Neetel Inside ニートノベル
表紙

脳内アリス
Hope-2:犬塚マチ(いぬづかまち)

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 次の依頼主はなんとも変わった人間だった。いや、基本的に僕の依頼主は変わっている。ややこしい願いを持つ人というのは大概、ややこしい人なのだ。たまにまともな人、というと他の人に失礼だけれど、が依頼主になることはある。でもそれも結局はややこしい人に巻き込まれた結果であることは少なくない。
 今回はいつも通り変人だ。
「いや、それがですね! ええと、うん、とりあえず聞いてください!」
 犬塚マチというらしい女の子は飛び上がりながら両手も突き出して精一杯に僕に訴える。
「はい、なんでしょう」
「最近わたし、困っていまして。それはもうとんでもなく! さながら、卒業式で折角生徒代表として答辞を読むことになったのに前日に原稿である紙を無くしてしまったレベルですよ!」
 妙にテンションが高い依頼人は、中学生だった。制服は黒に近い紺色のセーラー服のようだ。胸に赤いリボンがあるのが特徴。
 小さな体には溜めきれないエネルギーがあふれんばかりに沸いている年頃なのだろう。いや、しかし僕が中学の時はもう少し落ち着いていたか……。話すたびに全身を使っているのに、息一つ乱れないというのは地味にすごい。
 ボディーランゲージが母国語みたいな人だという感想を持った。
「それは困りましたね」
 実際、何が困っているかはさっぱりわからない。比喩から想像するになにか提出期限の迫っているものでも無くしたのだろうか。
 プリント、は流石にチープすぎるか。宿題とか?
 でも、言われればそりゃやるけれど、何でも屋みたいなことはしたくないんだよな。自分でできることを報酬を対価として代わるという仕事とは違うから。
「で、依頼の詳細を窺いたいのですが」
「よくぞ聞いてくれました! それはですね……なんと、殺されそうなのです!」
 胸を張って自慢するように言う。
「へぇ、そうですか……ってえええ?!」
 虚を突かれて、僕は思わず動揺を口に出してしまった。
『うるさいわね。不快な声が不必要に響くんだけど』
 それをきっかけにアリスが起きてしまった。アリスも睡眠はとるみたいで、しかも僕の中にいるときでも僕の睡眠のリズムとは一致しない。宿主とはやはり独立しているみたいだ。けれど、宿主の感情の揺れなどが彼女にとっては目覚ましのアラームのようにうるさいらしい。
「だって、あの比喩で殺される内容だとは思わないだろ!」
 何気に日に日に罵詈雑言の程度が上がって言っている気がする。寝ているのを邪魔したせいもあるか。
『そんなの、貴方の矮小な脳みそが勝手に誤解しただけでしょ? そのみそ賞味期限切れてるんじゃないの? ほら、新しいのと交換しましょう』
「新しいのなんてどこにあるんだよ! 例え残念でもこれが唯一無二の僕の脳みそだ」
『市販のみその方がよっぽど上等だろうけれどね。適当なスーパーで買ってみたら? 新しいみそよ! とか言ってどこかのアンパンのごとく投げつけてみたい気もするわ』
「僕の頭は着脱可能ではないんだ」
『そんな機能もないなんて、ますます欠陥品じゃない』
「んなこといったら人類皆欠陥品だろう」
『完全な人間などいないということが、これで立証されたわね』
「絶対何も立証されてない気がする」
 アリスの理論は、今目の前ではねている犬塚なんて目じゃないくらい飛躍の度合いがすごい。
『ま、どうでもいいわよそんなこと。さっさと詳細を聞きなさいな』
 そして、自分の気が済んだないし飽きたところで投げるのも彼女らしかった。
「分かってるよ……」
 そこそこの付き合いを持って改めて思うけれど、アリスは自分が面倒だと思えば躊躇なく切る。簡単に言えば性格が悪いという一言で片付くが、口に出せば……あとはもう察してくれ。
 こうしてアリスに聞こえないようにという強い意識の下で考える分にはアリスに僕の考えは届かない。だから思うだけはタダだ。
 さて、さっさと行動を起こさないとまたどやされるから、アリスの言う通りに詳細を聞こう。
「で、誰に殺されそうなんですか? 具体的に分かると助かるのですが」
 犬塚マチは待ってましたとばかりに目を輝かせる。
「分かりますよ! それはもう、分かりすぎて逆にわけわかんないレベルに知っている人です」
 自分が殺されそうだというのに全然恐れる様子もなく声を張っている彼女は、元気というのとは違う何かを感じる。まるで他人事、それも自分自身とは全く関係ない人間が殺されそうになっているみたいに。にしたってそこまでテンションの上がる人はいないだろう。
 身近……というと両親か、あるいは親友かもしれないな。だが、なんだか常識的な予想はどうにも外れる気がしてならない。
「それは、誰なんですか?」
「私です! 犯人は犬塚マチ、お前だ! いや、私だ!」
 そう言って、自分自身を指さす犬塚。
 やっぱり予想は外れた。

