Neetel Inside 文芸新都
表紙

良夜の気まぐれ夢幻劇
「蟷螂は灯籠を揺らす」

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 何度寝返りを打っても、蒲団を被って目を瞑ろうとも、今夜は眠れる気がしない。昨日も今日と同じくらいに眠って、いつも通り仕事が始まる一時間前には起きた。二度も三度も眠りに落ちた覚えはないし、むしろ今日は体力的にも精神的にも負担のかかる作業が多かったからか帰りの電車でひたすらに睡魔と闘っていた覚えすらある。
 仕方がないので少し散歩でもしてこよう。そう思い立った私は蒲団から抜け出すと冷蔵庫から麦茶を一杯コップに注いで飲みほし、壁にかかった上着に袖を通した。円状に模られた木縁の時計は十一時を示している。
 隣の蒲団で妻は心地よさそうに胸を上下させ、静かに寝息をたてている。これくらい眠ることができれば良かったのだが……。よく冷えた麦茶のおかげですこし元気になった身体を数回、左右に捩ってから、玄関で運動靴に足を通し扉を開けた。
 外は寒くもなく熱くもなく、感情が抜け落ちたように落ち着いていた。夜だって眠りたいのだろう。夜でさえこんなに心地よく寝ているのに、何故私だけがこうして寝苦しさに苦しんで散歩をしているのだろうか。腑に落ちない気持ちをふうっと大きく吐き出し、私は歩き出す。
 ランタンのような形状をした、少し洒落た街灯に公園が照らされている。昼間はあれだけ活気づく遊具達も、夜になるとじっと息を殺すようにしてそこに佇んでいるだけで、少々見ていて気味が悪くなった。街頭の灯りが薄い橙色であることが唯一の救いかもしれない。私は公園ではなく隣の歩道を選び、この先にあるコーヒーショップにでも行こうと歩みを早める。暖かいものを飲めば自ずと眠気はやってくるだろう。
 そんな風に夜道を歩いていると、ふと誰かが私の手を引いた。
 振り返ると、一匹の蟷螂がこちらをじいと見つめている。手元を見てみると、そいつはその鋭い鎌を器用に扱って私の手を引いていた。突然手を引かれてなんだと思ったが、どうやら気遣いはできるらしい。
「一体どうしたんです」
 私がそう問いかけると、蟷螂は困ったように首を傾け、もう一つの鎌を私の手を引く鎌に添えて言った。
「どうか、助けてはくださいませんか」
「助ける?」
「ここから直ぐにでも離れたいのです。どうか、どうか……」
 蟷螂はしきりに周囲を見て回るだけで何も答えてはくれない。私は呆れて彼をその手に乗せると、夜道を再び歩き出す。手の中でようやく蟷螂は安堵することができたようで、これまたその右の鎌を器用に使って胸を撫で下ろしていた。
「無理を言ってしまって申し訳ない」
 等間隔で並ぶ街頭の下を足早に歩いていると、蟷螂はそう呟く。
「丁度眠れなくて困っていたところだったんだ」
 眠くなるまでの良い暇つぶしになりそうだと蟷螂に向けて微笑んでみた。蟷螂は一度だけ鎌と首を縦に下ろし、視線をこちらに戻す。ああ、お辞儀か。
 ふと、なんとなく感じた違和感に私は町中をきょろきょろと見回す。
 おかしい。
 いくら夜遅いとはいえ日は変わっていなかった筈だ。それなのに、歩道横の車道を一台も走っていないのは変だ。よく見ると信号機の灯りも、住宅街の灯りも消えていた。ほぼ街灯のみとなった道を、私と蟷螂とで歩き続けているのだ。
「今日は随分と静かだ」
「ここを右で曲がったところで、ひとまず大丈夫だ思います」
 私の言葉を切り捨て蟷螂は、右の鎌で車道を横切った先にある角を示す。核心には全く触れようとしない蟷螂を見てこれはもしや面倒事に巻き込まれてしまったかもしれないと、今更ながらに後悔を覚え、しかし一度関わってしまったからにはひとまずはこいつを落ち着ける場所に送るしかないだろうと、仕方なく車道を横切るとその角に飛び込んだ。
 曲がり角の先を見ると、奥の街灯が一つ灯ってるだけで、他は何も見えなくなってしまった。振り返ってみてもそこは暗闇で、まるで突然スイッチをオフに切り替えられてしまったように暗黒がそこにどっかりと座り込んでいる。
 つう、と背中を冷たいものが伝う。
 生唾を飲み込むと、暗闇にその音が反響した。それにしても輪郭のブレた気味の悪い響き方だ。音がすっかり籠ってしまっていて、暫く反響するとそれが生唾を飲み込む音であったかすら判断できないくらいにぼやけてしまった。
「あそこへ」
 街灯の下に、青いベンチと自販機があった。どうやら蟷螂はあそこに行きたいらしい。この状況をまったく受け止められずにいるが、あの光の下に行く以外身動きは取れそうにないと、私はおそるおそる暗闇に一歩足を踏み入れてみる。
 地面は、あるらしい。
 砂を踏んだ時のような軋む音がしたが、ずぶりとはまるとか、浮遊感と共に奈落へと落ちていくとか、そういうことは何一つなかった。一度深呼吸をしてから、私は少し駆け足気味で街灯の下に転がりこんだ。

