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ハイスクール高校
ハイスクール高校/Unproducing man.01

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ハイスクール高校

 Unproducing man.01


  俺はもう美術室の四角い椅子の上で,半日以上うなり続けていた。

「石の上にも三年というじゃない、元気出しなよ、吉岡」
と言いながら、美術部顧問の石橋先生が俺の横へとやって来た。吉岡亨(よしおか/とおる)こと俺はその言葉を聞いて俯く。すると頭をがしがしと鷲づかみにされる。この先生のこういう所が好きだ。こうするだけで簡単にこころを落ち着かせて、全てが許されるような気分になる。その瞬間、俺の頭の中には黄色くて暖かな、ふわふわとしたイメージが浮かぶ。俺はぱっと顔色を明るくし、先生に向って叫ぶ。
「出てきました!先生!俺、描けそうです!」
先生はそう、と漏らすと一歩下がって、描いてみな、と言う。そして俺の腕は、25号の真っ白なキャンバスを前にして、活き活きとしたラインを描き出す。・・・はずだった。
「先生」
「どうした?もう終わり?」
「見られていると思うと、緊張しちゃって」
「そう。・・・それは悪い事をしたね、吉岡」
そして溜め息を吐くと、石橋先生は部屋から出て行く。あるいはその溜め息は俺の幻聴だったかもしれないが、また幻滅されてしまった。そしてその後ずっと残って描こうとしたが、だめだった。結局何を描くことも出来ず。俺はとどのつまり、何も生み出す事ができない男だ。蝉時雨が和らいで、夏もそろそろ終わりに差し掛かろうとしている頃のこと。白いキャンバスに穴をあけ、何もかもを捨てて、逃げ出した。

     


 街まで走る。陽はとっくに山の向こうに降りてしまっている。走り疲れると息を切らして立ち止まる。隣には店の窓。そこに映っていたのはおよそ全ての負の感情を浮かべた、泣き出しそうな男の顔。何故だろう、笑いが込み上げて来た。俺は道化だ。壊して逃げ出して、辿り着いたこの場所で、涙を浮かべながら笑っている。道化じゃなかったら何だと言うのだろう。

俺は自分の家に辿り着くと、玄関の鍵を開けて入りこむ。俺の家は1LDKのアパートだったので、泣き顔を誰にも見せずに済んだ。もしこれが前の実家のままだったとしたら、最悪な事態になっていただろうな。そう考え、ふ、と俺は微笑を浮かべると、力も無くベッドに横たわる。

―そんなだからお前は、何も産み出せずにいるんだ―

と、浅い眠りに捕らわれるかどうかという所で、頭の中で声がする。それは父親の声だ。辞めてくれ。勘弁してくれよ。何でいつまで経っても俺の邪魔をするんだ、父さん。

―お前など、消えてしまえ―

嫌だ、聞きたくない。こんな声、聞きたくない。

―ごめんね、ごめんね―

それは母さんの声。

―本当にごめんね―

やめてくれ。そんな事を言わないで。

―産んでしまって、ごめんね―

「やめてくれ!!」
と絶叫しながら目が覚める。おぼつかないまま、俺は立ち上がると、部屋の中を行ったり来たりしていた。意識が明確になると、俺は思い出す。そうだ、絵を描かなくては。俺は絵を描き出す。最初は良い。だがその内駄目になってしまう。いつも俺はこうなんだ。何をしても駄目で、続かない。昔から俺は習い事を沢山やってきた。だけど全て中途半端、投げ出してしまった。いつもそうだ。続かない。今日だって、キャンバスを目の前にして感情が爆発してしまった。気が付くと朝に成っていた。今日はたしか、始業式がある筈だ。だがそんな事を考える余裕は無かった。目の前に紙がある。ならば俺はそれを埋めなければならなかった。こういうのを強迫観念と呼ぶのだったか、どうだったか、よく思い出せなかった。父親の怒鳴るような、母親の悲痛な、それぞれの声がずっと頭の中で反響していた。

朝焼けの陽が窓の向こうの山の上から昇り、照り付いていた。

     


