Neetel Inside 文芸新都
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黒い子短篇蒐
月を眺める人

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 変な女がいてさ、これが莫迦な女だったんだ。尤も、勉強は出来たようだったから、莫迦というのは適切ではないかもしれない。兎に角、普通ではないんだ。どこから拾ってきたのかわからないような石ころに首輪を付けてペットだと言い張ったり、水槽に水を張って月を捕まえるんだって言ってみたり、それで朝が来たら月が逃げてしまったとわんわん泣いてみせたり。まあ、退屈はしなかったよ。
 それで、その女というのがまたぞろ恐ろしく美人なんだ。腰まである真っ黒い髪は一本々々が艶やかに光っていたし、大きな薄茶色の目は宝石か何かみたいだった。真っ白い肌が焼けるのを嫌って、冬でも曇りでもお構いなしに日傘を差しててさ。鼻はツンと澄ましていて、唇には絶妙なバランスで紅色が入っていた。化粧なんて全然しなかった。必要ないんだ、その女には。何も手を加えることなく完成されていた。だからそのせいで、余計に変に見えるんだな。そうそう、似合わない真っ赤な伊達眼鏡をいつもかけていたよ。

 ある時その女が言い出したんだ。今日から私が作る物だけを食べてくれって。お弁当を持たせるから、外ではそれ以外は口にしないでくれって。俺、びっくりしてさ。どうしてか聞いたんだよ。そうしたら、細胞の話を始めたんだ。人間の細胞は六年くらいで全て新しいものに変わる。だから私は六年かけてあなたを生まれ変わらせたい。新しい貴方を私の手で造りたいんだ。そんな風に言うんだ。あんまり真剣な顔で言うものだから、なんだか可笑しくてさ。わかったって言ったんだ。その女は嬉しそうな顔で、じゃあ早速なんて言って料理を作り始めた。何の事はない肉じゃがだったんだが、素朴で美味くてまた驚いた。普段妙なことばかりしているくせに、料理はまともなんだな。
 ところで、いつもいつも飲むわけじゃないが、俺は酒が好きなんだ。それを言ったらその女、どうしたと思う。作ってしまったんだよ、酒を。というか、作ってあったんだ。俺が言い出すことなんかお見通しだったんだな。女が準備していたのは、梅酒と日本酒だった。よく考えてみれば、日本酒なんて作るのは酒税法とかいうのに違反していると思うんだが、しれっと徳利に入れて出してくるものだから俺も毒気を抜かれたような心地になって、猪口に注がれるままにそいつをぐびりと飲んだんだ。いやはや、あれだけは二度と頂きたくないね。その不味いこと不味いこと。味見はしなかったのかと聞いたらあの赤い眼鏡を光らせながら女も一口飲んだ。その時の顔といったらなかったよ。二人で顔を見合わせて大笑いさ。幸い梅酒の方は大変に美味かった。だからその夜は二人して酔っ払うまで梅酒を飲んで、ソファで肩を並べて眠ったんだ。

 そんな女にも怖いものが幾つかあった。まずは、犬だ。女が言うには今でこそ犬たちは人間にへりくだっているが、いつか人間と犬の生活が逆転する、その機会を犬たちはずっと窺っているんだそうだ。ちなみに人間の座を窺っているのは犬だけじゃなく、猿もそうなんだそうで、だから犬と猿は昔から喧嘩しているんだと。今思うと大真面目にそう思っていたからこそ、石ころなんかをペットにしてたのかも知れない。
 次に怖がっていたのは、箪笥だった。女の家には立派な桐の箪笥があったんだが、どうやらそこには妖怪が住んでいるらしく、一人では決して開けてはいけないんだそうだ。女は毎朝俺を箪笥の前に呼んでは何段目のあれそれが着たいから出して欲しいと頼んできた。おかげで俺はあの桐箪笥の何段目のどこに何があるか、今でも空で言えるよ。
 それから、月のない夜も怖かったみたいだ。毎度妙にしんみりとして、不安そうな顔でベランダに出ては何度も空を見上げて、月がないことを確認すると戻ってきてソファの上で心細げにしていた。もう寝るって頃になってもそわそわと落ち着かないようで、結局遅くまでベランダとソファを往復して、日付が変わる頃になると諦めた様子で俺の寝床に潜り込んできて眠るんだ。そんな夜は俺も女に話しかけず、ただあの滑らかな髪を撫でてやったっけ。

