ファイナル三億円使い切りたいファンタジー
第四章『収穫祭』
1.
月明かりすら拒む森の奥。闇に紛れる様にして、“彼等”は確かに存在していた。
彼等には一つだけ、されど大きな悩みがあった。幾年もの時を経て、彼等の数は増えすぎたのだ。しかし、森の奥には限られた食料しか無く。……そう、飢えていた。寿命で死んでゆく仲間の死体を漁る程までに。
何故、彼等がそうまでして森の奥に拘っているのか。それは彼等よりも上位の存在が周囲を縄張りにしていたからに他ならない。一撫でされたならば、いくつもの命が吹き飛んでゆくほどの力を持っていたその存在。
彼等にも少なからず知能がある。その中でも頭の良い固体は見えていたのだ、己等の限界が近いことを。近い未来、今の個体数が維持出来なくなるほどの飢えが訪れることを。
だから、彼等にとって“それ”は正に僥倖と言えた。
あれほどまでに強い気配を放っていたはずの上位種が、ある日を境に消えたのだ。そう、文字通り消えたと言っても良い。移動したならば持ち前の嗅覚がその軌跡を捉える。何かに殺されたのならば、更なる上位種の気配が身体を震わせる。そのどれでも無く、只々忽然と消えた。
最初は警戒していたが、何日経っても戻ってくる気配が無いことに気付く頃には、森の奥から彼等の姿は消えていた。
限界が訪れたのだ。
▼
「こっちの皿、ここでいいんですよね?」
よっ、と掛け声を出しながら、俺は焼いたニブルが一匹丸ごと乗っている大皿を持ち上げる。
聞かれた耳の長いオッサンは俺が皿を片手で持ち上げていることに驚きながらも応える。
「あ、ああ、いや、そこじゃなくて向こうのテーブルだ。……しかし凄えな兄ちゃん、俺でもニブルを一人で持ち上げるのは無理だ」
「いやあ、これくらいしか出来ることがないもんで」
なんて、ちょっといい気になりながら皿を持っていく俺。
収穫祭当日、話はエルスやカンデラさんから聞いていたが、聞いていた以上に忙しい。村の男という男は全員力仕事をしていて、女は物凄い量の料理をこれまた大人数で作っている。そんな中、余所者だからといって無視される……わけもなく。例に漏れず、俺もその中に混じって特別重い物を運んでいた。
ニブルの丸焼きなんてまだ可愛い物だ。つい先程には、「今年は人が増えて広場じゃ狭いから、森の近くの空き地で宴会をしよう」なんて言葉の所為で、村の守り神を象ったとかいう、デカニブルより少し大きいくらいの石像を運ばされたりもした。罰が当たるとしたら真っ先に俺へ来るんじゃないっすか、なんて言い出せるわけも無く。
そんなこんなで昼過ぎ。村長、ラザフォードさんの提案で休憩が挟まれることとなった。
「おい兄ちゃん! こっち来い、カアちゃんが作ったパン食わせちゃるわ!」
「いや、アイツんとこのは不味いって評判だ! まだ俺が作った飯のほうがいいぞ!」
「待て待て、やはり飯は飯屋だ。俺んとこに来い、好きなもん作ったる」
昼休憩が始まって早々、俺はむさ苦しいオッサン達に囲まれていた。
どうやら色んな人の仕事を手伝っていたら気に入られたらしく、さっきから昼飯のお誘いが止まらない。これが女の子だったら俺も素直に喜んでいるところだが、みんな力仕事を任されるだけのことはあり、筋骨隆々と言った具合の身体が押し寄せてくる見た目に辟易している。
この状況を打破すべく、俺は荷物入れから包みを取り出し、皆に見せながら話す。
「待って、待ってくださいって。俺もう飯は持ってるんで、ですから、ああ、ああ……」
カンデラさんに持たされた昼飯を包んだものを見せるが、「足りんだろ」という満場一致の意見によって俺の目の前に積まれる飯の数々。どうやら俺が怪力持ちの所為で大食らいだと思われたらしい。どちらかと言えば、俺は小食な方だと思う。牛丼で言うと、並で満足しちゃうくらい。
しばらく積まれる昼飯の数々に呆然としている間に、目の前には俺の腰ほどまである料理が集まっていた。俺にこれをどうしろと言うんだ。
俺に渡すだけ渡して満足したのか、オッサン達は思い思いに昼飯を食べ始めている。
そんな様子を見て溜め息が漏れそうになったところで、急に後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには満足顔のラザフォードさんが立っていた。
「どうやら皆と打ち解けたようで何よりだ。皆良い奴だろう?」
「ええ、はい。すごく、いい人ばかりですね……」
いい人なんだろう。だろうけど、このタイミングで言われても応え辛い事この上ない。
「ふむ。……どうだタクマ、この村に住む気は無いか?」
「え?」
急に問われたその内容に、俺は思わず疑問の声を漏らしてしまった。
この村に住む。……確かに、悪くは無い。現代的な物は何も無いが、それを補って余りある豊かな自然と、割と善い人達。そう、何も悪くは無いんだろう。俺が“本当に”記憶喪失だったとしたら、迷わず首を縦に振る話だった。
「別に無理にとは言わんが。まあなんだ、エルスはもちろん、こんなに早く打ち解けられるってことは、タクマが悪い奴じゃねえって証だしな。もし住むってことになったら、俺はお前を歓迎するぞ、タクマ」
「あ、その、ありがとうございます」
沈黙が迷っていると受け取られたのか、ラザフォードさんはそう言って話は終わりだと言わんばかりに去っていった。
……なんだろう、この罪悪感。誰に言われるわけでもないが、まるで俺が金のために嘘をついて他人を弄んでいるかの様な状況ではないのか、これは。……いやいや、待て、三億円だぞ。派遣社員のまま一生働いたとしても稼げないほどの金だ。そう簡単に諦めきれるもんじゃない。ここで情に駆られて永住するよりも、なんとか帰って現代的に三億円を使う。みんなそうだろう、誰に聞いたってそう答える。うん。俺は何も間違っていないはずだ。
目の前に置かれたピザのような食べ物を適当に口に入れながら辿り着いた考えは、中々美味しいピザに対して淡白なものだった。
▼
太陽が地平線に届く頃、やっとのことで男衆は作業を終えた。いくら降って沸いたような力を持っている俺でも、元々の体力は知れたものなので、終わる直前には久々に疲れを感じていた。とは言っても気持ちの悪いものではなく、どちらかと言えば爽やかな、やり遂げたという結果が心地良さを生み出していた。周りの人達も同じ気持ちを感じているようで、みんな満足気な表情を浮かべている。
見渡せば、元は雑草が生えているだけの広い空き地だった所が完全な宴会場と化していた。太陽が沈むにつれて輝きを増す松明に、照らされるテーブルの数々。その上には所狭しと様々な料理が置かれている。さらに、その周囲には何処に保管していたのか、数十もの酒樽が雑把に置かれていた。それ等の料理を作っていた女衆も一段落付いた様で、同じく作業を終えた彼氏や夫と話をしている。
「タクマさん、見かけないと思ったらここに居たんですね。作業、手伝ってくれていたんですか?」
「まあね。予想以上に色々頼まれたからなあ、あっちにこっちに忙しかったよ」
いつの間に近付いてきたのか、隣に来たエルスが労いの言葉を掛けてくれた。今までの経験上、裏があるのかと勘繰ってしまうが、それ以上言葉が続くことは無かった。
「エルスも料理を作ってたのか? ああ、いや、その格好を見る限り聞くまでも無いか」
「さすがにエプロンくらいは知っているんですね」
「厳しいなあ」
笑いながら言うエルスは、日本でも見られるようなフリル付のエプロンを着けていた。元々の見た目が良いだけに、可愛らしさを前面に出した服を着ている彼女が魅力的に見えることは仕方が無いと言える。……ううむ、宴会の空気に当てられたかな。
「そういえば聞いたことが無かったんですけど、聞いていいですか?」
「ん、なんだ?」
てっきり「どんな目で見てるんですか」なんて言われるかと思ったが、エルスは予想を裏切って変な切り出し方をしてきた。
「その、タクマさんって記憶が無いんですよね? だったら、ここに住むのかなあ、なんて思ったんですけど」
「それ、昼にラザフォードさんからも聞かれたよ。……エルスは俺に住んで欲しいわけ?」
聞いた途端、エルスの顔が真っ赤になった――なんて事は無く、代わりに「コイツ頭おかしいんじゃねえか」という気持ちを隠そうともしない視線が向けられた。きっついなオイ。
「冗談だよ。……考えてなかったわけじゃないんだけどさ、やっぱり、俺は旅に出たいかな」
「旅、ですか? 記憶を探しに?」
「そういうわけじゃないんだけど……うーん」
今更だが、記憶喪失という設定は無理があるんじゃないのかと思えてきた。というか、自分で言うのもなんだけど、それなりに俺という人柄を知ってもらったわけだし、今「俺は違う世界から来ました」と言ってもそこまで怪しい奴扱いはされないんじゃなかろうか。
そう。どちらにしてもこのまま村で生活していたら、どこかでボロが出る。ならばいっそ、この場で言ってしまっても変わりは無いだろう。
「エルス、実はさ、俺が記憶喪失って話なんだけど――」
意を決して、とりあえずエルスには打ち明けようと話し始めた時、どこからともなく聞き覚えのある声が聴こえてきた。反射的に声がした方を見れば、カンデラさんが丁度森の中から出てきた様だ。それならばいつも通りなのだが、こちらの広場まで走ってくるカンデラさんの姿は明らかな“異常”を示していた。
「ラザフは居ねえのか! おい、居ねえなら誰か呼んでこい!」
広場の中央まで辿り着いたカンデラさんだが、その着ている服は所々破けており、さらに赤い液体……血が飛び散っている。その様子を各々が見てか、先程まで和やかだった場が一転、しんと静まり返った。
そこに、誰かに呼ばれたのだろうラザフォードさんが急いでカンデラさんに駆け寄った。
「おいおいどうした。お前ともあろう者が、ひどい有様じゃねえか」
「軽口叩いてる場合じゃねえ、今すぐ女子供を避難させろ! クソッ! この森に奴等が居るなんて知っていたら……!」
「待て待て、なんだってんだ。ちゃんと説明しろ」
ラザフォードさんが呆れたようにカンデラさんを落ち着かせようと肩に手を置いた瞬間、その場を断ち切るような奇声が辺りに響いた。猿の声をもっと甲高くした様なその奇声は、俺を除く村人達の顔を例外無く青褪めさせた。
「ゴブリンの群れがここに来るってんだよ!」
奇声に負けじと張り上げられたカンデラさんの言葉。
ゴブリン。
その時の俺は、RPGに出てくるような雑魚を想像するだけで、危機感など微塵にも感じていなかった。
