らんわ」
 そう言ってじっちゃんは車内にBGMを流した。歌謡曲でも流れるのかと思いきや、流れてきたのは奥田民生の『さすらい』だ。
「うわぁ、また懐かしいの流すねぇ」
「民生はいつまで経ってもええ曲歌いよる。お前も下らんオリコンの曲なんかより、いいものにちゃんと目を向けんといかんぞ」
「じっちゃんが言うと説得力あるなぁ」
 良い物は良いを体言化しているじっちゃんはいまだに感性が若いと感じる。
「あ、次右折ね」
「はいはい、わかってるよ」
 坂道から脱出して道の一つに入った。右手には家屋に遮られながらも海が広がる。頂上に行くとこれがもっと綺麗に見渡せるのだ。
「ケンヤは何か予定とかあるのか?」
「この街でって事? そうだなぁ。とりあえず頂上の公園に行ってみる」
「そうか……」
 じっちゃんは小刻みに頷くと窓を開けた。
 磯の香りを孕んだ風が車内を駆け抜ける。
 奥田民生の曲が、夏を加速させる気がした。
 十二年前、僕はあいつとこの街を歩いた。その記憶は今でも残っている。

     

 ○

 小学六年生の頃、その話を担任から聞かされた。帰りの会の時だ。
「えー、今度この街に公園が出来ます」
 突然の朗報に、教室がざわめいた。期待に目を光らせ、クラスメイト達が顔を見合わせる。それもそのはずだ。
 この街には公園がなかった。僕たちの遊び場所と言えば浜辺と、街一番のご神木のある山だったのだ。太い幹でそそり立つ神木は街の頂上を彩る。夏になると濃い影が地に落ち、よくそこで鬼ごっこや木登りをして遊んだ。
 そんな僕らの街に公園が出来る? 信じられないくらいだった。
「先生、公園はどこに出来るんですか?」
 クラスの誰かが尋ね、先生は満足げに微笑んだ。
「うん、みんなも知っている街の頂上のご神木がある広場。あそこに公園が出来るんだよ」
 おぉー、と歓声が上がった。正直、都会の子だと公園が出来るからと言ってこれだけ騒ぐことはないだろう。小学六年生にもなって、たかが公園一つで盛り上がる僕たちは他の街の子よりずっと精神的に幼いのかもしれない。それでもそれは僕たちにとって大ニュースだった。普段遊んでいる場所が更に楽しくなる、最高じゃないか。
「それで二日後に工事が始まるから、みんなしばらくはあそこで遊ばないようにしてほしいんだ。話によると小学校の夏休みに合わせて公園が完成するらしい。それまではあそこに立ち入らないように」
 僕たちは威勢の良い返事をして、教室を後にした。
 その日は隣に住んでいる百瀬翔子と帰った。彼女とは家族ぐるみの付き合いがあるので仲がよく、僕がよく遊ぶメンバーの中には必ず彼女がいた。ボーイッシュな翔子は僕の中では他の男友達と変わらない存在になっている。
「ケンヤ、夏休みになったら何する?」赤いランドセルを抱えた彼女は僕に尋ねる。
「そりゃあ公園で遊ぶよ。翔子もそうだろ?」
 僕の答えは彼女の期待した物だったらしく、彼女は何度も嬉しそうに首を縦に振った。
「あったり前じゃん。毎日鬼ごっこで一人狙いしてあげんね」
「もう勘弁してよ」
 クラス一足が早い彼女に僕は敵わない。一度狙いをつけられたら終わりだ。
「公園、どんなのになると思う?」
「どんなのだろ? あんまり想像つかないなぁ。ケンヤはどんなのになると思うの?」
「そうだなぁ……」
 浮かぶのは、新緑が生み出す木陰の光景。海と街が見渡せ、どこまでも広がる。風が緩やかに巻き上がり、木々を歌わせる。そんな場所でブランコをこぎながら、海を眺めるのだ。毎日、毎日。この街の頂上から眺める光景は絶品で、飽きが来ない。そんな場所で仲間たちとゆっくりアイスを食べる。悪くない。
「ご神木があるから、夏場は涼むのに最適な場所になると思う」
「でも、ご神木切られるんでしょ?」
「えっ?」
 音が止まったような錯覚が襲う。
「何それ」
「お父さんが言ってたよ。以前あそこの木から落ちて骨折した子がいたでしょ? アレがきっかけで、町内会で話し合いがあったんだって。最初は立ち入り禁止にしようかとも思ったらしいんだけど、街で一番景色が良い場所だし、私達の遊び場もあまりないからいっそ木を切って公園にしようって」