 では何を好むかと言うといろいろあるんだが、女は兎角月が好きだったようで、満月の晩には必ず窓を開け、電気を消して、月を見上げるんだ。俺もそれに倣って女のお手製の梅酒を片手に月を見上げていた。いや、正直に言おう。俺は月なんか見ちゃいなかった。月を指す女の指先に見蕩れて、月の光を浴びた横顔に見蕩れていた。
 満月の晩には必ずと言ったって、毎度々々晴れるわけじゃないよな。その日はそういう日だったんだ。暦上は満月のはずだったんだが、生憎空にはどす黒い雲が重く垂れこめていて、月はおろか星さえも見えなかった。女は大いに憤慨した。空に向かって滅多矢鱈と喚き散らすものだから、諌めるのが大変だったよ。挙句に雨まで降ってきて、女はもう唇をこれでもかと言うくらいに噛み締めて部屋の中から空を睨めつける他ないようだった。小一時間もそうしていたかな、突然寝ると言いだして、そのまま乱暴に寝室のドアを閉めてそれっきり出てこなかった。
 朝にはすっかり晴れていた。女は前の晩あれだけ暴れていたくせに、朝にはちゃんと起きて朝食の用意をしていた。相変わらず美味い飯に舌鼓を打っていると、突然出かけると言いだして女はどこかへ行ってしまった。昼頃になって、女が大きな水槽を抱えて帰ってきた。不敵に笑いながらさ。どうするつもりか聞いても夜になったらわかると言うばかりで教えてはくれなかった。それで、まあ、最初に言った通りだ。女は月の捕獲に失敗して、明け方わんわん泣いてた。その後も夕方までずっと塞ぎこんでいたんだが、俺が月の絵を描いてやるって言ったら本当、本当に描いてくれるのって何度も確認してきてさ。それから先はすっかりご機嫌を直して夕食の支度をしてた。妙な所で子供っぽいんだ、その女という人間はさ。

 女はよく歌を口ずさんでいた。出鱈目で、楽しい歌だった。何を歌っているのか聞くといつも小首を傾げて、知らないって言うんだ。俺が笑うと心外そうにちょっと怒って見せるんだが、すぐにまた続きを歌い始める。アトリエには滅多に入ってこなかったんだが、例の月の絵を描いている間はいつもアトリエの端っこで、カンバスの裏側を眺めながら、小さい声でずっと歌ってた。その歌を聞きながらアトリエにこもるのは、存外悪くなかったんだよ。

 それで、そう。女と過ごした最後の日は、明るい満月の夜だった。いつもよりずっと月が大きく見えてさ。明るくて、神秘的で、いっそ怖いくらいだった。とても良い夜だから、海まで行こう。砂浜からあの月を眺めよう。そう、女が言ったんだ。家の近くには砂浜があってさ。二人でそこまで歩いて行ったんだ。砂が綺羅々々しててさ、空には大きな月。海には輝く波。幻想的で、圧倒されちゃってさ。黙って、凝っと眺めてた。世界には女と俺と月だけがいてさ、後の全部は光り輝く幻でさ。あんなに綺麗な光景、屹度もうこの世のどこにもないと思う。だから、だからなのかな。女が言ったんだ。うん、決めたよって。私は月に行くことにしたよ、って。俺、わけがわからなくてさ。ただ、波の中に入っていくその女が、光の中に消えようとしている女が、ただただ綺麗でさ。女の姿が完全に波に隠れて、ようやく我に返って俺も波に入った。夢中で泳いで、女が消えた辺りを必死で探したけど、どこにもいなくて。それで、それっきり。捜索願も出したけど、結局遺体どころか、身に付けていた物も何一つ見つからなかった。莫迦だよな。月に行ってしまったら、もう月が見れないのにな。
 後から聞いたんだけど、その頃、いろんなことがうまく行ってなかったみたいでさ。俺、女と一緒の時以外はほとんど外に出なかったんだけど、いろいろ世の中も変わってたみたいで。俺の絵だけじゃ食べていけるかどうかのぎりぎりのとこだったんだよ。あいつ、ほら、変な女だからさ、心無い言葉も沢山浴びせられて、それで莫迦だから、全部真に受けてさ。俺はそんなこと全然知らなくて。話してくれたらよかったのにって、今更遅いことばっかり考えてしまうんだ。

 だからこうして俺はさ、莫迦な男はさ、満月の度にこうやって空を眺めるんだ。こっちは本物の莫迦だよ。勉強も出来ないし、絵を描く以外に脳がない。顔もそんなにいいわけじゃない。一番傍にいた筈の人の苦しみさえ、察してやれなかった。それでも男は月を見上げているんだ。あの変な女が、莫迦な女が、普通じゃない女がさ、向こうで同じように俺を眺めているような気がして。莫迦だろう。結局月ではなくって、女に見蕩れているようなものなんだから。つまりさ。
 俺はずっと、その女が好きだったんだ。

       

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