月明かりすら拒む森の奥。闇に紛れる様にして、“彼等”は確かに存在していた。
彼等には一つだけ、されど大きな悩みがあった。幾年もの時を経て、彼等の数は増えすぎたのだ。しかし、森の奥には限られた食料しか無く。……そう、飢えていた。寿命で死んでゆく仲間の死体を漁る程までに。
何故、彼等がそうまでして森の奥に拘っているのか。それは彼等よりも上位の存在が周囲を縄張りにしていたからに他ならない。一撫でされたならば、いくつもの命が吹き飛んでゆくほどの力を持っていたその存在。
彼等にも少なからず知能がある。その中でも頭の良い固体は見えていたのだ、己等の限界が近いことを。近い未来、今の個体数が維持出来なくなるほどの飢えが訪れることを。
だから、彼等にとって“それ”は正に僥倖と言えた。
あれほどまでに強い気配を放っていたはずの上位種が、ある日を境に消えたのだ。そう、文字通り消えたと言っても良い。移動したならば持ち前の嗅覚がその軌跡を捉える。何かに殺されたのならば、更なる上位種の気配が身体を震わせる。そのどれでも無く、只々忽然と消えた。
最初は警戒していたが、何日経っても戻ってくる気配が無いことに気付く頃には、森の奥から彼等の姿は消えていた。
限界が訪れたのだ。
▼
「こっちの皿、ここでいいんですよね?」
よっ、と掛け声を出しながら、俺は焼いたニブルが一匹丸ごと乗っている大皿を持ち上げる。
聞かれた耳の長いオッサンは俺が皿を片手で持ち上げていることに驚きながらも応える。
「あ、ああ、いや、そこじゃなくて向こうのテーブルだ。……しかし凄えな兄ちゃん、俺でもニブルを一人で持ち上げるのは無理だ」
「いやあ、これくらいしか出来ることがないもんで」
なんて、ちょっといい気になりながら皿を持っていく俺。
収穫祭当日、話はエルスやカンデラさんから聞いていたが、聞いていた以上に忙しい。村の男という男は全員力仕事をしていて、女は物凄い量の料理をこれまた大人数で作っている。そんな中、余所者だからといって無視される……わけもなく。例に漏れず、俺もその中に混じって特別重い物を運んでいた。
ニブルの丸焼きなんてまだ可愛い物だ。つい先程には、「今年は人が増えて広場じゃ狭いから、森の近くの空き地で宴会をしよう」なんて言葉の所為で、村の守り神を象ったとかいう、デカニブルより少し大きいくらいの石像を運ばされたりもした。罰が当たるとしたら真っ先に俺へ来るんじゃないっすか、なんて言い出せるわけも無く。
そんなこんなで昼過ぎ。村長、ラザフォードさんの提案で休憩が挟まれることとなった。
「おい兄ちゃん! こっち来い、カアちゃんが作ったパン食わせちゃるわ!」
「いや、アイツんとこのは不味いって評判だ! まだ俺が作った飯のほうがいいぞ!」
「待て待て、やはり飯は飯屋だ。俺んとこに来い、好きなもん作ったる」
昼休憩が始まって早々、俺はむさ苦しいオッサン達に囲まれていた。
どうやら色んな人の仕事を手伝っていたら気に入られたらしく、さっきから昼飯のお誘いが止まらない。これが女の子だったら俺も素直に喜んでいるところだが、みんな力仕事を任されるだけのことはあり、筋骨隆々と言った具合の身体が押し寄せてくる見た目に辟易している。
この状況を打破すべく、俺は荷物入れから包みを取り出し、皆に見せながら話す。
「待って、待ってくださいって。俺もう飯は持ってるんで、ですから、ああ、ああ……」
カンデラさんに持たされた昼飯を包んだものを見せるが、「足りんだろ」という満場一致の意見によって俺の目の前に積まれる飯の数々。どうやら俺が怪力持ちの所為で大食らいだと思われたらしい。どちらかと言えば、俺は小食な方だと思う。牛丼で言うと、並で満足しちゃうくらい。
しばらく積まれる昼飯の数々に呆然としている間に、目の前には俺の腰ほどまである料理が集まっていた。俺にこれをどうしろと言うんだ。
俺に渡すだけ渡して満足したのか、オッサン達は思い思いに昼飯を食べ始めている。
そんな様子を見て溜め息が漏れそうになったところで、急に後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには満足顔のラザフォードさんが立っていた。
「どうやら皆と打ち解けたようで何よりだ。皆良い奴だろう?」
「ええ、はい。すごく、いい人ばかりですね……」
いい人なんだろう。だろうけど、このタイミングで言われても応え辛い事この上ない。
「ふむ。……どうだタクマ、この村に住む気は無いか?」
「え?」
急に問われたその内容に、俺は思わず疑問の声を漏らしてしまった。
この村に住む。……確かに、悪くは無い。現代的な物は何も無いが、それを補って余りある豊かな自然と、割と善い人達。そう、何も悪くは無いんだろう。俺が“本当に”記憶喪失だったとしたら、迷わず首を縦に振る話だった。
「別に無理にとは言わんが。まあなんだ、エルスはもちろん、こんなに早く打ち解けられるってことは、タクマが悪い奴じゃねえって証だしな。もし住むってことになったら、俺はお前を歓迎するぞ、タクマ」
「あ、その、ありがとうございます」
沈黙が迷っていると受け取られたのか、ラザフォードさんはそう言って話は終わりだと言わんばかりに去っていった。
……なんだろう、この罪悪感。誰に言われるわけでもないが、まるで俺が金のために嘘をついて他人を弄んでいるかの様な状況ではないのか、これは。……いやいや、待て、三億円だぞ。派遣社員のまま一生働いたとしても稼げないほどの金だ。そう簡単に諦めきれるもんじゃない。ここで情に駆られて永住するよりも、なんとか帰って現代的に三億円を使う。みんなそうだろう、誰に聞いたってそう答える。うん。俺は何も間違っていないはずだ。
目の前に置かれたピザのような食べ物を適当に口に入れながら辿り着いた考えは、中々美味しいピザに対して淡白なものだった。
▼
太陽が地平線に届く頃、やっとのことで男衆は作業を終えた。いくら降って沸いたような力を持っている俺でも、元々の体力は知れたものなので、終わる直前には久々に疲れを感じていた。とは言っても気持ちの悪いものではなく、どちらかと言えば爽やかな、やり遂げたという結果が心地良さを生み出していた。周りの人達も同じ気持ちを感じているようで、みんな満足気な表情を浮かべている。
見渡せば、元は雑草が生えているだけの広い空き地だった所が完全な宴会場と化していた。太陽が沈むにつれて輝きを増す松明に、照らされるテーブルの数々。その上には所狭しと様々な料理が置かれている。さらに、その周囲には何処に保管していたのか、数十もの酒樽が雑把に置かれていた。それ等の料理を作っていた女衆も一段落付いた様で、同じく作業を終えた彼氏や夫と話をしている。
「タクマさん、見かけないと思ったらここに居たんですね。作業、手伝ってくれていたんですか?」
「まあね。予想以上に色々頼まれたからなあ、あっちにこっちに忙しかったよ」
いつの間に近付いてきたのか、隣に来たエルスが労いの言葉を掛けてくれた。今までの経験上、裏があるのかと勘繰ってしまうが、それ以上言葉が続くことは無かった。
「エルスも料理を作ってたのか? ああ、いや、その格好を見る限り聞くまでも無いか」
「さすがにエプロンくらいは知っているんですね」
「厳しいなあ」
笑いながら言うエルスは、日本でも見られるようなフリル付のエプロンを着けていた。元々の見た目が良いだけに、可愛らしさを前面に出した服を着ている彼女が魅力的に見えることは仕方が無いと言える。……ううむ、宴会の空気に当てられたかな。
「そういえば聞いたことが無かったんですけど、聞いていいですか?」
「ん、なんだ?」
てっきり「どんな目で見てるんですか」なんて言われるかと思ったが、エルスは予想を裏切って変な切り出し方をしてきた。
「その、タクマさんって記憶が無いんですよね? だったら、ここに住むのかなあ、なんて思ったんですけど」
「それ、昼にラザフォードさんからも聞かれたよ。……エルスは俺に住んで欲しいわけ?」
聞いた途端、エルスの顔が真っ赤になった――なんて事は無く、代わりに「コイツ頭おかしいんじゃねえか」という気持ちを隠そうともしない視線が向けられた。きっついなオイ。
「冗談だよ。……考えてなかったわけじゃないんだけどさ、やっぱり、俺は旅に出たいかな」
「旅、ですか? 記憶を探しに?」
「そういうわけじゃないんだけど……うーん」
今更だが、記憶喪失という設定は無理があるんじゃないのかと思えてきた。というか、自分で言うのもなんだけど、それなりに俺という人柄を知ってもらったわけだし、今「俺は違う世界から来ました」と言ってもそこまで怪しい奴扱いはされないんじゃなかろうか。
そう。どちらにしてもこのまま村で生活していたら、どこかでボロが出る。ならばいっそ、この場で言ってしまっても変わりは無いだろう。
「エルス、実はさ、俺が記憶喪失って話なんだけど――」
意を決して、とりあえずエルスには打ち明けようと話し始めた時、どこからともなく聞き覚えのある声が聴こえてきた。反射的に声がした方を見れば、カンデラさんが丁度森の中から出てきた様だ。それならばいつも通りなのだが、こちらの広場まで走ってくるカンデラさんの姿は明らかな“異常”を示していた。
「ラザフは居ねえのか! おい、居ねえなら誰か呼んでこい!」
広場の中央まで辿り着いたカンデラさんだが、その着ている服は所々破けており、さらに赤い液体……血が飛び散っている。その様子を各々が見てか、先程まで和やかだった場が一転、しんと静まり返った。
そこに、誰かに呼ばれたのだろうラザフォードさんが急いでカンデラさんに駆け寄った。
「おいおいどうした。お前ともあろう者が、ひどい有様じゃねえか」
「軽口叩いてる場合じゃねえ、今すぐ女子供を避難させろ! クソッ! この森に奴等が居るなんて知っていたら……!」
「待て待て、なんだってんだ。ちゃんと説明しろ」
ラザフォードさんが呆れたようにカンデラさんを落ち着かせようと肩に手を置いた瞬間、その場を断ち切るような奇声が辺りに響いた。猿の声をもっと甲高くした様なその奇声は、俺を除く村人達の顔を例外無く青褪めさせた。
「ゴブリンの群れがここに来るってんだよ!」
奇声に負けじと張り上げられたカンデラさんの言葉。
ゴブリン。
その時の俺は、RPGに出てくるような雑魚を想像するだけで、危機感など微塵にも感じていなかった。
2.