     

「いえいえ、真実はいつもひとつなんですよ! 残酷にも、犯人は私なのです」
 彼女は言う。
「知らない間に屋上にのぼって飛び降りかけていたり、首つり自殺をしていようとしたり、手首をきってお湯の中に浸していたり。それはもう、たかが十数年の人生ですが、濃密な命の危機を幾度となく体験しているのですよ!」
「はぁ、そうですか」
「そうなんです!」
 無意識のうちに自殺をしていると、犬塚は言いたいらしい。今までは死の一歩手前で何とか踏みとどまった。だが、それはこれからも大丈夫という保証ではない。
『どうせ、二重人格だとか夢遊病だとか、下らないものでしょ。さっさと終わらせるわよ』
「ああ」
 アリスの言う通り、きっと彼女は多重人格であったり夢遊病であったりなのだと思う。僕たちが駆り出された理由も分かる。アリスが居る僕であるからこそできることがある。
『だから頼むぞ、アリス』
『はいはい、分かってるわよ。面倒くさい』
 犬塚の方へ寄る。
「では、少し調べたいことがあるので少し指を額に当てさせてもらってもいいですか?」
「指? 別にかまわないですけども、でもいったい何の調査ですか? もしかしなくてもそれはセクハラに準ずるものではないかと、ビビビと来ちゃっている私が少なからずいるのですけども!」
「精神的なものの可能性があるので。ちょっとした催眠だと思えばいいですよ」
「それをきいて胡散臭さがウルトラスーパーデラックスに跳ね上がりましたよ! 催眠という言葉に淫猥の影を感じるのはわたしだけではないでしょう……!」
「いえ、貴女だけだと思います」
 どうしよう、普通に面倒くさい。大体、淫猥なんて微妙に難しい単語を何故中学生が知ってるんだ。思春期を思えば自然だとも言えるけれど、その他の言葉のチョイスがどうにも知識レベルが中学の平均レベルかそれ以下に感じる。もしかしたらこの子は変態なのかもしれない。
『もしかしなくてもきっとそうだと思うわよ』
 頭の中で口をはさむ奴がいた。
『どうしよう、変態を相手にしたことなんてないぞ』
『毎日向かい合ってるじゃないの』
『それ鏡だろ。決して僕は変態じゃないが、それ鏡だろ』
『あらびっくり、正解よ』
『とてもとても嬉しい限りだ』
『先に答えを言えるようになるとは。貴方も成長するのね』
『そりゃあどうも。そもそも基礎的な問題として、どこかの誰かさんよりも常識はあるつもりなので』
『確かにこの犬塚とかいう子よりは、まぁ、ハナ差くらいで勝ってるでしょうね』
『競馬で例えないでくれるか? つうか20センチくらいしか差はないのかよ』
 当然ながら、どこかの誰かさんとは犬塚のことではない。20センチが常識度でいって実際にどれくらいかは知れないが、そういう例えをしている時点で思慮に欠けるというものだ。
『ところで、目的ついでに彼女の残念な性格も治せるけどどうする?』
『いや、依頼以外はしなくていい』
『そう、分かったわ』
『よし行くぞ』
 頭で意気を入れて、今度は犬塚に話しかける。
「大丈夫、セクハラじゃないですから。すぐ終わります」
 ぴょんぴょんと跳ねながら、イタズラを仕込んだ子供のような企んだ目でこちらを見てきた。
「ほんとにほんとにほんと?」
「嘘だったら針千本飲むので」
「オッケー、了解です!」
 このような会話を交わして、僕は犬塚の額に触れた。
「んじゃあ、よろしく」
 アリスが彼女の頭に入っていく。
「精神的なものだったら、適当に良いようにしておいてくれ。分かってると思うけど、多重人格ならその人格とまず話し合えよ。いきなり暴力沙汰は依頼人によくない」
 既にアリスは犬塚の中に入っている。だから僕は口に出して言った。
 犬塚はぴたりと立ったまま動かない。あれだけ活発だった口もぴくりともしていない。侵入が成功した証だ。だからきっと、犬塚の耳を通してアリスに僕の声が聞こえていることだろう。
 と、思った矢先。
「私よ、早く戻して頂戴!」
 動かないはずの口が声を発した。口調からしてアリスが動かしているだけなのだが、おかしい。まだ入って数秒だ。
「わかった!」
 異常事態が起きたと判断し、素早く犬塚の頭に触れる。直ぐに知っている感覚が体に伝った。だが直後、続いて指先に慣れない何か黒い違和感を感じる。
「っ?!」
 思わず手を放す。静電気を発したように指先に痛みが走る。
『……今のは放して正解だったわ』
 帰ってきたアリスが僕に話しかけた。先ほどからいつもの余裕しゃくしゃくの彼女らしくない焦りを感じる。
 彼女の感情も僕に伝わる。いつもは僕に感情を見せまいと気を張っているのだろう、全くもって感じることはない。今は見せないなんて悠長なことを言ってられないという、そういう状況に違いなかった。
 身構えざるを得ない。
『どうしたんだよ』
『どうもこうもないわよ……』
 僕は犬塚の方を見直す。そうして、異変に気付く。
『なぁ、これって』
 アリスが抜けたというのに、未だに直立しているのだった。
『ええ』
 美涼花々がそうだったように、普通一度意識を奪った人間はアリスが抜けてからも再起動までにラグが生じる。美涼のときにはその後の処理があったから余計に時間を長引かせるようにもしたが、どうしたって切った回線を再びつなぐ時間が少なからず必要なのだ。
 立っているのなら、崩れ落ちる。
 他人格だって同じことだ。アリスが脳を支配してしまえばどの人格だって対抗できるはずはない。
 いや、仮に瞬間的に繋がったとしてもそれならば犬塚らしいあのバカげた、アホらしい駆けるようなトークが始まるはずなのだ。
 考えられることは一つ。
「けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!」
 犬塚がニタリと気味悪く嗤う。
 他人格でもない、精神障害でもない。
『来るわよ』
 彼女の中に、もっと違う何かが、いる。