 長い休みがあけて、始業式が行われた。
美術室に大きな白いキャンバスが一枚あった。まだ絵の具も載っておらず、立派に使えたはずの白い紙のど真ん中には、男子高校生のこぶし程の穴ががっつりとあいていた。始業式が終わって生徒達が帰宅する頃、それを発見した美術部員の女子が携帯で撮影していると、いつの間にかその背後に居た美術部顧問が頭を殴りつけ、携帯電話を取り上げた。
「いだっ・・・!げっ、たかちゃん先生!」
そう言いながら、石橋貴子(いしばし/たかこ)は女の子の携帯をにらみ、不手際ながらも操作した。
「あっやべ、すまん。二階堂・・・全部消しちゃった」
その女の子は携帯を引っ手繰ると、画面を見つめてあんぐりと口をあけて叫ぶ。
「私の二年間の思い出が!」
うわああんと、ぼかすか石橋を殴りつけているこの娘の名前は、二階堂史絵(にかいどう/ふみえ)。140cm後半くらいの小さな、黒い髪が肩まで伸びた可愛らしい二年生の美術部員の、これまでで合わせて14個の賞を獲得した女の子。作品に広がりがあって多作な、文句無く実力もあり見所もある、言わば天才という名がふさわしい女の子だった。

今朝、学生達が登校してくる前の早い時間に、美術室に入って驚いた。吉岡のキャンバスに、たぶん誰かが殴った痕のような、大きな穴が開いていたからだ。というか、間違いなくその穴はその吉岡自身で開けたものだろう。彼は悩んでいた。彼は傷つきやすい、どこにでもいる普通の10代の若者だった。そんな彼がこんな天才的な女の子に笑いものにされた暁には、彼が抱えた苦悩という爆弾によけいな推進剤を投入して、導火線に火を付けるも同然だ。だから貴子はいま、この女の子が余計な真似をしないよう、事前に火を消し止めたのだった。貴子は問題のキャンバスを見つめた。