何日も掛けた宴会場作りだったが、それ等を破壊することがこうも簡単だと誰が思っただろうか。
カンデラさんが危険を知らせに広場へ来て、すぐさまラザフォードさんが周りに村長宅への避難を指示。皆が広場から離れ終わる頃、森から影が出て来た所を俺は見ていた。
ゴブリンと言えば、獣と人を足した顔を醜悪に歪め、腰布を巻いた背の低いものを想像していた。しかし、この世界で言うゴブリンとは、俺の想像とは全く違うものだった。言葉にすることは簡単だ、人間の赤ん坊を筋肉質にし、その表情が下種な笑いを帯びている、それがゴブリンだ。
最初は一匹、回りを確認しながらゆっくり出てきたかと思うと、その後ろから一匹、二匹、十匹、二十匹。三十匹になろうと言う所で、俺はラザフォードさんに襟首を掴まれて、無理矢理その場から避難させられていた。
そう、俺は動けなかった。理由は単純なものであり、恐怖で足が竦んでいたんだ。
当たり前だろう。ヒトに近い外見でありながら、その実、現実ではありえないような要素を備えていて、その全てが悪意を持ってこちらに向かってくるのだ。ニブルのような、明らかな動物ならば納得が出来る。この世界の動物は、“こう”なんだろうと。しかし、アレは違う。生物という枠を超えていると言うのか、全く違う体系から不意に生じた悪意、そんな存在に感じた。確かに、“魔物”とはああいった生き物を指すに違いない。
そうして俺はラザフォードさんに連れられながら、何度も振り返り破壊されてゆく広場を見ていることしか出来なかった。
▼
村長の家に着てから一時間くらいだろうか。いつの間にかリビングの隅で縮こまりながらずっと呆けたようにこの世界のことを考えていた俺は、ふと周りを見渡した。押し込むようにして入れられた百人余りの村人たちは、驚くほど静かに家族と身を寄せ合っていた。耳を澄ませば、微かなすすり泣く声が聴こえてくる。
魔物。エルスの授業で少し話題に出たことがある。確か、魔物は唐突に世界へ現れて、魔物独自の生殖方法でその数を増やし、増えすぎた頃に人を襲いだすらしい。だがそれは弱い固体の例で、たまに強過ぎる魔物が現れた時は、国規模での対応を余儀なくされるとか。果たしてこのゴブリンはどの程度の脅威なのか。それすらも分からず、いや、分からない故に俺はこんなに恐怖しているんだろう。
じっとしていることに耐えられなくなった俺は立ち上がると、ラザフォードさんが居るだろうと思われる二階へ向かうことにした。微かに、この状況を何とか出来る案が既に出ていることを期待して。
しかし、階段を上がりきる頃に俺の耳へ届いた怒声は、そんな期待を容易に裏切るものだった。
「馬鹿なことを言うな! ゴブリン二、三体でも俺一人で命と引き換えにしてやっと殺せるくらいだってのに、それが二十体以上居るんだぞ! 立て篭もった所で、どうにかなる問題じゃねえ!」
「じゃあ、お前は俺にどうしろと言うんだ! 全員散り散りに逃げさせて、一人一人殺されてゆくのを容認しろと? 馬鹿な! それこそ馬鹿げている」
「じゃあ、今も村で自身の家に居るだろう、そいつらはどうするってんだよ!」
「ぐ……それは……」
どうやらカンデラさんとラザフォードさんが言い争っているようだが、その内容は声色と同じく穏やかなものではない。
村の総人口なんて気にしたことも無かったが、言われてみれば村とはいえ全員がこの家に入ることなど出来るわけがない。それは、まだこの家の外に逃げ遅れた人達が居るという事をこれでもかと物語っている。
「ラザフ、やっぱよ、最初に言った通り俺が出来るだけ街に近付いて伝えるしかねえよ。自分で言うのもなんだが、俺はこの村で一番腕が立つと思ってる。俺以外にこの役目は果たせねえよ」
「俺も言ったはずだ。お前の保有魔力では伝達限界まで辿り着く前にやられると。……むざむざ友人を死に追いやるような真似は出来んよ、俺には」
「……はあ。また最初に戻っちまったな。もう一度言うぞ、立て篭もっているだけじゃあ何も変わりはしねえ、全員死ぬだけだ」
どうしてかはわからない。わからないが、急速に現実味が薄れてゆく感覚を俺は感じていた。そのまま堂々巡りを繰り返す会話を聞き流しながら、それがどうしてかを考え、思った。二人とも、死ぬことが当たり前という前提で話しているのだ。
死、というものは一体なんなのか。日本でも死というものは目の当たりにすることなく、平々凡々と生きてきた俺にとって、それは未知以外の何物でもなく。精々テレビのニュースや新聞で誰々が死んだという情報だけが俺にとっての死であり。それが、この場で目の前に起こり得る――もう起こっているのかもしれない――事として語られている。あの、見ず知らずの俺に対して優しくしてくれた人達が、その口で言っているのだ。“どちらにしろ死ぬ”と。
現実味が薄れていった後、俺の中で表れた感情がどういったものなのか。自分でも上手く説明することは出来ない。一つ言える事は、俺の足は階段を降り始めていて。気付けば、外と通じる扉を開けていた。
▼
外に出て、最初に出迎えてくれたものは雨だった。
ついさっきまで煌々と村中に光を行き渡らせていた広場の火は消され、嘘のように凝り固まった静けさと暗さが目の前に広がる。……理由は分からないが、ゴブリン達の姿は無く、あの独特の奇声も聞こえない。
村の全容など殆ど覚えていないけど、ひとまず見える範囲から手当たり次第に民家へ行く。それが、俺が外に出た理由だった。
カンデラさんは“ああ”言っていたが、それは訂正せざるを得ない。この村で一番力があるのは、間違いなく俺だろう。真面目に試したことは無いが、あのマンティコアに襲われた時を思い出す限り、身体の丈夫さもそれなりにあるはずだ。そんな俺が、あんな話を聞いて黙って部屋の隅で縮こまっていて良いわけが無い。
もちろん死ぬ気は無い。死んだら金は使えないからな。頑張って日本に戻る意義が無くなってしまう。元も子もない。……ただ、そう、死なない程度に頑張るくらいなら、あの冷たい社会の中で何度もやってきたことだ。どうってことはない。
そう思うが早く、俺は一番近い民家まで駆けた。元の身体では考えられない程の加速を生み出した一足目に釣られて、身体が遅れて前に出た。
ああ。そういえば本気で走るのは試していなかった――そう考えた頃には、目測五百メートルはあっただろう距離を走り終えていた。一瞬、今の出来事について深く考え込みそうになる所を止め、俺は民家の扉を開けた。
木造独特の甲高い音が耳に入ってくると同時に、今まで嗅いだことが無い臭いが鼻を刺激した。近いもので言えば、ニブルをこの手で解体した時の臭いと似ている。……嫌な予感が全身を襲ったが、ここまで来て引き返すわけにもいかず、中へと入る。
見れば家の中は家具が乱雑に散らかっており、まともな原形を保っている物を探す方が難しいような惨状だった。それ等を気にしないようにして構わず足を進めるほど強くなる異臭。
本当の事を言えば、俺は分かっていた。どのような結果になっているのかを。ここまでの状況を見せられておいて、今更“誰かいませんか”などと叫べるほど、正義感に満ちた性格は持ち合わせていない。
だから、台所のすぐ傍に転がっている身体の大部分が“喰い荒らされた”村人の死体を見た時、驚きはしなかった。独特の“死臭”を撒き散らしていた原因を見て、いっそ納得したくらいだ。
ゴブリン達が静かなのは、要は、こういうことなのだ。食事をしている真っ最中であって、その殆どが民家の中で行われているだろうと。……不意に、場違いな笑いがこみ上げそうになり、堪える。
こんな事が現実として自分の目の前にあるという事実が、どうしようもなく有り得なくて、今日俺によくしてくれたかもしれない村の人が骨を露出させる程までに食われていることを認めたくなくて。
逃げるようにしてこの民家から出た俺は、次に目に入った民家に入る。村人は喰われていた。次の民家に入ると、村人は喰われていた。その次の民家だと、村人は喰われていた。その次も、次も、その次も、全員例外なく、その肉という肉をしゃぶられたかの様に喰われていたのだ。
この時の俺は間違いなく狂っていたんだろう。何を思うわけでもなく、淡々と死体を見て、見終えると次へ、その一連の動きを繰り返していた。何か些細なものでも自分の内から出してしまえば、止まらなくなるだろうと思ったからだ。
そうして十軒ほど見回り終わった頃、声が聴こえた。か細く、雨の音に?き消されそうなくらいの声。
自分の身体に火が付いたような気がした。忘れていた全てが全部表に出てしまいそうになるのを我慢して、俺は全力で声が聴こえた方角へと走る。一瞬で、まだ立ち寄っていない民家が見えてきて、俺は走っている勢いを殺さず、そのまま扉にタックルし、転がるようにして民家に入った。
「だ、誰か……誰かいませんか!」
村長の家から出て、初めて声を発したが、その声は思った以上に震えていた。助けに来たにしては随分頼りない声だったが、静かな民家の中には良く響き渡る。声を出し切り、口を開けたまま待ち、聞こえた。
「あっ……! おかあさん、おとう、さん……!」
二階から聞こえてきた幼い声。それは俺と同じく、外に出てから初めて聞いた他人の声でもあった。まだ生きている人がいる、それだけで俺は全てが救われたような気持ちを感じた。
しかし、急いで階段を駆け上り、一番最初に目に入ったものは、またも喰い荒らされた死体だった。死体は二つあり、先程の声から察するに、両親だろう。……その時、異臭が強まった。ここまで、こうまでして、執拗に全てを喰らってきたゴブリン。ならば、生きている人間を見逃すはずがないのだ。
ゆっくり死体から視線を上げると、一つの扉に群がるゴブリン達の姿が目に入った。数にして五匹。その五匹が涎を盛大に床へ垂らしながら、目の前にある扉を叩いていた。大きさは俺の腰ほどしか無いが、力は人並み以上にあるらしく、叩かれるたびに木製の扉には“ひび”が入り、今にも壊れてしまいそうに見える。
躊躇なんてあるわけがなかった。外見が赤ん坊に似てようが、命を奪うだとか関係なく。ただただ無心に、一番手前のゴブリンに向けて全力で踏み込み、全力で顔を殴った。拳が触れるか触れないかのところで“爆ぜた”ゴブリンの頭に納得しながら、今頃異常に気付いた残りのゴブリン達に同じ拳を食らわせ、結果、廊下に転がるゴブリンの死体に頭が残っているものは残っていなかった。
つい今までゴブリンの奇声が響いていた廊下は急に静まり、その所為か、俺は自分の心臓が壊れたかのように鳴り続けている事に気付いた。……意外と、殺したことには何とも思わなかったらしい。一つ感想を言わせてもらうとすれば、右手にこびり付いたゴブリンの成れの果てが非常に気持ち悪いと、それくらいだ。しかし、ここまで落ち着いた思考が出来ているにもかかわらず、鼓動は落ち着こうとしなかった。
と、ここまで考えておいて、俺は何でここまで来たのかを思い出した。どうやら両親は手遅れだったようだが、子供は生きているのだ。
急いで扉の前にかたまっているゴブリンの死体をどけると、壊れる寸前だった扉を開ける。電気だなんて気の利いた物はおろか、その代わりになる物すら無い為に、真っ暗な部屋が視界いっぱいに広がる。
すると、俺が部屋に足を一歩踏み入れると同時に、部屋の隅の方で何かが身じろぐような音が聞こえた。目を凝らすと、微かな影が見える。
「誰か……いるのか?」
声を出すと、それに反応するように影が震えた。間違いない、まだ生きている人がいた。
俺は刺激しないようにゆっくりと近付く。近付くにつれ、その影は毛布のような物を被っていることが確認出来た。大きさから見て、子供なのは間違いないだろう。
「大丈夫だ、外にいた化け物はもういないよ」
そう言って、俺は毛布の上から頭と思われる部分を触る。遅れて、すすり泣く声が聞こえてきた。
「……く、ひっ、うぅ」
ゆっくり毛布を外すと、暗闇の中でも良く映える金髪が見え、その顔は見覚えのある顔だった。……そう、確かエルスの部屋で一緒に授業を受けていた時に見たような気がする。未だに泣き止むことの無い女の子は、やけに強気だったあの金髪の子に違いなかった。
そこに、家の外から“あの”奇声が聞こえてきた。声の大きさから言って、そう遠くは無い。……ここに居続けていたら、またあいつらがこの部屋を囲むだけになるだろう。
「ちょっとごめんね」
「ひうっ」
俺は断りを入れると、女の子を片手で抱きかかえ、部屋から出る。なるべく両親の遺体を見せないように目を隠しながら下の階に降りると、壊れたままの玄関から勢いよく飛び出した。
そんなに時間は経っていないはずだが、雨が止んでいることに気付く。……ひとまず、村長の家に戻ったほうが良さそうだ。このまま女の子を抱きかかえたまま他の人を探すのは無理だろう。そう思って村長の家の方へ目を向けたところで、俺は一瞬息が詰まる。
雨が止み、分厚い雲が風によって流され、月が顔を出している。その月明かりの下、一際光を放っている村長宅の周囲に物凄い数のゴブリンが集まっていた。