     

「けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」
「どういうことだよこれ……」
 僕はたじろがざるをえない。
『おそらく私、のようなものなんでしょう』
 アリスは言う。先ほど見せた焦りはもう無いようで、しかし緊張は感じ取れる。
『精神体の一つだと思うわ』
 ギャップなんて可愛いものでは済まない。別物であることは明らかだった。見る限りは犬塚の容姿であり、聴く限りは彼女の声に違いない。ただ中身は別物だとはっきり分かる。気配としか言いようがないけれど、感覚としてはっきり分かる。
『じゃあどうすればいいんだよ。僕がお前を追い出す方法、みたいなもんなのか?』
『いいえ、違うわ。もしも犬塚マチの人格が貴方と同じなら、コントロールできてなければならない。あんな風に乗っ取られたりはしない。考えられるのは二パターン。適合能力がないだけなのか。それとも……』
『それとも?』
『彼女の中にいる例の何かの支配能が私なんかよりずっと高い可能性もある』
『お前を僕の中から追い出すより難しいって事か』
『あまり気に食わない比較対象だけれど、端的にいえばそういうことになるわんr』
『なんだよそれ……面倒なことになった』
 頭を掻く。いずれにせよ、対処法は分からない。もしアリスより支配能の高いものだったら、僕の頭に入ってこられたときに非常に面倒くさいことになる。
「おいおい、あんまり放置しないでくれないかなぁ。俺ってば泣いちゃいそうなんだけど」
 そのとき声がした。頭の中に意識がいっていたから初めは誰が言ったか分からなかった。しかし、落ち着いて考えてみれば消去法からして一人しかいない。
「けけけけっ」
 いたずら好きな子供のような調子で嗤っている彼女。だがあまりにも気色が最悪で、とかく人間味に欠けていた。既に人間のそれではない。
 あきらかに別の何かが喋っている。
「あの、犬塚……さん?」
 僕はためらいつつも声をかけてみた。これといって迅速な反応はなく、若干聞こえた一切合財が空耳かと疑い始めたものの、疑念は数秒後にはかき消されることになる。
「けけけけけ……。はぁーあ。いやいやいや」
 長く続いた単音を発するのを止めると犬塚は、何者かは喋り出したのだった。
「よもやこんなに早く出会えるとは。おかしくておかしくてしょうがない。全く以て、おかしすぎる。運命とか必然を信じてしまいたくなっちまうよな」
 幼い声色には似合わない言葉選び。性別もそぐわないように聞こえる。
「なぁ、アンタ。兎宮とか言ったっけか」
「え? ああ、はい」
「さっき俺、いや、こいつの身体に入ったのは誰だ?」
 どきりとした。そして同時に確信する。さっきの指に走った感覚はこいつだ。アリスの緊急事態とはこいつのことだったのだ。
『正解よ。こいつに追い出されたの』
 脳内で首肯しているのがわかった。
『でもどうする? お前の存在がばれてるかもしれない』
『どうもこうもない素直に言うしかないでしょう』
『いやでも……』
 ためらいつつも犬塚に視線を戻すと、鋭く睨む形相からはなたれた眼光が刺さった。
「誤魔化すなよ? いいか、入ってきたのはお前じゃないことは分かっている。加えてお前の中に何かがいることは分かっている。そいつが誰かを聞いているんだ」
 はぐらかしようがない。何者かは、自分自身がそうであるがゆえに、アリスのような実体のない精神体がいることを知っている。
 だからこそこいつはアリスなんていう異物が自分のテリトリーにいきなり侵入してきたにもかかわらずこうして平然としている。人の脳に侵入するものがこの世に存在すると知っているから。
「わかったよ」
 観念し、僕は脳内へと語りかけた。
『なぁ、アリス』