「二階堂、このキャンバス、誰のものだか判るか?」
二階堂は頭を縦に振り、そのキャンバスを振り返ると、石橋に向き直って言う。
「勿論ですよ。わかりませんか?白いようだけれど、よく見れば試行錯誤の跡。描き悩んだアトが見えますよね、という事は、犯人はいつも作品を描き挙げられない人です。そして、見てください。背後の木枠まで粉砕したこの大きな穴!相当イラついたんでしょうね。気持はわかります。私も一度はやってみたいですもの!こんな仕業、吉岡先輩にしかできないです」
「ああ、わかったわかった。もういい、それ以上言ってやるな」
貴子は深い溜め息を吐く。よく見てみると、なるほど観察眼鋭いこの娘の言う通り、彼のパンチはキャンバスを張る木枠まで叩き折っていた。
「二階堂」
「はい?」
二階堂の眼差しは純粋無垢な幼い子供の目だ。好奇心で満ち溢れていて、それだけにキズ付きやすいものの触り方というものを心得ていない。才能のあるこの子だからこそ、解からせてやらねば、解からせてやりたかった。二階堂の両肩を掴むと、
「いいか。お前の言う吉岡先輩の事だ」
そのまま背後に移動させ、
「は?い・・・?」
椅子に座らせてやる。そうするとこの小さい子の顔は貴子のお腹くらいにまで下がってしまう。貴子は中座になって身長差を埋めてやると、目線を合わせて見つめあう。
「吉岡は確かに、何も描けない男だ。いいか、それでも」
貴子は目に力を入れて言う。その瞳を黙って二階堂は見つめる。
「今のお前にはわからない事だろうけど・・・。人には必ずスランプに陥ってしまう時期がある。そんな時その人を助けてやれるのは、やっぱりその人自身だけだ。だけど、周りの人間がその人の状態を見て、笑っていたらどうだ?その人はどう思う?どんな気持になる?」
と問うと、いやなきもちになります、と小さく二階堂は言う。それをきいて貴子は大きく頷いた。
「そうだよな。・・・もう判ったか?私の言いたいことが」
はい、とやはり小さく返事をする二階堂。その顔は、俯いていてどんな表情をしているのかわからない。さてどんな反応が来るだろうか。この年頃の小悪魔ちゃん達は、それでも、と、自分の主張をしてきがちだ。自分の世界の物差ししか持たない、視野の狭い子供なので仕方が無いと言えば仕方が無いのだが。
「ごめんなさい」
素直に謝って来られると、どんな風に諭せば良いのか常々考えている教師としては、拍子抜けというか、腑に落ちない所がある。が、それでも良い。そんなことなんかどうでも良い。
「良いよ、謝らなくても。どうせ軽い気持ちで写メでも撮って、誰かに送ってやろうとか、そんな所だったんだろう?」
「はい・・・そうです。私、わかってました」
ふむ。貴子は二階堂を黙って見つめる。
「私、何となくわかってたんです。先輩が悩んでいる事、とか、いつも泣きそうな顔をして、美術室にいつも独りで居残って、キャンバスに向ってるのは、先輩が、頑張っているっていう事。でもその姿を見てたら、わたし、なんでだろう・・・、腹が立って来てしまって。いつも、私、先輩の事嫌ってる素振りばっか見せてました・・・」
二階堂の声は、身体は、小刻みに震えている。何という事だろう、このちいさな娘は、ちょっと私がプレッシャーを掛けただけで、その心のほころびを開き始めた。まさかこんなにもろい子だったとは。うん、うんと貴子は優しく頷いて、彼女の膝の上で組まれた手を撫でてやりながら聴いている。
「だめだな、って思ってたんです。わたし、これじゃだめだって思ってました。それでも、先輩のことを馬鹿にしたくて。どうしても止められなくて。さっきも、見つけた時に、友達にばらしてやろう、って、思って」
彼女の瞳から、大粒の涙があふれているのを貴子は見ていた。その告白は嗚咽混じりになってきた。
「ご、ごめんなさい。わたし、ほんとは。先輩の事嫌いなんかじゃ・・・」
貴子は彼女の頭を抱きしめてやる。
「うん、わかってるよ。二階堂は何も、なんにも悪くなんか無い。」
「で、でも、わたし、せんぱいのかげぐちとか、わざと聞こえるようにしてえぇ・・・」
貴子は苦笑いをする。そんな風にして吉岡の精神を蝕んで居たのか、この子悪魔ちゃんは。そりゃあ、彼だって荒むわ・・・。
「良い子だね、全部話してくれたじゃないか。二階堂。お前は偉いよ」
遂に声をあげて泣き始めたこの子は、きっと、今までその小さな胸の中に、罪悪感を積み重ねて来ていた。恐らく彼女は、懸命に絵に励もうとする吉岡の姿勢に妬ましさと、うっとおしさを感じていた。「どうせ何も出来ないくせに。」「頑張ってもむだなのに。」そんな彼女の心の中の暗い部分の処理の仕方が分からなくて、ずっと彼女は彼の事を小ばかにしていたのだろう。
「はいはい・・・もう泣かないで。」
「はっ、はい・・・ご、ごめんなさい」
彼女の髪を撫でてやりながら。
「謝んなくていいわよ。それって誰にだってあることだから」
「ほんと・・・ですか?」
「えーえ。もちろん。先生にだってあったわよ。そんな事、人生の中で2度や3度じゃ利かないわ」
ようやく彼女も落ち着いてきたようで、「うふふ。流石はたかちゃん、ぐすっ。伊達に長生きしてないですね。」と軽口を叩いた。こめかみに青筋が浮いたが、それは恐らく気のせいだという事にしておこう。それから暫く二人で話し込んだ後、はああっと、彼女は大きく息を吐いた。
「なんだか、すっきりしました。先生に怒られて、良かったです」
怒った覚えは無いのだが。ああ、最初にグーで殴りはしたな。

