イービル・パッケージ!
まとめて読む
自分ではそれほど奇特だと思ってはいないのだが、俺は毛布に包まっていないとゲームができない。毛布に包まり、コントローラを握り締め、半目でテレビ画面を眺めるのが俺にとっての至福であり、究極のプレイスタイルなのだ。俺はたとえぶかぶかのダウンジャケットを用意されても、初対面の女の子二人に脇を固められても、毛布には到底及ばないと信じて疑わない。なのでゲームが始まるまでに、花子が毛布を見つけ、さざんかが冷房をガンガンに冷やしきるまでの時間を要した。
花子の放ったクリーム色の毛布が俺をおばけにした。
「おう、なにも見えない。助けてくれ」
「文句の多いやつ……」
花子が毛布の端を掴んで引っ張り、俺の頭をすぽんと露出させた。クローゼットから毛布を出すときについたのだろう、白い綿状のほこりが茶色く染められたショートヘアにくっついていた。俺は指でそれをぴんと弾いてやる。花子は当然のような顔をしてソファにどっかと腰かけた。さざんかがその隣に腰かける。俺は毛布の前を合わせながら、両手に花の状態を期待していたのだが、女の子はこういうときに浪漫をわかってくんない。
俺たちの前には、ガラステーブルと、その上にはディスプレイが乗っている。テーブルの下にはPC本体があり、そこからは配線が伸びてキャプチャーボードを経由し二世代前のゲーム機に接続されている。
「さ、これで準備は整ったわね。始めるわよ」
花子がヘッドセットのマイクのミュートを解除した。マイクを心持ち三人の声を平等に拾えるようにぐにゃりと曲げる。
「じゃあ、電源入れます」
さざんかがマウスをひゅっと動かしてPCのスクリーンセーバーを解除。録音・録画をスタンバイ状態にして、あろうことか足の指で名機『パワーステーション』の電源を入れた。十年間、全国のちびっこをびびらせた起動音と共にゲームがPCに出力される。
その時、音もなく花子とさざんかの『スイッチ』が入った。
「はいこんばんわー! どもども、えー、ゲーム実況プレイヤーの花子です!」
ちょっと作った声音の花子の音声がマイクに吸い込まれていく。
「相棒の、しゃじゃんかです!」
出た。
さざんか恒例のあざといけどかわせない噛み。数日後、一日三万人の男性視聴者がこのエンジェルボイスによって明日も頑張ろうという気持ちを得るのだ。ハレルヤ。
画面にはメーカークレジット(いーびる・ぱっけぇじ!)が流れている。
「今日はですねー、ヤプオクでもアマゴンでも入手困難と言われてる幻のゲーム『夕闇日和』をやっていこーと思います! いやあ私たちも噂は前から聞いてたんですけど、ほんとに手に入るとはねーいやはやラッキ! って感じですはい」
「花ちゃん花ちゃん、あの、紹介しないと」
「へ? ああ――」花子がものすごく冷めた目で毛布に包まる俺を見てきた。
「今日はですねーみなさんには残念なお知らせがあります。とゆーのも、このソフトの提供者がどーしてもあたしたちの実況に混ぜてもらいたいって言うんでぇ、ほんとはヤなんですけどぉ、まあへそ曲げられても困るし? 参加させちゃえーってことでいまここにいまーす」
ん、と花子がマイクの先端をぐにゃっとこっちに曲げてきた。俺は急に恥ずかしさを覚えたが、我慢しよう、これが俺の輝かしい人気実況プレイヤーへの第一歩なのだ。さあいけっ。
「ふひっ」
最低の笑い声の後に、
「け、ケンケンです。知ってる人はお久しぶり、知らない人は初めま――」
「とゆーことでケンケンくんが来てまーす」花子の声が二日酔いに襲われたように淀んだとき、ようやくゲームのスタート画面がPCに表示された。
夕暮れの公園の滑り台の上で、白いワンピースを着た女の子が背中を向けて座っている。その少女の上には暖かい金色の文字で「夕闇日和」と書いてある。
「おお」花子が感極まったような声を出した。
「いいじゃんいいじゃんこの雰囲気! くはーっ雰囲気ゲー推しとしてはたまんないっすわ!」
「花ちゃんMICOとか好きだもんねー」とさざんかがのんびり合いの手を入れる。彼女のほんわか加減はたいていのホラーを無効化する。
「えっと、ケンケンくん?」
オプションをいじり始めた花子の向こうからさざんかがひょこっと顔を出した。
「このゲーム、どうやって手に入れたんだっけ?」
なんという、優しさ。俺は感極まって彼女に合掌しかけたが思いとどまり、彼女の質問に答えるべく、事の発端を思い返した。
○
ゲーム実況。
これは「ほくほく動画」や「LAW-TUBE」でひとつのジャンルとなっている「ゲームを実況しながらプレイした動画」のことだ。中では投稿から一日で10万アクセスに届くものもある。
無論、違法である。違法ではあるが、黙認されているのが現状だ。それにはさまざまな思惑があるのだろうと思う。下手に締め付けを厳しくして嫌われるのも面白くなかろう。なので、発売されたばかりのゲームや、シナリオが重視されるアドベンチャーゲームなどを除いて、たいていのゲームの実況動画がアップされている。
俺――灰谷研吾――がゲーム実況動画に出会ったのは、なんてことない、ほくほく動画でたまたま一位になっていた動画を見たら面白くて、そのままいろんな実況を見ているうちに、自分でもやってみたくなった。よくある理由だろうと思う。実況動画には不思議な魔力がある――というとなんだか不思議な物語が始まりそうな気配だが、俺はわりと結構科学的に「なぜ実況動画がこれほど人気なのか?」と考えてみたりする。だって知らないやつがただゲームをしているだけの動画だぜ? そのゲームについて知りたければ公式サイトにいくなり、実況なしのプレイ動画を見るなりすればいい(あればだが)。それでもみんな、比較的一定のプレイヤーに偏って、実況動画を見る。なぜか。
――なんか、友達と一緒にゲームしてるような気分になるから。
俺にも覚えがある。小学校の頃、友達が二人ぐらいでゲームやってるのをうまく会話に入れないまま後ろから眺めてる感じ。
実況動画は、あれに似てる。そんでもって、子どもの頃の原体験に近いものを、人は無意識に求めている。
まあ、原理がわかったところで、俺の実況動画は不人気なんだけれども。
「……姉貴、俺の声ってカエルの鳴き声に似てるかな」
俺はパソコンを睨みつけたまま、俺のベッドでポテチを喰い散らかしながら漫画雑誌を読んでる姉の真戸(マド)に聞いてみた。ぱらり、と雑誌をめくる音。
「ちょっと鳴いてみて」
「――は?」
「カエルの鳴き声。ほら、聞いてみないとわからんし?」
この姉貴、そのうち三回まわれとか靴下喰えとか言い出すんじゃなかろうか。だがまだ許容範囲内の要求だったので、俺は言うとおりにしてみた。
「……げろげろっ」
姉貴はばりばりポテチを噛み砕きながらウーンと唸り、
「ハロウェルアマガエル、って感じ」
ググる気にもなれなかった。
俺はため息をついて、投稿して三日目の実況動画のコメント欄に目を戻した。見たくも無いが、かといって目をそらせば負けた気がする。
ディスプレイの中で、俺が操作していた生物兵器に対して果敢に立ち向かう猛者の頭上を「きもwww」とか「つまんね」とか「ハロウェルアマガエル乙」などの心ない視聴者からのコメントが流れ星のように過ぎ去っていく。もうここまできたら絶対にググったりしない。
椅子の背もたれに体重を預けた。ぎしぎしと椅子が文句を言うが知ったことじゃない。
「あー……なーんで俺の動画人気でねーのかなー。へこむなー」
「まあ生まれとかもあるしね」
生まれってなんだよ。予想してなかったぞその返し。何? うちなんか呪われてたりすんの?
「でもさ、あんたそれ『アニマ2』でしょ。いまさらそんなみんなやったことあるゲームを男がピンでくっちゃべってるだけの動画なんて需要ないっしょ。受け入れてもらいたかったら、みんなが何を求めてるのか探ればいいだけのこと」
「そんなこと言ったって……え、じゃあなに姉貴が一緒に実況してくれたりすんの?」
姉貴は「ははっ」と乾いた笑いを返してきた。とても弟にしてやる反応ではない。くそっ、いまのやつは他人だ、あてにはならん。
それにしても、需要、か……。
俺の指は無意識に自分の動画から、ランキングに飛んだ。
5ジャンルくらいに分けられた「ほくほく動画」の人気ランキングのひとつに目をやる。そこの頂点には三日前からずっと同じ動画が鎮座していた。
花子さんとそのお供がゲームを実況するようです(汗 part34
――ゲーム実況プレイヤーで花子とさざんかのコンビと言えば、ラオウと黒竜号くらいの知名度がある。
なにせ、現役女子高生二人組の実況プレイヤー。しかも声がまたいいんだ。花子は地声だそうだが、さざんかの方は現役の演劇部らしく、ちょっとカタギが聞いたらヒいちゃうくらいのアニメ声でゾンビが出てきたり怨霊に押し倒されりするたびにわあきゃあ言ってくれるんだから男はほいほい引っかかる。無論俺もそんな一人だ。
だが、同じ実況プレイヤーとして(趣味でやってるだけなのに張り合うのも大人気ないかもしれないが)俺は彼女たちに鬱屈した思いがある。ちょうど俺と花んかコンビは同じごろにほくほく動画にデビューしたのだ。いわば同期。いわばライバル。いわば宿敵。
いつか俺もランキング入りするような実況プレイヤーになりたい――そう思うのは入れ込みすぎだろうか?
くそっ、需要だと? 姉貴め、俺のベッドの上でポテカスだらけの手をパンパンするのはやめてくれ。
花んかコンビがそのキャラクターで攻めてくるなら、俺は、質で勝負してやるぜ。
がたっと立ち上がった俺を見上げて姉貴は眉をひそめた。
「死ぬの?」
なんで。ていうか悲しくなるんだけどいきなりそれは。
俺は脱いだ靴下を履き直し、椅子の背もたれにかけていた制服の上着を羽織った。
「ゲーム買ってくる」
○
春の陽気と黄色い花粉の中をチャリンコで十分ほどぶっ飛ばし、きゅきゅっとカーブ、一見なにもなさげな住宅街に突っ込んでいった突き当たりに『輪廻堂』はある。字面だけだと仏様とか観音様とかが関係ありそうな気配がするが、その実はただの中古屋である。なんの、と聞かれても答えられない。輪廻堂にはなんでもあるから。
ただの三階建て住宅に見えるが、その一階が輪廻堂だ。いつものように鍵のかかってないドアを開けて中に入ると、ベルがりんりんと鳴って俺の来訪を店主に告げる。店主は今日も雑多な品物の山に囲まれながら眠っていた。透明な鼻ちょうちんがぱちんと割れると目を覚ます。
「――んん? ああ、なんだ君か。いらっしゃい」
「おう」
店主――卿崎しづるはぼうっとした目を向けてくる。ほつれた長い黒髪が唇に一筋かかっているが襲って欲しいんだろうか。
「ふうん」
しづるは俺の顔をモノクル越しに見て、にいっと笑った。
「ゲームが欲しいのかい。きみはそればかりだね」
「豊かな時代に一瞬だけ文明化した儚い芸術を探求してんの俺は。それよりおまえ学校来いよ。おれ話し相手いなくて死にそうなんだけど」
しづるはくすくす笑って、手元の水晶(!)を自分の子どものように優しく撫でた。
「この水晶で見ていたよ、きみ、また便所飯したみたいだね? たまには他の人とご飯を食べたまえ」
水晶なんぞ見なくても俺がクラスでぼっちなのはご承知のしづるさんであった。まあ別に悔しくない、糞しながら飯を食えるってのは履歴書にも書ける特技だろうし、そもそも制服にお札を百枚くらい貼って登校して輝かしい高校生活にピリオド打った女に何を言われてもノーダメージだ。こいつまだ反省してないらしいな。引っ込みがつかなくなったのか。
「いいから、なんか探してくれよ。みんながやりたがるような、そんでもって手に入りにくいゲームが欲しいんだ。あんだろこんだけゴミがあれば」
「ごっ……」しづるの目が驚愕に見開かれた。
「き、きみ正気か? この珍品稀品のるつぼがゴミに見えるなんて……一度きみとは深く話し合う必要がありそうだ」
「いいからとっとと探してくれよ。ああそうだ、うちの姉貴がまた遊びに来いってさ。ほれ、姉貴が持ってけって」
俺は手土産にエナジーバーがしこたま詰まったビニール袋を差し出した。
「ありがとう。……ほう、チーズポテト味か……ふむ、いちご?」
「おい」
「わかっているよ、せっかちだな、もう」
しづるはまたくすくす笑って、ゴミのるつぼに手を突っ込んだ。視線を明後日の方向にやりながらしばらくごそごそやっていたが、あった、と言って一つのCDケースを引きずり出した。
「料金はきみの姉上に免じて忘れてあげよう。そら、受け取りたまえ」
「おう……え、『夕闇日和』っ!? おいしづる、冗談はよせ、ここの店はパチモンを客に売るんか!」
しづるはにっこり笑ってケースに手を伸ばしてきたが俺は片手拝みに謝ってなんとかそれから逃れた。いや俺が驚くのも無理はない(と思う)。
夕闇日和とは、十年ほど前に発売されたパワーステーション用ゲームソフトだ。ジャンルはホラー。発売時のキャッチコピーは「いつまでも、待ってる」
発売してすぐに完売、もともと出荷数がそれほどなかったことに加えて、製造元のイービル・パッケージが倒産したことによってソフトの数が限定されてしまい、現在はどこを探しても絶対に見つからないと言われる幻のゲームだ。ヤプオクだろうがアマゴンだろうが、かつてガセ以外の出品がなされた試しはない。
普通なら、ある程度流通したゲームなら一本くらいは誰かが持っているものだし、違法コピーだって結局のところあるところにはある。だが、このゲームにはその手の代物が一切ない。皆無、絶無、存在したかどうかさえ、いまなお残る公式ページの残骸から推し量ることしかできない。
夕闇日和がホラーゲームであったことから、いつしか、このゲームには何かあるんじゃないかと囁かれ始めた。何か、というのが何なのか、それがホラーゲームに興じるものたちが常に意識の一枚裏に潜ませている「それ」なのかどうか、誰にもなんとも言えない。
俺にわかるのは、このゲームの実況動画は間違いなく「当たる」ということだけ。
俺はしづるに礼を言って、大急ぎで家に帰った。
○
意気揚々と部屋に戻ると姉貴殿がベッドに突っ伏して本格的に眠っておられた。起こすのも忍びないので、俺はPC脇に置いてあるパワステに夕闇日和のディスクをセット、そのまま流れるようにPCの電源を入れた。ゲームのデータをPCに流してくれる頼れる仲介人『キャプチャーボード』は常時接続してある。
姉貴の友達にPC関係に詳しい人がいて、彼からキャプチャーボードも譲ってもらった。その人が手を突っ込んで怪物になった我が家のデスクトップのHDDは音がしない。姉貴は二十年先の高等技術が応用されているとかぬかしていたが案外本当かもしれない。
ヘッドセットをかぶり、ソフトウェアを立ち上げて録画・録音体勢を整える。あとはそれぞれオンにするだけ。
俺は買ってきたばかりのゲームをやり始めた。時計を見る。六時二三分。まあカット含めて20分程度にまとめたいから、プレイ時間は30分というところか。
結論から言うと、夕闇日和はびっくりするほど普通のホラーゲームだった。当時としてはまだ新しかった3DポリゴンとRLボタンによる視角調整ができるほかは、他のホラーゲームと遜色ない。パワステ1の時代は洋風ホラーが多かったのに対して和風テイストで味付けされているのは個人的に好印象だ。画面の中で、雨が降っている街中で傘も差さずに主人公が空を見上げている。灰色の空の近くには信号機があり、ちゃんと現実に即して時間ごとに青黄赤と変わっていく。ろくすっぽ状況説明もないまま放り出されたが、始めた直後に女の子の泣き声が数秒聞こえてきたので、その子を探しにいけばいいのだろう。確か公式サイトのゲーム紹介にもそんなような説明が載っていたはず。こういう不親切さもレトロゲーならではで、そう悪くない。
――というようなことを、ある程度敬語を混ぜたりへらへら笑ったりしながら、俺は実況していく。ただ一向に敵が出てこないので、だんだん言葉に詰まってくる。あれ~おかしいな~やっぱりパチモンだったかな~などと自虐ネタも言ってみる。このゲームがパチモンだったと思われれば、それが本当だろうと虚偽だろうと俺の人気実況プレイヤーへのきざはしは瓦解してしまうので避けなくてはならないのだが、あえて自分に不利な情報を先手を打って言ってみると疑われなくて済むかもしれない。済んで欲しい。
いまのところ、夕闇日和は雰囲気だけの退屈ゲーだった。BGMも雨の音だけなので、背後で姉貴が「んんん~」と寝苦しそうな声をあげている音が入ってしまわないかと気が気ではない。いまはまだ唸り声だが、そのうち俺の名前とか言い出したらそこだけカットしなくちゃならない。めんどくさい。
俺はアナログスティックをぐりぐり動かして、雨の街を主人公に探索させていく。自販機や郵便ポストとお話してみようと試みたがテキストは表示されなかった。というか、ほとんど何も調べられない。こだわりが感じられぬ。
ちらっと時計を見て、そろそろ終わろうかなと思っているときに、無意識に○ボタンを連打していたら主人公がポリバケツを開けた。
その途端、
画面いっぱいに、
目玉のない女の子が真っ黒な口を開けてこっちを、
「おっ」
ちょっとびっくりした。画面を覆ったイラストはすぐに消えた。主人公は首を振ってバケツにフタをして後ずさり、操作の支配権がコントローラに戻ってきた。わけもなくその場をぐりぐり回ってしまう。心臓がいつもより元気になっていた。
ゲームオーバーになるかと思ったが、なんだったのだろう、いまのは。ただびっくりさせてみただけ? ――まあそういうのもアリかもしれない。もう一度ポリバケツを調べてみたが何の反応もなかった。小ネタの一つか、なにかのイベントのフラグでも立てたのか。
まあいい、今日はここまで。
お疲れ様でした~と朗らかな好青年を装って、俺はゲームを終了した。すぐに録画したゲームのファイルとマイク音声の録音ファイルを統合してほくほく動画にアップロード。
たったひとりの夕闇日和挑戦隊~ケンケン編~ part1
よし。
これで明日の朝には俺も上位実況プレイヤーにランク・インだ。人気が出てきたらブログの訪問者数だって増えるだろうしツブヤイターのフォロワーだってうなぎのぼりだ。そのうちケンケンさんとおしゃべりしながらゲームしたくなってきちゃう女の子が現れてじゃあちょっとうちにおいでよ何もしないからええほんとでも悪いし何も悪くないよおいでよわかったいらっしゃいそれじゃあ先にシャワー浴びて来いようはー!