何日も掛けた宴会場作りだったが、それ等を破壊することがこうも簡単だと誰が思っただろうか。
カンデラさんが危険を知らせに広場へ来て、すぐさまラザフォードさんが周りに村長宅への避難を指示。皆が広場から離れ終わる頃、森から影が出て来た所を俺は見ていた。
ゴブリンと言えば、獣と人を足した顔を醜悪に歪め、腰布を巻いた背の低いものを想像していた。しかし、この世界で言うゴブリンとは、俺の想像とは全く違うものだった。言葉にすることは簡単だ、人間の赤ん坊を筋肉質にし、その表情が下種な笑いを帯びている、それがゴブリンだ。
最初は一匹、回りを確認しながらゆっくり出てきたかと思うと、その後ろから一匹、二匹、十匹、二十匹。三十匹になろうと言う所で、俺はラザフォードさんに襟首を掴まれて、無理矢理その場から避難させられていた。
そう、俺は動けなかった。理由は単純なものであり、恐怖で足が竦んでいたんだ。
当たり前だろう。ヒトに近い外見でありながら、その実、現実ではありえないような要素を備えていて、その全てが悪意を持ってこちらに向かってくるのだ。ニブルのような、明らかな動物ならば納得が出来る。この世界の動物は、“こう”なんだろうと。しかし、アレは違う。生物という枠を超えていると言うのか、全く違う体系から不意に生じた悪意、そんな存在に感じた。確かに、“魔物”とはああいった生き物を指すに違いない。
そうして俺はラザフォードさんに連れられながら、何度も振り返り破壊されてゆく広場を見ていることしか出来なかった。
▼
村長の家に着てから一時間くらいだろうか。いつの間にかリビングの隅で縮こまりながらずっと呆けたようにこの世界のことを考えていた俺は、ふと周りを見渡した。押し込むようにして入れられた百人余りの村人たちは、驚くほど静かに家族と身を寄せ合っていた。耳を澄ませば、微かなすすり泣く声が聴こえてくる。
魔物。エルスの授業で少し話題に出たことがある。確か、魔物は唐突に世界へ現れて、魔物独自の生殖方法でその数を増やし、増えすぎた頃に人を襲いだすらしい。だがそれは弱い固体の例で、たまに強過ぎる魔物が現れた時は、国規模での対応を余儀なくされるとか。果たしてこのゴブリンはどの程度の脅威なのか。それすらも分からず、いや、分からない故に俺はこんなに恐怖しているんだろう。
じっとしていることに耐えられなくなった俺は立ち上がると、ラザフォードさんが居るだろうと思われる二階へ向かうことにした。微かに、この状況を何とか出来る案が既に出ていることを期待して。
しかし、階段を上がりきる頃に俺の耳へ届いた怒声は、そんな期待を容易に裏切るものだった。
「馬鹿なことを言うな! ゴブリン二、三体でも俺一人で命と引き換えにしてやっと殺せるくらいだってのに、それが二十体以上居るんだぞ! 立て篭もった所で、どうにかなる問題じゃねえ!」
「じゃあ、お前は俺にどうしろと言うんだ! 全員散り散りに逃げさせて、一人一人殺されてゆくのを容認しろと? 馬鹿な! それこそ馬鹿げている」
「じゃあ、今も村で自身の家に居るだろう、そいつらはどうするってんだよ!」
「ぐ……それは……」
どうやらカンデラさんとラザフォードさんが言い争っているようだが、その内容は声色と同じく穏やかなものではない。
村の総人口なんて気にしたことも無かったが、言われてみれば村とはいえ全員がこの家に入ることなど出来るわけがない。それは、まだこの家の外に逃げ遅れた人達が居るという事をこれでもかと物語っている。
「ラザフ、やっぱよ、最初に言った通り俺が出来るだけ街に近付いて伝えるしかねえよ。自分で言うのもなんだが、俺はこの村で一番腕が立つと思ってる。俺以外にこの役目は果たせねえよ」
「俺も言ったはずだ。お前の保有魔力では伝達限界まで辿り着く前にやられると。……むざむざ友人を死に追いやるような真似は出来んよ、俺には」
「……はあ。また最初に戻っちまったな。もう一度言うぞ、立て篭もっているだけじゃあ何も変わりはしねえ、全員死ぬだけだ」
どうしてかはわからない。わからないが、急速に現実味が薄れてゆく感覚を俺は感じていた。そのまま堂々巡りを繰り返す会話を聞き流しながら、それがどうしてかを考え、思った。二人とも、死ぬことが当たり前という前提で話しているのだ。
死、というものは一体なんなのか。日本でも死というものは目の当たりにすることなく、平々凡々と生きてきた俺にとって、それは未知以外の何物でもなく。精々テレビのニュースや新聞で誰々が死んだという情報だけが俺にとっての死であり。それが、この場で目の前に起こり得る――もう起こっているのかもしれない――事として語られている。あの、見ず知らずの俺に対して優しくしてくれた人達が、その口で言っているのだ。“どちらにしろ死ぬ”と。
現実味が薄れていった後、俺の中で表れた感情がどういったものなのか。自分でも上手く説明することは出来ない。一つ言える事は、俺の足は階段を降り始めていて。気付けば、外と通じる扉を開けていた。
▼
外に出て、最初に出迎えてくれたものは雨だった。
ついさっきまで煌々と村中に光を行き渡らせていた広場の火は消され、嘘のように凝り固まった静けさと暗さが目の前に広がる。……理由は分からないが、ゴブリン達の姿は無く、あの独特の奇声も聞こえない。
村の全容など殆ど覚えていないけど、ひとまず見える範囲から手当たり次第に民家へ行く。それが、俺が外に出た理由だった。
カンデラさんは“ああ”言っていたが、それは訂正せざるを得ない。この村で一番力があるのは、間違いなく俺だろう。真面目に試したことは無いが、あのマンティコアに襲われた時を思い出す限り、身体の丈夫さもそれなりにあるはずだ。そんな俺が、あんな話を聞いて黙って部屋の隅で縮こまっていて良いわけが無い。
もちろん死ぬ気は無い。死んだら金は使えないからな。頑張って日本に戻る意義が無くなってしまう。元も子もない。……ただ、そう、死なない程度に頑張るくらいなら、あの冷たい社会の中で何度もやってきたことだ。どうってことはない。
そう思うが早く、俺は一番近い民家まで駆けた。元の身体では考えられない程の加速を生み出した一足目に釣られて、身体が遅れて前に出た。
ああ。そういえば本気で走るのは試していなかった――そう考えた頃には、目測五百メートルはあっただろう距離を走り終えていた。一瞬、今の出来事について深く考え込みそうになる所を止め、俺は民家の扉を開けた。
木造独特の甲高い音が耳に入ってくると同時に、今まで嗅いだことが無い臭いが鼻を刺激した。近いもので言えば、ニブルをこの手で解体した時の臭いと似ている。……嫌な予感が全身を襲ったが、ここまで来て引き返すわけにもいかず、中へと入る。
見れば家の中は家具が乱雑に散らかっており、まともな原形を保っている物を探す方が難しいような惨状だった。それ等を気にしないようにして構わず足を進めるほど強くなる異臭。
本当の事を言えば、俺は分かっていた。どのような結果になっているのかを。ここまでの状況を見せられておいて、今更“誰かいませんか”などと叫べるほど、正義感に満ちた性格は持ち合わせていない。
だから、台所のすぐ傍に転がっている身体の大部分が“喰い荒らされた”村人の死体を見た時、驚きはしなかった。独特の“死臭”を撒き散らしていた原因を見て、いっそ納得したくらいだ。
ゴブリン達が静かなのは、要は、こういうことなのだ。食事をしている真っ最中であって、その殆どが民家の中で行われているだろうと。……不意に、場違いな笑いがこみ上げそうになり、堪える。
こんな事が現実として自分の目の前にあるという事実が、どうしようもなく有り得なくて、今日俺によくしてくれたかもしれない村の人が骨を露出させる程までに食われていることを認めたくなくて。
逃げるようにしてこの民家から出た俺は、次に目に入った民家に入る。村人は喰われていた。次の民家に入ると、村人は喰われていた。その次の民家だと、村人は喰われていた。その次も、次も、その次も、全員例外なく、その肉という肉をしゃぶられたかの様に喰われていたのだ。
この時の俺は間違いなく狂っていたんだろう。何を思うわけでもなく、淡々と死体を見て、見終えると次へ、その一連の動きを繰り返していた。何か些細なものでも自分の内から出してしまえば、止まらなくなるだろうと思ったからだ。
そうして十軒ほど見回り終わった頃、声が聴こえた。か細く、雨の音に?き消されそうなくらいの声。
自分の身体に火が付いたような気がした。忘れていた全てが全部表に出てしまいそうになるのを我慢して、俺は全力で声が聴こえた方角へと走る。一瞬で、まだ立ち寄っていない民家が見えてきて、俺は走っている勢いを殺さず、そのまま扉にタックルし、転がるようにして民家に入った。
「だ、誰か……誰かいませんか!」
村長の家から出て、初めて声を発したが、その声は思った以上に震えていた。助けに来たにしては随分頼りない声だったが、静かな民家の中には良く響き渡る。声を出し切り、口を開けたまま待ち、聞こえた。
「あっ……! おかあさん、おとう、さん……!」
二階から聞こえてきた幼い声。それは俺と同じく、外に出てから初めて聞いた他人の声でもあった。まだ生きている人がいる、それだけで俺は全てが救われたような気持ちを感じた。
しかし、急いで階段を駆け上り、一番最初に目に入ったものは、またも喰い荒らされた死体だった。死体は二つあり、先程の声から察するに、両親だろう。……その時、異臭が強まった。ここまで、こうまでして、執拗に全てを喰らってきたゴブリン。ならば、生きている人間を見逃すはずがないのだ。
ゆっくり死体から視線を上げると、一つの扉に群がるゴブリン達の姿が目に入った。数にして五匹。その五匹が涎を盛大に床へ垂らしながら、目の前にある扉を叩いていた。大きさは俺の腰ほどしか無いが、力は人並み以上にあるらしく、叩かれるたびに木製の扉には“ひび”が入り、今にも壊れてしまいそうに見える。
躊躇なんてあるわけがなかった。外見が赤ん坊に似てようが、命を奪うだとか関係なく。ただただ無心に、一番手前のゴブリンに向けて全力で踏み込み、全力で顔を殴った。拳が触れるか触れないかのところで“爆ぜた”ゴブリンの頭に納得しながら、今頃異常に気付いた残りのゴブリン達に同じ拳を食らわせ、結果、廊下に転がるゴブリンの死体に頭が残っているものは残っていなかった。
つい今までゴブリンの奇声が響いていた廊下は急に静まり、その所為か、俺は自分の心臓が壊れたかのように鳴り続けている事に気付いた。……意外と、殺したことには何とも思わなかったらしい。一つ感想を言わせてもらうとすれば、右手にこびり付いたゴブリンの成れの果てが非常に気持ち悪いと、それくらいだ。しかし、ここまで落ち着いた思考が出来ているにもかかわらず、鼓動は落ち着こうとしなかった。
と、ここまで考えておいて、俺は何でここまで来たのかを思い出した。どうやら両親は手遅れだったようだが、子供は生きているのだ。
急いで扉の前にかたまっているゴブリンの死体をどけると、壊れる寸前だった扉を開ける。電気だなんて気の利いた物はおろか、その代わりになる物すら無い為に、真っ暗な部屋が視界いっぱいに広がる。
すると、俺が部屋に足を一歩踏み入れると同時に、部屋の隅の方で何かが身じろぐような音が聞こえた。目を凝らすと、微かな影が見える。
「誰か……いるのか?」
声を出すと、それに反応するように影が震えた。間違いない、まだ生きている人がいた。
俺は刺激しないようにゆっくりと近付く。近付くにつれ、その影は毛布のような物を被っていることが確認出来た。大きさから見て、子供なのは間違いないだろう。
「大丈夫だ、外にいた化け物はもういないよ」
そう言って、俺は毛布の上から頭と思われる部分を触る。遅れて、すすり泣く声が聞こえてきた。
「……く、ひっ、うぅ」
ゆっくり毛布を外すと、暗闇の中でも良く映える金髪が見え、その顔は見覚えのある顔だった。……そう、確かエルスの部屋で一緒に授業を受けていた時に見たような気がする。未だに泣き止むことの無い女の子は、やけに強気だったあの金髪の子に違いなかった。
そこに、家の外から“あの”奇声が聞こえてきた。声の大きさから言って、そう遠くは無い。……ここに居続けていたら、またあいつらがこの部屋を囲むだけになるだろう。
「ちょっとごめんね」
「ひうっ」
俺は断りを入れると、女の子を片手で抱きかかえ、部屋から出る。なるべく両親の遺体を見せないように目を隠しながら下の階に降りると、壊れたままの玄関から勢いよく飛び出した。
そんなに時間は経っていないはずだが、雨が止んでいることに気付く。……ひとまず、村長の家に戻ったほうが良さそうだ。このまま女の子を抱きかかえたまま他の人を探すのは無理だろう。そう思って村長の家の方へ目を向けたところで、俺は一瞬息が詰まる。
雨が止み、分厚い雲が風によって流され、月が顔を出している。その月明かりの下、一際光を放っている村長宅の周囲に物凄い数のゴブリンが集まっていた。
3.