「おっほん」
という声が二人の背後から聞こえてきた。そこに立っていたのは、財満津(ざいまつ)教諭だった。堅物で知られているこの人物は、彼のクラス、つまり3年2組の担任を受け持っている。
「あー、お取り込み中失礼しますが」
「はい?」
と受け答えるのは石橋教師。
「こちらにも、吉岡くんは見えてませんか?」
財満津先生はその不精な青ヒゲの残る顔面を揺らせながら尋ねる。
「はあ?」
石橋がまるで要領を得ない答え方をわざとすると、彼はこめかみをピクリ、と右だけあげて硬直する。その光景は一体いつから、誰が言い出したか、まるでパグそのもので、財満津教師から見て石橋の後ろに位置した二階堂は声を押し殺して笑う。
「と言うと?」
「来ていないのです。彼は学校に」
えっ、と石橋の後ろに居た女の子は声を漏らす。まさか、わたしのせい・・・。
「んな事は無いから、安心してな。」
よしよしと、後ろを見もせずに石橋がそう言うと、財満津は要領を得ないのか、またしても右こめかみをあげて硬直する。しかし今度は笑いは起きない。
「そうですか。いや、有難う御座います。」
「財満津先生、彼は確かこれまで皆勤で出席してましたよね」
「ええ、そうですが?」
うーむ・・・。これはちょっと不味いんじゃないか。石橋は頭を捻った。

「吉岡先輩・・」
と、石橋の背後で、か細い声がした。

     


 どれくらいこうしていただろうか。わからない。もうずっと部屋の中で絵を描いていた。

A4サイズのコピー用紙、クロッキー帳の紙、キャンバス用紙。描いては消し、描いては消して。ものは全く口にせず、たまに水を飲む程度。それをずっと繰り返していたら、ある時突然すさまじい腹痛が襲ってきて、死ぬかと思った。結局便所で用を足してからと言うもの、空腹感は綺麗さっぱりと消えてしまった。俺はこのまま死ぬんだろうか。何も喰わず、餓死ってやつか。それもいい。そう思ったけれど、流石に死ぬ寸前ともなれば、いずれ食欲も湧いてしまうのだろう、その時は表に出て、高い物でも食ってやろうか。なんて考えると、笑いがこぼれた。いくぶん自嘲ぎみな笑い。描いては消し、描いては消して。やがて床の上は白紙の山と化したので、一枚ずつ壁に貼り付けた。マスキングテープなら腐るほどあった。丁寧に壁の一面を白紙で埋めると、また次の面へ。そして埋めたら、次の面へ。途中で足りなくなるとまた絵を描く。そして消す。何時からか、絵を描く事よりも、壁を埋めてしまう方に意識が行っていた。そして4面全てを埋め尽くすと、俺は大の字になって、眠った。泥のように、眠った。しかし、やがてその深い眠りからも覚めてしまった。そして目を開けると、その部屋の中にもう安全な場所なんて無かった。白紙の一枚一枚が、それぞれ俺を責めたてるようで、うらめしがっていた。発狂してしまうかと思った。俺は布団の中に隠れると、身体の震えが止まらずに、ずっと涙を服の袖で拭っていた。これは悪夢なんだ。俺は布団の中で何度も祈った。はやく目が覚めますように。この悪夢から、抜け出せますように。

そして長い夢から醒めると、玄関の方で、呼鈴が鳴っていた。その音に呼び寄せられるように、俺はゆっくりと布団から起き上がった。誰だ。もしかすると・・・母さんとか、父さんとかかも知れない。それもいい。今となってはあの人たちの顔も恋しかった。俺は気が付くと、玄関を開けていた。

     