 たった一本の薄い橙の光は眩しくて、けれども唯一の光と考えるとどこか安心できた。手の中の蟷螂はようやく私から飛び降りるとベンチに着地し、こちらを見ている。べっとりと適当に塗られたのだろうか。ベンチはところどころにムラがあって、隅にはペンキが溜まったまま固まったと思われる塊があった。親指か少し大きいかくらいだろうか。
 突然、ガランと硬質な音がしてそちらに視線を動かす。自販機から缶が一本転がり出たようだ。見たところ缶コーヒーのようだが一体……。私はおそるおそるベンチに着地した蟷螂を見る。
「お礼です。ブラックはお口に合いませんか?」
「あ、いや、むしろコーヒーは何も入っていない方が有難いが……」
「それは良かった。僕も砂糖やらミルクを入れるのが苦手で。紅茶もそうなのですが、甘ったるくしてしまう必要性が分らないんですよ」
 そう言うと蟷螂は首を一度傾げる。コーヒーや紅茶にうるさい蟷螂なんて聞いたことがない。
「それで、君は何故逃げているんだ」
 他に聴きたいことはいくらでもあった。が、まずはそこだった。
「妻から逃げていたところなのです」
「妻?」
 ははあ、と私は言葉を洩らす。彼の逃亡理由について少し理解できた気がした。
「食べられるのが嫌だったのか」
 蟷螂は一度だけ頷く。
「おかしいと思いませんか。子を残そうとしてる者を何故捕食の対象としてしか見ていない」
「さあ、私は君達の生殖に対して興味をもったことはないからなぁ」
 そう言ってプルを引っ張る。口から白い湯気が立ち上り、外気に霧散して消えていく。
「貴方に妻はいらっしゃいますか?」
 そう言って、蟷螂はこちらを見た。私は視線を外し暗闇に目を向け、コーヒーを煽る。コーヒーは冷める気配が全くない。甘さもクリームのまろやかさもない苦いだけのそれを飲み込んで、私はふと妻の寝顔を思い出す。
「子供はいないが、妻はいるよ」
「お子さんは?」
「あまり子を残すということに妻が熱心じゃないんだ。それに、彼女の恋愛観は少しだけ変わっていて、肉体関係を持つことに酷く嫌悪を抱いている」
「何故そんな女性と……いや、失礼」
 途中で蟷螂は口を噤んだ。私は首を振って謝罪を受け流すと、投げかけられた疑問に改めて向き合ってみる。そういえば、私は何故妻を愛そうと思ったのだろうか。
 暫く無言が続く。顔を上げてたった一本だけ点灯している街灯を見た。この周辺の形となんら変化はない。ランタンのような箱型に、中で灯りが灯っている。いや、と私はその中が気になって、よく目をこらして覗く。
 火だ。ランタンの形状に模されているのではなく、実際にあそこに取り付けられているのは本当にランタンで、灯火は時折ゆらりと身を捩るように動いている。
「愛がなくても、子孫は残せてしまう」
「え?」
「妻が言った言葉なんだ」
 ランタンの火が少し強く揺れた気がした。私が見上げるが、その時には既に落ち着いていて、何事もなく橙の光を吐き出していた。
「貴方は、何故子を成そうとする妻が私を食べようとすると思います?」