「でも、先生はそんな事一言も……」
「やっぱり、言い出しにくかったんじゃないかな。街の象徴みたいな物だったし」
 翔子は溜息を吐いた。少し残念そうではあるが、それほど気にしている様子もない。
「そっか、切っちゃうんだ」僕は肩を落とした。
「でも良いじゃない。公園が出来るんだから。あの木がなくなったら見通しが良くなってサッカーも出来るようになるよ」
「そうだね」
 そう返したが、声に感情が伴っていないのを自覚していた。
 あの木は、僕にとって特別な物だった。父さんとの、思い出の木だ。
 父さんは僕が小学校に入る前に、病気で死んでしまった。
 病気が見つかったときにはもう病状はかなり進行していて、治療する事ができなかったらしい。若くして夫を亡くしてしまった母さんに、父さんの両親であるじっちゃんとばっちゃんが同居を申し出た。この街なら再スタートに最適だし、家も広いから、と。再婚をすれば話は変わるかもしれないが、母さんはその意思はないとはっきり告げた。
 今は父さんの実家で、じっちゃんとばっちゃんと母さんと僕の四人で生活している。
 家の前で翔子と別れた。向かい側の赤い屋根の家に彼女が入っていくのを見届けた後、僕は自宅の扉を開いた。
 古びた木製の引き戸は開くと甲高い音で鳴いた。その音で、母が台所から姿を現した。街の惣菜屋で働く母はこの時間にはもう帰宅している。
「お帰り。おやつあるけど食べる?」
「まだいいや、あとで食べる」
「あら、そう。珍しいこともあるものねぇ」
 目を丸くする母の脇をすり抜け、僕は二階の自室へと向かった。
 ランドセルを机の上に置き、窓を開いた。スッと、涼やかな風が入り込み風鈴の音が響く。窓は向かいの家と対面する位置にあり、僕の真正面に翔子の部屋があった。よくここから彼女と手を振り合っている。
 窓から見えるのは翔子の部屋だけではなかった。見上げれば、大きな木が見えるのだ。
 街のご神木。僕が生まれる前から、いや、じっちゃんが生まれる前から既にこの街にあった。その木を切ってしまうなんて、とてもじゃないが信じられない。
「本当なのかな……」僕は彼方の神木を望んだ。
 先生は二日後に工事が開始されると言っていた。とすれば、その時神木が切られる事になるだろう。

「ねぇじっちゃん、ご神木が切られるって本当?」
 夕食時、僕はじっちゃんに尋ねた。からあげを頬張ったじいちゃんはキョトンとした顔をする。母とばっちゃんが互いに顔を見合わすのが分かった。
「どうしたんじゃい急に」
「今日翔子が言ってたんだよ。山頂に新しく公園を作るかわりにご神木を切るって」
「そう言えばそんな話も出とったなぁ、ばあさん」
 じっちゃんが顔を向けるとばっちゃんはゆっくりと頷いた。
「長年街を支えてくれた木だから、なくなるのはさみしいけどねぇ」
「じゃあどうして誰も反対しないのさ。じっちゃんやばっちゃんが子供の頃から街にあったんでしょ? 大事じゃないの?」
「ケンヤ、その話ならね、もう街の大人が何度も話したのよ。神木を切りたい人なんて誰もいなかったの。でも以前からあの木に登ろうとして怪我をする子供がいるって話はケンヤも知ってるでしょう? 木から落ちて今も入院している子供だっているんだから。封鎖してもこの街には遊ぶところなんてないから子供達はどうしてもあそこに集まりがちだし、公園を作るにも場所がない。だからこうするしかなかったのよ」
 母は僕を諌めようと落ち着いた声を出す。それでも納得がいかなかった。
 みんな、あまりにも薄情じゃないのか。
 部屋に帰っても僕は神木の事を考え続けた。どうにかして守る方法はないのだろうか。向かい側の部屋で翔子が机に向かって勉強しているのがわかった。その姿をボーッと眺めながら、僕は物思いに耽る。
 そして一つの答えを出した。
 誰も守らないなら、僕が守るしかない。