     
 「こんにちはー・・・。」
玄関を開けると、そこに居たのは母さんでも父さんでも無く。ただの、制服姿の二階堂史絵だった。
「よしおか、先輩・・・?」
よしおか、それは俺の苗字だ。
「先輩、大丈夫ですか・・・?」
ヨシオカ。よしおかとおる。吉岡亨。俺の名前を目の前の女が口にした瞬間、俺の中で全てが現実感を帯び始める。向かいの家の白い壁、茜色に陽が傾いた空、肌に感じる空気の暑さ、すぐ傍で流れる車の音。首を掻いた時、俺は肌着の下に大量に汗をかいていた事に初めて気づく。そして様々な知覚が呼び起こされた後になって初めて、目の前にいる後輩の姿に気が付いた。
「二階堂」
ふっ、俺は思わず噴出してしまった。何を期待していたのだろう。まさか本気で母さんや父さんが来るなどと思いはしなかったが。
「先輩・・・」
二階堂はその時、何かを恐れた。それは一体何だろう。彼女と俺の間には、俺と彼女しか居ないというのに。その顔つきは今までに見た事が無い類の表情をしていて、見ているこちらが悲しくなって来るような、今にも泣き出しそうな。そういう表情だった。   
「あの、これ、最近学校に来てなかったですよね、それで渡すように言われたプリントなんですけど」
そう言いながら彼女は自分の鞄を慌てるようにして開けると、プリントを取り出して、俺に突き付けた。それを見た瞬間、今までの白紙達の記憶が走馬灯のようにフラッシュバックした。気分が悪くなって、俺は口に手を当てると、その場に崩れた。それっきり、記憶は無い。

目が覚めると、俺は俺のベッドで寝ていた。隣には、何故か石橋先生が床に座っていた。ああ、そうか・・・。
「二階堂が電話をくれてな。学校の業務が終わり次第、迅速に駆けつけてきてやったぞ。有難く思え」
そんな所だと思った。二階堂が電話をしてくれたのか。助かった、相手が二階堂で。病院で救急車とか言う発想が無い子だ。救急車で運ばれるなんて大層な事は御免だった。しかし何故わざわざ先生を・・・。
「ありがとうございます」
そう言って俺は起き上がろうとするが、力が上手く入らずによろけてしまった。
「何日間食べてない?」
と聴かれると、ぼんやりした頭では考えられなかった。
「判らないです・・・」
「今日が何日か分かるか?」
その問いに対しても、沈黙で答えるしかなかった。
「20日だ。9月の20日。始業式からすでに3週間近く経ってる」
幾分口調が強かった。
「ああ・・・」
始業式。その言葉を、何時の間にか遠くに置いてきてしまったような気がした。
「3週間絶食したら人間生きては居られないだろう。まー2週間と計算して、だ。ほれ。コレ、回復食」
と言って、差し出されたのはコップに注がれた、おかゆのような匂いがするお湯だった。
「ありがとう・・・ございます」
俺はそれを口にする。
「ったく、お前って奴は・・・」
石橋先生は下を向いていた。怒っているのだろうか。
「ごめん・・・なさい」
「うっ・・・るせえ・・・!馬鹿野朗!・・・」
驚いた。先生は涙ぐんでいた。どんだけ熱血教師なんだよ・・・。俺のクラスは3年B組じゃない。3年2組だ。って、ちょっと近くはあるのか。そんな下らない事を考えていると、石橋先生は嗚咽を押し殺して、上を向いて息をふうぅと吐く。
「よしおかァー」
睨み付けて来る。目は赤いままだった。
「お前は馬鹿か?馬鹿なのか?ちゃんと脳みそは入ってんのか?この頭の中にはよおお!」
と言いながら、石橋先生は俺の頭を掴んで揺さぶって来る。俺がそうされて考える事は石橋先生が何故タンクトップ姿なのかという事だった。目の前で激しく揺れる石橋先生の白いタンクトップの中の谷間に視線は釘付けだったが、俺の頭は冴え渡っていたので、冷静そのものだった。
「先生、痛いです」
「ああ、すまん・・・つい感情的になってしまって」
確かに、こんな風に感情をムキ出しにして怒ってくる先生を見るのは、3年間美術部員とその顧問として付き合ってきて、初めてのことだった。びっくりした。
「昔な、私の親友が同じ事をしたんだ」
同じ事?
「大学の友人だった。お前に似ていたよ、奴も。」
同じ事って、何だ?
「何週間もろくに水分も摂らずにな・・・。気が付いた時にはもう、目の前から消えていた」
絵を描いたりっていう事か?そして俺はさっきから、視界がさっぱりしていた理由に気が付いた。俺の絵が、無い。壁の上から、俺の絵は存在を消していた。
「先生・・・」
俺は立ち上がろうとする。先生はそれを制そうとして立ち上がるが、俺の気配を察してたたずんだ。俺の怒りは尋常じゃなかった。俺の絵をどこへやった。まさか捨てたんじゃねえだろうな。先生の目にはゴミに見えたかもしれないが、あれは俺の血と肉だ。骨を砕いてその粉で作ったようなものなんだ。
「俺の絵を、どこへやったんです」
先生は、俺の表情を見つめると、黙り込んだ。それを見て俺は苛々した。
「どこへ!」
「落ち着け、吉岡。すぐそこにあるじゃないか」
先生が指差す方を見ると、確かに部屋の隅には、山のように積まれた俺の絵があった。
「今、お前は絵だと言ったな」
その言葉に俺はピクリと反応する。
「これのどこが絵なんだ?言ってみろ」
「それは・・・」
鼓動が速くなる。
「俺の・・・絵です」
心臓が、脈を撃つ。
「この全てが白紙じゃないか。え?これのどこが絵なんだ?言ってみろ」
沈黙。
「言ってみろ!」
うるさい。黙れ。
「どうした、言ってみろ」
「どうして―」
どうして俺を苦しめるような事を言うんですか。こんな風に責められるくらいなら、俺は助けて欲しくなんて無かった。
「先生・・・」
「すまん、吉岡。お前を苦しめようとか言うつもりじゃなかったんだ。すまん」
気が付くと俺の頬には涙が伝っていた。
「私は部屋に駆けつけた時に、驚いたよ。部屋中にびっしりと白紙の紙が貼られてるんだからな」
白紙、という言葉に異常にひっかかった。まるで俺の絵をコケにされたような気がして。
「全部剥がすのは骨が折れたよ。汗だらけだ。おかげでほら、私の谷間を堪能できたろう?」
と言うと、先生は自分のタンクトップの肩のあたりをヒラヒラとさせた。成る程、それで。だが、今はそんな話をしている場合ではない。
「だけど、それらを一枚一枚剥がして行くうちに、気が付いたんだ」
先生は紙の山の方へ移動すると、一枚そこから取った。
「どれ一つとして、綺麗な白紙の状態の紙は無かった」