今までの十六年間、この村で何不自由なく平和に暮らしてきたエルスという少女にとって、先のゴブリンが襲来した場面は人生で始めて目の当たりにした“惨状”というものであった。
訳も分からぬままに人の流れに巻き込まれ、気付いたら自室に着いていたエルス。ゴブリンの奇声と、人の悲鳴、それ等が混ざり合った黄色い音が耳の中にこびり付いたまま離れようとしない。
知識としては有ったのだ。エルスは村の中だけで言えば、博識の範疇に入る娘である。識字率すら五十パーセントを切る村の中で、世界の成り立ちや世の常識、果てには魔物の種別すら知識として持っている者はエルス、それにラザフォードくらいであろう。
魔物とは。エルスは濁った思考の中で、ゆっくりと起源を思い出していた。
魔物とは諸諸説あれども、ある一点においては共通していた。あらゆる前提として、邪神が産み落としたという認識だ。おかしなことに、誰も邪神というものを認識していないというのに、その説だけは揺ぎ無いものとして定着しているのだ。エルスを含めて、誰しもが一度は疑問に抱くことでもあるが、結局の所、この世界を創造した神がパーセクであるということが揺るがない事実である事と同じ、そういったレベルでの“事実”という考えに、皆至るのである。
そんな魔物が、この短期間に二度も現れる。エルスは、今までに無く邪神という者の存在を強く感じていた。
そもそも、魔物とは現れるだけでも脅威なのだ。ニブル等の家畜だって、一歩間違えれば命を奪ってくる。そういった生き物だ。それが、森の主に続いてゴブリンまでもが現れた。これを異常としなければ、何が異常か。
耳が痛くなるような静寂の中で、エルスはそこまで考えると、思考することをやめて外に意識を向けた。ここは自分の部屋であるが、見慣れた村人達を含め、何人もの人が居る。皆、広場に居た人達である。そこで、エルスは一人の顔を捜したが、見当たらないことに気付いた。まさかとは思うが、と立ち上がり、階下に降りる。リビングにもこれでもかと人が詰め寄っていたが、そこにもその顔は無かった。
思い返せば、“あの人”は最後まで広場が破壊されていく様を見ていたような気がする。この村で一番の新参者と言ってもいい筈なのに、一番悲しんでいたようにも見えた。……逃げ遅れたのだろうか。
急に心配になったエルスは、もう一度二階に上がると、父親の部屋に行く。父親とはつまりラザフォード、この村の村長である男。しかし、扉を開けて見えたその姿は、村長の威厳など何処にも見えないくらいに憔悴しきっていた。
「お父さん……?」
「ん、ああ、エルスか……どこも怪我はしていないかい?」
「私は大丈夫。お父さんこそ大丈夫?」
エルスが部屋に入ってきたことにすら気付いてなかった所を見る限り、自分よりも疲れているだろう父親を気遣うエルス。その気持ちに気付いたのか、ラザフォードは傍から見ても分かるくらいの強がりで、笑顔を作る。
「ああ、俺なら大丈夫だ。村長だからな、何もせずに疲れるわけないさ」
「それならいいけど……あれ、カンデラさんは?」
と、ここでエルスは先程までこの部屋に居ただろうカンデラの姿が見えないことに気付く。つい先程まで父親と言い合っていたカンデラだが、そのカンデラも家の中に姿がないことにエルスは気付いたのだ。
「アイツか。あれほど止めたんだがな、駄目だ。行ってしまったよ」
「行ったって、何処に? 外にはゴブリンがいっぱい居るんでしょう?」
「“ジーメンス”だよ。アイツ、討伐隊を呼んでくるって聞かなくて、ついさっき出て行った」
そう言って、ラザフォードはまた先程と同じように顔を俯かせる。
エルスは何も言えなかった。客観的に見れば、討伐隊を呼ぶのは正しい。ゴブリン、それも何十体ともなれば、一個の村ではどうしようもないのだ。どうにかしたいのであれば、その選択は唯一の物であると言わざるを得ない。
しかし、父親の気持ちも分かってしまう。ラザフォードとカンデラは昔からの友人で、その友人をむざむざ死ぬと分かっている場所に放り込むというのは、どれ程悲しいことか。
転がり落ちるように重くなっていく空気に耐え切れなくなったエルスは、この部屋に来た当初の目的を思い出し、口を開く。
「そういえばお父さん、タクマさんって見てない? 私の部屋、それにリビングも見たんだけど居なくて」
「居ない? いや、それはおかしい。タクマなら俺が最後にこの手で引っ張ってきたんだ、確かに居るはずだ」
それを聞いたエルスは部屋を出ると、もう一度家中を隈なく探した。しかし、その姿は無い。嫌な予感が頭をよぎり、堪らず出入り口の近くに居た男に聞く。
「あの、黒い髪の男の人が出て行きませんでしたか?」
聞かれた男は無気力な目をエルスに向けると、思い出すように宙へ目を向け、応える。
「そういや、さっき一人出て行ったな。止める間もなくって具合に、飛び出してったよ。その後にカンデラさんも出て行ったが……」
やはり、という気持ちと何故、という気持ち。その二つが、エルスの中で互いに顔を出す。……先程から、日常から掛け離れた事ばかりがあった。だから、エルスは疲れていたのだろう。でなければ、普段の聡明さを携えたエルスならば、今この場で“扉を開けて外を確認する”なんて行いは、決してしない筈なのだ。
流れるように鍵を開けられ、軋んだ音を鳴らしながらゆっくりと開く扉。雨が降った後特有の湿った空気が流れ込むと同時に、エルスの目に青い筋のような物が映った。それは一直線に自分の首元へ届いたかと思えば、服を握った。夜の闇に紛れたそれは、血管が浮いた浅黒い色の腕であり。
現状に反してゆっくりと状況を理解し続ける脳に焦りながら正面を見たエルスは、小さく悲鳴を挙げた。扉の隙間から伸びている腕を辿ると、満面の笑みを浮かべたゴブリンが立っていたのだ。只でさえ醜悪な顔であるというのに、そこに笑みなんてものが混じれば、それは狂気以外の何物でもない。
やっとのことで現状を理解したエルスであったが、それは理解したところでどうにもならない事でしかなかった。瞬時に引っ張られ、外に引き摺り出される形となったエルスの周囲には、何匹ものゴブリンが取り囲んでいた。
待っていたのだ。一瞬の隙を見せる、その時まで。あんなに甲高く響いていた奇声を押し殺し、こんな近くにまで。しかし、今更それに気付いたところで、そのゴブリンの中心に居るエルスには、既に絶望の二文字しか頭に浮かばないだろう。
笑っていた。一匹の例外無く、全てのゴブリンがその顔に笑みを浮かべているのだ。それはそうだろう、獲物が自分から扉を開けたのだ。……エルスの耳に、背後からの悲鳴が聞こえてくる。その事実にエルスの頭は、“どちらにしろこうなっていた”という答えを出した。
「や、いやだ……」
頭の中では、冷静に思考出来ていたはずだったが、口から出る言葉は否定のみ。こうじゃなかった、こうなるはずでは。日常がこうも簡単に壊れてしまったことに、自分が切っ掛けを作ってしまったことに、自分の無力さに、涙が出た。
そこに、呆然と涙を流し続けるエルスの前に、ゴブリンの中でも一際身体の大きい固体が現れた。エルスの頭は勝手に、級詞持ちだということを認識する。確か本では《バージゴブリン》と記述されていたと。
背丈は三メートルを超えるだろう、その巨体がゆっくりとエルスに近付き、その丸太のような腕がエルスの身体を捉えた。既に血で塗れた手に捕まえられたエルスは、醜悪さを極めたようなバージゴブリンの顔が近付いてくるにつれ、初めて恐怖心が噴き出した。見てしまったのだ、バージゴブリンの口にこびり付く“人間だった物”を。それは髪の毛であったり、骨の破片であったり、肉片であったり。
「いやっ、嫌だ! 死にたくない、死にたくないよお!」
短い人生の中、こんなに力を出したことが無いと言い切れるぐらいに何とか逃れようとするも、バージゴブリンの顔……口は更に迫り、拘束する力が緩む素振りも無い。
不意に、エルスの顔に生温い吐息が掛かる。それは紛れも無い死の臭いがした。途端に力が入らなくなり、その視界には大きく開かれたバージゴブリンの口が映る。これが、最後に見る光景なのか。それは嫌だ、そう思ったエルスは強く目を瞑った。せめて最後は良い記憶を思い出しながら死にたい、と。
そうして身を任せるまま、あの生温い吐息が上半身全体で感じられるようになった、その時だった。ふわりと、夜の冷えた空気が吹いた。それと同時に、何かがぶつかる音が聞こえ、急な浮遊感がエルスを襲った。思わず目を開けると、今の今まで自分のことを握っていたバージゴブリンが倒れる所で、ということは、地面に落ちるところなのか。そう理解したところで、エルスが予想していたよりは柔らかい感触が腰の辺りを包んだ。
「――あ、タクマ、さん?」
「そうだけど。……ああ、ごめん、この子をちょっと見ててもらってもいいかな」
そう言って、エルスをゆっくりと地面に降ろすと、タクマは背中に抱きつかせていた女の子をエルスに渡す。
見ればタクマは全身血だらけで、一体外に出て何をしていたのか、とにかく色々と聞きたかったエルスであったが、それを遮るようにタクマは背を向けると、周りを取り囲むゴブリンへ一瞬で距離を詰めていた。
▼
焦っていた。確かに数が少ないと思っていたが、まさかラザフォードさんの家にあそこまで集まっているとは。ひとまず女の子を背中におぶる形で掴まらせた俺は、全力でラザフォードさんの家へ走っていた。なんせ、あそこには全ての村人――逃げ遅れた人はほぼ全て死んでいた為――が居るに等しいのだから。
全力で走った結果は先程感じたけど、やはり慣れないもので、あれだけ遠くに感じたラザフォードさんの家は一瞬で目の前に広がる光景となった。そして、頭が見えているものを理解する前に俺は走っていた勢いを乗せたまま跳び上がり、慣性の任せるままに“誰か”を今まさに喰おうとしていたデカゴブリンに蹴りを食らわせた。
思った以上に勢いがあったのか、デカゴブリンは握っていた誰かを手から離し、そのまま倒れる。それを地面に着地しながら見ていた俺は、慌てて落ちてくる誰かの下に行き、受け止める。
呆然とした様子で宙を見たまま固まっている“彼女”は、俺の良く知っている人だった。
「――あ、タクマ、さん?」
そう言って、やっと理解が追いついたのだろうエルスは、なんでもない風に聞いてくる。
「そうだけど」
つい俺も普通に応えてしまったが、そうじゃない。周りに目をやれば、エルスと同じくゴブリン達も驚いているようで動きを止めている。……今しかない。