これだ。これこそ俺の求めていたもの!
俺は満足感に包まれたまま、目を閉じてベッドにダイブした。
姉貴が寝てた。
女の子みたいな声出された。
○
姉貴がいるやつはいいよな、と黛(まゆずみ)は言った。よく鼻に絆創膏貼ったやつを前にしてそういうことが言えるものだと思う。まったく現実ってのがわかってない。
「それにだ、黛、あんた女なのに姉貴を羨ましがるってのはどういうことです?」
「黛先生、だろ?」と校医はため息をついていった。
「いくらあたしが若々しく見えてもな、これでもおまえの姉貴の先輩だったんだぞ」
「だって姉ちゃんが黛がいじめるー黛がなぐるーって昔ずっと言ってたもんだから、うちでのあんたは鬼か悪魔かって扱いなんですよ」
「やあだなあもう、体育会系女子にだってかわいがりくらいあんのよ」
姉貴も黛も、俺の通う緑音学園帰宅部のOGである。そのはずである。間違ってもインターハイとか朝練とかのある健全な活動はしていなかったはずである。それでいてなぜ姉と黛が知り合いになったのか、いまもって俺には謎だ。
「あたしは長女だからさ」フラスコで沸かしたコーヒーを飲みながら黛は言う。
「最初に先陣切って社会に入っていってくれるヒトが欲しかったんだよね」
「そういうもんですか」
「あんたにはわからんよお」黛はなぜか嬉しそうだ。
俺は時々授業をふけて保健室に来る。昔かたぎの不良よろしく授業なんか出てらんねえぜ! 俺は東京(まち)に出てビッグになるんだ! ってな具合だったらまだ格好もつくが、慢性の疲労から来る貧血でお世話になっている。とかく身体が弱く、心もそれほど頑丈ではないので、俺はできるものならずっとここにいたいのだが、それも目立つので、結局たまにいなくなる不健康なクラスメイトというポジションからにっちもさっちもいけずに停滞しているというわけだ。
「どう? 四限から出る? それとも昼過ぎまで寝とく? いいよおベッド空いてるし」
俺は黙って首を振った。黛は柔らかく微笑んで、そ、とだけ言った。俺は丸椅子から立ち上がって、カーテンに囲まれたベッドの中にもぐりこんだ。黛には悪いが誰にも邪魔されずゆっくりと確認したいことがあった。
俺の動画のコメントのつき具合である。
携帯を取り出し、黛には聞こえないようにボタンを押して、ほくほく動画にアクセス。俺は息を呑んで接続中を示す矢印の明滅に目を凝らした。
結論から言おう。
叩かれまくっていた。
俺の心が泣きに泣いた。
コメントのほとんどは「嘘乙www」「よく作ってあるねこれちょっとやってみたい」「相変わらず喋りきっめーんだよ口あけんな生ゴミ」「ハロウェルアマガエル先輩ちーっすwwww」といった感じ。ヒトはここまで誰かに残酷になれる。誰が先輩だよ、こいつひょっとして姉貴じゃねえだろうな?
俺はため息をついて携帯を閉じた。パタン、と音を立ててしまったが黛は何も言わない。俺はごろんとベッドの上で大の字になってぼそっと呟いた。
愛されないのってつれー。
愛したげよっかー、と気のない黛の返事。同情するなら人気くれ。
もうゲーム実況とかやめよっかなーもっとほかにやりたいこと探そっかなーと俺が人生の岐路について深い洞察を始めてしばらく経って、黛が放送で呼び出されて出て行った。がちゃん、と外から鍵がかけられる。誰かがふざけてがちゃがちゃドアを開けようとして、黛が保健室の外、廊下を歩いていく足音が聞こえる。
ぶるるっ。
携帯が震えた。どうせ姉貴であるから無視しようとも思ったが、一応開いてメールボックスを覗いてみる。
知らないアドレスだった。
――このゲームやるとマジでやば
メールを開いてみる。
そして、
一発で、
俺の世界が薔薇色に染まった。
用件の最後に差出人の連名の署名(?)があった。
花子とさざんか より
――わたしたちといっしょに、ゲームしてみませんか?
無論、無論、無論。
わかっている。聡明な俺には、彼女らが俺自身ではなく俺の持っている『夕闇日和』に目をつけたのであろうことぐらい近所のおばちゃんに「けんちゃんは賢いから将来は学者さんか先生ねー」と誉めそやされて育った俺には無論、わかっている。
それでも。
それでもだ。
女の子と一緒にゲーム。
しかも『あの』花子とさざんか。
現役女子高生実況プレイヤー。
据え膳が、
たとえ腐っていても、
俺は喰う!
俺はマッハで花子とさざんかが共同で運営しているブログに飛び、そこに記載されている連絡用メールアドレスと自分に送られてきたアドレスを比較した。一致。これでどこまでもヒトに残酷になれる輩からの許されざる一撃である可能性は消滅した。残っているとしたらそれは花子とさざんかの釣りだが、もういっそそれでも構わない。そんときゃそんときで夢を見せてくれてむしろありがとうだ。
件名:Re:突然すいません
本文:ぜんぜんいいっすよ!! あ、でもお二人ともどこ住みっすか? 自分は東京の虹ヶ丘ってとこなんですけど。
なんか一気にリア充になった気がする。いや、気がするんじゃない。もし本当にこの案件が成就するようなことになれば俺は一気に社会に食いつぶされる生贄の羊の群れから一頭抜け出た羊(猛)になるのだ。いまから狼になる準備も怠れない。帰ったら姉貴にいろいろ聞いてみよう。
返事はすぐに来た。
件名:Re:Re:突然すいません
本文:奇遇ですね、私たち虹ヶ丘のすぐそばなんです(*^^) いつも私たちは花ちゃんちでゲームしてるので、今度の日曜日あたりに一緒にやりませんか? あ、花ちゃんちは鳥ノ塚から歩いて五分くらいにあります
鳥ノ塚。俺の住む虹ヶ丘から二つ離れた駅だ。本当に近い……俺は感動でぶるぶる身を震わせた。神が俺に男になれってゆってる。
しかもこのメール、どうも送信しているのはさざんからしい。おとなしいさざんかに比べて、花子は実況中でもかなり暴言が目立つからこういう応対には出てこないのだろう。人付き合いも好きじゃないとはっきり動画の中で言っていたくらいだ。なので視聴者がつけたあだ名は屑子さんとかビチ子さんとか総じてマイナスイメージのものが多い。たまにそれを真に受けてへこんでいるとへな子さんと呼ばれるパターンもある。まあそう名づけたのは俺なのだが。
俺はあらゆるセンテンスに肯定の意味をぶちこんで返事をしたためた。
三日後。
俺は、女の子んちで女の子と女の子と怖いゲームをやる。
幸せである。
その至福な時間がチャイムによって打ち破られた。昼休みの鐘である。このまま眠っていてもいいが、どうせ昼はリア充たちが大挙して押し寄せて黛を取り囲んでお喋りするのでとてもいられたものではない。俺はドアの鍵を開けて廊下に出た。
ふと。
さっき、ドアをがちゃがちゃやっていたのは誰だったのだろう、と思う。
鍵をかけたときにはまだ、黛が外にいたはずなのだ。
保健室の中をそおっと覗き込む。少しだけ開いた窓から吹き込む風で、白いカーテンが幻のように揺れている。
○
「姉貴っ! この格好ヘンじゃないかなっ!?」
俺はジーパンに緑のパーカー(ドラゴンの紋章が胸のところに入ってるおかんが三千円で買ってきた「ちゃんとしたやつ」)を着て姉貴の前でくるっと一回転してみせた。姉貴は急につわりを起こしたように口を押さえたまま目に涙を浮かべていたが、いまさらこれ以上の組み合わせを作ることは俺の手持ちでは不可能だ。たとえ手札がブタでも相手を降ろせばいいだけの話。俺は意気揚々と埼玉までいけるほどチャージされたパスモと噂のゲームを持って家を出た。晴れた日曜の朝である。隣の家からは朝飯のにおいが漂い流れ、どこかでまた正義の味方が高々とジャンプしては怪人をやっつけていた。
まるで俺を待っていたかのような各駅電車に乗ると、あっという間に鳥ノ塚の町並みが窓の外から見えてきた。高層マンションと企業オフィスが詰まったこのあたりでも栄えてる方の街だ。花子とさざんかはお金持ちなのかもしれない。逆玉か……悪くない。むしろいい。
改札を出る。
打ち合わせでは、花子とさざんかが迎えに来てくれる手筈になっていた。なんだか有名人に会うようで(実際に何万人もの視聴者を抱えているのだから、ちょっとした地方の芸能人くらいには有名であるのかもしれない)俺は緊張していた。むやみに携帯を覗いては閉じる。
「あの」
振り返ると、私服の女の子が二人立っていた。
嘘だろ……?