「なあ、教えてくれ。なぜ全ての紙を一度は埋め尽くしたのに、全部消したんだ?」

     


 「・・・たくない」
「なあ。どうして?」
言いたくない。俺が黙っていると、先生も黙って、ただ俺の顔を見つめた。沈黙が高い波になって押し寄せて来ると、俺の精神はもう、限界だった。

「俺は・・・何も・・・描けないんです」
「ああ」
「先生・・・辛いんです。恐いんです」
「ああ。」
「どうすればいいですか?俺はどうしたらいいんですか?もう耐え切れないと思っていました。これ以上は、俺の頭はどうにかなりそうで、死ぬしかないと思いました」
先生はただ俺の瞳を見つめていた。
「絵を描かなくちゃ、と思ったんです。そうしなきゃ、俺は何も生む事が出来ないまま、一生涯を終えてしまう。そんな事ってありますか?そんなのは、あんまりですよね、先生。堪えられないんです、先生。」
先生、と俺が言うたびに、石橋先生は、うん、と頷いてくれた。俺はこのまま話をしてもいいんだと思った。俺は嗚咽混じりに話をしていた。それに気付いて息を整えようと、言葉を飲み込んだ。息が整うと、俺は先生をまっすぐ見詰め、そして語り始めた。
「絵を描かないと、と思ったので、まずコピー用紙に描き始めたんです。最初はいつも上手く行く。と思うんです。でもそれは間違いで。結局俺の絵は駄目になるんです。それで消してしまう。描きかけは更に良くないんです。投げ出す位なら、最初から描かなければいい。そうでしょう?」
先生は視線を動かそうとさえしなかった。
「それでその内、俺は絵を完成させる事より、白い絵で壁を埋めつくす方に、目が移ってしまった」
俺は歯を噛む。
「滑稽ですよね、結局、白紙は白紙なのに。白い紙で部屋中を埋め尽くしたら、何かが変わるんじゃないかと思って。それだけです。お終いです。」
俺は一息で話をし終えると、どっと疲れを感じ、へたり込んでしまった。布団は、俺の汗でずいぶん前から湿った臭いを発していた。
「そうか・・・」
と先生は腕を組む。
「お前はもしかしたら」
俺は生気の無い目つきで先生を見る。
「現代アートの才能が有るのかもしれない」
そいつは笑えない酷い冗談だ。俺は顔を微動だにさせず、肩をほんの少しだけ揺らした。
「というのは嘘だが、そうか、お前はいつもそんな事を考えながら絵を描こうとしていたんだな。すまない、お前の苦しみを何一つ知ってはやれなくて。」
「いいんです・・・どうせ俺の問題ですし」

