僕、私、一人称の選択はこの私にとって然したる意味を持たない。
僕であろうと、私であろうとこの話には重要なことではない。
正直、どちらでも良いのだ。
脱線した。
話を戻そう。
私に割り当てられた部屋には、いつも部屋の隅にひざを抱えて丸くなっている彼女がいる。
一日の殆どをその体勢で、カーテンすら開けず、室内の照明すらあまり付けることなく、そうしている。
彼女、そう判断できるのは、私が彼女の長い髪を見てそう思っただけで、実は彼、なのかもしれない。
そして、私は彼女から一定の距離を保つことにしている。
なぜならば、彼女は私が近寄ろうとするときだけ、伏せている顔をあげ、私をきつく睨み付けるからである。
その目線から伝わる意思は、私の接近に対する明確な拒絶であった。
私は幾度か彼女に接近を試みたが、彼女の態度が軟化することは今現在に至るまで、一度もなかった。
無理に近寄れば彼女の心がバラバラになってしまう。だから、私はそれ以上近寄ることをしなかったし、出来なかった。
そして、いつの間にか、私と彼女の距離、みたいなものが出来上がっていった。
言葉によるコミュニケーションも、私は試みたが、彼女からの返事は、一度ももらえなかった。
食事はどうしているのだろうか、トイレやお風呂は、そんな疑問もあったのだが、その問いにもついには答えてもらえなかった。
あの部屋に一日中いるのは息がつまりそうなので、私は外に出ることにした。
「いってきます」
居間にいるであろう母親に言ったつもりだったのだが、返事は返ってこなかった。
いつものことだ。
外は真っ赤な夕日で、犬が人を散歩していた。
「おはようございます」
そう挨拶したが、
「こんばんは、今日も暑いですね」
と、買い物袋に沢山の野菜を詰めた犬にそう言われ、
はて、今日の昼食はカレーにしようかなと、考えた。
この町に唯一流れている黄色い川の近くを通ると、土手で釣りをしているおじさんを見かけ、
「釣れますか」
空っぽの魚篭を覗きながら聞くと、
「まだ釣れないね、餌が悪いのかな」
と、針だけしか付いていない仕掛けを睨みながらおじさんが答えた。
「頑張ってください、きっと釣れますよ」
私はおじさんを励まし、一礼すると、川に沿って、また歩き出した。
川を泳いでいる鳥は恨めしそうに、空を飛んでいる魚達を見ていた。
必死に水面から羽を羽ばたかせて空を飛ぼうとしているが、私から見た彼らの努力は、水面から5センチと、なんとも悲しい結果しか生み出してはいなかった。
そんなことをして、いつか空を飛べるのなら、人は、いつでも宇宙にいけるのに、そんな皮肉が浮かぶ。
彼らの努力を、魚は知ってか知らずか、水面のギリギリを一度低空飛行すると、逆さまになった地平線の彼方へ消えていってしまった。
お腹がすいた、家で昼食をとる事にしよう。
そう思って、私はさっき来た道を引き返した。
部屋の外に空の食器を出すと、私は彼女に話しかけることにした。
朝と寸分違わぬ位置に丸くなっている彼女に、
「そんな体勢で疲れないのかな」
彼女との距離は1メートル弱。
これが私に許された彼女との一番近い距離。
本当は横に座って肩が触れ合う距離で話したいのだが、仕方がない。
明確な言葉はもちろん帰っては来ないのだが、彼女の背骨が、ぱき、と返事をした。
なるほど、結構疲れるみたいだ。
ベットの上で、私も彼女と同じ姿勢で会話、というか、一方的な問いかけをしているのだが、私は数分もしないうちにこの姿勢が面倒くさくなって、寝転んで、しかし、目線は彼女に向けたまま話しを続けた。
「いつまでそうしているんだい、家族の人も心配しているよ」
この場合、家族、というのは誰のことを指しているのかは、質問している私にもわからなかったのだが、それでも、これは問わなければいけなかった。
「外に出てみなよ、今日は風がとても気持良い」
部屋の空気を震わせるのは私の声だけで、
「私もいつまでも君を見続けることは出来ない、だから出来るだけ早くしてくれないかな」
何度も何度も、
「そうしていることが君にとって何になるんだい」
日が暮れようと、
「君の世界は、このままでいいのかな」
私は、
「今日は疲れたよ、私はこのまま寝ることにするよ、君も早く寝るといい」
話している間、彼女は私を正面に見つめ、静かに涙を流していた。
頬を伝う涙を拭うことが出来るのならばそうしてあげたいところなのだが、私がそれをしたところでその行為は意味がない。
彼女の涙の意味を私は理解することが出来たのだが、それは、私にはどうすることも出来ないので、
彼女から視線をそらし、毛布を頭までかぶり、
「おやすみ」
最後にそう彼女に言うと、
その中で私は声を出さずに、静かに、唇をきつくかみ締め、己の無力さを嘆きながら泣いた。
外からパトカーのサイレンの音が、とても遠くから聞こえた。
今日も私と彼女の世界は停滞し、順調に狂っていた。