マジで美少女じゃん……。
「えっと、ケンケンさん……ですよね?」
眼鏡をかけた黒髪ストレートの子が言う。この子がさざんかに違いない。
「そうっす。ケンケンっす。ども……」
「ぷっ」
むっ。
茶色く染めたクセッ毛の方が、猫目を歪ませて笑っていた。確かに俺の今の言い方は「初カキコ…ども…」みたいなニュアンスが漂っていてちょっとあれだったかもしれないが、信じてほしい、そんなつもりじゃなかった。
さざんか(?)が花ちゃん! と小声で叱責する。花子(?)は肩をすくめてそっぽを向いた。くちゃくちゃ牛みたいに反芻しているがガムでも噛んでいるのだろう。確かに感じは悪い、だが残念ながら俺はそういうのも結構イケるクチだ。墓穴を掘ったな花子め、いつか踏んでください。
「えーと、もうおわかりだと思いますけど……」さざんかがにへらっと笑って、
「わたしがさざんかです。で、こっちが花子ちゃん」
「…………」くちゃくちゃ。
「ああ、うん、よろしく……」
その場に突っ立っているのもあれなので、誰からともなく歩き出した。並び順は花子、さざんか、俺。さざんかマジ天使。
「えっと、ケンケンさんはわたしたちの実況、見てくれてました?」
「あ、はい」釣られて敬語になるがとっとと脱却したい。
「いつも見てます。たまにコメントしたりとかもしてるし」よし。
「あ、そうなんだ。嬉しい」さざんかの顔に笑顔の花が咲いた。
「ね、ね、花ちゃん、ケンケンさん実況見てくれてるって」
花子が着ている皮のジャケットをさざんかがつまんで引っ張る。結構強いらしく花子の身体ががったんがったん揺れていて格好がつかない。花子は観念して、
「あたしも見てるよ」と、俺の目を見て言ってきた。
「え?」
「だから、あたしもあんたの見てる。『メガシュート』と『アニマ2』と、あと何やってたっけ?」
「……『ブリザードエンブレム紋章の盾』」
「ああ、そうそう。なんの縛りもしないでただ喋りながらプレイしてたやつ。あんたさーもうちょっと編集とか凝ったら?」
おおう、いいねえ、その冷めた瞳。
「いや、パソコンとか実際苦手なんだよ。実況のセッティングとかも姉貴の友達に任せちゃったし」
「ふーん」花子は俺の顔を犯人が残した遺留品のようにしげしげと眺めた。
「そーゆーの詳しそうな顔してるけどねえ。じゃああんた何が得意なの?」
「何ってなんだよ? 広すぎるだろ、どう答えていいかわかんねーぞ」
「なんでもいーよ。実は家事できるとかなんだかんだで数学得意で公式ぜんぶ暗記してるとか、そういうお得な情報」
「跳び箱」
花子とさざんかがきょとんとした。ええい、ままよ、悪いのは俺じゃねー。
「だから、跳び箱は得意かなっていってんの。十段でも十二段でもいける。そんだけ」
「ぷっ」
花子が吹き出し、さざんかが「花ちゃん!」と連れの背中をばしばし叩く。
だが、花子の笑いは最初のときよりは柔らかくなっていた、気がする。
○
そして冒頭へといたる、というわけだ。ちなみに花子の家は十七階建ての高層マンションの最上階だった。しかも一人暮らし。たぶん襲って欲しいんだと思う。
改めて三人で実況する、ということで、俺の第一回目のセーブデータは消去された。特に思いいれもなかったのでそれは構わない。それよりもちゃんと二人の会話に追いついていけるかどうかが今の俺の最大重要案件だ。
花子とさざんかは慣れたもので、常に喋りながらもそれが間を持たせるためのつなぎ、という感じがしない。さざんかにいたっては頃合を見計らって俺に振ってくれるのでそのたびに俺はこの子の旦那さんになろうと思った。
「ケンケンさんは、普段どんなゲームやられるんですか?」
操作は花子が担当しているので俺とさざんかは基本的にはヒマだ。画面の中で灰色の服を着たポリ男(花子命名)がぐりぐり動いて調べられるものを探している。
「あれっすね、あれ、えっとお、あれっす。あのー」
「うるさい」花子の言葉の剣が俺の喉を串刺しにした。
「あはは……えっと、ゆっくりでいいですよ?」
フォローされるのも辛いときがあるんですよ。俺は深呼吸して体勢を整える。
「雰囲気ゲーが好きっすね。ロープレだとファイナルクエストは9、ドラゴンファンタジーだと、そっすね、7とか」
「あ、そうなんだ! わたしはあんまりRPGやらないんだけど、でもそれって確か花ちゃんもスキって言ってたよね? ね、花ちゃ――」
そこでポリ男が例のポリバケツのフタを取ってブラクラ画像もどきが画面を覆い、さざんかの心肺が停止した。喉の奥から「きゅうううう」という細い声がこぼれている。花子もさすがに身を強張らせていた。
「うっわーびっくりしたあ……結構いやらしいトラップ仕かけてあんね。これ画面切り替えも唐突すぎない? いきなり切り替わったからなんか怖いってか戸惑った」
「冷静だな花さん」
「誰が花さんだ誰が」
これ以上の敬称はないだろう。それよりさざんかが死んだままなのをなんとかしてあげてほしい。
「さ、さざんかっ!」花子がぐったりしたさざんかを抱きしめ、そしてきっとPCを睨んだ。
「このクソゲーめ……! よくもさざんかを!」
こいつノリいいな意外と。
「ほれ、手元がお留守だぞ」毛布から足を出してコントローラをふとももに蹴りつけてやった。
「うっさいばか。あー、ほくほくのみんな、なんかいまあたしケンケンにセクハラされましたっぽいです。こいつのブログ燃やしていいです」
「ちょっ」
後日談になるが、ほんとに燃えた。いつか彼女には巨人が手を振り回したら山でも崩れるということを教えてやらねばなるまい。
その後、さざんかが目覚め(ん、んん?)、ゲーム実況はつつがなく進行した。初めての敵キャラも登場したが、これはわかりやすい灰色の顔色をして両腕を突き出して突進してくるタイプの敵で、しかも特段の場面展開でいきなり出てきたりするのではなく普通に横断歩道を渡ってきたのでさざんかはくすりと笑い、花子はウケた。ゲラゲラ笑いながら花子はポリ男を逃がし、灰色の彼はうーうー唸りながら横断歩道を渡り切った。
「あーおかし」花子は涙を指で拭いながら言う。「でも変だね」
「何が?」と俺。
「ゾンビってさ、『アニマ・ハザード』が初出でしょ、少なくともうちらの世代の文化に入ってきた国内ゲーでは。なのに『夕闇日和』より後に出た『アニマ』がパクリだなんだって叩かれてたことってないじゃん」
「そりゃあだって、アニマが出たとか出ないとかって時期は俺らがガキの頃だぜ。一家に一台パソコンがあってググれる時代じゃなかったし、思ったやつはいても意見を発表する場がなかったんだろ。たぶんあの頃に『ピカモン』は『マホテン』のパクリとか言ったら検証する前に周りから袋叩きにされてたぜきっと」
ピカモンは言うまでもなく今でもアニメが放送されているちびっこと大きいブリーダーに愛されている伝説級RPG。マホテンはカルトな世界中の宗教ネタを取り込んだせいで外国にいくと肩身が狭くなる古参ゲームの略称だ。
花子はうーんと唸っていたが、まあいいか、と勝手に納得してアナログスティックをぐりぐりする仕事に戻った。アホ糞ビッチのように見えてたまに結構深い洞察力を見せるのが花子の売りである。少なくともほくほく動画の百科事典にはそう書いてある。それも書いたのは俺なんだが。
「あ、もうそろそろいい時間だね」さざんかが手首を返して腕時計を見た。
「そろそろセーブしてやめよっか?」
「そだね」スタートボタンでポーズして、セーブ画面を呼び出した花子はささっとデータを保存した。口元のマイクをぐりぐりいじって、
「えーそれでは、なんだか新参者がしゃしゃってきてうざかった第一回『夕闇日和』実況ですが、いったん終わりたいと思いまーす」
「思いまーす」さざんかが真似して女子二人がきゃっきゃうふふし始める。俺も何か言おうかなと思ったら花子が録画と録音を停止させた。むごい。
その後?
もちろん何事もなくあっさり解散した。次に会うのは一週間後。晩御飯をご馳走になることも急な嵐が来てお泊りになることもなく俺はお外にほっぽり出された。さざんかはまだちょっと残っていくという。
「じゃーね」
バタン、と花子が閉めたドアの前に俺は立ち尽くす。ふう、とため息をつき、十七階からの夜景を手すりにもたれて眺める。
どさくさに紛れてディスクを回収できなかったらこのままバックレられるところだったぜ。危ない危ない。
「ただいま」
家に帰ると姉貴の靴がなかった。おかしい。拉致されたか、コンビニに買い出しにいったか、それとも例の『仕事』か。
うちの姉、灰谷真戸は基本ヒキニートである。これは高校卒業してから今に至るまで継続しており、滅多なことでは家から出ない。最後に外出したときのサンダルで外に出てみたら冬になっていた、というのは一年前に実際にあった出来事だ。おかげで嫁の貰い手はなく、来る日も来る日も太らない体質にあぐらをかいて優雅な囚人みたいな生活を送っている。
のだが。
ごく、ごく稀に姉は外出する。どこへいくのか、何をしにいくのか、まったく不明なのだが、決まってそれは夜で、明け方になると音もなく帰ってきて、そしてテレビのあるリビングのテーブルに無造作に輪ゴムで丸く括られた札束が買ってきたガチャポンのカプセルみたいに転がされているのだった。いったい何をしてきているのかまったく謎だが、母さんも父さんも「まあ、大丈夫だろうまあちゃんなら」と言ってたいして心配していないようだった。うちの両親のお気楽さときたらこれはもう羊の国で育ったとしか思えない。ちなみに母上の手腕によってそのお金は九割が灰谷家の肥やしにされている。
その姉の外出のことを家族の間で「仕事」と呼んでいるのだが、どうやら今晩もそれらしい。珍しく姉がいないので俺の心は穏やかになる。部屋に戻るなりPCをつけ、ほくほく動画にアクセスすると早速花子とさざんかの二人は実況動画をアップロードしていた。投稿日時を見る。一分前。気が合うこった。
まだ再生数は2だった。撮ったばかりの花子とさざんかの声が流れ出す。コメントはまだゼロ――俺が見ている最中に1になった。新しいコメントの流れ星が動画を横切る。
やめておけ
だ、
だが断る。
俺はとりあえずアップロードされたばかりの、俺と花んこコンビの記念すべき第一回目の実況動画を見て、その日はすぐに寝た。
黛は、あんたは学校に来ているだけマシ、という。あんたの姉貴は半分も来ちゃあいなかった、と。確かにそれはそうだ、俺は知っている、姉貴は高校時代からすでに引きこもりがちで、夏休みが五月から十月まであった。よく卒業できたものだと思う。だが、俺は本当はもうちょっとまともに学校ってものに通いたいと思っていたし、このままいけばタダでは済むまい――と感じてもいた。そのタダで済まない、というのがどういうことなのか具体的なイメージは浮かんでこなかったが、とにかくまずいと思ってはいたのだ。
そしてそう思えば思うほど、逃げ出したくなるのが人情である。
クラスメイトが数学の飯塚の禿頭を見つめているであろう時、俺は『エコーズ』に着ていた。カラオケ屋である。俺の高校のそばにはカラオケはなく、俺はわざわざ鳥ノ塚の駅前通りにまで足繁く通っている。大抵の場合はチャリンコで来るが、今日は生憎の曇天、降水確率60%オーバー。電車を使った。
そう、何を隠そう俺の趣味は一人でカラオケ、『ヒトカラ』なのである。
恥ずかしいのは最初だけである。
新規アニメのポスターぺたぺた貼られた雑居ビルの階段を登って、『エコーズ』の自動ドアを潜る。俯いて歩いていたので、声をかけられるまで気づかなかった。
受付の前に立っている女の踵が、俺の方を向いて、ぴくっと止まった。
「……ケンケン?」
「あ?」
顔をあげると、そこには知ったばかりの顔があった。
「なんか食べる?」
「いらねえ」
「あそ」
奇妙なことになった。
俺は、花子とガラステーブルを挟んで向かい合っている。設置されたテレビは今週のオリコンチャートについての情報を吐き出し続け、花子はデンモクをぴっぴといじり、可哀想に動揺しきった俺は膝を手で掴んで石になっていた。覚悟していたならいい、だが不意打ちでこの展開は処理しきれない。自分で自分を他人扱いしたくもなる。
花子はデンモクに目を落としたまま、
「入れないの?」
「ふぇ?」
「歌いにきたんでしょ?」
「あ、ああ」一人のつもりだったけどな。
花子はデンモクをテレビに向けてぴっと送信した。そして立ち上がり、テレビ横に刺さったビニルで封されたマイクを二本取ると、一本を俺に放り投げてきた。俺は慌ててそれを受け取る。
花子はにいっと笑った。イントロが流れ始める。
「デュエット入れた」
マジかよ。ええい、くそ。
俺はマイクのスイッチを入れて立ち上がった。花子がにやにや笑ってやがる。どうせ知らん曲を前にして慌てふためくさまでも拝もうと言うのだろう。そうはいくか。
俺は息を吸った。
知ってる曲だった。
爆笑だった。
花子はふかふかの座席に終わらない右フックを繰り返し、左手でボディを喰らったように身をくの字に折っている。俺は顔に手をやった。これが仏頂面の感触らしい。覚えておこう。むかつくので花子が入れていたほかの曲をキャンセルして俺の十八番を三つほど入れてやった。こうなったらヒトカラと変わらない。あそこで無礼を働いている女はジャガイモか何かだ。
息を整え、テレビを親の仇のように睨み、歌った。
「あー……」花子が起き上がって目尻に浮かんだ涙を拭った。笑い泣きしやすいタチらしい。
「いやあ笑った笑った。あんた誘って正解するとは思わなかったなあ」
そりゃよかったな。俺はぎろっと睨みながら深夜放送された魔法少女モノのEDを恨みがましく歌い続けた。花子はへらへら笑って、
「悪かったって、でもこれは好意的な笑いだからさ、ありがたく受け取っといてよ」
傲慢なやつめ。
だがまあ、悪い気はしない。もちろん。いいさ、釣られてやろう。釣ってくれるだけいくらかマシだ。
俺と花子は交互に歌った。五時間ほどお互いに日頃のストレスを発散し、『エコーズ』を後にした。外に出るともうすっかり暗くなっていた。
俺がぼーっとその場に突っ立って濃い紫色の空を見上げていると、花子が脇を肘で小突いてきた。
「どーする? なんか食べてく? あたしはどっちでもいいけど」
やけに積極的である。これはフラグが立ったというやつだろうか。
悩むのも馬鹿らしいので素直に聞いてみた。すると花子はアスファルトに打ち上げられた魚を見たような顔になった。
「へー。……やっぱ期待しちゃうもんなの、男子とゆーものは?」
「おう」俺は素直に頷いた。
「それは悪いことしたなあ」
どういう意味だよ。
花子はにやにや笑ったまま先をいく。結局なし崩しに駅前のファミレスに決まった。
席に座って俺たちはカルボナーラとナポリタンを頼んだ。それにしても花子のこの動じなさときたらこれはもう幻滅もいいところだった。メニューを取るときに指同士がぶつかったにも関わらず眉一つ動かさない。あ、ごめん、そう言ってくれるだけまだマシだが、なんというかこう、もっと何かないのだろうか? こういうところに、男子と来るのが珍しくないのとか?
探りを入れてみた。
「おまえさ、このあたりって顔見知りとかいるんじゃねえの。彼氏とかに出くわしても俺は知らんぞ」
花子はお冷をストローで飲みながら目を見開いた。
「彼氏なんかいないよ。いても邪魔だし」
よっ……しゃあ?
「それに通ってる高校は織城の方だし。地元にはあんまり友達いないから問題ない」
さらっと言う。
こうして二人きりで会ってみると、なんだか花子が別人のように思える。さざんかと実況しているときのようにはしゃいだりしないし、三人だったこの間とも雰囲気が違う。なんというか、落ち着いている。なにかが取りついているのかもしれない。やはりあれはヤバイゲームだったのか――俺が悶々と考えているうちに、注文した料理がきた。
「さざんかがさ」
それは、俺がフォークでカルボナーラをどれだけ巻き取れるかに挑んでいたときだった。
「あんたのこと気に入ったみたいで」
俺は白濁した麺の中にフォークを落とした。ぽかん、と口がまぬけよろしく開いた。
なんだって?
「だから」自分のことでもないのに花子が照れたように頭をかいて、
「まだ、あたしもちらっとしか聞いてないんだけど、でもなんか、あんたのこと悪くないって言ってて……」
ええ?
嘘だろ?
いやいやいや。
いやいやいやいや。
それはさすがに――
「釣り乙」
「や、あたしも最初はそう思ったんだけどさ?」失礼なやつだ。
「でもなんか、あの子自身にもよくわかってなさそうっていうか……あの子、恋愛とか昔から奥手でさ。たぶん初恋とかもまだだと思うんだよね」
降って湧いたスイーツな話題に胸焼けがしてきた。俺は自棄になったように水をなみなみ注いで飲み干した。花子をやぶ睨みして、
「それで?」
「うん、それで、いやでも、たぶん、ありえないだろう、と」
花子は俺を上目に見やって、
「一目ぼれってないわけじゃない、と思うけど、控えめに言ってあんたにあの子がいかれちゃう理由はたぶんない、じゃん? 失礼なこと言ってるとは、思うんだけどさ」
「だから?」
「それでまあ、今日は偶然、出くわしたわけなんだけど、まあつまり」
「ああ、試したのか?」
花子は髪を数本引きちぎられたような顔をした。
「ごめん」
俺はふう、とため息をつく。
まあ、わからなくもない。
そもそもネットでの出会いなんてものは、なんの保証も担保もない、夢とキボーに溢れている代わりにすべて自己責任、まずいことに巻き込まれたって逃げ切るまでは助からない――そういうものだ。だから、今まで身内でほくほく動画の実況やってた花子が、相棒のゆらぎに神経質になるもの無理はない。たとえばこうだ、やつら二人の実況が花子の誘いから始まったとしたら(たぶんそうだろうが)、その実況から派生したさざんかへのトラブルに花子は責任を感じなければならない、己の良心に素直でいたいなら。そのためなら、カラオケボックスで出くわした『トラブル候補』と一日デートしてみることぐらいは朝飯前というわけだ。自分を試金石にして、最悪すべての災厄は、自分の線で止めればいいと。
まあ、そうだよな。
そうでもなければ、なにか裏でもなければ、こんな風にとんとん拍子で話が進むわけがない。
「なあ」
「…………」
花子は見下ろしていたナポリタンの空き皿から顔をあげた。猫目に初めて見る色合いが浮かんでいた。
俺は意味もなくフォークを手の中で弄びながら、言った。
「今日のこと、さざんかには黙っておけよ。俺も言わない」
「ケン……」
ケン?
