Neetel Inside ニートノベル
表紙

電車の中で軽く読める短編集
珈琲とカーテン

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「君は選べばいい。何も二択って訳じゃない。君が選ぼうとすれば、それに従ってまた新しく道ができる。そういうものだと、私は思うがね」
早朝、三時。それは最早「朝」という概念は殆どなく、どちらかと言えば、「夜」というイメージが強いその時間。カーテンから横向きに降り注ぐ光は、どこか透明で、冷たい空気を引き連れてくる。こんな時間にどうかとは思ったが、一応、客が客なため珈琲を拵えておいた。それが気に入ったらしく、この老人。一向にその椅子から立ち上がろうとはしない。
俺からしてみれば、この老人はできれば相手にしたくない部類に入る。しかし、インターホンを何百回も押された挙句、ディスプレイに映されたのがこの顔じゃあ、嫌が応にも目を覚ます他なかった。
尚、この老人は極めて珍しい風体をしていた。態々付け足すこともなかったとは思うが、この年になってようやく細かな情報を手に入れることができるようになったのだ。習得したものは使わなければ、損一方である。
どれほど珍しいかと言うと、日本人の全員が羽織っていても、別に何にも気にはならないあの社会人用スーツが、恐ろしい程似合わないのである。そしてこの老人、それをこれみよがしに見せ付けてくるのであるのだから、この老人と自分の運の悪さを疑うしか、ない。
俺は珈琲をずずっと啜って、珈琲カップの上に置くと、自分の中にあるほんの僅かな眠気を吹き飛ばし、ふぅっと、溜息を吐いた。
「で、何の用ですか。篠鳥さん」
俺と同様珈琲を啜って、ぷっは、こりゃうめぇや!という、本日17度目の台詞を言った後、あん?と強面に切り替わった。…全く、未だに慣れないな。この老人。一体どうしたら好きになれるのだろう。
まぁ、そんな感情なんて、この老人には不必要極まりないので、さらっと流すことにしようと、心の中で独り言をつぶやいた。
「何の用って……私が人生のアドバイスを、君という若い紳士に託しに来たのだよ」
いかにもダンディーな整った髭を上下させて、その老人はそう言った。別にアドバイスなど欲しいと言った憶えもなく、また、この部屋に上がってもいい許可を出してもいないのに、この部屋の主導権がいつの間にか老人のものとなっていることが、不愉快だったので、「はぁん。そうですか」と冷たくあしらって、再度珈琲に口を付けた。
そんな俺の態度が気に入らなかったのか、目の前に在る残りの珈琲を全て飲み干し、そして多分本日最後となる「ぷっは、こりゃうめぇや!」を不機嫌そうに吐き捨てた。そんな台詞、別に期待してなどいない。それもこの老人が自分の言いたいことに素直過ぎるため、このような言葉を二桁に達するまで暴発的に言ってしまうのだ。それ程俺が淹れた珈琲が美味いかと言えば、正直なところ微妙だ。この老人の舌がおかしいのだ。

     