そう思ったところで、俺は背中に感じる重みを思い出す。そういえば、あの子を背負ったままだった。遠慮無しに動いちゃったけど、大丈夫だろうか。見れば気を失っているようで、しかしその両手は硬く俺の両肩を掴んでいる。悪いことをしてしまった。
「ああ、ごめん、この子をちょっと見ててもらってもいいかな」
エルスを一先ず地面に降ろすと、俺は女の子をエルスに預けながら言う。
何か言いたげな顔をしているエルスだが、今の状況を見るに、そこまで悠長なやり取りをしているわけにはいかない。
周りを見て、一番近くで動揺しているゴブリンに狙いを定める。……今、最優先でやらなければならないのは、ゴブリンの数を減らすことだ。俺一人じゃあとてもじゃないが、村の人全員を気にしながら何十匹ものゴブリンを相手にするなんて器用なことは出来ない。
そう決めるが早く、俺は右足に力を入れると、そのまま地面を蹴った。
今までの十六年間、この村で何不自由なく平和に暮らしてきたエルスという少女にとって、先のゴブリンが襲来した場面は人生で始めて目の当たりにした“惨状”というものであった。
訳も分からぬままに人の流れに巻き込まれ、気付いたら自室に着いていたエルス。ゴブリンの奇声と、人の悲鳴、それ等が混ざり合った黄色い音が耳の中にこびり付いたまま離れようとしない。
知識としては有ったのだ。エルスは村の中だけで言えば、博識の範疇に入る娘である。識字率すら五十パーセントを切る村の中で、世界の成り立ちや世の常識、果てには魔物の種別すら知識として持っている者はエルス、それにラザフォードくらいであろう。
魔物とは。エルスは濁った思考の中で、ゆっくりと起源を思い出していた。
魔物とは諸諸説あれども、ある一点においては共通していた。あらゆる前提として、邪神が産み落としたという認識だ。おかしなことに、誰も邪神というものを認識していないというのに、その説だけは揺ぎ無いものとして定着しているのだ。エルスを含めて、誰しもが一度は疑問に抱くことでもあるが、結局の所、この世界を創造した神がパーセクであるということが揺るがない事実である事と同じ、そういったレベルでの“事実”という考えに、皆至るのである。
そんな魔物が、この短期間に二度も現れる。エルスは、今までに無く邪神という者の存在を強く感じていた。
そもそも、魔物とは現れるだけでも脅威なのだ。ニブル等の家畜だって、一歩間違えれば命を奪ってくる。そういった生き物だ。それが、森の主に続いてゴブリンまでもが現れた。これを異常としなければ、何が異常か。
耳が痛くなるような静寂の中で、エルスはそこまで考えると、思考することをやめて外に意識を向けた。ここは自分の部屋であるが、見慣れた村人達を含め、何人もの人が居る。皆、広場に居た人達である。そこで、エルスは一人の顔を捜したが、見当たらないことに気付いた。まさかとは思うが、と立ち上がり、階下に降りる。リビングにもこれでもかと人が詰め寄っていたが、そこにもその顔は無かった。
思い返せば、“あの人”は最後まで広場が破壊されていく様を見ていたような気がする。この村で一番の新参者と言ってもいい筈なのに、一番悲しんでいたようにも見えた。……逃げ遅れたのだろうか。
急に心配になったエルスは、もう一度二階に上がると、父親の部屋に行く。父親とはつまりラザフォード、この村の村長である男。しかし、扉を開けて見えたその姿は、村長の威厳など何処にも見えないくらいに憔悴しきっていた。
「お父さん……?」
「ん、ああ、エルスか……どこも怪我はしていないかい?」
「私は大丈夫。お父さんこそ大丈夫?」
エルスが部屋に入ってきたことにすら気付いてなかった所を見る限り、自分よりも疲れているだろう父親を気遣うエルス。その気持ちに気付いたのか、ラザフォードは傍から見ても分かるくらいの強がりで、笑顔を作る。
「ああ、俺なら大丈夫だ。村長だからな、何もせずに疲れるわけないさ」
「それならいいけど……あれ、カンデラさんは?」
と、ここでエルスは先程までこの部屋に居ただろうカンデラの姿が見えないことに気付く。つい先程まで父親と言い合っていたカンデラだが、そのカンデラも家の中に姿がないことにエルスは気付いたのだ。
「アイツか。あれほど止めたんだがな、駄目だ。行ってしまったよ」
「行ったって、何処に? 外にはゴブリンがいっぱい居るんでしょう?」
「“ジーメンス”だよ。アイツ、討伐隊を呼んでくるって聞かなくて、ついさっき出て行った」
そう言って、ラザフォードはまた先程と同じように顔を俯かせる。
エルスは何も言えなかった。客観的に見れば、討伐隊を呼ぶのは正しい。ゴブリン、それも何十体ともなれば、一個の村ではどうしようもないのだ。どうにかしたいのであれば、その選択は唯一の物であると言わざるを得ない。
しかし、父親の気持ちも分かってしまう。ラザフォードとカンデラは昔からの友人で、その友人をむざむざ死ぬと分かっている場所に放り込むというのは、どれ程悲しいことか。
転がり落ちるように重くなっていく空気に耐え切れなくなったエルスは、この部屋に来た当初の目的を思い出し、口を開く。
「そういえばお父さん、タクマさんって見てない? 私の部屋、それにリビングも見たんだけど居なくて」
「居ない? いや、それはおかしい。タクマなら俺が最後にこの手で引っ張ってきたんだ、確かに居るはずだ」
それを聞いたエルスは部屋を出ると、もう一度家中を隈なく探した。しかし、その姿は無い。嫌な予感が頭をよぎり、堪らず出入り口の近くに居た男に聞く。
「あの、黒い髪の男の人が出て行きませんでしたか?」
聞かれた男は無気力な目をエルスに向けると、思い出すように宙へ目を向け、応える。
「そういや、さっき一人出て行ったな。止める間もなくって具合に、飛び出してったよ。その後にカンデラさんも出て行ったが……」
やはり、という気持ちと何故、という気持ち。その二つが、エルスの中で互いに顔を出す。……先程から、日常から掛け離れた事ばかりがあった。だから、エルスは疲れていたのだろう。でなければ、普段の聡明さを携えたエルスならば、今この場で“扉を開けて外を確認する”なんて行いは、決してしない筈なのだ。
流れるように鍵を開けられ、軋んだ音を鳴らしながらゆっくりと開く扉。雨が降った後特有の湿った空気が流れ込むと同時に、エルスの目に青い筋のような物が映った。それは一直線に自分の首元へ届いたかと思えば、服を握った。夜の闇に紛れたそれは、血管が浮いた浅黒い色の腕であり。
現状に反してゆっくりと状況を理解し続ける脳に焦りながら正面を見たエルスは、小さく悲鳴を挙げた。扉の隙間から伸びている腕を辿ると、満面の笑みを浮かべたゴブリンが立っていたのだ。只でさえ醜悪な顔であるというのに、そこに笑みなんてものが混じれば、それは狂気以外の何物でもない。
やっとのことで現状を理解したエルスであったが、それは理解したところでどうにもならない事でしかなかった。瞬時に引っ張られ、外に引き摺り出される形となったエルスの周囲には、何匹ものゴブリンが取り囲んでいた。
待っていたのだ。一瞬の隙を見せる、その時まで。あんなに甲高く響いていた奇声を押し殺し、こんな近くにまで。しかし、今更それに気付いたところで、そのゴブリンの中心に居るエルスには、既に絶望の二文字しか頭に浮かばないだろう。
笑っていた。一匹の例外無く、全てのゴブリンがその顔に笑みを浮かべているのだ。それはそうだろう、獲物が自分から扉を開けたのだ。……エルスの耳に、背後からの悲鳴が聞こえてくる。その事実にエルスの頭は、“どちらにしろこうなっていた”という答えを出した。
「や、いやだ……」
頭の中では、冷静に思考出来ていたはずだったが、口から出る言葉は否定のみ。こうじゃなかった、こうなるはずでは。日常がこうも簡単に壊れてしまったことに、自分が切っ掛けを作ってしまったことに、自分の無力さに、涙が出た。
そこに、呆然と涙を流し続けるエルスの前に、ゴブリンの中でも一際身体の大きい固体が現れた。エルスの頭は勝手に、級詞持ちだということを認識する。確か本では《バージゴブリン》と記述されていたと。
背丈は三メートルを超えるだろう、その巨体がゆっくりとエルスに近付き、その丸太のような腕がエルスの身体を捉えた。既に血で塗れた手に捕まえられたエルスは、醜悪さを極めたようなバージゴブリンの顔が近付いてくるにつれ、初めて恐怖心が噴き出した。見てしまったのだ、バージゴブリンの口にこびり付く“人間だった物”を。それは髪の毛であったり、骨の破片であったり、肉片であったり。
「いやっ、嫌だ! 死にたくない、死にたくないよお!」
短い人生の中、こんなに力を出したことが無いと言い切れるぐらいに何とか逃れようとするも、バージゴブリンの顔……口は更に迫り、拘束する力が緩む素振りも無い。
不意に、エルスの顔に生温い吐息が掛かる。それは紛れも無い死の臭いがした。途端に力が入らなくなり、その視界には大きく開かれたバージゴブリンの口が映る。これが、最後に見る光景なのか。それは嫌だ、そう思ったエルスは強く目を瞑った。せめて最後は良い記憶を思い出しながら死にたい、と。
そうして身を任せるまま、あの生温い吐息が上半身全体で感じられるようになった、その時だった。ふわりと、夜の冷えた空気が吹いた。それと同時に、何かがぶつかる音が聞こえ、急な浮遊感がエルスを襲った。思わず目を開けると、今の今まで自分のことを握っていたバージゴブリンが倒れる所で、ということは、地面に落ちるところなのか。そう理解したところで、エルスが予想していたよりは柔らかい感触が腰の辺りを包んだ。
「――あ、タクマ、さん?」
「そうだけど。……ああ、ごめん、この子をちょっと見ててもらってもいいかな」
そう言って、エルスをゆっくりと地面に降ろすと、タクマは背中に抱きつかせていた女の子をエルスに渡す。
見ればタクマは全身血だらけで、一体外に出て何をしていたのか、とにかく色々と聞きたかったエルスであったが、それを遮るようにタクマは背を向けると、周りを取り囲むゴブリンへ一瞬で距離を詰めていた。
▼
焦っていた。確かに数が少ないと思っていたが、まさかラザフォードさんの家にあそこまで集まっているとは。ひとまず女の子を背中におぶる形で掴まらせた俺は、全力でラザフォードさんの家へ走っていた。なんせ、あそこには全ての村人――逃げ遅れた人はほぼ全て死んでいた為――が居るに等しいのだから。