いや、いまはいいか。
確かにあまり気分はよくないが、それでもひとのためにやったっていうなら救いがあると俺は思う。それぐらいに他人のために何かをする、というのは、いまの時代とても珍しいことなんだ。
俺はなんとなく沈んだ空気を打破すべく、話題を変えた。
「あんたらって、どこで知り合ったんだ? まさかネットじゃないよな」
「なんで?」花子は不思議そうに聞き返してきた。
「ネットだよ。チャットで喋ったら気が合ってさ。もう五年くらい前だけど、あたしが書いてた日記サイトにさざんかが来て、それで」
「ほー」
五年前? その頃は、たしか俺も日記サイトをやっていた頃だ。まだブログなんてものはそれほどなくて、すでにテンプレートが組まれた無料サイトに日記という名の愚痴を書いていた。すると、その系列のサイトから足跡などを経由して誰かがやってきてくれたりした。まだnixiもなかった頃だ。
「サイトの名前はなんて――」
問いかけたところに、花子が追加で頼んだ特大ピザがやってきて、話はそれで終わってしまった。
花子はピザを切らないで丸めて喰うことがわかった。どうかしてると思う。
振り返れば曇天だった。十七階の高さから見下ろす鳥ノ塚の町並みが、一瞬、誰もいない廃墟に思える。
「あ、いらっしゃい、ケンくん」
花子の部屋のインターホンを鳴らすと、ガチャっとさざんかが顔を見せた。赤いべっこうぶち眼鏡が休日の陽光を浴びて輝いている。
「おっす。たけのこの里買ってきた」
「わ、ありがと」
俺がコンビニの袋に入ったたけのこの里を渡すと、さざんかはぱあっと笑った。その輝かしい笑顔の向こうから「なんできのこの山じゃないのよ!」と苦情が飛んできたが俺は何か買ってこいとメールで指示されただけだ。裁量権は俺にある。あんな舐めてたらただの曲がった棒になっちまうもん喰えるか。
俺はソファで寝転がっている花子の横に無理やり座って一息ついた。
毎週日曜日に花子部屋で夕闇日和の実況を始めてから三週間が経っていた。つまり実況動画もすでに八つ(一日一時間プレイして、動画にするときは三十分ごとに分割するので)ほどほくほく動画にアップロードされている。評判は、やはりというか、好評だ。喜ばしい……だが、悲しいこともある。最初はものすごいクレームがついた俺の参入だが、最近はもう、みんな「ケンケンなんていない」ということにしたようで、誰かがコメントで「この男マジうぜえ」とか言うと、すぐさま別の誰かが「え? 花ちゃんとさざんかのエンジェルボイス以外聞こえないけど……おまえそれ幽霊じゃね?」みたいなコメントが追撃して動画内にぽかぽかした空気が流れるようになっていた。いないもの扱いは本当に悲しいのでやめてほしい。夕闇日和の所有者は俺だというのに……。
花子は「そういうネタにされることで愛されているという実感を得なさい」などと俺を奴隷か何かだと思っているようなことばかり言って取り合ってくれない。まあ、大なり小なりタフさはないと人間関係は維持していけないのは確かだが……はて、動画のコメントと俺の間には人間関係が成立するのだろうか。俺からの返事は基本的にないわけで、相手は一方的に俺に、届くかどうかもわからないコメントをする。無論独り言や他のコメントへの意見もあるわけだが……つくづくこのコメントつき動画というやつは不思議だなあと思う。しづるは「こうなることはわかっていたよ。まだ金さん銀さんがテレビに出ていた頃からね」などと言っていたが、あいつひょっとして結構ダブってるんだろうか。いくつだよ。
俺がパワステの電源を足で入れると花子がむっと顔をしかめた。
「もー足で入れんのやめてよ! 壊したらあんたんちのやつもらいにいくから」
「いいよ別に使ってねえし。おーいさざんか、始めるぞー」
「はーい」
俺が呼ぶとパタパタとさざんかが、お盆に飲み物とたけのこの里を盛った皿を乗せて小走りにやってきた。淡いブルーのワンピースの裾がぱたぱたはためいて俺はもう駄目になりそう。
どすっ
いくら女子高生と言ったって肘は硬い。俺のわき腹に入ったエルボーはなかなか重かった。
「目つきがやらしい」
すんません。
まあまあ、とさざんかがなだめて、実況が始まった。花子でーすさざんかでーすのお決まりのセリフの後に、俺が小声でケンケンです、と付け加えて俺たちの実況は始まる(いーびる・ぱっけぇじ!)。
花子がポチポチとセーブデータを呼び出した。プレイ時間は四時間十三分五十六秒。このプレイ時間が夕闇日和の中では序盤なのか終盤なのかはわからない。まだ誰もクリアしたことがないからだ。解析したくてもクリアしたくてもそもそも入手不能で手が出せない……それがイービル・パッケージの『夕闇日和』だった。
無論、アップロード直後の実況動画内のコメントでも、このゲームの存在を疑問視しているやつはいた。花子とさざんかの熱心なファンや、それほど夕闇日和の逸話について詳しくない視聴者は割りと信じて見てくれているが、リアルタイムでイービル・パッケージの倒産騒ぎに食いついていたタイプは、いまさらあれが見つかるわけがない、でっちあげだ、と言ってはばからなかった。
それで動画のコメントはしばしば荒れたが、part4でさざんかがとうとう涙声で、
「けんかはやめてください……わたしたち、みんなに楽しんでほしくて……それだけ、なんです」
一発だった。
コメントは再び、和気藹々とした空気に包まれた。
日本はまだ終わってねえな、と俺はしみじみ思う。
そして、肝心のゲーム内容に関して言えば、俺もそれほどゲームをやりこむ口ではないから大きなことは言えないが、それでもわかる。
意味不明だった。
そもそもこのゲーム、ゲームオーバーにほとんどならない。なるのは、白衣を着た男に主人公が突き飛ばされたときだけ。そのときだけ、画面の中のポリ男は苦しげに身もだえした後、動かなくなり、画面は暗転し、タイトル画面に戻る。それまでにセーブしていなければ、すべてがパァ。
まあ、昔のゲームならそれぐらいシンプルでもいいんじゃないの? とお思いの方もいるだろう。
だが、このゲーム、ただ白衣の男から逃げるだけではない。いろいろできる。たとえば、普通のホラーのように、扉に鍵がかかっていて、そのキーをどこかから探し出してくる、なんてこともする。
鍵に関して言えば、二度その扉を調べると勝手に開く。
これは、いままで出てきた扉すべてでそうだった。一応、テロップには「鍵がかかっている……」と表示されこそするが、二度目では次の部屋にポリ男が半自動で進んでしまうのだ。
これはヘン、と花子が言い出し(さざんかは次に進んじゃおうと進言したのだがこれは却下された)、彼女はわざわざ開いた扉の鍵を探して舞台である灰色の町を散策した。
鍵はあった。ご丁寧なことに、ある手記を読み、その情報を下に辿り着いた部屋の引き出しの中に入っていた。まあ、ホラーゲーではよくある展開だろう。
「鍵がある、ってことは、一応、製作者はこれを遊びの過程として組んでるわけでしょ? なのになんで、二回チェックしただけで扉が開いちゃうわけ?」
どうしてだろうねえ、とさざんかがふわあとあくびをしながら答えた。花子はちょっとやきもきしたようで、身もだえしながら、
「やっぱりこれ、バグなんだよ。むかつくなあ。ケン、どこでこれ買ってきたのよ。まさか修正前の初期ロット掴まされたんじゃないでしょうね? この調子じゃ、そのうち逆に進行不能のバグに引っかかるかも」
「え、それは困るね」急にさざんかが食いつき、きらきらする目で俺を見てきた。そんな顔をされましても。
俺は苦し紛れに頬をぽりぽりかいて、
「さあ……夕闇日和が販売後に修正かけられたって話は聞いたことねえけど。でもまあとにかく、このまま進めてみればいいんじゃねえか? 修正してくれるメーカーももうないんだし、駄目だったらそこまでってことで仕方ねえだろ」
「むう」花子が唸る。
「でもさあ、すごくいいとこまで見せてからバグでできませんでしたじゃ、これ見てる人たちも納得しないと思うんだよね」
「そら、そうだけどよ」
「うん、そのときはわたしなにか歌うよ」むふーとさざんかが鼻息を荒くする。
ここで、さざんか(歌手)について補足を入れておきたいと思う。
ほくほく動画には実況動画のほかにも、「やってみた」というジャンルがある。そのジャンルの動画は、たとえばアニメのキャラクターの踊りを真似して踊ったり、あるいは有名なゲームミュージックをピアノ伴奏にアレンジして演奏してみたり、といったようなチャレンジフルな内容が録画されている。その中に、「歌ってみた」というジャンルがあり、これは要するに公開ヒトカラだ。自分が演奏に合わせて歌った音声(場合によってはイメージPV)などをつけて動画にしてアップロードする。これも、ゲーム実況動画に負けず劣らず人気の高い動画ジャンルなのだ。
さざんかはゲーム実況プレイヤーでありながら歌ってみたにも動画を投稿している歌手でもあるのだ。
そして、さざんかの歌声は主に敵を攻撃する際に使われる。
やり方は簡単だ。さざんかの歌った音声データを入れたipodやiPhone(彼女はそれをMP3で配布している)を憎い敵の耳元に近づけて再生するだけで、相手はその場から三メートルは撤退する。もし、本当に相手が憎ければ、数人がかりで囲んでその耳元で大音量再生することもできるが、これは危険すぎるので、もしやろうとしているやつを見かけたら本気で止めろとほくほく百科事典には載っている。犠牲者の体験談によれば、彼女の歌を耳にした瞬間、「世界が砕け散った」「走馬灯が倍速した」「急激なめまいと嘔吐感に苛まれ、ビタミンが著しく欠乏した」という。
最初、実況動画プレイヤーが歌ってみた、というわけでさざんかのファンは喜び勇んで彼女のデビュー動画を見に行った。
そして、誰一人無事では済まなかった。
以降。
彼女がどれほど熱心にどんな曲を「歌ってみた」としても、その動画の再生数は、ゼロのまま変わることはなくなった。
だから、さざんかの『最悪の場合はあたしが歌えばなんとかなる』発言に、俺と花子が恐怖のあまり息を詰まらせたことは誰にも責めることはできないと思う。身を守ってくれる毛布を千切れんばかりに握り締め、俺は願った。
どうかこのゲームが何事も無くクリアできますように、と。
それはともかくとして。
夕闇日和が、どうも正常にプログラミングされていないのは間違いないようだった。たとえばさっきの鍵以外にも、四桁の南京錠で閉ざされた引き出しなり、ロッカーなりがあったとする。チェックすると0~9を四桁に入力する画面が出るのだが、いまのところ花子が隠されしエスパー能力者でない限り、バグですべて解錠してしまっていることになる。
また、巨大な水槽の中にポリ男が落ちて、その中のサメが襲いかかってきたこともあった。HPゲージがお互いに表示され、ポリ男は運よく持ったまま落下した水中銃で、迫り来るサメを泳いでかわし、攻撃する、そういう趣旨のイベントであることは明らかだった。
サメはポリ男に確かに噛みついた。ポリ男も苦しそうに身悶えする。だが、HPが減らないのだ。結果として、ポリ男はなんなくサメを撃退。サメがふらついて激突した水槽の穴から大量の水と共に吐き出された。
これではさすがに興ざめ、コメントも減るのではないか――と思ったが、そうはならなかった。むしろ視聴者にはウケていた。最初から誰もちゃんとしたゲームであることなど期待していなかったのかもしれない。古い、いわくつきの、他の動画ではお目にかかれないゲーム。退屈さえ潰してくれればそれでいい。そう思っているやつらが多いらしかった。
「それに、BGMがいいんだよね、このゲーム」
花子が言う。
「なんかさ、ステージごとに物悲しいっていうか、その場の空気にぴったりあった曲が流れてきて……プレイしてるだけで満足って感じ、確かにする。イービル・パッケージのゲームってみんなこんなんなのかな? だからこんなに、いまでも評判なわけ?」
「どうだろうな。1パケ(イービル・パッケージの通称)のゲームはパワステではこれしか出てないけど、サイコンの頃は完成度の高さと、何度でも遊びたくなるようなこだわりのあるゲーム製作が評価されたってミキペディアには書いてあったけど」
サイコン、とはいくつもの神ゲーを生み出した真剣堂製のゲーム機『サイバーコンピューター』のことだ。いまでも愛好者がおり、後継機でダウンロード販売される旧作は好評を博している。
「1パケのサイコン時代のゲームはRPGしかやったことねえけど、まあ、普通だったぞ?」
「ふうん……じゃあ誰かが新しく入ってきたのかな」
「さあな」
この若干探偵ぶった掛け合いも、割とコメントでは楽しんでもらえているようで、なんだか嬉しい。あれ? ひょっとして、俺ってけっこー愛されてる? うおおお……マジかよ胸が熱くなるぜ。みんなツンデレなんだなホント。
そんな風に俺がにやにやし始めたのが、ちょうどゲームを始めて三十分ぐらい経過した頃だったろうか。花子はソファの上で膝を抱えるようにしてコントローラを握り、さざんかは正座して食い入るように画面を見ていた。俺はぼんやりと時計を見た。二時三十四分。
停電。
「――っえ? あれっ!? 停電? なんで?」
その日は朝からかなり濃い雨雲に日本列島は覆われていて、太陽の光は真昼間だというのに停電した部屋の中まで差し込んではこなかった。ほとんど夜明け前のような闇の中で花子が立ち上がろうとし、俺の毛布を踏んづけた。そのまま足を滑らせて、
「――っ!?」
花子は俺の方に倒れこんできた。あっ、と声をあげて、そのまま暗がりの中、花子の顔が近づいてきて、俺は毛布に包まれていて避けられなかった。しかもその毛布は花子に踏まれて彼女の方に巻き込まれていたわけで、どうしようもなかった。
事故だった。
「わ、だいじょう――ぶばっ!?」
女の子らしからぬ悲鳴をあげて、さざんかがソファから転がり落ちた。ソファを横断して横たわった花子の足を踏んづけて、ソファの肘かけの向こうに転がり落ちた。
それを頭のどこかで意識しながら、
俺は花子とキスしていた。
「――――」
繰り返す。事故だった。狙ってやったわけじゃない。あの花子の滑り方は神様にしかできない滑り方で、俺たちの動きは清廉潔白、こんなこと、チラとも考えていない身の振り方だったはずだった。
「――――」
まつげが触れ合うくらいの距離に花子の顔があった。
「花ちゃ」
「っ!」
ソファの向こうからさざんかの声がして、花子がばね仕掛けのおもちゃのように身を起こした。俺はそのままダッチワイフになったみたいに身動きできなかった。
花子は、俺の顔を無表情に見下ろしたまま、
「あの、あのねさざんか、あの」
「花ちゃん」
俺が首を起こして見ると、さざんかが、魂を吸われたような顔をして、テレビ画面を指差した。
テレビは消えていた。
さざんかは、消え入りそうな声で、
「セーブ、データが……」
花子はまだ回復しきっていないらしく、「せーぶ……」と知らない言葉を口ずさむように言ったが、電撃的に回復した。どうもさざんかが『事故』を見もせず気づきもしなかったことに思い至ったのだろう。ちょうど俺もそう確信していたところだった。
「そう、そうよ、セーブしてない、あたし! うわ、どうしよ、まだ一回もセーブしてないよ、三十分だけど今日は結構すいすい進めてたし……うわあ、そう、ツイてない! 全部!」
後半はたぶん、俺に向けて言っていたのだろうと思う。
「花子」
「いっ!?」
花子はケツをさわられたような声を出して、俺を化け物でも見るような目で見た。
「なななな何!? 何よっ!?」
「ブレーカー」
「ブレ……あっ」
だいぶ闇に目は慣れてきていたが、それでも灯りなしでは不便だった。花子は「そうそうブレーカーよブレーカー」と繰り返して玄関へと飛んでいった。すぐに電気が復旧した。俺は起き上がって、唇を無意識に隠しながら、それでもさざんかの奇妙な様子に気を配っていた。
たかだか三十分のデータ損失を気にしているにしては、その反応は少し異常だった。俺の前にいる、ソファに座りなおしたさざんかは、いつものほんわかした笑みを浮かべていない。そして俺は、笑っていないさざんかを今まで一度も見たことがない。
さざんかの不安は、おそらくゲームデータの『全損』にかかっているんじゃないだろうか。そう俺は思った。そうでなければここまで茫然自失とはしないだろう。メモリーカードに保存してあるセーブデータが、セーブ途中に電源を落としたわけでもなくそのセーブデータを損失してしまうことがあるのかどうか、俺は知らない。だが、もしそれが大切なデータの入っているメモリーだったらば、おそらく理屈抜きでいまのさざんかのような反応を取るだろう。
しかし、なぜ?