 翌日、早朝に目を覚ました僕は、朝ごはんを食べるとすぐに家を飛び出した。その日は六月の第四土曜日で、学校は休みだった。外は仕事へ向かう少数の大人しかいない。
 自転車に乗って街の中央を通る長い坂道を登った。目指すは神木のある丘だ。
 息を切らせながら何とか頂上まで辿り着くと、入り口には既にチェーンが張られ工事の看板が立てられていた。中に人の姿はない。工事を始める前に、簡易的な敷居を設けたみたいだ。とは言えチェーン一本張られたくらいではすぐに中に入れてしまうので全く意味はないのだが。
 僕は道の外れに自転車を止めると、チェーンをくぐって中に侵入した。
 山の頂上は広場となっている。その広場は木々に囲まれ、中央に一本だけ、太くしっかりした幹を持つ神木がたたずんでいた。確かにここを公園にするならこの大木を切ってしまったほうが広くなる。
 神木自体はそれほど高い木じゃないので切ることは難しくなさそうだ。でも枝がすごく長い。何十人と子供が遊ぶこの広場を全て木陰で覆いつくせてしまう。それくらい横に長く枝が伸びている。
 僕はこの木が作る木陰が大好きだった。日差しを適度に通し、新緑を深くしてくれる。風が吹いて木々の歌声を聴きながら眼下に広がる海を眺めるといつも心が洗われた。
「大丈夫だぞ、お前は僕が守ってやるから」
 僕は木の幹を撫でながら語りかけた。
「子供一人に守れるんかいな」
「えっ?」
 返事が返ってきて、僕は周囲を見渡した。誰もいない。でも確かに声が聞こえる。
「こっちや、こっち」
 上の方から声が聞こえて僕は神木を見上げた。
 太い枝の上に、和服を着た女性が座っていた。長髪で、前髪を切りそろえている。長く伸びたまつ毛が木漏れ日に照らされ、光の残響が彼女の肌を白く染めていた。
 彼女は僕と目が合うと、ケラケラと笑って枝から飛び降りた。
「あっ」危ない、と言おうとしたが、目の前の女性は事も無げに地面に着地する。
「どうや? ビックリしたやろ?」
「足をくじいたかと思った」
「ところがどっこい、うちはそんな事では怪我はせん」
 そよ風が吹いて、女性の風がなびいた。鼻先を木々の香りが抜けていく。その異様な美しさや気配に、僕は彼女が人間でない事を悟った。
「あんたはケンヤやろ?」
「何で知ってるの?」僕は目を丸くした。
「街の子供の名前はみんな知っとるんよ。物知りやろ」
「ひょっとして、神様?」
 僕が尋ねると彼女は「おしいっ」と声を上げた。
「ちょっとちゃうな。うちはな、ご神木や。このえらい大きい木あるやろ? その精霊さんや。名前はコノハ」
「コノハ?」
 僕が繰り返すと、彼女は満足げにニッと笑った。
 その日は六月の第四土曜日で、潮風が優しい日だった。

     

