Neetel Inside ニートノベル
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バトルフィールド・オブ・トイレット
トイレ診断士 江里口

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 定時前、各部署から頼まれた物品の注文を終えた泉沢は、岸本から受け取ったメモを見ていた。
 ふぅん、トイレ診断士ねぇ……聞いたことない。泉沢は机に肘をついて、頭の中で何度も"トイレ診断士"という言葉を思い浮かべては消した。
 そもそも岸本の知り合いという時点で、何か怪しく思えた。まともではない人間の知り合いがまともであるはずがないだろう。岸本は放っておけば世界が終わるその日まで、それこそ永遠にラーメンライスを胃袋に移送する作業を繰り返すような人間だ。泉沢の考えは決して大げさではなく、実際宿舎近くのラーメン屋で日を跨いでラーメンとライスを亜空間たる胃袋に送り込み続けている岸本を幾度と無く目撃しているからこそ至る結論だった。
 まあ、とにかく、絶対ェまともじゃないんだろうけど、トイレ直さなきゃどーしようもないし。
 泉沢は、まだ帰らず残っていた上司にあたる人間に、修理のため業者を呼んでもいいか一応確認した。必要書類だけは作ってもらっといてね、とだけ言われた。


 翌日の朝一番に電話し、業者の窓口担当より、昼過ぎには人を向かわせると言われた。その間に泉沢は、もう一度超強力濃硫酸を小便器に注ぎ込み、その後実際に使用してみたが、やはり昨日と変わらず溢れてしまった。薬剤を注いだとき、ちゃんと煙は出ていたのだが。一応、掃除業者の仕事ぶりももう一度直接確認した。手抜きをする清掃員もいるかもしれないと思ったのだが、案外画一的な仕事内容だったので、またも心のなかで詫びることになった。そんなことをしているうちに、俺はどうしてこんなにトイレなんかに拘っているんだろうと、自分自身を見つめ直そうとする作用が出てきてしまったりしていた。
 昼はいつもの食堂で、またも岸本の名人芸を横目に見ながら過ごした。
「おめぇ、電話した?」
 本当に、どのタイミングで声を出しているのか不思議だと思いながら、泉沢は答えた。
「したよ……なぁ、トイレ診断士って、どんな仕事?」
 泉沢は、一応社食で他の社員もいるので、気を遣って小声で言った。
「どんな仕事って、トイレの仕事だろ。それ以外にないだろ」
 岸本の声は大きく、周囲の社員が何故か泉沢を睨んできた。本当に残念な男だと思う。そして俺もまた残念な男なんだろう、と岸本に聞こえることを願いながらため息をついた。
「あいつは、昔からトイレが好きなヤツだった。皆が嫌がるトイレ掃除もすすんでやった。特にトイレが詰まっただとか、水漏れがしたとか、そういうのを解決することが生き甲斐だったよ」
 視線が痛い。突き刺さるようだと思った。もうどうにでもなーれ、と投げやりになって、泉沢はこぼした。
「適材適所っていうのか」
「あいつは幸せな男だと思う。トイレマニアがトイレの仕事に就けたわけで」
 お前も幸せそうだな、岸本――。その奔放さが、泉沢には少し羨ましかった。


 昼休みが終わって事務所に戻ると、待合のテーブルに泉沢の知らない業者が座っていた。泉沢は瞬時に、この人はトイレ診断士じゃないだろうと判断した。泉沢は机に座り、物品発注用のサイトにつなぐ振りをしてポータルサイトのニュースを流し見していた。今日も嫌なニュースしかないな、杉内も巨人かよ、あそこも昔に逆戻りだなー、などと思っていると、背後から庶務の人間に声を掛けられ、素早くブラウザを閉じた。
「泉沢くん、来てるよ業者の人」
 泉沢は意表を突かれて、テーブルの業者を見た。あれが? 岸本の知り合い? 一応岸本の知り合いの名前をそのまま伝えたんだけど、都合がつかなくて他の人が来た、ってことか? 頭の中が疑問で渦巻いていたが、とりあえずテーブルの前で詫びてから座った。
「ええと……江里口、さん?」
 それなりに珍しい苗字な気がするんだけど、同姓同名だろうか。
「江里口って人、他にも何人かおられるんですか?」
「えっ」
 江里口は鳩が豆鉄砲食ったような顔ってこういう顔か、という顔をしていた。頬を掻きながら、苦笑してこう答えた。
「いや~……僕だけです」
「え、そう、なん、ですか」
 豆鉄砲を打ち返されたような顔になった泉沢は、混乱する思考をどうにかまとめようとした。とりあえず深呼吸をする。
 つまりは、どうも、俺の思い込みが過ぎたらしいと、結論はあっさり出た。岸本はその大食漢ぶりが表すとおり、とてつもなく巨大な男だった。デブの友達はデブだろう、という思い込みが泉沢にはあったのだった。それが間違った判断を生み出した。大体において、普通あり得ないような見当違いは思い込みから生まれる、と飲み会で上役が言ってたなと思い出す。
 確かに偏見ではあったかもしれないけど、それにしても――。対面の江里口は、作業着姿があまり決まらない風貌の優男で、スーツでも着ていれば新宿のオフィス街や霞が関などをうろついていても違和感がなさそうだった。
 しかし、胸に付けられた社員証には、確かに"トイレ診断士"の文字があった。おおっ、嘘じゃなかったのか。改めて見ると、自分は物を知らない人間だと思い知らされたような気がした。

       

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