時間はかかるが、このゲーム、攻略できないところが攻略しないことが難しいほどのぬるゲーと化したバグゲーだ。時間は多少喰うかもしれないが、またやり直せばいい。なにも一度セーブデータを作ればもう二度とプレイできない、そんな縛りがあるわけでもない。俺は一度自分の家でプレイしたデータをここで――花子とさざんかの前で――消している。だから、たとえこの停電でデータが消滅したとしても、やり直せば済む、時間だけは――
時間?
俺はじっとさざんかを見つめた。さざんかがはっとして、俺が見つめていることに気づいた。いつもよりもぎこちない笑みを浮かべて、
「な、なに、ケンケンくん? どしたの?」
「おでこ」俺は自分の額を指した。さざんかはきょとんとしている。
「赤くなってるよ」
「え? あ、わっ……」さざんかはいま気づいたように額に手をやった。転落したときにぶつけたのか、軽く脹れている。少しは痛むだろう。
――気づいていなかったようだが。
花子が戻ってきた。振り向いた俺と目が合って、咄嗟に顔をそむける。俺は、少し傷ついた。
「えっと、じゃあ、どうする? とりあえずPCとパワステ立ち上げてみる? それとも、今日は――もうやめとく?」
「やろうよ」さざんかが明るく言った。
「まだ三十分だもん。せっかく集まったんだし、日曜日しか一緒にいられないし――ね? ケンケンくんもまだ実況したいよね?」
「ああ、いいよ、もちろん」
俺は答えた。
「さざんかは、先が早く見たいみたいだし」
さざんかの顔に一瞬、暗い影が走った気がした。だがそれはすぐに嘘みたいに消え去って、さざんかはいつものようにエヘヘと笑うばかりだった。花子はため息をついて、
「まあ、じゃあ、やろうか……」
憂鬱そうに、間違っても俺に触れたりしないように気をつけながら歩いて、パワステとPCの電源を入れなおした。ぶうううううん……とHDDが回転する音。
花子はPCの前で膝立ちになりながら、録画と録音のソフトウェアを立ち上げ直していた。
「あー、当然だけど、録画も録音も途中で切れてる。うーん、しょうがないな、編集でうまく誤魔化そう。切れてるだけでデータ自体は飛んでないのが救いかな……」
俺はそういうのはからっきしなので(なにせ実況に必要な設定はすべからく姉貴の友達にやってもらったくらいなのだ)ただ花子の絶対にこっちを振り向かない背中を眺めた。
「はい、元通り。もう録画も録音も始めたよ。ゲームが始まってからつなげるから、いまは適当に喋っててもいいよ」
「ありがと、花ちゃん」そういうさざんかはやはりどこか心ここにあらずだった。ゲーム画面の光を白く反射するさざんかのメガネは、微動だにしなかった。
「ねえ、データは飛んでない? 消えちゃってたりしない?」
「え? ああ……たぶん大丈夫だと思うよ。セーブの最中だったわけでもないし。オートセーブだったら、まずかったかもしれないけど……」
花子がコントローラを操作して、タイトル画面のLOAD GAMEを選択する。
ぱっとロード画面が表示された。セーブデータはしっかり残っていた。
「ああっ!」さざんかが大げさに安堵した。
「よかった。残ってたね、花ちゃん。……花ちゃん?」
花子は答えなかった。ただ、その身体にぶるりと震えが走ったのを俺は見た。
「ねえ、二人とも」
花子の声はかすれている。
「あたしたちが今日、最初にロードしたとき、プレイ時間って、」
俺は花子のセリフを遮って答えた。
「四時間十三分五十六秒だよ」
不吉な数字が並んでいるな、と思って覚えていたのだ。
俺たちが今日、夕闇日和を再開したとき、プレイ時間は間違いなく四時間十三分五十六秒だった。
だから、一度もセーブしないまま電源が落ちたいま、ロード画面にもそう表示されていなければならない。
さざんかがいまさら、何がおかしいのか気づいた。目を見開いて、ごくりと生唾を飲み込み、身を硬くした。
びびっているのは、俺も同じだった。
四時間四十四分四十四秒
しつこいくらいに、不吉な数字が並んでいた。
○
「ねえ」
花子が乾いた声で言った。
「これって、オートセーブのゲーム、だったっけ?」
「もしそうなら、手動のセーブはなんの意味があるんだろうな。とりあえずロードしてみようぜ」
ロードした。
停電する直前そのままだった。ポリ男は下水道の奥を見つめている。
花子はそのまま、コントローラを動かさなかった。その様子を見て、俺はもう、少なくとも今日は花子はゲームを続行できないだろう、とわかった。さざんかに目をやる。
「えっと、花ちゃんがもう疲れた~って言うので、今回はわたしがプレイしますね」
「えっ、さざんか、なに――」
「はいはい、いいからいいから」
さざんかは笑顔で花子からコントローラを奪った。
「花ちゃんはケンケンくんとイチャイチャしてればいいと思います」
さざんかは、そのまま実況を続けた。花子は呆然とそれを眺めていたが、やがてあきらめたようにぼふっとソファに背をもたれかけさせ、ぎゅっと目を閉じた。
キャパシティオーバー。
わずか三十分でいろいろありすぎて、花子の脳はうまく回ることを拒否したようだ。無理もないと思う。俺だってファーストキスの後にこんな怪現象が起こって――いや、本当にこれは怪現象なのだろうか? 夕闇日和はバグだらけのゲームだ。そのバグの一つとして、定期的に、あるいは何かのアクションをスイッチにして、自動的にセーブが潜水的に行われる、という仕様が潜んでいても不思議ではないし、たまたま停電したときとそのバグセーブの瞬間と俺たちのプレイ時間が四時間四十四分四十四秒であったことだって結局のところは偶然、
偶然。
本当にそうか?
本当に、俺はそう思えるのか?
「みなさん、わたしの横でいま許されがたいいちゃらぶが行われています」とか「うふふ、花ちゃんって、強く迫られるとノーって言えないんですよね」とかあることないことマイクに向かって吹き込んでいるさざんかを見る。
こいつの態度だって相当おかしい――そもそも、花子はさざんかが俺のことを気に入っている、というが、彼女がそういう態度をはっきりと取ったためしはない。むしろ、あの停電し黒く染まったテレビ画面を見つめる横顔を見た今となっては、それも一つの策略だったのではないかとさえ思える。こんなことを考えられる俺は人でなしだろうか。それでもさざんかの、一種異様な、それでいて完全に制御されたこの夕闇日和に対する思い入れは間違いなくある。だから俺は思う。
ケンケンくんのこと結構スキかも、なんて言ってみせたのは。
『ゲームの保持者』をこの実況から逃がさないために、『花子を巻き込んで彼女が打った保険のひとつ』だったんじゃないか、と。
自分がそういう態度である、ということをにおわせれば、たとえ仮に俺と花子の相性が悪かったとしても、花子はさざんかのために自分を殺すだろう。
自分にそういう気持ちがある、とゲーム保持者(俺)が知れば、健全な男子なら悪い気はしないだろう。浮気を咎める彼女もいなさそうだ。そしてさざんかは、どんな男子でもその気になれば絶対に逃がさない、それができるほどの本物の美少女――
最低かもしれない、今の俺は。
だが、それでも俺には疑わしい。
楽しそうにゲームをしているさざんかを、操作するたびにぴこぴこ動くその小さな身体を、俺は睨んだ。
そして、画面の中で灰色の町を彷徨い続けるポリ男を見る。
このゲームに、いったい何が隠されているのか。
いまの俺には、なにもわからない。
ただなにか、自分の足元が、止まっていると信じていた固い地面が、いつの間にかどこかへ大きな力で運ばれていたような――それに気づきかけているような――
そんな気がした。
もうやめようか。
ぼそり、と花子が呟いた。
録画を終えて、さざんかが淹れてくれたコーヒーを飲んでいるときだった。
「え、どうして? 花ちゃん、ヤになった?」
「……。そういうわけじゃないけど。でもバグゲーだし、期待して見てくれてる人に悪いかなって」
「だから、花ちゃん、できるだけ正規のクリア方法も探しながらプレイしてるじゃない。そりゃあ、確かに、わからなくってスルーしちゃった箇所もあるけど……でもそれでも、できるだけちゃんとやろうとしてるのは視聴者の人たちもわかってくれてると思うよ? そうだよね、ケンケンくん?」
「……ああ、うん、そーだな」
どの道、どう返答しようともさざんかは退かない気がした。
花子はだいぶ渋っていたが、それでもさざんかになだめすかされて、結局来週も実況プレイは続けることになった。だが、さすがに疲れたらしく、
「ごめん。今日は二人とももう帰って」
と言い出した。その顔はげっそりしていて、とても無理強いできそうもなかった。俺とさざんかは花子の部屋を後にした。
「花ちゃん……」さざんかは閉じられた鉄扉を見て小首を傾げた。
「どうしたんだろう?」
「まあ、さすがに結構クるものがあったよな、あれは」
「四時四十四分? でもあんなの偶然だよ……気にすること無いのに」
さざんかがあまりにあっさり言うので、俺の中にある疑心までうっすらと晴れ始めた。そのまま薄らいでいくに任せるべきか迷う。
「あ、そういえば」
「あ?」
さざんかが俺の方を振り向いて、
「ケンくんと一緒に帰るの、初めてだね?」
と笑った。
さざんかには、笑うとえくぼができる。
「あのさ」俺は言った。
「はっきり聞いてもいいか?」
「なにを?」
「どうして、あんなにあのゲームに拘るんだ? 花子も言ってたけど、これはろくでもねーバグゲーだぜ。わざわざやる意味があるとは思えない。あんたたちだったら俺みたいに、希少品で人気取りなんかしなくたって視聴者はたくさんいるだろ」
「え? ……」
さざんかはべっこうぶち眼鏡の向こうからじっと俺を見つめてきた。思わず目を逸らしかけるがここで退いたらたぶん二度と答えには辿り着けない。頑張れ俺、ここがいわゆるひとつの正念場だ。
さざんかはだいぶ長いこと俺と視線を合わせていたが、唐突にこう言った。
「ケンくん、今晩空いてる?」
無論。
○
鳥ノ塚から各駅でひとつ隣、円光寺にさざんかの家はあった。街灯の灯りもそれほど届かないボロアパートである。赤錆びて踏み抜けそうな階段と二人してあがった。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します」
座布団を勧められて、ありがたくその上にあぐらをかく。コタツを挟んで、さざんかと向き合う。さざんかはぼうっと俺を見ていたが、電撃に打たれたようにびくっと肩を突然震わせた。俺もびっくりして同じように跳ねた。
「お茶出すの忘れてた」
「は?」
お茶お茶お茶、わ、わ、わ、と一人で呟きながらさざんかは流しに立った。俺はなんとなく居心地が悪く、部屋を無遠慮にじろじろ眺めてしまう。洗濯物の山がテレビの横に重ねられていた。一人暮らしではないらしい。男物のトランクスが層を重ねているが、親父のものだろう。ゴムがびろんびろんに伸びている。母親のものらしきダブルエルのピンクのトレーナーの肘には昔ながらの当て物がされていた。
コタツの上に茶色い異臭を放つ飲み物が置かれた。
「はい、どうぞ」
「……」これ、何、とも聞けない。
「ありがとう」
飲んでみる。しょうがの味がした。感想について問いただされる前に本題に入ることにする。
「それで、なんであんたが、あのゲームにこだわるかって話なんだけど……」
「うん。まあ、そんなに大した話じゃないっていうか。あ、でも驚くかな? 驚くかも」
ふふふ、とさざんかは含み笑いして自分の分のしょうが茶を飲み、ほうと息をついた。
「わたしのお姉ちゃん、ゲーム会社に勤めてたんだ。いろいろと転々としてたみたいだけど、最後にいたのが、イービル・パッケージだった……」
「…………」
「夕闇日和が発売されてすぐかな。お姉ちゃん、蒸発しちゃって。探偵さんとか雇ったんだけど、見つからなくって。イービル・パッケージも潰れちゃって、手がかりなんてぜんぜんなかった。で、十年経った」
「…………」
「ケンくんがアップした動画見てね。あ、ひょっとするとこれは本当かもって思って。そしたらさ、いてもたってもいられなくなっちゃった。何かお姉ちゃんの手がかりが掴めるなら」
さざんかの眼鏡が蛍光灯のあかりを受けて鈍く光った。
「絶対迷わないって決めてたから。だから、ごめんね? 急で驚いたよね」
咄嗟になんのことを言われているのかわからなかった。
「ああ……いや、俺もヒマだったし、つうか一人でつまんなかったし、ありがたかったよ。それは、マジで……」
「なら、よかった。迷惑に思われてたらどうしようかと思って」さざんかは困ったように優しく微笑んだ。
「これが、わたしがイービル・パッケージのゲームに拘る理由。今日の四時四十四分とか、そういうのに関して、わたしが知ってることはなんにもないよ。花ちゃんもケンくんもびっくりしてたみたいだけど、でもたぶん、偶然だと思うよ。そうでなかったら何? お姉ちゃんの幽霊があのゲームに宿ってるとか?」
「……かもよ?」
さざんかはくすくす笑った。
「それなら、なおさらやめられないね」
俺はなんと答えていいのかわからず、自分で組んだ指の継ぎ目を見つめた。さざんかの視線を感じる。
「ねえ、ひょっとして、わたしが二人を騙して、なんか、そう、あのゲームの生贄にしよーとしてるとか、思ってた?」
「え?」
「ぷっ……あはは! ケンくん、漫画の読みすぎ」
瞬間的に顔面が沸騰した。恥ずかしすぎる。穴が無ければ掘り進めたい。
「まあ、わたしもあなたや花ちゃんがほんとに嫌だっていうなら、無理強いはしないよ。わたしだけでプレイしてもいいし」
「それは……」
それは、なんなのだろう。危ない? 漫画の読みすぎ。
「それは、残念っつーか、さびしいな、うん」
「……ねえ、ケンくん」
さざんかは声の調子を落として言った。
「花ちゃんと仲良くしてあげてね」
「え?」
「あの子、あれで打たれ弱いところあるから。守ってあげてね」
「守る? なにから? ていうか、俺が?」
「女のコには、いろいろピンチがあるのです」
えっへん、と胸を張るさざんか。胸でけえな。
俺はなんとなく、あらゆる心の棘を根こそぎ引っこ抜かれてしまったようで、腑抜けのように笑うしかなかった。さざんかの両親がそろそろ帰ってくるというので、鉢合わせしないよう、おとなしくお暇することにした。俺って紳士。
ばいばい、と小さく手を振るさざんかを閉まるドアの向こうに置き去りにして、俺はさざんかの家をあとにした。紫がかった夜空には、星なんてひとつも見えなかった。どこかで野犬が鳴いている。足早に駅に向かった。
やはりすべて俺の考えすぎだったのだろうか。確かに、夜中にふと目が覚めて時計を見たらゾロ目だった、なんていうのはそう珍しいことでもない。俺にだってそういう晩の覚えは何度もある。そういうのは最初こそびびるが、だんだんと慣れてくる。なぜか?