 街を見たいんや、とコノハは言った。
 彼女がこの様に人の形を持つ事が出来たのはどうやら今回が初めてらしい。人と会話するのも、僕が初めてだと言う。先ほどの彼女はなれた仕草で僕に話しかけていた。とてもそうは見えない。
 坂の上に置いてきた自転車が気がかりだったが、盗まれる事はないだろうと高をくくり、僕らはゆっくり歩いて坂を下った。
「街なんか見てどうするのさ。今日中に対策を練らないと、明日お前は消えちゃうんだぜ?」
「そんなん別に構わんわ。うちはもう長いこと生きた。今更どんな形で幕を閉じようと別に構やせん。それより気がかりなんは、長年見続けたこの街の景色がどうなっとるか知らんまま死んでしまう事や」
 彼女は平然と『死』を口にする。その言葉に後頭部を打たれるのにも似た鈍い痛みを覚えた。美しく澱みのない表情は、既に死を受け入れている、むしろやっと死ねると言いたげだ。どうしてそんな顔が出来るのか、僕には分からなかった。
「でも、今からどこに行くんだよ」
 あれだけ神木を心配したのに、当の本人がこの調子なので思わず不満が声に出る。彼女はそんな僕の様子など微塵も気にしていない。ますます不服だ。
「そやな、とりあえずどこでもええんやけど、海行こか。浜辺が見たい」
「浜辺? あんなところ見ても面白くないよ」
「とりあえずや、とりあえず」
 二人並んで、近づく夏の気配の中、歩く。不思議なことにコノハの姿は僕以外の人には見えていないようだった。和服でこの容姿だ。目立たないはずがない。それなのにすれ違う人は誰一人として彼女に視線を向けないのだ。
 ずっと坂を下ると、終着点である浜辺が姿を現した。
「到着や。随分長いこと歩いたなぁ」
「当たり前じゃん。自転車がないと三十分はかかるよ」
 来た道を振り返る彼女に釣られて、僕も道を見上げた。
 街の真ん中を頂上まで突き抜け、色々な場所に派生する坂道は、神木に似ていた。

 浜辺では朝早くから猟師達が船を出している。彼らの朝は驚くほどに早い。一度目の漁を終えたらしく、船から魚を降ろしている所だった。沿岸には海女の姿もうかがえる。
 波の音が緩やかで、どこか遠くからカモメの声が聞こえていた。空は海を反射したような青さで、仄かに磯の香りが鼻腔をくすぐる。
 漁師や海女の中には友達の親もいて、彼らは僕を見つけると手を振ってくれた。彼らもやはりコノハが見えていないようだ。
「昔からえらい綺麗な海や思とったけど、やっぱり実際来て見ると迫力が違うなぁ。それにゴミ一つない。綺麗な砂浜や」コノハは真っ青な海を見て溜息を漏らす。
「そうかなぁ」
 彼女が大げさに口にするほど綺麗な光景には見えない。見慣れてしまったからだろうか。でもゴミがないのは事実だ。この街の人間は基本的にポイ捨てをしない。もしかしたらそれは、この自然豊かな街の風景を崩したくないと言う住民の願いが深層心理に働きかけているのかもしれない。今の彼女の言葉を耳にするとそう思う。
「あっ」
「どうしたの?」急に声を上げた彼女を僕は見上げる。
 コノハは砂浜の端の方を指差していた。
「祠があるやん」
「祠?」
 僕は目を細めた。確かに、浜辺と山の境目、木々に埋もれた小さな鳥居がぽつんと見えた。十年以上この街に住んでいるがそんなものがあるなど今まで全く気付かなかった。
 近づいてみると鳥居はボロボロに色あせており、どれくらいの間ここにこうしてあったのか容易に想像できた。
「ケンヤ、ここは何の祠なん?」
 知らないよ、と言おうとしてふと鳥居の上に書かれた文字に目が留まった。