「いやな、何ていうのかなあ・・・。絵描きが絵描きを知る、という事についてお前はどう思う?」
質問の意味が解からなかった。
「考えた事も無いっていう顔をしているな。ふふ、そうだろう」
そうだろう、と先生は得意げな顔になる。この俺の暗い雰囲気に支配された空間の中で、先生の顔だけがなんだか明るく浮いて見えた。
「絵を描くという行為は、時に、その人の心の内での、それは孤独との闘いだ。お前なら解かるだろう?」
何となく、頷いておく。
「決してそれは他人の助けを借りる事は出来ない、自分自身との闘いだ。それに負けそうで、くじけそうな時、そんな時は誰にだって訪れる。そうだろう?そんな時、絵を描く者同士でしか解かり合えないものは、あるよな。そう思うんだ」
先生の瞳は、部屋の安っぽい電球の光を透かして、茶色にきらめいていた。
「だからその、つまり、何だ・・・。言葉にするっていうのは難しいけどな、その点お前らをうらやましく思うよ、感じた事全てをありのままストレートに打ち出してくるからな。話が逸れたが、えっと、何の話だっけ?」
ぷ。という形に口をすぼめて頬を膨らませた先生の表情は、まるでタコか何かの魚介類だった。それを見た俺は完全に虚を突かれてしまって、笑ってしまった。
「は、はは!あははは!」
「なっ、何だよ、吉岡!どうした?何が可笑しいんだ!」
久々に腹の底から笑い声を出した俺は、どうやらタガが外れてしまったらしく、その後ずっと笑いっぱなしだった。先生はひいひい言いながら苦しむ俺の背中をさすってくれていたが、そのうち嫌気が差してしまったらしく、俺の背中をばん!と叩いて離れてしまった。