何も起こらないから。
――考えすぎか、やっぱ。
駅に人気はなかった。まばらに何人かが暇そうに電車を待っている。俺はベンチに座って、両手をポケットに突っ込み、だらっと呆けていた。こんなところを顔見知りに見られたら
気まずい。
「あれ、灰谷じゃん?」
気まずい。俺は首をめぐらせて声をかけてきた不届き者を見た。
中学の同窓の木暮だった。中学の頃は黒かった髪を茶に染めて、ぶっといピアスを開けている。女子バレーボールの補欠だったときの面影はぜんぜんなかった。制服にスクールバッグを肩から提げている。
「なにしてんの? 自殺?」
「なんでだよ。おまえこそ何してんの」
「なにって帰んのよ」
「そりゃそうか」
へらへらとお互い意味もなく笑う。
「おまえ、なにそのピアス。でかくね?」
俺が指すと木暮はへっへーと笑って、
「いーでしょ。大変だったんだかんねアナ広げんの。灰谷、あんたもちょっとはオシャレしなよ。ぜんぜん変わんないじゃん、昔のまんま。一目でわかったよ」
「そんなことに割く時間はねーよ」金もねーよ。
「もったいないなあ。あんたさあ、ちゃんとしたらそこそこ見れる顔なんだからさ」
「っ、気持ち悪ィな。煽てて後で笑おうってんだな、その手には乗らねえぞ」
「疑り深いなあ。だってさ、ほんとにもったいないよ、せっかく変われるチャンスがあるんだからさ――」
「で、そのチャンスとかいうのを使っておまえはピアス開けたのか。なにが悲しくて痛い目に自分から飛び込んでいかなきゃいかねえんだ。俺はそんなのゴメンだぜ――」
「でも、あんたが思ってるほど、時間ってそんなに残ってないよ」
「ははは、なにババくさいことを言ってん――」
顔をあげると木暮はいなかった。
各駅停車が魔物みたいにゆっくりと息を吐いて、俺の目の前で停車したところだった。
扉が開く。俺だけのために。ホームにいるのは、俺だけだった。
ああ、そうだった。
あいつ死んだんだった。
――いかん、疲れてる。
俺はふらふらよろけながら、やっとの思いで電車に乗った。頭痛がしていた。そう、思い返せば、日曜日にどうして制服を着てる――木暮は三ヶ月前、学校から帰る途中でひき逃げされて死んだのだ。葬式にはいかなかった。中学の時だってロクに喋った覚えはない。
木暮が高校に入って、ピアスを開けていたのかどうか、誰かに確かめるのはやめておくことにした。
一気に疲れが襲ってきた。重力に沿って倦怠感が俺の身体を流れ落ちる。今日はいろいろありすぎた。もう、家に帰って、なにもかも忘れて眠りたい――
窓の外を見る。暗闇にやつれた俺の顔が写っていた。
その肩に、
真っ赤な手形がくっきりと張りついていた。
ああ――
ほんとうに、俺は、つかれてる――
○
家に帰って、歩きながら上着を脱ぎ洗濯籠に叩き込み、部屋に戻ると姉貴がまた俺のベッドに転がって漫画を読んでいた。姉貴は俺の部屋をコミック貯蔵庫と勘違いしている節がある。
だが、今日に限っては俺も怒る気にはなれない。椅子に逆向きに腰かけて、浜辺に寝そべる美女か打ち上げられたクジラのようなポーズで博打漫画を読む姉貴を見るともなしに眺めた。
「不快」
何事かと思えばどうやら俺のことらしかった。俺はため息をついて言った。
「なあ姉貴、幽霊見たことある?」
「ない」
「だよな。――俺、今日幽霊見たよ」
「ふうん」ぱらりとページをめくる。「それで?」
「それで、って――。信じてないな? まあ、いいけどさ」
「そうでもない。で、見たからなんだって聞いてる。襲われたの?」
「いや。半々、かな」
「なにそれ」
「さわられた。あと喋った。どう思う? 俺が疲れてたのかな。でも上着に血の手形がついてたんだぜ」
「じゃあ、その上着が気に入ってたやつだったかどうかが重要だね」
俺は一瞬絶句した。
「まあ、そりゃ、うん、そう、なのか? そういう問題?」
「大切なことは」ぺらり。
「それがあんたにとって敵なのかどうかってこと。本物のおばけにしろ、あんたの幻覚だったにしろ――」
姉貴は続けて、
「まず考えなくちゃいけないのは、その幽霊ってのが幻覚ならあんたはすぐ病院にいくか、面倒ならそういうのは今後全部無視するって決めちゃうこと。中途半端はよくない」
「うん。――うん?」
「んで、もしほんとにいるなら、そいつが敵かどうかが肝要」
「かんよう」
「うん。敵じゃないなら、ほっとけば? なんの問題もありはしない、むしろもしかするとそれはなにかの警告かも? でもまあ、それはちょっと希望的観測」
「――なんで?」
「動機薄弱。ヒトを助けるなんてめんどうなこと、普通のヒトはしないって」
ようやっと俺は安堵のため息をついた。姉貴らしからぬ長口舌をまくし立ててくるから何事かと思ったが、やっぱりこのヒトは俺のろくでなしの姉貴だ。壊れないくらいにゆがんでる。
「だからやっぱり、それはあんたの敵である可能性が高い――だったら、身を守らなくっちゃね。だから助言その1――脇を締めろ」
姉貴は起き上がって、俺にしゅっしゅと空ジャブを放った。俺は姉貴が今年で21になることを思い出してとても悲しくなった。
「なにその目。――あのね、とにかく殴れる相手だったらやられる前にやれの方向で。テレビから出てきたらまずは蹴り返してテレビをひっくり返して出て来れないようにする。エレベーターの中で鉢合わせたらまず猫騙し。ひるんだ隙にタックルしてマウントからの殴打に次ぐ殴打。夜、うしろからつけられたらわざと赤信号の横断歩道に突っ込みな。うまくいけば札幌いきの長距離バスがあんたの背後霊をゴキブリが出ない緯度まで引きずっていってくれる」
「もういい」
「そう? いつでも相談に乗るよ、研吾。お姉ちゃんはエブリタイムあんたの味方。たぶん」
たぶんかよ。無駄に好戦的だしろくなこと言わないなこの姉貴。まあ張り詰めていた気分はいくらか和らいだけど。
俺は「またダイブするぞ」と脅して姉貴を追い出し(かなり屈辱的な顔をされた)とっとと寝ることにした。いま寝れば夜明け頃に目が覚めるだろう。俺は4時間以上眠ることがほとんどない。そして一日8時間は眠らないと具合が悪くなる。これがどういうことになるかというと午前か午後どちらかの授業を眠って過ごすことになり、俺は基本的に教師からは嫌われクラスメイトからは呆れられている。不摂生はよくない、と言われるが、こういう体質なのだからそろそろ諦めて欲しい。
暗い天井を見上げ、また、安い眠りに落ちていく。
○
ポリ男が扉を開けると目の前に白衣の男が立っていた。
「ギャ――――――――――――――――――――――――――――ッ!」と花子。
「わぁ――――――――――――――――――――――――――――ッ!」とさざんか。
「ヒョ――――――――――――――――――――――――――――ッ!」と俺。
ちょっと余所見してチョコビを喰っている間にいきなり現れたので心臓へのダメージはいくらかでかかった。俺たちは童心に戻ってわあきゃあ言い、逃げろ逃げろそっちじゃないあっちだと別に誰が死ぬわけでもないのに必死こいて喚き散らす。これが楽しい。ゲームの醍醐味というやつである。花子は身を固めてコントローラを握り必死にポリ男を逃がす。
「むりむりむりむりむり」
ポリ男が次々に扉を開けて逃げていく。だが白衣の男の足はポリ男よりも速い。通常、こういうホラーゲームでは敵の足はそれほど速くないか、速くても登場した場所と操作キャラの位置にある程度の隔たりがあったりするものだが、夕闇日和の製作者はそのへんをあまり考慮しなかったらしく、ポリ男はあっさり白衣の男に突き飛ばされて、
ゲームオーバー。
花子がコントローラをソファに投げた。
「意味わかんねーっ! なんなのあんなん反応できるわけないじゃん! うぼぁーっ!」
「花ちゃん気を確かに! 出しちゃいけない声でてるっ!」
「まあロードすれば出現位置変わるし」
「それはそうだけど……」花子はちらっと俺を見る。
「あーもー。オートセーブ機能あったんじゃないわけ? さっきどこでセーブしたっけ……」
「焼却炉のあたりだったと思うよ」とさざんか。
「でもよかったよね。白衣の人にやられたらオートセーブされないって早めに気づけて。ていうか、この間のオートセーブがなにかの間違いだったのかな?」
そうなのである。
きっかけはさざんかだった。オートセーブがあるみたいだが、手動セーブがある以上、そこになにか意味があるのかもしれないと言い出して、花子がめんどくさがりつつもセーブした数分後に白衣の男が横から飛び出てきてポリ男を殺したのだ。そしてロードすると、白衣の男に殺された場所ではなく花子がセーブした場所からになっていた。まあそれも当然のことで、白衣の男に出会う寸前などでオートセーブされたらエンドレスに殺されることになってゲームの進行が不可能になる。結局、あれからセーブせずに消してみたりはしていないから、このゲームに本当にオートセーブが実装されているかも謎だ。
そしてもうひとつわかったことがある。ロードすると白衣の男の出現位置は必ず変化する。だから、回避不能な位置から襲われたとしてもロードしてそこから出現しなければ楽々通れる。実にゆとり仕様だ。
「じゃあ、今回はこのへんで終わろっか」
花子が言い出し、しばらく締めの駄弁りをかましたあと、録画を停止した。といっても、これで解散というわけじゃない。一回の集合で2~3本の30分動画を作るから、休憩した後にさもまた別の日に集まったような感じで収録を始める。小賢しい茶番のように思えるかもしれないが、視聴者の肥えた目(耳?)は厳しいのだ。
「お茶淹れるねー」
さざんかがキッチンにすっとんでいった。自然と、ソファには俺と花子だけが残される。
「…………」
「…………」
肩を寄せ合う距離で気まずいというのもなかなかイイ。
「あのさ」
花子は難しい数学の問題を前にしたような顔になった。
「こないだのことなんだけど、お互い、忘れるってことでどう?」
「やだ」
「うん、そうした方がお互いのためだよね……って、はあ? いまなんて?」
「いや、忘れられるわけないでしょ、無理無理。可能性の低いことは検討しても無駄だろ。なあ?」
「うん……いや、うんじゃないが! なにそれ!? せっかくあたしが、あんたを追い出す代わりに譲歩してあげたっていうのに!」
「まァ、さざんかには黙っておこう。その方が盛り上がるからな」
「なにが!? くっはーあんたもしかしてマジモンの変態!? うわあヤダヤダヤダヤダヤダお願い死んで?」
「嫌です。ていうか忘れんなよ、ディスク俺のだかんな。俺を追い出すってことはこのランキング一位実況動画を打ち切りにするってことなんだぞ」
そう、俺と花んかコンビの動画は『やってみた』ジャンルのランキング一位を獲得していた。もちろん毎日ランキングは更新されていくから、アップロードした動画の順位は徐々に低迷していくが、それでも新しい動画を二日か三日にいっぺんはアップし、そのたびに一位をゲットしている。総合計視聴者はミリオンを突破しているかもしれない。
そんな動画を打ち切り処分にしたら、いくら花子が猫系ツンデレだろうとさざんかが絶滅危惧種のおっとり眼鏡だろうとほくほく動画のユーザーさんたちは黙っちゃいないだろう。ブログが炎上していくサマをなすすべもなく黙って見続けるしかない苦しみを味わうだけの根性は花子にはあるまい。すげえへこむ。
「ぐぬぬ……」花子が歯軋りして睨んでくる。とてもいいアングルです。
「わかった、いくら? いくらなら売るの!?」
金かよ! こんなマンションに一人暮らししていることといい、こいつホント成金だな。
「あんたが万が一さざんかに手を出さないとも限らないからね。契約金を支払うわ」
「いらねえわ。そして諭吉を出すなや」
実際のところ、差し出された野球ができそうな人数の諭吉さんには心揺さぶられるものがあった。だがここで負けると一生俺は負け犬のままだ。退くわけにはいかねー俺はいま何人ものヘタレが望みながらも辿り着けなかったリア充への道程を登り始めたばかりなんだぜ?
