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一旦筐体の前を離れ、深呼吸をした。
集中の余り視野狭窄になっていた俺が悪いのだ。悔しいけれど。
あんな、とんでもないものを、この子は狙ってたのか。ずっと。3万円も費やして。あんな、獲れる保証もないものを。
――かっこいい。
再び筐体に戻ると、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。俺は薄く笑って首を2回横に振った。気に病むことじゃない。今や獲りたい気持は俺も同じなんだから。
俺は200円入れて、勝負を再開した。狙いはこれまでどおり、俺から見て右奥の小高い丘のような空間に鎮座しているムームーキャット。
奴がこの筐体の王とする。ならば王を倒す。
一縷の望みはある。可能性は潰えていない。ディスプレイとはいえ、アームの可動範囲外じゃない。届かないのなら打つ手はないが、幸いにも微かに届く。アームを右側いっぱいまで動かし、その後前進。これもギリギリまで。そして手を離す。問題はここから。
ムームーキャットの頭に引っかかる。ビクともしない。アームが弱すぎるんだ。これでここまでずっとやられた。店側にとって獲られるのが想定外、ということが分かった瞬間に開き直れたけれど、状況は何も変わっていないんだ。
狙うはどこだ。ともかく頭はダメだ。1ミリも動いていない。腕の隙間から引っ掛ける? ダメだ腕が短すぎる。女子に媚び売りやがって。上手い人なら狙えるかもしれないが、俺にはとても出来そうもない。それとも奥の奥まで挿し込んで、開くアームの力で転げ落としてやるか。いやそれもダメ、スペースがなさすぎる。
「タグ……」
隣で言葉をこぼした彼女に目をやった。表情は苦悶に満ちていた。悩みに悩んだ末にとうとう言えた、というような。
「…だよねぇ」
尻尾のタグの存在には気付いていた。彼女が言ったのは、タグの紐の隙間を狙う方法。上手いこと爪の深くに引っかけられれば、事態は大きく好転するかもしれない。クレーンの戻る力で穴に一気に近づけ、不可能を可能とすることが出来るかも。
「…だけど」
紐の隙間はせいぜい半径2センチくらい。アームを確実にその小さな空間に誘導するには、どれ程の技術、あるいは投資が必要なんだろうか。想像するだけで笑えてくる。乾いたやつだ。
だけどそれをやらなくちゃ。できっこないけどやらなくちゃ。"ダメ元"っていい言葉だ。さらに開き直れる。
100円玉を1枚入れる。そしてもう1枚。手首を回す。首を軽く捻る。膝屈伸をする。
アームが動き出したあと、俺は大事な事に気がついた。
彼女はこの台に3万も飲ませて、ムームーキャットを獲れるとしたらタグしかない、と突き止めたわけだが、彼女の技術では紐の間を狙うのは難しかった。そして彼女は俺に期待した。何を期待していたのか。紐の間にアームを引っ掛けることだ。それならば、最初から俺にそう伝えてくれても良かったはずだ。なんで伝えなかったのか。
さっきの表情が全てを物語っていたんだ。それなのに、そういう、見た瞬間にピンとくる勘の良さが俺にはない。
それはつまり、控え目な優しさだった。
自分の経験した苦闘の道を俺に歩ませるのを躊躇ったんだ。半径2センチの穴を狙う難しさ、厳しさを、身を持って知っているから。もしかしたら、別の解法を見出してくれるかもしれないという期待もあったのかも。その期待には答えられなかったけれど。
ただ、ひたすらに愛おしい。可愛い。優しさから何も言わなかったのに、結果的に俺が5,000円も無駄に飲ませちゃうことになっちまうあたりが特に。本当に不器用な子だと思う。だがそれがいい。財布は痛い。
『よそ見してんじゃねーよ、ぶっ殺すぞ』
言われた瞬間から、いつかこうなるのが約束されていたような気がする。あの時はそう思えなかったけれど――。
「あっ、あっ!」
彼女の興奮した声にハッとすると、紐の間にアームが潜り込んでいた。俺も腰抜けそうになった。別のことばかり考えていたのになんで掛かってるんだ!?
とにかく、掛かった。そしてアームの戻る力で、ムームーキャットは遂に玉座から引きずり出された。何か釈然としないけれど、考えすぎないのが却って良かったのか。
彼女は喜色満面で俺の肩を掴んできた。まるでもう獲れたみたいなリアクションだ。まだ他の人形と同じフィールドまで来ただけなんだけど、それだけでも確かに大前進だ。残り2,600円。回数にすると13回。いける気がしてきたその時だった。
「困りますね、そういうことをされると――」
店員が来てそう言った。
もしかして、ディスプレイって狙っちゃいけないの?