Neetel Inside 文芸新都
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投げ作家のススメ
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 あーなんか書きてーなー。でもめんどくせーなー。



 そう思ってついつい投げてしまう。そんな経験は私にもございます。ええ、ネタだけ考えて「ひょっとしてあたしは天才かしらん」と思ったものはいいものの、書く前に、あるいはちょっと書いて、やめてしまう。
 小説を書くことの意義というものは人それぞれですし、そんなことは私ごときが与るべきことがらでもないので、ここでは措くことにいたしましょう。

 このエッセイは新都社、ないしその他の場において、「長期連載」を目指す際の心得、として不肖風呂上りの私めが書こうと思い至り、明日の早起きを犠牲にしてしたためるものであります。
 いかな天才といえども継続なくして一冊の本なし。
 どうすれば続けていけるのか、そして願わくば読者の拝読の光耀を浴びることができるのか?
 そのあたりに視点を据えまして、ゆるゆると語ってゆきたいと思います。







<飽きる>

 そう。これです。ぶっとばすべきはこいつなのです。もうこの字を見るだけでムカムカしてきます。商売人が春夏冬で「商い=飽きない」と言いたくなるのも当然なのです。この飽きというやつが、われわれがしたためるべきであった名作たちを空想の塵芥漂う海へ埋没せしめたのであります。
 こいつをなんとかしなければなりません。そのためには、われわれが書いては投げる、その過程を今一度トレースしてみる必要がありましょう。


 わたしのケースでありますが、まずこのような過程を辿って投げます。


 1.ネタを思いつく
 2.自分は天才じゃないかしらんと思う
 3.ちょっと思い直す
 4.プロットを書く。ないし、いきおいに任せて序文だけ書く。
 5.飽きる。
 

 最短でこれです。
 このケースで考えられる投げ要素はずばり、「練りこみ不足」であります。
 その場の勢いで書き始めるのはいいのですが、投げたボールはいつか落ちるものでありまして、それをキャッチする算段がついていないため、投げっぱなしになってしまう、というわけです。
 これは情熱のままに書きつつも、プロットをよくよく練り、一冊の本にできるかどうかを冷静に検討することで解決への糸口を見出すことができましょう。

 じゃあプロット練るってなによ? ねるねるねるねなんて今日び駄菓子屋にも売ってねーぞ! と思われる読者諸兄は、まこと壮賢であります。まだ売ってるのでしょうか、あの食べるスライム。
 それでは、よりよい長期連載をするために、プロットとやらを練って見ましょう。




<プロット>
 プロット、プロット、となんだか口にするだけで偉くなったような気がしますが、まあその実たいしたものではないのです。所詮は骨組み、お話の設計図であります。
 よく言われるのが、「起承転結」に乗せて展開をざらっと平たく書いたもの、でありましょうか。
 私、実はこのプロットというものがクセモノなのではないかと睨んでおります。
 もちろん、一か八かでプロットなしで書き始めるのはかなり難しいのでありますが、かといってプロットがあれば書ききれるというものでもございません。
 むしろ、ある程度の話数が進んでから投げてしまう――そんな記憶はございませんか? 私にはたんとあります。ええありますとも。私だって60Pも寝ずに書いてブン投げたくはなかった。でもみんなが、みんながおまえこれあんまおもしろくねーぞっていうから私はっ、私はあっ・・・うっ・・・うううう・・・

 嫌なことを思い出してしまいました。
 ともかく、よくよく考えてみれば当然なのですが、プロットがあるということは作者は先の話を知っているわけです。私、これがよくないと思うのです。
 あえて断言しましょう。
 プロットなんか破っちゃえばいいのです。
 ここが難しいところなのであります。ただ惰性で書くことができないというわがままボディのきまぐれ子猫ちゃん作家である我々は、「先がわかってると書いた気になる」という致命的な病気を抱えているのです。
 たといそこからどれほどの名作が書けるとなっても、山場に持っていくまでは「つなぎ」を書かなければなりません。それがたまらなく苦痛なのですね。山場だけなら書く気力はあるけど、それ以外のどうでもいい箇所はぶっちゃけ誰かに書いて欲しい。それぐらいの気持ちでついつい投げてしまうわけです。
 ですから、そういうときは、プロットを破壊してしまうのです。
 これによって、我々のきまぐれ子猫ちゃんブレインは活性化してですね、慌てるわけです。あっやっべーこいつプロット破棄しやがって考え直しじゃんボケアホカスまぬけやっべーどうすんだよこれうわわわわわ
 考えよう。
 と、なるわけであります。
 暴論ではありますが、自分の作品を書いていて閉塞感を覚えたならば、一度プロットを破棄してしまう、というのもひとつの手段であると心覚えしておいていただきたい。
 では次に、それでも書きたくねえというかなり重度のニート体質な作家諸兄に助言をしていきたいと思います。