全力で走った結果は先程感じたけど、やはり慣れないもので、あれだけ遠くに感じたラザフォードさんの家は一瞬で目の前に広がる光景となった。そして、頭が見えているものを理解する前に俺は走っていた勢いを乗せたまま跳び上がり、慣性の任せるままに“誰か”を今まさに喰おうとしていたデカゴブリンに蹴りを食らわせた。
思った以上に勢いがあったのか、デカゴブリンは握っていた誰かを手から離し、そのまま倒れる。それを地面に着地しながら見ていた俺は、慌てて落ちてくる誰かの下に行き、受け止める。
呆然とした様子で宙を見たまま固まっている“彼女”は、俺の良く知っている人だった。
「――あ、タクマ、さん?」
そう言って、やっと理解が追いついたのだろうエルスは、なんでもない風に聞いてくる。
「そうだけど」
つい俺も普通に応えてしまったが、そうじゃない。周りに目をやれば、エルスと同じくゴブリン達も驚いているようで動きを止めている。……今しかない。
そう思ったところで、俺は背中に感じる重みを思い出す。そういえば、あの子を背負ったままだった。遠慮無しに動いちゃったけど、大丈夫だろうか。見れば気を失っているようで、しかしその両手は硬く俺の両肩を掴んでいる。悪いことをしてしまった。
「ああ、ごめん、この子をちょっと見ててもらってもいいかな」
エルスを一先ず地面に降ろすと、俺は女の子をエルスに預けながら言う。
何か言いたげな顔をしているエルスだが、今の状況を見るに、そこまで悠長なやり取りをしているわけにはいかない。
周りを見て、一番近くで動揺しているゴブリンに狙いを定める。……今、最優先でやらなければならないのは、ゴブリンの数を減らすことだ。俺一人じゃあとてもじゃないが、村の人全員を気にしながら何十匹ものゴブリンを相手にするなんて器用なことは出来ない。
そう決めるが早く、俺は右足に力を入れると、そのまま地面を蹴った。
5.
軽く風船でも割ってしまったかのような破裂音が立て続けに鳴り続ける。その度に頭部を失ったゴブリンが倒れてゆく様を見届け、また近くに居たゴブリンの頭に右拳を叩き付け、破裂音。もはや命を奪う感覚は失せ、単なる作業と化していたように思える。
「次っ!」
思わず出た掛け声に会わせるように、動揺していたゴブリン達が俺に向かって来ていた。……しかしまあ、どいつもコイツも汚い顔をしている。主に涎とか。駄々漏れ。なんでだろう、ハロンから始まって、涎に変な縁でも出来てしまったのだろうか。
嫌な思考に陥りそうだったところで奇声を上げながら走ってくる三匹のゴブリンを観察する。三匹の内二匹は手に木で出来た棍棒を持っている。見た目は予想と違っていても、その辺りはゴブリン然としている、なんて事を考えながら右拳に力を入れる。一瞬だけ後ろを見て二人が安全なことを確認すると、先ずは武器を持っているゴブリンに狙いを定める。
俺が持っている武器は、桁外れな力だけだ。それを効果的に使うには、相手に避けられない為の圧倒的な速さが必要。さらに言えば、俺の体にどれほどの防御力があるのか分からない現状、一撃で倒せれば尚良い。ゴブリンにとっては残念な話だが、俺はそのどれも実行出来るだけの力が備わっていた。
制動なんてする気も無く、ただ真っ直ぐに走り、同じく走ってきていたゴブリンの横を通り過ぎる際に右腕を横に伸ばす。ラリアットの形となったが、俺の腕が通過した後もゴブリンは走り続けていた。ゴブリンの首が持つ耐久以上の力を一瞬で加えた結果だった。
腕に嫌な感触が残ったまま、俺は残る二匹のゴブリンに迫る。どうやらラリアット戦法も問題なく即死級の威力を発揮することが分かったので、今度は両腕を伸ばし、後ろから二匹の間に入る形で通り過ぎる。結果は一匹目と同じだったのは言うまでも無く。
そうして俺が腕に付いた肉片らしき物を落としている時、後ろから声を聞こえた。
「タクマさん!」
エルスの声、と認識した所で、視界が予期していなかった方向に飛んだ。目ではなく身体ごと飛ばされたのだと理解したのは、近くの木に叩き付けられた後だった。
「ぐ、う……いてぇ……」
この世界に来て“二度目”の痛み。一度目は、あのマンティコアもどきに踏まれていた時だった。それを考えれば、ハロンの力を得てからは初めてだろう。
まるで漫画のように木に減り込んだ身体を強引に抜き、前を見る。目測十メートル程の場所に、俺が蹴り飛ばしたデカゴブリンが立っていた。結構飛ばされたのか、俺は。よくもまあ無事だった。
デカゴブリン。あのデカニブルを例にすれば、コイツも級詞持ちとやらなのだろう。他のゴブリンならば人間の赤ん坊に似ている、と表現出来る。しかし、コイツの大きさと見た目からは、とてもじゃないがそんな表現は出来ない。
丸太のような――この世界に来てから比喩表現のインフレが激しい――腕は血に染まっていて、人間と比べたら遥か高みにあるその顔は醜悪の一言では表しきれない表情。あえて表現するならば、赤ん坊の顔を皮膚が許す限りに肥大化させ、その中心に大きな口があり、人間そっくりな歯並びを見せている。濁った目は怒りを宿していて、間違いなくその矛先は俺だ。
デカゴブリンがリーダーなのか、右往左往していた他のゴブリンもいつの間にか俺を包囲するような形でじわじわと距離を詰め始めていた。
しかし、それは俺にとって好都合でもある。エルスや他の村人達が襲われているよりも、こっちの方がやりやすい。
あくまで俺が戦う気だということを理解したのか、デカゴブリンが大きな口を天に向け、吼えた。他のゴブリン達が合わせて奇声を発し、同時に俺に向かって走ってくる。数にして……十一匹か。これで全部だと思いたい。
さっきまでと同じように近いゴブリンから潰していく考えで固まった俺は、迫ってくるゴブリン達に突っ込む形で駆けた。
十数匹も殺せば、効率なんかも考えられる余裕が出てくる。基本的に一撃で殺したい為に頭を狙うのは確定しているが、その潰し方としてはラリアットが一番効率が良いように思えた。利き手で一匹一匹頭を狙って殴るよりも、両腕を上げて適当に横を走るだけでいいのだ。事実、十一匹居たゴブリンの内四匹が、この一瞬の間で悲鳴すら上げずに死んだ。
それでも怯まずに突っ込んでくるゴブリン達を見て何も感じないかと言えば、そうでもない。今更ながら俺は現代人だ。ゆっくり考える時間があれば、それこそこの場に蹲って震え始める自信がある。だけど、今でも視界の端に映るエルス、それに村の人を考えることによって自分を奮い立たせ、目の前のことに集中することによって何とかギリギリ理性を保っていられる。
十一匹目、全力で走り、走り抜けた結果、この場にはデカゴブリンと俺以外には蹲るエルスしか残っていなかった。
「エルス! 今の内に家に入っててくれ! たぶん、小さい奴はもういないはずだから!」
若干上がった息を整えながら、俺はエルスに向かって叫んだ。聞こえたのか、エルスは分かったと頷き、気を失ったままの女の子を抱えてラザフォードさんの家に戻っていく。最初来た時に家を襲っていたゴブリン達もデカゴブリンによって集められたのだろう、こちらから見る限りは安全に見えた。
そこにエルスが動いたことに気付いたのか、デカゴブリンが逃がすまいと腕を伸ばす。
「お前の相手は……俺だろうが!」
跳び蹴り。二度目となったその蹴りは、一度目と同じく見事にデカゴブリンの脇腹に当たり、嫌な感触が足に伝わってくる。しかし今度は倒れず、俺が反動で地面に着地する直前、エルスに伸ばされていたはずの腕が俺に迫っていた。
「は、速っ――」
着地することが叶わず宙で叩き落とすように殴られた俺は、そのまま地面に激突する。
「ぐおおお、いてええええええええ!」
普通は痛いじゃ済まないのだろうが、元々こういった痛みを感じるような生き方をしていなかった俺にとって、地面に叩き付けられるというのは二つの意味で衝撃を受けた。上手い事を考えている場合ではない。
急いで顔を上げれば今度はデカゴブリンの足が迫っており、慌てて地面に減り込んだ体を起こして避ける。空振りしたはずの足は、とても生物が出せる足音ではないレベルの破砕音を周囲に撒き散らしていた。
集中しよう。俺は体制を整えているデカゴブリンを見ながら、ゆっくりと深呼吸をする。
さっきから二回ほど派手な攻撃を食らったが、幸運なことに大したダメージは無い。骨が折れた様子も無ければ、下手すれば捻挫すらしていないだろう。つまり、今すぐにでも俺は全力を出せるということだ。対してデカゴブリンを見れば、コイツも二回ほど派手に攻撃してやったが、その攻撃した部位は赤黒く変色している。内出血、上手くいけば内臓までダメージが行っているはず。つまり、機敏に動けているように見えても、確実にダメージは残っているということだ。
もう一度深呼吸をする。……このまま攻撃しても、殺し切るには何度も蹴る殴るを繰り返さなければならないだろう。今のところ問題は無いが、もし、当たり所が悪くて俺が死んだら? それは困る。……そう、あくまで一撃で殺せるのならば、その方が良い。
周りを見る。正面にはデカゴブリン、左手には村長の家。右手には俺が来た道。後ろは、遠くまで開けた道がある。……俺の武器が“力”だけという現状を見るに、即席で殺傷力を増すのは無理だ。しかし、そこにさっきまで以上の速さを加えることは出来るだろう。思うが早く、俺はデカゴブリンに背を向けると、全力で走り始めた。
時間にして六秒ほどで村の境界線らしき場所まで辿り着いた俺は、もう一度振り返る。豆粒のような光を発しているのが、さっきまで居た村長宅だ。……これくらいの助走があれば、いけるだろう。
もう一度、来た道を戻る形で走る。まるでSF映画のワープ演出のように歪んだ景色が遅れて外に流れ出す。それでも視界の中心は驚くべき速さで接近するデカゴブリンを捉えていて。
デカゴブリンが俺に気付いたのか腕を振り上げた瞬間、俺は浅く跳びながら右足を前に出し、“通り抜けた”。
文字通りデカゴブリンの身体を抜けてしまった俺は、体制を崩したことで伸ばしていた右足が地面に触れ、それがブレーキとなってようやく止まる。側溝でも掘ったのかと言いたくなる具合に抉れた地面を傍目に、俺は急いで未だに腕を振り上げたままのデカゴブリンに駆け寄る。
後姿を見ると、ものの見事に向こう側が見えるほどの大穴が胴体に開いていた。そのままゆっくりと前に回ったところで、急にデカゴブリンが苦しげな声を上げたかと思うと、ゆっくり前のめりに倒れてしまった。……死んだ、のか?