「まあ、つまりだ。私が言いたかったのはだな、絵描きは絵描きの孤独を知る。つまり、知り合った時点で彼らはもう赤の他人同士じゃないっていう事さ。理解?」
「できてます」
結局俺は先生のきついビンタで正気を取り戻したのだった。
「だから。」
先生は俺の顔の前までやってくると、手を合わせてお願いしますの姿勢を取った。
「ごめんね。吉岡」
違った。御免なさい。だった。先生がやると似合わなすぎるから困る。
「私たちは他人同士じゃない。それなのに、吉岡、お前の孤独を見てみぬフリをしてた。相談なんかにも乗ってやらずに、ね。本当にごめんね。もっと早くお前の苦悩を知って居てあげられたらと思ったよ。」
その姿を見て、初めて俺は俺が何をしたのかを急激に悟った。
「いや、その、ごめんなさい。俺こそ」
「え?」
先生は顔を上げた。
「何ていうか、こういう風になっちゃって。自分を粗末にしちゃったっていうか、その。ごめんなさい」
それを聞いた先生はまた、目頭を熱くさせた。
「良いのよ。全部は過ぎた事だし、それに最悪の結果にはならなかったんだしね」
ぐす、と先生は鼻を鳴らし、目をこすりながら言ってくれた。先生にしちゃ珍しく、しおらしい口調になっていた。その光景を目の当りにしながら、まるで俺は遠くの世界からこの風景を目にしているような気分で、別の事を考えていた。前にどこかのテレビのニュースで見た、中高生たちの自傷問題。手首を刃物で切るだとか、そういった類の行為。俺がやったのはそういう事じゃないのか。肉体的に外傷を付けてこそ居ないが、精神的に追い込んで。自分で自身を苦しめて。俺は呆然とした。なぜならそのニュースを見た時に、俺は絶対にそういう事はしないだろう、と勝手に思い込んでいたからだ。自分自身を傷つけるという事は、周りを傷つけるという事に他ならない。何故それが彼らには解からないのか?とまで思っていた。思い込んでいた。思い上がりも甚だしい所だった。何と言う事だろうか。俺は勘違いをしていたようだ。
「先生」
「ん?」
「俺は・・・。」
果たして言って良い物だろうか。ここまでの事態を引き起こして置いて、わざわざこうして来て貰っているのに、勘違いをしていただけで済ませようなんて、虫が良すぎるんじゃないだろうか。そんな俺の恐れを見抜いたのか、先生はどうしたの、とだけ訊いてくれた。それで俺は告白する事にした。
「勘違いをしていたみたいです」
「そうか」
「それだけの話だったみたいです」
「そう。」
そう。だって?俺は眼を見開いた。
「わかった。それじゃ、何を勘違いしていたのか、聞かせてくれるか?」
そう言われて、俺は怖じ気づいてしまった。
「それは・・・」
「ん。言えないようだったら、また今度でいい」
そういって先生は立ち上がると、上着を羽織って、養生しろよ、死神のような顔をしているぞ、と言って、俺に手鏡を見せてくれた。その鏡に映った俺はもう見るに耐えないと言った感じで、目は落ち窪み、頬は痩せこけて、とても表に出られそうな雰囲気ではなかった。俺はその時初めて、絶食をしてしまったという認識を得て、そして後悔した。そうだ、そういえばあの時二階堂が恐れたのはなんてことは無い、俺の顔にだったのだ。確かにこんなゾンビ顔が行き成り出てきて、噴出したとあれば、強い恐怖心を感じるに決まっている。鏡をパタンと畳むと、ニコっとして先生は俺の部屋を出て行く。笑顔が意外とチャーミングな人だと思った。まあ俺の顔を見てしまった後だからかも知れないが。ってそれは先生に失礼か。

「そしたら、ここに書いてある通りに食べるんだぞ」
と言いながら先生は最後に一度だけ戻って来て、汚い字で紙に書いた精米湯だとか何とか、絶食療法とか言う医療で使うらしい食べ物の作り方と、それを食べる日程表をくれた。1日目に精米湯、2日目に重米湯・・・。何でも長い間食事を絶った後に普通の量の食事をとると、それまでに使われていなかった身体の機能が低下している為、酷い場合だと死んでしまう事もあるそうだ。俺はついこの間まで、表に出て高いものを食べてやろうと考えていた事を思い出すと、ぞっとした。
「詳しいんですね」
と何となく俺が漏らすと、
「ああ、まあな。前にな・・・」
先生は俯き加減に答えた。その瞬間俺は気付いてしまった。先生が俺の事は見ておらず、俺に昔亡くした友達を重ねているんだと言う事に。その事に気付いてしまってから、俺は胸が高鳴るようで、恥ずかしくなってしまった。俺は一体何を考えているんだ。
「ありがとうございます」
「ああ、無理はするな」
「はい」
と言って去ろうとする先生の後姿に向けて、
「俺、生きます。何が何だろうと、必ず生きてみせます」
と言った。先生は立ち止まると、後姿のまま親指を付き立てて見せてくれて、それっきりだった。先生は玄関のドアを開けて出て行った。これできっと、先生は救われるんだろう。と思った。俺が、先生が昔亡くしてしまった友達の代わりになって、生きてやる。その宣言をする事で、先生がまえに失ってしまったものを、取り戻せるのなら。なんだか一気に清清しい気分になった気がした。憑き物が落ちた。後はこれで、俺に絵が描けるようにさえなれば・・・。
     
    
     
        





  

       

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