<結局「つなぎ」が書きたくねえ!!!!!!>

 これであります。なぜ投げるか。この「つなぎ」に原因があると思って間違いはありません。
 誰だって山場は書いていて楽しいものであります。セイバーちゃんと一緒にバーサーカーをラブラブカリバーッ!とかプロットに書いてあったらきのこだろうがたけのこだろうが嬉々として書き始めてしかるべきであります。
 ですが、ジェットコースターはのぼってからおちるもの、そののぼるまでの労力というやつがなかなか重いものであります。
 それはものすごくいいジェットコースターを作れば作るほどにまとわりつく命題なのであります。位置エネルギーを得るために、まずきっかけとなるエネルギーがなければならないのでありますが、まあニート体質な我々には土台無理な話であります。
 では、どうすれば糞おもしろくもない「つなぎ」を書いて「山場」にたどり着けるか。
 単純であります。怒らないで聞いていただきたい。
 「つなぎ」を「面白く」すればよいのであります。


 いま、新都社で一話更新するとなったらおおよそ5キロバイト、文庫本換算でもまあ4~6Pが妥当とされております。これはウェブ小説黎明期から連載を続ける諸兄先輩方がたどり着いた「どうやら読んでもらえる量」でありまして、その信憑性はなかなか堅固なものがあります。
 で、少々気を張らねばならんのですが、この5キロバイトを、面白くするのです。ではどうすれば面白くなるか。


 少々昔話をいたしましょう。私が新都社にやってきて、ちょいと天下とやらを獲ってやろうと思っていた頃のことです。私は小説を書いた経験こそありましたが、完結経験はまあ130kbの中編一本という程度でありました。投げた話は7本かそこらだったと思います。
 その私も、ウェブ小説を読んでもらう難しさというものは身に染みていました。新都社はわりと実力主義なところでありまして、まこと好感の持てる創作発表の場でありますが、私が以前たむろしていたサイトはまさに「ちゅーぼーのすくつ」でありまして、「古参=すげえ」という右翼が進化して別のいきものになっちゃった感じのチンピラサイトであったのですが、私はそこでも天下を獲ろうと奮闘しました。
 結果は見事に惨敗でありまして、一本書いたあとはお決まりの投げ作家コースを辿ったのであります。不覚。
 まあとにもかくにも、その時に培ったいくつかの経験から、私は新都社の門前で、ひとつの指針を己に課したのであります。

 ――どの更新でも、ひとつは見所を作ろう。更新した分のページを抜き取ってしまったら、その小説が成り立たなくなるような、そういう構成にしてみよう。

 私はいまでもこのルールに則って書いているつもりでありますが、私が上手くいっているかどうかはともかく、これはなかなか有効な戦術ではないかと自負しております。
 単純に考えて、一更新で5ページ、その5ページの中に見所をひとつ入れたとして、一冊の本になる頃には見所がどれほどになりましょうか? それはきっととても素敵な本になるでしょう。
 べつにいつも切った張ったやってろと申しているのではございません。つなぎにはつなぎの「使い方」があるのでございます。
 私にも経験があるので偉そうに申すのでありますが、プロットで流れを組んでしまうと、細部をおざなりにしてしまいがちです。
 小説作法サイトなどを見ますと、「プロットには起承転結を組み込み、そしてそこからさらに小さな起承転結をつくっていくとよい」と書いてあると思いますが、みなさんめんどうくさがりなので、最初の起承転結だけで満足してしまうのであります。ここが問題であります。
 やはり、めんどうくさくても、小さな起伏も大事でありまして、全体像ができているから小説なんぞできたも同然、と思うのは少々傲慢にすぎるきらいがございます。
 ですが、めんどうくさい!
 そう、それは確かにそうなのです。起承転結? ただでさえ全体でまとめるのも大変なのにそこから無数にばらばらにしていったら混乱しちゃってとても書けるものではないとおっしゃるのも当然のことではあるのです。
 ですから、起承転結でなくてもいいのです。
 「流れ」というものを、身につけたらよいかと存じます。
 つまり、プロット上にはわざわざ明記していなくても、いざ本文となったときに、さっとつなぎではつなぎの、山場では山場の、起承転結をいつでも引き出せるような間合い、呼吸というものを習得しておくと、作品づくりがグッとラクになります。
 私、実を言いますと、プロットこそ作りますがそこに起承転結を見出したりはしません。恥ずかしながら起承転結という言葉もほとんど最近ようやく思い出したくらいでして。というのも、いまどき起承転結など流行らないからであります。
 起承転結は、作品つくりのベターな骨組みでこそあれ、絶対の解答ではございません。
 起のあとに転が来たっていいのです。
 結のあとにまた転じてもいいのです。
 結びこそ一定の位置に置かねばなりますまいが、他はわりと自由が効きます。
 転起承、なんてのも私はよく使う方法であります。たとえば主人公を前文とはまったき違う急展開に放り込み、それの始まりを回想させる――なんてやり方は転起承であります。そのあとにまた転、ないし承でつないでから転、それどころか一気に決めるぜとばかりに転転転転転転結だってかまわないのです。
 そも、起承転結などという四文字でくくれるほど小説というものは簡素な代物ではございません。いわば起承転結は四角形でありまして、我々が求める「傑作の流れ」というものは円であります。そして円には、手がかりとなる角がございません。
 ですから、その円の流れ、丸みといったものは肌で覚えていくしかないのです。
 私はその丸みを秩序、統合性、世界観などと呼んでいるのですが、時間が足りなくなってきたのでこれにて失敬。














       

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