『村上 七左衛門(むらかみ たんざえもん)』

 どこかで耳にした事がある。
「あ、分かった。これこの街を作った人の祠だよ。学校の裏手にその人のお墓があって、街の色んな場所に祠が作られてるんだ」
 しかしコノハは何も答えなかった。奇妙に思い彼女を見る。鳥居を見上げた彼女の表情は僕の背丈では伺うことは出来なかった。
「コノハ……?」
 心配して着物の袖をそっと引っ張ると、ハッと彼女はこちらを振り返った。
「あ、あぁ、ごめんなぁ。村上って聞いてビックリしてしもたんや」
「ビックリ? 何で?」
「そやなぁ。……なぁケンヤ、うちをその村上の墓まで案内してくれんか? 理由は歩きながら話すわ」
「別に良いけど……」よく分からずに、困惑したまま僕は頷いた。
 浜辺を出る時に彼女はちらりと祠をいちべつした。
 その時の彼女の視線には形容しがたい情愛に似た何かが込められている気がした。

     

 見慣れた街を歩く。太陽が随分と昇って来ていた。涼やかな潮風が雲を流す。
「村上はな、うちの旧友みたいなもんや」
 歩く中で、コノハは静かに語る。
「うちは昔、山の向こう側にある小さな村で生まれたんや」
「山の向こう?」
 奇妙に思う。この辺りに村などないからだ。別の街に行くにはバスで数時間はかかる。この街はまるで陸の孤島のような存在なのに。
「今はもうない。戦で潰れてしもうたからな」
 それは、いつ頃の話なのだろう。僕には到底想像がつかない。
「村の子供に葉を千切られ、枝を折られ。苗木やったうちは弱りきっとった。誰もうちの叫び声を聞いてくれる人はおらんかったんや」
 村上以外はな、とコノハは付け加える。懐かしむように、遠い目をしていた。
「村上さんがコノハをこの街に埋めてくれたの?」
 コノハは静かに頷く。風に髪をなびかせながら。
「村上は優しい男やった。毎日うちに話しかけたり、水をやってくれてたんや。うちが弱った時も、あいつはここまでうちを運んで、添え木をしてくれた。うちが独りで生きられるようになるまで、辛抱強く面倒見てくれたんや。うちが大きくなった時、あいつはいつしかここに住んで、仲間を集めて、街を作っとった。おかげで、ちぃとも寂しくなかったわ」
 僕は神木が生えていた広場を思い出す。あそこまで不自然な空間になっていたのは、大きくなっていく神木の成長を止めないよう、村上さんが周囲の木々を切ったからではないだろうか。
 彼は象徴にしたかったのだ。コノハを、神木を。まだ苗木だったコノハを見て、やがて大きく成長すると分かっていたからこそ山の頂上に移した。
「村上が死んでからも、うちには街の子供達がおった。毎日うちの根元で遊んで、楽しそうに笑ってくれる。それだけでうちは嬉しかったんや」
 コノハはそう言うと、着物の裾をスッとめくり上げた。真っ白な足に、小さな傷。
 それはよくみると相合傘だった。
「これはケンヤが生まれるずっと前に書かれたもんや。うちの体には、街の歴史が染みついとる」
 死んでしまった村上さんの代わりに、彼女は長い間この街を見守ってきたのだ。
 学校の裏手にある村上さんのお墓は、ずいぶん古びていた。山のふもとで、大きな石碑の様に静かにたたずんでいる。墓石には蔦が巻きつき、その歴史の長さが垣間見えた。
「久しいなぁ。ホンマに、久しぶりや」
 コノハは笑みを浮かべる。
「あんたが逝ってしもてから随分経った。長いようであっという間やったわ」
 まるで目の前にいる人物に語りかけるように、彼女は言葉を紡いでいった。
 もうすぐ、あんたと久々の再会になるなぁ。その彼女の言葉が、いつまでも耳に貼り付いて離れなかった。