『何よ』
『あんまり気が進まないけどしょうがない。後は任せた』
『そう、わかったわ』
 承諾を受けて、僕の身体は崩れ落ちる。それこそまさに美涼のごとく、糸が切れた人形みたいに全身の筋肉を停止させたように。
「おい、どうした」
 犬塚の中の何者か派僕の様子を見て不審がっている。しかし返答することはできない。既に身体とのリンクは切れている。
 だが直後、身体は揺らりと揺れつつも立ち上がった。
「お前……!」
 どうやら察したらしく、犬塚の中の何かは息をのむ。
 僕の身体は芯を取り戻したようにしっかりと姿勢を直している。顔には僕らしくない不敵な傲慢さを垣間見せる笑みを浮かべていた。
 僕の口が喋る。
「ええ、初めまして。私がアリスよ」
 すると、一瞬驚いた様子を見せた何者かはニタリと嗤い、同じく名乗った。
「初めまして。俺はマッドハッターだ」

     

『マッドハッター?』
 僕は首をかしげる。
『不思議の国のアリスの?』
 イカレ帽子屋と日本では言われる。帽子屋の職業病として水銀の神経汚染があって、それゆえにイカレているというのが通説だ。不思議の国のアリスの登場人物。知らない人の方が少ないお話だ。とはいえ、マッドハッターを詳細に記憶している人というと珍しいだろう。
「私がアリスだからって、気を遣わなくてもいいのよ? いいから本名を教えてちょうだい。山田太郎さんでも、佐藤次郎さんでも笑い捨てたりしないから真実を教えなさい」
 不機嫌そうにアリスは言った。対照的に不敵な笑みを浮かべるのはマッドハッター。言われてみれば確かにマッドというのは失礼ながら納得する。どこがハッターなのかは不明だが。犬塚の実家が帽子屋さんなのかもしれない。
「自意識過剰というものだよ。例え君の名前が山本花子さんでも田中順子さんでも俺の名前はマッドハッターだ。しかし、おかしいな冗談で言っている風には見えないが。アリスも冗談という言葉を覚えたということか」
 その言葉に違和感を覚える。だがどこがおかしいかまでは気付けなかった。
「どうやら分からないみたいだな。だが、俺は親切だ。至極まっとうな人間だ。だから教えてやる。俺はお前と同じ存在だ」
「同じ存在? 精神体ってこと?」
「言葉にすればそうだが、しかしその単語だけでは説明しづらい所があるちなみに言えば、俺がマッドハッターであり、お前がアリスであること。これは全く無関係というわけでは別にない」
「でも貴方だってさっき、初めましてって言ったじゃない。初対面でしょう。何の関係もない」
「確かにあったのは初めてだ。どうもはじめまして。でもよ、関係はあるんだぜ。よくあるだろう? 初めて会った同士で、実は同郷出身でしたとかさ。言ってしまえば俺たちはそんなもんだ。同じ存在であり、同じ起源なんだ」
「何言ってるのかさっぱり分かんないわ」
 アリスはしびれを切らした。だがどうやらマッドハッターは何かを知っているようで、僕としてはもっと話を聞きたかっただけに残念だ。後で聞ければいいんだけど、きっとそれはかなわない。
 これから僕たちは敵同士になるのだから。
「どうでもいいけど、依頼を片付けさせてもらうわよ。マッドハッター、貴方この子から出て行きなさいな」
「断ると言ったら?」
「もちろん、実力行使ね」
「そいつは良い。俺も、見た目男のくせに女言葉をしゃべる気持ち悪さにイライラしていたところだ。サンドバッグがあるとなれば断る理由は無い」
「なによ、見た目女の子のくせに男言葉喋る人間に言われたかないわね」
「お互い気に食わないんなら何よりじゃねぇか」
 息を飲んだ。今回は実際に自分が戦うことにはならなさそうだけれど、しかしアリスが使うのは僕の身体。
 一方は不機嫌そうに、一方は不敵にお互いを睨んでいる。