 「そういえば梅雨島くん」
 唐突に話がころりと変わるのもこの人の気分次第だが、まだ拓生の言語能力よりかは上なので、前置詞として「そういえば」が付着するのは、非常に有難いことだった。というか、普通は付く。それは、この老人を遠まわしに普通ではないという意味の篭った文である。
 名前を呼ばれた以上返事はするが、テレパシーを使えない人間の鉄則なので、一応「はい」と返事をしたものの、果たしてこの返事をしなかった方が良かったのではないかと、その後悩んだ。
 結論はイエスだった。
 「君、彼女いるかい?」
 「………………」
 その髭が、普段よりも厭らしく見えたのは、きっと俺の幻覚ではない。髭が動く度、その一本一本を丁寧に毟り取ってやりたかった。だが、その瞳は真っ直ぐで、真剣そのものだった。…この老人、この手の話に対しては常に全力で取り組んでいる。
 その視線に急かされて、仕方なく俺はその目から視線を反らさずに言った。
 「……いませんけど」
 「ノウッ!ノウッ!ノウッ!駄目だよそれじゃあ!君はそうやっていつまでも遅れた青春に追いつこうとしないから駄目なのさ!いいかい少年紳士!君は元から駄目なんだ!そう。もし「駄目」という言葉が漢字一文字だったら、「々」がいくらあっても足りないくらいに君は駄目なのさ!自分で自分の愚かさを自覚していないことは、一番愚かなことなのだよ!」
声を張り上げて半身を乗り出して、この老人は何故ここまで必死に物事を伝えようとしているのか、というか何がしたいのか。俺には全く分からなかった。ただ言えることは、ころの老人の声は予想以上に大きいもので、近所迷惑は確定だったこと。
 「……、篠鳥さん、本当に何がしたいんですか?」
 「だから言っているじゃないか君という紳士を私のように堕落させたくはないのだよ!」
 「………………」
 この時ようやく知ったのだが、この人は自分を褒めることは一切しない。代わりに、まぁ俺としか話しているところを見たことがないからそこまで分からないが、常に引っ張っていくような、そんな感じだ。
 そもそも俺が篠鳥さんに初めて会ったのは、近くの公園のベンチだった。
 あの日俺は、アルバイト先の上司ともめて、親に黙って勝手にクビになったのだ。その後何もかもがどうでもよくなった反面、家に戻りたくないという後悔の念があった。そうして辿り着いたベンチの上、下を向いていたから、隣に人が座っただなんて気づかなかった。いきなり、「おい。そこの紳士」と呼ばれて、初めて篠鳥さんに気づいたのだ。
 

     

 篠鳥さんも悩んでいた。
どうやら家庭で上手くいっていないらしく、俺と同じく、家に戻るのが辛かったようだ。
その老中年を見た瞬間、あぁ、自分だ。と思った。俺は無意識に中年の二重瞼の中にある黒い大きな瞳に目を凝らした。どこか虚ろで、吹けばどこかへ飛んでいってしまいそうな頼りないそれは、俺を映す鏡なのだと知った。きっと俺も、この人と同じ目をしているのだろう。そう考えた時、目から熱いものが流れ落ちた。
それから、篠鳥さんと話す内に、お互いに生命力みたいなものが少しずつ戻ってきて、その後は、ちゃんと笑って家路に着いた。
それ以来、篠鳥さんとはよく話す仲になったのだが、最近は、何やら鬱陶しいくらいに喋るようになったので、苦手意識が生まれてしまったのであった。
その篠鳥さんが、今、俺の色恋沙汰について話しているのだ。驚く以上に、我が身の危険を感じ取った。
「青春はいいものだぞ。少年紳士。甘酸っぱくて、ほろ苦い。そして何より、鉄の味がする」
「いや、それ確実に血が出てますよ。あれですか?青春は戦争みたいなものってことですか?」
篠鳥さんは、まぁそういうものだと思いたまえ。という謎の言葉を呟いてから、ぼおっと、窓の外の光に目線を変えた。その表情はどこか儚げで、あの時のように吹けばどこかへ飛んでいってしまいそうだった。
俺は珈琲をあと一口分だけ残すと、テレビのリモコンに手を伸ばした。客人に対して失礼だと思ったが、篠鳥さんのその表情をずっと見ていられる程、俺は無礼ではいたくなかったのだ。テレビに映ったニュースが、この部屋のBGMになったことは言うまでもない。
画面にまず初めに出てきたのは、昨日夜11時くらいに発見された身元不明の焼死体。朝食を摂る前には衝撃的な内容だったが、青いビニールの下の人型は、どこか自分と似ているという、真夏のホラー現象が頭に過ぎってしまったため、もう釘付けになってしまった。
「……今時屋外で焼死する人も珍しいですよね。自殺だっていうし」
 俺はテレビを観たまま、篠鳥さんと会話をする。篠鳥さんの返事はゆったりとしていて、何処か意思が欠けているような、そんな受け答えだった。
 「これ、この近くの…ほら、何ていったかな。あ。「杵川」の土手でやったらしいですよ。本当に物騒ですよね。この時代って」
 「あぁ。そうだね」
 ニュースのコーナーが終わり、自分の星座の運勢を確認した後、やっぱり失礼かなと思いテレビをリモコンの電源ボタンで落とした。後に残る、しんとした空気が、この部屋のBGMになったのも、言うまでもない。