 その後も、コノハと僕は街をずっと見て回った。
 学校の中を巡り、田畑を眺め、スーパーに行き、僕の家にも案内した。
 コノハの姿はやはり僕以外の誰にも見えていなかった。
 それでも、コノハは幸せそうだった。
 自分の見守って来た街の住民達が幸福な毎日を送っていて、その姿を目の当たりにする度に彼女はそっと目を細めていた。

 再び神木の前に戻ってきた時には、既に陽は沈み始めていた。夕景が空を突き抜け、僕らを包み込む。手すりの向こう側には街が見下ろせ、どこか懐かしい香りが漂い始めていた。
「やっと終点やな」
 坂を上りきって広場に入ると風が吹き、音に埋もれる。
「ケンヤ、今日一日ご苦労さんや」
 彼女は僕の頭を優しく撫でた。何だか嬉しくなり、自然と顔に笑みが浮かぶ。
 コノハはゆっくりと街の景色に視線を移すと、綺麗な街やなぁと言った。
「この景色をもう何年見たんやろ。ホンマにいつ見ても飽きひんかった」
 その声は僕に語っている訳ではない。強いて言うなら、彼女は自分に語りかけていた。
「大好きなこの街で死ねるなら本望や。でも、未練があるとすればもっと遠くを見たかったな」
「遠く?」
「遠い世界、海の向こう、山の向こうに広がる景色を見てみたかった。まぁ、木として生まれたからにはそれは無理ねんけどな」
 自嘲気味に彼女は薄く笑う。悲しい表情。何だか見ていられず、僕は自然とうつむいてしまった。風にコノハの着物が揺れ、足の傷が姿を現す。

 まだ父が生きていた頃、この神木を使ってよく遊んだ。木登りもしたし、かくれんぼもした。ある日、たまたま父と見つけた木の根元にある隙間に入り込んだ。今では到底は入れそうもない小さな隙間で、中はいい具合に空洞になっていた。空洞の中に入り込んだ僕を見て父はまるで秘密基地だな、と優しく笑った。あの空洞はいつしか体が大きくなるにつれ入れなくなり、木が成長したのか、空洞もなくなってしまった。
「父さんもな、子供の頃よくこの木で遊んだもんだよ」
 ある日、父は神木の根元にある傷を触りながら言った。
「この傷を見てごらん。これは父さんがカッターで掘った物なんだ。当時好きな女の子がいてね、この気に相合傘を書けば願いが叶うと思ったんだよ。ペンで書くんじゃすぐ消えちゃうから、カッターでわざわざ彫ってね。今考えると酷い事をしたもんだ。木も生きてるのにな」

 そうか、この傷は……。

「ケンヤ、やっぱりここにいたんか」
 背後から声がし、振り向くとじっちゃんが立っていた。じっちゃんは僕が気付くとゆっくり歩み寄ってくる。
「何やっとんじゃいなこんな所で。立ち入り禁止じゃろ」
「いや……」咄嗟のことに口ごもった。なんと言えばいいのだろうか。木を守りに? 違う。懐かしんでいただけだ、神木との思い出を。コノハは死を受け止めている。彼女の中の決心に、いつしか僕の中の灯火は揺らぎ、その形を変えていた。「じっちゃんこそ、何しに来たんだよ」
「探しに来たんじゃよ、お前を。もう晩飯なのにちぃとも帰って来んからな」
 じっちゃんは別に怒っていなかった。入ってはいけない場所にいた僕を、さも当然のように受け止めていた。
「もうお別れはすんだんか?」じっちゃんは木を見上げる。
「いや、まだ……」
 僕はコノハの方を見た。しかしそこに彼女の姿はなかった。かわりに神木がサヤサヤと揺れているばかりだ。
「コノハ?」
 しかし返事はない。
「コノハ! どこだよ!」
 僕は辺りを見回す。どこにも彼女はいない。まるで最初からそんな人物、存在しなかったように。
 僕は何となく分かっていた。
 コノハはもう、神木に還ったのだ。
 木を見上げると、一枚だけ、緑色の葉がゆっくりと僕の手元に落ちてきた。僕はそれを両手で受け止める。艶やかな葉が手のひらに乗り、僕はそれを両手で包み込んだ。
「ケンヤ、最後にお別れしとけ」
 じっちゃんは何か尋ねるでもなく、ただ静かに僕の肩に手を置いた。
 今日一日彼女と行動したのは、ひょっとしたら僕の夢だったのではないだろうか。本当はこの木が切られることなどなく、これからもこの街であり続けてくれるのではないだろうか。
 でもそうではないのは分かっている。草木の囁きが、それを証明していた。
「さよなら、コノハ」
 僕はそっと呟くと、神木に背を向けた。
「ケンヤ、元気で」
 広場を出るとき、風に乗ってそんな声が聞こえた。