     

 戦いの場は、道を少し外れた路地裏。美涼と会った道の、そこに立ち並ぶ建物の裏手と言えよう。しかし、上手く区画を整理していなかったためかはたまた誰かが狙ってそうしていたのかはともかく、路地裏に似つかわしくないそこそこの面積が広がっている。とはいえ、人が両手を広げてすれ違える程度の幅しかないが。
 両者はにらみ合い、早速膠着状態となっている。下手に動けないというのは、恐らく戦い慣れているからこそ分かるのだろう。僕なら既に相手に挑んでいるか、逆に後ろを向いて逃走を図っている。
「はっ!」
 初手を打ったのはアリスだった。右足を軸にしてトーキックのように直線的に相手の顎を狙い、蹴りを繰り出す。だが死角を突いたはずの一撃は、容易く右手に止められる。
「背が低いってのもアリだよな。おかげで足の挙動も丸見えだぜ」
 そうして犬塚は膝を曲げて足払いをした。残った軸足を払いのけ、僕の身体は支えを失って地面に倒れる。……というところで僕の身体はとっさに手をついて身体を跳ねあげ、機敏に体勢を直した。加えてそれだけに留まらずそのまま浮いた軸足をより高くまで上げ、体の構造上これ以上ないという高さに達した瞬間振り下ろす。
 俗に言う踵落としである。とはいえ、身体のバランスが崩れている状態で繰り出せる奴はそう居ない。犬塚の背の低さもあるだろうが、にしたって身体を相当跳ね上げないと無理だ。
「うおっ」
 女の子らしくないオッサンみたいな驚愕の声があがる。それでも瞬時に両腕を頭の上に組んで受ける所は流石と言えよう。しかし、男子高校生の本気で振り下ろす踵落としを、女子中学生の身体が支えきれるはずはない。腕を介してはいるものの、衝撃は頭へと伝わって脳を揺らした。たまらず犬塚の身体はよろめく。
「とどめ!」
 振り下ろした脚を地面に下ろしたかと思うと、即座に僕の身体はこぶしを握った。そして上半身を強く捻り、ねじ切ったところで止まることなく反動を利用してフックの軌道で殴る。
 それも顎を。
 ただでさえ先ほどの踵落としでふらついている。だが、顎を貫く衝撃はそれをもはるかに凌ぐ。首を軸にして顔だけが先に右に吹っ飛ぶように回る。遅れて、首が回りきれないとことまで来たところで身体が回る。
「くっ……あ……」
 呻き声を上げたかと思うと、そのまま犬塚はぱたりと倒れた。
「はぁっ、はぁっ。勝った……わよ」
『お疲れ』
 言うなり、倒れた。今度は僕の身体が。アリスが僕と人格交代をしようとして身体とのアクセスを絶ったということではない。
 身体に、限界が来たという話だ。
 僕の身体にはそんなに筋力はない。先ほどのようなはちゃめちゃな動きを可能にしているのは、アリスが僕の脳に働きかけて筋肉のリミッターを解いているからなのだ。もちろんアリス自身、戦い方を知っているので負担を減らしてはいるのだろうけれど、軽減したところでで平常時の僕の筋力では足りないようだった。
 だが所詮それは筋肉に無理をさせているということであり、ダメージは免れない。
 もうこれが精一杯。
「……ねぇ、そろそろ交代してもらえない? 全身が痛いんだけど」
 脳内に語りかけることも忘れ、アリスは独り言のようにつぶやく。僕にも聞こえているから別にいいけれど。
 短時間でも、それだけ消耗したのだ。
『気は進まないけど、しょうがない。変わってやってもいいよ』
「じゃあ、よろしく」
 そうして意識を切り替える。
「痛い痛い痛い!」
 僕は主人格に戻ってすぐに後悔した。全身の筋肉が悲鳴を上げているのがよく分かったのだ。立ち上がることも、身体を起こすことさえできずしばらく悶えていた。
 マッドハッターだって、きっと犬塚の身体のセーブを外していたはずだ。だからきっと目覚めたころで起きることもままならないだろう。しかも僕より筋力の無い身体だ、ダメージはずっと大きいに違いない。
 しかしもう戦いの心配はないとはいえ、なんたって痛い! 人間はまず呼吸をしている。心臓が動いている。だから常に振動が加わる。お分かりの通り、何もするつもりがなくても文字通り常に痛いのである。
「ああ、僕はもうだめかもしれない。良い人生だった……」
 呟いてみると、何やら頭からやかましい声がする。
『何言ってるのよ! 男のくせに情けない!』
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ……」
 ぼそりというだけ言うとまたアリスが騒ぎ始めたので、僕は痛みを利用して気を失ってみることにした。
 がくり。