さざんかの淹れてくれたお茶をみんなで飲む。この時間だけは三人の中に展開しているあらゆる紛争が一時凍結される。ふう。
「でもまー前向きに考えると」と花子がお茶の波紋を見つめながら言った。
「この時代のゲームで、こてこてプログラミングのパターン動作されるよりは、びっくり突然死もまァがんばってると言えなくもないよね」
「そりゃあ『アニマ1』で犬がすべての窓から出て来る可能性があったらクリアできるガキの数もその後の売り上げも半減しちまってただろうからな」
あの犬のせいで俺は毛布に包まっていないと不安で仕方なくなってしまったのだ。おかげで本物の犬まで嫌いになった。
「あの白衣のおじさん、誰なんだろうね」カップで口元を隠しながらさざんかが言う。
「いつも突き飛ばしてくるけど、殴ってきたりしないし、案外やさしいよね」
いや、プレイヤー死んでますが。噛んできたりウイルス注入してこないだけ優しいって、さざんかさんはひょっとして豪の者なんだろうか。
「まあ、唯一の死亡原因だし、あいついなくなったら動画がお通夜状態になるから別にいいんだけどさ……あーでもあいつうざいなー。白衣に黒髪短髪って変態に見える」
「おまえ全国の若手ドクターに謝ってこいよ。そんで子ども産むとき洞窟でひとりでやれ」
「なんでそんなサバイバルしなきゃなんないのよっ! 経験不足と不安過剰で母子ともに死にたくないっつの」
「だいじょうぶだよはなちゃん、最近はね、アイ活ってこともあることだし、アイ産もあってもいいと思う」
「思うだけでしょ? 実際そんな余裕絶対にないからね? 知らないけど」
おまえならできるよ、と俺が言うと花子は顔をしかめた。
「うれしくねー……。あっ。無駄話してたら閃いた」
「都合のいい脳みそだな」
「うるさい。ねえ、あのさあ、『丘の上の屋敷』にさ、扉開けたらそのまま断崖絶壁になってるところあったよね」
あった。確かpart6くらいで発見したポイントだ。
「そこにさ、白衣の男を誘い込んだら海に落っこちないかな」
「そんなわけねえだろ疲れてんのか、ああいうのは敵は落ちねえようにできてんだよ」
「そうかなあ? あるかもしれないよ?」とさざんかが言うので、
「うん、あるかもしれないな。いい案だ花子。よくやった」
「うわー……クズー……」
「うるせえよ。いいからやろうぜ。最近イベントねえから視聴者もヒマしてるっぽいしよ、このままじゃネトラジになっちゃうぜ」
俺はパワステの電源を復帰させた。
「とゆーわけで、白衣のおっさんをね、そろそろいてこましてやろうと思います。やっぱりおじさんに付きまとわれるならね、タダっていうのはちょっとね」
一応弁解しておくと喋っているのは花子である。こいつこういうことをその場の勢いで面白いと思って言っちゃうからほく動でビッチだの豚子だの言われちゃうのである。俺に。
「まったくもーやらしいなー。はなちゃんはほんとにビッチだねー」とさざんか。この子にビッチとかいう言葉教えんなよホントにもうこの国は間違ってる。花子とか俺みたいなひねくれ者に出会いそうになったら国の機関がさざんかを保護すべきだろ。
「それじゃあいきます。いざ出陣」
花子がぐりぐりとポリ男を丘の上まで無益に走らせる。坂道をあがっていったポリ男は、庭のない丘の上の屋敷に無断侵入し、金目のモノをもろともせずに廊下を直進。新造デパートの賑やかしで売り払ったらひとかどの資金が作れそうな絵画を無視し、洗ってぷちぷちに入れておけば引き出物にできそうな壷を素通りし、一階をぐるぐると回り始める。白衣の男が現れるのを待つのだ。白衣の男は、どうやらゲームを始めた段階でゲーム内のどこかに召喚され、そこから走ってポリ男に突っ込んでくるようだった。一定の出現場所がなく、現れるまでの時間もまちまちだし、どこまで逃げても追って来ることから逆算した。毎回毎回ご苦労なことである。所詮プログラムだが。
例によって廊下の曲がり角から現れた白衣の男をポリ男がやる気があるんだかないんだかわからない態度で追われていく。階段を登って廊下の突き当たり、扉のそばへ。白衣の男をギリギリまで引き寄せる。ギリギリまで。扉を開けてクイックターン。
「あっ」
という声が聞こえそうなくらいに慌てたモーションで落ちていく白衣の男。ざまあ。
「イエーイ!」
ハイタッチする花子とさざんか。花子がさざんかと合わせた手を恋人繋ぎにして、
「やっぱり思った通りだったね。これが正しい撃退方法なのかな?」
「どうかなあ。これで白衣のひとが出てこなくなったりしたら、そうかも?」
「とりあえずこのあたりであいつが出たらこれで撒けるね。超よゆー」
「あははは、クソゲーに拍車がかかっちゃうけどね」
とうとう白状してしまうさざんかさん。俺は喜び合う二人の横で毛布に包まりながら、画面の中に映るくすんだ世界を見ていた。なんだかもうクリアしたような心地がしていた。だってもうやることなくね? 唯一の敵だったのに、あのおっさん。結局何者だったんだろう。ただ製作者が医者にトラウマでも持っていただけとか、そういうしょうもないオチなんだろうか。
あくびをして、時計を見ると、ちょうどいい時間になっていたので、俺とさざんかはたっぷりごろついたあと、花子の家からお暇した。
花子から電話がかかってきたのは、俺が電車に乗った直後だった。
たすっ
ブツッ
俺はいきなり繋がって切れた携帯を見つめた。しばらく座席に座って呆けていた。ひょっとしていまのは気のせいかな、と思って着信履歴を見ると、
6/13 18:26 花子
と表示されていた。どうやら俺の妄想ではないらしい。俺は車内だったが、周りに誰もいなかったので、花子にかけなおしてみた。案の定というか、繋がらなかった。
べつにそのまま帰ってもよかった。だが、なんとなく気になって、次の駅で降りて、反対ホームから引き返した。どうせ家に帰ったって姉貴の暇つぶしに付き合うくらいしかやることはない。
たぶん、かけ間違いなんだろうな、とうすうす予感はしていた。そうだったら仕方ない。でも、確かめるまではいろいろ妄想して楽しめる。俺はひとりでにやにや笑って、踏み切りを待っていた親子に変な目で見られた。
花子のマンションに戻ったときには七時を回りそうになっていた。すっかり夜だ。俺は花子の部屋に戻った。キッチンの窓からは光が漏れていた。チャイムを押すのにちょっと躊躇う。まあいいや。押した。
扉の向こうにスタンバっていたのかと思うほど素早く、花子が外に飛び出してきた。
「――ケン」
「おう……」電話をもらったのが気になって、というのも変かと思い、「忘れモンしたから取りに来た」とちょっと詰問されたらすぐに露呈する嘘を吐いた。花子が「それなに?」と聞いてくるかどうか俺は気が気ではなかったのだが、花子はそんなことどうでもいいとばかりに、ドアを広く開けて、
「入って」と言った。俺は言われた通りにした。
どうしてだろう。
昼間散々いたはずなのに、電気だって点いているのに、花子の部屋はなぜか薄暗く、見たこともない他人の部屋のようだった。俺はちょっと面食らって、意味もなく戻ってきたことをこっそり後悔しながら、まだ俺が剥ぎ取ったままの形で毛布が乗っかったソファに腰を下ろした。居間とキッチンの電気は点いていたが、テレビとテーブルとソファのある区画の照明は落とされていたので、俺はなかばうす暗がりの中にうずもれる形で、居間の食卓に尻を乗せた花子と顔を見合わせた。
「さっきの電話さ」
「――――」
「なんだったんだ? 出たらすぐ切りやがって。電車ン中だったし都合はよかったけど。で、なんか用?」
「――――電車」と花子は呟いた。どうやら俺の話はあまり耳に入っていないらしい。心ここにあらず、といった風体で、俺は茶髪の女の子が死にそうな顔をしているのを初めて見た。普段からあまり女子の顔をじろじろ見ないから、というのもあったが、その時の花子の青白いツラ構えはちょっとメイクも照明も跳ね返すくらいには死にそうだった。ガラでもなかったが、聞かずにはいられなかった。
「――どうした?」
花子は俺の問いには答えずに、よく掃除されたフローリングの床を見つめながら、
「あんた、帰り道、なんもなかった?」
「なんも、って――なにもなかったけど。特に」
「そう――」
しばらく間を置いてから、
「ねえ、あたし、正気なんだけどさ」
茶化せる空気ではなかったので、「うん」と相槌を返した。
「ケン、ちょっとお願いしてもいい?」
「お願い? 別にいいけど、死んでくれってのはなしな?」
ウケなかった。
花子はこっちを見ないまま、ぼそっと、
「じゃ――――とこうかな」
と呟いた。
よく聞き取れなかったが、とにもかくにも、どうやらタダ事ではないようなのだった。俺は業を煮やして貧乏ゆすりをしながら、
「なあ、はっきり言えよ。なんかあったのか? ちょっと話が見えないんだけど」
「はっきり――? はっきりなんて言えない。あたしにもわからない」
「はあ――? わからない、って」
「ねえさっきなにもなかったって言ったけど。あんたはあたしが電話を切ったって言ったけど」
花子は俺を見た。
「あたしは電話を切ってない」
なんとも言いがたい空気が流れた。
「切ってない――まあ、電車に乗ってたからな、俺。電波よくなかったのかも」
「そうかもね。――ケン、お願い、お風呂場を見てきて。そしたら、帰っていいよ」
俺は風呂場の方を伺った。キッチン横の玄関に通じる廊下、その左側に花子家の風呂はあった。俺は花子と風呂場の方を何度か見比べて、
「わかった」と言って立ち上がった。
正直言えば怖くないわけじゃなかった。ただ、ふと思ったのだ。
ひょっとして、ドッキリ?
と。
どうして花子が急にそんなDQN企画を、しかも単独で、それも七面倒な手順を踏んで、やったのか、ということは俺の頭の中から綺麗に抹消された。夏休みの宿題をお盆明けにやろうと思ってそのまま新学期まで忘れてしまうのと同じ機能が俺の脳味噌の中で働いた。俺はすっかり気分をよくしていた。ドッキリ札は用意してくれるかな、なんて自分でも根っこから信じてもいないことを考えながら、余計なことは考えないように、灯りの点いていない風呂場にいった。
「うおっ」
タオルケットが敷かれている。靴下を履いてその上に足を乗せたのでちょっと滑りかけた。慌てて洗面台に手をついて体勢を整える。そして手探りでスイッチを探して、電気を点けた。パッと洗面台と洗濯機と風呂場の曇り戸が明るみに出た。なんてことはない。初めて見たが、どこにでもある風呂だ。
「ねえ――」
「ひっ!」
首を絞められたような声をあげてしまった。大慌てで振り返ると、花子が相変わらず萎んだ顔色で、戸口に立っていた。俺は盛大にため息をついた。
「おどかすなよ……」
「あ、ごめん。一人はちょっと可哀想かなと思ってさ」
「おお、人の気持ちがわかるようになったか。父さん嬉しいよ」
「誰も育てられとらんわ」花子はぷっと笑ったが、
それでも視線は風呂場の曇り戸に釘付けになったままだった。俺は肩越しに振り返って、覚悟を決めた。灯りのスイッチを入れて、くぼみに手をやって、開いた。
なにもなかった。
湯船は空っぽ。鏡は曇りひとりない。シャンプーやリンスのたぐいが床に置かれている。なぜかたわしがひとつ転がっている。俺は花子を振り返った。
「――なにもないけど」
「浴槽」
「え?」
「覗いてみて、中」
おいおい待てよ――と俺は思った。確かに浴槽の底は、完全に風呂場の中に身体を入れて覗き込まないと見えないから、そこに何かがあっても不思議ではない。でも一回安心してから、わざわざ不安の渦中に首を突っ込むのは気が進まなかった。これで許してもらえないだろうか――と花子を振り返ったが、花子は俺など眼中にないようで、じっと浴槽を見つめていた。俺はふたたび覚悟を決めて、身を乗り出し浴槽を覗き込んだ。
つるつるっとした、綺麗な浴槽。よく掃除されているのだろう。カビひとつない。俺は花子を振り返った。
「なんも、ないけど」
「――ほんとう?」
「うん。見るか?」
花子はちょっと迷ってから、首を振った。俺は風呂場の戸を閉めて、花子に向き直った。
「なんだよ。ゴキブリでもいたのか? 悪いけど俺、虫は苦手だから戦力にはならないぜ」
風呂場から出たことで、いくらか気がラクになっていた。珍しくリア充みたいな饒舌をかました俺に、しかし花子はなにも言わなかった。花子は青白かった。俺は一瞬遅れて、花子が黙っているのではなくて、声が出ないのだと気づいた。花子が震える指先で、俺の股間のあたりを指差していたからだ。俺は目をおろした。股間は無事だった。
ただ、戸口のくぼみに突っ込んだ手に、びっしりと長い濡れた髪の毛がへばりついていただけだった。
たぶん、悲鳴をあげたと思う。
「ケンくん」
「――――」
「ケンくん?」
「えっ」
ちょっと眠りかけていたのかもしれない。俺はハッとして顔を上げた。
さざんかは手元のアイスティーに刺さったストローを物憂げにかき混ぜながら、
「ぼおっとしてた?」
「ああ、うん、まあ、ちょっとな」
「退屈?」
「いやそんなことねーよ。女子とメシ喰うなんて滅多にねえし」
「メシ? ――ケーキが?」さざんかは幸せそうに手元のチョコレートケーキを指差した。俺は頬をかいて、
「言葉の綾だよ。悪かったな」
「べつに怒ってないよぉ。ケンくんは気にCだね」
「うるせー……」
俺はいろいろなものを誤魔化すためにオレンジジュースをちびちびとストローから吸った。外ではセミが鳴き始めていて、今年はどうやら人を殺すつもりはないらしい穏やかな陽光が店のロゴが刻まれたガラスから店内に降り注いでいた。
さざんかを呼び出したのは、最初は、俺だった。理由はもちろん、もう実況をやめようと切り出すためだ。あの日、真っ黒な髪が自分の手に巻きついているのを見たとき、俺はびびりまくったが、びびりまくるのと同時に、ああ潮時なんだな、と思った。本能でわかった。これは警告なんだと。これ以上はやめとけ、と、親切にも教えてくれているんだと。誰が? そんなことは知ったことじゃない。なぜもどうしてもなにもない。俺の手に、女の髪の毛が巻きついていたことにはっきりした原因が見出せないように、原因不明の根拠でそう思ったのだ。
花子は意外にもどっちつかずの態度を取っていた。――ケンがやめるなら止めない。ただあたしはさざんかがやりたいって言ううちはやる、と花子は言った。いい度胸していると思う。ただ、俺はゴメンだ。俺は抜ける。そう思って、さざんかを呼び出したのが、二週間前だったと思う。
以来、三日おきぐらいに俺とさざんかは街で会っている。実況プレイも相変わらずやっている。どうしてかといえば、いまこうしてさざんかと向かい合ってお互いのケーキを分解し合っているサマを見ていただければおわかりいただけると思う。なに、わからない? じゃあ俺だってわからない――。
最初ははぐらされているとはっきりわかった。機を狙って、ちゃんと言うつもりだった。ただ、いろいろ細かいことが積み重なって、機を逸して、次でいいや今度でいいやと思っているうちに、すっかりさざんかとメシ友になっていた。このあたりのメシ屋は、三割ほど制覇した。このままだと十割制覇しても実況脱退の話題に辿りつけそうになかった。
しかし考えてみてくれ! なあ!
「さざんか」
「ん?」
意味もなく呼びかけた俺に、フォークをくわえたままのさざんかが小首を傾げてきた。眼鏡越しの目はとても綺麗で、新品のレンズだろうとその澄んだ光は出せないだろう。こんな女の子が、話をはぐらかされているのを黙認すれば、俺がおとなしくしていれば、一緒にメシを喰ってくれるのだ!
はぐらかされてナンボだろう、男だったら――――!!