 翌日、山の上の大木が倒れ、街を揺らした。

     

 ○

 中学への進学と同時に僕は街を出た。都会にある寮制の中学に入り、そのまま高校を卒業するまで滅多に街に帰ってくることはなかった。大学に入ってからもアルバイトをしながら独り暮らしをし、そのまま卒業した。
 去年から仕事を始め、今でようやく一年半になる。
 暮らしもどうにか落ち着いてきた時、ふと押入れから懐かしい物が出てきた。帰郷を決めたのはそれが理由だ。
 ガレージに車を止めると、窓を誰かがノックした。長い髪の女性で、夏らしい白のワンピースを着ている。見覚えがある気はするものの、誰だか思い出せない。
「ケンヤ、久しぶりだねぇ」
 車から出ると女性は嬉しそうに声を掛けてきた。やはり誰だかわからず、首を捻る。
「覚えとらんのか? 向かいの家の翔子ちゃんじゃよ」じっちゃんが言う。
「えっ? 翔子? ホントに?」
 昔の面影がまるでない。随分女らしくなった。
「そうじゃよ、お前が久々に帰ってくると言うのでまだかまだかと何度も電話してきて大変じゃったんじゃ──」
 そこでじっちゃんは翔子に首を絞められ黙った。
「やだなぁじいちゃん、あたしがこんなピーナッツボーイの帰郷を楽しみにするはずないじゃない」ミキミキと人体から放たれてはいけない音がする。じっちゃんが七十年の人生に終止符を打とうとしている。
「翔子、それ以上やったらじっちゃん死ぬから」
「あっ──」
 僕の言葉でようやく翔子はハッとして手を離した。なるほど、性格はあまり昔と変わらない。
「あははは、ごめんねぇじいちゃん、変なこと言うから」
「ワシは今確かに死んだばあさんを見た……」
「やだなぁ、心配しなくてもそのうち会えるって。それよりケンヤ、おばさんも中で待ってるし、早く行こう」
「う、うん」
 僕は翔子に押されるようにして久々の我が家に足を踏み入れた。ばっちゃんは数年前に亡くなり、今ではじっちゃんと母が二人で生活している。
 ばっちゃんの仏壇に線香を上げ、リビングの席に座った。
「仕事はどう? ちゃんとやってる?」向かいに座る母が口を開く。髪に随分白い物が増えた。
「うん、最近お得意様に気に入られて色々と仕事を任せてもらえてるよ」
「ご飯はちゃんと食べてるの?」翔子が言う。
「まぁ、一応自炊はしてるけど……」
「彼女は?」
「いや、今はいないけど……」
「『今は』って事は昔はいたんだ! おばさん、この子不潔ですよ。不潔男子です」翔子はやたらとわめく。僕も母もその様子に苦笑した。
「それで、今まで滅多に帰ってこなかったあんたがわざわざここまで足を運んだのはどう言った理由?」
 さすが母親だ。単純な帰郷でないことはお見通しと言うわけか。
「あれ、帰ってきたらまずかったかな」
「そうじゃないけど、ちょっと気になってね」
「なるほど」
 僕は鞄からシルバーの名刺ケースを取り出すと机の上に置いた。
「何それ?」翔子が顔を覗き込ませる。
「名刺ケースは父さんの。中には昔、友達からもらったものが入ってるんだ。今日はそれを返しに来た。……翔子、後で公園行かない? 山の上の」
「え、良いけど」
「よし、決まりだ」
 笑う僕に、母と翔子は不思議そうに顔を見合わせる。じっちゃんだけが、何かを察したように笑みを浮かべていた。