     

「おーい。おーい」
「う、うーん。誰だ……って、あでででででででででででででで!」
 誰かにつつかれて、僕は意識を取り戻した。その誰か、を確認する前に全身を筋肉痛が襲う。
「やっぱりなぁ。まだまだ。本当の勝ちを解っちゃいない」
「その声は……犬塚、いやマッドハッターか」
 表面上は幼顔。しかし裏の表情は別物だ。
「ご名答。なら、次は今の状況を考えた方が良いぞ。当たり前の話だけどな、今こうやって首をしめればお前は死ぬわけだよ。さてどうしようか」
 女の子の、細い腕が僕の首に伸びてくる。首の外周全体をつかむにはやや足りなそうだったと記憶しているが、さして問題じゃない。人には頸動脈というものがあり、そこさえ押さえればあっさりポックリだ。
「……なんで、お前は動けるんだ……」
 呆れた声が返ってくる。
「おいおい、少しは考えろよ。頭まで筋肉痛か? あほらしい。単純明快。お前ほど体を酷使してないってだけだよ。もちろん多少は筋肉痛はあるし、痛覚を止めてはいるけどな」
「……」
 そういえばこいつは攻撃を受けていただけで、攻撃自体ほとんどしてこなかった。唯一、足払いだけ。しかし僕だって手数が圧倒的だったわけじゃない。初手の蹴り、踵落とし、正拳付き。これだけだ。
『成程、してやられたようね』
『アリス?』
 考えていると、アリスが話しかけてきた。
『踵落とし以下の流れは全て、マッドハッターに足払いをされたから。逆に言ってそうされなければ私は踵落としをしなかった』
「誘導された?」
「おう、その通りだ」
 僕は口に出して言った。するとにやりと犬塚の顔が笑う。
「とはいえ空中で踵落としなんて真似をすると思ってなかったがな。あくまで攻撃に負荷のかかる状況を作ってただけだった。結果的に思ったより早く済んでよかったよ。空中での踵落としなんて技を完璧にやろうとすれば身体には相当な負担だ。あの威力を出すとなればな。かなりの強力な技――だが、もろ刃の剣だ。つけ入るスキはあることを知るといい」
『想像よりずっといやらしい奴ね』
「相手は自分のダメージを防ぐことはできない。動いているだけでダメージを食らっている状況。だが攻撃力は一級品だ。避けることは難しく、一部位で受けると損傷は大きい。だがしかし、数撃を受けきれば俺の勝ち。同士撃ちでも回復が早ければ勝ち。ただ単にそれだけの話さ」
 マッドハッターはふっ、と一つ息をつく。まだ、両手の標準は僕の首であり、迂闊に動くことはできない。第一、タネ明かししてしまった人間を生かしておくわけがないのだ。
 やばい、殺される。
「いだ、いだ、いだだだだだだ!」
 でも、やはり動けない。
「まぁ、そう急くなよ」
「今急がなかったら黄泉の国に着いちまうだろうが」
「いやいや、まだお前は現世という地獄に残ってもらわないとな」
 ふいに、ぱっと手が解かれる。
「お前というのは、お前じゃないぞ。アリスの方だ」
『私?』
「いっそ、この身体を殺せるのならお前も殺しちまってもいいんだがそうもいかないんでな」
 この身体を殺す……それは僕の身体じゃなく、犬塚の身体を指している言葉だ。ということは。
「犬塚の言ってた知らない間に自殺しているってもしかして……」
「ああ、そうだよ。俺だよ。というか、本人が違うなら俺しかいないだろう。冷静に考えてさ」