     

「俺の運勢、末吉でした」
 「残念だったな。私は大吉だ」
 ふふん。と自慢気に髭を撫でて、俺を挑発する老人。こうして見ると、結構年が離れた二人組みだよな。と思ってしまう。そんな立派な髭、俺は生やしたくないよ。
 先程までの落ち着き振りは何処へやら、それから。また老人は初めの話に逆行する。
「して、梅雨島。青春を送れなかった大人は碌な大人になれない」
「全国の青春を取り逃した人に謝ってください」
ふん。と鼻で笑って、老人は思い耽るように腕を組んだ。これが、この老人の本気トークスタイルだ。
「誰が誤るか。私は「青春とは売春」だと思っている」
「何てこと言うんだあんたは!」
最低だった。青春を取り逃がしたのはあんたじゃないか。そりゃあ誤れないよ。だってあんたその中の一人なんだから。
老人は、まぁ聞け、と目を瞑ったまま俺を示唆する。だから、ここは俺の家で俺の部屋だ。一人暮らしになった俺が手に入れた、俺の空間だ。
だが老人にとってそんなことはどうでもいい。俺がここ一週間、この老人が一体何をしていたのかを知らないのと同じで。
「つまり、どれだけ命を賭けられるか。ということだ」
「………………」
なら、他にも色々ましな言い方があったろうに。俺は心の中でそうつぶやいて、残りの珈琲に映る自分を見た。なんだか、えらい普通の人だった。
老人はそれから、思い出したかのようにぽんと相槌を打って、俺の顔を嬉しそうに覗き込む。この気分屋。もう止まりそうになかった。
「そういえば、君の弟さん……拓生くんは、いま何年生だい」
拓生に興味を持つなんてと、軽く驚いたが、まぁこの人も年だし、身の回りの人間の成長も楽しみの一つなのだろう。
「今、小学2年生になります」
「ほほう。結構年が離れているなぁ」
俺とあんたもな。微笑して、窓の外を見た。もうじき外の明かりも、この部屋のカーテンを越えてやって来るだろう。
「元気かい?」
「いや、しばらく会ってないですけど、多分元気だと思います。一応、俺のアルバイト代も向こうに送っていますので」
老人は、そうか。君は成功したんだな。とにこやかに笑って、席を立ち上がった。
「……もう帰っちゃうんですか?」

     

 老人は、あぁ。もうそろそろ時間だ。と、名残惜しそうに珈琲カップを見つめて、玄関へと向かう。俺は見送ってやろうと、その後についていく。
 「あぁ。そうだ。たまには実家に帰って、拓生くんやご両親にその元気な顔を見せな。きっと喜ぶと思うぞ」
 老人がその黒い革靴に指を入れて、足の踵をねじ込んでいく。そしてトントン。と軽快なリズムが玄関に響くと、老人はこちらを向いて、じゃあ。と手を振った。
 「はい。お元気で」
 「珈琲。美味かったよ」
 老人はドアノブを回す。ゆっくりと扉が開いて、外の光に包まれる。まだ眠気が残っていたのか、その光はとても強く感じた。
 「……はぁ。結局、何しに来たんだろ。あの人」
 俺一人になった部屋は、さっきよりも広い。当然。人一人分のスペースが空いたのだから。だけど、それ以上に……。何か……。
「…………」
結局見つからなかったので、俺は諦めて、部屋にBGMを与えようとテレビを点ける。
「ふぁあ」
欠伸が出たということは、俺は本当に寝足りないらしい。椅子に座って、それを眺める。チャンネルは変えていなかったけれど、そのまま別のニュース番組が流れる。
またも映るあの焼死体事件。もううんざりだったが、その焼死体の身元が分かったというニュースキャスターの声がして身を乗り出す。
 あの焼死体の身元は、5日前に捜索願が出されていた、篠鳥夏雄という老人のものであると知ったから。
「―――!」
俺はさっきまで老人が持っていた珈琲カップに目を遣った。
時刻は午前7時。もういい加減朝だと認められる時刻である。

       

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Neetsha