「――俺のモンブラン一口やるから、そのチョコケーキ一口くれ」
「いいよー」
ああ。
しあわせ。
そう、俺は確かに幸せだった。夏休みを目前にして、迫る期末試験の猛威から背を向けて、俺は確かにその時幸せだったのだ。だから、わりと本気で、黙認してもいいかなと思っていたのだ。
あれ以来、周りで起き始めたおかしなことどもを。
○
「泊まって」
とんでもないことを花子が言い出したが、俺は新聞紙の上にかざした手にまとわりついた髪の毛を引っぺがすことに夢中で、最初よく聞き取れなかった。
「あ、悪いもっかい言ってくれ。――ちくしょう跡になってやがる、いてえ」
「泊まって」
よくよく聞いてみても聞き返したくなる一言だった。俺はもう一回難聴のフリをしようかと思ったが、さすがに花子の青白い顔を思ってやめた。
花子はソファに腰かけて、指を組みながら言った。
「だって、あんただって、いまさら家帰るのいやでしょ? あたしはいや……もうひとりにはなりたくない。あんな……」
口を押さえて、
「……。とにかく、ベッドを使ってもいいから、あたしの部屋使っていいから、今日は泊まってよ。明日ひまでしょ」
「学校っすけど」
「単位は?」
「大丈夫だけど」
「ならいいじゃん」花子はようやっと笑顔を見せた。
「あたしなんて下手すると留年だし」
俺はびっくりして膝を食卓にしたたかに打ちつけた。
「マジかよ! おまっ……不良だったの?」
「趣味が平日午後の散歩なだけですー」
「立派な問題児だな……学校はちゃんと言っとけよ。親の金だぜ」
「うるさいばあか。……髪の毛取れた?」
「え?」俺は手を見て、
「ああ、もうあらかた取れた。大丈夫。……髪包んだ新聞、どうする?」
花子は実に嫌そうな顔で丸められた新聞を見て、
「……明日燃えるゴミの日だから出しちゃう。キッチンに口結んであるゴミ袋があるから、それの中に入れておいて」
「おっけい」
なんだかプライバシーをうっかり侵害してしまいそうだったので、一瞬で口を開いて一瞬で中に新聞紙を突っ込んだ。音速で口を結び直す。結んだゴミ袋を軽く足で蹴ってから、驚くほど髪の毛が完全に自分から離れたことに安心している自分がいることに気づいた。
食卓に戻って、椅子にどさっと腰かける。
「なあ」
「なに」
「おまえ、風呂場でなに見たの?」
何気なく聞いたのだが、返ってきたのは凄まじい声音の恨み節だった。
「この家の中で二度とそのことを口にしないで……!」
花子は擦り切れたような声で、そう言った。俺は生唾を飲み込む。
「花子」
「なに」
「いまのおまえの顔がなにより怖い」
花子は口を手で隠して、その手を額にスライドさせた。パワステが下に置かれたガラステーブルに肘をつく。
「ごめん……とにかく、言いたくないから。今度、機会があったら、言う。それでいい?」
「無理に言わなくていいって。聞きたいわけでもないし」
俺は立ち上がってテレビの上の照明をパチリと点けた。花子は電気が点いたことにも気づいていない。こういうときはなにか音がしていた方がいい。俺はテレビを点けた。どっという笑い声がテレビから流れ出す。変な映像でも流れ出したらどうしようかと思ったが、日曜九時からのバラエティ番組が何事もなかったかのように放送していた。俺はほっと安堵のため息を吐いたが、それは花子も同じようだった。
無言で、見るでもなしに、テレビを二人で眺める。俺はポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し、母ちゃんと姉貴に外泊する旨を伝えた。どんな返事が返ってこようとも見まい、と心に決めて、ぼんやりとテレビを見る花子の横顔を盗み見る。
花子の目元には泣きぼくろがあった。
○
11時を回った頃、おもしろい番組も終わり始めて、手持ち無沙汰になってきた。まさかここからパワステ引っ張り出して俺より強いやつに会いにいっても仕方がないので、おとなしく寝ることにした。
「風呂は?」
花子は心底嫌そうな顔をして、
「……。明日でよくない?」
それもそうだ。なにも無理することもない。
ちょっと邪道だが台所で歯を磨いて、なぜか花子の首を揉んでやった。
「なんかふにゃふにゃしてんぞ。ちゃんとカルシウム採っとけ」
「魚は食べてるし牛乳も飲んでるし。胸ないから首凝らないんだよね」
「ふーん」さりげなく流してみたが女子が胸とか言うから内心すげえびっくりした。どういうことだ、こういうことって女子が恥らって言うのをためらったりするのがお約束じゃないのか……よっぽど俺の方が顔を赤らめていじらしい表情になっていそうだ。鏡がそばになくて助かった。自分のテレ顔なんて見たらご飯三杯は吐く。
「んっんっん。いいねーいい腕してるねー兄さん」
「誰が兄さんだボケェ。俺は妹スキーではない」
「じゃあなにがいいわけ。幼馴染? メイド? スク水?」
「ジャンルがいろいろ飛びすぎだろ……どれでもねえし」嘘ですっ!
お互いに寝るのを引き伸ばしているのはわかっていた。時計を見るとちょうど日付が変わるところだった。一瞬、意味もなく身構える。が、壁にかかった時計の秒針は何事もなく昨日を置き去りにして今日になった。安堵のため息をつく。
「ふう……」と花子も息をついた。どうやらわけもなく不安になっていたのはお互い様だったらしい。ちょうどいいキリだと思ったので、切り出した。
「なあ、寝るのってさ」
「うん」
「別々の方がいいよな?」
ソファに寝そべった花子の背中は黙っていた。だいぶ逡巡しているようだったが、やがて、
「いや、一緒でいい」
「えっ……もうちょっと自分は大切にしろし」
「うるせー。なんかしなくても、ふざける真似しただけでもブッ殺す。――でも、やでしょ、さすがに今晩みたいな日は」
「そりゃ、な」気がついたら髪の毛の服を着ておりましたでは髪を見るだけで吐くクセがついてしまいそうだ。
「――寝るか」
「うん」
花子と一緒に花子の部屋にいった。
机があってベッドがあって、カーテンが引いてあって。
「なんか、普通の部屋だな」
「悪かったわね。なんもなくて」
「そんなこと言ってねー。お、漫画がある。ふむ、ほう」
「ちょっと、少女マンガに目覚めてないで布団敷きなさいよ」
「おお……。え、なんだって?」
俺はいまさやかちゃんと風祭くんの初々しくて甘酸っぱい恋愛模様を追いかけていたいのだが、花子はぷんすかしながら足で俺に自分の布団を敷かせた。自分はベッドにもぐりこんで、もぞもぞしていたかと思うと、布団の裾からぺっぺと着ていた服が捨てられた。俺は今度こそびびった。
「おまっ裸で寝るの!?」
「ち、違うっ!」花子は布団から真っ赤になった顔を出して叫んだ。
「布団の中でパジャマに着替えたの! あほ!」
「ああ……いやああじゃねえよ。パジャマはちゃんと畳んどけよ。不精なやつめ、そのうちヒゲ生えちゃうぞ?」
「つまんない」
マジでへこんだ。
布団にくず折れる俺に構わず、花子は布団を頭から被った。しばらくすると寝息が聞こえてきた。電気はもったいないが、一晩、点けておくことにした。俺は花子が脱ぎ捨てた服を畳んで(俺は推理する。定期的に誰か来てこの女の世話をしているに違いない)机の上に置き、布団に横になった。
よく「このままじゃ狼になっちまう!」とかラノベの主人公なんかは言ったりするが、ぜんぜんそんな気持ちにはならなかった。あんなことがあったばっかだし、なにより、嫌われたくねーよ。一時の暴走で絶対に嫌われるカード切るなんて俺ならしない。自分の自制心のタガがはずれることに恐怖もない。そんなことを不安に思えるやつはマジモンのキチガイか、お幸せなバカヤローだ。寝よ寝よ。
チックタックチックタック
…………。
チックタックチックタック
……………………。
チックタックチックタック
……。うるせー。
俺はがばっと起き上がった。超うるせえ。なんなのあの時計? あの、といっても花子の枕元に置いてある目覚まし時計なんだが、やたらと声がでかい。うちの愛機は針がチクタクしないでスゥって動くタイプなので、免疫ができてない俺の耳にはひどく障る。ぶっ壊したいが人ン家のもんを破壊せしめるわけにもいかねー。
仕方ないのでまた布団を被って暗闇に浸っていた。そうこうするうちに段々と時計の音も気にならなくなった。こりゃいいや、と思いはしたが、それでも眠りはやってこない。まあ懐も暖かくなってきて、心地はいいから眠っていなくても身体はリラックスしてるからまァいいか、それにしてもなんだかさっきから腹の上が暖かいし、ちょっと重たい感じがする。湯たんぽかな?
目を開けてみると、目の前にきょとんとした人の顔があった。
生首だった。
○
「俺はオリる」
「え?」
「オリるって言ったんだ、さざんか」
さざんかはポカンと口を開けていた。
「オリ……え、なに、どういうこと? ごめん、ちょっとよく意味が……」
「だからさ、実況。俺はもうやめることにするよ。いろいろ変なことも起こってきたし、ちょっとしんどくなってきたのは本当なんだ」
「……」
「悪いなさざんか。花子にもよろしく言っといてくれ」
ためらいがなかったとは言えない。
それでも、一度決めると、それはストンと俺の腑に落ちた。もう充分だ。充分遊んだ。そんな気がした。
立ち上がった俺の袖をさざんかが掴んだ。
「待って」
「さざんか……いや、悪いけど、ちょっともう無理だ。おまえらもやめとけよ。あのゲーム絶対になんかおかしい。俺が買って来て言うのもなんだけど。ソフトはやるからさ」
だが、さざんかは俺を放してはくれなかった。ガラス玉みたいな目で見上げられていると、人形に引っかかったような気分になってくる。
「だめだよ、そんなの……」
「…………」
「そんなのだめ。こんな、こんなところでやめるなんて許さない」
「許さないったって……そんなことさざんかにどうこう言える権利なんてないだろ?」
「ある」
俺はそれを笑えなかった。
店員からは見えない角度で、俺の腹に小ぶりなナイフが突きつけられていた。薄く服を突き破っていなければ冗談だと思っていたところだ。
怖いというより、息ができない。
「さ、さざ」
「黙って。いいから歩いて。ここから出るよ」
そこでさざんかは思い出したように笑い、
「ここはおごってあげるね、ケンくん」
嬉しくなかった。会計の時、俺は必死で店員にSOSの念を送ったが気づいてもらえず、そのまま外に連れ出された。相変わらずわき腹には尖った感触がくっついて離れない。
「さざんか、やめろとけって。な? いいことないよこんなことしても」
「わたしにはある。さ、歩いてねケンくん。腕組もっか? その方が通行人に気づかれにくいし」
ぎゅむっとさざんかの胸が俺の腕に押し当てられるが俺のテンションは下がるばかりだった。
「ど、どこいくんだよ、さざんか」
「決まってるでしょ」
腕を組み下ではナイフを突きつけられたままのお散歩デートの果てに辿り着いたのは花子のマンションだった。部屋の前まで来た時に、鍵はどうするのかと思ったが、隠し場所をさざんかは聞いていたらしくあっという間に扉は開かれた。何度もくぐってきたその玄関が、今はとてつもなく暗く思えた。
テレビの前に突き飛ばされて、顔にナイフをあてられる。
「起動して」
「い、嫌だ……」
しゅっ。
ぴぴっ。
薄く裂かれた俺の頬から血が飛び散った。痛みはほとんどなかった。
さざんかの目を見る。
あの生首の目よりも、その色は深かった。
「起動して」
パワステに手を伸ばして、スイッチを入れた。故障を疑いたくなる低い唸りと共に中のディスクが回転を始めて、背筋の寒くなるようなサウンドと共にメーカーのロゴマークが出てきた。
「あーあ、こんなことになっちゃうなんて、本当に残念」
俺の背中にナイフを突きつけたままのさざんかが楽しげに笑う。
「そ、そんなに俺とゲームがしたかったのか?」
「まさかあ? 君、話も面白くないし笑い声うざいし、いいとこないじゃん」
ひどい言い草だ、さすがに胸にぐさりと来る。
「おまえな……」
「でもまあ、君とゲームがしたいってのは本当だよ……ただ君が考えているゲームとはちょっとだけ違うと思うけど、ね」
「どういう意味だよ……?」
「こういう意味だ、よ!」
いきなり背骨をしたたかに蹴られて、俺はテーブルにど頭から突っ込んだ。乗っていた菓子皿を吹っ飛ばしてそのまま足からテレビの画面にぶつかる――と思ったが、そうはならなかった。
俺は落ちた。
ずいぶん長く浮遊していたと思う。だが不思議なことに、地面に激突した時、俺に痛みはなかった。
何が起こったのかわからず、起き上がってあたりを見回すと、そこはもう花子の部屋なんかじゃなかった。
灰色の土、灰色の壁、灰色の空。
そこは、
どこかで、
見たことが、
『ふふっ』
空から声が降って来た。俺はよろめきながら空を見上げた。
『あ、そっちじゃないよ。もう少し左。――そうそう、うわあ、ほんとに入ってる』
「さざんか……? え、ちょ、待てって、これどういうことだよ……え……?」
『わからない? いいえ、それは嘘。本当はわかってる。わかってるのに聞いてみて、わかっていないフリをして、自分を誤魔化してるだけ。そんなことはさせない。そんなことは許さない。あなたは怯えて、震えて、恐れおののくの。それしかもうできないの……』
「なにを……」
『じゃ、さよなら。ひょっとしたら、永遠に……ふふっ!』
「さざんか? ……さざんか! おい、ちょ、さざんかぁっ!」
それきり声は返ってこなくなった。俺は心底怯えた。
さざんかは正しい。
俺には全部、わかっていた。
その場に尻餅をついて震える両肩を押さえた。
俺はゲームの中に取り残された。
○
時間の感覚は最初からなかった。俺は腕時計を日頃からつけなかったし、携帯の電源はなぜか落ちたまま点かなかった。だから時間を確認するすべはなく、太陽がないためにいつまでも日没は来なかった。永遠に灰色だった。
顔を上げられなかった。
何かを見て、それに見覚えがあることを確かめれば現実が恐ろしい速度で迫って来る気がした。地面にへたりこんで、灰色の砂ばかりを見つめていれば、少なくともその間は現実から逃避していることができた。それも仮初のものでしかなかったが、しないよりはずっとマシで、そうでもしなければその場で笑い出してずっとそれが収まらなかったに違いない。
ただ時が過ぎていった。鈍く、鈍く。無人島に漂着したようだった。
さざんかは戻って来るだろうか。
戻って来る。そうでなければ困る。だが、それはここからではわからない。自分からは確かめようがない。その時が来るまで。あるいは、来ないままで終わるまで。
空腹は感じなかった。むしろそれさえ恐ろしい。鏡がなくてよかった。もし鏡があって、それを見て、自分があの滑稽なポリゴンにでもなっていたらと思うと頭の中をかきむしりたくなる。
それに耐えて、ようやく普通に泣きたくなった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。そもそも始まりはいつからだったんだ。誰が悪かったんだ。俺か。それともさざんかか。それともなんだかんだで花子か。こんなゲームを売りつけてきたしづるのやつか。
どうでもよかった。
なんでもいいから助けて欲しかった。
一秒後に自分が正気を失っているかもしれないというのは身に染みるほど恐ろしく、悲しく、情けなかった。
どうしてこんなことに。
そればかりが脳味噌をいたずらに駆け巡る。
そのまま、無限に等しい時間が流れた。