「何してるんだ。お前も死ぬんだぞ」
「確かに現実で言えば死ぬな。間違いなく。けれどな、ひとつ教えておいてやるよ。世界は、何も現実ばかりじゃない」
「現実以外に何もないだろ。妄想の中にでも逃げ込めっていうのか」
 にしたって、死ねば空想も作れやしない。
 マッドハッターは、くくく、と音を漏らす。
「妄想……当たらずも遠からずってとこだな。ま、アリス自身そこんところ忘れてるみたいだから今回はここまでということで」
 そういって僕に背を向けて歩き出した。引き留めるように僕は言う。
「ここまで?」
「ああ、さようならだ。また会う日まで。と言いたいが、多分お前らは納得してはくれないだろうなぁ」
「当たり前だ」
 意味不明を不明のままになんてできるはずがない。
 しかし、何故かこいつと話しているとなんでも先回りされる気がする。本来は僕が「そんなの納得できるはずがないだろ」というべき場面のはずなのだ。
「だから、だ。一つヒントをやる」
 胸中を知ってか知らずか、奴は話を続ける。
「アリス、お前は俺と同じ場所から生まれているはずなんだ。だから俺がこの身体――犬塚マチを殺すことを本来お前は理解できる。もし、全く以てわからないのならば欠損している。記憶かは知らない。だが、重要な何かを失っているだろう。お前はお前が何者か、まずそれを知った方が良い」
『私が……誰?』
「アリス、俺はお前の願いを知っている。何を望んでいるのかを知っている。お前が人を助ける理由を知っている。俺はお前と、約束をしたからな」
 まるで暗号のように、単語自体の意味は理解できるけれど、核心の表面だけをなぞるような言葉にむずがゆさを覚える。
 僕は知らない。だが、こいつの言うことを信じるならアリスは知っている。
『お前、分かるのか?』
『……いいえ、全く』
 予想通り、アリスは知らない。知っていたらそもそも話の流れはこうなっていないはずだからだ。
「人を助ける。その理由を、その約束を今一度思い出せ」
 そこまで言って、奴は去って行った。追いかけようにも体は動かないし、ただ見送るしか術はない。路地のひんやりとした温度が僕の背中を冷やす。
 今回は本当に最後まで訳が分からない依頼だった。本当はただの妄想かもしれないし、アリスを跳ねのける力を持った特殊な二重人格なのかもしれない。しかし、やっぱりちょっと気になる。
 それは、僕自身疑問に思ったことがあったからだ。
 何故、アリスは人を助けるのか。
 僕は望む願いがある。だからこそ対価として人を助けている。自分には理由がある。でも、アリスには全くない。金を得るわけでも名声を得るわけでもない。第一、現実にアリスとして身体を持っているわけではないのだから金や名声などゴミに近い。
『お前ってさ、何のために人を助けてるんだよ』
『さぁ、そんなこと知らないわ。貴方は呼吸するたびに息を吸おう、吐こうって考えるの? しないでしょう? 私にとって人助けというのはそういうものなの。理由をつけるものではないわ』
 アリスにマッドハッター。一見中学生の妄想をこじらせたような名前ではあるが、彼女と奴のこの不思議の国のアリスの登場人物という関連性には意味があるのかもしれない。

       

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