 学校の裏手まで来ると、翔子が首を傾げた。
「ねぇ、こんなとこに来てどうするの?」
「ちょっとね、墓参り」
「こんなところにお墓なんてあったっけ?」
「一人だけあるんだよ」
 夏の木々は一層深く生い茂り、木漏れ日が地面を反射する。枝と枝が絡み合い、まるで木のトンネルの様になっている道の先に、村上さんのお墓はあった。定期的に補修されているのだろう、思っていたよりも朽ちてはいない。どこか懐かしい感じがする。
「へぇ、こんな所初めてきた」
「普段に足を運ぶようなところじゃないからね」
 僕は名刺ケースを墓石の前に置くと、手を合わせて静かに目を瞑った。
 二人は今、幸せに暮らしているのだろうか。
 顔を上げると一瞬だけ、墓石に座ってこちらに笑いかけるコノハの姿が見えた気がした。
 拝み終えると、名刺ケースを回収して翔子のところに戻った。
「ごめん、お待たせ」
「ねぇ、あのお墓って誰の?」
「この街の創設者だよ」
「創設者? 何でそんなお墓にお参りするの?」
「そうだな、ちょっと長くなるから帰ってから話すよ。どうせ晩御飯食べてくだろ?」
「もちろん」

 十数年ぶりにやってきた広場は、すっかり森に囲まれた公園として様変わりしていた。
 かつて神木だった太い幹は円形のベンチとして姿を変えている。公園にある木造の遊具やベンチ、それらは全て神木から作られたものだ。日が差し込み、子供達がサッカーや鬼ごっこをして遊んでいる。手すりからは相変わらず街並みが見渡せ、更にその向こうには海が広がっていた。吹き付ける潮風が森の香りを運ぶ。心地がいい。
「昔さ、ここがどんな公園になるか想像したじゃん」翔子は手すりに持たれ、懐かしむように目を細めた。
「ケンヤ、ずっと神木にこだわってたよね」
「大好きだったからね」
 僕は名刺ケースを開けると、一枚の葉っぱを取り出した。翔子が不思議そうに目を丸くする。
 それはすっかり朽ちて、黒くなってしまったかつて神木だった物だ。
 静かに流れる風に、葉を委ねた。風に舞い上がり、葉はどんどん高く昇る。
 僕たちはその様子を静かに見つめた。
 葉はやがて、海へと姿を消していく。
 遠くを見たい。かつてのコノハの声が、不意に蘇る。
 これでいいのかな。言葉に出さず尋ねると、懐かしい訛りのある声が聞こえた気がした。そのかすかな声が、ゆっくりと僕に浸透していく。
「さよなら、元気で」
 僕は風に向かって、今はいない神木に向かって、かつての守人に向かって、旅立つ友達に向かって、静かに別れを告げた。
 かつてここには大きな木があった。それは街を愛し、街に愛されていた。同じ景色を毎日眺め、小さな変化に感動し、喜びを見出していた。それは優しい目で子供達を見つめ、目を見張るほどの美しい笑みを浮かべた。
 僕は大きく深呼吸をする。吐く息が、震えるのを感じる。
 街の長い下り坂を、一人の女性が下っていく。紅い着物を着た彼女は僕たちに向かって手を振り、目の前の果てしなく広大な世界へ足を踏み出していく。道は広く、どこまでもつづいている。その中を彼女は目一杯駆け出す。
 葉は風に舞い、空を飛ぶ。
 どこまでも、どこまでも飛んで行く。


 ──了

       

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Neetsha