 蟷螂は再び喋り出した。私が慌てて彼に視線を再び戻すと、何故だろう、蟷螂は少し笑っているように思えた。それも皮肉を込めた笑みを。
「それは、子を産むために多くの養分が必要……」
「別にそのための食糧ならどこからでも見つけだすことができます。私達は思いのほか好みが広いのです」
「なら、何故」
「妻達には、子を成すために必要なつがいもまた、食糧としか見ることができないのです」
 蟷螂はそう言うと街灯を見上げる。
 私は、何も言えなかった。
「それが当たり前と思って暮らしていましたが、ふとした瞬間に、常識であった出来事が自分の中で疑問になることがあるのです。私はこのままでいいのだろうか。果たしてこの常識に従っていることで正しいのだろうか、と」
 私は何も言えないでいた。それっきり押し黙る蟷螂を見つめたまま、再びコーヒーを口にする。未だ冷めないコーヒーに疑問を覚えながら、それでもぬるいよりはましだと飲み下し、それから自販機横の缶ゴミに放り込んだ。
「私は、自分の子が見たくてたまらない」
 彼の妻はきっとそれを許さないだろう。思わず口から出そうになった言葉をとどめたが、蟷螂は表情で私が何を言わんとしているのかを理解したようだった。
「それでも、その危機を晒してでもまた、きっと行きます。一度逃げ出すことができた私が、生き延びることの次に叶えたい願望がそれなのですから」
 ふと、ベンチを掌で擦ってみる。禿げたペンキから木目が覗いていて、そこで擦るとざらりと引っかかった。
 その時一瞬、ほんの一瞬だけ訪れた小さな痛みに反射的に飛び上がった。私はそれから掌をまじまじと覗き込んでみた。棘だ。ささくれていた部分に棘状に鋭くなった箇所があったのだろう。
 じりじりとやってくる痛みを見つめながら、なんだかおかしくなって私は微笑んだ。
「何がおかしいのですか?」
「君がどうしても蟷螂に見えなくなってきてね」

「当たり前ですよ。私のどこが蟷螂に見えるんです?」
 はっとして私は周囲を首を振って確認する。眠い目を擦りながら訝しげにこちらを見る妻の姿に、腰までかけられた蒲団。壁にかかった時計の長い針は、十二の数字を指示していた。
「起き上がったと思ったら私を見て蟷螂なんて、一体どんな夢を見ていたんですか?」
「ああ、いや、なんだかとても不思議な……」
 どこまでが本当だったのだろうか。あの時飲んだコーヒーの味も覚えているし、掌を刺したあの痛みも確かなものだった。全てが現実に塗れていたし、蟷螂の声もよく覚えている。
「ねえ、あなた」
 妻はそう言って私の体に両腕を回す。
「どうしたんだい?」
 そっと彼女の頭に手を乗せながらそう問いかける。と同時に、驚いて私は彼女の頭から手を離した。
 先ほどまで布団に入っていたとは思えないほど、彼女の体は冷たかった。
 ゆらりと、ランタンの火が目の横で揺れた気がした。

「ひどく、おなかがすいたの」

       

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