あまり近付きたくはないが、デカゴブリンの顔に耳を寄せるが、呼吸をしているような音は聞こえない。身体も動いていないし、ああ、死んだのか。……そう理解した途端、不意に力が抜けた。
「あー」
デカゴブリンとは逆に、俺は仰向けの形で倒れる。今になって気付いたが、体中が血塗れだ。シャツなんて血を吸い過ぎて重さすら感じる。それに臭いだ、ボットン便所に落ちてしまったかのような異臭が鼻を刺激し続けている。……ホント、何やってんだろうなあ。
雨が降っていたはずの空はすっかり晴れ渡っていた。そこに映る見たことのない夜空が現状を物語っているような気がして、思考が真っ暗になった。
軽く風船でも割ってしまったかのような破裂音が立て続けに鳴り続ける。その度に頭部を失ったゴブリンが倒れてゆく様を見届け、また近くに居たゴブリンの頭に右拳を叩き付け、破裂音。もはや命を奪う感覚は失せ、単なる作業と化していたように思える。
「次っ!」
思わず出た掛け声に会わせるように、動揺していたゴブリン達が俺に向かって来ていた。……しかしまあ、どいつもコイツも汚い顔をしている。主に涎とか。駄々漏れ。なんでだろう、ハロンから始まって、涎に変な縁でも出来てしまったのだろうか。
嫌な思考に陥りそうだったところで奇声を上げながら走ってくる三匹のゴブリンを観察する。三匹の内二匹は手に木で出来た棍棒を持っている。見た目は予想と違っていても、その辺りはゴブリン然としている、なんて事を考えながら右拳に力を入れる。一瞬だけ後ろを見て二人が安全なことを確認すると、先ずは武器を持っているゴブリンに狙いを定める。
俺が持っている武器は、桁外れな力だけだ。それを効果的に使うには、相手に避けられない為の圧倒的な速さが必要。さらに言えば、俺の体にどれほどの防御力があるのか分からない現状、一撃で倒せれば尚良い。ゴブリンにとっては残念な話だが、俺はそのどれも実行出来るだけの力が備わっていた。
制動なんてする気も無く、ただ真っ直ぐに走り、同じく走ってきていたゴブリンの横を通り過ぎる際に右腕を横に伸ばす。ラリアットの形となったが、俺の腕が通過した後もゴブリンは走り続けていた。ゴブリンの首が持つ耐久以上の力を一瞬で加えた結果だった。
腕に嫌な感触が残ったまま、俺は残る二匹のゴブリンに迫る。どうやらラリアット戦法も問題なく即死級の威力を発揮することが分かったので、今度は両腕を伸ばし、後ろから二匹の間に入る形で通り過ぎる。結果は一匹目と同じだったのは言うまでも無く。
そうして俺が腕に付いた肉片らしき物を落としている時、後ろから声を聞こえた。
「タクマさん!」
エルスの声、と認識した所で、視界が予期していなかった方向に飛んだ。目ではなく身体ごと飛ばされたのだと理解したのは、近くの木に叩き付けられた後だった。
「ぐ、う……いてぇ……」
この世界に来て“二度目”の痛み。一度目は、あのマンティコアもどきに踏まれていた時だった。それを考えれば、ハロンの力を得てからは初めてだろう。
まるで漫画のように木に減り込んだ身体を強引に抜き、前を見る。目測十メートル程の場所に、俺が蹴り飛ばしたデカゴブリンが立っていた。結構飛ばされたのか、俺は。よくもまあ無事だった。
デカゴブリン。あのデカニブルを例にすれば、コイツも級詞持ちとやらなのだろう。他のゴブリンならば人間の赤ん坊に似ている、と表現出来る。しかし、コイツの大きさと見た目からは、とてもじゃないがそんな表現は出来ない。
丸太のような――この世界に来てから比喩表現のインフレが激しい――腕は血に染まっていて、人間と比べたら遥か高みにあるその顔は醜悪の一言では表しきれない表情。あえて表現するならば、赤ん坊の顔を皮膚が許す限りに肥大化させ、その中心に大きな口があり、人間そっくりな歯並びを見せている。濁った目は怒りを宿していて、間違いなくその矛先は俺だ。
デカゴブリンがリーダーなのか、右往左往していた他のゴブリンもいつの間にか俺を包囲するような形でじわじわと距離を詰め始めていた。
しかし、それは俺にとって好都合でもある。エルスや他の村人達が襲われているよりも、こっちの方がやりやすい。
あくまで俺が戦う気だということを理解したのか、デカゴブリンが大きな口を天に向け、吼えた。他のゴブリン達が合わせて奇声を発し、同時に俺に向かって走ってくる。数にして……十一匹か。これで全部だと思いたい。
さっきまでと同じように近いゴブリンから潰していく考えで固まった俺は、迫ってくるゴブリン達に突っ込む形で駆けた。
十数匹も殺せば、効率なんかも考えられる余裕が出てくる。基本的に一撃で殺したい為に頭を狙うのは確定しているが、その潰し方としてはラリアットが一番効率が良いように思えた。利き手で一匹一匹頭を狙って殴るよりも、両腕を上げて適当に横を走るだけでいいのだ。事実、十一匹居たゴブリンの内四匹が、この一瞬の間で悲鳴すら上げずに死んだ。
それでも怯まずに突っ込んでくるゴブリン達を見て何も感じないかと言えば、そうでもない。今更ながら俺は現代人だ。ゆっくり考える時間があれば、それこそこの場に蹲って震え始める自信がある。だけど、今でも視界の端に映るエルス、それに村の人を考えることによって自分を奮い立たせ、目の前のことに集中することによって何とかギリギリ理性を保っていられる。
十一匹目、全力で走り、走り抜けた結果、この場にはデカゴブリンと俺以外には蹲るエルスしか残っていなかった。
「エルス! 今の内に家に入っててくれ! たぶん、小さい奴はもういないはずだから!」
若干上がった息を整えながら、俺はエルスに向かって叫んだ。聞こえたのか、エルスは分かったと頷き、気を失ったままの女の子を抱えてラザフォードさんの家に戻っていく。最初来た時に家を襲っていたゴブリン達もデカゴブリンによって集められたのだろう、こちらから見る限りは安全に見えた。
そこにエルスが動いたことに気付いたのか、デカゴブリンが逃がすまいと腕を伸ばす。
「お前の相手は……俺だろうが!」
跳び蹴り。二度目となったその蹴りは、一度目と同じく見事にデカゴブリンの脇腹に当たり、嫌な感触が足に伝わってくる。しかし今度は倒れず、俺が反動で地面に着地する直前、エルスに伸ばされていたはずの腕が俺に迫っていた。
「は、速っ――」
着地することが叶わず宙で叩き落とすように殴られた俺は、そのまま地面に激突する。
「ぐおおお、いてええええええええ!」
普通は痛いじゃ済まないのだろうが、元々こういった痛みを感じるような生き方をしていなかった俺にとって、地面に叩き付けられるというのは二つの意味で衝撃を受けた。上手い事を考えている場合ではない。
急いで顔を上げれば今度はデカゴブリンの足が迫っており、慌てて地面に減り込んだ体を起こして避ける。空振りしたはずの足は、とても生物が出せる足音ではないレベルの破砕音を周囲に撒き散らしていた。
集中しよう。俺は体制を整えているデカゴブリンを見ながら、ゆっくりと深呼吸をする。
さっきから二回ほど派手な攻撃を食らったが、幸運なことに大したダメージは無い。骨が折れた様子も無ければ、下手すれば捻挫すらしていないだろう。つまり、今すぐにでも俺は全力を出せるということだ。対してデカゴブリンを見れば、コイツも二回ほど派手に攻撃してやったが、その攻撃した部位は赤黒く変色している。内出血、上手くいけば内臓までダメージが行っているはず。つまり、機敏に動けているように見えても、確実にダメージは残っているということだ。
もう一度深呼吸をする。……このまま攻撃しても、殺し切るには何度も蹴る殴るを繰り返さなければならないだろう。今のところ問題は無いが、もし、当たり所が悪くて俺が死んだら? それは困る。……そう、あくまで一撃で殺せるのならば、その方が良い。
周りを見る。正面にはデカゴブリン、左手には村長の家。右手には俺が来た道。後ろは、遠くまで開けた道がある。……俺の武器が“力”だけという現状を見るに、即席で殺傷力を増すのは無理だ。しかし、そこにさっきまで以上の速さを加えることは出来るだろう。思うが早く、俺はデカゴブリンに背を向けると、全力で走り始めた。
時間にして六秒ほどで村の境界線らしき場所まで辿り着いた俺は、もう一度振り返る。豆粒のような光を発しているのが、さっきまで居た村長宅だ。……これくらいの助走があれば、いけるだろう。
もう一度、来た道を戻る形で走る。まるでSF映画のワープ演出のように歪んだ景色が遅れて外に流れ出す。それでも視界の中心は驚くべき速さで接近するデカゴブリンを捉えていて。
デカゴブリンが俺に気付いたのか腕を振り上げた瞬間、俺は浅く跳びながら右足を前に出し、“通り抜けた”。
文字通りデカゴブリンの身体を抜けてしまった俺は、体制を崩したことで伸ばしていた右足が地面に触れ、それがブレーキとなってようやく止まる。側溝でも掘ったのかと言いたくなる具合に抉れた地面を傍目に、俺は急いで未だに腕を振り上げたままのデカゴブリンに駆け寄る。
後姿を見ると、ものの見事に向こう側が見えるほどの大穴が胴体に開いていた。そのままゆっくりと前に回ったところで、急にデカゴブリンが苦しげな声を上げたかと思うと、ゆっくり前のめりに倒れてしまった。……死んだ、のか?
あまり近付きたくはないが、デカゴブリンの顔に耳を寄せるが、呼吸をしているような音は聞こえない。身体も動いていないし、ああ、死んだのか。……そう理解した途端、不意に力が抜けた。
「あー」
デカゴブリンとは逆に、俺は仰向けの形で倒れる。今になって気付いたが、体中が血塗れだ。シャツなんて血を吸い過ぎて重さすら感じる。それに臭いだ、ボットン便所に落ちてしまったかのような異臭が鼻を刺激し続けている。……ホント、何やってんだろうなあ。
雨が降っていたはずの空はすっかり晴れ渡っていた。そこに映る見たことのない夜空が現状を物語っているような気がして、思考が真っ暗になった。